京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

京都アニメーション放火殺人事件の死刑判決についてはっきり思うこと――殺人(とくに無差別殺人)をやめさせることはできません、わたしは投げ出します。と黙って認めるのは、究極の自虐である。ここは絶対に言い訳してはいけない。

殺人(とくに無差別殺人)をやめさせることはできません、わたしは投げ出します。と黙って認めるのは、究極の自虐である。ここは絶対に言い訳してはいけない。
現代日本ハイカルチャーがあるのか知らないが、サブカルチャーがこういう態度を取るのは非常に危険である。せめて、「全財産出せば、命だけは助かるかもしれない」ということを実行しないといけない。これは絶対である。ここで一番罪が深い分野はまちがいなくインターネット文化だ。情報と知識は背負うが、命は背負っていない、ということを言ったり、まして実行するのは、はっきりいって究極の身勝手であり結局のところ究極の自虐である。

この言葉を送る。
捨てる | 押川剛 公式ブログ

「刑法を犯すようなことは、どんな犠牲を払ってでも止めなければならない」

精神医学の師匠が遺した言葉を時々振り返り、

その文脈の意味を考えるのだが、俺には、

「人間のプロ」としての生き方を問われているように、感じられる。

マチュアの人間は、物だけでなくひとに関しても、

さっぱり諦めたり、手放したり、巣立たせたりということができず、

家族も他人を振りまわし、どこまでも依存して生きていく。

が、ひとたび思い切って捨ててみれば、

案外すっきりとした気持ちで、生きていけるようにも思う。

私個人からも一言。
見栄と金、よけいな誘惑が多すぎる。
命を失ったら、何にもならないだろうが!

東海村の役所に車で突っ込んだ事件、そんなに単純な構図ではないと考えてから行動すべきだろう。

茨城車暴走 母「止められず」|au Webポータル国内ニュース

3人はねた暴走車に母親も同乗「止めようとしたが、止められず」
 茨城県日立市役所前広場と東海村役場に車が突っ込んだ事件で、日立市の事件の際、益子泰(ゆたか)容疑者(53)(日立市久慈町)と同乗していた70歳代の母親が「暴走を止めようとしたが、止められなかった」という趣旨の話をしていることが捜査関係者への取材で分かった。県警は8日、村役場に対する建造物損壊容疑で、益子容疑者を送検した。

 6日午後1時頃に日立市役所前広場で暴走し、3人をはねた車は益子容疑者の母親名義で、現場から逃走後、益子容疑者の自宅アパート駐車場で発見され、助手席には母親が乗っていた。捜査関係者によると、母親は県警の事情聴取に「日立市役所に行く予定はなかった」という趣旨の話もしており、県警が事件の経緯などを調べている。

 また県警は8日午後、益子容疑者の自宅を同容疑で捜索した。

京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見地区放火殺人事件)などの事件に関するメモ

以下のメモの内容は無断転用を許す。

2049年12月31日まで、情報収集などの作業を続ける。司法、アニメ業界(サブカルチャー業界すべて)、マスコミ、三者がどう動こうが関係なく作業を続けることをここに宣言する。
(2023年8月28日)

インターネット産業、アニメ産業、メンタルヘルス業界、マスコミ、この4業種に対し、2024年9月17にまでの5年間、買い控えを実行することを宣言します。 - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

まず、妄想ふくむ精神疾患の治療をしないといけない。重要(ではあるがほぼ明らか)な妄想であるという判断を裁判所がやることになっている。



磯部涼氏のレポート、『令和元年のテロリズム』それと『ルポ 川崎』批判
絶対に必要!
まず、被害者(対象=京都アニメーション)と加害者の関係性の時系列がかけていない。加害者の子ども時代が不遇だったと書くばかりで、そのあとすぐ2019年7月15日に飛んでしまう。2,3件のこの本の書評をみたが、そのことに気がついて、と言うか驚いていないのに、わたし個人はひじょうに驚く。
堀川恵子氏の『永山則夫 封印された鑑定記録』の後に書かれたノンフィクションとしては信じられない雑さ。
話は変わるが、アニメーション業界の関係者は、すべての視聴者は4歳ぐらいのころからいろいろのアニメ作品を受容している、となんとなく考えていているらしくて、その緊張感のなさがわたしには気になる。たとえばリピーター獲得の戦略みたいな話は聞いたことが無い。わたしが知らないだけかもしれないが。サブカルチャー、娯楽だから生涯ないのかもしれないが、「個々の作品はともかく、アニメと言う娯楽自体はとりあえず好かれていて当然」という、はっきりいえば安易な考えがあるのではないか。わたしがナボコフやフォークナーなどの作家の伝記にも興味があったからこういうことに気がつくのかもしれないが。
わたしは今回の実行犯Aは創作の経験がかなり少ない、ひょっとしたら「盗作された」という作品が第一作目なのではないかと予想している。というのは、投稿された二作目、三作目が見つかったという報道が無いからだ。

病状の経過がわからない。医療につながっていたのか、そんな重要なこともわからない。
事件の予兆に気がつくこと。たとえ、事件がおきたあとでも。たとえば、30年ぐらい前までには、「グレる」という行為の原因として、親や教師の一見ささいなようだが、繊細な未成年を深く傷つける言動が問題視された。


インターネット文化は、やっかいなことに、(大げさな言い方だが)人類の書くという行為の歴史も背負う運命にある。しかし、たとえばインターネットを使っているあなたやわたしが、「失われた時を求めて」や「ユリシーズ」や「城(ひいてはカフカ作品すべて)」や「神聖喜劇」や「沖縄県史1・2」の存在の巨大さを意識しながらものを書いているかと言うと、とてもそんなことはいえない。安易なのである。舐められてもかまわない、あるいはどうしていいかわからない、あるいは、諦めている、という雰囲気を感じる。そこが問題。舐められて反抗する気のない連中に何かすごいことが出来るわけがない。

積もり積もった怨念というのは、どこかで必ず見えるはず。そこが見えてこない。
何でもはじまりがある、何でもだ。ハリー・スタックス・サリヴァンの指導。

実行犯Aは、経歴だけみれば、「熱狂的なファン」より「ニワカ」(これは蔑称だが)にちかい人物と推定される。というより、2023年5月20日までの新聞報道を総合すると、そう書くしかない。これがまず奇妙だ。

これから、3か月、ねてもさめても人間悪(小さなものも大きなものもすべて)の事を考えることにする。
失敗する可能性は当然あるが、とにかくためしてみないとつかめるものもつかめない。
防犯について考えているとでもいいわけしよう。

2023年広島サミット、空虚。原民喜氏の書くもののほとんどすべてに読みとれるある種の特殊さ、あれに挑戦しないといけない。

欲求や執着の強さがほとんどみえない?

SNSの使用者が、「だらしなく騒ぎまくるバカのあつまり」であるかどうかはともかく、「SNSはだらしなく騒ぎまくるバカのあつまり」と侮辱されて、本気で激怒する人が少ないだろう、そういう気配があることははっきりしている。もう、現時点ではっきり言い切ったほうがいい。実力と自信不足がくっきりわかる。

「炎上」しようがおすきにどうぞ。

わたしは否定したいのだが、本人たちが否定しようとしないかぎり、限界がある。