『罪と罰』第1章
ベルヘ手を伸ばして、がらがらと鳴らした。三十秒ばかりたってまた鳴らした、こんどは少し強く。 返事はなかった。むやみに鳴らしてもしかたがないし、彼には似合わしくないことだ。老婆はむろんうちにいたのだが、彼女は疑り深いうえに、今はひとりきりだ。…
つきの片すみに、夫婦づれの町人がテーブルを二つならべて、糸だの、ひもだの、さらさ[#「さらさ」に傍点]の頭巾《ずきん》だの、そういったふうの雑貨をあきなっていた。彼らもやはり帰り支度をしていたが、立ち寄った知り合いの女との話に手まどってい…
る。警官はもっとよく見定めようと、彼女の上へかがみこんだ。と、その顔には偽りならぬ同情が現われた。 「ああ、じつにかわいそうだ!」と彼は頭を振りながらいった。「まだまるでねんね[#「ねんね」に傍点]なんだが、だまされたのだ。それはまちがいな…
ニャはかえっていまいましそうな顔をして、「ただいっただけならほんとうにそうしたのとちがいます」と申しました。それはむろんそのとおりです。いよいよの返事をする前に、ドゥーネチカは夜っぴて眠りませんでした。あの娘《こ》はわたしがもう寝ているも…
にとってはそんなうち打擲《ちょうちゃく》なんか、痛いどころかうれしいくらいだ……だって、そうでもしなけりゃ、わし自身やりきれんのだからな。かえってそのほうがましだ。少しぶって腹の虫をおさめるがいい……そのほうがいい……ああ、もう家だ、コーセルの…
たいして感じるものであった。「それでは、学生さんですね、大学生あがり!」と官吏は叫んだ。「わたしもそう思いましたよ! 年の功、長い間の年の功ですて!」と彼は得意そうに額へ指を一本あてた。「あなたは大学生だったのか、でなけりゃ、ひと通り学問を…
第一編[#6字下げ]1 七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋《こべや》から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。 青年は首尾よく階段で下宿…