京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP049-P072

なった。知事は優しい、感じやすい人であったから、非常にばつの悪い思いをした。しかし、ここに面白いことは、ああいう処置を取った以上、彼もニコライが完全な判断力を持っているにもせよ、どんな気ちがいじみたことをやりだすかわからない人間だ、と考えていたに相違ないのである。クラブの連中も同様に、どうしてみんな揃いも揃ってこの一大事実を看過したのか、どうしてあの驚異に対する唯一の説明を見落としたのだろうと、恥じかつ怪しんだのである。もちろん、懐疑論者も現われたけれど、長く異説を固持することはできなかった。
 ニコラスは二月あまり床についていた。モスクワから立会い診断のために、名の知れた医者が招かれたりした。町じゅうの者がヴァルヴァーラ夫人のところへ見舞に来た。夫人は一同に対する怒りを解いた。春も近づいた頃、ニコラスは全快した。イタリアへでも旅行せぬかという母の申し出を、一言の抗弁もなく承諾したとき、夫人はこの際、町の人一同に暇乞いの挨拶をして廻って、必要な場合には、できるだけ詫び言をするようにと、一生懸命わが子に頼んだ。ニコラスは大呑み込みで承知した。クラブの人たちの聞き込んだところによると、彼はピョートル・ガガーノフときわめてデリケートな対談をして、その結果、ガガーノフもすっかり満足している、とのことであった。挨拶に廻るときのニコラスは非常に真面目で、いくぶん陰気なくらいであった。一同は見受けたところ、深い同情をもって彼を迎えたようだったが、なぜか妙にばつの悪い気持ちがして、内々彼のイタリア行きを喜んだ。知事のイヴァン・オシッポヴィチは涙さえこぼしたが、なぜか最後の告別の時ですら、思いきって彼をだきしめる気になれなかった。中にはどこまでも、『なあに、あのろくでなしめ、ただ人を馬鹿にしやがったのさ。病気、――ふん、何かそんなことがあったかもしれないよ』と信じきっている連中もあった。
 彼はリプーチンのところへも挨拶に寄った。
「一つ伺いたいことがあるんですがね」と彼はたずねた。「いったい、どうしてきみはぼくのいうことを、前もって見抜いてしまって、アガーフィヤに、あんな返答を仕込んでよこしたんです?」
「それはこうですよ」とリプーチンは笑った。「ぼく自身もあなたを賢いかただと思っているので、あなたのご返答も前から察しることができたのです」
「それにしても、珍しい符合ですね。ところで、失礼ですが、してみると、きみがぼくのところヘアガーフィヤをよこされたとき、きみはぼくを気ちがいと認めないで、賢人あつかいにされたんですね」
「飛び離れて賢い、分別のある人だと思っていました。あなたが理性を失っていらっしゃるという話は、ちょっと信じてるような顔をして見せただけなんです……それにね、あなた自身もあの時すぐにぼくの考えを察して、アガーフィヤを通して頓知に対する特許《パテント》を、わたしに送ってくだすったじゃありませんか」
「ふむ、しかし、きみは少々考え違いをしていられますよ。ぼくは本当に……健康を害していたんです……」とニコライは眉をひそめながらつぶやいた。「あっ!」彼は突然こう叫んだ。「じゃ、きみは本当になんですか、ぼくが十分正気を持っていながら、人に飛びかかることのできる男だと思っているんですね? なんのためにきみはそんなことを?」
 リプーチンは妙に口を曲げただけで、なんとも答えができなかった。ニコライはちょっと顔をあおくした(或いはリプーチンにそう見えただけかもしれない)。
「とにかく、きみは面白い考え方をする人ですね」とニコライは言葉をつづけた。「ところで、アガーフィヤのことはぼくにもわかりますよ。きみがあれをぼくのところへよこしたのは、むろんぼくに悪態をつかせるためだったのです」
「しかし、あなたに決闘を申し込むわけにもゆかないじゃありませんか」
「ああ、なるほどねえ! ぼくもなんだかきみが決闘を好かれないってことを、聞いたような気がしますよ」
「何もフランス風を直訳しなくたっていいですからね!」リプーチンはまた口を歪めた。
「国民性を主張しますかね?」
 リプーチンはいっそう口を歪めた。
「おや、おや! なんだか妙なものがあるぞ」とニコライが叫んだ。テーブルの上の一ばん目に立ちやすいところにコンシデランの一巻が置いてあるのが、ふと目に入ったからである。「きみはフーリエリスト([#割り注]フランスの共産主義者フーリエの学説を信奉する人[#割り注終わり])じゃないんですか? ひょっとしたら! だが、これだってやはりフランスの翻訳じゃありませんか?」と指で書物をはじきながら笑った。
「いや、これはフランスの翻訳じゃありません!」何かまるで一種の憤懣を感じたように、リプーチンは椅子から躍りあがった。「これは全世界人類の言葉を翻訳したものです、ただのフランス語からじゃありません。全世界人類の社会的共和諧調の国の言葉を翻訳したものです、そうなんです! ただのフランス語じゃありません……」
「ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、そんな言葉なんぞまるでありゃしない!」ニコライは笑いつづけた。
 どうかすると些細なくだらないことが、非常に強く、長いあいだ注意を惹くものである。スタヴローギン氏に関するおもな物語はさきのほうに譲るけれども、今はただ珍しい話として、ちょっとこれだけのことをいっておこう。彼の当地滞在中に得たすべての印象のなかで、最も深く記憶に刻み込まれたのは、醜い下劣なこの県庁役人の姿であった。家庭にあっては、嫉妬ぶかい粗暴な専制君主で、食事の食べ残しや蝋燭の燃えさしまで、鍵をかけてしまっておくほどけちんぼの金貸でありながら、それと同時に、なんだかえたいの知れぬ『社会調和』の凄まじい宗徒で、夜な夜な未来の共産団の妄想を描いて歓喜に酔いながら、それが近いうちにロシヤといわずわが県内まで実現されることを、自分自身の存在ほど確かに信じきっているのである。しかも、この共産団の実現地が、彼自身わずかばかりの目腐れ金を溜め込んで、ぼろ家を買ったところであり、持参金を目当てに二度目の結婚をした土地なのである。『全世界人類の社会的共和諧調の国』の住民に、せめて見かけだけでも似寄った人間は、百露里四方の間に、当の彼を初めとして一人もいそうにない所なのである。
『いったい、どうしてああいう手合いができるのか、わけがわからない!』時々この思いがけないフーリエリストを思い出して、ニコラスは怪訝の念に打たれながら考えるのであった。

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 わが王子は三年あまりも旅行をつづけたので、町でもほとんど彼のことを忘れてしまったくらいである。しかし、われわれはスチェパン氏を通じて、絶えずその動静を知っていた。彼はほとんど欧州全土を歩きつくして、エジプトへも行ったことがあるし、エルサレムにおもむいたこともある。それから後、どこかで催されたある学術的なアイスランド探検隊に加入して、実際アイスランドにもしばらくいたことがある。また一冬ドイツのある大学で講義を聞いたという噂も伝わった。彼はごくときたましか、――半年に一度か或いはもっと少なかったかもしれぬ、――母夫人に手紙をよこさなかった。けれども、ヴァルヴァーラ夫人はこれに対して、かくべつ怒りも怨みもしなかった。彼女は、一度こうときまってしまったわが子との関係を、不平なく素直に受けいれながらも、むろん、この三年間というものずっと毎月、ひっきりなしに大切なニコラスのことを心配したり、空想したり、憧れたりしていたわけだが、そうした自分の空想や哀愁はだれにもうち明けなかった。スチェパン氏をさえ、いくぶん避けようとするらしかった。夫人は心の中で何か計画を樹てたと見えて、以前にも増していよいよけちになった。そして、ますます溜め込み主義に傾いて、スチェパン氏のカルタの負けに対してますます機嫌が悪くなった。
 とうとう今年の四月になって、パリにいる幼な友だち、ドロズドフ将軍夫人、プラスコーヴィヤ・イヴァーノヴナ・ドロズドヴァから手紙が届いた。ヴァルヴァーラ夫人はもう八年間、この人と会ったこともなければ、手紙の往復をしたこともなかったが、このプラスコーヴィヤ夫人の手紙には、ニコライがこの一家と非常に親しくなって、一人娘のリーザと仲よくしている、そして夏になったら母娘《おやこ》を伴ってスイスの山岳地方《ウエルネー・モントリュー》へ行くはずになっている。もっとも、K伯爵(目下パリに滞在しているペテルブルグの有力家)の家庭では、まるでわが子のような待遇を受け、ほとんど伯爵の家にばかり寝泊りしている。しかじか、としたためてあった。この短い手紙は、右に記した事実のほか、なんの推論も提議も蔵していなかったが、その目的とするところは露骨に現われていた。ヴァルヴァーラ夫人はあまりながくも考えないで、とっさの間に決心して支度を整え、養女《やしないご》のダーシャ(シャートフの妹)を引き連れて、四月の中ごろパリからスイスへかけて飛んで行った。七月になってから、夫人はダーシャをドロズドヴァ母娘《おやこ》の手もとへ残し、単身この町へ帰って来た。夫人のもたらした報告によると、ドロズドヴァ母娘も八月の終わりには、ここへ来る約束をしたとのことである。
 ドロズドフ家はやはりこの県の地主だったが、ドロズドフ将軍(ヴァルヴァーラ夫人の親友で、その夫の同僚であった)の勤務上の都合が、いつもその見事な領地の検分に来ることを妨げるのであった。昨年、将軍の死後、嘆きに沈めるプラスコーヴィヤ夫人は、娘を連れて外国旅行へ出かけた。もっとも、これには葡萄療法を試みようという当てもあったので。場所は山岳地方《ウエルネー・モントリュー》、時は夏の後半期という予定だった。祖国へ帰ってからは、永久にこの県へ居を定めることになっていた。この町には、もう幾年となくがら空きになって、窓を釘づけにされた大きな持家があった。この一家はなかなかの物持ちで、初婚でトゥシン姓を名乗っていたプラスコーヴィヤ夫人は、寄宿学校時代の友だちヴァルヴァーラ夫人と同様に、前代に勢力を持っていた買占め専門の商人の娘で、同様に莫大な持参金を持って嫁入りしたのである。予備騎兵大尉のトゥシン自身も、同様財産もあれば相当才能もある男であったが、死ぬ間際に、当時七歳の一人娘リーザに立派な財産を譲るように遺言した。で、リザヴェータ・ニコラエヴナがすでに二十二歳にもなった今日では、彼女自身の金だけでも優に二万ルーブリを数えることができた。しかも、第二の結婚で子供を儲けなかった母の死後、当然おそかれ早かれ、彼女のものとなるべき莫大の財産については、喋々するまでもない。
 ヴァルヴァーラ夫人は今度の旅行に、しごく満足らしい様子であった。夫人の考えによれば、彼女はドロズドヴァと十分円満に話をつけたのである。そして、帰って来ると早々、いっさいのことをスチェパン氏にうち明けた。しかも、この頃かつてないことに、彼を相手にして好んで長々と、いろんな話をしたのである。
「万歳《ウラー》!」とスチェパン氏は叫んで、指をぱちりと鳴らした。
 彼は嬉しさに夢中になってしまった。友だちと別れている間、すっかりしょげきっていただけに、なお嬉しかったのである。夫人は外国へ立つとき、ゆっくり彼に別れを告げもしなければ、自分の計画についても、何一つこの『女の腐ったの』に知らさなかった。たぶん、彼がうっかりしゃべりはせぬかと危ぶんだのだろう。のみならず、当時がぜん露顕したスチェパン氏の莫大なカルタの負けに、夫人は恐ろしく腹を立てていた。けれど、スイスにいる頃から、『国へ帰ったら、置いてきぼりにしてある友だちに、なんとか礼をしてやらなければならぬ、もうずっと前からつっけんどんにばかりしてるのだから』と心の底から感じるようになった。足もとから鳥の立つような不思議な出発は、スチェパン氏の臆病な心を脅やかし、悩ましたのであるが、その上わざと狙ったように、また別な面倒が一時に起こった。彼はずっと前から、かなり大きな金の問題に苦しめられていて、ヴァルヴァーラ夫人の助力をまたないでは、しょせん解決がつきそうになかった。そのうえ、あのもの柔かな人のいい、わがイヴァン・オシッポヴィチが、この県の知事を勤めるのも今年の五月限りで、とうとうほかの人に更迭を命ぜられた。しかも、それには多少の不快事が付随していたのである。
 つづいて、ヴァルヴァーラ夫人の留守中に、新長官アンドレイ・アントーノヴィチ・フォン・レムブケーの乗り込みがあった。それと同時に、ほとんど町の社交界ぜんたいのヴァルヴァーラ夫人に対する態度、したがって、スチェパン氏に対する態度に著しい変化が現われ始めたのである。少なくとも、彼はもう幾つかの貴重な、とはいえ不快な観察を得て、ヴァルヴァーラ夫人の不在中、一人でおじけづいていた。彼はもう自分が危険人物として、新知事に密告されたのではないかと、胸を躍らせながらびくびくしていた。また土地の貴婦人のだれかれが、今後ヴァルヴァーラ夫人訪問を中止しようと考えているのを、確かに突き止めた。来るべき知事夫人については(彼女は秋ごろまでにはこちらへ来ると期待されていた)、なんでも少し熱しやすい質《たち》の人という噂ではあるが、そのかわり本当の貴婦人で、『あのみじめなヴァルヴァーラ夫人』などとは、てんで桁が違うといい合っていた。また皆の者はどこから聞き出したか、こんなことまで正確に詳しく承知していた。なんでも新知事夫人とヴァルヴァーラ夫人とは、もうかつて社交界で顔を合わしたことがあるが、ついには敵味方のように別れてしまった。で、フォン・レムブケー夫人の名をいったばかりで、ヴァルヴァーラ夫人は病的な印象を受けるとかいうことである。ヴァルヴァーラ夫人が、土地の貴婦人たちの意見や、社交界動揺の話を聞いた時の雄々しい勝ち誇ったような顔つきと、馬鹿にしきった無関心の態度とは、スチェパン氏の銷沈した心を奮い起こして、一瞬の間に浮き立たせてしまった。一種特別な、さも嬉しそうな、相手の機嫌を取るような諧謔の調子で、彼は夫人に新知事の乗りこみについて語り始めた。
「|優れたる友よ《エクセランタミ》」と彼は気取って言葉尻を引き伸ばしたり、しなを作ったりしながらいいだした。「全体から見て、ロシヤの行政官なるものがはたして何を意味するか、そして、また新しいロシヤの行政官、つまり、新しく製造されて新しく任におかれた……les interminables mots russes!(このロシヤ語という奴はどうも実に際限がない!)……まあ、こういう行政官がはたして何を意味するか、あなたはむろんいうまでもなくごぞんじでしょう、けれど、行政的感興というものが何を意味するか、またこれがどんなものかということを、実地にごぞんじかどうか、しごく疑わしいですよ」
「行政的感興? 知りませんねえ、なんのこったか」
「それはつまり……vous savez, chez nous……en un mot(いいですか、ぜんたいロシヤ人の間には……まあ一口にいえば)かりにごくごくつまらないやくざな男を、どこかの鉄道のぼろ切符売場に立たせてごらんなさい。このやくざもの先生、たちまちジュピターか何かを気取っちゃって、人を見おろす権利が生じたように考えだす。そして人が切符を買いに行くと、自分の権利が示したくてたまらない。『今に見ろ、おれは貴様に権力を見せてやるから……』こういう気持ちがこの手合いになると、ほとんど行政的感興にまで達するのです。en un mot(一口にいうと)わたしはこんな話を本で読んだことがあります。在外のさるロシヤの教会で一人の小役僧が、―― 〔mais c'est tre`s curieux〕(実に妙な話ですが)、ある立派な英国人の家族を、四旬斎の勤行《ごんぎょう》の始まるちょっと前に、教会から追い出してしまったのです。形容でもなんでもない、本当に les dames charmantes(立派な貴婦人たち)を、追い出してしまったのです。Vous savez ces chants et le livre de Job(あなた、詩編と、ヨブ記をごぞんじですか)……しかもその口実は、『外国人がロシヤの教会をうろつき廻るのは不体裁だ、ちゃんと知らせて上げた時刻においでなさい』というにすぎないのです……そうして、とうとう気絶さわぎまで起こしてしまったのです……この役僧などは、行政的感興の発作にかかって、〔et il a montre' son pouvoir〕(自分の権力を示したんですね)」
「もし、できることなら、も少し手短かに話してください、スチェパン・トロフィーモヴィチ」
「フォン・レムブケー氏はいま県内巡回に出かけました。en un mot(一口にいえば)、この男は正教を奉じているロシヤ生まれのドイツ人ですが、年のころ四十くらい、なかなか美しい男です、これは大負けに負けとくのですよ……」
「どういうところから、美しい男だなんておっしゃるの? あの人は羊みたいな目をしてるじゃありませんか」
「まったくそのとおりです。しかし、わたしは町の婦人たちの意見に譲歩したのです。そうしなければ仕方がありませんからね……」
「もう何かほかのお話にしましょう、スチェパン・トロフィーモヴィチ、お願いですから! ところで、あなたは赤いネクタイをしていらっしゃいますね、もう前から?」
「これはその……ちょっと今日だけ……」
「あなた運動をしていらっしゃる? お医者さまのおっしゃったように、毎日六露里ずつ歩いていらっしゃる?」
「え……ええ、毎日とはいきません」
「そうだろうと思ってました! わたしスイスにいる時から、そうだろうと察していましたわ!」と夫人はいらだたしげに叫んだ。「もう今度は六露里じゃない、十露里ずつ歩くんですよ! あなたは恐ろしく箍《たが》が弛んでしまいましたね、恐ろしく、まったく恐ろしく! あなたは年とったのではなくって、耄碌してしまったんです……わたしはさっきあなたに会ったとき、本当にびっくりしてしまいました。赤いネクタイはしめていらしったけどもね…… 〔quelle ide'e rouge!〕(赤とは本当になんて思いつきでしょう!)さ、フォン・レムブケーの話をおつづけなさい、もし本当に何か話すことがあるのなら……そして、お願いですから、いいかげんな時にきりをつけてちょうだい、わたし疲れてるんだから」
「En un mot(一口にいえば)わたしはこういいたかったのです。つまり、あの男は四十になって、初めて行政官の初舞台を踏んだお仲間なのです。四十までは、どこかつまらない所でまごまごしていたが、とつぜん手に入った細君か、またはそれに劣らぬ苦しい手蔓のおかげで、やっと人間まじりができるようになったのです……つまり、いま巡回に出かけていますが……つまり、わたしのいいたいことは、あの人の着任早々、わたしのことを、青年を堕落させる誘惑者だの、県内の無神論の本もとだのといって、あの人の両耳へ吹き込むやつがあったのです。そこで、あの人はすぐ取調べにかかったのです」
「まあ、本当ですか?」
「ええ、対応策まで講じたくらいです。それから、あなたのことも『告ーげー口』して、あなたが『県の支配』をしていられた、というものがあったとき、vous savex(ね、いいですか)――あの男は失礼にも、『今後そんなことはけっしてさせやせん』といったそうです」
「そんなことをいったんですの?」
「ええ、『今後そんなことはけっしてさせやせん』ってね、しかも avec cette morgue(それは横柄な調子なんです)……細君のユリヤ・ミハイロヴナは、八月の末頃ここへ来ることになってるんです、ペテルブルグから真っ直ぐに」
「外国から来るんです。わたし会いました」
「Vraiment?(本当ですか?)」
「パリでもスイスでも。あの人はドロズドヴァさんと親戚同士ですの」
「親戚ですって? なんという妙な話でしょう! なんでもたいへん虚栄心が強くって、そして……立派な知己縁者をたくさんもってるそうですね?」
「嘘ですよ、みんなくだらない連中ばかりです! 四十五まで一文なしで、オールド・ミスのお仲間だったのが、今度あのフォン・レムブケーをつかまえて、しゃしゃり出たんです。むろん、あの人の今の目的は、ご亭主に人間まじりがさしたいだけのこってす。二人とも猿知恵を廻す人ですからね」
「そして、ご亭主より二つ年上だって話ですね」
「五つですよ。あの人のお母さんはモスクワにいる時分、わたしの家の閾で一生懸命に尻尾を振ってたもんですよ。フセーヴォロドが生きていた時分、まるでお慈悲でも願うようにして、うちの夜会へ押しかけて来てましたっけ。ところが、あの女は夜っぴて踊りも踊らないで、蠅のようなトルコ玉を額にくっつけたまま、一人ぽつんと隅っこに坐ってるんでしょう。それで、わたしあまりかわいそうだもんだから、二時過ぎに初めて相手《カヴァレール》を差し向けたもんです。あの頃はもう二十五くらいだったけれど、まるで小さな女の児みたいに、裾の短い着物をきせられて、方々引き廻されてましたっけね。こんなふうだから、あの人たちを出入りさせるのが、なんだか不体裁なくらいでしたよ」
「その蠅みたいなトルコ玉が、まるで目に見えるようですね」
「うち明けたところをいいますがね、わたしここへ帰って来ると、さっそくもう悪企みにぶっつかったんですよ。あなた今ドロズドヴァの手紙を読んだでしょう。いったい、あれ以上明瞭なことがどこにありましょう。まあ、あなた、何を見つけたと思います? あのお馬鹿さんのドロズドヴァが、――あのひとはいつでもお馬鹿さんなのです、――あのひとが急に不審の目で見るようになったのです、わたしがなんのためにわざわざ出かけたんだろう、というわけでね。わたしがどんなにびっくりしたか、たいていお察しがつくでしょう! ところが、よく気をつけて見ると、あのレムブケーの細君が糸を引いてるんですの。そして、その傍にはあの従兄《クザン》がついてるんですよ、あの男はドロズドフ老人の甥ですからね、――何もかもすっかり見え透いてます! もちろん、わたくしはすぐに何もかもご破算にしてやりました。そして、ドロズドヴァは、またわたしの味方についてしまいました。が、それにしても、企んだものですね、まったく企んだものですね!」
「それにしても、あなたはずいぶん強敵を破ったもんですね。おお、ビスマルク! といいたいくらい!」
「わたしは何もビスマルクじゃありませんが、それでもまやかしと馬鹿馬鹿しいことは、出くわし次第、見あらわしてやる力がありますよ。レムブケーの家内はまやかしものです、プラスコーヴィヤは馬鹿です。わたしあんな意気地のない女には、めったに出あったことがない。おまけに両足が腫れて、おまけにお人よしなんですからね! 本当に馬鹿なお人よしほど、馬鹿げたものはありゃしない」
「意地悪の馬鹿はね、ma bonne amie(わがよき友よ)意地悪の馬鹿は、もういっそう馬鹿げていますよ」とスチェパン氏は上品に異議を挿んだ。
「ことによったら、あなたのほうが本当かもしれませんねえ。あなたリーザを覚えていらっしゃる?」
「Charmante enfant!(かわいい子ですよ!)」
「だけど、今はもう子供《アンファン》じゃありません、一人前の女です。しかも、一意地ある女です、潔白な熱のある人。わたしはね、あの子がお母さんの、あの正直なお馬鹿さんの、いいなり放題にさせないところが、気に入りましたの。けれど、あの従兄《クザン》のおかげで、あやうく一騒ぎ起こりかねないところでしたよ」
「へえ、しかし、本当のところ、あの従兄《クザン》はリザヴェータ・ニコラエヴナの親類なんかじゃまったくないのでしょう……何か当てでもあるんですか?」
「こうなんですの、あの若い将校はたいへん口数の少ない人で謙遜家といっていいくらいなのです。わたしはいつでも公平に物事を判断したいという望みなんですからね、どうもわたしには、当のその人がそんな悪企みに反対らしく思われるんですよ。策士はレムブケーの家内ひとりに違いありません。その将校はたいへんニコラスを尊敬していましたよ。ねえ、そうでしょう、すべてはリーザの胸一つにあることなんです。けれど、わたしの帰って来る時には、あの娘とニコラスの関係は、まことに申し分ありませんでした。それに、あれも十一月にはぜひうちへ帰ると、わたしに約束しましたの。してみると、小細工をしているのはレムブケーの家内だけで、プラスコーヴィヤは目の見えない女というだけのことです。あのひとったら、ふいにこんなことをいい出すじゃありませんか、――あなたの疑ってることはみんな気の迷いです、なんて。わたしは面《めん》と向かって、お前さんは馬鹿だといってやりました。ええ、わたしは最後の審判《さばき》の日だって、立派にそういいきります。本当にニコラスが、おりの来るまでうっちゃっておけと頼まなかったら、あのいかがわしい女の正体を引ん剥かないうちは、あすこを立ちゃしなかったんですよ。あの女はニコラスの手を通して、K伯爵の鼻息をうかがって、わたしたち親子を引き離そうとしたんですの。けれど、リーザはわたしたちの味方だし、プラスコーヴィヤとはちゃんと話しあいがついていますからね。あなた、カルマジーノフがあの女の親戚だってことをごぞんじ?」
「えっ? フォン・レムブケー夫人と親類ですって?」
「ええ、そう、あの女とね。遠い親戚ですの」
「カルマジーノフが、あの小説家の?」
「ええ、そう、文士のね。なんだってそうびっくりするんです! むろん、あの人はいま自分で自分を偉い者のように思ってるんですからね、ずいぶん高慢ちきな男ですよ! レムブケーの家内は、あの男といっしょにやって来るはずになっていますが、今頃はあちらで二人飛び廻ってるでしょう。あの女は今度ここで、何か文学会のようなものを起こすつもりらしいんですの。ところで、あの男は一月ばかりの予定で、この町へ来るんだそうです、なんでもたった一つ残った領地を売り飛ばすつもりなんですって。スイスでは、あやうくあの男と出くわしそうになったので、わたしひやひやしましたよ。けれど、あの男のほうでは、わたしを見覚えていることと思います。昔はわたしのところへ手紙をよこしたり、うちへ出入りしたりしてたんですからね。ときに、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたもっと気の利いた服装《なり》をしていただけないものでしょうか。あなたは一日一日とだらしなくなっていきますよ……ああ、あなたはわたしに苦労させなさる! どう、あなたいま読書をしていらしって?」
「わたしは……わたしは……」
「わかってますよ。相変わらず『親友』たちでしょう、相変わらず酒もりでしょう、クラブでしょう、カルタでしょう、そして、無神論者の世評でしょう。わたし、この世評が気に入りませんの、スチェパン・トロフィーモヴィチ。わたしあなたを無神論者よばわりなどしてもらいたかありません、今はなおさらいやです。わたしは以前からいやだったのです。なぜって、そんなことはみんな内容《なかみ》のないおしゃべりにすぎないじゃありませんか。どうせもういつかいわなくちゃならないのだから、すっかりいってしまいますよ」
「〔Mais ma che`re〕(しかし、あなた)……」
「まあ、お聞きなさい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、学識の点からいえば、わたしなどあなたにくらべたら、もちろん、まるで物識らずですけどね、わたしこちらへ帰って来る途中、さんざんあなたのことを考えました。そして、一つの結論に到達しましたの」
「どんな結論です?」
「つまりね、世界じゅうで一ばん賢いのは、なにもわたしとあなたと二人きりというわけじゃない、まだまだわたしたちより賢い人があります」
「皮肉ですね、図星ですね。もっと賢い人がありますよ。つまり、われわれより正しい人があるんです。で、結局、わたしたちも誤ることがありうる、ということになるんですよ。そうじゃありませんか? Mais, ma bonne amie(しかし、わがよき友よ)かりにわたしが誤っているとしても、わたしはわたしで全人類に共通な、常に変わることのない、自由な良心の至上権を持っています。またその気にさえなれば、偽善者や狂信者にならない権利を持っています。その自然の結果として、わたしは世の終わりまでいろいろな人から憎まれることでしょう。et puis, comme on trouve toujours plus de moines que de raison(それに、いつでも道理より坊主の多いたとえでね)というわけで、わたしはそれにぜんぜん同意なんですから……」
「え、え、あなたなんといったのです?」
「いつでも道理より坊主の多いたとえだといったのです。というわけで、わたしはそれに……」
「それはきっと、あなたのいったことじゃありますまい。大方どこからか取って来たのでしょう?」
「これはパスカルのいったことです」
「そうだろうと思ってました……あなたのいったことじゃありますまい。なぜあなたはいつも簡潔に、ぴったりとうがったものの言い方をしないで、ああだらだらと冗漫な話っぷりをするんでしょう。このほうがあんな行政的感興より、どれだけ気が利いてるかわかりませんよ……」
「〔Ma foi, che`re〕(まったくです、あなた)……いったいそれはなぜでしょう。まず第一には、なんといってみたところで、わたしがパスカルでないからでしょう。et puis(それから)……それから第二には、われわれロシヤ人というやつが、自分の国の言葉では何一つろくなことがいえないからです……少なくとも、今まで何一ついったことがありませんからね……」
「へえ? それは本当でないかもしれませんよ。とにかく、あなたは話の時の用意に、そんな言葉を書き留めて、覚えといたらいいでしょう。ああ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたくしはあなたに真面目でお話しようと思って、帰って来たんですよ」
「〔Che`re, che`re amie!〕(あなた、あなた)」
「今あんなレムブケーとか、カルマジーノフとかいう連中が、……ああ、本当にあなたはなんてまあ箍が弛んでしまったものでしょう? あなたがどんなにわたしを苦しめていらっしゃるか、とてもおわかりにならないでしょう! わたしはあんな連中が、あなたに尊敬の念を起こすようにしたいのです。だって、あんな人たちは、あなたの小指の先ほどの値打ちもないんですもの。ところが、あなたの態度ったらどうでしょう! あの連中が見たら、なんといいます? わたしどうしてあの連中に引き合わしたらいいんでしょう! 高潔な生ける証明として、一世の風潮に逆らって立ち、人の模範たる生活をつづけようとはしないで、やくざな連中に囲まれ、何かこう我慢のならない癖がしみついて、だんだん老いぼれていらっしゃるじゃありませんか。酒とカルタなしじゃ夜も日も明けないのです。あなたはポール・ド・コックばかり読んで、猫も杓子も争って書く今の世に生まれながら、まるで何も書かないじゃありませんか。あなたの時間はすっかりおしゃべりに潰れてしまってるんです。いったいまあ、あなたの腰巾着になっているリプーチンみたいな、あんなやくざ者と友だちづき合いなんかしていいものですか、許さるべきことですか?」
「なぜあの男がわたしの腰巾着[#「わたしの腰巾着」に傍点]なんです?」とスチェパン氏はおずおずたずねた。
「今あの男はどこにいるんです?」ヴァルヴァーラ夫人は厳めしい、きびしい調子で言葉を次いだ。
「あの男はどこまでも、どこまでもあなたを尊敬しています。そして、いま母の遺産を受け取るためにSへ行っております」
「あの男はいつもお金を受け取ってばかりいるようですね。どうしました、シャートフは、相変わらずですか?」
「Irascible, mais bon(怒りっぽいけれどいい男ですよ)」
「わたし、あなたのシャートフはとても我慢ができません。意地悪のうえに、自分のことばかり一生懸命に考えてるんですもの!」
「ダーリヤさんの健康はいかがですか?」
「あなたのおっしゃるのはダーシャのこと? なんだって急にそんなことを思い出したんです?」ヴァルヴァーラ夫人は不思議そうに彼の顔を眺めた。「大丈夫ですよ。あの娘はドロズドヴァのところへ置いて来ました……わたしはスイスであなたの息子さんの噂を聞きました。悪いことですよ、いいことじゃありません」
「〔Oh, c'est une histoire bien be^te! Je vous attendais, ma bonne amie, pour vous raconter〕(おお、それはあなた、馬鹿げきった話なのですよ、わたしはね、そのお話をしようと思って、あなたを待ちかねていたんですよ)……」
「もうたくさんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、いいかげんにして休ませてください。もうがっかりしてしまった。お話なんかいくらでもする暇がありますよ。ことに悪い話ならね。ときに、あなたは笑う時に唾をお飛ばしになるようになりましたね。まあ、本当になんて老いぼれようでしょう! そして、なんだってそんな妙な笑い方をするようにおなんなすったの……あああ、あなたはすっかりいやな習慣を背負い込んでおしまいなすったのね! それじゃ、カルマジーノフも訪問してくれやしませんよ! それでなくってさえ、みんながしきりに気味よがっているのに……あなたは今すっかり正体を現わしておしまいなすったのねえ。さ、たくさんです、くたびれちゃった! もういい加減に容赦をしてくだすっていい頃ですよ!」
 で、スチェパン氏は『容赦』をした。しかし、夫人のもとを引きさがった彼の様子は、だいぶしょげ込んでいた。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わが親友スチェパン氏に、少なからず悪い習慣がしみ込んだのは、本当である。近頃になって、それがことに烈しくなった。彼はみるみる調子がゆるんできた。また実際だらしなくもなった。酒の量も多くなったし、神経が弱ってきて、涙っぽくなった。そして、みやびやかなものに対する感受性が度はずれに鋭くなってきた。彼の顔は恐ろしく急激に変化する特色を現わしはじめた。たとえば、極端に厳粛な表情から、思いきって滑稽な、愚かしいほどの表情へ飛び移ってしまう。孤独に堪えることができなくなって、だれでもいい、少しも早く気を紛らしてほしいという渇望が、しじゅう彼の胸を去らなかった。で、はたの者は何か彼のために、京童の口さがない噂だとか、面白おかしい市井の出来事だとか、そんなものをぜひ話してやらなければならない上に、しかも、毎日めずらしい種でなくては気に入らぬのであった。もし長いあいだだれも訪ねて来ないと、佗しそうに家じゅうを歩き廻って、窓の傍へ寄って見たり、もの思わしげに唇を噛んだり、深い深いため息をついたりして、しまいにはもうしくしく泣きださないばかりになってくる。彼は絶えず何か予覚していた。何か意想外な、しかも、とうてい避くべからざるあるものの襲来を恐れているのであった。そして、妙に臆病になり、ひどく夢を気にし始めた。
 この日いちんち夜にかけて、彼は一方ならぬ憂欝の中に時を過ごしたが、とうとうわたしの家へ迎えの者をよこし、恐ろしく興奮して、長いこと話しつづけた。が、その話はみんなかなりまとまりのないものであった。彼がわたしに少しも隠し立てしないということを、ヴァルヴァーラ夫人はもうとっくから承知していた。とうとうわたしはスチェパン氏が何かしら一種特別な、彼自身でさえ想像できないようなものに、心を悩ましているのを見てとった。以前はわたしたちが二人おち合ったとき、そろそろ彼の愚痴が始まる頃あいには、たいていいつもしばらくたってから酒の壜が運ばれて、気の結ぼれも解けて来るのが例であったが、この日は酒が出なかった。見受けたところ、彼は幾度となく、酒を取り寄せたいという欲望を、心の中で圧しつけているらしかった。
「それに、なんだってあのひとは、のべつ腹を立ててばかりいるのだろう!」と彼はまるで子供のように、やみ間なく訴えるのであった。「〔Tous les hommes de ge'nie et de progre`s en Russie e'taient, sont et seront toujours des “cartejniki” et des “pianitsi” qui boivent en “zapoi”〕(ロシヤにおけるすべての天才とそして進歩の人は、いつもへべれけに酔っぱらっている飲んだくれで博奕打だった、今でもそうだ、そして、今後とてもそうだろう)ところが、わたしはけっしてそんな博奕打ちでもなければ、また飲んだくれでもない……あのひとはわたしが何も書かんといって責めるが、実に奇態な考えを起こしたものだ! それから、なぜそんなに寝ころんでるのだと、おいでなすった! 『あなたは世間の人の模範として、祖国に対する譴責の権化として、屹然と立っていなければなりません』だとさ。mais entre nous soit dit(しかし、ここだけの話だが)人間が譴責の権化として立つべき使命を享けた以上、寝ころんでいるよりほか仕方がないじゃないか。あのひとはそれを知ってるかしらんて?」
 そうしているうちに、わたしは今夜に限ってかくまで執拗に彼を苦しめていた一種特別な憂愁の原因を、やっと突きとめたのである。この晩、彼は幾度となく鏡に近寄って、長い間その前に立ちどまったが、とうとう鏡から目をはなして、わたしのほうへ向き、なんとなく奇妙な絶望の色を浮かべながらいった。
「|ねえ《メ》、|きみ《シェル》、ぼくは箍のゆるんだ人間なんだねえ?」
 ああ、実際いままで、今日という今日まで、ヴァルヴァーラ夫人がどんな『新しい見方』をいだこうと、どんなに『思想を変化』させようと、たった一つ固く信じていることがあった。ほかでもない、自分はやはり女としての夫人の心にとって、魅力ある一個の男性だという信念であった。それも単に追放者もしくは立派な学者としてでなく、美しい男として魅惑的だという意味なのである。もう二十年の間というもの、この気持ちのいい慰藉の力を持った信念は、彼の胸にしっかりと食い入っていたので、彼の持っているすべての信念の中でも、これと別れるのが一番つらかったかもしれない。彼は近い将来において、大きな責苦が前途に待ちかまえているのを、その晩なんとなしに予感したのであろうか?

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 ここでわたしは、おおかた忘れられてはいるが、本当はこの物語の発端になるべき出来事の叙述にかかることとしよう。
 八月もいよいよ押し詰まった頃、とうとうドロズドヴァ母娘《おやこ》がやって来た。彼らの到着は、その親戚に当たる新知事夫人の乗り込み、――町じゅうの者がとうから待ちに待っていた乗り込みのちょっと前だったので、町の社交界ぜんたいに異常な印象を与えたのである。しかし、そうした興味ある出来事は、すべて後章に譲ることとして、今はただプラスコーヴィヤ夫人が、一日千秋の思いでその到着を待っているヴァルヴァーラ夫人に、ある面倒な問題をもたらした、というだけに止めておこう。ほかではない、ニコラスがもう七月頃から彼ら一家と袂を別って、ラインあたりでK伯爵と落ち合った上、伯爵はじめその家族と連れ立って、ペテルブルグへ出かけたというのである(断わっておくが、伯爵の令嬢は三人ともいま嫁入盛りの年頃である)。
「リザヴェータはああいう高慢なしぶとい娘《こ》ですからね、あれからはなんにも聞き出すわけにいきませんでした」プラスコーヴィヤ夫人はこういって、言葉を結んだ。「けれど、あの娘《こ》とニコライさんとの間に何かあったのは、わたし自分の目で睨みましたよ。そのわけは知りません。いずれね、ヴァルヴァーラさん、お宅のダーリヤさんに、そのわけを聞かなくちゃなりますまいよ。わたしの目から見ると、リーザはひどく恥をかかされたらしいんですの。あああ、嬉しい、やっとのことであなたのお気に入りの娘をつれてきて、お手渡しすることができますよ。ほんとに重荷をおろしたようだ」
 この毒を持った言葉は、いかにもいらいらした調子で発せられた。察するところ、この『意気地のない女』は前からこれを用意しておいて、その効果を楽しんでいたものらしい。しかし、ヴァルヴァーラ夫人はそんな感傷的な効果や、謎めいた言葉でへこまされるような女ではなかった。彼女はきびしい調子で、もっと正確な、得心のゆくような説明を求めた。プラスコーヴィヤ夫人はすぐ調子を下げて、しまいにはとうとう泣きだしてしまったほどだ。そして、ごく隔てのないうち明け話を始めた。この気短かだけれど感傷的な夫人は、ちょうどスチェパン氏と同じように、絶えず真の友情に渇していたのである。それゆえ、彼女の娘リザヴェータに対するおもな不満は、「娘が自分の友だちでない」という一事につくされていた。
 しかし、夫人の説明やうち明け話の中で正確と思われるのは、事実リーザとニコラスとの間に何か仲たがいが起こったらしい、ということ一つだけであった。けれど、この仲たがいがどういう性質のものか、それについてはプラスコーヴィヤ夫人も、はっきりとは想像することができなかったのであろう。ダーリヤに対する非難の言葉は、最後にぜんぜん撤回したばかりでなく、先ほどの言葉は癇癪まぎれにいったことだから、あれはけっして気にかけないでくれと、折入って頼んだくらいである。一口にいえば、なんだかさっぱり要領をえなくなって、おまけに変に様子ありげに思われだしたのである。夫人の話によると、この仲たがいは、リーザのかたくなな人を馬鹿にした性質から起こったもので、「ニコライさんは、烈しくあの子に恋していらっしゃるけれども、あの誇りの強いご気性ですから、そんな人を馬鹿にした仕向けに我慢ができないで、ご自分から冷笑的な態度におなんなすったのです。それから間もなく、わたしたちはある若いお方と知合いになりました。なんでもあなたんとこの『先生』の甥ごさんでしたか、苗字もやはり同じでしたっけ……」
「息子ですよ、甥じゃありません」とヴァルヴァーラ夫人は訂正した。
 プラスコーヴィヤ夫人は、前からスチェパン氏の苗字が覚え込めないで、いつも『先生』と呼んでいた。
「へえ、息子さん。じゃ、息子さんにしましょう、そのほうがいい、わたしはどうだって同じことなんですから。ごくありふれた若い人でした。たいへん元気な、物腰の自由な人なんですけれど、格別こうというところはありゃしません。ところで、その時はもうリーザのほうがまったく悪かったんですの。つまり、ニコライさんにやきもちを焼かせようと思って、わざとこの若い人を傍へ引き寄せたんですよ。けれど、わたしはしいてそれを咎めはいたしません。いかにも娘の考えらしい、ありふれたことで、いっそかわいいところさえあるくらいですもの。ところが、ニコライさんはやきもちをやくと思いのほか、かえってその若い人と仲よくなすって、何も目に入らないような顔をしていらっしゃる。そんなことはどうでもいいってなふうなのでしょう、それがリーザの胸をめちゃめちゃにしてしまったのです。その若い人は、間もなく立って行きましたが(どこやらたいへん急いでいられましてね)、そこでリーザは折さえあれば、ニコライさんに突っかかって行くようになりましたの。それに、ニコライさんが時々ダーシャと話していらっしゃるのに、気がついたもんですから、その、まるで気ちがいみたいになってしまったんですよ。本当にわたしも生きてる空はありゃしません。元来わたしは腹を立てないようにって、お医者さまから止められてはいたんですが、あの名高い湖も飽き飽きしてしまって、おかげで歯はずきずき痛みだす、ひどいリョウマチ[#「リョウマチ」はママ]は背負い込む、さんざんな目にあいましたよ。よくジュネーヴの湖は歯を痛くするって、新聞なぞにも書いてますわ。そういうたちの湖なんですとさ。そのうち、ニコライさんのところへ、とつぜん伯爵夫人からお手紙が来たもんですから、あの人はさっさと立っておしまいになりました。一日で支度をしておしまいになったんですよ。別れる時の二人の様子は、いかにも仲よさそうで、リーザなどはお見送りする時、はしたないくらいはしゃいで、やたらにきゃっきゃっと笑いましたっけ。けれど、それはみんな表面《うわべ》だけなんですよ。あの人が立っておしまいになると、恐ろしく沈み込んで、あの人の噂をぱったりやめてしまって、わたしに口をきかせないんですよ。ヴァルヴァーラさん、あなたも今度このことについては、なんにもあれにいいださないようにしてくださいな。ただ事を毀すばかりですからね。黙っていらっしゃると、あの子のほうからさきにいいだしますよ。そうしたほうが、結局よくおわかりでしょうよ。わたしの考えでは、ニコライさんさえお約束どおりすぐに来てくだすったら、また元々どおりになりますよ」
「じゃ、あれにすぐ手紙を出しましょう。本当にそのとおりだとしたら、つまらない仲たがいですよ。それに、ダーリヤという娘もわたしよく知っています。なに、馬鹿馬鹿しい話ですよ」
「ダーシャのことなら、わたし後悔していますの、――罪なことをいってしまいました。ただほんのつまらない通り一ペんの話で、それも別にひそひそ話じゃなかったんですもの。まったくね、あなた、当時わたしはこのことで頭が変になってたんですよ。それに、リーザもわたしの見たところでは、あの娘《こ》と以前どおり優しくつきあっています……」
 ヴァルヴァーラ夫人はその日のうちに、ニコラスヘ当てて手紙をしたため、彼の定めた期限より、せめて一月でも早く出かけるように頼んだ。けれど、このことについては、彼女に得心のいきかねる怪しいところが残っていた。彼女はその晩よっぴて考え通した。『プラスコーヴィヤ』の考えはあまり幼稚で、感傷的に思えた。
『プラスコーヴィヤは寄宿学校時代のそもそもから、ずっと今までいつも度はずれに感傷的だった』と夫人は考えた。『ニコラスは、小娘の冷やかしが恐ろしくって逃げ出すような、そんな人間ではけっしてない。もし本当に仲たがいがあったとすれば、それには何かほかに原因がなくちゃならない。しかし、あの将校はいっしょにここへ引っ張られて来て、親戚という格であの家へ落ち着いているようだ。それに、ダーシャのことだって、プラスコーヴィヤの謝りようがあんまり早過ぎる。きっと何か口へ出したくないことがあって、胸の中へたたみこんでいるに相違ない……』
 朝になって、ヴァルヴァーラ夫人の胸には、ある一つのもくろみが成熟した。それは、せめて一つだっても不快な疑惑を一掃しうる性質のもので、しかも、そのとっぴな点において、刮目に値するようなものであった。夫人がこのもくろみを案出したときに、どういう下心を持っていたか、――それは容易に断言し難いことである。それにわたしは、このもくろみの全体を織りなしているいっさいの矛盾を先廻りして説明するのを見合わせ、ただ単なる物語の記述者として、すべての事件を実際おこったのと同じ形で描き出すに止めておく。なお、たとえその事件がどんなに奇怪に思われようと、それはわたしの知ったことでないけれど、いま一ど言明しておこう、――翌朝、夫人の胸にはダーシャに対する疑いなど、これからさきも残っていなかった。いや、それどころか、実際そんな疑いなぞかつて萠したこともなかった、それくらい夫人は彼女を信用していたのである。それに、ニコラスが自分の家の『ダーリヤ』に迷い込むなどとは、考えることもできないくらいだった。
 その朝、ダーリヤがテーブルに向かって茶をついでいる時、ヴァルヴァーラ夫人は長い間じっとその様子を見つめていたが、確信をえたように心の中で、
『あんなことはみんなでたらめだ!』と断言した。おそらく夫人は昨日から、この言葉を二十度くらいくり返したのであろう。
 ただ夫人の気がついたのは、ダーシャがなんとなく疲れたような様子をしているのと、前よりも余計もの静かに、余計だるそうに見えることだった。茶がすんだ後、ずっと前からきまって動かなくなった習慣で、二人は刺繍の仕事に向かった。ヴァルヴァーラ夫人はダーシャに命じて、外国で受けた印象を語らせた。つまり、自然、住民、都会、習慣、芸術、工業などを主として、すべて自分の目に入ったものを残らず話して聞かすのであった。ドロズドヴァ一家や、その家族との生活については、一言の質問もなかった。ダーシャは仕事づくえに向かって、夫人の傍に座を占めたまま、その刺繍の手伝いをしながら、持ち前のなだらかで一本調子な、少し弱弱しい声で、三十分ばかり話しつづけた。
「ダーリヤ」と夫人はだしぬけにさえぎった。「お前なにか、こう、特別に話したいと思うようなことはないかえ?」
「いいえ、なんにも」ダーシャは心もち考えてこう答えながら、その明るい目でちらとヴァルヴァーラ夫人を見上げた。
「お前の魂にも、こころにも、良心にも?」
「は、べつに」とダーシャは低い声でくり返したが、その声にはなんとなく気むずかしげな、堅苦しい調子があった。
「わたしもそうだろうと思ってた! いいかえ、ダーリヤ、わたしは今まで一度もお前を疑ったことはないんだからね。まあ、じっと坐って聞いておいで、いや、それよか、こっちの椅子へかわって、わたしの向かいに腰をお掛けな。わたしはお前をすっかり見たいんだから。ああ、そうそう。ところでね、――お前お嫁入りしたくない?」
 ダーシャは不審げな長い凝視でこれに答えた。が、大して驚いたふうはなかった。
「まあ、お待ち、黙っておいでよ。まず第一、年の違いだがね、これがたいへん大きいのさ。けれど、そんなことくらいなんでもないってことは、だれよりもお前が一番よく承知しておいでのはずだね。お前は分別のある女だから、お前の生涯に間違いのあろう道理がないよ。もっとも、その人はまだなかなかの好男子です。手短かにいえば、お前のつねづね尊敬しているスチェパン・トロフィーモヴィチなの。どうだえ?」
 ダーシャはまたひとしお不審げに夫人を見つめた。そして、今度はただびっくりしただけでなく、目立って顔をあかくした。
「まあ、お待ちよ、黙っておいで。何もせくには当たらないよ! お前はわたしの遺言で、お金を持ってるとはいい条、わたしが死んでしまったら、お前はいったいどうなるんだろう。よしんばお金があるにしてもさ、人にだまされてお金を取り上げられたら、もうそれっきりじゃないか。ところが、あの人のとこへ行けば、お前は名士の奥さんですよ。また別な方から見てもさ、たった今わたしが死んでしまったら、――そりゃわたしもあの人の困らないようにしておくけれど、――あの人はまあどうなるとお思いだえ? そこで、わたしはお前に望みをかけてるんだよ。まあ、お待ち、わたしはまだしまいまで言やしませんよ。あの人は軽はずみです、ぐずです、残酷です、身勝手です、下品な癖があります。けれど、お前、世の中にはまだまだひどいのがあると思えば、あの人のいいところも見てあげなくちゃあ。いったいわたしはお前をどこかの馬の骨に押しつけて、厄介払いをしようというんじゃないからね、まさかお前そんなことを考えやしないだろうね? それに第一、わたしがこうして頼んでるのだからね、それだけでもちっと考えてもらわなくちゃ」夫人は突然いらいらした調子で言葉を切った。「お前きいてくれてるの? なんだってそうむつっ[#「むつっ」に傍点]としてるんだい?」
 ダーシャはやはり押し黙って聞いていた。
「ちょっと、も少し待ってちょうだい。あの人は意気地なしです、――けれど、お前にとっては、結局そのほうがいいくらいだよ。意気地なしといっても、かわいそうな意気地なしなんだからね。女として、あんな人を愛してやる値打ちがないようなものの、あの頼りない性質を考えると、愛してあげてもいいんですよ。お前もその頼りないところを愛しておあげ。お前、わたしのいう意味がわかるだろう? わかるかえ?」
 ダーシャはちょっとうなずいて見せた。
「わたしもそうだろうと思っていました。お前のことだから、そうあるべきはずです。あの人はお前を愛しますよ。だって、それが義務だもの、義務なんだもの。あの人はお前を崇拝しなけりゃならないんです!」とヴァルヴァーラ夫人はなんだか妙にいらいらして、声を癇走らせた。「もっとも、あの人は義務なぞを抜きにしたって、やはりお前に惚れ込んでしまいます。わたしはあの人をよく知ってるんだからね。それに、わたしという者が傍へついています。心配おしでない、わたしがいつも傍についてるからね。いずれあの人はお前の讒訴をしたり、だれにでも出あい次第にお前の陰口をきいたり、めそめそしたりするようになるだろう(あの人は一生めそめそし通してるんだからね)。そして、同じ家にいながら部屋から部屋へ、お前に宛てて手紙を書くようになるだろう。一日に二本ずつくらい書くようになるだろう。けれど、それでもお前というものなしには、一日も生きていかれやしない。ここが肝腎なところなんだよ。とにかく、お前のいうことを聞くように躾けなくちゃ駄目だよ、――それができなければ馬鹿さ。また首が縊りたいなぞといって脅かすだろうけれど、本当にしちゃいけない。ただほんのでたらめなんだからね。本当にしちゃいけないけれど、それでも油断なく気をつけるんですよ。まかり間違ったら、本当に首を縊るから。ああいう人たちにはよくあることなんですよ。それも力が余って首を縊るんじゃなくって、力が足りなくってすることなのさ。だから、けっして一か八かという際どいところまで連れてってはいけない――それが夫婦《めおと》ぐらしの第一の秘訣だからね。それから、あの人が詩人だということも頭に入れておおき。よく聞いてちょうだい、ダーリヤ、自己犠牲より大きい幸福はほかにありゃしないんだよ。それに、わたしがどのくらい満足に思うかしれない。これが何より一等大切なことなんです。お前わたしのいったことを、愚にもつかない話だなどと思わないでちょうだい。わたし自分のいうことは、ちゃんとわきまえてるんだからね。ええ、むろんわたしは利己主義よ、だからお前も利己主義におなり。けれど、わたしは何もお前を縛ろうというんじゃありません。何事もお前の考えどおりです。お前の返事一つで決まることです。さあ、なんだってそんなに、ちょこんと坐りこんでしまったの、なんとかおいいよ!」
「奥さま、わたくしはどちらでも同じことでございます。もしどうしても結婚しなくちゃならないのでしたら……」ダーシャはきっぱりとこういいきった。
「どうしてもとは? それはいったいなんの謎だえ?」ヴァルヴァーラ夫人はきっと穴の明くほど、相手の顔を見つめた。
 ダーシャはのろのろ刺繍の針を動かしながら、黙り込んでいた。
「お前は利口な娘《こ》だけれど、とんでもない考え違いをしているんだよ。そりゃまったく、わたしは今ぜひともお前を嫁にやろうと考えついたけれど、何もけっして必要があってのことじゃない。ただそう思い立ったからというだけの話で、それも相手はスチェパン・トロフィーモヴィチにかぎるんです。もしスチェパン・トロフィーモヴィチという人がなかったら、わたしは今すぐお前をお嫁にやろうなどと、考えつきはしなかったでしょうよ、もっとも、お前だって今年もう二十歳《はたち》だけどね……さ、どうだね?」
「わたくしは奥様のお思召し次第でございますわ」
「じゃ、同意なんだね! ま、お待ち、黙っておいでよ、何もせくことはありません。わたしはまだしまいまで言やしないじゃないか。わたしの遺言状には、お前のために一万五千ルーブリというものが、ちゃんと決めてあるんだよ。それは式のすみ次第、すぐにもお前に渡してあげます。そのうち八千ルーブリだけ、あの人に渡しておあげ、あの人といっても、つまりわたしによこすのさ。あの人はわたしに八千ルーブリの借金があるんだからね。結局わたしが払うことになるんだけれど、それがお前の金だということを、あの人に知らせてあげなくちゃならないの。さて、つまるところ七千ルーブリだけ、お前の手に残るんだね。その金はけっして一ルーブリだってあの人に渡しちゃならないよ。あの人の借金なんか、けっして払ってあげるんじゃないよ。一ど払ってあげたら、それこそもう際限がないから。もっとも、わたしがいつも傍についててあげるがね。それから、お前たち夫婦は毎年千二百ルーブリずつ、――特別の場合には千五百ルーブリの金を、わたしから受け取ることになるんだよ。もっとも、住まいと食い扶持は別です。それは、今もスチェパン・トロフィーモヴィチにしてあげてるとおり、やはりわたしが受け持つことにするからね。ただ召使だけ、お前がたのほうで持つようにおしな。年金はわたしがお前に一度に渡してあげます。直接お前の手に入れてあげるんだよ。けれど、お前も優しい心持ちになって、時々は少しくらいあの人にあげるものだよ。そして、友だちにも出入りを許しておあげ、週に一度だけでもね。もしそれ以上たびたび来るようだったら、かまわず追ん出しておやり。けれど、わたしも自分で傍についててあげるよ。よしんばわたしが死ぬようなことがあっても、お前たち夫婦の年金は、あの人の死ぬまで続けてあげます。だけど、いいかい、あの人[#「あの人」に傍点]の死ぬまでですよ。なぜって、それはあの人の年金で、お前のじゃないんだからね。ところで、お前には今の七千ルーブリさ、自分でさえ馬鹿な真似をしなければ、そっくりそのまま残っていくし、そのほかもう八千ルーブリだけ、遺言状に書いといてあげるよ。それよりほか、お前はわたしから何ももらえないんだよ。それは承知しておいてもらいましょう。さあ、異存はないの、どうなんだね? いいかげんになんとかいったらいいじゃないか?」
「わたくしもう先刻申し上げましたわ、奥様」
「覚えておいで。お前の考え一つなんだからね、どうともお前のいうとおりにしてあげるんだよ」
「それでは、奥さま、伺いますが、スチェパン様はもうなんとかおっしゃいましたかしら?」
「いいえ、あの人はなんにも言やしないし、なんにも知りゃしないんです、けれど……今すぐうん[#「うん」に傍点]といいますよ!」
 夫人はいきなり飛びあがって、黒いショールを引っ掛けた。ダーシャはまた少しあかくなって、もの問いたげな目つきで夫人を見守っていた。ヴァルヴァーラ夫人は憤怒に燃える顔を、とつぜん彼女のほうへ振り向けた。
「お前はなんて馬鹿だろう?」と夫人は隼《はやぶさ》のような勢いで食ってかかった。「本当に恩知らずの馬鹿だよ! お前ははらの中で何を考えてるんだえ? いったいお前は何かえ、わたしがこれっから先ほどでも、お前のためにならないことをすると思ってるのかい? いいえ、あの人は膝をついて這い廻りながら、一生懸命に拝むに相違ない。嬉しさのあまりに、死んでしまうかもしれない。それくらいまでにわたしがして見せるよ! わたしがお前に恥を掻かすようなことをしないのは、お前だって知っていそうなものじゃないかね! それともお前は何かえ、その八千ルーブリがほしさに、あの人がお前をもらう気になるだろう、とでも考えてるのかい。そして、今わたしはお前を売るつもりで駆け出すのだ、とでも考えてるのかい? 馬鹿、馬鹿、だれもかれも恩知らずの馬鹿ばかりだ! さ、傘を出しておくれ!」
 こういって、夫人は湿った煉瓦の舗道《しきいみち》や木造の歩道づたいに、スチェパン氏の家へ飛んで行った。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 夫人は『ダーリヤ』に、恥を掻かすようなことをする気づかいがないのは、事実であった。それどころか、今こそ自分は本当にこの娘の恩人だ、と思っていたのである。で、ショールを掛けながら、養い子のとほうにくれた、うさんくさそうな目色を、ちらと見つけたとき、夫人の胸には、公明正大な憤懣が一時に燃え立った。夫人はこの娘のごく小さい時分から、しんそこかわいがってやっていたので、プラスコーヴィヤ夫人がダーリヤのことを、ヴァルヴァーラ夫人のお気に入りといったのは、もっともな話なのである。夫人はずっと以前から、『ダーリヤの気性は、兄貴とは(つまり、彼女の兄イヴァン・シャートフの気性をさしたので)、まるで違う』この子はしとやかでつつましく、非常な自己犠牲をも決行する資質があって、人に仕えて義に篤く、なみなみならぬ謙譲の徳を備え、目立って分別に富んでいるが、何よりも感心なのは、恩を知ることが深いと、一人で決めてしまっていた。そして、ダーシャも今までのところ、夫人のいかなる期待をも裏切るようなことはなかったらしい。
『この子の一生には過ちなんかないだろう』彼女がやっと十二になった時、もうヴァルヴァーラ夫人はこういった。そのうえこの娘は、すべて自分の心を捕えた空想だとか、新しい計画だとか、自分の目に美しく映じた思想だとか、そういうものに対して、執拗で熱烈な愛着をいだく質《たち》だったので、夫人はすぐにダーシャを生みの娘同様に、教育しようと決心したのである。夫人はさっそく彼女に相当の金を分けてやって、ミス・クリーグスという家庭教師を招聘した。この婦人は、ダーシャが十六になるまでずっと留任していたが、突然どういうわけか断わられてしまった。中学校からも二、三の教師がかよって来たが、中にひとり本当のフランス人がいて、これがダーシャにフランス語を授けた。この男もやはり突然、まるで追ん出すようにして断わられてしまった。そのほか、どこかよそから来た、元は由緒のあるらしい婦人が、ピアノの稽古をした。
 しかし、なんといっても、主な教師はスチェパン氏であった。本当のところをいえば、一番はじめにダーシャを発見したのも彼自身であった。彼はヴァルヴァーラ夫人が、この娘のことなど夢にも考えていない時分、当時まだおとなしい子供だったダーシャに、ものを教え始めたのである。またくり返していっておくが、幼い子供の彼になつくことは不思議なくらいであった。リザヴェータ・トゥーシナも、八つの年から十一になるまで、彼について勉強した(いうまでもなく、スチェパン氏は無報酬で教えたので、どんなことがあろうとも、ドロズドヴァ家から金なぞ取る気づかいはなかった)。もっとも、彼自身この美しい少女に惚れ込んでしまって、世界や地球の創造、人類の歴史などについて、何か叙事詩風の話をして聞かせたのである。原始時代の民族や原人などの講義は、アラビヤの伝説よりも面白かった。こうした物語を夢中で聴いていたリーザは、家へ帰ると恐ろしくふざけた調子で、スチェパン氏の真似をして見せ見せした。こちらはそれを嗅ぎつけたので、あるとき少女のふいを襲ったことがある。リーザは恐ろしくきまり悪がって、いきなり彼に飛びかかって、だきつきざま泣きだした。スチェパン氏も同様に、感きわまって泣きだしたものである。けれど、リーザは間もなくよそへ行ってしまって、ダーシャ一人きりになった。そのうちこの娘のところへ、いろんな教師たちが通うようになってから、スチェパン氏も授業をやめてしまった。そして、だんだんとこの娘に注意を払うことを忘れていった。こういうふうで、長い月日が過ぎたのである。
 ある時、ダーシャがもう十七になったとき、彼は思いがけなく、その可憐な姿に目を見はった。それは、ヴァルヴァーラ夫人のところで食卓についている時だった。彼はこの若い娘に話しかけてみたが、その返答ぶりにすっかり満足して、とうとう彼女に、ロシヤ文学史の真面目な長い講義をしようと申し込んだ。ヴァルヴァーラ夫人はその立派な思いつきを賞めそやして、礼の言葉まで述べた。ダーシャはもう有頂天だった。スチェパン氏はとくに力を入れて、講義の準備にかかった。やがていよいよ講義が始まった。古代期から始めた第一回の講義は、興味ぶかく終わりを告げた。講義の席には、ヴァルヴァーラ夫人も顔を出していた。スチェパン氏が講義を終えて、出て行きしなに生徒に向かって、この次は『イーゴリ軍譚』の解剖にかかろうといったとき、ヴァルヴァーラ夫人は急に立ちあがって、講義はもう続けなくてようございます、と宣告した。スチェパン氏は口をもぐもぐさせたが、それっきり口をつぐんだ。ダーシャはかっと真っ赤になった。それでこの思いつきも立ち消えになってしまった。それは今度ヴァルヴァーラ夫人が、突拍子もない夢のような計画を樹てた時から、ちょうど三年前であった。
 哀れむべし、スチェパン氏はただひとり、何も知らずに坐っていた。彼は佗しいもの思いに沈みながら、もうだいぶ前から、だれか知った人が来ないかと、窓の外を眺めていたのである。しかし、だれも来なかった。外は糠のような雨がしとしとそそいで、しだいにうそ寒くなってきた。もう煖炉《ペーチカ》を焚かなければなるまい。彼はほっと吐息をついた。と、ふいに恐ろしい幻像が彼の目に映った。こんな天気に、こんな妙な時刻に、ヴァルヴァーラ夫人がやって来るではないか! しかも、馬車にも乗らないで。彼はすっかり面くらって、着物を更えるのも忘れ、着のみ着のままで出迎えた。彼はいつもながらの薔薇色をした綿入のジャケツを着ていたので。
「|わがよき友よ《マボンナミ》!」と彼は出会いがしらに弱々しい声でこう叫んだ。
「あなた一人きり? それで安心しました。あなたのお友だちには我慢ができない。まあ、いつもよく煙草を喫みますねえ、なんてひどい空気でしょう。お茶もまだ飲みさしね、もう十一時過ぎてるのに! あなたの楽しみは乱雑なのね! あなたの楽しみは埃《ごみ》なんでしょう! まあ、なんだってこんなに紙を引きちぎって、床の上へ投げ散らすんですの? ナスターシヤ、ナスターシヤ! いったいあなたんとこのナスターシヤは何をしてるんですの? ああ、お前、窓をお開け、通風口も戸も、みんな開け放しておおき。さあ、わたしたちは客間へ行きましょう。わたし話があって来たんですから。お前、せめて一生に一ペんくらい掃除をおしなね!」
「お汚しになるんですもの!」とナスターシヤはいらだたしげな訴えるような調子で、黄いろい声を振り絞った。
「だからお前、掃除をしたらいいじゃないかね。一日に十五へんくらい掃除をしたらいいんだよ! あんたんとこの客間はなんてちゃちなんでしょう(二人が客間へ入った時、夫人はこういった)。戸をしっかり締めてください、あの女が立ち聴きしますから。これはぜひとも壁紙を取り替えなくちゃ駄目ですね。わたし経師屋に見本を持たしてよこしたじゃありませんか。なぜあなた選らなかったのです? まあ、坐ってお聞きなさい。お坐んなさいってば。わたしお願いしてるんですよ。あなたどこへ? どこへいらっしゃるの? まあ、どこへいらっしゃるんですよう?」
「なに……ちょっと」スチェパン氏は次の間からわめいた。「さあ、もう来ました!」
「ああ、あなたは着物をお着更えなすったのね!」と夫人は嘲るように相手を見やった(彼はジャケツの上から、フロックを羽織っているのであった)。「そのほうがまったく似合いがよござんすよ……わたくしたちのお話にね。さあ、もう坐ってくだすってもいいでしょう、後生ですから」
 夫人はいきなりぶっつけにいっさいのことを、頭ごなしに押しつけるような鋭い調子でうち明け、いま彼が困りきっている八千ルーブリの金のことを説明した。持参金のことも細かく話して聞かせた。スチェパン氏は目を丸くして慄えていた。彼は夫人の話をみんな聞いてはいたけれど、はっきり頭に描いて見ることができなかった。何かいおうとしても、声が途切れてしようがなかった。ただ何もかも夫人のいうとおりになるのだ。言葉を返すとか、不同意を唱えるとか、そんなことはしょせんむだな話で、自分はもう永久に女房持ちになってしまったのだ、ということだけはよくわかっていた。
「|しかし《メマ》、|あなた《ボンナミ》、わたしはもう三度目だし、それにもうこの年になってから……しかも、あんな子供と!」彼はやっとこういった。「Mais c'est une enfant(あの人はほんの子供ですよ)」
「ええ、子供ですよ、しかしありがたいことに、今年二十になる子供ですよ! どうかそう目玉をくるくるさせないでくださいな、後生ですから。あなたは芝居をしてるんじゃありませんからね。あなたは大変かしこい学問のある人ですけど、世間のことはまるでおわかりにならない。だから、あなたにはいつもお乳母《うば》さんがついてなくちゃいけないのですよ。もしわたしが死んでしまったら、あなたはまあどうなるんでしょう。ところが、あの娘《こ》はあなたにとって、うってつけのお乳母さんですよ。控え目な、しっかりした、分別のある娘ですからね。それに、わたしだって傍についていますよ。まだ今のいま死にゃしませんからね。あれでいい世話女房ですよ。おとなしい天使ですよ。この名案は、わたしがスイスにいる頃から、頭に浮かんでたのです。あなたおわかりになって。わたしが自分の口から、あの子はおとなしい天使だといったら、間違いっこありませんよ!」だしぬけに夫人は恐ろしい権幕でこう叫んだ。「今あなたのところは埃《ごみ》だらけでしょう。ところが、あの子はすぐ綺麗にきちんとさせてしまいます、何もかも鏡のようになるんですよ……ええ、まあ、あなたはいったいどう思っていらっしゃるの? こんな立派な宝物を持って来ても、まだわたしがぺこぺこお辞儀をして、頼まなきゃならないと思っていらっしゃるの? ありったけの利益を数え上げて、仲人口をきかなきゃならないとお思いですの? いいえ、あなたこそ膝を突いて頼まなければならないはずですよ……ええ、なんという腑甲斐ない……腑甲斐ない浅はかな人なんでしょう!」
「でも、わたしはもう老人ですから!」
「五十三やそこいらがいったいなんでしょう。五十はけっして人生の終わりじゃありません、ちょうど真ん中です。あなたは好男子です、それはあなたも自分でご承知のとおりです。またあの子がどんなにあなたを尊敬しているか、それもやはりご承知のはずです。もしわたしが死んだら、あの子はどうなると思います? ところが、あなたにさえついてれば、あれも安心ですし、わたしも安心します。あなたには価値と、名声と、愛に富んだ心という、立派な条件が備わっています。おまけに、あなたは年金を受け取ることになります。これはわたくし自身の義務としてるんですからね。それに、あなたはあの子を救うことになるかもしれません、いいえ、救うのです! 何にせよ、あの子に功徳をすることになりますよ。あなたはあの子に身の決まりをつけ、あの子の感情を発達させ、思想の舵を取ってやることになるのです。いま思想の舵の取り方の悪いために、一生を誤る人がざらにありますからね! その頃までには、あなたの著述も完成するでしょう、そして、あなたはすぐまた存在を認められるようになりますよ」
「実際わたしは」スチェパン氏はもうヴァルヴァーラ夫人の巧みな煽てに乗せられて、こうつぶやいた。「実際わたしは今『スペイン歴史物語』の述作にかかる準備をしているのです……」
「ほうらね! ご覧なさい、まるで申し合わせたようじゃありませんか」
「しかし、……あのひとは! あなたはあのひとにお話しになりましたか?」
「あの娘《こ》のことは、心配しないでもよござんすよ。それに、何もあなたが要らない詮索だてをすることはありません。そりゃもうあなたご自身であの子に頼まなきゃなりません。どうかご承諾の栄を与えてくださいといったふうに、泣きつかなきゃなりませんよ。いいですか? けれど、ご心配はいりません、わたしが傍についてますからね。それに第一、あなたはあの子を愛していらっしゃるんですよ」
 スチェパン氏は目まいがして、四方の壁がくるくる廻りだすように思われた。彼の心中には、どうしてもうち消すことのできない一つの滑稽な観念が、こびりついているのであった。
「|すぐれたる友よ《エクセランタミ》」彼の声はとつぜん慄え出した。「わたしは……わたしは今までかつて思いも設けなかったですよ、――あなたがわたしをほかの……女に片づけておしまいになろうとは!」
「あなたは娘じゃありませんよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、片づけるというのは娘だけのことです。あなた自分で結婚なさるのじゃありませんか」とヴァルヴァーラ夫人は歯を食いしばりながら、毒々しくいった。
「〔Oui, j'ai pris un mot pour un autre. Mais……c'est e'gal!〕(わたしは言葉を取り違えたのです、しかし……そんなことはどうでもいいですよ)」と彼はうろたえた様子で相手の顔を見つめた。
「〔C'est e'gal〕(どうでもいい)ってことは、よくわかりますよ!」と夫人は見下げたような調子で、歯の間から一こと一こと押し出した。「あら、大変! 気絶だ! ナスターシヤ、ナスターシヤ、水を!」
 しかし、水までには及ばなかった。やがて彼は正気に返った。ヴァルヴァーラ夫人は傘を取り上げた。
「もう何もお話しすることはないようですね……」
「Oui, oui, je suis incapable(ええ、ええ、わたしは今だめです)」
「けれど、明日までにはゆっくり休んで、考えてください。じっと家にいるんですよ。そして、何か事があったら、知らせてちょうだい、夜中でもかまいませんからね。手紙なんか書くことはいりませんよ。それに、読みもしないから。明日またこの時刻にいよいよの返事を伺いに、わたしが自分ひとりっきりでまいりますよ。どうか得心の行くような返事であってほしいものですね。本当に気をつけてね、その時にほかに人がいたり、埃があったりしないようにしてくださいな。まったくなんというていたらくでしょう。ナスターシヤ、ナスターシヤ!」
 翌日、彼はむろん承知した。それに、承知しないわけにいかなかった。それには一つ特別な事情があったのである……

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 スチェパン氏の領地なるものは(昔ふうに数えて、小作五十人づきのもので、スクヴァレーシニキイと境を接していた)、ぜんぜん彼のものではなく、先妻の所有に属していたので、今では当然、二人の間にできた息子、ピョートル・スチェパーノヴィチ・ヴェルホーヴェンスキイのものであった。で、スチェパン氏は後見の役を勤めているにすぎなかった。したがって、この雛鳥の毛も生え揃った今は、息子の正式な委任状によって領地管理の役目をしている。この契約は息子にとって非常に有利なものだった。つまり、彼は毎年領地の収入として千ルーブリ近くの金を父親から受けとっているが、実際、新しい制度になってからは、五百ルーブリくらいしか収入がなくなったからである(それより少ないかもしれない)。どうしてこんな関係になったのかわからないが、とにかくこの千ルーブリの金は、そっくりヴァルヴァーラ夫人が送ってやって、スチェパン氏は一ルーブリも手伝わなかった。それどころか、その小さな地面から上る収入は、全部自分の懐ろにしまい込んでいたが、とうとうしまいに、どこかの事業家に貸してやったり、この領地の中で一番値打ちのある森をヴァルヴァーラ夫人に内証で伐らせたりして、めちゃめちゃに荒してしまったのである。この森はもう大分まえから、ちょくちょく小刻みに売っていたが、全体として、少なくとも八千ルーブリほどの値打ちはあるにもかかわらず、