京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

「坂本堤弁護士一家殺害事件についての松本智津夫被告の供述調書要旨」(1995年10月1日作成、『オウム法廷』2下巻)

坂本堤弁護士一家殺害事件についての松本智津夫被告の供述調書要旨】
 坂本弁護士一家殺害事件があった八九年は、オウム真理教にとって、大きく躍進しようとする時期でした。三月に提出した東京都に対する宗教法人認可申請も、八月下旬には何とか認められました。
 宗教法人認可の際に政治的な妨害があったため、教団としても、組織を拡大し、各種の実践をしていくうえで、政治的な妨害を排除するために教団自体に政治的な力を持つべきだと考え、出家修行者たちの大多数の承諾を得て総選挙に乗り出したのです。
 ところが、同年十月ごろから、マスコミによるオウム攻撃が始まりました。その最中の十月下旬、出家信徒の家族が被害者の会をつくって、各種の訴訟を用意する状況になりました。そんな時に、青山(吉伸)や早川(紀代秀)から坂本弁護士のことを聞いたのです。詳しく聞いたのは十月三十一日ごろだったと思います。私は早川の話から、このままいけば、教団の真理を広げる活動を大きく妨害することになる人物だと考えました。
 私も、そのような悪業をなす者に、どのような対処をしようかと思いました。はっきり決意したわけではありませんが、悪業を成す坂本弁護士のためにも、彼を死なせ、より高い世界に転生させるポアをするしかないのではないかと思い始めていました。
静岡県富士宮市にあった教団施設の)第一サティアンに戻った十一月一日か二日の夕方ごろ、四階の会議室に佐伯(岡崎一明)と早川、村井(秀夫・元教団幹部=故人)、中川(智正)を呼び集めました。後から新実(智光)も呼び、最後には端本(悟)も顔を出したと思います。
 問 みんなを集めたのは十一月二日深夜から三日にかけてではないか。
 答 私の記憶では、グリーンクロフト(松本被告が総選挙に立候補した際の住所地)から戻った十一月一日の夕方だったように思います。目は不自由ですが、行動している時間などはある程度分かっていたつもりです。最初、『サンデー毎日』の牧太郎などの話をして、その後、坂本弁護士の話となり、そこで私も坂本弁護士を殺害して高い世界に転生させるという意味で、「ポアするしかないね」と言ったのです。
 問 君は佐伯に、坂本弁護士の住所を調べるよう指示をしていないか。
 答 私は、坂本弁護士を殺害する話をした後、別の機会に第一サティアン三階で、佐伯から「坂本弁護士の住所を調べるのに青山弁護士に頼んでよいか」と聞かれ、それはやめるように言い、佐伯に調べるよう指示しました。
 このように、私が早川、佐伯、村井、中川、新実に直接坂本弁護士の殺害を指示したわけです。
 私は、第一サティアンで瞑想していたと思いますが、坂本弁護士が殺害される直前、早川から電話がありました。早川は私に、「今まで駅で帰りを待っていましたが、まだ帰ってきません。新実が腹をすかせているのでラーメンでも食べさせようと思います。もうすでに家に帰っている可能性が高いと思いますが、家にはほかにも人がいると思います。どうしますか」と聞いてきました。
 私は、坂本弁護士の家族構成までは覚えておらず、早川にそれを尋ねて、子どもを含む三人家族だということを知りました。早川の意見を聞くと、彼は「今日がチャンスだと思います。やろうと思います」と、家族三人を殺害する言い方をしたのです。
 私は一瞬、子どものことが頭に浮かびましたが、私も小さいときから親から離れて苦労しており、子どもだけ生き残らせても逆に残酷だと思い、とっさに「そうか、分かった」と返事をして、さらに、「もう少し時間を遅らせろ」と指示したのです。それに対し早川は「分かりました。では、先生も瞑想していて下さい」と言ったのです。
 瞑想していると、どのくらいしたかは分かりませんが、目の前が一瞬光で明るくなり、その後、真っ暗になったので、坂本一家が死んだのだと思いました。
 しばらくして佐伯か村井から電話があり、「今帰る途中です」と報告してきました。その後、他のメンバーも、端本を除き私の部屋に来たので、労をねぎらって、死体の始末について話し合いました。
 最初は道場の下に埋めるような話も出ましたが、そのほかさまざまな意見があり、最も遠い所に埋めることにしたのです。
 早川も当時は、興奮を抑えている様子でしたし、村井も緊張した感じでした。新実も同様で、中川も震えていましたので、私が抱き締めてシャワーなどを浴びるよう指示しました。
 今までお話しした通り、私が佐伯、早川、村井、新実、中川、そして端本に指示して、坂本弁護士一家殺害を行わせたのです。私自身の現世における処罰は覚悟の上で、できれば私個人に指示された共犯者たちにはできる限り寛大な処罰を希望しています。