京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP005~P013

第一編

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 七月の初め、とほうもなく暑い時分の夕方ちかく、ひとりの青年が、借家人から又借りしているS横町の小部屋《こべや》から通りへ出て、なんとなく思いきりわるそうにのろのろと、K橋のほうへ足を向けた。
 青年は首尾よく階段で下宿の主婦《おかみ》と出くわさないですんだ。彼の小部屋は五階建ての高い建物の屋根裏にあって、住まいというよりむしろ物入れに近かった。女中とまかないつきで彼にこの部屋を貸していた下宿の主婦は、一階下の別な部屋に住んでいたので、通りへ出ようと思うと、たいていいつも階段に向かっていっぱいあけっ放しになっている主婦の台所わきを、いやでも通らなければならなかった。そしてそのつど、青年はそばを通りすぎながら、一種病的なおくびょうな気持ちを感じた。彼は自分でもその気持ちを恥じて、顔をしかめるのであった。下宿の借金がかさんでいたので、主婦と顔を合わすのがこわかったのである。
 もっとも、彼はそれほどおくびょうで、いじけきったわけでなく、むしろその反対なくらいだった。が、いつのころからか、ヒポコンデリイに類したいらだたしい、はりつめた気分になっていた。すっかり自分というものの中にとじこもり、すべての人から遠ざかっていたので、下宿の主婦のみならず、いっさい人に会うのを恐れていたのである。彼は貧乏におしひしがれていた。けれども、この逼迫《ひっぱく》した状態すらも、このごろ彼はあまり苦にしなくなった。その日その日の当面の仕事もぜんぜん放擲《ほうてき》してしまい、そんなことにかかずらう気にもならなかったのである。彼は正直なところ、どこのどのような主婦がいかなることを企てようと、けっして恐れなどしなかった。けれど階段の上に立ちどまらされて、なんの役にもたたない平凡なこまごました話や、うるさい払いの督促や、おどかしや、泣き言などを聞かされたうえ、自分のほうでもごまかしたり、あやまったり、うそをついたりするよりは――猫《ねこ》のように階段をすべり下りて、だれにも見られないように、ちょろりと姿をくらますほうが、まだしもなのであった。
 とはいえ、こんどは通りへ出てしまうと、借りのある女に会うのを、こんなに恐れているということが、われながらぎょっとするほど彼を驚かした。
『あれだけのことを断行しようと思っているのに、こんなくだらないことでびくつくなんて!』奇妙な微笑を浮かべながら、彼はこう考えた。『ふん……そうだ……いっさいの事は人間の掌中にあるんだが、ただただおくびょうのために万事鼻っ先を素通りさせてしまうんだ……これはもう確かに自明の理だ……ところで、いったい人間は何をもっとも恐れてるだろう? 新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ……だが、おれはあんまりしゃべりすぎる。つまりしゃべりすぎるから、なんにもしないのだ。もっとも、なんにもしないからしゃべるのかもしれない。これはおれが先月ひと月、夜も昼もあのすみっこにごろごろしていて……昔話みたいなことを考えているうちに、しゃべることを覚えたのだ。それはそうと、なんだっておれは今ほっつき歩いてるんだろう? いったいあれ[#「あれ」に傍点]がおれにできるのだろうか? そもそもあれ[#「あれ」に傍点]がまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰《じい》にすぎないのだ。玩具《がんぐ》だ! そう、玩具というのがほんとうらしいな!』
 通りは恐ろしい暑さだった。そのうえ、息ぐるしさ、雑踏、到るところに行きあたる石灰、建築の足場、れんが、ほこり、別荘を借りる力のないペテルブルグ人のだれでもが知りぬいている特殊な夏の悪臭――これらすべてが一つになって、それでなくてさえ衰えきっている青年の神経を、いよいよ不愉快にゆさぶるのであった。市内のこの界隈《かいわい》にとくにおびただしい酒場の、たえがたい臭気、祭日でもないのにひっきりなしにぶっつかる酔漢《よいどれ》などが、こうした情景のいとわしい憂鬱な色彩をいやが上に深めているのであった。深い嫌悪《けんお》の情が、青年のきゃしゃな顔面をちらとかすめた。ついでにいっておくが、彼は美しい黒い目にくり色の毛をしたすばらしい美男子で、背は中背より高く、ほっそりとしてかっこうがよかった。けれど、彼はすぐに深い瞑想《めいそう》、というよりむしろ一種の自己忘却におちたようなあんばいで、もう周囲のものに気もつかず、また気をつけようともせず先へ先へと歩きだした。どうかすると、いましがた自分で認めたひとり言の癖が出て、何かしら口の中でぶつぶついう。この瞬間、彼は考えが時おりこんぐらかって、からだが極度に衰弱しているのを自分でも意識した――ほとんどもう二日というもの、まったくものを食わなかったのである。
 彼はなんともいえないみすぼらしいなりをしていて、ほかの者なら、かなりなれっこになった人間でも、こんなぼろを着て、昼日なか通りへ出るのは、気がさすに相違ないほどである。しかしこの界隈ときたら、服装《みなり》などで人をびっくりさせるのは、ちょっとむずかしいところだった。センナヤ広場(乾草広場)に近く接している位置の関係、おびただしい木賃宿《きちんやど》や長屋の数々、それからとりわけ、ここペテルブルグの都心の町や横町にごみごみ集まっている職工や労働者などの群れ――こういうものがときどきその辺いったいの風景に思いきってひどい風体《ふうてい》の人物を織りこむので、変わった姿に出会って驚くのは、かえって変なくらいのものだった。そのうえ書年の心の中には、毒々しい侮蔑《ぶべつ》の念がはげしく鬱積《うっせき》していたので、若々しい――時としてはあまりに若々しい神経質なところがあるにもかかわらず、彼は町なかでそのぼろ服を恥じようなどとは、てんで考えもしなかった。もっとも、ある種の知人とか、一般にかれが会うのを好まない昔の友人とか、そんなものに出くわすのは、おのずから別問題である……とはいえ、たくましい運送馬にひかれた大きな荷馬車に乗った酔漢が、今ごろこの町なかをどうして、どこへ運ばれて行くのかわからないが、通りすがりに「やあい、このドイツしゃっぽ!」といきなりどなって、手で彼を指さしながら、のどいっぱいにわめきだしたとき――青年はふいに立ちどまり、痙攣《けいれん》したような手つきで自分の帽子を押えた。それは山の高いチンメルマン製の丸形帽子だったが、もうくたびれきってすっかりにんじん色になり、穴だらけしみだらけで、つばは取れてしまい、そのうえつぶれた一方の角が、見ぐるしくも横のほうへ突き出ている。しかし、彼をとらえたのは羞恥《しゅうち》の情ではなく、まったく別な、むしろ驚愕《きょうがく》に似た気持ちだった。
「おれもそんなことだろうと、気がついてたんだ!」と彼はどぎまぎしてつぶやいた。「おれもそうは思っていたんだ! これが一ばんいけないんだ。こんな愚にもつかない、ちょいとしたくだらないことが、よく計画をぶちこわすものだ! そうだ、この帽子は目に立ちすぎる、おかしいから目に立つんだ……おれのこのぼろ服には、どうあっても、たといどんな古いせんべいみたいなやつでも、学生帽でなくちゃいけない、こんなお化けじみたものじゃだめだ。こんなのはだれもかぶっちゃいないや。十町(一キロ九〇メートル)先からでも目について、覚えられてしまう……だいいち、いけないのは、後になって思い出されると、それこそりっぱな証拠だ。いまはできるだけ人目に立たぬようにしなくちゃ……小事、小事が肝心なのだ……こういう小事が、おうおう万事を打ちこわすのだ……」
 道のりはいくらでもなかった。彼は家の門口から何歩あるかということまで知っていた―――――きっかり七百三十歩。いつだったか空想に熱中していたとき、一度それを数えてみたのだ。そのころ彼はまだ自分でも、この空想を信じていなかった。そしてただ醜悪な、とはいえ魅力の強い大胆不敵な妄想で、自分をいらいらさせるばかりだった。それがひと月たった今では、もう別の目で見るようになった。そして、自分の無気力と不決断にたいして、あらゆる自嘲のモノローグをくりかえしながら、いつのまにやらその『醜悪』な空想をすでに一つの計画のように考えなれてしまった。そのくせ相変わらず、自分でも自分を信じていなかったのだが……今もげんにその計画の瀬踏み[#「瀬踏み」に傍点]をするために出かけているのだ。で、彼の胸騒ぎは一歩ごとにはげしくなっていった。
 彼は心臓のしびれるような感じと、神経性の戦慄《せんりつ》を覚えながら、一方の壁はみぞに、いま一方は××通りに面している、恐ろしく大きな家に近づいた。この家はすべて無数の小さなアパートになっていて、あらゆる種類の職人――仕立屋、錠前屋、料理女、さまざまなドイツ人、自分のからだで生活している娘、下級官吏などが巣くっている。で、出入りのものが二か所の門の下や、二か所の内庭をうるさいほど往き来するのである。そこには三、四人の庭番が勤めていた。青年はそのひとりにも出会わなかったので、しごく満足のていで門からすぐ右の階段口へ目だたぬようにすべり込んだ。階段は暗くて狭い『裏ばしご』だった。が、彼はもう万事得て研究しつくしていた。彼はこうした条件がことごとく気に入った――こんな暗やみの中だったら、好奇心の強い人の目さえ危険でない。『今からこんなにびくびくして、もしいよいよ実行[#「実行」に傍点]というだんになったら、いったいどうするのだ?……』四階目へ上りながら、彼はふとそう考えた。ここでは、ある住まいから家具を運び出す兵隊あがりの人夫が、彼の行く手をふさいだ。このアパートには家族持ちのドイツ官吏が住まっていることを、彼は前から知っていた。『ははあ、あのドイツ人、引っ越すんだな。すると、四階には、この階段のこの踊り場には、とうぶん、ばあさんの住まい一つきゃふさがって[#「一つきゃふさがって」はママ]いないわけだ……こいつはうまいぞ……万一の場合に』と彼はまた考えて、老婆の住まいのベルを鳴らした。ベルは真鍮《しんちゅう》でなくブリキで造ったもののように弱々しくがらんと鳴った。こうした家のこうした小さい住まいには、たいていどこでもこういったベルがついている。彼はもうこのベルの音を忘れていたが、今この特殊なひびきがふいに彼にあることを思いおこさせ、はっきりと暗示を与えたようなぐあいだった……彼は思わずぴくりとなった。おりふし神経が極度に弱くなっていたのである。しばらくしてからドアがごくわずかだけ開かれて、そのすき間から女あるじが、さもうさんくさそうに、客を見まわした。ぎらぎら光る小さな目だけが、やみの中に見える。けれど、踊り場に人が大ぜいいるのを見ると、彼女は元気づいてドアをいっぱいにあけた。青年はしきいをまたいで、板壁で仕切られた暗い控え室へはいった。仕切りの向こうは狭い台所になっている。老婆は無言で彼の前へ突っ立ち、もの問いたげに相手を見つめていた。それはいじわるそうな鋭い目と、小さいとがった鼻をした、小柄なかさかさした六十かっこうの老婆で、頭には何もかぶっていなかった。ぜんたいに亜麻色をした、白いものの少ない髪には、油をてらてらに塗りこくっている。鶏の足に似た細長い首にはフランネルのぼろがまきつけられ、肩からはこの暑いのに、一面にすり切れて黄いろくなった毛皮の上着がだらりと下がっている。老婆はひっきりなしにせきをしたり、のどを鳴らしたりしていた。彼女を見た青年の目に、なにか特別な表情でもあったのだろう、とつぜん老婆の目にはまた先ほどと同じ猜疑《さいぎ》の色がひらめいた。
ラスコーリニコフですよ、大学生の。ひと月ばかり前にうかがったことのある……」もっとあいそよくしなくてはいけないと思い出したので、青年はちょっと軽く会釈《えしゃく》してこうつぶやいた。
「覚えてますよ、よく覚えてますよ。あなたのみえたことは」と老婆はやはり彼の顔から、例のもの問いたげな目をはなさないで、はっきりといった。
「そこでその……また同じような用でね……」ラスコーリニコフは老婆の疑り深さにおどろき、いささかうろたえぎみで言葉をつづけた。
『しかし、このばばあはいつもこんなふうなのに、おれはこのまえ気がつかなかったのかもしれない』と彼は不快な感じをいだきながら心に思った。
 老婆は何か考えこんだように、ちょっと黙っていたが、やがてわきのほうへ身をひくと、中へ通ずるドアを指さして、客を通らせんがらこういった。
「まあおはいんなさい」
 青年の通って行ったあまり大きくない部屋は、黄いろい壁紙をはりつめて、窓に幾鉢かのぜにあおい[#「ぜにあおい」に傍点]をのせ、紗《しゃ》のカーテンをかけてあったが、おりしも夕日を受けて、かっと明るく照らし出されていた。『その時[#「その時」に傍点]もきっとこんなふうに、日がさしこむにちがいない!………』どうしたわけか、思いがけなくこういう考えがラスコーリニコフの頭にひらめいた。彼はすばしこい視線を部屋の中にあるいっさいのものに走らせて、できるだけ家の様子を研究し、記憶しようとつとめた。しかし部屋の中には、何も取り立てていうほどのものはなかった。
 家具類はすべてひどく古びた黄いろい木製品で、ぐっと曲がった背もたれのある大きな長いすと、その前に置かれた楕円形《だえんけい》のテーブルと、窓と窓の間にすえられた鏡つきの化粧台、壁ぎわのいす数脚と、小鳥を持っているドイツ娘を描いた黄いろい額入りの安っぽい絵――これが全部であった。片すみには燈明《みあかし》が一つ大きからぬ聖像の前で燃えている。全体がなかなか小ざっぱりとしてい、家具も、床も、つやの出るほどふきこまれて、何もかもてらてら光っている。『リザヴェータの仕事だな』と青年は考えた。住まい全体どこを見ても、ちりっぱ一つ見つからなかった。『いんごうな年より後家《ごけ》のところは、よくこんなふうにきれいになってるものだ』とラスコーリニコフは腹の中で考えつづけ、次の小部屋へ通ずる戸口の前にたらしたさらさ[#「さらさ」に傍点]のカーテンを、好奇の念をいだきながら横目に見やった。そこには老婆のベットとタンスが置いてあったが、彼はまだ一度もその中をのぞいたことがなかった。以上二つの部屋が住まいの全部だった。
「で、ご用は?」と老婆は部屋へはいると、いかつい調子でたずねた。そして、客の顔をまともに見ようとして、さっきのように彼のまん前に突っ立った。
「質ぐさを持って来たんですよ、これを!」
 彼はポケットから古い平ったい銀時計を出した。裏ぶたには地球儀が描いてあって、鎖は鉄だった。
「でも、先《さき》の口がもう期限ですよ。おとといでひと月たったわけだから」
「じゃ、ひと月分利子を入れます。もう少ししんぼうしてください」
「さあね、しんぼうするとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね」
「時計のほうは奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
「ろくでもないものばかり持って来るね、お前さん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね」
「四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金がくるはずになってるんです」
「一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ」
「一ルーブリ半!」と青年は叫んだ。
「どうともご勝手に」
 老婆はそういって、時計を突っ返した。青年はそれを受け取った。彼はすっかりむかっ腹を立てて、そのまま帰ろうとしかけたが、この上どこへ行くあてもなし、それにまだほかの用もあって来たのだと気がつき、すぐに思いかえした。
「貸してもらおう!」と彼はぶっきらぼうにいった。
 老婆はポケットヘ手を突っこんでかぎをさぐりながら、カーテンに仕切られた次の間へ行った。青年は部屋のまん中にひとり取り残されると、好奇の色をうかべながら聞き耳を立て、あれこれと思いめぐらした。老婆のたんすをあける音が聞こえた。『きっと上の引出しに相違ない』と彼は考えた。『してみると、かぎは右のポケットにしまってるんだ……みんな一束にして、鉄の輪に通している……あの中に、ほかのどれよりも三倍から大きい、ぎざぎざの歯をしたのが一つあるが、むろんあれはたんすのじゃない……つまり何かほかに手箱か、長持みたいなものがあるに相違ない……ふん、こいつはおもしろいぞ。長持にはたいていあんなかぎがついているものだて……だが、これはまあなんというさもしいことだ……』
 老婆はひっかえして来た。
「さてと――一か月十コペイカとして、一ルーブリ半で十五コペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十コペイカさし引くと、都合みんなで三十五コペイカ、そこで、今あの時計でお前さんの手にはいる金は、一ルーブリ十五コペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい」
「へえ! それじゃこんどは一ルーブリ十五コペイカなんですか!」
「ああ、そのとおりですよ」
 青年は争おうともせず、金を受け取った。彼はじっと老婆を見つめながら、まだ何かいうことかすることでもあるように、急いで帰ろうともしなかった。もっとも、その用事がなんであるのか、自分でも知らないらしい様子だった……。
「ことによるとね、アリョーナ・イヴァーノヴナ、近いうちにもうひと品もって来るかもしれませんよ……銀の……りっぱな……巻きたばこ入れ……今に友だちから取り返してきたら……」
 彼はへどもどして、口をつぐんだ。
「まあ、それはまたその時の話にしましょうよ」
「じゃ、さようなら……ときに、おばあさんはいつもひとりなんですね、妹さんはるすですか?」控え室へ出ながら、できるだけざっくばらんに、彼はこうたずねた。
「お前さん妹に何かご用かね?」
「いや、べつに何も。ちょっと聞いてみただけですよ。だのにもうおばあさんはすぐ……さよなら、アリョーナ・イヴァーノヴナ!」
 ラスコーリニコフはすっかりまごついてしまって、そこを出た。この惑乱《わくらん》した気持ちは、しだいにはげしくなっていった。階段をおりながらも、彼はとつぜん何かに打たれたように、幾度も立ちどまったほどである。やっと通りへ出てから、彼はとうとう口にだして叫んだ」
「ああ、じつに! なんというけがらわしいことだろう! いったい、いったいおれが……いや、これはナンセンスだ、これは愚にもつかぬことだ!」と彼はきっぱりいいたした。「まあこんな恐ろしい考えが、よくもおれの頭にうかんだものだ! しかし、おれの心は、なんとけがらわしいことを考え出せるようにできていることか! 何よりもだいいちに――けがらわしい、きたない、ああ、いやだ、いやだ! しかし、おれはまるひと月……」
 けれど、彼は言葉でも叫びでも、自分の興奮を現わすことができなかった。もう老婆のところへ出かけた時から、そろそろ彼の心を圧迫し溷濁《こんだく》させていたたとえようもない嫌悪《けんお》の情が、今はものすごく大きな形に成長して、はっきりその正体を示してきたので、彼は悩ましさに身の置き場もないような気がした。彼はまるで酔漢《よいどれ》のように、往き来の人に気もつかず、ひとりひとりにぶつかりながら歩道をたどりたどって、次の通りまで来たとき、ようやくはじめてわれにかえった。
 彼はあたりを見まわして、とある酒場のそばに立っている自分に気がついた。そこへはいって行くには、歩道から石段をおり、地下室へおりるようになっていた。戸口からは、ちょうどこの時ふたりの酔漢が出て来て、互いにもたれ合ってののしり合いながら通りへ登って来た。長くも思案しないで、ラスコーリニコフはそこへおりて行った。これまで一度も酒場へはいったことはなかったけれど、今はめまいがするうえに、焼けつくようなかわきに悩まされていたので、冷たいビールをあおりたくてたまらなくなった。そのうえ、とつぜんおそってきた疲労の原因を、空腹のためと解釈したからである。彼は黒いきたない片すみの、ねばねばするテーブルの前に陣どってビールを命じ、むさぼるように最初の一杯に飲み干した。と、たちまち気持ちがすっかり落ちついて、考えがはっきりしてきた。『こんなことは何もかもばかげてる』と彼はある希望を感じながらひとりごちた。『気にやむことなんかちっともありゃしない! ただからだのぐあいがわるくなってるだけなんだ! わずか一杯のビールと、乾パンひと切れで――もうこのとおり、たちまち頭はたしかになる、意識ははっきりする、意志も強固になる! ちょっ、何もかもじつにばかげてるわい!………』が、こうしてばかにしたような唾棄《だき》の態度をとってはみたものの、彼はなにか恐ろしい重荷から急に解放されたように、急に様子がはればれしてきた。そして人なつかしげに一座の人々を見まわした。しかし彼はこの瞬間でさえ、物事をよいほうに取ろうとするこの感受性も、やはり病的なものだということをかすかに予感していた。
 このとき酒場にはあまり人がいなかった。階段で出会ったあのふたりの酔漢《よいどれ》のあとから、女をひとり連れて手|風琴《ふうきん》をたずさえた五人組の連中がどやどやと出て行ったので、あとは静かにゆったりとなった。あとに残ったのは――ビールを前に腰かけているほろ酔いの町人|体《てい》の男と、シベリヤふうの帽子をかぶり、灰色のあごひげをはやした、大柄なふとった連れの男だった。連れの男はひどく酔いがまわって、ベンチの上でうとうとしながら、ときどき夢うつつで急に指をぱちりと鳴らし、両手を左右にひろげて、ベンチから身を起こそうともせず、上半身ではねあがるようなかっこうをした。それといっしょに、文句を思い出そうとあせりながら、ばかげた歌をうたうのであった。

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まるまる一年、女房をかわいがったよう……
まあるまる一年、女房をかわいがったよう!………
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 かと思うと、急にまた目をさまして、

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ポジヤーチェスカヤを歩いていると
もとのなじみに出え会った……
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 けれど、だれひとり彼の幸福に共鳴するものはなかった。無口な連れの男は、こうした感興の突発をむしろ敵意ありげな、うさんくさい目つきでながめていた。そこにはもうひとり、退職官吏らしい男がいた。びんを前にひかえて、ときどきぐっと一口のんでは、あたりを見まわしながら、ひとりぽつねんと座をしめている。彼もどうやら興奮しているようであった。

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 ラスコーリニコフはがやがやした場所になれていなかったので、前にも述べたとおり、すべて他人《ひと》といっしょになるのを避けていたし、ことに最近はそれがひどかった。ところがこの時は、とつぜん急に人なつかしい気持ちになった。何か新しいあるものが彼の心中におこり、それとともに、人間にたいする一種の渇望《かつぼう》が感じられたのである。彼はまるひと月というもの、あのこり固まった憂愁と暗い興奮に疲れはてて、たとい一分間でも、どんな所であろうと、違った世界で休息したかった。で、不潔をきわめた環境にもかかわらず、彼は満足してこの酒場に腰をすえた。
 店の亭主は別室にいたが、どこからか段々を伝わって、ちょいちょい店のほうへおりて来た。そのたびに、まず何より先に、大きな赤い折り返しつきの、墨をてかてか塗ったしゃれた長ぐつが現われた。彼は半|外套《がいとう》を着こみ、恐ろしく油じみた黒じゅすのチョッキにネクタイなしでいたが、その顔ぜんたいが油でてらてらしている鉄の錠前みたいであった。帳場の向こうには十四ばかりの小僧がいたが、そのほかにもひとり、注文があると品物を運ぶ年下の子供がいた。そこには小さなきゅうりと、黒い乾パンと、小さく切った魚がおいてあって、それが恐ろしくぷんぷんにおった。店の中は息ぐるしく、じっとすわっていられないほどだった。それに、何もかも酒の香《におい》がしみこんで、その空気だけでも、五分もたったら酔ってしまいそうに思われた。
 この世には、一面識もない人でありながら、口もきかぬ先から急に一目みただけで興味を感じだすという、一ぷう変わった邂逅《かいこう》があるものである。やや離れて陣どっている退職官吏らしい例の客が、ちょうどそういったような印象をラスコーリニコフに与えた。青年はその後いくたびかこの第一印象を思いおこして、それを虫のしらせだとさえ思った。彼はたえず官吏のほうをながめた。むろんそれは、先方でも彼をじっと見つめて、話がしたくてたまらないらしいのが、ありありと見えていたからでもある。そこにいあわせたほかの者にたいしては(亭主をもひっくるめて)、官吏はなれっこになった様子で、さもあきあきしたというような態度をとっていた。またそれと同時に、一種|傲慢《ごうまん》な軽蔑《けいべつ》の色さえうかべて、てんから相手にならぬほど低い階級の教養に欠けた連中をあしらうようなそぶりを見せていた。それはもう五十を越した、中背のがっしりした体格の男で、白髪頭に大きなはげがあった。年じゅう酒びたりになっているために、ふやけたようなその顔は、黄色というよりはむしろ青みがかった色をしている。はれぼったいまぶたの奥から、小さい裂けめのような、とはいえ、いきいきとした赤い目が光っていた。けれど、この男には一種きわめて不可思議《ふかしぎ》なところがあった。ほかでもない、彼のまなざしには感激らしいものすら輝いているのだ。――おそらく思慮も分別もあったかもしれない――しかし、またそれと同時に、気ちがいめいたひらめきもあった。彼はぼろぼろに破れて、ボタンもとれてしまった黒の燕尾服《えんび》を着ていた。ボタンはたった一つだけ、どうにかこうにかくっついていたが、いかにもたしなみを捨ててしまうまいとするように、それをきちんとかけていた。ナンキンもめんのチョッキの下からはよごれてしわくちゃの、おまけに酒のしみだらけになったシャツのえりがはみ出している。顔は官吏ふうにそりあげてあったが、それもだいぶ前のこととみえ、鳩羽《はとば》色のこわそうな毛がもしゃもしゃと伸びかけている。それに、全体の物腰には、じっさい、どことなくどっしりとした官吏ふうなところがあった。けれど彼はそわそわした様子で、しきりに頭の毛をくしゃくしゃかき散らし、ときどき悩ましげに、ぬれてべとべとするテーブルの上に、ひじの抜けた両腕を突っぱるのであった。とうとう彼はまともにラスコーリニコフを見すえて、大きな声で、きっぱりと言葉をかけた。
「ぶしつけですが、あなた一つ上品な話の相手になっていただけますまいか? お見受けしたところ、ご様子はあまりぱっとしておいでにならんが、わたしは年の功でもって、あなたが教育のある人で、酒類にはあまりなれておられんように想像しますが。わたしもつねづねから、誠意を兼ね備えた教養を尊重しているもので、九等官マルメラードフ――こういう姓なんで、九等官ですよ。あなたは、失礼ですが、お勤めですかな?」
「いや、勉強中です……」と青年は答えた。相手の一種特別なくだくだしい話しぶりと、あまりまともに押しづよく呼びかけられたのに、いささか面くらって、つい今の今まで、どんな人とでも話してみたいと思っていたにもかかわらず、さていよいよほんとうに言葉をかけられると、たちまちいつもの不愉快な、いらだたしい嫌悪《けんお》の情に襲われた。それは彼の個性に触れるか、あるいは触れようとする、すべての他人に