京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

検証1-5 1995年3月18日~3月20日の麻原彰晃(松本智津夫)の動向――『オウム法廷』第5巻より(追記あり)

(以下、敬称略。原則として、名前はあいうえお順)

麻原彰晃松本智津夫)の動向、およびその根拠となる証言

1995年3月18日午前2時ころ、上九一色村へ帰るリムジンの中で、村井秀夫、井上嘉浩、遠藤誠一青山吉伸、I(教団幹部)と相談(いわゆる「リムジン謀議」)。
(第5巻収録の証言には、この場面の時刻について書かれていない)
1995年3月20日午前2時ころ、第六サティアン1階の麻原(松本)の部屋に、井上嘉浩が自作自演事件についての報告にきた。このとき麻原(松本)は、「なんでお前(井上)は勝手にうごくんだ」などと言った。少し後に村井秀夫が、さらにその後に遠藤誠一がきた。このとき麻原(松本)は「ジーヴァカ、この中に(サリンが)入ってるんだろ」などと言った。
(第5巻収録の証言には、この場面の時刻について書かれていない)
1997年7月2日、井上嘉浩、新実智光公判、井上嘉浩への弁護側反対尋問、第5巻P88-96
1997年10月23日、井上嘉浩、林泰男第4回公判、井上嘉浩への弁護側反対尋問、第5巻P246

1995年3月18日未明(日の出ころと記憶されている)、第六サティアン3階の村井の部屋で、村井秀夫から林郁夫、豊田亨林泰男広瀬健一横山真人に「サリンをまく」という話がされた。このときの村井の話の中に、「麻原(松本)とサリンをまく方法について相談した」という内容がふくまれていた。
1995年3月20日午後6時~7時ころ、第六サティアン1階の麻原(松本)の部屋に、新実智光、杉本繁郎、林泰男が報告にきた。このとき麻原(松本)は、「君たちはこれから瞑想しなければいけない。今から言う詞章を唱えなさい。グルとシヴァ大神とすべての真理勝者方に祝福され、ポアされてよかったね。これを一万回、唱えなさい」などと言った。
1997年11月5日、林泰男新実智光第24回公判、林泰男への検察側主尋問、第5巻P246、P283、P306-307


〇引用
5巻

P88-96(ほとんど省略した)

 ――お前、もういい、と麻原さんに言われて、あなたはホッとしたか。
「それもある。サボったり、やらなかったとき、馬鹿にすることは支部活動でもあった。それと同じ感覚です」
 ――お前は役立たずだ、ということを言われることは、あなたの経験からいうと。
「それはよくあった。しかし、信仰とは関係ないです」
 ――麻原さんは当初、総指揮はあなたにと考えていたと聞こえるが。
「そうですね」
 ――結局村井さん(秀夫元幹部)が総指揮になって、完全にこれで逃れたということになったのか。何らかの役割があったのではないか。
「リムジンの流れでサリン(事件が起きた)と考えていいが、リムジン内では決まらなかった、と思っている。指示がなかったので」
 ――しかし、村井さんが総指揮でやれと決まったんじゃないですか。
「そのあとに、強制捜査が来るか、という話になったので、その場では決まっていない」
 ――そのとき決まったんでしょ。
「私の認識では決まっていない」
 ――するといつ地下鉄に撒く、と決まったのか。
「朝、村井さんから言われたとき。サリンは科学技術省のメンバーでやる、と指示されたときに知った」
(裁判長)
 ――あなたが認識したのはそのときだ、という趣旨か。
「そうです」
(略)
 ――なぜ、勝手に動く、と(事件前夜に松本被告から)怒られたのか。村井と実行役の連絡がうまく取れなかったからか。
「やっと連絡が取れた、というのと、一時間で来るという二つの言葉から考えると、村井さんが連絡を取ろうとして取れなかったことを叱られたとき、私の名前を挙げて説明したということです」
 ――現場責任者なのに、現場から離れてけしからんということではなかったのか。
「それはありません」
 ――人間、二つのことは同時に出来ないと麻原さんに言われた。
松本智津夫氏の言うことがピンとこなかった。もともとサリンをするつもりはないので」
 ――勝手に動く、と怒られたのはなぜか。
「過去にもあるが、私の名前を使って村井さんが(自分に都合のいいように)報告をしたことがある。他にもあって、いつも私が怒られている」
(略)


P246

 ――午前一時半に村井から電話があって、上九に戻れと言われたので、泰男君は井上君に待つようにと言われていると言って断ると、村井は、「アーナンダ(井上被告の宗教名)は関係ない、俺の指示に従って早く来い」と言われたと言っているが。
「お前はなんで勝手に動くんだ、と僕が松本氏に怒られたくらいです」
 ――松本公判(での証言)では、なんのことか分からないが、村井が「やっと(実行役と)連絡が取れました、一時間ちょっとで到着します」と報告し、あなたは「人間、同時にたくさんのことは出来ないんだ」と麻原から怒られたという、このことか。
「その一連の話です」
 ――何を怒られたか理解出来るか、今は。
「松本氏の反対尋問かどこかで同じようなことを説明したと思う」
 ――村井の事件の指示に反した、という記憶があるか。
「僕はそういう記憶は一切ない」
 ――第七サティアンでビニール袋を突く練習をした場面は。
「ほとんど見ている。十一袋あったことも」


P279、283、306-307

地下鉄サリン事件 林泰男被告の証言】
 ●検察側主尋問
(略)
 ――そもそも発端は何か。
「村井さんから話を聞いたことです。九五年三月十八日の未明というか、明け方に近い。第六サティアンの私の部屋または私の部屋の前の廊下で声をかけられた。『後で話があるから私の部屋に来るように』と言われた。その時点では説明がなかった。その後で、村井の部屋で詳しい内容を聞いた。村井の部屋は私と同じ第六サティアン三階で、廊下を挟んで反対側の位置にある。部屋に行ったときにいたのか、後から来たのか覚えていないが、村井の部屋には最終的には、林郁夫さん、広瀬健一君、横山真人君、それに私と村井さんが集まった。部屋に五人が入るとかなり狭く、普通はあぐらをかくが、このときは正座をしていた。村井さんの方から、私たちに向かって、君たちにやってもらいたいことがある、と切り出した。具体的には、サリンを撒いてもらいたい、いうことを言った。地下鉄に、という言葉はあった、と思う」
 ――何のためか、という話があったか。
「あった。強制捜査の妨害、または阻止という話だった。僕の記憶では、そこに集められた四人のメンバーと豊田君(亨被告)で撒くように、ということだった」
 ――どこに撒くと理解したか。
「自分は東京の地下鉄と思った。最初どう思ったか明確ではないが、車内に、ということはその後、すぐに分かった」
(略)
 ――麻原の意向と言ったが、村井の独自の判断ではないということか。
「私はそのようにとりました」
 ――根拠は。
「おそらくそのとき、これはグルからの指示であるということをにおわせる態度があったと思うが、明確に覚えていない。それ以外に実行役の科学技術省の四人(林泰男被告と、豊田亨広瀬健一横山真人各被告は全員が科学技術省の次官である=筆者注)にとっては、村井の指示イコール麻原の指示ということがあった。その他に(治療省の)大臣である林郁夫さんがいたが、麻原の指示と明言しないと林郁夫さんが(組織上同列の大臣である)村井の指示をそのまま受け入れることは考えられない。承諾後サリンを撒く方法についての話があり、その朝村井と麻原が相談した内容の説明があったので、間違いなく麻原の指示と思った」
(略)
「その後で、食事に行った。甲州街道沿い日野方面のファミリーレストランで食事をした。レストランに入る以前に、死者が出ていることをラジオ放送で聞いた。申し訳ないという思いでいっぱいだった。レストランの食事の最中は、そういう結果があって、自分はボーっとした状態だったが、それなりに話を交わしていたんじゃないかと思う。最後に麻原のところへ報告に行かなければ、という話になった。新実さんから、どこかサウナにでも行こうかという話があったが、杉本君が、それはまずい、先に尊師に報告した方がいいんじゃないか、と言ったので報告することになった。被告人(新実被告)の言ったことは理解出来るような、聞いていて理解出来ないことではない、普段と変わらない言い方、と言ったら悪いが、軽い感じだった。実際どう思っていたかは分からない。井上君と運転手は東京の自分のワークに戻るということだった。時間は覚えていない。暗くなっていた。六時から七時ころに上九に戻り、麻原の自宅に向かった」
 ――なぜ報告に行ったか。
「(事件が)もともと麻原の命令とされていて、それが終わった。その理由で自分たちの犯行の結果を含めて報告の必要があると思っていたからです。麻原の自宅のある第六サティアンの自室に行った。新実、杉本、私の三人で行った。部屋に入ってすぐ、ホーリーネームを名乗った。横に並んで座った。報告の内容ははっきり覚えていないが、新実さんが、被害が出ている、死者も出ていると報告した。麻原はそれへの答えかどうかわからないが、『いいな、これはポアだからな』とマントラを唱えるよう指示した。『グルとシヴァ大神と真理勝者方にポアされてよかったね』を一万回唱えるということだった。そのときおはぎと、もしかしたらジュースを、三人全員がもらった」

〇補足
この巻あたりから、井上嘉浩がきびしい弁護側尋問をうけている。
一点指摘しておくと、弁護側は、なぜ1995年3月20日午後6時ごろ、井上嘉浩が新実智光、杉本繁郎、林泰男と別れたのか、聞いていない(P306-307の場面)。井上嘉浩には、麻原(松本)に報告してから東京に戻るという選択肢もあった。それを排除する理由がよくわからない。
また、P140-148に、地下鉄サリン事件関連の実行犯5人(新実智光、外崎清隆、遠藤誠一土谷正実中川智正)の調書が一部引用されている。





2020年4月12日追記

遠藤誠一の調書に、遠藤と麻原(松本)が会った記述があった。別の巻に遠藤自身もっとくわしい証言があるので、ここでは引用だけする。

P142-145

遠藤誠一被告〕
 三月十七日夜、尊師の家に呼ばれ、ステージ昇進のお祝いがあるので、識華(教団経営の東京都杉並区高円寺にあった飲食店)へ行った。尊師のご家族のほか、村井、井上、I(教団法皇官房の実質的トップ)らがいた。(会合を終えて)ロールスロイスで上九へ戻る車中、三人ずつで向かい合って座っていたが、マンジュシュリー正大師(村井元幹部)の肩越しに尊師が「ジーヴァカ(遠藤被告)、サリンを作れるか」と言った。それまでの話は聞いていなかったが、厚生省のメンバーで出来るか、という意味だと思い、クシティガルバ師(土谷被告)が教えてくれるのとその他の条件がそろえば出来ます、と答えた。
(略)
 そこでマンジュシュリー正大師のところへ行って、どうしたらいいか、と尋ねた。分留には半日から一日かかるので二十日の夜までかかってしまうということだったからだ。それから尊師のところへ行き、「出来ましたが、混合物です」と言うと、「いいよ、それで」と言った。


〇補足