京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P426-433   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

譲ってやるんだよ。僕はその二人のものにこう言ってやる、無事においで、僕のそばを通り抜けておいで、僕は……」
「君は?」
「もうたくさん、出かけよう。」
「本当に、もう誰かに言わなくちゃならない(とペルホーチンは相手を見つめながら)、君をあそこへやっちゃ駄目だ。何だっていま時分モークロエヘ行くんです?」
「あそこに女がいるんです、女が。しかし君、もうたくさんだよ、ペルホーチン君、もうこれでおしまいだ!」
「ねえ君、君は野蛮な人間だ、が、僕はいつも君という人が気に入っているんです……だから、僕はこのとおり心配でたまらない。」
「有難う。君は僕のことを野蛮だと言ったが、人間はみんな野蛮だよ、野蛮人だよ! 僕はただこれ一つだけ断言しておく、野蛮人だ! ああ、ミーシャが帰って来た。僕はあの子のことを忘れていた。」
 ミーシャは両替えした金の束を持って、せかせかと入って来た。そして、プロートニコフの店では『みんなが騒ぎだして』酒の罎や魚や茶などを引っ張り出している、今にすっかり支度がととのうだろうと、報告した。ミーチャは十ルーブリの札を取り出して、ペルホーチンに渡し、いま一枚をミーシャの手に握らした。
「それは失礼ですよ!」とペルホーチンは叫んだ。「僕の家でそんなことはさせません。かえって悪い癖をつけるばかりです。その金をお隠しなさい。そこへ入れたらいいでしょう。何もそんなに撒き散らすことはありませんよ。早速あすにもその金が役に立つかもしれやしない。そんなことをすると、今にまた僕のところへ、十ルーブリ貸してくれなどと言って来るんだから。何だって君は金をわきのかくしにばかり突っ込むんです? いけません、おっことしますよ!」
「ねえ、君、一緒にモークロエヘ行かない?」
「僕が何のためにそんなところへ行くんです?」
「じゃね、君、いますぐ一本抜いて、人生のために乾そう[#「乾そう」はママ]じゃないか! 僕は一口のみたくなった。が、しかし、何より一ばん好ましいのは、君と一緒に飲むことだ。僕と君と一緒に飲んだことは、まだ一度もないね、え?」
「じゃ、料理屋でやったらいいでしょう。出かけましょう。僕もこれから行こうかと思ってたところなんだから。」
「料理屋へ行ってる暇はない。そんならプロートニコフの奥の間にしよう。ところで、なんなら、僕はいま君に一つ謎をかけてみようか。」
「かけてみたまえ。」
 ミーチャはチョッキのかくしから例の紙切れを取り出して、ひろげて見せた。それにはくっきりとした大きな字で、次のように書いてあった。
『全人生に対してわれみずからを刑罰す、わが生涯を処罰す!』
「本当に僕は誰かに言いますよ。これからすぐ行って知らせますよ。」ペルホーチンは紙切れを読み終ってこう言った。
「間に合わないよ、君、さあ、行って飲もう、進めっ!」
 プロートニコフの店はペルホーチンの住まいから、ほとんど家一軒しか隔てていない通りの角にあった。それは金持の商人が経営している、この町でも一ばん大きな雑貨店で、店そのものもなかなか悪くなかった。首都の大商店にある雑貨品は、どんなものでもおいてあった。『エリセーエフ兄弟商会元詰め』の葡萄酒の罎、果物、シガー、茶、砂糖、コーヒー、そのほか何でもある。店先にはいつも番頭が三人坐っていて、配達小僧が二人走り廻っている。この地方は一般に衰微して、地主らはちりぢりになり、商業は沈滞してしまったけれど、雑貨の方は依然として繁昌するのみか、年々少しずつよくなってゆくくらいであった。こういう商品に対しては、客足が絶えないからである。店では今か今かと、ミーチャを待ちかねていた。店のものは三四週間まえ、彼がやはり今度と同じように、一時にありとあらゆる雑貨品や酒類を、現金何百ルーブリかで買い上げたことを、憶えすぎるほどよく憶えていた(むろん、かけ売りならミーチャに何一つ渡すはずがない)。その時も今度と同じように、虹色札の大束を手にひん握って、何のためにこれほどたくさんの食料や酒が必要なのか、ろくろく考えもせず、また考えようともしないで、べつに値切ろうとするふうもなく、やたらに札びらを切ったことも、彼らはよく憶えている。
 当時、彼はグルーシェンカと一緒にモークロエヘ押し出して、『その夜と次の日と、僅かこれだけのあいだに、三千ルーブリの金をすっかりつかいはたし、この豪遊の帰りには赤裸の一文なしになっていた』と、こんな噂が町じゅうにひろがったのである。彼はその時、この町に逗留していたジプシイの一隊を総あげにしたが、その連中は二日の間に、酔っ払っているミーチャから勘定も何もなく、めちゃめちゃに金を引っ張り出し、高価な酒をがぶ呑みに飲んだとのことである。人々は、ミーチャがモークロエで穢らわしい百姓どもにシャンパンを飲ましたり、田舎の娘っ子や女房どもに、ストラスブルクのパイやいろいろの菓子を食べさせたりしたと言って、笑いながら噂しあっていた。またミーチャ自身の口から出た、人まえはばからぬ大っぴらなある一つの告白をも、人々は同様笑い話の種にしていた。ことに料理屋ではそれがなおひどかった(しかし、面と向って笑うものはなかった。面と向って笑うのは、少々危険であった)。ほかでもない、こんな無鉄砲なことをして、彼がグルーシェンカから得たものは、『女の足を接吻さしてもらっただけで、それよりほかは何も許してもらえなかった』とのことである。
 ミーチャがペルホーチンとともに店へ近づいた時、毛氈を敷いて小鈴をつけた三頭立馬車《トロイカ》が、ちゃんと入口に用意されて、馭者のアンドレイがミーチャを待ち受けていた。店の中ではもうほとんど品物を一つの箱に詰め終って、ただミーチャさえやって来れば、すぐ釘を打って車に積めるようにして待っていた。ペルホーチンはびっくりして。
「おや、一たい今の間に、どこから三頭立馬車《トロイカ》なぞ引っ張って来たの?」とミーチャに訊いた。
「君のとこへ走って行く途中、これに、アンドレイに出会って、さっそくこの店へ車を持って来るように、言いつけといたのさ。時間を無駄にすることはいらないからね! この前はチモフェイの馬車で行ったが、今度チモフェイは、妖姫と一緒に、僕より先につつうと飛んで行っちゃったんだ。おい、アンドレイ、だいぶ遅れるだろうな?」
「チモフェイはわっしらより、小一時間さきに着くくらいのもんでがしょう。まあ、それもおぼつかない話でがすが、とにかく一時間くらいしきゃ先にならんでしょうよ」とアンドレイは忙しそうに答えた。「チモフェイの車もわしが仕立ててやったんでがすよ。わっしはあいつの馬の走らせ方を知ってますが、あいつの走らせ方は、わっしらのたあまるで違ってまさあ、旦那さま。あいつなざあ、わっしの足もとにもよれやあしません。なに、一時間も先に着けるもんですか!」まだ血気さかんな馭者のアンドレイは、熱心にこう遮った。彼は髪の赤味がかった痩せた若い者で、身には袖なしを着け、手には粗羅紗の外套を持っていた。
「もし一時間くらいの遅れですんだら、五十ルーブリの酒手だ。」
「一時間なら大丈夫でがすよ。旦那さま、なに、一時間はさておき、三十分も先に着かしゃしませんよ。」
 ミーチャは何くれと指図をしながら、しきりにそわそわしていたが、話をするのも用を言いつけるのも、ものの言い方が妙にばらばらにこわれたようで、きちんと順序だっていなかった。何か言いかけても、締めくくりをつけるのを忘れてしまうのであった。ペルホーチンは自分でもこの事件に口をいれて、力を貸す必要があると感じた。
「四百ルーブリだぞ、四百ルーブリより少くちゃいかん。何から何まであの時のとおりにするんだぞ」とミーチャは号令をかけるように言った。「シャンパン四ダース、一罎欠けても承知しないから。」
「何だって君、そんなにいるんだい、一たい何にするの? 待て!」と、ペルホーチンは叫んだ。「この箱はどうした箱なんだ? 何が入ってるんだ。一たいこの中に四百ルーブリのものが入ってるのか?」
 忙しそうに往ったり来たりしていた番頭らは、さっそく甘ったるい調子で、この箱の中にはシャンパンが僅か半ダースに、ザクースカや果物やモンパンシエや、その他『口切りにぜひなくてはならない物だけ』入れてあるので、おもな『ご注文品』はあの時と同じように、ただ今さっそく別な馬車に積み込んで、やはり三頭立《トロイカ》で十分間に合うようにお送りします、と説明した。『旦那さまがお着きになってから、ほんの一時間ばかりだったころ、向うへ着くようにいたします。』
「一時間より延びちゃいかんぞ、きっと一時間より延びないように。そして、モンパンシエと飴を、できるだけよけいに入れてくれ、あそこの娘どもの大好物だから」とミーチャは熱くなって念をおした。
「飴――よかろう。しかし、君、シャンパン四ダースもどうするんだい? 一ダースでたくさんだよ!」ベルホーチンはもうほとんどむきになっていた。
 彼は番頭と談判したり、勘定書を出させたりして、なかなか黙っておとなしくしていなかった。しかし、全体で百ルーブリほど勘定を減らしただけである。結局、全体で三百ルーブリよりよけい品物を届けないように、というくらいのところで妥協してしまった。
「ええ、みんな勝手にするがいい!」急に考えを変えたらしく、ペルホーチンはこう叫んだ。
「僕に何の関係があるんだ? ただで儲けた金なら勝手に撒くがいいさ!」
「こっちへ来たまえ、経済家先生、こっちへ来たまえ、怒らなくてもいいよ」とミーチャは店の奥の間へ彼を引っ張って行った。「今すぐここへ罎を持って来るから、一緒にやろうじゃないか。ねえ、ペルホーチン君、一緒に出かけようじゃないか。だって君は本当に可愛い人なんだもの、僕は君のような人が好きさ。」
 ミーチャは編椅子の上に腰をおろした。前の小卓には汚れ腐ったナプキンが被せてあった。ペルホーチンはその真向いに座を占めた。シャンパンはすぐに運ばれた。「みなさん牡蠣はいかがでございます。ごく新しく着いたばかりの、飛切り上等の牡蠣でございますが」と店のものはすすめた。
「牡蠣なんか真っ平だ、僕は食べない、それに何もいりゃしないよ」とペルホーチンは、ほとんど噛みつくように毒々しく言った。
「牡蠣なんか食べてる暇はない」とミーチャは言った。「それに、ほしくもないよ。ねえ、君」と彼は突然、感情のこもった声で言いだした。「僕はこんな無秩序なことが大嫌いだったんだよ。」
「誰だってそんなものを好くやつはありゃしない! まあ、考えてもみたまえ、シャンパンを三ダースも百姓に買ってやるなんて、誰だって愛想をつかしてしまわあね。」
「僕の言うのはそんなことじゃない。僕はもっと高い意味の秩序を言ってるんだよ。僕には秩序というものがない、高い意味の秩序というものが……しかし、それもこれもみんなすんでしまった。くよくよすることはない、今はもう遅い、もうどうとも勝手にしろだ! 僕の一生は乱雑の連続だった、いよいよ秩序を立てなくちゃならん。僕は口合いを言ってるんだろうか、え?」
「寝言を言ってるんだよ、口合いじゃない。」

  世界の中なる神に栄《はえ》あれ
  われの中なる神に栄あれ!

 この詩はいつだったか、ふいに僕の魂からほとばしり出たんだ。詩じゃない、涙だ……僕が自分で作ったのだ……しかし、あの二等大尉の髯を捉まえて、引っ張った時じゃないよ……」
「何だって君、急にあの男のことなんか言いだすの?」
「何だって急にあの男のことを言いだすのかって? くだらんこったよ! 今にすっかり片がつく。今にすっかりなだらかになるよ! もうちょっとでけりがつくのだ!」
「まったく僕はどうも君のピストルが気がかりでならない。」
「ピストルもくだらんこったよ! とてつもないことを考えないで、飲みたまえ。僕は生を愛する。あまり愛しすぎて醜劣になったくらいだ。もうたくさんだ! 生のために……君、生のために飲もうじゃないか。僕は生のために乾杯を提言する!なぜ僕は自分で自分に満足してるんだろう? 僕は陋劣だけれど自分で自分に満足している。僕は自分が陋劣だという意識に悩まされてはいるけれど、しかし自分で自分に満足している。僕は神の創造を祝福する。僕は今すぐにも悦んで神と神の創造を祝福するが、しかし……まず一匹の臭い虫けらを殺さなくちゃならん、こそこそとその辺を這い廻って、他人の生活を傷つけないようにしなくちゃならん……ねえ、君、生のために飲もうよ! 一たい生より尊いものが、どこにある! 何もない、決してない! 生のために、そして女王の中の女王のために!」
「生のために飲もう、そしてまあ、君の女王のために飲んでもいい。」
 二人は一杯ずつ飲んだ。ミーチャは有頂天になってそわそわしていたが、何となく沈みがちな様子であった。ちょうど征服することのできない重苦しい不安が、目の前に立ち塞かっているかのようであった。
「ミーシャだ……ほら、君のミーシャがやって来た。ミーシャ、いい子だ、ここへ来い、そして明日の金髪のアポロのためにこの杯を乾してくれ……」
「君、何だってあの子に!」とペルホーチンはいらだたしげに叫んだ。
「まあ、大目にみてくれたまえ、ね、いいだろう、ね、僕こうしてみたいんだから。」
「ええっ、くそ!」
 ミーシャはぐっと飲みほして、一つ会釈すると、そのまま逃げ出してしまった。
「ああしといたら、長い間おぼえていてくれるだろう」とミーチャは言った。「僕は女が好きだ、女が! 女とは何だと思う? 地上の女王だ! 僕はもの悲しい、何だかもの悲しいよ、ペルホーチン君、君ハムレットを憶えているかい?『わしは何だかもの悲しい、妙にもの悲しいのだ、ホレーシオ……あわれ不憫なヨリックよ!』僕はあるいはこのヨリックかもしれない。ちょうどいま、僕はヨリックなのだ、髑髏《しゃれこうべ》はもっと後のことだ。」
 ペルホーヂンは黙って聞いていた。ミーチャもちょっと言葉を休めた。
「そこにいる君んとこの犬は何ていう犬だね?」とミーチャは、隅のほうにいる目の黒い、小さな可愛い狆に目をつけて、だしぬけにとぼけたような調子で番頭に訊ねた。
「これはヴァルヴァーラさまの、うちのお内儀さんの狆でございます」と番頭は答えた。「さっきこちらへ抱いていらしって、そのまま忘れてお帰りになったのでございます。お届けしなければなりますまい。」
「僕はちょうどこれと同じようなものを見たことがある……連隊でね……」とミーチャはもの案じ顔にこう言った。「ただ、そいつは後足を一本折られてたっけ……ペルホーチン君、僕はちょっとついでに訊きたいことがあるんだよ。君は今までいつか盗みをしたことがあるかい?」
「なんて質問だろう!」
「いや、ちょっと訊いてみるだけなんだ。しかし、誰かのかくしから人のものを取ったことがあるかと訊くので、官金のことを言ってるんじゃないよ。官金なら誰でもくすねてるから、君だってむろんその仲間だろう……」
「ええ、黙って引っ込んでたまえ。」
「僕が言ってるのは人のもののことだよ。本当にかくしか紙入れの中から……え?」
「僕は一度、十の時に、母の金を二十コペイカ、テーブルの上から盗み出したことがある。そろっと取って、掌に握りしめたのさ。」
「ふふん、それで?」
「いや、べつにどうもしないさ、三日の間しまっておいたが、とうとう恥しくなってね、白状して渡してしまった。」
「ふふん、それで?」
「あたりまえさ、擲られたよ。ところで、君はどうだね、君自身も盗んだことがある?」
「ある。」ミーチャはずるそうに目をぽちりとさした。
「何を盗んだの?」とペルホーチンは好奇心を起した。
「母の金を二十コペイカ、十の時だった、三日たって渡してしまった。」
 そう言って、ミーチャはとつぜん席を立った。
「旦那さま、もうそろそろお急ぎになりませんか?」ふいにアンドレイが店の戸口からこう叫んだ。
「できたか? 出かけよう!」とミーチャはあわてだした。「もう一つおしまいに言っとくことがある……アンドレイにウォートカを一杯駄賃にやってくれ、今すぐだぞ! それからウォートカのほかに、コニャクも一杯ついでやれ! この箱(それはピストルの入った箱であった)をおれの腰掛けの下へ入れてくれ。さようなら、ペルホーチン君、悪く思わないでくれたまえ!」
「だけど、明日は帰るんだろう?」
「きっと帰る。」
「ただいまお勘定をすましていただけませんでしょうか?」と番頭が飛び出した。
「勘定、よしきた! むろんするとも!」
 彼は、ふたたびかくしから紙幣《さつ》束を掴み出し、虹色のを三枚抜き取って、勘定台の上へ抛り出し、急ぎ足に店を出て行った。一同はその後につづいた。そして、ぺこぺこお辞儀しながら、有難うやご機嫌よろしゅうの声々で一行を送った。アンドレイはたったいま飲みほしたコニャクに喉を鳴らしながら、馭者台の上へ飛びあがった。しかし、ミーチャがやっと坐り終るか終らないかに、突然、思いもよらぬフェーニャが彼の目の前に現われた。彼女はせいせいと肩で息をしながら駆けつけると、声高な叫びとともに彼の前に両手を合せ、いきなりどうとその足もとへ身を投げ出した。 
「旦那さま、ドミートリイさま、後生ですから、奥さまを殺さないで下さいまし! わたしはあなたに何もかも喋ってしまって!………そうして、あの方も殺さないで下さいまし。だって、あの方は前からわけのあった人なんですもの! アグラフェーナさまをお嫁におもらいなさるつもりで、そのためにわざわざシベリヤからお帰りになったのでございます……旦那さま、ドミートリイさま、どうか人の命を取らないで下さいまし。」
「ちぇっ、ちぇっ、これで読めた! 先生これからあっちへ行って、ひと騒ぎもちあげようというんだな!」とペルホーチンはひとりごとのように呟いた。「今こそ、すっかりわかった、今こそ厭でもわからあな。ドミートリイ君、もし君が人間と呼ばれたかったら、今すぐピストルをよこしたまえ」と彼は大声でミーチャに叫んだ。
「ねえ、ドミートリイ君!」
「ピストル? 待ちたまえ、僕は途中、溝の中へ抛り込んじゃうから」とミーチャは答えた。「フェーニャ、起きなよ、おれの前に倒れたりするのはよしてくれ。ミーチャは殺しゃしない、この馬鹿者もこれからさき、決して誰の命もとりゃしない。おい、フェーニャ。」もう馬車の上に落ちついて彼は叫んだ。「おれはさっきお前に失敬なことをしたが、あれは赦してくれ、可哀そうだと思って、この悪党を赦してくれ。しかし赦してくれなくたってかまやしない! 今となってはもうどうだって同じことだ。さあ、やれ、アンドレイ、元気よく飛ばせ!」
 アンドレイは馬車を出した。鈴が鳴り始めた。
「さようなら、ペルホーチン! 君に最後の涙を呈するよ!……」
『酔っ払ってもいないんだが、なんてくだらないことばかり言ってるんだろう?』ペルホーチンは彼のうしろ影を見送りながらこう考えた。店のものがミーチャをごまかしそうに感じられたので、同じく三頭立の荷馬車に食料や酒類を積み込むところを監視するために、残っていようかとも考えたが、急に自分で 自分に腹を立てて、ぺっと唾を吐き、行きつけの料理屋へ玉突きに出かけた。
「馬鹿だ、おもしろい、いい男だけれど……」とみちみち彼はひとりごちた。「グルーシェンカの『もとの男』とかいう将校のことはおれも聞いていた。ところで、もし向うへ着いたら、その時は……くそっ、どうもあのピストルが気になる? ええ、勝手にしろ、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? あんなやつうっちゃっとけ。それに、何も起るようなことはあるまいよ。ただのから気焔にすぎないんだ。酔っ払って喧嘩して、喧嘩して仲直りするのがおちだ。あんな連中は、要するに実行の人じゃないんだ。あの『道を譲ってみずからを刑罰す』って何のこったろう、――なあに、何でもありゃしない! あの文句は、料理屋でも酔っ払った勢いで、何べんどなったかもしれやしない。が、今は酔っ払っていない。『精神的に酔っ払ってる』と言ったっけ、――なに、気どった文句を並べるのが好きなんだ、やくざ者、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのか? 実際、喧嘩したには相違ない、顔じゅう血だらけだった。相手は誰かしらん? 料理屋へ行ったらわかるだろう。それに、ハンカチも血だらけだった、――いまいましい、おれんとこの床の上へ残して行きゃあがった……ええ、もうどうだっていいや!」
 彼は恐ろしく不機嫌な心持で料理屋へ入ると、さっそく勝負を始めた。遊戯は彼の心を浮き立たした。二番目の勝負が終った時、彼はふと一人の勝負仲間に向って、ドミートリイ・カラマーゾフにまた金ができた、しかも三千ルーブリからあるのを自分で見た、そうして彼はまたグルーシェンカと豪遊をするために、モークロエをさして飛んで行った、という話をした。この話は思いがけないほどの好奇心をもって聴き手に迎えられた。人々は笑おうともせず、妙に真面目な調子で話し始めた。勝負まで途中でやめになってしまった。
「三千ルーブリ? 三千なんて金が、どこからあの男の手に入ったんだろう?」
 人々はそのさきを訊ねにかかった。ホフラコーヴァ夫人に関する報告は半信半疑で迎えられた。
「もしや、じじいを殺して取ったんじゃないかなあ、本当に?」
「三千ルーブリ! 何だか穏かでないね。」
「あの男おやじを殺してやると、おおっぴらで自慢らしく吹聴していたぜ。ここの人は誰でも聞いて知ってるよ。ちょうどその三千ルーブリのことを言ってたんだからなあ……」
 ペルホーチンはこれを聞くと、急に人々の問いに対してそっけない調子で、しぶしぶ返事するようになった。ミーチャの顔や手についていた血のことは、おくびにも出さなかった。そのくせ、ここへ来る時には、話すつもりでいたのである。やがて三番目の勝負が始まって、ミーチャの話もだんだん下火になった。しかし、三番目の勝負がすむと、ペルホーチンはもう勝負をしたくなくなったので、そのままキュウをおき、予定の夜食もしないで料理屋を出た。広場まで来た時、彼は自分で自分にあきれるくらい、思い迷った心持で立ちどまった。彼はこれからすぐフョードルの家へ行って、何か変ったことは起らなかったか、と訊ねる気になっているのに、ふと心づいた。『つまらないことのために(きっとつまらないことなんだ)、よその家を叩き起して、不体裁を演ずるくらいがおちだ。ちぇっ、いまいましい、一たいおれがあの男の伯父さんででもあるのかい。』
 恐ろしく不機嫌な心持で、彼はまっすぐに家のほうへ足を向けたが、突然フェーニャのことを思い出した。『ええ、こん畜生、さっきあの女に訊いてみたら』と彼はいまいましさに呟くのであった。『何もかもわかったのになあ。』すると、とつぜん彼の心中に、この女と話をして事情を知りたいという、恐ろしく性急で執拗な希望が燃え立った。とうとう彼は半途にして踵を転じ、グルーシェンカの住まっている、モローソヴァの家へ赴いた。彼は門に近づいて戸を叩いた。が、夜の静寂の中に響きわたるノックの音は、急にまた彼の熱中した心を冷まして、いらいらした気分にしてしまった。おまけに家の人はみんな寝てしまって、誰ひとり応ずるものがなかった。『ここでもまた不体裁なことをしでかそうというのか!』もう一種の苦痛を胸にいだきながら、彼はそう考えたが、決然として立ち去ろうともせず、急に今度は力まかせに戸を叩き始めた。往来一ぱいに反響が生じた。『これでいいんだ、なんの、やめるもんか、叩き起すんだ、叩き起すんだ!』戸の一撃ごとに、ほとんどもの狂おしいほど自分自身に対して怒りを感じ、同時にノックを強めながら、彼はこう呟いた。