京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P178-189   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

てふいに出かけて殺してしまったんですもの。殺したくはない、殺したくはないと言ってながら、だしぬけに殺したんですよ。つまりこういうふうに、殺すまいと思っていながら、つい殺してしまったという点で、あの人は赦されるんですわね。」
「でも、兄さんは殺しゃしなかったじゃありませんか」とアリョーシャはやや鋭い口調で遮った。彼は次第に不安と焦躁を感じてきた。
「それはわたしも知ってます。殺したのはあのグリゴーリイ爺さんですよ……」
「え、グリゴーリイが!」とアリョーシャは叫んだ。
「あれです、あれです、グリゴーリイですよ……ドミートリイに撲りつけられて、じっとそのまま倒れていたんですが、やがてそのうちに起きあがって、戸が開いているので入って行って、フョードルさんを殺したんですよ。」
「でも、それはなぜです、なぜですか?」
「つまりaffectを起したんですよ。ドミートリイさんに頭を撲られてから、こんど気がついた時affectを起してしまったのです。そして入り込んで殺したんですわ。あれは自分で殺したのじゃないと言いはってますが、それはたぶん覚えていないからでしょうよ。けれどね、もしドミートリイさんが殺したんだとすれば、かえってそのほうがよござんすわ、よっぽどよござんすわ。わたしはグリゴーリイが殺したんだと言いましたが、本当はやっぱりドミートリイさんが殺したに違いありません。そのほうがずっとずっとようござんすわ! あら、そりゃわたしだって息子が親を殺したのをいいと言うのじゃありませんよ。わたしそんなことを賞めやしません。それどころか、子供は親を大切にしなけりゃなりませんとも。でも、やっぱりあの人のほうがいいと思うわ。なぜって、もしそうだとすれば、あなたも悲しまなくっていいからですわ。だってあの人は意識を失って、――じゃない、意識はあっても自分か何をしているかわきまえずに殺した、と言えるからですよ。きっと、きっとあの人は赦されますよ。それが人道というものですからね。そして、みんなに新裁判の恩恵を知らせてやったほうがよござんすよ。わたしは少しも知らなかったんですけれど、人の話では、それはもうとっくの昔からそうなんだそうですね。わたし、昨日そのことを聞いた時、もう本当にびっくりしちゃって、すぐにあなたのとこへ使いを出そうと思ったほどでしたよ。それからね、もしあの人が赦されたら、わたしあの人を法廷からすぐに宅の晩餐会へお招きしますわ。知合いの人たちを呼んで、みんなで新しい裁判のために乾杯しようと思うんですの、わたしあの人を危険だなんて思いません。それに、うんと大勢お客を呼びますから、あの人が何かしでかしても、すぐいつでも引きずり出すことができますわ。あの人はそのあとで、どこかほかの町の治安判事になるといいですね。だって、自分で不幸を忍んだものは、誰よりもよく人を裁きますからね。ですが、一たい今の世にaffectにかかっていない人があるでしょうか。あなたでもわたしでもみなかかっているんですわ。こんな例はいくらでもありますよ。ある人は腰かけて小唄《ロマンス》を歌っているうちに、とつぜん何か気に入らないことがあったので、いきなりピストルを取って、ちょうどそばに居合せた人を撃ち殺したんですって。でも、あとでその人は赦されたそうです。わたし近頃この話を読んだのですが、お医者さんたちもみんな証明していました。今お医者さんは誰でもそう言ってますわ、誰でもみんなそう言ってますわ。困ったことには、うちのリーザもやはりaffectにかかってるんですの。わたしは昨日もあれのために泣かされましたよ、一昨日も泣かされましたわ。ところが今日になって、あれはつまり、affectにかかっているのだってことに思いあたったんですの。ああ、ほんとにリーザには心配させられますよ! あの子はすっかり気がちがってるんだと思いますわ。なぜあれはあなたをお呼びしたんでしょう? あれがあなたを呼んだのですか、それとも、あなたのほうからあれのところへいらしたんでしょうか?」
「あのひとが呼んだのです。私はもうあちらへ行きましょう」とアリョーシャは思いきって立ちあがった。
「あら、ちょいとアリョーシャ、それが一ばん大切なところかもしれませんわ。」ふいにわっと声をあげて泣きだしながら、夫人はこう叫んだ。「誓って申しますが、私は心からあなたを信用して、リーザをおまかせします。あれがわたしに隠してあなたをお呼びしても、そんなことを何とも思やしません。けれど、お兄さんのイヴァン・フョードルイチには、そうたやすく自分の娘をまかせることができませんの。もっとも、わたしは今でもやはりあの人を、立派な男気のある青年と思っていますけれどね。まあ、どうでしょう、あの人はわたしの知らない間に、突然リーザに逢いに来たんですよ。」
「え? 何ですって? いつ?」アリョーシャはびっくりして訊いた。彼はもう腰をかけようともせず、立ったままで聞いていた。
「今お話しします。ことによったら、そのためにあなたをお呼びしたのかもしれません。もう何のためにお呼びしたか、わからなくなってしまったんですけど。こうなんですのよ、イヴァン・フョードルイチはモスクワから帰ってから、わたしのところへ二度ほど見えました。一度は知人として訪問して下すったのですけど、いま一度はつい近頃のことで、その時ちょうどカーチャが見えていたものですから、あの人はカーチャに逢うためにいらしたんですの。むろんわたしは、あの人がそれでなくても、非常にお忙しいことを知ってましたから、始終訪ねてもらいたいとも考えていませんの。Vous comprenez, cette affaire et la mort terrible de votre papa.(おわかりでしょう、あの事件と、それにあなたのお父さんの恐ろしいご最後) ところがね、あの人がまたふいに訪ねてらしったんですの、それも、わたしのほうじゃなくって、リーザなんですの。これはもう六日も前のことで、五分間ばかりいてお帰りになったそうですが、わたしはその後三日もたってから、グラフィーラから聞いたもんですから、本当にだしぬけで、びっくりしましたわ。で、すぐリーザを呼びますと、あの子は笑ってるんですの。そしてね、あの人はわたしが臥《ふせ》っていると思ったので、リーザのとこへ容態を訊ねに来たのだと、こう言うんです。それはむろんそうだったんでしょう。ですけど、一たいリーザは、リーザは、ああ、神様、あれはどんなにわたしに心配をかけることでしょう! 考えてもごらんなさい、ある晩とつぜん、――それは四日前のことで、この間あなたが来てお帰りになるとすぐでしたわ、――あれは夜中にとつぜん発作を起して、喚くやら唸るやら、それはひどいヒステリイを起したんですの! 一たいどうしてわたしは一度もヒステリイを起したことがないのでしょう。ところが、リーザはその翌日もまたその翌日も発作を起して、とうとうきのうのaffectになったんですの。だしぬけに『あたしはイヴァンさんを憎みます、お母さん、あの人を家へ入れないで下さい、家へ入るのを断わって下さい!』って喚くじゃありませんか。わたし本当に度胆を抜かれてぼっとしながら[#「ぼっとしながら」はママ]、そう言いましたの。あの立派な青年紳士の訪問をどう言って断わることができますか。あの人はあんなに学問があって、おまけにあんなに不幸な身の上なんですもの。なぜって、あんなごたごたは何といっても不幸で、決して幸福じゃありませんからね、そうじゃありませんか? ところが、あれはそれを聞いて、からからと笑うんですの。それがねえ、さもさも馬鹿にしたような笑い方なんですのよ。でも、わたしは、まあ笑わせてよかった、これで発作もなおるだろう、と思って喜びましたわ。それに、お兄さんのほうは、わたしに断わりもなくあれを訪問したり、妙なことをなさるなら、そのわけを訊いて、きっぱり出入りをお断わりするつもりでしたの。ところが、今朝リーザは目をさますと、だしぬけにユリヤに腹を立てて、まあ、どうでしょう、平手で顔を打つじゃありませんか。なんて恐ろしいことでしょう。わたしは自分の女中でも、『あなた』と呼んでるんですもの。すると一時間もたつと、あれはユリヤの足を抱いて接吻するんですの。そして、わたしのところヘユリヤをよこして、もうお母さんのとこへは行かない、今後決して行こうと思わないと、こんなことを言わせるじゃありませんか、そのくせ、わたしがあれのとこへ足を引きずって行くと、あれはわたしに飛びついて、接吻したり泣いたりする。そうして、接吻しながら、いきなり一口もものを言わないで、ぷいと出て行ってしまうもんですから、わたし何のことだか、さっぱりわけがわかりませんの。わたしの大好きなアレクセイさん、わたし今じゃあなただけを力にしています、わたしの生涯の運命は、あなたの手の中にあるんですの。あなたリーザのところへ行って、あれから何もかもすっかり聞き取って下さいません? それができるのは、ただあなた一人だけですからねえ。それから帰って来て、わたしに、――この母親に話して下さいな、なぜって、あなたも察して下さるでしょうが、もしこんなことが長くつづいたら、わたし死ぬよりほかありません。死んでしまうか、それとも家を逃げ出すばかりですわ。わたしもう我慢ができないのです。今までずいぶん我慢し抜いてきましたが、その堪忍袋の緒だって切れるかもしれません、その時……その時が怖いんですよ。ああ、ペルホーチンさんがいらしった!」ピョートル・イリッチ・ペルホーチンが入って来たのを見ると、ホコラコーヴァ夫人[#「ホコラコーヴァ夫人」はママ]は急に顔を輝かしながら、こう叫んだ。「遅かったわね、遅かったわね! さあ、どうなすって、おかけなさいな、そして早く話して聞かせて下さい、わたしの運命を決して下さい。で、いかがでした、あの弁護士は?アレクセイさん、あなたどこへいらっしゃるの?」
「リーザのとこへ。」
「そう、では、忘れないでね。今わたしのお願いしたことを忘れないでね。わたしの運命がきまるんですからね、ほんとに運命が!」
「むろん、忘れやしません、もしできさえしたら……だが、なにしろこんなに遅くなっちまったので[#「なっちまったので」はママ]」とアリョーシャは出て行きながら呟いた。
「いいえ、ぜひぜひ帰りに寄って下さいよ。『もしできたら』じゃ駄目。でないと、わたし死んじまうわ![#「死んじまうわ!」はママ]」とホフラコーヴァ夫人は、アリョーシャのうしろから叫んだが、彼はもう部屋の外へ出てしまっていた。

   第三 悪魔の子

 アリョーシャがリーザの部屋へはいると、彼女は例の安楽椅子になかば身を横たえていた。それは、彼女がまだ歩けない時分に、押してもらっていたものである。彼女は出迎えに身を動かそうともしなかったが、ぎらぎら輝く鋭い目は、食い入るように彼を見つめた。その目はいくぶん充血したようなふうで、顔は蒼ざめて黄いろかった。彼女が三日の間に面変りして、やつれさえ見えるのに、アリョーシャは一驚を喫した。彼女は手をさし伸べようともしなかった。で、彼はこっちからそばへ寄って、着物の上にじっと横たわっている彼女の細長い指に、ちょっとさわった後、無言のままその前に腰をおろした。
「あたしはね、あなたが急いで監獄へ行こうとしてらっしゃることも」とリーザは鋭い口調で言いだした。「お母さんがあなたを二時間も引き止めて、たった今あたしやユリヤのことを、あなたにお話ししたことも知ってるのよ。」
「どうしてご存じなのです?」とアリョーシャは訊いた。
「立ち聴きしたのよ。あなた、何だってあたしをにらんでらっしゃるの? あたし、立ち聴きしたかったから、それで立ち聴きしたのよ。何にも悪いことなんか、ありゃしないわ。だからあたし、あやまらない。」
「あなたは何か気分を悪くしていらっしゃるんでしょう?」
「いいえいそれどころじゃない、嬉しくってたまんないのよ。たった今も三十ペン[#「三十ペン」はママ]から繰り返し、繰り返し考えたんですけどね、あたしあなたとのお約束を破って、あなたとご婚礼などしないことになったので、どんなにいいかしれないわ。あなたは夫として不向きよ。あたしがあなたのところへお嫁に行くでしょう、そして突然あなたに手紙を渡して、あたしが結婚してから好きになった人のところへ持って行って下さいと頼んだら、あなたはきっと持っていらっしゃるに違いないわ。その上、返事までも持って来て下さるでしょうよ。あなたは四十になっても、やっぱりそういう手紙を持って歩きなさるわ。」
 彼女は急に笑いだした。
「あなたはずいぶん意地わるだけれど、それと一緒に、どこか率直なところがありますね。」アリョーシャは、彼女にほお笑みかけた。
「あなたを恥しくないから、それで率直になれるのよ。あたしね、あなたが恥しくないばかりか、恥しがろうとさえ思わなくってよ。ええ、あなたをよ、あなたに対してよ。アリョーシャ、どうしてあたしはあなたを尊敬しないんでしょう? あたしはあなたをとても愛してるけど、ちっとも尊敬していないの。もし尊敬してれば、あなたの前で恥しくもなく、こんなことを言えるはずがありませんわ、ね、そうでしょう?」
「そうです。」
「じゃ、あたしがあなたを恥しがらないってことを、あなた本当になすって?」
「いいえ、本当にしません。」
 リーザはまた神経的に笑いだした。彼女はせきこんで早口に喋った。
「あたしね、監獄にいるあなたの兄さんのドミートリイさんへ、お菓子を送ってあげたのよ。ねえ、アリョーシャ、あなたは本当にいい方ねえ! だって、あなたはこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって許可を、あたしに与えて下すったでしょう。だから、あたしそのために、あなたを恐ろしく愛してるのよ。」
「リーザ、あなたはきょう何用で僕を呼んだのです?」
「あなたに一つ自分の望みをお話ししたかったからよ。あたしはね、誰かに踏みにじってもらいたいの。あたしと結婚をして、それからあたしを踏みにじって、あたしをだまして出て行ってくれればいいと思うわ。あたし仕合せになんかなりたくない!」
「それじゃ、混沌が好きになったんですね?」
「ええ、あたし混沌が大好きよ。あたし家なんか焼いてしまいたいのよ。あたしはこっそり匐い寄って、そっと家に火をつけるところを想像するのよ、ぜひそっとでなくちゃいけないの。みんな消そうとするけれど、家は燃えるでしょう。ところが、あたしは知ってながら黙ってるわ。ああ、なんてばかばかしい、なんて退屈なんだろう!」
 彼女は嫌悪の色を浮べながら、片手を振った。
「裕福な暮しをしてるからですよ」とアリョーシャは静かに言った。
「じゃ、一たい貧乏で暮すほうがよくって?」
「いいです。」
「それは亡くなった坊さんがあなたに吹き込んだことよ。それは間違ってるわ。あたしが金持で、ほかのものは貧乏だってかまやしないわ。あたし一人でお菓子を食べたり、クリームを飲んだりして、誰にもやりゃしない。ああ、まあ、聞いてらっしゃいよ、聞いて(アリョーシャが口を開けようともしないのに、彼女はこう言って手を振った)。あなたは以前もよく、そんなことを言ってきかせましたね。あたしはすっかり暗記しててよ。飽き飽きするわ。もしあたしが貧乏だとしても、誰かを殺してやるわ、また、たとえ金持だとしても、やはり殺すかもしれないわ、――とてもじっとしていられやしない! あたし刈り入れがしたいのよ。裸麦を刈りたいのよ。あたしあなたのとこへお嫁に行くから、あなたは百姓に、本当の百姓になるといいわ。あたしたら仔馬を飼うわ、よくって? あなたカルガーノフさんをご存じ?」
「知っています。」
「あの人はしょっちゅう歩き廻りながら、空想してるのよ。あの人が言うのには、人はなぜまじめくさって暮してるんだ、空想しているほうがよっぽどいい。空想ならばどんな愉快なことでもできるけど、生活は退屈なものだって、だけど、あの人はもうやがて結婚するわ。あたしに恋を打ち明けたんですもの。あなた独楽を廻せて?」
「廻せます。」
「あの人はちょうど独楽みたいな人よ。廻して投げて、鞭でぴゅうぴゅう引っぱたくといいのよ。あたしはあの人のところへお嫁に行って、一生涯、独楽のようにまわしてやるわ。あなたはあたしと一緒に坐ってるのが恥しくなって?」
「いいえ。」
「あなたは、あたしが神聖な有難いことを言わないので、ひどく怒ってらっしゃるのね。でも、あたし聖人なんかなになりたくないんですもの。人は自分の犯した一等大きな罪のために、あの世でどんな目にあうでしょう? あなたはよく知ってらっしゃるはずだわ。」
「神様がお咎めになります。」アリョーシャは、じっと彼女を見つめた。
「あたしもね、そうあってほしいと思うのよ、あたしがあの世へ行くと、みんながあたしを咎めるでしょう。ところが、あたしはだしぬけに、面と向ってみんなを笑ってやるわ。アリョーシャ、あたしは家を、あたしたちの家を焼きたくってたまんないのよ。あんた、あたしの言うことを本当になさらないでしょう?」
「なぜですか? 世間にはよくこんな子供がありますよ。十二やそこいらのくせに、しじゅう何か焼きたくってたまらないので、よく火をつけたりなんかするんです。それも一種の病気ですね。」
「嘘よ、嘘よ。そんな子供もあることはあるでしょうが、あたしそんなことを言ってるんじゃなくってよ。」
「あなたは悪いことといいこととを取り違えてるんです。それは一時的な危機ですが、つまり、以前の病気のせいかもしれませんね。」
「あら、あなたはあたしを軽蔑してらっしゃるのね! あたしはただ、いいことをしたくなくなって、悪いことがしたいのよ。病気でも何でもないわ。」
「なぜ悪いことをしたいんです!」
「どこにも何一つないようにしてしまいたいからよ。ああ、何もかもなくなったらどんなに嬉しいでしょう! ねえ、アリョーシャ、あたしはね、どうかすると片っ端から、めちゃくちゃに悪いことをしてやろうと思うことがあるの。長いあいだ人が気のつかないように悪いことをしていると、やがて人が見つけて、みんなあたしを爪はじきするでしょう。ところが、その時あたしは平気な顔をして、みんなを見かえしてやるわ。これがあたし、たまらなく愉快に思えるのよ。アリョーシャ、どうしてこれがそんなに愉快なんでしょう?」
「そうですね。それは何かいいものを圧し潰したいとか、または今あなたの言われたように、火をつけたいとかいう要求なんです。そういうこともよくあるものです。」
「あたし言うだけじゃないわ。本当にしてよ。」
「そうでしょうとも。」
「ああ、あたしはね、そうでしょうともと言って下すったので、本当にあなたが好きになっちゃったわ。だって、あなたは決して、決して嘘をおっしゃらないんですもの。でも、あなたはもしかしたら、あたしがあなたをからかうために、わざとこんなことを言うんだと思ってらっしゃるかもしれないわねえ?」
「いいえ、そうは思いません……しかし、ひょっとしたら、あなたは本当にそういう心持を、少しは持ってらっしゃるかもしれませんね。」
「ええ、少しばかりもってるわ。あたし決してあなたに嘘なんか言わないから」と彼女は異様に目を光らせながら言った。
 アリョーシャが何よりも驚いたのは、彼女の生まじめさであった。以前、彼女はどんなに『まじめな』瞬間でも、快活と滑稽味を失わなかったのに、この時の彼女の顔には、滑稽や冗談の影さえ見えなかった。
「人間には時として、罪悪を愛する瞬間があるものです」とアリョーシャは考え深い調子で言った。
「そうよ、そうよ! あなたはあたしの考えてることを言って下すったわ。人はみんな罪悪を愛しています、みんなみんな愛しています。いつも愛していますわ。あたしなんか『瞬間』どころじゃないことよ。ねえ、人はこのことになると、まるで嘘をつこうと約束でもしたように、みんな嘘ばかりついてるのよ。人はみな悪いことを憎むっていうけれど、そのじつ内証で愛してるんだわ。」
「あなたはやはり今でも、悪い本を読んでるんですか?」
「読んでますわ。お母さんが読んでは枕の下に隠してるから、あたし盗んで読むのよ。」
「よくまあ、あなたはそんなに自分を台なしにして、良心が咎めませんね?」
「あたしは自分をめちゃめちゃにしてしまいたいのよ。どこかの男の子は、体の上を列車が通ってしまう間、じっとレールの間に寝ていたそうじゃなくって、仕合せな子ねえ! ねえ、あなたの兄さんはお父さんを殺したために、いま裁判されようとしてるでしょう。ところが、みんなは、兄さんがお父さんを殺したのを喜んでるのよ。」
「親父を殺したのを喜んでるって?」
「喜んでるのよ、みんな喜んでるわ! みんな恐ろしいことだと言ってるけれど、その実とても喜んでるのよ。第一あたしなんか一番に喜んでるわ。」
「みんなのことを言ったあなたの言葉には、いくらか本当なところもありますね」とアリョーシャは静かに言った[#「言った」はママ]
「ああ、あなたは何という考えをもってらっしゃるんでしょう!」リーザは感きわまって、こう叫んだ。「しかも、それが坊さんの考えることなんですもの! アリョーシャ、あなたは本当に、決して嘘をおっしゃらないわね、だから、あたしあなたを尊敬するのよ。ねえ、あたし自分の見た滑稽な夢をお話ししましょうか。あたしはね、どうかすると悪魔の夢を見ることがあるのよ。何でも、夜中にあたしが蠟燭をつけて居間にいると、だしぬけに、そこいらじゅう一ぱい悪魔が出て来るの、部屋のすみずみだのテーブルの下などにね、そして戸を開けようとするのよ。戸の陰には悪魔がうようよしていて、入って来てあたしを摑みたがってるのよ。やがてそろそろ寄って来て、今にもあたしを摑もうとするから、あたし急にさっと十字を切ると、みんな後へ引きさかって、びくびくしているのよ。けれど、すっかり帰ってしまおうともせず、戸のそばに立ったり、隅っこにしゃがんだりして待ってるの。するとね、あたしだしぬけに大きな声をあげて、神様の悪口が言いたくなったので、思いきって悪口を言いだすと、悪魔たちはすぐまたどやどやと、あたしのほうへ押し寄せて来て、大喜びであたしを捕まえようとするじゃありませんか。そこで、あたしがまた急に十字を切ると、悪魔たちはみんな後へさがってしまう。それが面白くって、面白くって息がつまりそうなくらいだったわ。」
「僕もよくそれと同じ夢を見たことがあります」とアリョーシャはふいにそう言った。
「まさか」とリーザはびっくりして叫んだ。
「ねえ、アリョーシャ、冷やしちゃいやよ[#「冷やしちゃいやよ」はママ]、これは大へん重大なことなんですからね。だって、まるで違った二人のものが同じ夢を見るなんて、そんなことあるもんでしょうか?」
「確かにありますよ。」
「アリョーシャ、本当にこれはとても重大なことなのよ」とリーザはなぜかひどく驚いた様子で、言葉をつづけた。「重大っていうのは夢のことじゃなくって、あなたがあたしと同じ夢を見たっていう、そのことなのよ。あなたは決して、あたしに嘘なんかおっしゃらないわね。だから今も嘘ついちゃいやよ、――それは本当のことなの? あなた冷やかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「本当のことです。」
 リーザはひどく何かに感動して、ややしばらく黙っていた。
「アリョーシャ、あたしのとこへ来て下さいね、しじゅう来てちょうだいね」と彼女は急に哀願するような声で言った。
「僕はいつも、一生涯あなたのとこへ来ますよ。」アリョーシャはきっぱりと答えた。
「あたしあなた一人だけに言うんですけどね」とリーザはまた言いはじめた。「あたしは自分一人と、それからあなただけに言うのよ。世界じゅうであなた一人だけに言うのよ。あたし自分に言うよか、あなたに言うほうがよっぽど楽だわ。あなたならちっとも恥しくないの、それこそちっとも。アリョーシャ、どうしてあなたがちっとも恥しくないんでしょう。え? ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人は復活祭に子供を盗んで来て殺すんですってね、本当?」
「知りませんね。」
「あたしは何かの本で、ある裁判のことを読んだのよ。一人のユダヤ人が四つになる男の子を捕まえて、まず両手の指を残らず切り落して、それから釘で壁に磔《はりつけ》にしたんですって。そして、あとで調べられた時、子供はすぐ死んだ、四時間たって死んだと言ったんですって、四時間もかかったのに、すぐですとさ。子供が苦しみぬいて、唸りつづけている間じゅう、そのユダヤ人はそばに立って、見とれていたんですって。いいわね!」
「いいんですって?」
「いいわ、あたしときおりそう思うのよ、その子供を磔にしたのは、自分じゃないのかしらって。子供がぶら下って唸っていると、あたしはその前に坐って、パイナップルの砂糖煮を食べてるの。あたしパイナップルの砂糖煮が大好きなのよ。あなたお好き?」
 アリョーシャは黙って彼女を見つめていた。その蒼ざめた黄いろい顔は急に歪んで、目はきらきらと燃えだした。
「でね、あたしこのユダヤ人のことを読んだ晩、夜っぴて涙を流しながら慄えてたのよ。あたしは赤ん坊が泣いたり唸ったりするのを(子供も四つになればもうわかりますからね)想像しながら、それと一緒に、パイナップルのことがどうしても頭から離れないのよ。朝になると、あたしはある人に手紙をやって、ぜひ来て下さいと頼んだの、その人が来ると、あたしはだしぬけに男の子のことだの、パイナップルの砂糖煮のことだの話したわ。残らず[#「残らず」に傍点]話してしまったわ、残らず[#「残らず」に傍点]すっかり、そして『いいわね』って言ったの。すると、その人は急に笑いだして、それは実際いいことだと言うと、いきなりぷいと立ってすぐ帰っちまったの[#「帰っちまったの」はママ]。みんなで五分間ばかりいたきりだったわ。その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、軽蔑したんでしょうか? ねえ、ねえ、アリョーシャ、その人はあたしを軽蔑したんでしょうか、どうでしょう?」彼女はきらりと目を輝かせて、寝椅子の上でぐいと体を伸ばした。
「じゃ」とアリョーシャは興奮しながら言った。「あなたはその人を、自分でよんだんですか?」
「自分でよんだのよ。」
「その人に手紙をやったんですか?」
「手紙をやったのよ。」
「わざわざこのことを、赤ん坊のことを訊くために?」
「いいえ、まるでそんなことじゃないの。でも、その人が入って来るとすぐに、あたしそのことを訊いたわ。すると、その人は返事をして、笑って、立って行ってしまったの。」
「その人はあなたに対して、立派な態度を取りましたね」とアリョーシャは小さな声で言った。
「でも、その人はあたしを軽蔑したんじゃないでしょうか? 笑やしなかったかしら?」
「そんなことはありません。なぜって、その人自身も、パイナップルの砂糖煮を信じてるかもしれないんですもの。リーザ、その人もやはりいま病気にかかってるんですよ。」
「そうよ、あの人も信じてるのよ」とリーザは目を光らせた。
「その人は誰も軽蔑しちゃいません」とアリョーシャは語をつづけた。「ただその人は誰も信じていないだけです。信じていないから、つまり軽蔑することになるのです。」
「じゃ、あたしも? あたしも?」
「あなたも。」
「まあ、いいこと。」リーザは、歯をきりきりと鳴らした。「あの人が、笑ってぷいと出て行ったとき、軽蔑されるのもいいもんだって気がしたわ。指を切られた子供も結構だし、軽蔑されるのも結構だわ……」
 彼女はこう言いながら、妙に毒々しい興奮した声で、アリョーシャに面と向って笑いを浴びせた。
「ねえ、アリョーシャ、ねえ、あたしはね……アリョーシャ、あたしを救けてちょうだい!」ふいに彼女は寝椅子から跳ねあがりざま、彼のほうに身を投げて、ぎゅっとその両手を握った。「あたしを救けて」と彼女はほとんど呻くように言った。「いま言ったような話ができるのは、世界じゅうにあなたよりほかありません。だって、あたし本当のことを言ったんですもの、本当のことよ、本当のことよ! あたし自殺するわ。だって、何もかもみんな穢らわしいんですもの! あたし何もかも穢らわしい、何もかも穢らわしい! アリョーシャ、なぜあなた、あたしをちっとも、ちっとも愛してくれないの!」
 彼女は前後を忘れたように、こう言葉を結んだ。
「そんなことはない、愛しています!」とアリョーシャは熱して答えた。
「じゃ、あたしのために泣いてくれて、泣いてくれて?」
「泣きます。」
「あたしがあなたの奥さんになるのを、いやだと言ったためじゃなくって、ただあたしのために泣いてくれて?」
「泣きます。」
「そう、有難う! あたしあなたの涙よりほか何にもいらないのよ! ほかのやつなんか、みんなあたしを苦しめたって、みんな、みんな、一人残らず[#「一人残らず」に傍点]あたしを踏み潰したって、かまやしないわ! だって、あたしは誰を愛していないんですもの。本当に誰も愛していないのよ! それどころか、憎んでるわ! さあ、いらっしゃい、アリョーシャ、もう兄さんのとこへ行く時分よ!」彼女はふいに身を離した。
「あなたはあとでどうなさるんです?」とアリョーシャは慴えたように言った。
「兄さんのとこへいらっしゃい。監獄の門が閉まってよ。いらっしゃい。さ、帽子! ミーチャにあたしからと言って、接吻してちょうだい。さあ、いらっしゃい、いらっしゃい!」
 こう言って彼女は、ほとんど無理やりアリョーシャを、戸のほうへ突き出すようにした。アリョーシャは愁わしげな不審の表情でリーザを見ると、その瞬間、自分の右手に手紙があるのを感じた。それは小さな手紙で、かたく畳んで封印がしてあった。彼はちらりと見ると、『イヴァン・フョードロヴィッチ・カラマーゾフさま』と書いてあった。彼はすばやくリーザを見た。と、その顔はほとんど威嚇するような表情になった。
「渡して下さい、きっと渡して下さいよ!」彼女は全身をふるわせながら、夢中でこう命令した。「今日すぐ! でないと、あたし毒を呑んで死んでしまってよ! あたしがあなたを呼んだのもそのためよ!」
 彼女はこう言って、大急ぎでぱたりと戸を閉めてしまった。掛金はがちりと音をたてた。アリョーシャは手紙をかくしへ入れると、ホフラコーヴァ夫人のもとへも寄らないで、すぐ階段のほうへ行った。彼はもう夫人のことを忘れていたのである。リーザはアリョーシャが遠ざかるやいなや、すぐ掛金をはずしてこころもち細目に戸を開き、その隙間に自分の指をさし込むと、力まかせにぐっと戸を閉めて、指を押した。十秒間ばかりたってから、彼女は手を引いて、そろそろと静かに安楽椅子へ戻ると、その上に坐って、体をぐいと伸ばした。そして、黒くなった指と、爪の間から滲み出た血をじっと見つめた。唇がぶるぶると慄えた。彼女は早口にこうひとりごちた。
「あたしは恥知らずだ、恥知らずだ、恥知らずだ!」

   第四 頌歌と秘密

 アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅く(それに、十一月の日は短いから)、たそがれに近かった。けれど、アリョーシャは何の故障もなく、ミーチャのところへ通されることを知っていた。こういうことはすべてこの町でも、やはりほかの町と同じであった。予審終結後、はじめのうちは、親戚その他の人々の面会も、ある必然の形式で制限されていたが、その後だんだん寛大になった、というわけでもないが、少くとも、ミーチャのところへ来る人々のためには、いつの間にかある例外が形づくられたのである。時によると、被監禁者との面会が、その用にあてられた部屋の中で、ただ二人、――四つの目だけの間で行われることさえあった。が、そういう人はごく僅かで、ただグルーシェンカとアリョーシャとラキーチンくらいのものだった。グルーシェンカには、署長のミハイル・マカーロヴィッチが、とくに好意をもっていた。モークロエでグルーシェンカを呶鳴りつけた時のことが、いつまでもこの老人の心を咎めたのである。その後、彼はよく真相を知るとともに、彼女に対する自分の考えを一変した。不思議なことに、彼はミーチャの犯罪を固く信じていたにもかかわらず、彼が監禁されたそもそもから、『この男も善良な心の持ち主だったらしいが、あんまり酒を飲みすぎて、だらしがないものだから、とうとうスウェーデン人のようにすっかり身を破滅させてしまった』と思って、だんだんミーチャを見る目がやわらいできたのである。彼が心にいだいていた以前の恐怖は、一種の憐憫の情に変った。アリョーシャのほうはどうかというと、署長は非常に彼を愛していた。二人はもうとうから知合いの間柄なのであった。その後しきりに監獄へ出入りしはじめたラキーチンも、彼のいわゆる『署長のお嬢さん』の最も親しい知合いの一人でほとんど毎日お嬢さんのそばで暮していた。そのうえ彼は、頑固一徹の官吏ではあるが、いたって心の優しい老典獄の家で、家庭教師をしていたのである。アリョーシャもやはり典獄の旧友であった。典獄は全体に、『最高の叡知』というような問題で、アリョーシャと語り合うのを好んだ。またイヴァンのほうはどうかというと、典獄は決して彼を尊敬しているわけではないが、何よりも一ばん彼の議論を恐れていた。もっとも、典獄自身も『自分の頭で到達した』ものに相違ないが、やはりえらい哲学者なのであった。アリョーシャに対しては、彼はある抑えがたい好感をもっていた。近頃、彼はちょうど旧教福音書の研究をしていたので、絶えず自分の印象をこの若い親友に伝えた。以前はよくアリョーシャのいる僧院まで出かけて行って、彼をはじめ多くの主教たちと、幾時間も語り合ったものである。こういうわけで、アリョーシャは多少時間に遅れたところで、典獄のところへ行きさえすれば、うまく取り計らってもらうことができるのであった。それに、監獄では一ばん下っぱの番人にいたるまで、みんなアリョーシャに馴染んでいた。むろん看守も、上役から叱られさえしなければ、決して面倒なことを言わなかった。ミーチャはいつも呼び出されると、監房から下の面会所へおりて行くのを常とした。アリョーシャは部屋え[#「部屋え」はママ]入りがけに、ちょうどミーチャのところから出て来たラキーチンに、ばったり出くわした。二人は何やら大きな声で話をしていた。ミーチャはラキーチンを見送りながら、なぜかひどく笑ったが、ラキーチンは何だかぶつぶつ言っているようなふうであった。ラキーチンは近頃、とくにアリョーシャと出会うのを好まず、会ってもほとんど口もきかずに、ただわざとらしく挨拶するだけであった。今も入って来るアリョーシャを見ると、彼は妙に眉を寄せて、目をわきへそらした。その様子はいかにも、毛皮襟のついた大きな暖かい外套のボタンをかけるのに気をとられている、とでもいったようなふうであった。やがて、彼はすぐ自分の傘を捜し始めた。「自分のものは忘れないようにしなくちゃ。」彼はただ何か言うためにしいてこう呟いた。
「君、人のものも忘れないようにしろよ!」とミーチャは皮肉に言って、すぐ自分で自分の皮肉にからからと高笑いを上げた。
 ラキーチンはいきなりむっとした。
「そんなことはカラマーゾフ一統のものに言うがいい。君たちは農奴制時代の私生児だ。そんなことは、ラキーチンに言う必要はない!」憎悪のためにぶるぶると身ぶるいをしながら、彼はやにわに剣突《けんてつ》をくわした。
「何をそんなに怒るんだい? 僕はただちょっと冗談に言っただけだよ!」とミーチャは叫んだ。「ちょっ、ばかばかしい! あいつらはみんなあのとおりだ。」急いで出て行くラキーチンのうしろ姿を顎でしゃくりながら、アリョーシャに話しかけた。
「今まで坐り込んで、面白そうに笑ってたのにもう怒ってやがる! お前に目礼さえしなかったじゃないか。どうしたんだ。すっかり仲たがいでもしたのかい? どうしてお前はこんなに遅く来たんだ? おれはお前を待っていたどころじゃない、朝のうち焦れぬいてたんだ。だが、いいや! 今その埋め合せをするから。」
「あの男はどうしてあんなに兄さんのとこへ来るんです? すっかり仲よしになったんですか?」やはりラキーチンが出て行った戸口を顎でしゃくりながら、アリョーシャはこう訊いた。
「ラキーチンと仲よしになったかって言うのかい? そんなわけでもないが……いやなに、あいつは豚だよ! あいつはおれを……やくざ者だと思ってやがるんだ。それにちょっと冗談言ってもむきになる、――あいつらときたら、洒落というものがてんでわからないんだからな。それが一ばん厄介だよ。あの連中の魂は、なんて無味乾燥なんだろう。薄っぺらで乾からびてるよ。まるでおれが初めてここへ連れられて来て、監獄の壁を見た時のような心持がする。だが、なかなか利口なことは利口な男だ。しかし、アレクセイ、もういよいよおれの頭もなくなったよ!」
 彼はベンチに腰をおろし、アリョーシャをもそばにかけさせた。
「そう、明日がいよいよ公判ですね。じゃ、何ですか、兄さん、もうすっかり絶望してるんですか?」とアリョーシャはおずおずと言いだした。
「お前、それは何言ってるんだい?」ミーチャは何ともつかぬ、漠とした表情で、アリョーシャを眺めた。「ああ、お前は公判のことを言ってるんだな! ちょっ、ばかばかしい! 僕らは今までいつもつまらない話ばかり、いつもこの公判の話ばかりしていたが、一ばん大切なことは、黙っていたんだよ。そりゃ明日は公判さ。しかし、いま頭がなくなったと言ったのは、そのことじゃないよ。頭はなくなりゃしないがね、頭の中身がなくなったってことさ。どうしてお前はそんな批評をするような顔つきでおれを見るんだ!」
「ミーチャ、それは何のことなんです?」
「思想のことさ、思想のことなんだよ! つまり倫理《エチカ》だよ、一たい倫理《エチカ》って何だろう?」
「倫理《エチカ》?」アリョーシャは驚いた。
「そうだ、どんな学問だね?」
「そういう学問があるんですよ……しかし……僕は正直なところ、どんな学問かうまく説明できないんです。」
「ラキーチンは知ってるぜ。ラキーチンの野郎いろんなことを知ってやがる、畜生! やつは坊主になんかなりゃしないよ。ペテルブルグへ行こうとしてるんだ。そこで何かの評論部へ入ると言っている。ただし、高尚な傾向をもってるところだ。大いに世を裨益して、立身出世しようと言うんだ。いや、どうして、あいつらは立身出世の名人だからなあ! 倫理《エチカ》が何だろうと、そんなこたあ、どうでもいい。おれはもうおしまいだ。アレクセイ、おればもうおしまいだよ。お前は神様に愛されている人間だ! おれは誰よりも一番お前を愛してる。おれの心臓はお前を見るとふるえるんだ。カルル・ベルナールってのは、一たい何だい?
「カルル・ベルナール?」とアリョーシャはまた驚いた。