京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P208-219   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

ことや、出発の前夜、彼と交した最後の対話などを、絶えず思いつづけた。さまざまなことが彼の心を惑乱した。さまざまなことが、うさんくさく思われた。しかし、予審判事に申し立てをする時には、しばらくその対話のことは言わずにおいて、スメルジャコフと会うまで延ばしていた。スメルジャコフは当時、町立病院に収容されていた。医師のヘルツェンシュトゥベと、病院でイヴァンを出迎えた医師のヴァルヴィンスキイは、イヴァンの執拗な問いに対して、スメルジャコフの癲癇は疑う余地がないと確答し、『あいつは兇行の当日、癲癇のふりをしていたんじゃありませんか?』というイヴァンの問いに、びっくりしたほどである。彼らの説明によると、今度の発作は並み大抵のものでなく、幾日間も繰り返し繰り返し継続したので、患者の命もずいぶん危険であったが、いろいろと手当てをしたおかげで、今では生命に別条はないと言えるようなものの、まだ患者の精神状態に異状を呈するようなことがあるかもしれない。『一生涯というほどではないまでも、かなり長い間ね』と医師のヘルツェンシュトゥベはこうつけたした。『じゃ、あの男はいま発狂してるわけですね?』という性急な質問に対して、二人の医師は、『全然そういうわけではありませんが、いくぶんアブノーマルなところも認められます』と答えた。イヴァンはそのアブノーマルがどんなものか、自分で調べてみようと思った。彼はすぐ面会に病室へ通された。スメルジャコフは隔離室に収容されて寝台の上に横たわっていた。そのそばには、いま一つ寝台があって、衰弱しきったこの町のある町人が占領していたが、全身水腫でむくみあがって、どう見ても明日あさってあたりの寿命らしかったので、この男のために話を遠慮しなければならぬようなことはなかった。スメルジャコフはイヴァンを見ると、うさんくさそうににたりとした。そして、最初の瞬間、何となくおじ気づいたようなふうであった。少くとも、イヴァンにはそう思われた。けれど、これはほんの一瞬間で、その後はかえって異様な落ちつきはらった様子で、彼を驚かせた。イヴァンは、一目見たばかりで、彼が極度の病的状態にあることを確かめた。彼はひどく衰弱していた。いかにもむずかしそうに舌を動かして、のろのろと話をした。そして、ひどく瘦せ細って黄いろくなっていた。二十分間ばかりで終った面会の間にも、彼は絶えず頭痛がするだの、手足が抜けるように痛むだの、と訴えつづけた。去勢僧のような乾からびた彼の顔は、すっかり小さくなったように見えた。こめかみの毛はくしゃくしゃにもつれて、前髪はただ一つまみのしょぼしょぼ毛となって突っ立っていた。けれども、絶えず瞬きをして、何事か暗示してでもいるような左の目は、依然たるスメルジャコフであった。『賢い人とはちょっと話しても面白い』という言葉を、すぐにイヴァンは思い出した。彼は、スメルジャコフの足のほうにある床几に、腰をおろした。スメルジャコフは苦しそうに、寝床の上でちょっと礼を動かしたが、自分から口をきこうともせず、黙りこんだまま、もうさほど珍しくもない、といったような顔つきをして、イヴァンを眺めていた。
「話ができるかね?」とイヴァンは訊いた。「大して疲らせはしないが。」
「そりゃできますとも」とスメルジャコフは弱々しい声で呟いた。そして、「いつお帰りになったのでございますか?」と、相手がばつ[#「ばつ」に傍点]のわるそうなのを励まそうとでもするように、余儀なくおつき合いといった調子でこうつけたした。
「なに、きょう帰ったばかりさ……ここの、お前たちの騒ぎをご馳走になろうと思ってな。」
 スメルジャコフはほっとため息をついた。
「どうしてため息なんかつくんだ。お前はまえから知っていたんじゃないか?」とイヴァンはいきなり叩きつけた。
 スメルジャコフはものものしげにしばらく口をつぐんでいた。
「そりゃ知らなくって何としましょう! まえもってわかりきっていたんですからね。ただ、あんなにされようとは思いませんでしたもの。」
「どうされようと思わなかったんだ? お前、ごまかしちゃいかんぞ! あのときお前は穴蔵へ入りさえすれば、すぐ癲癇になると予言したじゃないか。いきなり穴蔵と言ったじゃないか。」
「あなたはそれを訊問の時に、申し立てておしまいになりましたか?」スメルジャコフは落ちつきはらって、ちょっとこう訊ねてみた。
 イヴァンは急にむらむらとした。
「いや、まだ申し立てないが、きっと申し立てるつもりだ。おい、こら、お前は今、おれにいろんなことを説明しなけりゃならないぞ。おい、いいか、おれはお前に冗談なんか言わしゃしないぞ!」
「何であなたに冗談を申しましょう。私はあなた一人を神様のように頼っているのでございますもの。」スメルジャコフはやはり落ちつきはらってこう言ったが、ただちょっとのま目をつぶった。
「第一に」と、イヴァンは切り出した。「癲癇の発作は予言できないってことを、おれはちゃんと知っている。おれは調べて来たんだから、ごまかしたって駄目だ。時日など予言することはできやしない。それに、お前はどうしてあのとき、時日ばかりか穴蔵のことまで予言したんだ? もしお前がわざと芝居をしたのでないとすれば、ちょうどあの穴蔵の中で発作にやられるってことを、どうしてお前はまえもって知っていたんだ?」
「穴蔵へは、そうでなくても、一日に幾度となく行かなきゃなりません」とスメルジャコフはゆっくりゆっくり言葉じりを引いた。「一年前にもちょうどそれと同じように、私は屋根裏の部屋から落ちたことがあるんでございますよ。発作の日や時間を予言することはできませんが、そういう虫の知らせだけは、いつでもあることでございますからね。」
「だが、お前は時日を予言したじゃないか!」
「旦那、私の癲癇の病気のことは、ここのお医者に訊いていただけばよくおわかりになります。私の病気が本当だったか仮病だったか、すぐわかりますよ。私はこのことについちゃあ、もう何にも申し上げることがありません。」
「だが、穴蔵は? その穴蔵ってことを、どうして前から知ったんだね?」
「あなたはよくよくその穴蔵が気になるとみえますね! 私はあの時あの穴蔵へ入ると、恐ろしくって心配でたまらなかったんですよ。ことにあなたとお別れして、もうほかに世界じゅう誰ひとり自分の味方になってくれる人はない、とこう思ったために、よけい恐ろしかったのでございます。私はあのとき穴蔵へ入ると、「今にも起りゃしまいか、あいつがやってきて倒れやしまいか?』[#「しまいか?』」はママ]とこう考えましたので、つまり、この心配のために、いきなり喉に頑固な痙攣が起って……まあ、それで私は真っ逆さまに落ちてしまいました。このことも、またあの前夜、門のそばであなたとこのお話をして、自分の心配や穴蔵の一件など申し上げたことも、私は残らずお医者のヘルツェンシュトゥベさんや、予審判事のニコライさまに詳しく申し立てましたので、あの人たちはすっかりそれを予審調書に書きつけなさいました。ここの先生のヴァルヴィンスキイさんなどは、とくにみんなの前で、それはそう考えたために起ったのだ、『倒れやしまいか、どうだろうか?』という懸念から起ったのだ、とこう主張して下さいました。で、その筋の方もそれはそのとおりに相違ない、つまり、私の心配から起ったものに相違ないと、調書へお書きつけになりました。」
 こう言い終ると、スメルジャコフは、いかにも疲れたらしく深い息をついだ。
「お前はもうそんなことまで申し立てたのかね?」イヴァンはいくらか毒気を抜かれてこう訊いた。彼はあの時の二人の対談を打ち明けると言って、スメルジャコフを嚇かすつもりだった。ところが、スメルジャコフのほうが先を越していたのである。
「私は何にも恐ろしいことはございませんからね! 何でも本当のことを正直に書きつけるがいいんですよ。」スメルジャコフはきっぱりと言った。
「門のそばで僕らがした話を、一句のこらず言ってしまったのかね?」
「いいえ、一句のこらずというわけでもありません。」
「癲癇のまねができると言って、あのときおれに自慢した、あのことも言ったのか?」
「いいえ、それは申しません。」
「それじゃ、聞きたいがね、お前はあの時、なぜおれをチェルマーシニャヘやりたがったんだ?」
「あなたがモスクワへいらっしゃるのを恐れたからでございますよ、何といっても、チェルマーシニャのほうが近うございますから。」
「嘘をつくな。お前はおれを逃そうとしたんじゃないか。罪なことはよけていらっしゃい、と言ったじゃないか。」
「あの時そう申しましたのは、あなたに対する情誼と心服から出たことでございます。家の中に不幸が起るような気がしましたので、あなたをお気の毒に思ってのことなんで。もっとも、私はあなたのことよりも、自分の身が可哀そうだったのでございます。それで、罪なことはよけるようになさいと申し上げたのは、今に家の中に不幸が起るから、お父さんを保護なさらなければならないということを、あなたに悟っていただくためだったのでございます。」
「そんならまっすぐに言えばいいじゃないか、馬鹿!」イヴァンは急にかっとなった。
「どうしてあの時まっすぐに言えましょう? 私があんなふうに申したのは、ただもしやという心配ばかりでございますから、そんなことを言えば、あなたがご立腹なさるにきまっているじゃありませんか。私もむろん、ドミートリイさまが何か騒動を始めなさりはしないか、あの金だってご自分のものとお考えになっていらっしゃるのですから、持ち出したりなどなさりはしないかと、心配しないでもなかったんですけれど、あんな人殺しがもちあがろうなどと、誰が思いましょう? 私はただあの方が、旦那さまの蒲団の下に敷いておいでになったあの封筒入りの三千ルーブリを、お取りになるだけだろうと思っていましたが、とうとう殺しておしまいになったんですものね。旦那、あなだだって予想外だったでございましょう?」
「お前さえ予想外だったと言うものを、どうして僕が予想して家に残っているものか? どうしてお前はそんな矛盾したことを言うんだ?」イヴァンは思案しながらこう言った。
「ですけれど、私があなたにモスクワをやめて、チェルマーシニャヘいらっしゃるようにお勧めしたことからでも、お察しがつきそうなものでございますね。」
「一たいどうしてそれが察しられるんだ!」
 スメルジャコフはひどく疲れたらしく、またしばらく黙っていた。
「私があなたに、モスクワよりチェルマーシニャのほうをお勧めしたのは、あなたがこの土地の近くにいらっしゃるのを望んだからでございますよ。だって、モスクワは遠うござんすからね。それに、ドミートリイさまも、あなたが近くにいらっしゃることを知ったら、あまり思いきったことをなさらないだろうと存じたからなので。これでもお察しがつきそうなはずじゃありませんか。それに、私のことにしても、何事か起ればあなたがすぐに駈けつけて、私を保護して下さるはずでございます。なぜと申して、私はグリゴーリイ・ヴァシーリッチの病気なことや、私が発作を恐れていることなどを、ご注意申し上げておいたからでございます。また、亡くなられた旦那の部屋へ入るあの合図を、ドミートリイさまが私の口から聞いて知っていらっしゃると、あなたにお話し申しましたのは、つまり、ドミートリイさまがきっと何かしでかしなさるに相違ない、とこうあなたがお察しになって、チェルマーシニャヘ行くどころか、すっかり腰を据えてここへ残っておいでになるだろう、と考えたからでございます。」
『話っぷりこそ煮えきらないが、なかなか筋みちの立ったことを言うわい』とイヴァンは考えた。『ヘルツェンシュトゥベは精神状態に異状があると言ったが、どこにそんなものがあるんだ?』
「お前はおれを馬鹿にしてるんだな、こん畜生!」彼はひどく腹をたててこう叫んだ。
「ですが、私はあの時、あなたがもうすっかりお察しになったことと思っていましたよ」とスメルジャコフはきわめて平気な様子で受け流した。
「察しておれば、出かけやしないはずだ!」イヴァンはまたかっとして叫んだ。
「でもね、私はあなたが何もかもお察しのうえ、どこでもいいから逃げ出してしまおう、恐ろしい目にあわないように、できるだけ早く罪なことをよけていようと、こうお思いになったのだとばかり存じていました。」
「お前は誰でも自分のような臆病者と思っているのか?」
「ごめん下さいまし、実はあなたも私と同じような方だと存じましたので。」
「むろん、察すべきはずだったのだ」とイヴァンは興奮しながら言った。「そうだ、おれはお前が何か穢らわしいことをするだろうと察していたよ……とにかく、お前は嘘をついている、また嘘をついている」と彼は急に思い出して叫んだ。「お前はあのとき馬車のそばへ寄って、『賢い人とはちょっと話しても面白い』と言ったことを憶えているだろう。してみると、お前はおれが出発するのを喜んで、賞めたんじゃないか?」
 スメルジャコフはもう一度、また一度ため息をついた。その顔には血の気がさしたようであった。
「私が喜びましたのは」と彼はいくらか息をはずませながら言った。「それはただ、あなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャヘ行くことに同意なすったからなんで。何といっても、ずっと近うございますからね。ですが、私があんなことを申したのは、お賞めするつもりじゃなくって、お咎めするつもりだったのでございます。それがあなたはおわかりにならなかったので。」
「何を咎めたんだ?」
「ああした不幸を感じていらっしゃりながら、ご自分の親ごを捨てて行って、私どもを護ろうとして下さらないからでございます。なぜって、私があの三千ルーブリの金を盗みでもしたように、嫌疑をかけられる心配がありましたからね。」
「こん畜生!」とイヴァンはまた呶鳴った。「だが待て、お前は予審判事や検事に、あの合図のことを申し立てたのか?」
「すっかりありのままに申し立てました。」
 イヴァンはまた内心おどろいた。
「おれがもしあのとき何か考えたとすれば」と彼はふたたび始めた。「それは、お前が何か穢らわしいことをするだろうということだ。ドミートリイは殺すかもしれないが、盗みなんかしない、おれはあの時、そう信じていた……ところが、お前のほうは、どんな穢らわしいことをするかしれない、と覚悟していたのだ。現にお前は、癲癇の発作がまねられると言ったじゃないか。何のためにあんなことをおれに言ったんだ?」
「あれはただ、私が馬鹿正直なために申したのでございます。私は生れてから一度も、わざとそんなまねをしたことはありません。ただあなたに自慢したいばかりに申し上げたので。まったく馬鹿げた冗談でございますよ。私はあの時分、あなたが大好きでございましたから、あなたには心やすだてで[#「心やすだてで」はママ]お話ししたのでございます。」
「でも、兄貴は、お前が殺したのだ、お前が盗んだのだと言って、一も二もなくお前に罪をきせているぞ。」
「そりゃ、あの方としてはそう言うよりほか仕方がございますまい」とスメルジャコフは苦い薄笑いをもらした。「でも、あんなにたくさん証拠があがっているのに、誰があの方の言うことを信用するものですか。グリゴーリイさんも戸が開いてるのを見たんですもの、こうなりゃもう仕方がないじゃありませんか。まあ、あんな人なんかどうでもよござんすよ。自分の命を助けようと思って、もがいてらっしゃるんですからね……」
 彼は静かに口をつぐんだが、急に何か思いだしたようにつけたした。
「それに、結局おなじことになりますよ。あの方は私の仕業だと言って、私に罪をなすりつけようとしていらっしゃる、――そのことは私も聞きました、――けれど、たとえ私が癲癇をまねる名人だったにしろ、もしあのとき私が本当に、あなたのお父さまを殺そうという企らみを持っていたら、癲癇のまねが上手だなんかって、あなたに前もって言うはずがないじゃありませんか! もし私があんな人殺しの企らみをいだいていたら、生みの息子さんのあなたに、自分のふため[#「自分のふため」はママ]になる証拠を前もって打ち明けるような、そんな馬鹿なことをするはずがないじゃありませんか! 一たいそんなことが本当になるでしょうか!どうして[#「しょうか!どうして」はママ]、そんなことがあろうとは金輪際、考えられやしませんよ。現に今にしても、私とあなたのこの話は神様よりほかに、誰も聞いているものはありません。が、もしあなたが検事やニコライさんにお話しなすったとしても、結局それは私の弁護になってしまいます。なぜって、以前それほどまでに馬鹿正直であったものを、どうしてその悪漢などと思われましょう? こう考えるのは、ごくあたりまえなことじゃありませんか。」
「まあ、聞いてくれ。」スメルジャコフの最後の結論に打たれたイヴァンは、つと席を立って、話を遮った。「おれはちっともお前を疑っちゃいない。お前に罪をきせるのを、滑稽なこととさえ思ってるんだ……それどころか、お前がおれを安心させてくれたのを、感謝してるくらいだ。今日はもうこれで帰るが、また来るよ、じゃ、さようなら、体を大切にするがいい、何か不自由はないかね?」
「いろいろと有難うございます。マルファ・イグナーチエヴナが私を忘れないで、もし私に入用なものがあれば、以前どおり親切に何でも間にあわせてくれます[#「間にあわせてくれます」はママ]。親切な人たちが毎日たずねて来てくれますので。」
「さようなら。だが、おれはお前が癲癇のまねがうまいことを、誰にも言わないようにするから……お前も言わないほうがいいよ。」イヴァンはなぜか突然こう言った。
「ようくわかっております。もしあなたがそれをおっしゃらなければ、私もあの時あなたと門のそばでお話ししたことを、すっかり申さないことにいたしましょう……」
 イヴァンは急にそこを立ち去ったが、もう廊下を十歩も歩いた頃にやっとはじめて、スメルジャコフの最後の一句に、何やら侮辱的な意味がふくまれているのに気がついた。彼は引っ返そうと思ったが、その考えもちらとひらめいただけで、すぐ消えてしまった。そして『ばかばかしい!』と呟くと、そのまま急いで病院を出た。彼は犯人がスメルジャコフではなく、自分の兄ミーチャであると知って、実際、安心したような気がした(もっとも、それは正反対であるべきはずだったけれど)。ところで、なぜ彼はそんなに安心したのか、――そのとき彼はそれを解剖することを望まず、自分の感覚の詮索だてに嫌忌の念さえ感じた。彼は何かを忘れてしまいたい気がしたのである。その後、幾日かの間に、ミーチャを圧倒するような多数の証拠を詳しく根本的に調べるとともに、彼はすっかりミーチャの有罪を信じてしまった。ごくつまらない人々、――例えばフェーニャやその祖母などの申し立ては、ほとんど人をして戦慄せしめるていのものであった。ペルホーチンや、酒場や、プロートニコフの店や、モークロエの証人などのことは、今さら喋々[#「喋々」はママ]するまでもなかった。ことに細かいデテールが人々を驚倒させた。秘密の『合図』に関する申し立ては、戸が開かれていたというグリゴーリイの申し立てと同じくらいに、判事や検事を驚かした。グリゴーリイの妻のマルファは、イヴァンの問いに対して、スメルジャコフは自分たちのそばの衝立ての陰に夜どおし寝ていた、そこは『わたしどもの寝床から三足と離れちゃおりませんでした』から、自分はずいぶん熟睡していたけれど、たびたび目をさまして、あれがそこに唸っているのを聞いた、『しじゅう唸っていました。ひっきりなしに唸っていました』とこう言いきった。イヴァンはまたヘルツェンシュトゥベと話をして、スメルジャコフは狂人と思われない、ただ衰弱しているまでである、という意見を述べたけれど、それはただこの老医師の微妙なほお笑みを誘うにすぎなかった。『じゃ、あなたはあの男が今とくにどんなことをしてるかご存じですか?』と医師はイヴァンに訊いた。『フランス語を暗誦しているんですよ。あの男の枕の下には手帳が入っていましてね、誰が書いたものか、フランス語がロシヤ文字で書いてありますよ、へへへ!』で、イヴァンはとうとう一切の疑いを棄ててしまった。彼はもはや嫌悪の念なしに、兄ドミートリイのことを考えられなかった。ただ一つ不思議なのは、アリョーシャが下手人はドミートリイでなくて、『きっと確かに』スメルジャコフに相違ない、と頑固に主張しつづけることであった。イヴァンはいつもアリョーシャの意見を尊重していたので、そのために今ひどく不審を感じた。もう一つ不思議なのは、アリョーシャがイヴァンとミーチャの話をするのを避けて、決して自分のほうからは口をきかず、ただイヴァンの問いに答えるにすぎないということである。イヴァンはこれにも十分気がついていた。
 けれど、それと同時に、彼はぜんぜん別なある事柄に気を取られていた。彼はモスクワから帰ると間もなく、カチェリーナに対する焔のようなもの狂おしい熱情に没頭したのである。しかし、その後イヴァンの生涯に影をとどめたあの新しい情熱については、いま物語るべき機会でない。これはまた、別な小説の主題を形成すべきものである。が、その物語をいつかまた始めるかどうか、それは筆者《わたし》自身にもわかっていない。だが、この場合どうしても黙って打ち過されないことがある。イヴァンは、もう前にも書いたとおり、あの夜アリョーシャと一緒に、カチェリーナの家から帰る途中『僕はあまりあの女が好きじゃない』と言ったが、それは大きな嘘であった。もっとも、彼は時とすると、殺してしまいかねないくらい彼女を憎むこともあったが、概して気が狂いそうなほど彼女を愛していた。それにはたくさんの理由が重なっていた。彼女はミーチャの事件に心の底から震撼されて、ふたたび自分のもとへ帰って来たイヴァンを、さながら救い主かなんぞのように思い、いきなり彼に縋りついたのである。彼女が忿怒と、侮蔑と、屈辱の感じをいだいているところへ、ちょうど以前彼女を熱愛していた男が、ふたたび現われたのである(そうだ、彼女はこのことをよく知っていた)。彼女はその男の知力と心情を、いつも深く崇敬していたのである。けれど、この厳正なる処女は、自分の恋人のカラマーゾフ式な抑えがたい激しい情熱を見ても、彼から深い敬慕の念を寄せられても、決してみずからを犠牲に捧げようとはしなかった。それと同時に、彼女は絶えずミーチャにそむいたことを後悔して、イヴァンと烈しく争った時など(彼らはしじゅう喧嘩をした)、露骨にこのことを男に言ったりした。イヴァンがアリョーシャと話をした時、『虚偽の上の虚偽』と呼んだのはこのことなのである。そこにはむろん、多くの虚偽があった、これが何よりもイヴァンを憤慨させたのである……が、このことはあとで言おう。要するに、彼は一時ほとんどスメルジャコフのことを忘れていたのだ。けれども、スメルジャコフを初めて訪ねてから二週間ばかりたつと、また例の奇怪な想念がイヴァンを苦しめはじめた。彼は絶えず自問した、――なぜ自分はあのとき、例の最後の夜、すなわち出発の前夜、フョードルの家で、盗人のように足音を忍ばせながら階段へ出て、父親が下で何をしているかと、耳をすまして聞いたのだろう? なぜあとでこのことを思い出したとき、嫌悪を感じたのだろう?なぜ[#「だろう?なぜ」はママ]その翌朝、途中であんなに急に憂愁に悩まされたのか? なぜモスクワへ入りながら、『おれは卑劣漢だ!』とひとりごちたのか? こんなふうに反問したことだけ言えばたくさんであろう。いま彼はこうしたさまざまな悩ましい想念のために、カチェーリーナさえ忘れがちになりそうな気がした。それほどまでに、彼はまた突然この想念の虜になったのである。ちょうどこういうことを考えて往来を歩いている時、ふとアリョーシャに出会った。彼はすぐ弟を呼び止めて、だしぬけに問いかけた。
「お前おぼえてるだろう、ドミートリイが食事ののちに家の中へ暴れ込んで、親父を撲ったね。それから、僕が外で『希望の権利』を保有するとお前に言ったことがあったっけ。そこで、一つお前に訊くが、そのとき僕が親父の死ぬのを望んでいると考えたかね、どうかね。」
「考えました」とアリョーシャは低い声で答えた。
「もっとも、それは実際そのとおりだったんだ、推察も何もいりゃしない。だが、お前はその時、『毒虫同士がお互いに食い合う』のを、つまりドミートリイが親父を一ときも早く殺すのを、僕が望んでいると思やしなかったかね?……そして、僕自身もその手つだいくらいしかねない、と思やしなかったかね?」
 アリョーシャは心もち顔を蒼くして、無言のまま兄の目を見た。
「さあ、言ってくれ」とイヴァンは叫んだ。「僕はお前があの時どう考えたか、知りたくってたまらないんだ、本当のことを聞きたいんだ、本当のことを!」
 彼はもう前から一種の憎しみを浮べて、アリョーシャを見つめながら、重々しい息をついていた。
「赦して下さい、僕はあの時、そうも思ったのです」とアリョーシャは囁いて、『やわらげるような言葉』を一言もつけ加えずに黙ってしまった。
「有難う!」イヴァンは断ち切るようにこう言ったまま、アリョーシャをおき去りにして、急ぎ足に自分勝手なほうへ行ってしまった。
 そのとき以来アリョーシャは、兄のイヴァンがなぜかきわ立って自分を避けるように努め、そのうえ自分を愛さないようにさえなったことに気づいた。アリョーシャのほうでも、もうイヴァンのところへ行くのをやめてしまった。ところで、イヴァンはその時アリョーシャと会った後、自分の家へ帰らないで、突然ふたたびスメルジャコフのもとへ出向いたのである。

   第七 二度目の訪問

 スメルジャコフはその時分、病院を出ていた。イヴァンは彼の新しい住まいを知っていた。それは、例の歪みかしいだ丸太づくりの小さい百姓家みたいな家で、廊下を真ん中にして二つに仕切られていた。一方には、マリヤ・コンドラーチエヴナと母親が住まっているし、いま一方にはスメルジャコフが納まっていた。彼がどういう条件で同棲しているのか、――ただで世話になっているのか、それとも金を出しているのか、それは誰にもわからなかった。あとになって世間の人は、たぶんマリヤの婿という形で、当分ただで世話になっていたのだろうと噂した。母親も娘も一方ならず彼を尊敬して、自分たちより一段うえの人のように見なしていた。
 イヴァンはとんとん戸を叩いて、玄関へ入ると、すぐにマリヤの案内で、スメルジャコフの占領している『綺麗なほうの部屋』へ通った。部屋の中には化粧瓦の暖炉があって、恐ろしく暖かくしてあった。まわりの壁には、けばけばしい空色の壁紙が貼ってあったが、あいにく一面ぼろぼろに裂けて、その中で油虫がおびただしい群をなして匐い廻りながら、絶えずがさがさ音をたてていた。家具類もいたって粗末なもので、両側の壁のそばにはベンチが二つあるし、テーブルのそばには二脚の椅子があった。テーブルはありふれた木製であったが、それでもちゃんとばら色の模様のついたテーブル掛けで蔽われていた。二つの小さい窓ぎわには、それぞれゼラニウムの鉢植がのっていた。片隅には龕に納められた聖像がかかっている。テーブルの上には、でこぼこだらけの、あまり大きからぬ銅のサモワールと、茶碗を二つのせた盆があった。けれど、スメルジャコフはもうお茶を飲んでしまったので、サモワールの火も消えていた……彼自身は、テーブルのそばなる[#「そばなる」はママ]ベンチに腰かけて、手帳を見ながら、ペンで何やら書きつけていた。そばにはインク壜と、背の低い青銅の燭台があった。燭台にはステアリン蠟燭が立っていた。イヴァンはスメルジャコフの顔を見るとすぐ、もう病気はすっかり癒ったのだなと思った。彼の顔は前よりはればれして、肉づきがよく、前髪は梳き上げられ、鬢の毛には香油がつけてあった。彼は華美な木綿の部屋着を着こんで、腰かけていたが、それはだいぶ着古したもので、かなりぼろぼろしていた。鼻には眼鏡がかかっていた。以前イヴァンは、彼が眼鏡をかけているのを見たことがなかった。このつまらない事実が、突然イヴァンを一そうむらむらとさせた。『何だ、生意気な、眼鏡なぞかけやがって!』とイヴァンは腹の中で思った。スメルジャコフはゆっくり頭を持ちあげて、入って来た客を眼鏡ごしにじっと見やった。やがて彼は静かに眼鏡をはずし、ベンチから立ちあがったけれど、何だかまるでうやうやしいところがなく、いかにももの憂そうで、ただおつき合いに必要なだけの礼儀を守るのだ、といったような様子をしていた。イヴァンはすぐこれに感づいて、胸の中へすっかり畳み込んだ。しかし、何より目についたのは、スメルジャコフの目つきであった。それはきわめて毒々しく不興げで、しかも高慢の色さえおびていた。『何のためにふらふらやって来たんだ。何もかもあの時すっかり話し合ったじゃないか。何の用でまたやって来たんだ?』とでも言っているよう。イヴァンはやっとのことで胸を撫でおろした。
「お前のところは暑いね」と彼は突っ立ったままこう言って、外套のボタンをはずした。
「お脱ぎなさいまし」とスメルジャコフは許可を与えた。
 イヴァンは外套を脱いで、ベンチに投げかけ、慄える手で椅子を取ると、急いでそれをテーブルのそばへ引き寄せ、腰をおろした。スメルジャコフはイヴァンよりさきに、例のベンチに腰をかけた。
「第一に、僕らのほかには誰もいないね?」とイヴァンは厳かな口調で、せきこんで訊いた。「誰か聞いてやしないかね?」
「誰も聞いちゃいませんよ。ご覧のとおり、あいだに玄関がありますからね。」
「おい聞け、おれがお前と別れて病院から出て行く時、お前は一たい何と言った? お前が癲癇をまねる名人だってことをおれが黙っていたら、お前もおれと門のそばでいろいろ話したことを、予審判事に申し立てないと言ったね?『いろいろ』とは何のことだ? どんなつもりで、お前はあの時あんなことを言ったんだ? おれを脅かしたのかね? 一たいおれがお前と何か組でも組んだとでもいうのか? おれがお前を恐れているとでも言うのかい?」
 自分が一切あてこすりや廻り遠い言い方を捨てて、公然たたかっているのだということを、相手に知らせようとするらしく、イヴァンは恐ろしい剣幕でこう言った。スメルジャコフの目は毒々しくぎらりと光って、左の目がしぱしぱ瞬きしだした。その目は例によって、控え目な、落ちついた表情をしていたけれど、すぐ自分の言い分を答えた、『お前さんが潔白を望むなら、さあ、これがその潔白でさ』とでも言うように。
「あの時のつもりは、こうでございました。あの時あんなことを言ったのは、あなたが前もって今度の親殺しを承知していながら、お父さんをうっちゃって、旅へ立っておしまいになったものですから、世間の人があなたの心持について、よくないことを言うかもしれない、ひょっとしたら、どんなことを言いだすかもしれない、とこう思ったからでございます、――これを私はあの時、役人に言わないとお約束したわけなので。」
 見たところ、スメルジャコフはせきこまないで、おのれを制しながら、口をきいていたようであるが、その響きには何かしらきっぱりした、頑固な、毒々しい、ふてくされた、挑むような語気が響いていた。彼は臆面もなくイヴァンを見つめていた。で、イヴァンは初め一瞬間、目の中がちらちらするような思いがした。
「なに? どうしたって? 一たいお前は正気かどうなんだ?」
「まったく正気でございますよ。」
「じゃ、お前は、おれがあのとき、人殺しを知っていたと言うんだな?」とうとうイヴァンはこう叫んで、はげしく拳でテーブルをたたいた。「『またどんなことを言いだすかもしれない』とは何だ? さあ言え、悪党!』
 スメルジャコフは黙ったまま、依然として例のずうずうしい目つきで、イヴァンを見つめていた。
「さあ、言え、くたばりそこないの悪党め、『またどんなこと』とは何だ?」とこっちは呶鳴った。
「私が今『どんなこと』と言ったのは、あなたご自身があの当時、お父さんの横死を望んでいらしったことなんで。」
 イヴァンは飛びあがりざま、力まかせに拳でスメルジャコフの肩を叩いたので、こっちはよろよろと壁に倒れかかった。見る見る彼の顔は涙に洗われた。彼は、「旦那、弱い者をぶったりなんかして、恥しいじゃありませんか!」と言いながら、突然、さんざんに鼻をかんだ青い格子縞の汚いハンカチで目を蔽うと、静かにしくしくと泣きだした。一分間ばかりたった。
「もうたくさんだ! やめろ!」とイヴァンはまた椅子に腰をおろしながら、とうとう命令するように言った。「お前はおれの癇癪玉を破裂させてしまおうとしてるんだ!」
 スメルジャコフは目からハンカチをどけた。その皺だらけになった顔ぜんたいが、たったいま受けた侮辱をありありと現わしていた。
「悪党め、じゃお前はあの時、おれがドミートリイと一緒になって、親父を殺そうとしてると思ったんだな?」
「私はあの時あなたのお考えがわからなかったのでございます」とスメルジャコフは腹だたしそうに言った。「だから、あの時、あなたが門へお入りになった時に、お留めしたんで。この点について、あなたを試してみようと存じましてね。」
「何を試すんだ? 何を?」
「お父さんが少しも早く殺されるのを、望んでいなさるかどうか、そのことでございますよ。」
 何よりもイヴァンを激昂させたのは、スメルジャコフが例のずうずうしい語調を、どこまでも強情に棄てないことであった。
「じゃ、あれは、お前が親父を殺したんだな!」イヴァンはだしぬけにこう叫んだ。
 スメルジャコフは軽蔑するように、にたりと笑った。
「私が殺したんでないということは、あなたもよっくご存じのはずじゃありませんか。私はまた、賢い人間が、二度とこんな話をする必要はないと思っていましたよ。」
「だが、なぜ、なぜあの時お前はおれに対して、そんな疑いを起したんだ?」
「もうご存じのとおり、ただただ恐ろしいばっかりに疑ったのでございます。なぜと申して、私はあの頃、恐ろしさにびくびくしながら、誰でも彼でも疑るような心持になっていましたからね。こういうわけで、あなたも試してみようと肚を決めました。だって、もしあなたが兄さんと同じようなことを望んでいらっしゃるとすれば、もう万事おしまいで、私も一緒に蠅のように殺されてしまうに違いない、とこう思ったのでございます。」
「おい、まて、お前は二週間まえには、そう言わなかったぞ。」
「病院であなたとお話をした時も、やはりこう言うつもりでございましたよ。ただよけいなことを言わなくっても、おわかりになると思ったばかりで、あなたは大そう賢いお方でございますから、真正面からの話はお好みでなかろうと思いましてね。」
「ええ、あんなことを言ってやがる! だが、返事をしろ、返事を。おれはどこまでも訊くぞ。どうしてお前はあのとき、その下劣な心の中に、おれとしてあるまじい、そんな下等な疑いを起したんだ?」
「殺すなんてことは、こりゃあなたにどうしてできることじゃありませんし、また殺そうという気もおありにならなかったでございましょう。だが、誰かほかのものが殺してくれたらいいくらいは、お思いになったはずでございますよ。」
「よくも平気で、平気でそんなことが言えるな! どういうわけでおれがそんなことを望むんだ、どうしておれがそんなことを望むわけがあるんだ?」
「どういうわけで? じゃあ、遺産はどうしたのでございます」とスメルジャコフは毒をふくんだ復讐の調子で答えた。「だって、もしお父さまが亡くなれば、あなた方ご兄弟は、めいめい四万ルーブリたらず、分けてもらえるはずでございました。ことによったら、それ以上になるかもしれません。が、もしフョードルさまがあの婦人と、あのアグラフェーナ・アレクサンドロヴナと結婚してごらんなさい、あのひとは結婚式をすまし次第、すぐに財産そっくり自分の名義に書き替えてしまいますよ。あのひともなかなか抜け目ありませんからね。そうすりゃ、あなた方ご兄弟三人は、お父さまが亡くなられたあとで、二ルーブリと手に入りゃしますまい。ところが[#「ところが」はママ]、結婚はむずかしい話だったでございましょうか? わずか髪の毛一筋という瀬戸際だったのでございますよ。あのひとが小指一本うごかしさえすれば、お父さまはすぐにも舌を出し出し、あのひとのあとについて、教会へ駈けて行かれたに相違ありませんからね。」
 イヴァンは苦しそうに、やっと自分を抑えていた。
「よろしい、」彼はとうとうそう言った。「見ろ、このとおり、おれは飛びあがりもしなければ、お前を撲りもせず、また殺しもしなかった。さあ、それからどうだというんだ。お前に言わせれば、兄のドミートリイを親父殺しの役廻りにきめておいて、おれがそれを当てにしていたと言うんだろう?」
「それを当てになさらないでどうしましょう。だって、あの方が殺してごらんなさい、それこそ貴族の権利も、位階も、財産もひんむかれて、流し者[#「流し者」はママ]になってしまうでしょう。そうすりゃ、お父さまが殺されたあとで、あの人の取りまえは、あなたとアレクセイさんと、半分わけになるでしょう。つまり、あなた方お二人は四万ルーブリずつではなく、六万ルーブリずつ手に入るわけになりますものね。だから、あなたはあの時、きっとドミートリイさまを当てになすったんでございます!」
「いいか、おれは我慢して聞いてるんだぞ! だが、聞け、悪党! おれがもしあのとき誰かを当てにしたとすれば、それはむろんお前だ、ドミートリイじゃない。おれは誓って言うが、お前が何か穢らわしいことをしやしないかって、そんな気がしてたんだ……あの時……おれは自分の心持を覚えている?[#「おれは自分の心持を覚えている?」はママ]」
「私もあの時ちょっとそう思いましたよ。あなたはやはり、私のことも当てにしていらっしゃるんだろうってね」とスメルジャコフは嘲るように、にたりとした。「だから、こういうわけで、あの時あなたは私の前で、一そうはっきりご自分の正体を見せておしまいになったので。なぜといってごろうじ、もし私が何かしでかしそうだと感づきながら、しかも出発なすったのだとすれば、つまり、お前は親父を殺してもいい、おれは邪魔をしないぞ、とおっしゃったのも同然じゃありませんか。」
「悪党め、お前はそうとっていたんだな。」
「それというのも、やはりあのチェルマーシニャのためでございますよ。まあ、考えてもごらんなさいまし! あなたはモスクワへ行くつもりで、お父さまがどんなにチェルマーシニャヘ行けとおっしゃっても、撥ねつけてらしったんでございましょう! ところが、私風情のつまらない一ことで、すぐに賛成なすったじゃありませんか! あなたがあの時、チェルマーシニャ行きに賛成なさるなんて、どういう必要があったのでございましょう? あなたが私の一ことで、わけもなくモスクワ行きをよして、チェルマーシニャヘおいでになったところを見れば、何か私を当てにしてらしったんじゃありませんか。」
「そうじゃない、誓って言う、決してそうじゃない!」とイヴァンは歯ぎしりしながら唸った。
「どうしてそうじゃないんですね? 本当を言えば、まるで反対ですよ。あなたは息子の身として、あの時あんなことを言っ