『カラマーゾフの兄弟』P344-359   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦3日目]

三千ルーブリなどという大金を、生れて初めて見たのであります(私はとくにこのことを彼にただしてみました)。ああ、嫉妬ぶかい野心のさかんな人間に、決して大金を見せるものではありません。ところが、彼は初めてそのまとまった大金を見たのであります。虹色の紙幣束の印象は、すぐ結果に現われこそしなかったけれど、彼の想像に病的な反映をあたえたに相違ありません。
「慧敏なる起訴者は、スメルジャコフに殺人罪を擬するについて、あらゆるpro et contra(賛成論と反対論)を精細に説きつくしたうえ、彼にとって癲癇のまねをする必要がどこにあるだろう、という疑問を提起されました。そうです、彼は決してそんなまねをしなくてよかったかもしれません。発作はまったく自然に起ったのかもしれません。しかし、発作はまたきわめて自然に経過して、病人はそのうちに正気づくかもしれません。よしすっかり快癒しないまでも、正気づいて意識を回復するかもしれません。これは癲癇にえてありがちなことであります。起訴者は、いつスメルジャコフに兇行を演じる隙があったか、と反問せられますが、しかしその時刻を示すのは、きわめて容易なわざであります。つまり、グリゴーリイ老人が、塀を越えて逃げようとする被告の足を捉えて、近所合壁に聞えるような大声で『親殺し!』と叫んだ瞬間に、彼はふと正気づいて、深い眠りからさめたかもしれません(なぜかと言えば、彼はただ眠っていただけだからです、癲癇の発作のあとには、いつも熟睡がともなうものです)。静かな暗闇の中で起ったこのただならぬ叫び声は、スメルジャコフの目をさましたに相違ありません。しかも、ちょうどその時、彼の眠りはさして深くなかったはずであります。もちろん、もう一時間も前から、目がさめかかっていたに相違ありません。で、彼は起きあがると、何の考えもなくほとんど無意識に、何事が起ったのだろうと、声のしたほうへ出て行ったのです。彼の頭は依然として、発作のためにぼんやりしていて、思考力はまだ仮睡状態にありましたが、彼は庭へ出て、燈火のもれる窓のほうへ近づきました。主人はむろん、彼が来たのを喜んで、恐ろしい出来事を告げました。と、彼の頭の中には、たちまちある考えが燃えあがったのです。彼は驚きうろたえている老人から、詳しい事情を聞きました。その時、彼の混乱して病的になった頭脳には、次第にある考えが形づくられてきました、――それは恐ろしい考えではあるが、きわめて誘惑に充ちた、しかもどこまでも理論的なものでした。つまり、主人を殺して三千ルーブリの金を奪い、その罪を若主人に塗りつけてしまおうというのです。この場合、若主人以外だれにも嫌疑をかけるものがない、若主人以外だれにも罪をきせるものがない、現に彼はここへ来たのだ、立派な証拠がある、とこう考えたのであります。その点で安心するとともに、金という獲物に対する恐ろしい欲望が彼の心をとらえたのは、あり得べきことなのであります。ああ、こうした思いがけない避けがたい衝動は、機会さえあればいつでも起るものです。しかも、何より恐ろしいことには、一分間まえまで人を殺そうなどとは思いもかけなかったものの頭に、とつぜん浮んでくるのであります! で、スメルジャコフもそうした衝動に支配されて、主人の部屋へ入って行き、その計画を実行したに相違ありません。では、どういう兇器を用いたか? 何も問題にするまでもない、まず目に映った、庭の石ころでも殺せるではありませんか。だが、何のために、どういう目的で、そんなことをしたか? ほかでもない、三千ルーブリという金は、彼の新生活を始めるのに十分だからです。いや、私は自家撞着をしてはいません、金はあったかもしれません。そしてスメルジャコフだけが、そのありかを知っていたのかもしれません。すなわち、主人がその金をどこにおいているかを、彼一人だけが知っていたのであります。『だが、金の入っていた封筒は? 床の上に破り棄ててあった封筒は?』こういう問いが起るかもしれません。先刻、起訴者はこの封筒について、きわめて精緻な説を述べられました。すなわち、床の上に封筒を棄てて行くのは非常習的盗賊で、カラマーゾフのような人間のやりそうなことである。決してスメルジャコフではない、彼ならばこんな犯罪の証拠品を棄てて行きはしない、とこう言われました。陪審員諸君、先刻この説をうけたまわっている時、私はとつぜん、自分に覚えのあることを、もう一ど聞かされているような気がしました。ところが、どうでしょう、カラマーゾフのしそうな封筒の処置に関するこの議論と推測を、私はちょうど二日前にスメルジャコフ自身の口から聞いたのであります。そのうえ私を驚かしたのは、彼が、わざと無邪気を装ってさき廻りしながら、私にその考えを吹き込もうとするように思われたことであります。彼は私にこの判断を採用させようと、助言するようなあんばいでした。予審の時にも、彼はそれを暗示したのではないでしょうか? 聡明、慧敏な起訴者も、やはりその考えを吹き込まれたのではないでしょうか? では、グリゴーリイの年とった妻はどうだ、とこうおっしゃるでしょう。彼女はそばで夜どおし病人が唸っているのを聞いたと言います。なるほど、聞いたでしょう。しかし、それはきわめて曖昧な申し立てであります。かつて私はある婦人が、外で犬が吠えていたために、夜どおし眠ることができなかった、とこぼすのを聞きましたが、しかしあとで聞けば、その犬は一晩のうちに、二三ど吠えたにすぎないとのことでした。それは、きわめてありそうなことです。もし人が眠っている時に、とつぜん唸り声を聞いたとしましょう。彼は目をさまして、安眠を妨げられたのをいまいましく思いますが、またすぐ寝入ってしまいます。二時間もたった頃、また唸り声が聞えて、また目をさまし、また寝入る。と、最後にまた二時間もたってから、また唸り声に目をさまされます。こうして、一夜のうちに三ど目をさましたとしましょう。朝になると、その人は、誰か夜どおし唸っていたので、のべつ目をさまさせられた、と言ってこぼすのであります。しかし、その人は、二時間ずつ眠っていた間のことは少しも知らないで、目をさました一分間だけ覚えているから、それで夜じゅうのべつ起されたような気がするのは、当然な次第であります。しかし、起訴者は、それならなぜスメルジャコフは、遺書の中で白状しなかったか、と声を励まして訊かれました。『一方には良心の呵責を感じながら、いま一方にはそれを感じなかったのだろうか?』と言われました。けれど、失礼ですが、良心の呵責はすでに悔恨を意味していますが、自殺者が必ずしも悔恨に責められたものとは断ぜられません、ただ絶望のために自殺したにすぎません。絶望と悔恨、――この二つはまったく異ったものであります。絶望は時に憎悪に充ちていて、絶対に妥協を許さない場合があります。で、自殺者は自分で自分に手を下そうとする瞬間、一生怨んでいたものに対する憎悪を、一倍つよく感じたかもしれません。
陪審は諸君、裁判上の誤りを警戒していただきたいものです! いま私が申し述べたことに、はたして本当らしくない点があるでしょうか? どうか、私の述べた言葉の中に誤りを見いだして下さい。不可能、不合理を発見して下さい。もし私の仮定の中にほんのわずかな可能性の影、真実らしい影でもあったら、どうか宣告を見合せて下さい。が、はたしてただの影にすぎないでしょうか? 私は誓って申します、いま諸君に申し述べた殺人に関する自分の説明を、私は固く信じているのであります。ことに、私か腹立たしく遺憾に思うのは、被告の断罪の基礎となっている、山のごとく累積した多くの事実のうち、いくぶんたりとも確実で、反証を許さぬようなものは一つとしてないにもかかわらず、ただただこれらの事実が堆積したというだけの理由によって、不幸なる被告が破滅に瀕していることであります。そうです、この堆積は恐るべきものであります。この血、――指から流れ落ちるこの血、血みどろになった服、『親殺し!』という叫び声に静寂を破られたあの暗夜、頭を割られて倒れた叫び声の主、それから、また多くの言葉と身ぶりと怒号、――ああ、それらすべては非常な力をもっていて、人々の信念を買収するに十分です。しかし、陪審員諸君、それらははたしてよく諸君の信念をも買収することができましょうか? どうか記憶して下さい、諸君には無限の決定権が与えられています。しかし、権利が強大であればあるだけ、その行使はますます恐るべきものとなります! 私は自分の言ったことを一言たりとも撤回しませんが、かりに、――もしかりに一歩を譲って、不幸なる被告が父の血に手を染めたという起訴者のお説に同意するとしましょう。しかし、これはただほんの仮定にすぎないのであって、繰り返して言いますが、私は一瞬間も彼の潔白を疑いません。しかし、今かりにわが被告が親殺しの罪を犯したと仮定しましょう。けれど、私がそういう仮定を許した以上、ぜひ一こと聞いていただきたいことがあります。私は諸君にある一つのことを言わなければ心がすみません。なぜなら、私は諸君の感情と理性の中に、大なる争闘を予感するからであります……陪審員諸君。諸君の感情と理性にまで立ち入った私の言葉をおゆるし下さい。けれど、私はどこまでも誠実で正直でありたいと思います。われわれはお互いに誠意を持とうではありませんか!」
 この時かなり盛んな拍手が起って、弁護士の言葉を中断した。実際、彼はこの最後の言葉を誠意のこもった語調で言ったので、一同は、実際かれが何か言い分をもっているのかもしれない、そして今かれが言おうとしていることは、非常に重大な事柄であるかもしれない、というふうに感じたのである。しかし、裁判長はこの拍手を聞くや、もしふたたび『かような場合が』繰り返されるなら、傍聴者一同に『退廷を命じる』と声高に宣言した。あたりはたちまちしんとしてしまった。フェチュコーヴィッチは今までとはまるっきり違った、一種の新しい、感情に満ちた語調で弁じはじめた。

   第十三 思想の姦通者

「ただ山積された事実のみが、わが被告を滅ぼすものではありません、陪審員諸君」と、彼は声を高めた。「そうです、本当にわが被告を滅ぼすものは、ただ一つの事実なのであります、――それは父親なる老人の死骸であります! これが普通の殺人罪であってごらんなさい、諸君はすべての証拠を集合体としてでなく、一つ一つ取り離して吟味してみたすえ、それらが取るにたりない不完全な、空想的性質をおびているのを発見して、起訴を却下せられることでありましょう。少くとも、単なる先入見によって、一個の人間の運命を滅ぼすことを躊躇されるでしょう。まったく悲しいかな、被告はそういう先入見をいだかれても、仕方のないような人間なのであります。しかるに、これは普通の殺人でなく親殺しなのです! これは実に重大なことで、それがため、こうした取るにたらぬ不完全な証拠も、取るに足らぬ不完全なものでなくなったわけです。しかも、そのうえ、きわめて多くの先入見が、そこに存しているのであります。こういう被告を、どうして無罪にすることができよう? どうして親を殺したものが罰を受けないですもうぞ、――すべての人が心の中で、知らず識らず、本能的に感じているのであります。そうです。父親の血を流すということは、恐るべきことであります、――それは自分を生んだものの血です、自分を愛するものの血です。自分のために命を惜しまないものの血です。子供の時から自分の病気に悩み、自分の幸福のために一生苦しみ通し、ただ自分の喜びと成功のみに生きていたものの血であります! ああ、そういう父親を殺すということは、――それは考えるにたえないことであります! 陪番員諸君、父親とは何でしょう、真の父親とは何でしょう? これは何たる偉大な言葉であるか? この名称には何たる恐ろしい、大きな観念がふくまれていることか? 私はいま、真の父親とはいかなるものであり、いかなる責任を有するものか、ということをいくぶん述べました。が、この場合、――われわれがいま処理しようと頭を悩ましているこの事件において、死んだフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマーゾフは、いま私が挙げたような父親の概念に、全然あてはまらないのであります。それは不幸です。そして、実際こうした不幸な父親も、世間にないことはないのであります。で、われわれはこの不幸をもっと接近して観察してみましょう、――陪審員諸君、眼前の決定の重大さを考えて、恐れる必要は毫もありまぜん。さきほど慧敏なる起訴者が述べられた巧みな言葉を借りて言えば、子供や臆病な女のように、ある種の思想をとくに恐れて、それを振り払うようなことをする必要はありません。ところで、私の尊敬する反対者は、その熱烈な論告において(それは私が最初の一言を発する前のことでありました)、幾度もこう叫ばれました。『いや、自分は誰にも被告の弁護を譲らない、自分は彼を弁護する点において、ペテルブルグから来た弁護人にも負けないつもりである、――自分は起訴者であると同時に、弁護人でもある!』こう起訴者は幾度も宣言されましたが、もしこの恐ろしい被告が、まだ幼児として親の家にいる頃、ただ一人の人に愛されて一フントの胡桃をもらったために、二十三年間もその恩義を忘れずにいたとするならば、その反対にかくのごとき人間は、博愛なる医師ヘルツェンシュトゥベ氏のいわゆる『靴もはかずに、たった一つしかボタンのつかぬズボンを着けて父の裏庭を』駈け廻っていたことをも、この二十三年間わすれずにいられないはずです。それを起訴者は言い落していられるようであります。「ああ、陪審員諸君、なぜ私はこの『不幸』を、もっと接近して観察する必要があるのでしょう? すでに誰でも知っていることを、なぜ繰り返す必要があるのでしょう? わが被告はこの父親のもとへ来て、どういうことを目撃したのでしょうか? 一たいなぜ、どういうわけで、わが被告を無感覚なエゴイスト、怪物として描きだす必要があるのか? なるほど、彼は放縦です、粗野で乱暴です。この点われわれは彼を責めなければなりません。が、彼の運命に対して責任を有するものは誰であるか? 彼が立派な心的傾向と、恩義を重んずる感情をもっているにもかかわらず、あのようなばかばかしい教育を受けたということは、そもそも誰の責任であるか? 彼は誰かに正しい道を教えてもらったか? 学問によって開発されたか? 少年の時分に誰か少しでも彼を愛したものがあるか? 私の被弁護者はただただ神の庇護の下に、すなわちまったく野獣のように成長したのであります。彼は長い別離の後、父親に会うことを渇望していたかもしれません。彼はその前に、自分の幼年時代を夢のように思い出しては、その時代に見た忌わしい幻影を払い去ろうと努め、自分の父親をいいほうに解釈して、へだてなく抱擁しようと、心の底から望んでいたかもしれません。ところが、どうでしょう? 彼を迎えたものは皮肉な嘲笑と、猜疑と、金銭問題から生じた詭計だけでした。彼は毎日、胸の悪くなるような酒の上の雑談や、卑俗な処世訓を聞き、最後に自分の息子の金で、息子の恋人を奪おうとする父親を見たのであります、――ああ、陪審員諸君、これは実に忌わしい残酷なことではありませんか! しかるに、この老人は、かえって息子の不遜と残酷を衆人に訴え、世間へ悪しざまに吹聴して、妨害、中傷を試みたばかりか、息子の借金証文を買い集めて、彼を牢獄に投じようとしたのであります。陪審員諸君、私の被弁護者のように、一見残酷で乱暴なむこう見ずの人間は、世間にその例の珍しくないように、きわめて優しい心を持っているものですが、ただそれを、外に現わさないだけなのであります。笑わないで下さい、どうか私の考えを笑わないで下さい! 慧敏な起訴者は、先刻私の被弁護者がシルレルを愛していること、『美しいもの高尚なもの』を愛していることを引き合いに出して、無慈悲に嘲笑されました。私がもし起訴者の立場にいたならば、決してそれを嘲りはしなかったでしょう。そうです、こうした性情は、――ああ、あまりに誤解されやすいこうした性情を、私はどこまでも弁護します、――こうした性情はしじゅう優しいもの、美しいもの、真実なものに餓えているのであります。いわば、自分の粗暴で、残忍な性質のコントラストとして、――そうした性情は無意識にこれらのものに餓えている、まったく餓えきっているのであります。情熱的で表面粗暴に見える彼らは、一たん何ものか、例えば女などを愛する段になると、すぐもの狂おしいほど熱中してしまいますが、しかもその愛は必ず精神的な高伺なものであります。またどうか笑わないで下さい。それはこういう性質にしばしばありかちなのであります。そうした人間はとうていその情熱を、時とするときわめて粗野な情熱を、隠すことができません、――これが人の目を聳動さすので、人はその点のみを認めて、その人間を見ないのであります。ところが、彼らの情熱はすぐ燃えきってしまうけれど、見たところいかにも粗剛に思われるこれらの人間は、高潔な美しい対象物によって自己革新を求めます。悔い改めて立派なものとなり、潔白な高貴な人間になる可能を求めるのであります、――何と嘲笑されてもかまいません、とにかく『高筒なもの』、立派なものになろうとするのであります! 「先刻、私は被告とカチェリーナとの恋物語には、あえて手をふれないと言いました! が、一ことくらい言ってもさしつかえなかろうと思います。われわれが先刻耳にしたもの、あれは申し立てではなくて、復讐心に燃えている女のもの狂おしい叫びでしかありません。彼女には、そうです、彼女には被告の変心を責める資格はありません。なぜなら、彼女はみずから変心したからであります。もし彼女が少しでも熟考する余裕をもっていたら、決してあんな申し立てをしなかったでありましょう! ああ、彼女の言葉を信じないで下さい。私の被弁護者は、彼女の言ったような『極道者』ではありません! かの磔刑に処せられた偉大なる博愛家は、十字架の死を覚悟しながら『われは善き牧者なり。善き牧者はその羊のためにおのが魂を棄つ。そは一の魂も滅びざらんがためなり』と申されました。われわれもまた一個の人間の魂をも滅ぼしてはなりません! 「私は今、父親とは何を意味するかと訊いて、それは偉大なる言葉である、貴重なる名称であると叫びました。しかし、陪審員諸君、言葉というものは公正に取り扱わなければなりません。私はあえて事物を正当な名前をもって露骨に呼ぶものです。殺されたカラマーゾフ老人のような父親は、父親と呼ばるべきものでもないし、またそう呼ばれる資格をも持っていません。父親と呼ばれる資格のない父親に対する愛は、愚かでもあり不可能でもあります。愛は無から造り得るものではありません。無から造り得るものは、ひとり神あるのみです。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』愛に燃えたつ心から、ある使徒はこう書いています。私が今この聖なる言葉を引いたのは、自分の被弁護者のためではありません。すべての父なるもののために述べたのであります。では、父なる人々を教える権利を、誰が私に授けたか? 誰から授けられたのでもありません。しかし、人間として、公民としてvivos voco(言葉よ、栄えあれ!)と揚言します。われわれはこの地上にさして長くも住まないのに、多くの悪行をなし、多くの悪言を吐きます。それゆえ、われわれはみんな一堂に会した機会を利用して、互いによき言葉を吐くために、好適な瞬間を捉えようではありませんか。私とてもそうです。私はこの席で自分の機会を利用するのです。至尊の意志によって、われわれに与えられたこの演壇は、決して無意味に存在するのではありません、――全ロシヤがこの法廷におけるわれわれの声を聞いています。私は単に当法廷に集った父親たる人々のために言うのではなく、すべての父なる人々にむかって叫ぶのであります。『父たるものよ、その子を悲しますことなかれ!』と。そうです、われわれはまずキリストの言葉を実行して、しかる後はじめて、子の義務を問うことができるのであります! でなければ、われわれは父ではなくして、むしろわが子の敵であります。また子は子でなくして、われわれの敵なのであります。しかも、われわれみずから彼らを敵としたのであります! 『なんじが人を量るごとくおのれも量らるべし。』――これは私の言葉ではなく、聖書の教えるところであって、つまり人を量らばおのれも人に量られるというのであります。ですから、もし子がわれわれに量られたとおりにわれわれを量ったとしたら、どうして子を責めることができましょう?
「近ごろフィンランドで起った事件ですが、ある一人の女中が、秘密に子供を生んだという嫌疑を受けて取り調べられたところ、屋根裏の片隅の煉瓦の陰から、その女中の箱が発見されました。この箱のことは誰ひとり知らずにいたのでありますが、開けてみるとその中から、彼女のために殺された、生れたばかりの嬰児の死骸が出て来ました。なおその箱の中からは、以前彼女が生んで、生れると同時に殺した(これは彼女の自白したところであります)嬰児の骸骨が二つも発見されました。陪審員諸君、これがはたしてその子供たちの母親でしょうか! そうです、彼女はその子供たちを生んだに違いない。けれども、はたして彼女はその子たちにとって母親でしょうか? 母親という神聖な名前を彼女にあたえる勇気をもったものが、われわれの中に誰かあるでしょうか? われわれは大胆になりましょう、陪審員諸君、われわれはさらに無遠慮になりましょう。むしろ今日われわれはそうすべき義務があります。『金属《メダル》』とか『硫黄《ジューベル》』とかいう言葉を恐れていたモスクワの商人の妻(オストロフスキイ戯曲中の人物)のように、ある種の言葉や観念を恐れてはなりません。いや、むしろ近年の進歩がわれわれにもふれたことを証明するために、生んだだけのものはまだ父ではない、子供を生んで、子供に対する責任をはたしたものこそ父である、とこう直言いたしましょう。むろん、父という言葉には他の意味も、他の解釈もありまして、自分の父はたとえ極道者であっても、子供たちに対する悪漢であっても、自分を生んだ以上やはり父である、とこう主張するものもあります。しかし、これはいわば神秘的父親観とも名づくべきもので、理性では承認することができません。これは、ただ信仰によって承認し得るのみです。いや、もっと正確に言いますと、信仰を頼んで[#「信仰を頼んで」に傍点]受け容れ得るのであります。そうした例はほかにもたくさんありまして、理性で承認することはできませんが、宗教がそれを信ずるように命令します。しかし、そうしてみると、それは実際生活の範囲外に存するのです。実際生活の範囲においては、ただにそれみずから権利を有するのみならず、さらに大なる義務を課するところの実際生活の範囲においては、われわれがもし博愛家であり、進んでキリスト教徒たらんと欲すするならば、われわれは理性と経験とによって是とせられ、解剖の熔炉をくぐってきた信念を、実行しなければなりません。一言にしてつくせば、理性的に行動しなければなりません。夢の中や妄想の中で盲動するようなことをしてはなりません。それはつまり、人間に害毒をもたらさないためです。人間を苦しめたり滅ぼしたりしないためです。さすれば、その時こそ初めて、本当のキリスト教徒の行動となります。神秘的ではなく、真に博愛的な理性的行為となるのであります……」
 このとき法廷のすみずみから激しい拍手が起ったが、フェチュコーヴィッチは自分の弁論を中断せずに、終りまでつづけさせてもらいたいと懇願するもののように両手を振った。と、満場はすぐにしんとしてしまった。弁護士は語りつづけた。
陪審員諸君、諸君はこれらの問題がわれわれの子供、――といっても、一かどの青年となって、すでに是非の判断をするようになった子供にとって、没交渉であり得るとお考えですか? いや、没交渉ではあり得ません。われわれは彼に不可能な謙譲をしいることはできません! 親としての価のない父の態度は、ことに自分の友達である他の子供の、親らしい親と比較する場合、知らず識らず青年の心に悩ましい疑問を呼びさまします。ところで、彼がこの疑問に対して受ける答えは、きまりきった紋切り型で、『お父さんはお前が生んだのだ。お前はお父さんの骨肉なのだ。だから、お前はお父さんを愛さなくてはならない』というのであります。『しかし、父はおれを生もうとする時に、おれを愛していたろうか?』と青年は心にもなく、かような疑念を発します。そして、彼はますます驚きながら、『一たい父がおれを生んだのはおれのためだろうか? 父親はその瞬間に、――おそらく酒にでも刺戟されて、情欲をおこしたその瞬間、おれのことなど考えてはいなかったんだ、おれが男か女かさえも知らなかったんだ。ただおれに飲酒癖を遺伝したくらいなもので、これが父のおれにあたえた恩恵の全部だ……父がおれを生んで、一生涯おれを愛さなかったからって、なぜおれは父を愛さなければならないのか?』と青年はこう思わざるを得ません。ああ、諸君はこの疑問をさだめし残酷な、無作法なものと思われることでしょう。けれど、未熟な青年に、不可能な謙譲をお求めになってはいけません。『天性を戸口から追い出せば、今度は窓から飛んでくる』とあるとおりです、――ことに、何よりもわれわれは『金属《メダル》』や『硫黄《ジューベル》』を恐れてはなりません。われわれは神秘的概念の命ずるところでなく、理性と博愛心の命にしたがって、問題を解決しましょう。では、いかに解決すべきでしょうか? それはこうするのです。息子を父親の前に立たせて、理路整然と質問させるのであります。『お父さん、どうか聞かせて下さい、なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう? お父さん、どうか証明して下さい。なぜ私はあなたを愛さなければならないのでしょう?』こういうふうにして、もしその父親が息子の問いに答えて、立派に証明することができれば、これは神秘的偏見にのみ支持せられない、理性的な自意識にもとづく、厳密な意味における博愛的基礎の上に建てられた、本当の家庭であります。しかしながら、もし父親がそれを証明し得ない時は、この家庭はただちに破綻をきたします。父親は息子にとって父親ではありません。息子のほうでは将来、自分の父親を他人とし、また自分の敵とさえ見なす自由と権利とを得るのです。陪審員諸君、わが法廷は真理と健全なる思想の学校でなければなりません!」
 このとき弁護士は抑えることのできない、ほとんど狂熱的な拍手によって弁論を遮られた。むろん、傍聴者の全部ではなかったが、その半数は確かに拍手した。父親であり母親である人人も拍手した。上の方の婦人席からは、甲高い叫び声が聞えた。ハンカチを振るものもあった。裁判長はやっきとなってベルを鳴らしはじめた。彼は傍聴者の行為に激昂したらしかったが、しかしさっき嚇したように、『退廷』を命ずるとは、さすがに言い得なかった。それはうしろの特別席に腰をかけていた大官連や、燕尾服に勲章をおびた老人たちまでが、拍手したりハンカチを振ったりしたからである。それでようやく騒ぎが鎮まった時、裁判長は例の『退廷を命ず』という、以前の厳しい威嚇を繰り返したにすぎなかった。フェチュコーヴィッチは勝ちに乗じて、また興奮のていで弁論をつづけていった。
陪審員諸君、諸君は息子が塀を乗り越えて、父親の家へ闖入し、ついに自分を生んだ仇敵であり、凌辱者であるところの人間と相面して立った、あの恐るべき夜を記憶しておられるでしょう。その時のことは、今日もたびたびここで述べられたのであります。で、私は極力主張しますが、――そのとき彼が闖入したのは、決して金のためではありません。先刻も申したとおり、彼を強奪の罪に問うことは、愚もまたはなはだしいことであります。また彼が父の家へ忍び込んだのは、殺害せんがためではありません、決してそんなことはありません。もし彼が前もって、そういう企らみをもっていたとすれば、少くとも兇器だけくらい前に用意しておくはずです。銅の杵なんかは自分でも何のためとも知らず、ただ本能的に持って行っただけであります。また彼は合図で父をだましたとしましょう、父親の部屋へ闖入したとしましょう、――私はすでに、そういう伝説をこれからさきも信じないと申しましたが、しかしまあ、仕方がありません、ただ一分間だけ、そうであったと仮定しましょう! 陪審員諸君、私はすべての神聖なものに誓って言いますが、もしフョードルが被告にとって父親でなく、赤の他人の凌辱者にすぎなかったら、被告は部屋部屋を駈け廻って、この家に女のいないことを見さだめると、おのれの競争者には何の危害をも加えることなく、すぐ逃げ去ったに相違ありません。あるいはちょっとぐらい殴ったり、突き飛ばしたりしたかもしれませんが、ただそれだけのことです。なぜなら、被告はその場合、そんなものにかまっている余裕がなかったからであります、女の居どころを突き止めなければならなかったからであります。しかし、それは父親でした、しかも平生から常に父親の仮面を被った敵であり、子供の時から忌み嫌っていた凌辱者でありましたが、今はその上に奇怪きわまる競争者なのではありませんか! で、憎悪の念がわれ知らずむらむらと湧き起って、彼の分別をかき乱しました。ありとあらゆる感情が一時に込み上げてきました! これは狂気と錯乱の衝動ですが、同時に永遠の法則に対して復讐しようとする、抑えがたい無意識な自然の衝動だったのであります。自然界においては、すべてがそうなのであります。しかし、兇行者はその場でもなお殺害しませんでした、――私はこれを主張します、私はこのことを絶叫します、――そうです、彼はただ忌わしい憤怒に駆られて、杵を一振り振っただけです。殺害しようという意志もなければ、また殺害したことにも気づかなかったのであります。で、もしこの恐ろしい杵さえ彼の手になかったならば、彼はただ父を殴打しただけで、殺害はしなかったでしょう。で、彼は逃走する際、自分が危害を加えた老人が、死んでいることを知らなかったのであります。こうした殺人は殺人になりません。こうした殺人は親殺しにもなりません。そうです、あんな父親を殺したことは、親殺しと名づけられるべきでありません。こうした殺人は、ただ一種の偏見によってのみ、親殺しと名づけ得るものであります! しかし、この殺人は実際あったのでしょうか、まさしく行われたのでしょうか? 私は改めて心の底から諸君に訴えます!
陪審員諸君、もしわれわれが彼を有罪として処刑したら、彼は自分自身に向って、こう言うでしょう。『この人たちはおれの運命のために、おれの教育のために、おれの開発のために何一つしてくれなかった。おれをより善くもしなければ、また一個の人間にもしてくれなかった。この人たちはおれに食わせもしなければ、飲ませもしなかった。裸一貫で牢に繋がれているおれを見舞いもしなかった。そして、とうとうおれを懲役に送ることにした。おれはこれで勘定をすましたから、もう今では彼らに少しも負うところがない、永久に何人にも負うところはない。彼らも悪人なら、おれも悪人になってやろう。彼らも残酷なら、おれも残酷になってやろう。』陪審員諸君、彼はおそらくこう言うでしょう! 私は誓って申しますが、諸君の宣告される刑罰は、ただ被告の苦しみを軽減するだけです、被告の良心を軽減するにすぎません。被告は自分の流した血を呪ったり、それを悲しんだりしないようになるでしょう。同時に、諸君は被告の内部にひそんでいる、真人間となる可能性を滅ぼしてしまわれるのであります。なぜなら、彼は邪悪な盲目な人間として、生涯を過すからであります。けれど、諸君が想像もおよばぬほど、恐ろしい刑罰を被告に下そうとされるのは、それによって彼の魂を永久に救いよみがえらせるためなのでしょうか? もしそうだとすれば、どうか偉大な慈悲をもって彼を圧倒して下さい! しからば、諸君は被告の魂がいかに慄え、おののくかをごらんになるでしょう。どうして自分はこの慈悲にたえられよう、はたして自分はこれほどの愛を受けようとしているのか、自分はこの愛に価するものであろうか、こういう被告の魂の叫びをお聞きになるでしょう! ああ、私は知っています。私はこの心を知っています。陪審員諸君、乱暴ではあるけれど、高潔なこの心を知っています。この心は諸君の慈悲の前に跪拝するでしょう。この心は偉大なる愛の働きに渇しています。この心は新しく燃え立って、永久によみがえるでしょう。世には自己の眼界の限られているところから、世間を憎んでいる魂があります。けれども、この魂に慈悲を加えてごらんなさい。愛を示してごらんなさい、たちまちこの魂はおのれの過去を呪います。なぜなら、この魂の中には多分に善良な萌芽がひそんでいるからであります。かような魂はひろがり、成長して、神の慈悲ぶかいこと、人々の善良公平なことを見知るでしょう。彼は悔悟の念と目前に現われた無数の義務とに、慄然として圧倒されるでしょう。その時こそ、もう『おれは勘定をすました』などと言わずに、『おれはすべての人々に対して罪がある。おれはいかなる人々よりも無価値なものだ』と言うでしょう。彼は燃えるような苦行者の悔恨と、感激の涙を流しながら、『世間の人はおれよりも善良だ。彼らはおれを滅ぼそうとせず、かえって救ってくれたではないか』と叫ぶでしょう。ああ、諸君は容易にこれを、この慈悲の作用を行うことができるのであります。なぜなら、いくぶんたりとも真実らしい証拠が一つとして存在しないのに、『しかり、罪あり』と宣告するのは、あまりに苦しいことだからであります。一人の罪なきものを罰するよりは、むしろ十人の罪あるものを赦せ、――前世紀の光栄あるわが国の歴史が発したこの偉大な声を、諸君は聞いておられるでしょう? いまさら不肖な私か諸君に向って、ロシヤの裁判は単なる刑罰ではなくして、滅びたる人間の救済であるなどと、告げるまでもないことであります! もし他国民に固定せる文字と刑罰とがあるとすれば、われわれには精神と意義、滅びたるものの救済と復活とがあります。もしこれが真実であるとすれば、もしロシヤとロシヤの裁判がはたしてかようなものであるとすれば、――ロシヤには洋々たる未来があります。われわれは驚きません、われわれは、すべての国民が忌み嫌って回避する、暴れ狂うトロイカにも驚きません! 暴れ狂うトロイカではなくして、偉大なるロシヤの戦車が、堂々と勇ましく目的地に進んで行くのであります。わが被弁護者の運命は諸君の掌中にあります。わがロシヤの正義の運合も諸君の掌中にあります。諸君はそれをお救いになるでしょう。諸君はそれをお守りになるでしょう。諸君は正義を守護する人の存在すること、正義が善良な人の掌中にあることを立証なさるでしょう!」

   第十四 百姓どもが我を通した

 こう言ってフェチュコーヴィッチはその弁論を終った。もう今度こそは、嵐のような傍聴者の感激を押えることができなかった。制止しようなどとは思いもよらないことであった。女たちは泣いた。男子席でも泣くものが多かった。大官連さえ二人まで涙を流していた。裁判長も諦めて、ベルを鳴らすのを躊躇した。『ああした感激を阻止するのは、とりも直さず神聖な感情に冒涜を加えることですわ』とは、あとで当地の婦人たちが叫んだところである。当の弁護士は心底から感動していた。こうしたおりに、わがイッポリートはまたもや立ちあがって『反駁を試みよう』としたのである。人々は憎悪の目をもって彼を見やった。『何ですって? どうしようというんですの? あの人はまた反駁しようってんですの?』と婦人たちは囁いた。けれども、たとえ彼自身の細君をもふくんだ世界じゅうの婦人連が反対しても、この際イッポリートを止めることは不可能であった。彼は顔を真っ蒼にして、興奮のためにぶるぶる慄えていた。彼が発した最初の言葉や最初の句は、意味さえわからないほどであった。彼は息をはずまぜながら、しどろもどろに不明瞭な発音で弁じたが、しかし、ほどなく落ちつきを回復した。筆者《わたし》は彼の第二の論告の中から、ただ幾つかの語句をあげるにとどめておく。
「……私は小説を作ったといって非難を受けました。しかし、弁護士の弁論は、小説の上に小説を築いたものでなくて何でしょう? ただ詩の句が出て来なかったばかりです。フョードルが恋人を待っている間に封筒を破って、床の上に投げ棄てたなどと言いだしたばかりか、なおその上に、フョードルがこの驚くべき行為の間に言ったことまで引証されました。これがはたして詩ではないでしょうか? 彼が金を出したという証拠が一たいどこにあります? そのとき彼の言った言葉など、一たい誰が聞いたのです? 遅鈍な低能児のスメルジャコフは、自分が私生児であるために社会に復讐するといったような、一種のバイロン式主人公に変えられています、一たいこれがバイロン趣味の劇詩でないでしょうか? もしそれ、父の家に忍び込んだ息子が、父を殺しはしたけれど、また同時に殺したのではないというにいたっては、すでに小説でもなければ劇詩でもなく、みずから解決のできない謎を提出するスフィンクスであります。もし彼が殺したとすれば、やはり殺したのです。殺したけれども殺したのではないとは、一たい何事です、――誰にこれが理解されるでしょう? 次にわれわれは、わが法廷は真理と健全なる思想の法廷である、というようなことを聞かされました。ところが、この『健全なる思想』の法廷から、父を殺すことを親殺しと名づけるのは、一種の偏見にすぎないという荘厳な宣言が、原則として響き渡りました! けれども、もし親殺しが偏見であって、一人一人の子供が自分の父親に向って、『お父さん、なぜ私はあなたを愛さなければならないのですか?』と訊くようになったら、われわれははたしてどうなるでしょう? 社会の基礎はどうなるでしょう? 家庭はどうなってゆくことでしょう? 親殺し、これがモスクワの商人の妻の『硫黄《ジューベル》』にすぎなかったら、将来、ロシヤ法廷の最も尊貴な、最も神聖なる伝統は、単に一個の目的を達するために、すなわち赦すべからざるものを赦すために、破壊され、無視されてしまいます。ああ、被告を大慈悲によって圧倒せよ、と弁護士は絶叫されました、――が、これこそまさに犯人の必要とするところであって、明日になれば、被告がいかに圧倒されるかわかるでしょう。それに、弁護士がただ被告の無罪のみを主張されるのは、あまり謙遜すぎはしないでしょうか? なぜ子孫を初めとして新時代の人々へ、永久に親殺しの功績を残すために、親殺し補助金制度の創設を要求されないのでしょうか? 弁護士は聖書と宗教とを訂正して、それらをすべて神秘主義と見なし、健全なる思想と理知の解剖によって確証された真正のキリスト教は、ただ我らの手中にのみあると言われました。こうして、われわれの前にキリストの贋物をおこうとするのであります! 『なんじ人を量るごとくおのれも量らるべし』とこう弁護士は叫びながら、それと同時に、キリストはみずから量られたるごとく人をも量るように教えた、とこう推論されました、――しかも、これが真理と健全なる思想の法廷から発せられた言葉なのであります! 今では、弁論の前日に聖書を見るのは、ただ何といってもかなり独創的なこの書物をこれくらいまで心得ているぞ、ということをひけらかすためにすぎない。この本も必要に応じて、ある効果をもたらすのに役だつ、というくらいな心持なのです! しかし、キリストはそうしないように、そういう行為を慎しむように、と命じていられます! なぜなら、それを行うのは悪の世界だからです。しかし、われわれは赦さなければなりません。いま一方の頬をもさし向けなければなりません。自分を凌辱したものがわれわれを量るごとく、彼らを量ってはなりません。神はわれわれにこう教えられましたが、子供に父親を殺すことを禁ずるのが偏見であるなどと、教えられはしなかったのであります。われわれは真理と健全なる思想の法廷において、我らの神の聖書を訂正すべきではありません。しかるに、弁護士はこの神を不遜にもただ『十字架につけられたる博愛家』と呼んでいます。それはキリストに向って、『なんじはわれらの神なり』と呼んでいる正教国ロシヤの全国民に反するものであります……」
 このとき裁判長は口を挟んで、普通こうした場合における裁判長の例にもれず、あまり誇張した言辞を弄して、職務の限界を超えた議論をしないようにと、夢中になって前後を忘れた検事をたしなめた。しかし、法廷は鎮まらなかった。傍聴者はどよめき動いて、不満の叫びさえ挙げた。フェチュコーヴィッチは、反駁というほどのこともしなかった。彼は演壇へ上って、ただ片手を胸にあてながら、腹だたしげな声で、威厳に充ちた言葉を一こと二こと述べたばかりである。彼は『小説』と『心理解剖』について軽く揶揄を弄したのち、あの個所で『ジュピタアよ、なんじは怒れり、ゆえになんじはあやまてり』という文句を挿んだ。この文句は傍聴者の間に、さも同感らしい盛んな笑声を喚び起した。それはイッポリートが、一こうにジュピタアらしくなかったからである。次にフェチュコーヴィッチは、自分が若い人々に親殺しを許容した、などというような寃罪に対しては、あえて反駁の心要を認めないと、いかにももったいらしく言った。『キリスト教の曲解』問題、および彼がキリストを神と呼ばずに、『十字架につけられたる博愛家』と名づけて、『ロシヤ正教の精神に反し、真理と健全なる思想の法廷においてあるまじきこと』を言ったという非難に関しては、――フェチュコーヴィッチは、それを『あてこすり』であると仄めかし、自分が当地へ来る時には、少くとも当地の法廷において、『市民として、および忠良なる臣民として、私の人格を傷つけるような』寃罪をきせられる危険はないと信じていた、と述べた。しかし、このとき裁判長は、彼をも同様にたしなめた。で、フェチュコーヴィッチは一揖して、その答弁を終った。すると、そのあとから、同感の意を表するような満廷の囁きが聞えはじめた。イッポリートは、当地の婦人たちの意見によると、『永久に圧倒されてしまった』のである。
 次に被告が発言を許された。ミーチャは立ちあがったが、多くを言わなかった。彼は肉体的にも精神的にもすっかり疲労しきっていた。けさ法廷へ入って来た時の、独立不羈な元気らしい様子は、ほとんどどこにも見られなかった。彼はこの日、生れて初めて、今まで理解しなかった非常に重大なあるものを啓示され、経験したように見受けられた。彼の声は弱っていた。彼はもはや、先刻のように叫ばなかった。その言葉には、何やら新しい調子が響いたが、それは諦めと、敗北と、屈服の調子であった。
陪審員諸君、このうえ私に何を言うことがありましょう――裁きの日が来たのです。私は自分の上に神の右手《めて》がおかれているのを感じています。道を踏み誤った人間の最後が来たのです! しかし、私は神の前に立っているような心持で、諸君に申します。『私は父親の血に対しては、――断じて無罪です!』なお最後に繰り返して言いますが、私か殺したのではありません! 私は道を踏み誤りましたが、善を愛していました。しじゅう正しい道に入ろうと努力しながらも、やはり野獣のような生活をしていました。私は検事に感謝します。検事は私について、自分でも知らないことをたくさん聞かしてくれました。しかし、私か親父を殺したというのは間違いです、それは検事の誤りです! 私はまた弁護士にも感謝します、あの弁論を聴きながら泣きました。が、私か親父を殺したというのは間違いです。あんなことは仮定さえする必要がありません! それから、医者の言葉も信じないで下さい。私は正気です。ただ心が悩んでいるだけなのです。もし諸君が私を赦して下さるなら、釈放して下さるなら、――私は諸君のために祈りをあげます。私は立派な人間になることを誓います、神の前で誓います。が、もし罰せられても、――私は自分の頭上で剣を折ります。剣を折って、その破片に接吻します! しかし、容赦して下さい。私の神を私から奪わないで下さい! 私は自分の性質を知っています、――私は神を怨むに相違ありません! 私の心は悩んでいます……容赦して下さい!」
 彼はほとんど倒れるように自分の席に着いた。その声は途切れがちで、最後の一句はやっとのことで言い終ったほどである。次に裁判長は問題の整理に着手して、原被両告に結論を求めた。しかし、筆者《わたし》は詳しいことを書くまい。最後に陪審員一同は立ちあがって、会議のために退廷しようとした。裁判長は非常に疲れていたので、『どうか、公平に熟議していただきたい。弁護士の雄弁にうごかされてはなりませぬぞ。しかし、とにかく慎重に考量審議して、諸君が偉大なる責任をおびていることを、お忘れのないように願います。云々』と弱々しい声で注意を与えた。陪審員が退廷した後、公判は休憩を宣せられた。傍聴者は席を立ったり、歩き廻ったり、山積した印象を話し合ったり、休憩室で食事したりすることができた。もうよほど遅くなって、ほとんど夜の一時に近かった。けれど、誰も帰ろうとするものはなかった。誰もかれも恐ろしく緊張して、帰って寝るどころではなく、胸をどきどきさせながら、待ち構えていた。とはいえ、みながみな胸を躍らせているわけではなかった。婦人たちはただもう待ち遠しさにやきもきしていたけれど、その胸は落ちついていた。『きっと無罪になる』とこう思っていたので、誰もかれも、満廷が熱狂する戯曲的な瞬間を待ち構えていた。正直なところ、男子席のほうでも、きっと無罪になるに相違ないと確信しているものが、ずいぶんたくさんあった。あるものは喜び、あるものは顔をしかめていたが、中にはただしょげ返っているものもあった。無罪にしたくなかったのである! フェチュコーヴィッチは成功を確信していた。彼は一同に取り囲まれて祝辞を受けていた。みんなしきりに彼の機嫌をとるのであった。
「弁護士と陪審員の間には、目に見えない糸が繋がっているものでしてね。」あとで聞いたところによると、フェチュコーヴィッチはあるグループでこう言ったそうである。「それはもう弁論の時に繋がれてしまうもので、ちゃんと予感することができますよ。私はそれを感じました、確かにありますよ。もうこっちのものです、ご安心なさい。」
「だが、あの百姓どもがこれから何と言うでしょうね?」一人のしかめ顔をした紳士が、ある紳士たちのグループに近づきながら、こう言った。それはでっぷり肥ったあばた面で、近郊の地主であった。
「でも、百姓だけじゃありませんよ。あの中には官吏が四人もいますからね。」
「そうです、官吏もいますよ」と郡会の議員が仲間に入りながら言った。
「だが、諸君はナザーリエフを、あのプローホル・イヴァーノヴィッチをご存じですか? あのメダルをつけた商人の陪審員ですよ。」
「それがどうしました?」
「素晴しい知恵者なんですよ。」
「でも、黙ってばかりいるじゃありませんか。」
「黙ってはいるが、あのほうがかえっていいですよ。あの男はペテルブルグに教えを乞わなくてもいいのです、自分のほうからペテルブルグ全体を教えるんですからね。あれは十二人からの子供をもっていますよ、どうです!」
「だが、どうでしょう、一たいあの連中は被告を無罪にしないでしょうかね?」また別なグループの中で、当地の若い官吏の一人がそう叫んだ。「きっと無罪にするね」という断乎たる声が聞えた。「無罪にしなければ恥辱ですよ、醜態ですよ!」と官吏は叫んだ。「かりに彼が殺したとしても、親父が親父ですからね! それに、被告はあんなに夢中になっていたのだから……彼は実際、杵を一ふり振っただけです。ところが、親父は倒れたんですよ。ただしこの際、下男などを引き合いに出したのはよくない。それは単に滑稽な挿話にすぎませんよ。私が弁護士の位置にいたら、殺したけれども、彼に罪はない、それだけの話だ、畜生! とこんなふうに言ってやりますがね。」
「だから、弁護士もそう言ったんですよ。ただ、『それだけの話だ、畜生!』とは言いませんでしたがね。」
「いや、ミハイル・セミョーヌイチ、ほとんど実際そう言いましたよ」と第三の声が合槌を打った。「大丈夫ですよ、諸君、当地では情夫の正妻の喉を斬った女優が、大斎期のときに無罪になりましたからね。」
「でも、斬ってしまったのじゃありませんよ。」
「同じこってすよ、同じこってすよ! どうせ斬りかけたんですからな。」
「だが、弁護士が子供のことを言ったあたりはどうです? 素晴しいものじゃありませんか!」
「素晴しいもんでしたね!」
「だが、神秘主義のことだってどうです、神秘主義のことだって、え?」
神秘主義のことなんかもうたくさんですよ」とまた誰かが叫んだ。「それよりイッポリートの身になってごらんなさい、イッポリートの今後の運命を想像してごらんなさい! 検事夫人は明日にもミーチャのことで、ご亭主の目を引っ掻きますからね。」
「細君もここへ来ていますか!」
「どうして来ているものですか? ここへ来ていたら、その場で引っ掻いてしまいますよ。歯が痛むって家におりますよ。へっ、へっ、へっ!」
「へっ、へっ、へっ!」
 もう一つのグループでは、
「だが、ミーチャは無罪になるかもしれませんよ。」
「用心していないと、明日は『都』がひっくり返るような騒ぎになって、十日くらい飲みつづけますぜ。」
「ええ、あん畜生!」
「畜生には相違ないが、畜生なしじゃすみませんよ。あの先生、あそこへ行かなくてどこへ行くもんですか。」
「諸君、それはまあ、確かに雄弁でしたろう。だが、親父の頭を桿秤《さおばかり》で打ち割るなんて、よくありませんな。そんなことを赦したら、世の中はどうなります!」
「でも、戦車はどうです、戦車は?」
トロイカを戦車に造り直しましたね。」
「だが、明日になると、戦車をまたトロイカに造り変えることでしょう、『必要に応じて』ね、『すべて必要に応じて』ね。」
「どうもすばしこい連中がふえてきましたよ。諸君、一たいわがロシヤには正義があるのでしょうか、それとも全然ないのでしょうか?」
 けれども、ベルが鳴った。陪審員はちょうどかっきり一時間、協議したのである。傍聴者がふたたび席に着いた時には、深い沈黙が法廷を支配していた。陪審員が法廷へ入って来た時の光景を筆者《わたし》は今でも記憶している。いよいよやって来た! 訊問をいちいち順を追うて[#「追うて」はママ]あげるようなことはすまい。第一、そんなものは忘れてしまった。ただ筆者の記憶しているのは、『被告は強奪の目的をもって、予定の計画によって殺したのでしょうか?』という裁判長の主要な第一問に対する陪審員の答えだけである(もっとも、この問いも言葉どおりに憶えているわけではない)。あたりはしんと鎮まり返った。陪審員の主席は、一ばん年の若い官吏であったが、彼は死んだような法廷の静寂を破って、はっきりと声高に宣言した。
「さよう、有罪であります!」
 つづいて、他のあらゆる点に関しても、やはり同じく、有罪である、しかり、有罪である、という答えが繰り返された。しかも、それにはいささかの酌量もなかった。これは誰しも予期しないところであった。ほとんどすべてのものは、少くとも情状酌量くらいは信じていたのである。死んだような法廷の静寂は破られなかった。有罪を望むものも無罪を望むものも、いずれもまったく字義どおり化石したようになっていた。しかし、これはただ最初の間だけで、やがて恐ろしい混乱が起った。男子席のほうでは非常に満足しているものがたくさんあった。中には歓喜の情を隠そうとしないで、もみ手をしているものさえあった。不満な連中はおし潰されたように、肩をすぼめたり、囁き合ったりしたが、それでもまだ何のことやらはっきりわからない様子であった。ところで、婦人たちはどうかというと、筆者《わたし》は一揆でも起すのではなかろうかと思ったほどである。初め彼らは、自分の耳を信じないもののようであったが、やがてたちまち、『それは何ということです、一体まあ、何事です?』という絶叫が満廷に響き渡った。彼らはみな席を跳りあがった[#「跳りあがった」はママ]。彼らはきっと今すぐにも判決が取り消されて、もう一度やり直しになることと、信じきっていたに違いない。と、この瞬間、突然ミーチャは立ちあがって、両手を前へさし伸べながら、はらわたを断つような声でこう叫んだ。
「神とその恐るべき審判の日にかけて誓います。私は父の血に対して罪はありません! カーチャ、おれはお前を赦してやる! 兄弟よ、友よ、もう一人の女を憐れんでやって下さい!」
 彼はしまいまで言い終らないうちに、法廷一ぱいにひびくような声を立てて働哭しはじめた。それは彼の不断の声と違った思いもよらぬ新しい声で、どうして彼に突然こんな声が出たのか、不思議なほどであった。すると、二階の一番うしろの隅から、たまぎる[#「たまぎる」はママ]ような女の泣き声が聞えた。それはグルーシェンカであった。彼女はさっき誰かに頼んで、弁論の始まる前に、また法廷に入れてもらったのである。ミーチャは法廷から曳き出された。判決の発表は明日まで延期された。法廷ぜんたいは上を下への大騒動になった。しかし、筆者《わたし》はもう外へ出ていたので、その騒ぎの声を聞かなかった。ただ玄関の出口へ来てから、耳についた幾つかの叫び声を記憶しているばかりである。
「二十年くらいは鉱山の臭いを嗅がなけりゃなるまいて。」
「まあ、そんなものだろう。」
「百姓どもが我を通したんだ。」
「そして、ミーチャを片づけてしまったんだ!」