京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P360-369   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦4日目]

第十三篇 エピローグ

   第一 ミーチャ救済の計画

 ミーチャの公判後、五日目の早朝まだ九時ごろに、アリョーシャはカチェリーナを訪れた。それは彼ら二人にとって重要な一つの事件について、最後の相談をしたうえ、ある依頼をはたすためであった。彼女は、いつぞやグルーシェンカの訪問を受けた時と同じ部屋で応接した。すぐ隣りの部屋には、譫妄狂にかかったイヴァンが、人事不省のまま横たわっていた。カチェリーナはあの公判のすぐあとで、意識を失った病めるイヴァンを、わが家へ運ばせたのである。彼女は、将来かならず起るべき世の取り沙汰や非難を、一さい無視していた。同居していた二人の親戚の婦人のうち、一人は公判が終るとすぐモスクワへ立ったが、一人のほうはまだ残っていた。しかし、たとえ二人とも立ってしまったにせよ、カチェリーナは自分の決心を変えず、病人の看護のため夜昼その枕べに侍していたことであろう。イヴァンはヴァルヴィンスキイとヘルツェンシュトゥベの治療を受けていた。モスクワの医師は、病気の結果を予言することを避けて、モスクワへ帰ってしまった。残っていた二人の医者は、カチェリーナとアリョーシャに力をつけてはいたものの、まだ確かな望みを与えることができないらしかった。アリョーシャは日に二度ずつ、兄の病床を見舞っていたが、今朝はとくべつ面倒なことがあって、やって来たのである。彼はその用事が切り出しにくいような気もしたが、しかし非常に心がせいていた。ほかにもまださし迫った用事があるので、急いでそちらへ廻らなければならなかった。二人はもう十五分くらい話をしていた。カチェリーナは蒼ざめ疲れていたが、同時にまた病的に興奮していた。今アリョーシャがとくに何の用事で訪ねて来たか、彼女はちゃんと察していたのである。
「あの人の決心のことでしたら、心配なさらなくってもよござんすわ」と彼女は語気を強めて、アリョーシャに言った。「どのみちあの人は、そうするよか仕方がないんですもの。逃げなけりゃなりませんわ! あの不幸な人は、あの名誉と良心の勇者は、――あの人じゃありません、ドミートリイ・フョードルイチじゃありません、この戸の向うに寝ている人です、兄さんのために自分を犠牲にした人ですの(とカチェリーナは目を輝かしながら、つけたした)。――あの人はもうとっくから、この逃亡の計画を、すっかりわたしに打ち明けてくれました。実はねえ、あの人はもう手を廻しておいたんだそうですの……あなたにも多少お話ししましたが……たぶんね、シベリヤへみんなと一緒に護送される時、ここから三つ目の駅で脱走させることになりましょう。ええ、それはまだだいぶさきのことですわ。イヴァン・フョードルイチはもうその三つ目の駅の駅長のとこへいらっしゃいました。ところが、護送隊の隊長はまだ誰だかわからないし、それに前から知ることができないんですの。たぶん明日になったら、くわしい計画書をお目にかけることができましょう。それは公判の前日イヴァン・フョードルイチが、まさかの時の用心に、わたしのとこへおいて行ったんですの……そうそう、あの時よ、億えていらっしゃるでしょう、ほら、われしたちが喧嘩をしているとこを、あなたに見られましたわね。あの人が階段をおりて行こうとした時、ちょうどあなたがいらしったので、わたしあの人を呼び戻したじゃありませんか、覚えてらして? あの時、わたしたちがなぜ喧嘩していたか、あなたおわかりになって?」
「いいえ、わかりません」とアリョーシャは言った。
「あの人はむろんあの時あなたに隠していましたが、あの喧嘩はその脱走の計画から起ったことなんですの。あの人はあれから三日ほど前に、おもなことをすっかりわたしに打ち明けたので、――その時からわたしたちは喧嘩を始めましてね、それ以来、三日のあいだ喧嘩のしどおしでしたわ。なぜ喧嘩したかといいますとね、もしドミートリイさんが有罪になったら、あの売女《ばいた》と一緒に外国へ逃げるのだ、とこうあの人が言うもんですから、わたし腹を立ててしまったんですの、――なぜ腹を立てたかって、それは言えませんわ。わたし自身にもわからないんですもの……ええ、むろんわたしはその時あの女のために、あの売女のために怒ったんですわ。あの女もドミートリイさんと一緒に、外国へ逃げるっていうのが順にさわったんですの!」カチェリーナは憤りに唇を慄わしながら、だしぬけに叫んだ。「イヴァン・フョードルイチは、その時わたしが腹を立てたのを見て、すぐにわたしが嫉妬しているのだと思ったんですの。つまり、わたしがね、まだやはりドミートリイさんを愛していると思ったんですわ。それで、あの時はじめて喧嘩してしまったんですの。わたし弁解なんかしたくもなければ、また謝ることもできませんでした。イヴァン・フョードルイチのような人までが、わたしがまたもと通りドミートリイさんを愛してるように疑うなんて、本当に情けなくてたまりませんでしたわ……それも、わたしずっと以前に、ドミートリイさんを愛してはいない、ただあなた一人を愛してるきりだって、はっきりあの人に言っておいたんですものね! わたしはあの売女に対する憎しみのために、あの人に腹を立てたんですわ! その後三日たって、ちょうどあなたがいらしたあの夜、あの人はわたしのとこへ封をした手紙を持って来てね、もし自分に何事か起ったら、すぐこれを開封してくれ、って言うじゃありませんか。ええ、あの人は自分が病気になることを知ってたんですわ! あの人はね、その封筒の中に詳しい脱走の計画が入れてあるから、もし自分が死ぬか、それとも重い病気にでもなったら、わたし一人でミーチャを助けてくれ、と言うんですの。そのとき一万ルーブリばかりのお金を、わたしの手もとへおいて行きました。検事は誰かの口から、あの人がそのお金を両替えにやったのを聞きこんで、論告の時そのことを言いましたっけ。イヴァン・フョードルイチはね、まだわたしがミーチャを愛しているものと信じて、始終やきもきしているくせに、兄を救おうという考えを棄てないで、わたしに、当のわたしに向って、ドミートリイさんの救助を依頼なさるんですもの、これにはわたしもずいぶんびっくりさせられましたわ。ああ、それこそほんとうに犠牲ってもんですわ! いいえ、アレクセイさん、完全な意味の自己儀牲ってものは、とてもあなたおわかりになりゃしません! わたしは敬虔の念に打たれて、あの人の足もとに跪こうとまで思いましたが、そんなことをしては、ミーチャの助かるのを喜んでいるように思われはしないかと、ふとそう考えたものですから(あの人はきっとそう思うに違いありませんわ!)あの人がそういう間違ったことを考える可能性があると思っただけで、わたし急にいらいらしてきて、あの人の足に接吻する代りに、いやな場面を演じてしまったんですの。ああ、わたしは不幸な女ですわ! これがわたしの性質なんですもの、恐ろしい不幸な性質なんですもの! ええ、そうよ。わたしはこんなことをして、結局あの人に見棄てられてしまうに違いありません。あの人もドミートリイさんのように、もっと一緒に暮しいい女に見変えてしまいますわ、けれど、そうなったら……いいえ、そうなったら、わたしはとても我慢ができません、自殺してしまいます! ところで、あの時あなたが入ってらして、わたしがあの人を呼び戻したでしょう。その時、あの人があなたと一緒に入って来た時、さも憎々しそうな軽蔑の目つきで、ふいとわたしを見たので、わたし、急にむらむらとしてしまったんですの。だから、――憶えてらっしゃるでしょう、――ドミートリイさんが父殺しだと主張したのはあの人だ、『あの人ひとりです[#「あの人ひとりです」に傍点]』と、だしぬけにあんだに叫んだでしょう! わたしはもう一度あの人を怒らせようと思って、わざとあんなことを言ったんですわ。あの人は一度も、決して一度もミーチャが人殺しだなんて、主張したことはありません。それはかえってわたしなのよ。ええ、何もかも気ちがいじみたわたしのしたことですわ! 法廷であんな情けないことが起ったのも、みんなみんなわたしのせいですわ! あの人はね、自分は高潔な人間だ、たとえわたしがドミートリイさんを愛してても、復讐心や嫉妬のために兄弟を破滅させはしないってことを、わたしに証明しようとしたんです。だから、法廷へも出たわけですの……何もかもわたしがもとです、わたし一人が悪いんですわ!」
 はじめてカーチャの告白を聞いたアリョーシャは、いま彼女が非常な苦痛に悩まされていることを感じた。つまり、極度に傲岸な心が痛みを忍んで、その慢心を打ち砕こうとしながら、悲哀に敗れて、倒れんとしているのであった、今ミーチャが有罪になってから、彼女は一生懸命に隠そうと努めていたけれど、アリョーシャは彼女の恐ろしい苦痛の原因を、もう一つ知っていた。しかし、今もし彼女が進んで、それを打ち明けるほど屈辱に甘んじたなら、かえって彼のほうが苦痛を感ずるに違いなかった。彼女は法廷における自分の『裏切り』に苦しんでいるのであった。彼女の良心は、彼アリョーシャの前で、涙と号泣と煩悶と跪拝とともに、謝罪せよと命じている。それをアリョーシャは予感したのである。しかし、彼はその瞬間を恐れて、この苦しめる女を容赦したいと思った。したがって、自分の訪問の目的たる用件が、ますます切り出しにくくなったのである。彼はまたミーチャのことを言いだした。
「大丈夫です、大丈夫です、あの人のことは心配なさらないほうがよござんすわ!」とカーチャはまた頑固にきっぱり言った。「あの人がそんなことを言うのは、ほんの一時のこってすわ。わたしあの人の気性を知っていますもの。あの人の心をよく知っていますもの。安心して下さい。あの人は脱走に同意しますわ。それに、第一、今すぐじゃありませんから、あの人もまだゆっくり決心する暇があります。それまでには、イヴァン・フョードルイチも達者になって、自分ですっかり取り計らいをするでしょう。そうすれば、わたしはもう何もしなくたってよくなりますわ。ご心配はいりません、きっと同意しますから。それに、あの人はもう同意してらっしゃるんですよ。一たいあの女を残して行けますか? ところが、あの女が懲役へやられる気づかいはないから、あの人も逃げるよりほか仕方がないじゃありませんか。ただ、あの人はあなたを怖がっているんですの。あなたが道徳上の立場から、脱走に賛成しないのじゃあるまいかと、それを怖がってるんですよ。もしこの場合、それほどあなたのご裁可が必要なんでしたら、あなたも寛大にそれを『許し』ておあげにならなくちゃいけませんわ」と、カーチャは皮肉につけ加えた。
 彼女はちょっと口をつぐんで、薄笑いをもらした。
「あの人はあそこでね」と彼女はまた言いだした。「頌歌《ヒムン》がどうだの、自分の負わなければならない十字架がどうだの、義務がどうだのって講釈してるんですの。イヴァン・フョードルイチはあの時分、よくわたしにこの話をしましたわ。もしあなたがあの人の話しぶりをご存じでしだらねえ!」彼女は感にたえたように、にわかにそう叫んだ。「あの人は、あの不幸なミーチャのことをわたしに話しながら、どんなにかミーチャを愛していたでしょう! しかも、それと同時に、またどんなにミーチャを憎んでいたでしょう! それをあなたがご存じでしだらねえ! ところが、わたしは、ああ、わたしはそのとき傲慢にも、あの人の話やあの人の涙を、冷やかしながら聞き流したんたですの! ああ、売女《ばいた》! わたしこそかえって売女ですわ! わたしがそんなふうにしたために、あの人は譫妄狂にかかったんですわ! ですが、あの人は、有罪を宣告されたほうの人は、――一たい痛苦を受ける覚悟ができてるんでしょうか」とカチェリーナはいらだたしげに言葉を結んだ。「あんな人に苦しむことができるでしょうか? あんな人間は決して苦しみゃしませんわ!」
 この言葉には一種の憎悪と、忌わしげな侮蔑の心持が響いていた。けれども、同時に、彼女自身それを裏切ったのである。『いや、ことによったら、ミーチャに対してすまないという気がするものだから、そのために、ある瞬間ミーチャを憎むのだろう』とアリョーシャは肚の中で考えた。彼はこれがどうか『ある瞬間』だけであってほしいと思った。彼はカチェリーナの最後の言葉の中に、一種の挑戦の語調を聞いたが、それには応じなかった。
「で、わたしが今日あなたを呼んだのはね、あの人を説きつけるって約束していただくためですの。あなたのお考えでは、脱走するってことは潔白でない、卑怯な……そして、何と言いますか……非キリスト教的なことでしょうか、え?」カチェリーナはさらに挑むような語調で、こうつけ加えた。
「いいえ、決してそんなことはありません。私は兄にすっかり言います……」とアリョーシャは呟いた。「兄は今日あなたに来ていただきたいと言ってましたよ。」彼はしっかりカチェリーナの目を見つめながら、とつぜん叩きつけるようにこう言った。
 彼女はぴくりと身ぶるいして、長椅子に腰かけたまま、少し体をうしろへよろめかした。
「わたしに……わたしにそんなことができて?」と彼女は顔を真っ蒼にして噺いた。
「できますとも。それに、ぜひそうしなければならないことです!」アリョーシャ
は声を強めて、急に満面活気を呈しながら言った。「兄はぜひ、あなたに会わなきゃならない必要があるんです。それもとくに今です。もしその必要がなければ、こんなことを言いだして、前もってあなたを苦しめはしないはずです。兄は病気なのです。まるで気ちがい同然になっています。そして始終あなたに来ていただきたいと言っているのです。兄は、仲直りのために来ていただきたいと言うのじゃありません。ただあなたがあそこへ行って、閾の上からでもちょっと顔を見せてやって下されば、それでいいのです。兄もあれ以来ずいぶん変りました。あなたに対して数えきれないほど罪があることも悟りました。あなたに赦しを乞おうというのではありません。『おれなんかとても赦してもらえる人間じゃない。』兄は自分でもそう言ってるくらいです。まあ、ただあなたが閾の上に顔を出して下さればいいのです……」
「だって、あまりふいですから……」とカチェリーナは呟いた。「わたしはこの間から、あなたがそう言いにいらっしゃるような気がしていたんですの……あの人がわたしを呼ぶってことは、もうちゃんとわかっていましたわ……でも、そりゃ駄目ですわ!」
「できないことかもしれませんが。まげてそうしていただきたいのです。ねえ、こうなんです、兄は今はじめて、あなたを侮辱したことに気がついて、びっくりしているのです。ほんとに初めて気がついたのです。今までこれほど完全に悟ったことはないのです! もしあなたが来て下さらなければ、『一生不幸でいなければならない』とこう兄は言っています。ねえ、お聞き下さい、二十年の懲役を宣告された兄が、まだ幸福でいようと思ってるんですからね、――可哀そうじゃありませんか? 考えてもごらんなさい、あなたは罪なくして滅びたものを訪問なさるのです」とアリョーシャは思わず挑むように口走った。「兄には、犯した罪がないのです、兄の手は血に染んでいません! これから忍ばねばならぬ数限りない苦痛のために、あの人を訪問してやって下さい……出かけて行って、兄を闇の中へ見送って下さい……闇の上にだけでも立って下さい……あなたにはそうする義務があります、そうする義務があります[#「義務があります」に傍点]!」アリョーシャは『義務があります』という言葉に無量の力をこめて言った。
「義務はあるでしょう……けれど……わたしには行けませんわ……」とカチェリーナは呟くように言った。「あの人はわたしを見るでしょう……わたしたまりません。」
「あなた方二人の目は、もう一ど合わなけりゃなりません。もし今その決心をなさらなければ、あなたは一生涯くるしむことになりますよ。」
「一生涯くるしんだほうがよござんすわ。」
「あなたは行く義務があります、義務があります[#「義務があります」に傍点]。」アリョーシャは命ずるように、力を入れてふたたび言った。
「でも、なぜ今日でなければならないんですの、なぜ今でなければ……わたし病人を棄てて行くことはできませんわ……」
「ちょっとの間ならいいじゃありませんか、ほんのちょっとですもの。もし、あなたが行って下さらなければ、兄は今晩、熱病になってしまいます。私は間違ったことを言やしません。可哀そうだと思って下さい!」
「わたしこそ可哀そうだと思って下さい」とカチェリーナは咎めるように言って、悲しそうに泣きだした。
「じゃ、行って下さるんですね!」アリョーシャは相手の涙を見ながらも、頑固に言いはった。「私は一足さきに行って、今あなたがいらっしゃるって、兄にそう言っておきましょう。」
「いいえ、そんなことは決して言わないで下さい!」と、カチェリーナはびっくりして叫んだ。「わたし行きますわ。だけど、前からそんなことを言うのはよして下さい。なぜって、わたし行っても、中へ入らないかもしれませんもの……どうするかまだわかりませんもの……」
 彼女の声は途切れた。彼女は呼吸が苦しそうであった。アリョーシャは出て行こうとして立ちあがった。「でも、誰かに会やしないでしょうか?」彼女はまたもや真っ蒼になって、小声にこう言った。
「だから、今すぐ行っていただきさえすれば、あそこで誰にもお会いになる心配はありませんよ。誰も来やしません、本当ですよ。お待ちしています」とアリョーシャは念を押して、部屋を出た。

   第二 嘘が真になった瞬間

 アリョーシャは、ミーチャの寝ている病院さして急いだ。判決の翌日、ミーチャは神経性の熱病にかかって、当地の町立病院の囚人部へ送られたのである。しかし、アリョーシャやその他多くの人々(ホフラコーヴァやリーザなど)の願いによって、医師のヴァルヴィンスキイはミーチャをほかの囚人と同居させずに、特別の計らいで、以前スメルジャコフの寝ていた小部屋へ入れた。むろん、廊下の端には番兵が立って、窓は格子づくりになっていたので、ヴァルヴィンスキイもこの規則に反した寛大な処置のために、心配することはいらなかった。彼は善良な同情ぶかい青年であった。彼はミーチャのような人間にとって、とつぜん人殺しや詐欺師の仲間入りをするのが非常につらいものだということを知っていたので、まずあらかじめそれに慣れさせようと思ったのである。親みや知人などの訪問も、医者、監視人にはもちろん、署長にさえ内々ゆるされていた。けれど、近頃ミーチャを訪ねるものは、ただアリョーシャとグルーシェンカだけであった。ラキーチンも二度ばかり面会を強要したが、ミーチャはヴァルヴィンスキイに頼んで通させなかった。
 アリョーシャが入って行った時、ミーチャは病院のガウンを着て、醋酸水で濡らしたタオルを頭に巻きつけたまま、寝台の上に坐っていた。彼はとりとめのない目つきで、入って来たアリョーシャを見たが、それでも目の中には、一種の恐怖ともいうべきものがひらめいていた。
 一たい彼は裁判の当日から、ひどくふさぎ込んでしまったのである。どうかすると、三十分くらい黙り込んで、しきりに何やら思い悩みながら、眼前にいる人のことも忘れてしまうような工合であった。よし沈黙を破って、自分のほうから口をききはじめても、いつも必ずだしぬけで、本当に必要のないようなことを言うのがきまりであった。また時としては、苦しそうな顔つきをして、アリョーシャを見ることもあった。彼はアリョーシャより、グルーシェンカと一緒にいるほうが楽なようであった。もっとも、グルーシェンカとはほとんど口をきかなかったが、彼女が入って来さえすれば、彼の顔は喜びに輝くのであった。アリョーシャは、寝台に坐っているミーチャのそばへ、黙って腰をおろした。この日ミーチャは、不安な心持でアリョーシャを待っていたが、思いきって何も訊く勇気がなかった。カチェリーナが訪問を承諾しようとは、思いもかけないのであった。同時に、もし彼女が来なければ、何かとんでもないことが起るに相違ない、と感じていた。アリョーシャには兄の心持がよくわかった。
「トリーフォンがね」とミーチャはそわそわ言いはじめた。「ボリースイチがね、自分の家をすっかり荒してしまったそうだよ。床板を上げたり、羽目板を引っぺがしたり、『廊下』を残らずばらばらにしたそうだ、-検事が、あそこに例の千五百ルーブリが隠してあると言ったものだから、その金を捜し出そうとしているんだ。帰るとすぐ、そんな馬鹿なことを始めやがったんだそうだ。悪党め、いい気味だ! ここの番兵がきのうおれにそう言ったんだ。あそこから来たものだからな。」
「ねえ、兄さん」とアリョーシャは言った。「あのひとは来ますよ。けれど、いつかわからないんです。今日か、それとも二三日のうちかわかりませんがね、来ることは確かに来ますよ。」
 ミーチャは身ぶるいして、何か言おうとしたが、そのまま黙ってしまった。この報知がひどく彼にこたえたのである。彼はアリョーシャとカチェリーナとの対話を、くわしく知りたくってたまらないくせに、今それを訊くのを恐れているらしかった。もし何かカチェリーナの残酷な、軽蔑するような言葉でも聞いたら、それはこの瞬間、剣のように彼を刺すに相違ないからである。
「あのひとはいろんな話のうちに、こんなことを言いましたよ。どうかぜひ脱走のことで兄さんの良心を安めていただきたいって。もしその時までにイヴァンが全快しなかったら、あのひとが自分で引き受けて手はずするそうです。」
「それはもうお前に聞いたよ」とミーチャはもの思わしげに言った。
「じゃ、兄さんはグルーシャにこの話をしましたか」とアリョーシャは言った。
「言ったよ」とミーチャは白状した。「あれは今朝来ない」と彼はおずおず弟を見た。「晩でなけりゃ来ないんだよ。おれが昨日あれに向って、カチェリーナがいろいろ世話してくれるって言ったらね、あれは黙って唇を歪めたよ。そして、ただ『勝手にさしておくがいいわ!』と言ったきりさ。重大なことだとは合点したらしいが、おれはそのうえ探ってみる勇気がなかったんだ。あれも今ではわかってるらしいんだ、カチェリーナが愛してるのは、おれでなくってイヴァンだってことがね。」
「わかってるでしょうか?」とアリョーシャは思わず口走った。
「あるいはそうでないかもしれん。なにしろ、今朝は来ないからな」とミーチャはまた急いで念を押した。「おれはあれに頼んでおいた……ことがあるんだがなあ……おい、イヴァンは兄弟じゅうで一番えらくなるよ。あれは生きて行く必要があるが、おれたちはどうでもいいんだ。大丈夫イヴァンは全快するよ。」
「どうでしょう、カチェリーナさんもイヴァン兄さんのことを心配していますが、しかし兄さんはきっと全快すると信じていますよ」とアリョーシャは言った。
「それがつまり、死ぬものと思い込んでる証拠なんだよ。ほんとのことを思うのが恐ろしさに、全快するものと信じようとしてるんだ。」
「でも、兄さんは体質がしっかりしてるんですからね。私は全快するだろうとあてにしています」とアリョーシャは心配そうに言った。
 沈黙がつづいた。ミーチャは何か重大な問題に悩まされていた。
「アリョーシャ、おれはね、非常にグルーシャを愛しているんだ。」彼は涙に満ちたふるえ声で、突然こんなことを言いだした。
「でも、あのひとはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないでしょうね。」アリョーシャはすぐに兄の言葉を受けて、こう言った。
「いや、おれはまだ、お前に言いたいことがあるんだ。」とつぜん、声に妙な響きを立てはじめながら、ミーチャは語りつづけた。「もし途中か、それともあそこ[#「あそこ」に傍点]で、役人どもに撲られでもしたら、おれは承知しないだろう。おれはそいつを殺して、自分も銃殺されるだろう。なにしろ、そういうことが二十年もつづくんだからなあ! ここでも、もうおれのことを、『貴様』と言いやがる。看守たちがおれを『貴様』と言うんだ。おれは昨夜も寝てから夜っぴて考えたが、どうもまだおれは覚悟がたりない! まだ諦めきれないんだ! おれは『頌歌《ヒムン》』を歌いたいと思ったが、しかし看守どもにこづき廻されるのは、我慢がならないんだ! グルーシャのためなら何でも我慢する……何でも……しかし、撲られることだけは別だ……だが、あれはあそこ[#「あそこ」に傍点]へやってもらえないよ。」
 アリョーシャは静かに微笑した。
「ねえ、兄さん、私はそのことについて」と彼は言った。「も一度だけ、あなたに言いますが、私が嘘を言わないことはご承知でしょう。ねえ、兄さん、あなたはまだ修業がたりないんです。そんな十字架はあなたに背負いきれません。そればかりでなく、そんな偉大な苦難の十字架は、修業のたりないあなたに不必要です。もしあなたが実際お父さんを殺したのなら、あなたが十字架を逃れようとなさるのを、私も悲しむかもしれません。けれど、あなたは無罪なんです。そんな十字架はあなたにとって重すぎます。あなたは苦痛によって、自分の内部にいる第二の人間をよみがえらせようと思ったのでしょう。私の考えでは、たとえあなたがどこへ逃げていらっしゃろうとも、その第二の人間のことを忘れないようにしたら、それで兄さんはたくさんだと思います。あなたがこの十字架の苦痛を受けなかったということは、自分の内部にもっと大きな責任を感じる機縁となります。そうして、この不断の感じは、将来あなたの生涯において、新しい人間の出生を助けましょう。ことによったら、あそこ[#「あそこ」に傍点]へいらっしゃるより、もっといいかもしれません。なぜって、あそこへ行ったら、あなたは我慢しきれないで、かえって神様に不平を起し、しまいには『おれは勘定をすました』という気がしてくるに違いないからです。実際そこのところは、弁護士の言ったとおりです。誰だってみながみな、そんな重荷を背負えるものじゃありません。人によっては、金輪際不可能な場合もあります……どうしても私の考えを聴きたいとならば、まあ今いったようなものですね。もし兄さんが脱走したために、ほかの人が、例えば、護送の将校や兵卒が責任を負うようなら、私も脱走を『許しはしない』ですがね」と言ってアリョーシャは微笑した。「しかし(これは例の三つ目の駅長がイヴァン兄さんに言ったことですが)、うまくやりさえすれば、大した問題にならないで、ごく簡単な罰ですむだろうという話です。むろん、賄賂を使うのはよくないことです、こんな場合だってよくないにきまってるんですが、私はもう一さい理窟を言いません。ですから、もしイヴァン兄さんとカチェリーナさんが、あなたのために万事とり計らってくれと頼んだら、私は出かけて行って、賄賂を使うに相違ありません。これは正直にありのままを言わなければなりません。だから、私にあなたの行為を裁く資格はありません。けれど、お断わりしておきますが、私は決して兄さんを責めやしません。それに、私がこの事件であなたの裁判官になるなんて、変な話じゃありませんか? さあ、これで何もかもすっかり洗い上げたようですね。」
「だが、その代り、おれは自分で自分を責めてるんだ!」とミーチャは叫んだ。「おれは脱走するつもりだ。これはお前に相談する前から、自分でちゃんと決めていたのだ。ミーチャ・カラマーゾフが、どうして逃げずにいられよう? が、その代りおれは十分自分を責めて、あそこへ行っても永久に、罪障の消滅を祈るつもりだ! こう言うと、何だかゼスイット派の言い草のようだな……これじゃおれもお前も、どうやらゼスイットめくようだな、え?」
「そうですね」とアリョーシャは静かにほお笑んだ。
「おれはお前が、いつも本当を言って、一さい隠し立てをしないから好きだよ!」と嬉しそうに笑いながら、ミーチャは叫んだ。「つまりおれは、わがアリョーシャがゼスイットだ、という尻尾を押えたわけなんだな! こいつはお前にうんと接吻しなけりゃならない! さあ、そこで、そのあとを聞いてくれ、おれは自分の魂のあと半分も、お前にひろげて見せよう。おれの決心というのはこうなんだ。おれはたとえ金と旅行券を持って、アメリカへ逃げても、喜びを得るのでもなければ、幸福を受けるのでもなく、まったく別な懲役へ行くのだと考えて、自分で自分を励ましているんだ。まったくシベリヤよりもっと悪いかもしれないよ! ずっと悪いよ、アレクセイ、正直な話、ずっと悪いよ! おれはあのアメリカって国が、今でも厭でたまらないんだよ。よしグルーシャがおれと一緒に行くにしてもだ。第一、あれを見るがいい、一たいあれをアメリカの女と思えるかね! あれはロシヤ女だ。あれは徹頭徹尾、ロシヤ女だ。あれは母なるロシヤを慕って、懐郷病にかかるに相違ない。で、おれは二六時中、あれがおれのためにくよくまして、おれのために十字架を背負っているのを、見なけりゃならん。ところが、あれに何の罪があるんだろう? それにおれだって、どうしてアメリカの俗物どもと一緒に暮して行かれよう? やつらは一人残らず、みなおれよりいい人間かもしれないが、しかしやはり俗物なんだ。今からもうおれはアメリカが厭でたまらないんだ! たとえやつらが一人残らず、みんな立派な技師であろうと、そのほか何であろうとかまやしない、やつらは決しておれの仲間じゃない、おれの魂の友じゃない! おれはロシヤを愛してる、アレクセイ、おれ自身は悪党だが、しかしおれはロシヤの神を愛してるんだ! いや、おれはたぶんあそこでくたばるだろうと思ってるよ!」彼は急に目を輝かしてこう叫んだ。
 彼の声は涙のためにふるえた。
「それでね、アレクセイ、おれの決心はこうなんだ、まあ聞いてくれ!」と彼は心の惑乱を抑えつつ、言葉をついだ。「グルーシャと二人で向うへ着くと、――そこですぐ、どこか人里はなれた遠いところへ行って、熊を相手に百姓をするつもりなんだ。あそこにはまだどこかに、人里はなれたところがあろうじゃないか! 何でも人の話じゃ、あそこにはどこか地平線の果てのほうに、まだ赤色インド人がいるそうだ。おれたちはそこまで、最後のモヒカン族の国までも行くつもりなんだ。そして、おれもグルーシャも、すぐ文法の勉強にかかるのさ。三年間、働きながら文法を勉強する。そして、どんな英国人にくらべても負けないくらいに、英語を覚え込むんだ。英語を覚えこんだら、もうアメリカにはおさらばだ! そして、アメリカ人になりすまして、ふたたびこのロシヤヘ帰って来る。心配するにゃおよばんよ、この町へは来やしないから。北か、それとも南の、どこか遠い田舎へ隠れるんだ。それまでにはおれも変るし、あれだってやはり変るだろう。アメリカの医者に頼んで、顔に疣か何かこしらえてもらうさ。そりゃあ機械家だから、それくらい何でもないさ。でなけりや、片目を潰して、一アルシンも髯を伸ばすさ。白い髯をな(ロシヤこいしさに、髯も白くなるだろうよ)。――そうすりゃ、誰にもわかりゃすまい。もし見つかったら、またシベリヤへやられるまでさ、つまり運がないのだからな。とにかく、帰って来て、どこかの片田舎で百姓をするよ。そして一生涯、アメリカ人で通すよ。その代り、故郷の土に骨を埋めることができるわけだ。これがおれの計画だ。決して変改しやしない。お前、賛成するかね?」
「賛成します」とアリョーシャは言った。兄に反対するのを望まなかったのである。
 ミーチャはしばらく沈黙の後、また喋りだした。
「だが、やつらが公判で仕組んだことはどうだ? なんてやり方だろう!」
「仕組まなくたって、やっぱり有罪になったんですよ!」とアリョーシャはため息をついて言った。
「そうだよ。おれは、この町の人たちに飽きられたんだよ。まあ、勝手にしろ、もうつくづく厭になった!」とミーチャは苦しそうに呻いた。
 また二人はしばらく黙っていた。「アリョーシャ、今すぐおれにとどめを刺してくれ!」と彼は急に叫びだした。「あれはもうすぐ来るかね、どうだね、聞かせてくれ! あれは何と言ったい? どう言ったい?」
「来るとは言いましたが、今日かどうかわかりません。あのひとも苦しいんですよ!」アリョーシャはおどおどした目つきで兄を見た。
「ふん、そりゃあたりまえだよ、苦しくなくってどうする! アリョーシャ、おれはそれを思うと気が狂いそうだ。グルーシャは始終おれを見ていて、おれの心持を悟っている。ああ、神様、私を落ちつかせて下さい。私は何を求めているのでしょう? おれはカーチャを求めているんだ! 一たいおれは正気なんだろうか? それはカラマーゾフ式の呪うべきがむしゃらのためだ! そうだ、おれは苦しむ資格のない男だ! みなが言うとおり、おれは陋劣漢なんだ! それっきりだ!」
「あ、あのひとが来ました!」とアリョーシャは叫んだ。
 この瞬間、カーチャがとつぜん閾の上に姿を現わした。と、たちまち彼女は途方にくれたような目つきで、ミーチャを見な