京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P118-129   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦7日目]

嬉しそうに先に立って駈け出した。コーリャは玄関を通るときに、『ちびさん』の部屋の戸を開けた。二人は前のとおりテーブルに向って腰かけていたが、もう本を読まないで、やっきとなって何やら言い争っていた。この子供たちはさまざまな世の中の問題について、お互いに言い争うことがよくあった。そういう時には年上の姉として、いつもナスチャのほうが勝を占めた。けれど、コスチャはもし姉の言葉に同意できない時には、大ていコーリャのところへ行って上訴するのが常だった。そして、コーリャが決定したことは、原被両告にとって絶対不易の宣告となるのであった。今度の『ちびさん』の口論は、いくらかコーリャの興味をそそったので、彼は戸口に立ちどまって聞いていた。子供たちは、彼が聞いているのを見つけると、ますます熱してその争いをつづけた。
「そんなことないわ、あたしそんなことどうしても本当にしないわ」とナスチャはやっきとなって呟いた。「産婆さんがちっちゃな赤ん坊を、キャベツ畑の畦の間から見つけて来るなんて。それに、今はもう冬ですもの、どこにも畦なんかありゃしないわ。だから、産婆さんだって、カチェリーナのとこへ女の子をつれてくわけにはゆかない[#「ゆかない」はママ]じゃないの。」
「ひゅう」とコーリャはこっそり口笛を鳴らした。
「でなかったら、こうかもしれなくってよ。産婆さんはどこからか赤ん坊をつれて来るんだけど、お嫁に行った人にしかやらないんだわ。」
 コスチャはじっとナスチャを見つめながら、考えぶかそうに耳を傾けて、何やら思いめぐらしていた。
「ナスチャ姉さんはほんとうに馬鹿だね。」とうとうしっかりした落ちついた調子で、彼はこう言った。「カチェリーナはお嫁に行かないのに、赤ん坊が生れるはずがないじゃないの?」
 ナスチャは恐ろしく熱してきた。
「あんたは何にもわからないんだわ」と彼女はいらだたしげに遮った。「あれには旦那があったんだけど、いま牢に入ってるのかもしれないわ。だから、あれは赤ん坊を生んだのよ。」
「一たいあれの旦那が牢に入ってるの?」実証派のコスチャはものものしくこう訊いた。
「それとも、こうかもしれないわ。」ナスチャは自分の最初の仮定を、すっかり忘れたようにうっちゃってしまって、大急ぎで遮った。「あれには旦那がないのよ。それはあんたの言うとおりよ。だけど、あれはお嫁に行きたくなったものだから、お嫁に行くことばかり考えるようになったのよ。そして、考えて、考えて、考え抜いた挙句、とうとうお婿さんの代りに赤ん坊ができたんだわ。」
「ああ、そうかもしれないね。」コスチャはすっかり言い伏せられて同意した。「姉さんが初めっからそう言わないんだもの、僕わかりっこないじゃないか。」
「おい、ちびさん、」部屋の中に一足踏み込みながら、コーリャはこう言った。「どうも君たちは危険人物らしいなあ!」
「ペレズヴォンもそこにいるの?」コスチャはにこっとして、ぱちぱち指を鳴らしながら、ペレズヴォンを呼びはじめた。
「ちびさん、僕こまったことがあってね」とコーリャは、もったいらしく言いはじめた。「一つ君たちに手つだってもらいたいんだ。アガフィヤはきっと脚を折ったに相違ないよ。なぜって、今まで帰って来ないんだもの、確かにそうにちがいない。ところが、僕はぜひ外へ出かけなけりゃならないんだ。君たちは僕を出してくれるかい、どうだい?」
 子供たちは心配らしく、互いに目と目を見かわした。微笑をおびた顔は不安の色をあらわしはじめた。けれども、二人は何を要求されるのか、まだはっきりわからなかった。
「僕がいなくってもふざけない? 戸棚へあがって、足を折ったりしない? 二人きりでいるのが怖くって、泣きだしゃしない?」
 子供たちの顔には、いかにも情けなさそうな色がうかんだ。
「その代り、僕はいいものを見せてやるよ。銅の大砲なんだ、本当の火薬で撃てるんだよ。」
 子供たちの顔ははればれとした。
「大砲見せてちょうだい。」満面を輝かしながら、コスチャはこう言った。
 コーリャは自分の鞄の中へ片手を突っ込んで、その中から小さな青銅の大砲を取り出し、それをテーブルの上にのせた。
「さあ、これだ! 見てごらん、車がついてるよ。」彼は玩具をテーブルの上で転がした。「撃つこともできるんだ。ばら弾を塡めて撃てるんだよ。」
「そして、殺せるの?」
「誰でも殺せるよ。ただ狙いさえすりゃいいんだ。」
 コーリャはそう言って、どこへ火薬を入れ、どこへ散弾を塡めたらよいか説明したり、火孔の形をした穴を見せたり、反動があるものだという話をしたりした。子供たちは、非常な好奇心をいだきながら聞いていた。ことに、彼らを驚かしたのは、反動があるという話であった。
「では、あなた火薬をもってるの?」とナスチャは訊いた。
「もってるよ。」
「火薬を見せてちょうだいな。」哀願するような微笑をうかべながら、彼女は言葉じりを引いた。
 コーリャはまた鞄の中へ手を突っ込んで、小さな罎を一つ取り出した。その中には、本当の火薬が少々入っていた。紙包みの中からは幾つかの散弾が出て来た。彼は小罎の栓を開け、少しばかり火薬を掌へ出してまで見せた。
「ほらね、しかしどこにも火はないだろうね。でないと、どんと爆発して、僕らはみんな殺されてしまうからね。」コーリャは効果《エフェクト》を強めるためにこう注意した。
 子供たちは、敬虔の念をまじえた恐怖の色をうかべつつ火薬を見た。しかし、その恐怖の念は、かえって彼らの興味を増すのであった。とはいえ、コスチャはどっちかといえば散弾のほうが気に入った。
「ばら弾は燃えない?」と彼はたずねた。
「ばら弾は燃えやしないよ。」
「少しばら弾をちょうだいな」と彼は哀願するような声で言った。
「少し上げよう。さあ、だけど、僕が帰って来るまで、お母さんに見せちゃいけないよ。でないと、お母さんはこれを火薬だと思って、びっくりして死んじゃうから、そして君らはひどい目にぶん撲られるよ。[#「ひどい目にぶん撲られるよ。」はママ]」
「お母さんはあたしたちを鞭でぶったことなんか、一度もないわよ」とナスチャはすぐにそう言った。
「それは知ってるよ、ただ話の調子をつけるためにそう言ったまでさ。決してお母さんをだましちゃいけないよ。だけど、今度だけ、――僕が帰って来るまでね。じゃ、ちびさん、僕行ってもいいかい、どうだい? 僕がいないからって、怖がって泣きゃしないかい?」
「ううん、泣くよう」とコスチャは、もう今にも泣きだしそうに言葉じりを引いた。
「泣くわ、きっと泣くわ!」ナスチャもおびえたように口早に相槌を打った。
「ああ、厄介な子だなあ、本当に危険なる年齢だよ。どうもしようがない、雛っ子さん、しばらく君たちのそばにいなきゃならないだろう。だが、いつまでいればいいんだ? ああ、時間が、時間が、ああ!」
「ね、ペレズヴォンに死んだ真似をさせてちょうだい」とコスチャが頼んだ。
「そうだ、もう仕方がない、いよいよペレズヴォンでもだしに使わなきゃ。Ici,(こっちへ来い) ペレズヴォン!」
 やがてコーリャは犬に命令をくだし始めた。犬は知ってるだけの芸当を残らずやって見せた。これは毛のくしゃくしゃに縮れた犬で、大きさは普通の番犬くらい、毛は青味がかった灰色であったが、右の目はつぶれて、左の耳はなぜか裂けていた。ペレズヴォンはきゃんきゃん鳴いたり、跳ねだり、お使いをしたり、後足で歩いたり、四足を上へ向けて仰むけに倒れたり、死んだようにじっと臥ていたりした。この最後の芸当をやっている最中に戸が開いて、クラソートキナ夫人の女中がアガフィヤが[#「女中がアガフィヤが」はママ]、閾の上にあらわれた。それはあばたのある、でぶでぶに肥った四十ばかりの女房で、うんと買い込んだ食糧品を入れた籠を手に、市場から帰って来たのである。彼女はそこにじっと立ちどまって、左手に籠をぶらさげたまま、犬を見物しはじめた。コーリャはあれほどアガフィヤを待っていたのに、途中で芸当をやめさせなかった。やがて定めの時間だけ、ペレズヴォンに死んだ真似をさせた後、やっと犬に向って口笛を鳴らした。犬は跳ね起きて、自分の義務をはたした喜びに、くるくる跳ね廻り始めた。
「これ、畜生っ!」とアガフィヤはさとすように言った。
「おい女性、お前は何をぐずぐずしてたんだ?」と、コーリャは嚇すような調子で訊いた。
「女性だって、へ、ちびのくせにして!」
「ちびだ?」
「ああ、ちびだとも、一たいわたしが遅れたからって、お前さんにどうだというんだね。遅れたのにゃそれだけのわけがあるんだよ」とアガフィヤは、暖炉のそばを歩き廻りながら呟いた。が、その声はすこしも不平らしくも、腹立たしそうにもなかった。それどころか、かえって快活な坊っちゃんと無駄口をたたき合う機会を得たのを喜ぶように、恐ろしく満足らしい声であった。
「時にね、おい、そそっかしやの婆さん。」コーリャは長椅子から立ちあがりながら、口をきった。「お前は僕のいない間、このちびさんたちを油断なく見ていてくれるかい。この世にありとあらゆる神聖なものにかけて[#「この世にありとあらゆる神聖なものにかけて」はママ]、誓ってくれるかい? いや、そればかりじゃない、もっと何かほかのもので誓ってくれるかい? 僕は外へ出かけるんだから。」
「何だってお前さんに誓うんだね?」とアガフィヤは笑いだした。
「そんなことをしなくたって、見ているよ。」
「いや、いけない、お前の魂の永遠の救いにかけて誓わなきゃ。でなけりゃ行かないよ。」
「そんなら行きなさんなよ。わたしの知ったことじゃないんだから、外は寒いに、家でじっとしてござれよ。」
「ちびさん」とコーリャは子供たちのほうへ向いた。「僕が帰って来るか、それとも、君たちのお母さんが帰って来るかするまで、この女が君たちのそばにいるからね。お母さんはもうとうに帰ってもいい時分だがなあ。それに、この女は君たちにお昼も食べさせてくれるよ。あのちびさんたちに何か食べさせてくれるだろう、アガフィヤ?」
「そりゃ食べさせてもいいよ。」
「じゃあ、さようなら、雛っ子さん、僕は行くよ。だが、おい、婆さん。」彼はアガフィヤのそばを通るときに、小声でもったいらしくこう言った。「また例の女一流の癖を出して、カチェリーナのことで、この子たちに馬鹿な話をして聞かせないようにしてくれ。子供の年ということも考えて、容赦しなきゃいけないよ。Ici, ペレズヴォン!」
「ええ、勝手に行ってしまうがいい!」とアガフィヤは腹立たしげに言った。「おかしな子だ! そんなことを言う自分こそ引っぱたかれるんだ、本当に。」

   第三 生徒たち

 けれど、コーリャにはもうこの言葉は聞えなかった。彼はやっと出かけることができた。門の外へ出ると彼はあたりを見まわし、肩をすぼめ、『ひどい寒さだ!』とひとりごちて、通りをまっすぐに歩いて行ったが、とある横町を右へ折れて、市《いち》の広場をさして行った。広場へ出る一軒てまえの家まで来ると、彼は門のそばに立ちどまり、かくしから呼び子を取り出して、約束の合図でもするように、力一ぱい吹き鳴らした。一分間も待つか待たないうちに、木戸口から血色のいい男の子が飛び出して来た。年は十一くらいで、さっぱりとした暖かそうな、ほとんど贅沢といっていいくらいな外套を着ていた。この子供は予科にいる(コーリャより二級下の)スムーロフで、ある富裕な官吏の子であった。彼の両親は自分の息子に、危険性をおびた名うての腕白者であるコーリャと遊ぶことを許さないらしく、スムーロフはそっと抜け出して来た模様である。おそらく読者は記憶しているだろうが、このスムーロフは、二カ月まえ溝の向うからイリューシャに石を投げつけた少年群にまじっていた一人で、その時イリューシャのことを、アリョーシャに話して聞かせた子であった。
「クラソートキン君、僕はもう一時間も、君を待ったんですよ」とスムーロフは断乎たる色を見せながら言った。子供ふたりは広場のほうへ向けて歩きだした。
「遅れたんだ」とコーリャは答えた。「ある事情があってね。君、僕と一緒に歩いて折檻されやしないかい?」
「ああ、もうよして下さい、折檻なんかされるもんですか。ペレズヴォンも連れて来ましたか?」
「つれて来たよ!」
「それで、やはりあそこへ?」
「ああ、やはりあそこへ。」
「ああ、もしジューチカがいたらなあ!」
「ジューチカのことは言いっこなし、ジューチカはもういないんだ。ジューチカは未知の闇の中に葬られちゃったんだ。」
「ああ、こういうふうにしちゃいけないかしら。」スムーロフは急に立ちどまった。「ねえ、イリューシャが言うには、ジューチカもやはり縮れ毛で、青味がかった灰色の犬だったそうだから、これがそのジューチカだって言っちゃいけないかしら。ことによったら、本当にするかもしれませんよ。」
「君、学生が嘘をつくのはよくないよ。これが第一で、たとえいいことのためだって、決して嘘をつくもんじゃない、これが第二だ。が、それよりも君はあそこで、僕が行くってことを喋りゃしなかったろうね。」
「とんでもない、そりゃ僕もわかってますよ。だけど、ペレズヴォンじゃあいつが承知しませんよ。」スムーロフはほっとため息をついた。「こうなんですよ、あの親父ね、『糸瓜』の大尉ね、あれがこう言うんです、――きょう鼻の黒い本当のマスチフ種の仔犬をもらって来てやるって。あいつはその犬でイリューシャの機嫌を直すつもりなんだけど、とてもむずかしいでしょう。」
「だが、一たい先生はどうだい、イリューシャは?」
「ああ、どうもいけないんですよ、いけないんですよ! 僕あれはきっと肺病だと思うなあ。気は確かなんだけど、変な息の仕方でね、その息づかいが悪いんです。この間も少し歩かせてくれって頼むから、靴をはかせてやると、一足ゆきかけて、ぶっ倒れてしまうじゃありませんか。そのくせ、『ああ、お父さん、これはもとの悪い靴で、もう前っから歩きにくくっていけないって、僕しじゅうそう言ってるじゃありませんか』なんて言うんです。あいつは倒れるのを靴のせいにしてるんだけど、なに、ただ体が弱ってるからですよ。もう一週間ももちゃしない。ヘルツェンシュトゥベが診察に来てるんですよ。今あすこの家は金ができてるんですからね。たくさんもってますよ。」
「かたりだよ。」
「誰が?」
「医者だとか医術を種にしている有象無象さ。これは一般的に言っての話だが、個別的に言ったって、もちろんのことだよ。僕は医術というものを認めないんだ。無駄なことだよ。しかし、僕そのうちにすっかり調べ上げるよ、だが、君らはなんてセンチメンタルなことを始めたんだ? 君らは全級こぞってあそこへ行ってるらしいじゃないか?」
「全級こぞって行くわけじゃないんです。十人ばかりの仲間がいつも毎日ゆくんです。そんなこと何でもないじゃありませんか。」
「しかし、この件について不思議なのは、アレクセイ・カラマーゾフの役廻りだよ。あいつの兄は明日か明後日あたり、ああいう犯罪のために裁判されようとしてるのに、どうしてあの男は子供たちと、そんなセンチメンタルな真似をしてる余裕があるんだろう?」
「それは、センチメンタルなことでも何でもないんですよ。だって、そういう君だって、イリューシャと仲直りに行ってるじゃありませんか。」
「仲直り! 滑稽な言葉だね。もっとも、僕は誰にも自分の行為を解剖すること[#「行為を解剖すること」はママ]を許さないよ。」
「だが、イリューシャは君に会ったら、どんなに喜ぶかしれませんよ! 君が来ようとは、夢にも思ってないんですからね。なぜ君は、なぜ君はあんなに長いこと行こうとしなかったんです?」とスムーロフは熱くなって叫んだ。
「ねえ、君、それは僕の知ったことで、君のことじゃないんだ。僕は自分で勝手に行くんだ。それが僕の意志なんだから。君たちはみんな、アレクセイ・カラマーゾフに引っ張られて行ったんだろう、そこに違いがあるんだよ。それに、僕が行くのは、決して仲直りのためじゃないかもしれないんだよ、仲直りなんてばかばかしいじゃないか。」
「いいえ、アレクセイに引っ張られて行ったんじゃないんです、決して、そうじゃありません。僕らは自分で勝手に行ったんですよ。むろん、初めはアレクセイと一緒に行ったけど、決して何もそんな馬鹿なことをしやしないんですよ。最初に一人、次にもう一人といったふうにね、僕らが行ったら、親父はひどく喜びましたよ。ねえ、君、もしイリューシャが死にでもしたら、親父は本当に気ちがいになりますよ。親父はイリューシャが死ぬことを見抜いているんです。だから、僕らがイリューシャと仲直りしたとき、喜んだの喜ばないのって。イリューシャはちょっと君のことを訊いただけで、ほかに何も言やしませんでした。訊いてしまうと、それっきり黙り込むんですよ。だが、親父さんはきっと気ちがいになるか、それとも頸をくくるかどっちかに違いないんです。あの人は前も気ちがいのようだったんですからね。ねえ、あの人は潔白な人なんですよ、あの時はただ間違いが起ったんですよ。あの親殺しがあの時あの人をあんなにぶったのは、やはりあの親殺しが悪かったんです。」
「だが、どっちにしても、カラマーゾフは僕にとって謎だね。僕はとうからあの男と知合いになれたんだけれど、僕は場合によると傲慢にするのが[#「傲慢にするのが」はママ]好きでね。それにあの男については、僕もある意見を纏め上げたんだが、しかしそれはも少し研究して、闡明しなきゃならない。」
 コーリャはもったいらしく口をつぐんだ。スムーロフも口をつぐんだ。むろん、スムーロフはコーリャを崇拝しきっているので、彼と同等になろうなどとは、考えさえしなかった。今も彼はコーリャにひどく興味をもちはじめた。それは、コーリャが『自分の勝手で』行くのだと説明したからである。してみると、コーリャがきょう突然、行こうと思い立ったについては、きっと何かわけがなければならぬと考えたのである。二人は市《いち》の広場を歩いていた。広場には、近在から来た荷車がたくさん置いてあって、追われて来た鵞鳥ががやがや集っていた。町の女連はテントの中で、輪形のパンや糸などを売っていた。日曜日のこうした集りを、この町では無邪気にも定期市と呼んでいた。この定期市は一年間に幾度もあった。ペレズヴォンはどこかで何かの匂いを嗅ごうとして、ひっきりなしに右左へそれながら、極上の機嫌で走っていた。ほかの犬に出くわすと大乗り気のていで、犬のあらゆる法則にしたがって、互いに嗅ぎ廻すのであった。
「スムーロフ君、僕はリアリズムを観察することが好きでね。」コーリャは突然こう言いはじめた。「君は犬が出くわした時、お互いに匂いを嗅ぎ合うのに気がついたろう? それにはある共通な天性の法則があるんだよ。」
「そう、何だかおかしな法則がね。」
「ちっともおかしかないよ。そりゃ君が間違ってるよ。たとえ偏見に充ちた人間の目からどう見えたって、自然の中にはおかしいものなんか少しもないんだよ。もし君、犬が考えたり、批評したりできるものとしてみたまえ、彼らもその命令者たる人間相互の社会関係に、ほとんどこれと同じくらい、いや、かえってもっとよけいに、滑稽な点を見いだすに違いないよ、――ああ、かえってもっとよけいあるよ。僕がこんなに繰り返して言うのは、われわれ人間のほうがずっとよけいに、馬鹿らしい癖を持っているのを、かたく信じているからだよ。これはラキーチンの意見だが、実際ずぬけた思想だ。スムーロフ君、僕は社会主義者なんだよ。」
社会主義者って何?」とスムーロフは訊いた。
「それはね、もしすべての人が平等で、一つの共通な意見を持っているとすれば、結婚なんてものはなくなってしまって、宗教や法律などは誰でも勝手ということになるんだ。まあ、万事そういった調子さ。だが、君はまだこれがわかるほど、十分大きくなっていない、君にはまだ早い……だが、寒いね。」
「そうですね。十二度ですもの。さっきお父さんが寒暖計を見たんです。」
「スムーロフ君、君は十五度、十八度という冬のまっ最中よりも、たとえばこの頃みたいに、とつぜん十二度の寒さがどかっと来る冬の初め、まだ雪も降ってない冬の初めのほうが、かえって寒いってことに気がついたかい。それはつまり、僕らがまだ寒さに慣れないからだよ。人はとかく慣れやすいものだ。国家的、政治的関係でも何でもそうだ。習慣がおもなる原動力なんだ。だが、あいつは滑稽な百姓だねえ。」
 コーリャは、毛裏の外套を着た背の高い一人の百姓を指さした。彼は人のよさそうな顔つきをして、寒さを防ぐために自分の荷車のそばで、手袋をはめた手をぱたぱたと打ち合せていた。長い亜麻色の顎鬚は、すっかり霜におおわれていた。
「この百姓の顎鬚は凍ってらあ!」コーリャはそのそばを通り過ぎながら、大きな声で意味ありげに叫んだ。
「誰のでも凍ってるだよ。」百姓は落ちつきはらって、ものものしく呟くように答えた。
「からかうのはおよしなさい」とスムーロフは注意した。
「なに、怒りゃしない。あいつはいい男だから、さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら。」
「おや、お前は一たいマトヴェイなのかい?」
「マトヴェイだよ。お前さん知らなかっただかね?」
「知らなかった。僕はあてずっぽに言ってみたんだ。」
「へえ、なんて子供だ。おめえ学校生徒かね?」
「生徒だよ。」
「じゃ、先生にぶたれるかね?」
「ぶたれるというわけでもないが、ちょっとその。」
「痛いかね?」
「痛くないこともないさ!」
「おお、可哀そうに!」百姓は心の底からため息をついた。
「さようなら、マトヴェイ。」
「さようなら、おめえは可愛らしい若え衆だのう、ほんに。」
 二人の少年はさらに歩みつづけた。
「あいつはいい百姓だよ」とコーリャはスムーロフに話しかけた。
「僕は民衆と話をするのが好きでね、いつでも喜んで彼らの美点を認めてやるんだよ。」
「なぜ君は僕らがぶたれてるなんて、あの男に嘘をついたんです?」とスムーロフは訊いた。
「だって、あいつも少しは慰めてやらなきゃならないじゃないか!」
「なぜ?」
「スムーロフ、僕は一ことですぐわからないで、訊き返されるのが嫌いなんだ、なかにはどんなにしても、合点させることのできないようなやつがいるからね。百姓たちの考えによれば、生徒はぶたれるものなんだ、ぶたれなきゃならないものなんだ。もし、生徒がぶたれなきゃ、そりゃ生徒じゃありゃしない。だから、僕がぶたれないと言ってみたまえ。あいつ悲観しちゃうに違いないよ。だが、君にゃそんなことわからない。民衆と話をするには呼吸がいるよ。」
「だけど、後生だから、突っかかるのをよして下さい。でないと、またあの鵞鳥の時みたいなことがもちあがるから。」
「じゃ、君はこわいんだね?」
「笑っちゃいけませんよ、コーリャ、僕まったくこわいんです。お父さんがひどく怒りつけるに相違ないんだもの。僕は君と一緒に歩いちゃいけないって、厳しく止められてるんですよ。」
「心配することはないよ。こんどは何にも起りゃしない。やあ、こんにちは! ナターシャ。」彼は掛小屋の中の物売り女の一人にこう声をかけた。
「わたしはナターシャじゃない、マリヤだよ」と物売り女は、呶鳴るように言った。彼女はまだ年よりというほどでなかった。
「マリヤというのかい、そりゃいいね、さようなら。」
「ええ、この生意気小僧め、どこにいるか目にも入らないちびのくせに、人並みのことを言やがる。」
「そんな暇あないよ、お前なんかと話をする暇は。この次の日曜日にでも話をしようよ。」まるでこっちからではなく、先方から話しかけでもしたように、コーリャは手を振った。
「日曜日にお前と何の話をするんだい? 自分で突っかかって来やがったくせに、ごろつき!」とマリヤは呶鳴りたてた。「ぶん撲ってやるぞ、本当に、人を馬鹿にしくさって!」
 マリヤと並んで、てんでに屋台で商いをしていた物売りの女の間には、どっと笑い声が鳴り渡った。と、いきなり今までの話に腹をたてた一人の男が、町のアーケードの中から跳び出して来た。彼は番頭風をしていたが、この町の商人ではなく渡り者であった。青い裾長の上衣《カフタン》を着て、廂のついた帽子をかぶり、濃い亜麻色の縮れ毛に、長い蒼ざめたあばた面をした、まだ若そうなその男は、ばかばかしく興奮しながら、拳を振ってコーリャを嚇しはじめた。
「おれは手前を知ってるぞ」と彼はいらだたしげに叫んだ。
「おれは手前を知ってるぞ?」
 コーリャはじっと彼を見つめた。が、その男といつどんな喧嘩をしたのか、どうも思い出すことができなかった。往来で喧嘩をしたことは一度や二度でないので、それを一々思い出すことはできなかった。
「知ってる?」と彼は皮肉に訊いた。
「おれは手前を知ってるんだ! おれは手前を知ってるんだ!」若い男は馬鹿の一つ覚えに、同じことばかり繰り返した。
「そりゃ結構だね。だが、僕は今いそがしいんだ、失敬するよ!」
「何だって生意気なことを言うんだ?」と町人は叫んだ。「またしても生意気なことを言やがって! おれは貴様を知ってるぞっ! しじゅう生意気なことばかり言やがって!」
「おい君、僕が生意気なことを言おうと言うまいと、この場合、君の関係したことじゃないよ。」コーリャは依然として彼を見つめながら、立ちどまってこう言った。
「どうしておれの関係したことでないんだ?」
「なに、ただ君の関係したことでないんだよ!」
「じゃ、誰の関係したことだ? 誰のことだ? え、誰のことだ?」
「そりゃね、今のところ、トリーフォン・ニキーチッチに関係したことで、君のことじゃないよ。」
「トリーフォン・ニキーチッチたあ、誰のことだ?」やはり熱してはいたが、馬鹿のような驚き方をして、若者はコーリャに詰め寄った。コーリャは、もったいらしく、じろじろ彼を見まわした。
「昇天祭に行ったかね?」突然きっとした調子で熱心に訊いた。
「昇天祭たあ何だ? 何のために? いや、行かなかった。」若者はいささか毒気を抜かれた。
「君はサバネーエフを知ってるかね?」とコーリヤは一そう熱心に、一そうきっとした調子でつづけた。
「サバネーエフたあ誰だ? いや、知んない。」
「ふん、それじゃお話になりゃしない!」コーリャはいきなり言葉を切って、くるりと右のほうへ向きを変えた。そしてサバネーエフさえ知らないようなたわけとは、話をするのもばかばかしいといったふうに、すたすた歩きだした。
「おい、こら、待てっ! サバネーエフって誰のことだ?」若者はわれに返って、また興奮しながらこう言った。
「あいつは一たい何を言ったんだ?」彼はにわかに物売り女たちのほうへ振り向いて、愚かしい顔つきをしながら、一同を見た。
 女房たちは笑いだした。
「変った子だよ」と一人が言った。
「誰のことだい、一たい誰のことだい、あいつがサバネーエフと言ったのは!」若者は右の手を振りながら、いきおい猛に繰り返した。
「ああ、そりゃきっと、クジミーチェフのとこで使われていた、あのサバネーエフのことだよ。きっとそうだよ。」だしぬけに一人の女が推察を下した。
 若者はきょとんとした目をじっとその女に据えた。
「クジ……ミー……チェフ?」もう一人の女が鸚鵡返しにこう言った。「じゃ、なんのトリーフォンなものか? あれはクジマーで、トリーフォンじゃありゃしないよ。ところが、あの子はトリーフォン・ニキーチッチと言ってたから、つまりあの男たあ違うんだよ。」
「なあに、そりゃトリーフォンでもサバネーエフでもなくって、チジョフっていうんだよ。」それまで黙って真面目に聞いていたもう一人の女が、とつぜん口を入れた。「あの人は、アレクセイ・イヴァーヌイチていうんだよ。チジョフさ、アレクセイ・イヴァーヌイチさ。」
「そうそう、本当にチジョフって言ったよ。」さらにいま一人の女が熱心にこう言った。
 若者は呆気にとられて、女たちの顔をかわるがわる見まわした。
「じゃ、あいつ何だってあんなことを訊いたんだ、おい、なぜ訊いたんだ?」と彼はほとんどやけに叫んだ。「『サバネーエフを知ってるかい?』だってさ。馬鹿にしてやがらあ、一たいそのサバネーエフていうなあ、誰のことなんだ?」
「お前さんも血のめぐりの悪い人だね。それはサバネーエフじゃない、チジョフだって言ってるじゃないか、アレクセイ・イヴァーヌイチ・チジョフだよ、そうなんだよ!」と一人の物売り女が嚙んで含めるように言った。
「チジョフってどんな男だね? どんな男だね? 知ってるなら聞かせてくれ。」
「何でも背のひょろ長い、鼻っ垂らしの、夏分市場にいた男だよ。」
「だが、そのチジョフがおれに何だって言うんだ、え、みなの衆?」
「チジョフがお前さんに何だろうと、そんなことわたしが知るものかね。」
「誰が知るものかね」ともう一人の女が口を入れた。「お前さんこそ、そんなに騒ぎたてるくらいなら、自分で知ってそうなもんじゃないか。あの子はお前さんに言ったんで、わたしたちに言ったんじゃないからね。お前さんもよっぽど阿呆だよ。でも、本当に知らないのかね!」
「誰を?」
「チジョフをさ。」
「チジョフなんかくそ食らえだ、ついでに手前も一緒によ! 見ろ、あいつぶち殺してやるから! おれを馬鹿にしやがったんだ。」
「チジョフをぶち殺すって? あべこべにお前のほうがやられらあ! お前は馬鹿だよ、本当に!」
「チジョフじゃない、チジョフじゃないってば、ろくでなしの悪党婆め、餓鬼をぶち殺してやると言ってるんだよう! あいつをつれて来てくれ、あいつをここへつれて来てくれ。あいつしと[#「しと」に傍点]をなぶりゃがったんだ!」
 女たちは大声を上げて笑った。が、コーリャはそのとき勝ち誇ったような顔つきで、もうずっと向うのほうを歩いていた。スムーロフは、うしろに叫ぶ人々の群を顧みながら、コーリャについて歩いた。彼はコーリャの巻き添えになりはせぬかと危ぶみながらも、やはり大いに愉快なのであった。
「君があの男に訊いたサバネーエフっていうのは、一たいどんな男なの?」彼はもう答えを予感しながら、コーリャに訊いた。
「どんな男か僕が知るものかい! あいつらはああして晩まで呶鳴り合ってるだろう。僕はね、こうして社会の各階級の馬鹿者どもを、揺ぶってやるのが好きなんだよ。そら、またのろま野郎が立ってる。ほら、あの百姓だよ。ねえ君、『馬鹿なフランス人より馬鹿なものはない』とよく言うが、しかしロシヤ人のご面相は、すっかり本性を現わしているよ。ねえ、あいつの顔には、この男は馬鹿なり、と書いてあるだろう、あの百姓の顔にさ、え?」
「よしなさい、コーリャ、かまわずに行きましょうよ。」
「どうしてかまわずにいられるものか。さあ、僕は始めるよ。おい! 百姓、こんにちは!」
 頑丈な百姓がすぐそばをのろのろと歩いていた、一杯ひっかけたものらしい。丸っこい、おめでたそうな顔で、顎鬚は胡麻塩になっていた。彼は頭を持ちあげて少年を見た。
「やあ、もしふざけるんでなけりゃ、こんにちは!」彼はゆるゆるとした調子でこう答えた。
「じゃ、もしふざけてるんだと?」コーリャは笑いだした。
「なあに、ふざけるならふざけるがええ、そりゃおめえの勝手だあ。そんなこたあちっともかまやしねえ。いつでも勝手にふざけるがええだ。」
「君どうも失敬、ちょっとふざけたんだよ。」
「なら、神様が赦して下さるだ。」
「お前も赦してくれるかね?」
「そりゃあ赦すとも。まあ、行きなせえ。」
「ほんとにお前は! だが、お前は利口な百姓かもしれないね。」
「お前よりちっとんべえ利口だよ。」百姓は思いがけなく、依然としてもったいらしい調子で、こう答えた。
「まさか」とコーリャは、ちょっと度胆を抜かれた。
「本当の話だよ。」
「いや、そうかもしれないな。」
「そうだとも、お前。」
「さようなら、百姓。」
「さようなら。」
「百姓もいろいろあるもんだね。」しばらく黙っていたあとで、コーリャはスムーロフに言った。「僕もまさか、こんな利口なやつにぶっ突かろうとは思わなかったよ。僕はどんな場合でも、民衆の知恵を認めるに躊躇しないね。」
 遠い会堂の時計は十一時半を打った。二人の少年に急ぎだした。そして、二等大尉スネギリョフの家までだいぶ遠い路を、ほとんど話もせずにぐんぐん歩いて行った。もう家まで二十歩ばかりというとき、コーリャはぴったり足をとめ、一あし先に行って、カラマーゾフを呼び出すように、とスムーロフに言いつけた。
「まず当ってみる必要があるんだ」と彼はスムーロフに言った。
「だって、なぜ呼び出すの」とスムーロフは言葉を返した。
「このまま入っても、みんな君が来たのをひどく喜ぶよ。それに、なぜこんな寒い外なんかで、近づきになるんだろう?」
「あの男をこの寒いところへ呼び出さなけりゃならないわけは、僕もう自分でちゃんと心得てるんだ。」コーリャは高圧的に遮った(これはこの『小さい子供たち』に対して、彼がとくに好んでやる癖であった)。スムーロフは命令をはたすべく駈けだした。

  第四 ジューチカ

 コーリャはもったいらしい顔つきをして塀にもたれ、アリョーシャが来るのを待っていた。実際のところ、彼はもうずっと以前から、アリョーシャに会いたかったのである。彼は子供だちから、アリョーシャのことをいろいろ聞いていたが、今まではその都度、いつも冷やかな軽蔑の色を浮べるばかりでなく、話を聞き終ったあとで「批評」を下すことさえあった。が、内心ではアリョーシャと知合いになりたくてたまらなかったのである。アリョーシャの話には、いつ聞いても彼の同感を呼びさまし、その心をひきつけるような、何ものかがあった。といったわけで、今は彼にとってすこぶる重大な瞬間であった。第一、自分の面目を損うことなしに、独立した対等の人間だということを相手に示さねばならない。『でないと、僕を十三の小僧っ子だと思って、あんな連中と同じに見るかもしれない。アリョーシャは一たいあの子供らを何と思ってるだろう? 今度ちかづきになったら、一つ訊いてみてやろう。だが、どうも都合が悪いのは、僕の背が低いことだ。トゥジコフは僕より年が下だが、背は僕より二三寸高い。でも、僕の顔は利口そうだ。もちろん、綺麗じゃない、僕は自分の顔のまずいことを知っている。が、利口そうなことは利口そうだ。それからまた、あまりべらべら喋らないようにしなくちゃならない。でないと、アリョーシャはすぐ抱きついたりなんかして、ひとを子供あつかいにするかもしれない……ちぇ、子供あつかいになんぞされたら、とんでもない恥っさらしだ!………」
 コーリャは胸を躍らしながら、一生懸命に独立不羈の態度を保とうと努めていた。何より彼を苦しめたのは、背の低いことであった。顔の『まずい』よりも、背の低いことであった。彼の家の片隅の壁には、もう去年から鉛筆で線が引かれていたが、それは彼の背の高さをしるしづけたもので、それ以来は二月めごとにどのくらい伸びたかと、胸を躍らしながらその壁へ丈くらべに行くのであった。が、残念ながら、ほんの僅かしか伸びなかった。これがために、彼は時によると、もうほとほと絶望してしまうことがあった。顔は決して『まずい』ほうではなく、少し蒼ざめていて、そばかすはあるが、色の白い、かなり愛らしい顔だちであった。灰色の目はあまり大きくないが、生き生きと大胆な表情をしていて、よく強い感情に燃えたった。頬骨はいくらか広かった。唇は小さくてあまり厚くはなかったが、まっ赤な色をしていた。鼻は小さく、そして思いきり上を向いていた。『まったく獅子っ鼻だ、まったく獅子っ鼻だ!』とコーリャは鏡に向ったとき、口の中でこう呟いて、いつも憤然と鏡のそばを去るのであった。『顔つきだってあまり利口そうでもないようだ。』彼はどうかすると、そんなことまで疑うのであった。しかし、顔や背丈の心配が、彼の全心を奪い去ったと思ってはならない。むしろその反対で、鐘の前に立った瞬間、どれほど毒々しい気持になっても、あとからすぐ忘れてしまって(ながく忘れていることもあった)、彼がみずから自分の活動を定義した言葉によると、『思想問題と実際生活にすっかり没頭して』いたのである。
 間もなく出て来たアリョーシャは、急いでコーリャのそばへ近よった。まだよほど離れているうちから、アリョーシャがひどく嬉しそうな顔つきをしているのに、コーリャも気がついた。『僕に会うのがそんなに嬉しいのかしら?』とコーリャは満足らしく考えた。ここでついでに言っておくが、筆者《わたし》が彼の物語を中絶して以来、アリョーシャはすっかり様子が変ってしまったのである。彼は法衣を脱ぎ捨てて、今では見事に仕立て