京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『おとなしい女』その4(完)   (『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記上』P533~P537、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)[挑戦14日目]

ろが、朝になると……
 朝になると※[#疑問符感嘆符、1-8-77] 気ちがい、この朝は、今日のことではないか、まださっき、ついさっきのことではないか!
 よく聞いて、思いをいたしてもらいたい。さきほど(これは昨日の発作の後のことである)、わたしたちがサモワールのそばでいっしょになった時、彼女はむしろその平静さでわたしを驚かしたくらいである。なんと、こういう次第だったのだ! ところで、わたしのほうは、昨日のことを思って、一晩じゅう戦々恐々としていた。さて、とつぜん、彼女はわたしのそばへ来て、わたしの前に立ちどまり、手を合わせて、(ついさっき、ついさっきのことなのだ!)こんなことをいいだした。――あたしは罪人で自分でもそれを承知しています、その罪が冬じゅうあたしを苦しめたのみか、今もやはり苦しめています……あなたの度量の広いお心は、身にあまってありがたいことに思っています……「あたし、あなたの忠実な妻になって、あなたを尊敬しますわ」……わたしはおどりあがって、気ちがいのように彼女を抱きしめた! わたしは彼女を接吻した、長い別れの後に初めて、夫として彼女の顔や唇に接吻した。ただわたしはなんだってさっき出かけたのだろう、たった二時間ばかりのことではあったけれど……わたしたちの外国旅券を取りに行ったのだ……なんということだ! ほんの五分間、五分間はやく帰ってさえ来たら?……帰って見ると、アパートの門に群がっているあの群集、わたしを見るあの目つき……おお、なんということだ!
 ルケリヤがいうには(おお、わたしは今後どんなことがあつてもルケリヤを離さない。彼女はなにもかも知っている、彼女は冬じゅう家にいたのだから、彼女はすべてをわたしに話してくれるだろう)、その彼女がいうには、わたしが家を出てから帰って来るまで、ほんの二十分かそこいら前に、――ルケリヤは急に、なんであったかよく覚えてないが、たずねることがあって、居間にいた奥さんのところへ入って行った。見ると、彼女の聖像(例の聖母像)が取りはずされて、彼女の前のテーブルの上に置かれている。奥さんは、今までそれにお祈りでもしていたようなふうである。「奥さん、どうなさいました?」「どうもしやしないわ、ルケリヤ、あっちへ行って。――ちょっとお待ち、ルケリヤ」と彼女はそういって、ルケリヤのそばへ来て接吻した。「奥さん、あなたお仕合わせでいらっしゃいますか?」というと、「ああ、仕合わせだよ、ルケリヤ」「ねえ、奥さん、ほんとうのことを申しますと、旦那様はもうとっくにあなたにお詫びなさらなければならなかったのですわね……でも、仲直りがおできになってようございましたこと」「もういいわ、ルケリヤ、あっちへ行って、ルケリヤ」とにっこりして見せたが、それはいかにも変な笑い方であった。あまり変だったので、十分ばかりして、ルケリヤはまたふいと彼女を見に行く気になった。『奥さんは壁の際に、窓のすぐそばに立って、片手を壁にあてがい、その手に頭を押しつけて、こんなふうに立って、考えていらっしゃるんですの、わたしがこちらの部屋に立って見ているのにも、気がつかなかったほど、じっと考え込んで立っていらっしゃるのです。見てると、どうやら奥さんはにこにこ笑っていらっしゃるらしい。じっと立って考えながら、笑ってらっしゃる。しばらくそうして見ていてから、わたしはそっと引っ返して、出て行きました。腹の中では、いろいろ何かと考えていたのでございます。すると、急に窓のあく音が聞こえました。わたしはすぐまたそちらへ行って、「奥さん、寒いからお風邪を召すといけませんよ」と申しあげようと思って、ふと見ると、奥さんは窓の上にあがっていらっしゃるではありませんか、もうすっかり背丈いっぱいに身を伸ばし、開け放した窓の上に立って、わたしのほうへうしろを向けていらっしゃいます、手には聖像をお抱きになって。わたしは思わずどきっとして、「奥さん、奥さん!」と金切り声を立てました。奥さんはそれを聞くと、わたしのほうへふり返ろうとして、少し身動きなさいましたが、結局ふり返らずに、ひと足まえへ踏み出しなさいました、聖像を胸に抱きしめたまま、――そして、窓から身を投げておしまいなすったのです』
 わたしが門へ入った時には、彼女はまだ温かだった、わたしはただそれだけを記憶している。何よりはっと思ったのは、みんながわたしを見ていたことである。はじめがやがや騒いでいたものが、そのとき急に黙ってしまって、わたしの前に道を開いた。と……そこには聖像を抱いた彼女が横たわっていたのである。わたしは無言でそのそばへ寄り、長いこと見つめていたのを、闇を透すようにぼんやり覚えている。みんなは人垣をつくって、わたしに何やらいっている。ルケリヤもそこにいたのだが、わたしは気がつかなかった。当人の話では、わたしに口をきいたとのことである。わたしが覚えているのは、一人の町人だけである。この男はのべつわたしに向かって、「血が一っちょぼ口から出たよ、一っちょぼ、一っちょぼ!」と叫んでは、そこいらの石についていた血をさすのであった。わたしはどうやらその血に指で触ったらしい。指を汚したので、その指を見ていると(これは覚えがある)、その男はのべつ「一っちょぼ、一っちょぼ!」といっていた。
「いったいその一っちょぼって、なんのことだ?」わたしはありったけの声を出してこうわめくと、両手を振りあげて、その男に飛びかかったということである……
 ああ、むちゃだ! むちゃだ! 誤解だ! 真実とは思えない! 不可能なことだ!

   4 わずか五分の遅刻

 いったいわたしのいい分が違っていたのだろうか? はたしてこれが真実らしいだろうか? はたしてこれをあり得ることといえるだろうか? なんのために、何がゆえにこの女は死んだのか?
 おお、信じてもらいたい、わたしは理解している。けれど、彼女はなんのために死んだのか、――これはやはり疑問だ。彼女はわたしの愛におびえたのだ。そして、まじめに、これを受けたものか受けないものかと自問してみたうえ、この疑問をささえきることができないで、死を選んだのだ。わかっている、わかっている、なにも頭をひねることはない。彼女はあまりに多くの約束を与えたので、それを守ることは不可能だと悟って、愕然としたのだ、――ことは明々白々である。そこにはまったく恐ろしいそこばくの事情があるのだ。
 なぜなら、そもそもなんのために彼女は死んだのか? この点が依然、疑問として残っているからである。疑問はどきんどきんと音を立てている、わたしの脳壁をたたいている。わたしはむろん、彼女がそのまま[#「そのまま」に傍点]であることを望むのだったら、そのまま[#「そのまま」に傍点]にしておいたろう。ところが、彼女はそれを信じなかった、それがいけないのだ! いや、いや、わたしはでたらめをいっている、そんなことはまるで違う。ほかでもない、わたしに対しては正直でなければならないからだ、愛する以上は全的に愛さなければならぬので、あの商人を愛するような愛し方ではいけないからである。彼女は、商人に必要な程度の愛に応ずるには、あまりに純潔で、あまりに無垢であったから、わたしをだます気になれなかったのである。愛の仮面をかぶった中途半端な愛や、四分の一の愛で欺くのをいさぎよしとしなかったのである。あまりにも正直であった、これが原因なのだ! 記憶しておられるかどうかしらないが、わたしはあのとき心の寛さを接木《つぎき》しようと企てたものだ。なんと奇妙な考えだろう。
 ここで大いに興味のある問題は、彼女がわたしを尊敬していたかどうかということである。わたしとしては、彼女がわたしを軽蔑していたかどうかしらない。が、軽蔑していたとは思えない。それにしても、彼女がわたしを軽蔑しているかもしれぬという考えが、どうして冬の間に一度もわたしの頭に浮かばなかったか、それが不思議でたまらない。わたしは、あのとき彼女が厳しい驚き[#「厳しい驚き」に傍点]の色を浮かべてわたしを見たその瞬間まで、まったく反対のことを確信していたのである。まったく厳しい驚き[#「厳しい驚き」に傍点]であった。そのときわたしはたちまち即座に、彼女がわたしを軽蔑していることを悟った。それこそ永久に取り返しのつかない気持ち! ああ、いくらでも、いくらでも、一生涯でも軽蔑していてくれたらいいのだ、生きてさえいてくれたら、生きてさえいてくれたら! まだついさきほどまで歩いたり、ものをいったりしていたのに。どうして窓からなど身を投げたのか、わたしにはとんと合点がゆかない! せめて五分前にでも、なんとかして予想することができたら? わたしはルケリヤを呼んだ。今はもうどんなことがあってもルケリヤは離さない、どんなことがあっても!
 おお、わたしたちはまだ話し合うこともできたはずなのだ。わたしたちはただ冬の間に、ひどく離ればなれの気分になっていたが、しかしもう一度うち解けることが、はたして不可能であったろうか? なぜ、なぜわたしたちは意気投合して、もういちど新しい生活を始めることができなかったのか? わたしは寛大だし、彼女も同様である、――すると、ここに結合点が存在するわけだ! もう数言の説明と二日の日数、――それ以上は不要だ。そうすれば、彼女はもうすべてを理解したのだ。
 何よりもいまいましいのは、すべてが偶然だということである、――単純な、野蛮な、蒙昧な偶然だということである。これが癪にさわる! 五分、たった五分だけ遅れたのである! わたしが五分早く帰っていたら、――あの一瞬間は浮雲のように過ぎ去って、そんな考えは決して二度と、彼女の頭に浮かばなかったであろう。そして、結局、いっさいを理解してくれたに相違ないのだ。ところが、今はふたたび空虚な部屋部屋と、孤独なわたし。向こうで時計の振子がちくたく鳴っている。やつにはなんのかけかまいもないのだ、なに一つかわいそうではないのだ。だれもいない、――これがやりきれないのだ!
 わたしは歩いている、のべつ歩きまわっている。わかっている、わかっている、そばから口を出さないでもらいたい。わたしが偶然を怨み、五分を訴えているのが、諸君にはおかしいのであろう? しかし、そこには一つ自明の事柄がある。まず次の一事を考えていただきたい。彼女は、ふつう死んでいく人が遺すように、「わが死について何人も咎めたもうな」という書置きすら遺しておかなかった。いったい彼女は、ルケリヤまでが「なにしろ二人きりしかいなかったのだから、お前が突き落としたんではないか」というかどで、迷惑を受けるかもしれぬという判断がつかなかったのだろうか。もしも四人の人間が離れの窓と中庭から、彼女が両手に聖像を抱いて立っていたと思うと、やがて自分で飛びおりたところを見ていなかったら、少なくとも、ルケリヤは罪なくしてあちこち引っぱりまわされたかもしれないのである。しかし、人が立って見ていたというのも、これまた偶然ではないか。いや、これはみな瞬間である。単なる非情無識の瞬間にすぎない。唐突と幻想! 彼女が聖像の前に祈ったからとて、それがそもそもなんだろう? それは死の前の祈りという意味にはならない。おそらくその瞬間は、わずか十分ぐらいつづいたにすぎまい。そして、いっさいの決心はほかならぬ彼女が壁際に立って、頭を片手にもたせ、ほほ笑んでいた時に成り立ったに相違ない。頭ヘーつの想念が飛び込むと、ぐらぐらっと目まいがして、――もうそれに抵抗することができなかったのだ。
 そこにはなんといわれても、明瞭な誤解がある。わたしとはまだいっしょに暮らしてゆけたはずなのだ。が、もし貧血の結果としたらどうだろう? 単に貧血のためであったら、生活力の消耗からきたのであったら? 彼女は冬の間に疲れたのだ、それなのだ……
 遅かった※[#感嘆符三つ、ページ数-行数]
 柩の中の彼女は、なんとほっそりしていることか、あの鼻のなんと尖ったことか、睫毛は小さな矢のように並んでいる。いったいどんな具合に落ちたものだろう、――どこ一つ砕けても折れてもいない! ただあの「一っちょぼの血」だけだ。つまり、デザート・スプーン一杯の量である。脳震盪なのだ。奇怪な考えだが、もし葬らずにすんだらどうだろう、なぜなら、もし彼女が担いで行かれたら、それこそ……ああ、だめだ、担いで行かれるなんてことは、ほとんど不可能だ! なに、それはわたしだって、彼女が担いで行かれねばならぬことは知っている。わたしは気ちがいでもなければ、決して譫言《うわごと》をいっているのでもない。それどころか、こんなに知性が輝いたことはかつてないくらいだ、――しかし、また家にだれもいなくなるのに、いったいどうしろというのだ、またしても二つの部屋、そしてまたしても、わたし一人が質物に囲まれて。譫言、譫言、譫言といえば、つまりこのことなのだ! わたしは彼女を苦しめたのだ、それなのだ!
 今のわたしにとって諸君の法律がなんだ? 諸君の習慣、諸君の風俗、諸君の生活、諸君の国家、諸君の信仰が何するものぞ? 諸君の裁判官をしてわたしを裁かしめよ。わたしをして法廷に、諸君のご自慢の公開法廷に立たしめよ。そうすればわたしは、おれはなにものをも認めないといってやる。裁判官は叫ぶだろう、「黙りなさい、将校!」と。しかしわたしは叫び返してやる、「いま貴様のどこに、おれを従わせるだけの力があるのだ? 何がゆえに暗澹たる蒙昧が、この世の何より高価なものを打ち砕いたのか? 貴様らの法律が今のわたしに何になるか? おれは貴様らから絶縁するのだ」おお、わたしはもうどうだってかまわない!
 盲目、盲目の女! 死骸になった女、なんにも聞こえないのだ! わたしがお前をどんな天国に住ませようとしていたか、お前は知らないのだ。天国はわたしの心のうちにあったのだ、わたしはそれでお前のまわりを取り囲んだはずなのだ! なに、よしんばお前がわたしを愛さなかったとしても、――それでかまわない、なに、たいしたことではない! いつまでもそのまま[#「そのまま」に傍点]でよかったのだ、いつまでもそのまま[#「そのまま」に傍点]そっとしておいたはずなのだ。ただ友だちとしてわたしに話をしてくれたら、――それで二人は喜んだだろう、うれしそうに目をみかわして、わらっただろう。そんなふうにしてくらしたにちがいないのだ。が、もしほかの男が好きになったら、――なあに、かまわない、愛するがいい、愛するがいいのだ! お前がその男といっしょに歩いて笑っているところを、わたしは通りのこちら側から見ているだろう……おお、どんなことでもかまわない、ただせめて一度でも目をあけてくれたら、一瞬間、ほんの一瞬間だけでいい! さっきわた。しの前に立って、これからあなたの忠実な妻になると誓った、時のように、わたしの顔を見てくれたら! おお、その時は一目でいっさいを理解してくれたろうものを!
 ああ、蒙昧! おお、自然! 地上の人間は孤独なのだ、――これが不幸なのだ! 「この野に生きた人間がいるだろうか」と古いロシヤの勇士は叫ぶ。勇士ではないが、わたしも叫ぶ。しかし、だれも応えるものがない。太陽は宇宙に生気を与えるという。太陽が昇ったら、――その太陽を見るがいい、はたして死んでいないだろうか? なにもかも死んでいる、到るところ死人だらけだ。ただ生きているのは人間ばかり、その周囲は沈黙が領している、――これが地上の有様なのだ!「人々よ、互いに愛し合うべし」これをいったのはだれだ? これはぜんたいだれの遺訓だ? 時計の振子はちくたくと無感覚な、いまわしい音を立てている。夜中の二時だ。彼女の小さな靴が、まるで主人を待つもののように、寝台のそばに並んでいる……いや、真剣の話、あす彼女が担いで行かれたら、わたしはいったいどうしたらいいのだ?