京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『おかしな人間の夢』その2(完)   (『ドストエーフスキイ全集15 作家の日記下』P129~P136、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)[挑戦16日目]

苦しんだのだ。おお、おれはすぐにその時でさえ悟ったのだが、多くの点について、おれはぜんぜん彼らを理解できそうもないと思った。現代のロシヤ人であり、ペテルブルグの進歩主義者であるおれにとっては、たとえば、彼らがあれだけ多くのことを知りながら、われわれの科学を有していないということが、不可解千万に思われた。けれど、おれは間もなく合点がいった。彼らの知識は、われわれの地球で行なわれるのとは違った、直感によって補われ養われるし、また彼らの希求も同じく、ぜんぜん別なものであった。彼らはなにものも望まず、おちつきすましている。彼らはわれわれのように人生認識を追求しない。なぜなら、彼らの生活は飽満していたからである。しかし、彼らの知識はわれわれの科学よりも深く、かつ高遠であった。われわれの科学は、人生はなんぞやという疑問の説明を求めて、他人に生活を教えるために、みずから生を意識せんと努力しているが、彼らは科学の助けなくして、いかに生くべきかを知っていたのだ。おれはそれを合点したが、しかし彼らの知識を理解することはできなかった。彼らはおれに自分たちの樹をさし示したが、おれは彼らがそれを眺める愛情の程度を、理解することができなかった。彼らはあたかも、自分と同じ生きものと話すようなあんばいであった。それどころか、彼らは樹木と話をしたといっても、おれの考え違いではあるまい! そうだ、彼らは樹木の言葉を発見して、相手も自分の言葉を解してくれるものと信じきっていたのだ。自然ぜんたいに対しても、彼らはそれと同じ見方をしていた。――動物どもも彼らとともにむつまじく暮らして、決して彼らに襲いかかることなどなく、彼らの愛に征服されて、彼らを愛していた。彼らはおれに星をさしてみせ、それについてなにやら話したけれども、おれにはなんのことやらわからなかった。しかし、彼らが何かで空の星と接触を保っているのは、信じて疑わなかった。それは思想の仲立ちによるのではなく、何かもっと生きた方法なのだ。おお、これらの人々は、しいておれに理解してもらおうともせず、そんなことなど無視して、おれを愛してくれたが、おれは彼らが決してこちらを理解することがないのを知っていたので、われわれの地球のことはほとんど少しも話さなかった。ただ彼らの住んでいる土地を接吻して、無言のうちに彼ら自身を尊崇した。彼らはそれを見て、なすがままにさせておき、おれが豊かな愛のために彼らを尊崇するのを、恥ずるふうもなかった。おれが折ふし、涙ながらに彼らの足を接吻するようなときでも、彼らはおれのために心を苦しめなどはしなかった。それはやがて力強い愛でおれに報いる時がくるのを、心に歓びを秘めながら承知していたからである。時として、おれは驚愕の念をいだきながら、自問したものだ、――どうして彼らはおれみたいな人間を、しじゅう侮辱せずにいられるのだろうか、どうしておれみたいな人間に、嫉妬や、羨望の念を一度も起こさせずにすむのだろうか? おれは幾度となく自問したものだ、――どうしておれみたいな威張り屋のうそつきが、彼らの夢にも知らないような自分の知識を自慢せずにいられたのか、たとい彼らに対する愛情のためだけにでも、彼らをびっくりさせずにいられたのか?
 彼らは子供のように快活で元気がよかった。彼らは自分たちの美しい森や林をさまよいながら、素晴らしい歌をうたっていた。彼らは自分たちの樹に生る木の実とか、自分たちの森で採れる蜂蜜とか、彼らを愛する動物の乳とか、すべて軽い食物を糧としていた。衣食のために働くのは、ほんのちょっと、わずかな間であった。彼らにも恋はあって、子供も生まれた。しかし、われわれの地球に住むいっさいの人間に巣くっていて、わが人類のほとんどすべての罪の源となっている残忍な[#「残忍な」に傍点]情欲の発作などは、ついぞ見受けたことがなかった。彼らは新しく出生した子供たちを、自分たちの幸福に参加する新しい仲間として、歓びむかえた。彼らのあいだに争いもなければ、嫉妬騒ぎもなく、それがいったいどんなものであるかさえも知らなかった。彼らの子供はみんなのものであった。というのは、すべての人が、一家族を形成していたからである。彼らの間には、ほとんど病気らしいものがなかった。もっとも死というものはあったが、老人たちは別れを惜しむ人々に取り囲まれて、彼らを祝福し、彼らに微笑を送り、またみずからも彼らの微笑に送られながら、静かに死んでゆくのだ。その際、おれは悲嘆や涙などを見受けたことがない。そこにはあたかも、法悦にまで増大した愛情があるのみ、しかもそれは、おちついた、充実した、瞑想的な法悦なのである。彼らは死後もなお死者と接触を保って、彼らの地上における結合は、死によって中絶されないのではあるまいか、とそう思われるほどであった。おれが永遠の生命ということを質問すると、彼らはほとんど合点のゆかない様子であったが、見たところ、彼らは永遠の生命を無意識にかたく信じていて、そんなことは問題にならないようなふうだった。彼らには神殿というものはなかったけれど、宇宙の統率者との絶え間なき生きた連繋があって、それが何か日常欠くべからざるものとなっているのであった。彼らには信仰はなかったけれども、そのかわり確固たる知識があった。つまり、地上の喜びが自然の限界まで充満した時には、彼らのために生者死者を問わず、宇宙の統率者との連繋がさらに拡大されるということを、彼らは承知しているのであった。彼らはこの瞬間を歓びをもって待ち受けていたが、急いだり苦しんだりすることなく、いわばそれに対する予感を、心の中にいだいているようなふうで、それをお互い同士語り合うのだった。毎晩眠りにつくとき、彼らは声を揃えて、整然たる合唱を試みるのを好んだ。これらの歌の中に、彼らは暮れゆく一日が与えた感懐を残りなく伝えて、その一日を讃え、それに別れを告げるのであった。彼らは大地、海、森、すべて自然を讃えた。彼らはお互い同士について歌を作り合い、子供のように褒め合った。それはきわめて単純な歌であったが、おのずと心の中から流れ出るので、よく人の心に滲み入るのだ。また歌の中ばかりでなく、彼らはお互い同士に見とれることを一生の仕事にしているらしかった。それはなにか一般共通の相互恋愛、とでもいったようなものであった。彼らの歓喜に充ちたものものしい歌の中には、おれにまったく理解のできないものがあった。言葉では通じているくせに、どうしてもぜんたいの意味をつかむことができないのだ。それは結局、おれの頭脳におよびがたいものとして残ったが、おれの心はだんだん無意識にその意味を滲み通していった。おれはしばしば彼らに向かっていった、自分はもうとうからこれを残らず予感していた、この喜悦と光栄はすでにわれわれの地球にいる時分から、時としてたえがたい憂悶に達するほどの、呼び招くような憧れとなって自分の心に響いていた、自分は心の夢と叡知の空想の中で彼らすべてと、彼らの光栄を予感していた。自分は以前の地上にいる頃、涙なしに落日を眺められないことがしばしばあった……あの地上に住む人々に対する自分の憎悪には、なぜつねに憂愁がこもっていたのか、どうして彼らを愛さずには憎むことができないのか、なぜ彼らをゆるさずにはいられないのか、なぜ彼らにたいする愛には憂愁がこもっているのか? どうして彼らを憎まずには愛すことができないのか? こんなことをいうおれの言葉に、彼らは耳を傾けていたが、おれのいうことを想像することもできないのは、ちゃんとおれの目に見えていた。しかし、おれは彼らにそういう話をしたのを悔みもしなかった。自分の見棄ててきた人々に対するおれの悩みの烈しさを、彼らがあますところなく理解してくれたのは、ちゃんとわかっていた。それに、彼らが愛情に貫かれたやさしい目つきでおれを眺め、おれもまた、彼らのまえでは、自分の心までが彼らの心と同じように穢れのない、正直なものになってゆくのを感じた時、おれは彼らを理解しないことを残念に思わなかった。生の充実感のために、おれは息がつまりそうになり、彼らのために無言の祈りを捧げたものである。
 おお、いまだれもかれもが面と向かっておれを笑い、いかに夢とはいいながら、現在お前の話しているような詳細を見ることはできっこない、お前は夢にうなされているうちに、お前の心が生み出した感じを見、感じたまでであって、細かいことは、目がさめてから自分で創り出したのだという。そこでおれが、あるいはほんとうにそのとおりかもしれないと白状したとき、――いやはや、おれはどんなに皆から笑い倒されたことか、なんというお慰みを彼らに供給したことか!おお、[#「ことか!おお、」はママ]それはもちろんいうまでもなく、おれはただあの夢の感じに征服されたので、その感じのみが、血の滲むほど傷つけられたおれの心に、残ったに相違ない。が、そのかわり、おれがほんとうに眠っているときに見た夢の現実の姿かたちは、いいようもないほどの調和に充たされ、魅力と美と真実に貫かれていたので、むろん、おれが目をさました後、われわれの哀れな言葉に表現することなど、できるわけがなく、当然、おれの頭の中で消えてしまうべきはずであった。してみると、ほんとうにおれはやむなく後から、無意識に、自分で細かいところを創作したのかもしれない。ことに、少しも早く、なんとかしてそれを人に伝えたいという、烈しい欲望に燃えていたのであってみれば、恐ろしい歪曲をあえてしたのも、あたりまえであろう。しかし、それかといって、これらいっさいのことがほんとうにあったのだという点を、どうして信ぜずにいられよう? あるいは、おれがいま話しているより、千層倍も美しく、喜ばしく、光明にみちていたかもしれないのだ。たといこれが夢であるにもせよ、すべて事実なくては[#「事実なくては」はママ]ならないことなのだ。なんなら、諸君にひとつ秘密を教えてあげようか、これは始めから終わりまで、決して夢ではないかもしれないのだ! なぜなら、その後で、夢などに現われてくるはずがないほど、深刻味に充ちたある真実が生じたからである。まあ、この夢は、おれの心が生み出したものとしておこう。が、はたしておれの心だけの力で、その後起こったような恐るべき真実を、生み出せるものだろうか?どうして[#「だろうか?どうして」はママ]おれがそんなことを独力で考え出したり、心で生み出したりなどできるものか。いったいおれの浅薄な心や、とるにたらぬ気まぐれな頭が、そのような真実の啓示をなし得るまでに、高揚するだろうか! まあ、考えてもみてくれたまえ、おれは今まで隠していたのだが、今こそこの真実までもうち明けてしまおう。ほかでもない、おれは……彼ら一同を堕落させてしまったのだ!

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 そう、そうなのだ、とどのつまり、おれは彼ら一同を堕落させてしまったのだ! どうしてそういう成り行きになったかは知らないが、とにかくはっきり覚えている。夢は幾千年かを飛び越して、ただおれに渾然としたものの印象を残したのみである。おれは要するに、堕罪の原因が自分だったということしか知らない。ちょうど豚に寄生するいまわしい旋毛虫のように、数々の国に病毒を伝染させるペストの黴菌のように、自分の来るまで罪というものを知らなかった幸福な国を、おれはすっかり毒してしまったのだ。彼らはうそをつくことを習い、うそを愛するようになり、うその美しさを知ったのである。いや、その始まりはおそらく無邪気[#「無邪気」に傍点]なことだったのであろう、冗談から、媚態を装うことから、愛の戯れから、またはほんとうに目に見えぬ黴菌みたいなものから、始まったのかもしれない。とにかく、このうその黴菌が彼らの心に侵入して、しかも彼らの御意に召したのである。それから、急速に情欲が生まれ、情欲は嫉妬を生み、嫉妬は残忍を生み……おお、おれはよく知らない。覚えていないが、やがてすみやかに、きわめてすみやかに最初の血がしぶきをあげた。彼らは驚愕して色を失った、こうして、分散し孤立しはじめたのである。種々な同盟が現われたが、今度はもう互いに対立するものばかりだった。非難攻撃がはじまった。彼らは羞恥というものを知り、羞恥を美徳に祭りあげた。名誉なる観念が生まれて、おのおのの同盟にそれぞれの旗印がかかげられた。彼らは動物を虐待しはじめ、動物も彼らのもとを離れて森に去り、彼らの敵となった。分裂、孤立、個性のための闘争が始まり、おれのだ、いや、お前のだ、といがみ合うようになった。彼らは種々まちまちな言葉で話しはじめた。彼らは悲哀というものを知り、悲哀を愛するようになり、苦悶を渇望して、真理はただ苦悶によってのみ得られるなどといいだした。そのとき、彼らの間に科学が出現した。彼らが邪悪になったとき、彼らは四海同胞とか人道とかを口にし、この観念を理解した。彼らが罪を犯すようになってから、正義というものを発明して、数々の法典を書き、それを保存するようになった。そして、法典を保証するために、ギロチンを造った。彼らは自分たちの失ったものについては、きわめておぼろげな記憶しか持っていず、かつて自分たちが無垢で、幸福であったということを、信じたがらないほどになった。彼らはそういった以前の幸福の可能をすら嘲笑し、これを空想と呼んだ。彼らはそれを具体的な形で、思い浮かべることさえできなくなったが、ここに不思議な奇妙なことというのは、昔の幸福に対する信仰を失って、それをお伽噺と呼んでいるくせに、彼らはさらにふたたび無垢な幸福の身の上になりたいと願うあまりに、幼な児のごとくおのれの心の望みの前に跪拝し、この希望を神化して、無数の神殿を建立し、おのれ自身の理想、おのれ自身の「希望」に祈りを捧げるようになった。そのくせ、この希望の実現の不可能なことを十分信じているのだが、しかもなおこれを礼拝して、涙を流しながら跪拝するのだった。ところが、万が一、彼らの失った無垢で幸福な状態に帰れるようなことになったら、もしだれかが突如それを彼らに示して、お前たちはこれに復帰することを望むかとたずねたならば、彼らはきっとそれを断わったに違いない。
 彼らはおれに答えて、こういった。「われわれはうそつきの意地わるで、不正なものであってもかまわない。われわれはそれを承知して[#「承知して」に傍点]、そのために哀泣し、われとわが身を苦しめさいなんでいるばかりか、やがてわれわれを裁くであろう名も知らぬ大慈大悲の判官以上に、みずからを罰しているかもしれぬ。しかし、そのかわり、われわれには科学があるから、それによって、われわれはふたたび真理をさがし出すが、今度はもう意識的にそれを受け入れるのだ。知識は感情よりも尊く、生の知識は生よりも尊い。科学はわれわれに叡知を授け、叡知は法則を啓示する。幸福の法則の知識は幸福以上だ」とこんなふうに彼らはいった。そういった後、彼らの一人一人が、だれよりも一番、自分自身を愛するようになった。またそれよりほかには、なんともしようがなかったのだ。一人一人のものが自分の個性にかまけて、他人のそれを一生懸命に低下させ、縮小させようと努め、それに全生涯を費やすのであった。奴隷制度が出現した。中には好んで奴隷になるものさえ出てきた。弱者は進んで強者に屈服したが、ただしそれは自分よりさらに弱いものを圧迫するのに、強者の力をかりんがためである。やがて義人《ただしきひと》が現われて、これらの人々のもとにおもむき、涙を浮かべて彼らの誇りを説き、彼らが中庸も、調和も、羞恥の念も失いつくしたことを責めたが、人々は彼らを嘲り、石をもって打擲した。神の殿《みや》の閾で聖なる血潮が流された。そのかわりに、またこういうことを考える人が出てきた。どうかしてすべての人がさらにふたたび結合して、一人一人が自分自身をだれより最も愛しながら、それと同時にだれひとり他人の邪魔をせず、そんなふうにして一見、和協せる社会に住んでいるようにできないものだろうか。この理念からして、幾つも大きな戦争がもちあがった。そのくせ、すべての交戦軍は、科学と、叡知と、自衛感情とは、結局、人間を協和ある理性的な社会に融合せしめるに相違ないと、かたく確信していた。そういうわけで、さしあたり仕事を早めるために、「叡知の人々」は、彼らの理想を解しない、叡知のない人々を、一刻も早く殲滅《せんめつ》しようと努めた。その連中が彼らの理想の勝利を妨げないためなのである。けれど、自衛の感情は急速に衰えていって、今度は高慢な連中や淫蕩漢が現われて、すべてかあるいは無を端的に要求しだした。すべてを獲得するためには悪行に訴え、それが成功しなかった場合には、自殺に走った。無価値の中で永久におちつくために、虚無と自己破壊を崇める宗教が現われた。ついにこれらの人々も、無意味な労苦に疲れて、その顔には苦痛の色が浮かんできた。これらの人々は、苦痛は美である、なんとなれば、ただ苦痛の中にのみ思想があるから、と高唱した。彼らは苦痛を歌にうたった。
 おれは両手を折れんばかりによじながら、彼らの間を歩きまわり、彼らの上を哭き悲しんだ。が、ことによったら、彼らがまだ無垢でうるわしく、その顔に苦痛の浮かんでいなかった時分よりも、もっと強く彼らを愛していたかもしれない。おれは彼らに穢された地球を、楽園であった時よりもさらに愛するようになった。それは、ただ悲しみというものが現われたからにすぎない。しかし、それは自分のため、ただ自分のためばかりなのだ。おれは彼らを憐れみながら泣いたのだった。おれは彼らに両手をさし伸べながら、絶望のあまりわれとわが身を責め、呪い、軽蔑した。おれは彼らにそういった。――これはみんなおれがしたのだ、おれ一人だけの仕業だ、おれが彼らに淫蕩と、病毒と、虚偽をもたらしたのだ!と。[#「たのだ!と。」はママ]おれは彼らに、おれを十字架にかけて磔《はりつけ》にしてくれと哀願した。おれは彼らに十字架の造り方を教えてやった。おれはおのれみずからを殺すことができなかった、それだけの力がなかったけれども、彼らからその苦艱を受けたかったのだ。おれは苦艱に渇し、その苦艱の中に、おれの血が最後の一滴まで流れるように、と渇望したのだ。しかし、彼らはおれのことを笑うばかりで、はてはおれのことを気ちがい扱いするようになった。彼らはおれを弁護して、自分たちはお前から、ただほしいと思ったものを受け取ったばかりなのだ、今日《こんにち》あるいっさいのものは、すべてかくあらねばならぬものなのだ、といった。とどのつまりには、お前は自分たちにとって危険になってきた、もしお前が口をつぐまなければ、瘋癲病院へ入れてしまうぞ、と宣告したほどである。その時、いいがたい悲しみがおれの魂に流れ込んで、ひしひしと胸をしめつけたので、おれは今にも死にそうな気がした……その時……いや、まあ、そういったわけで、おれは目をさましたのだ。

 もう朝だった、といって、まだ、明けきってはいなかったが、かれこれ五時過ぎであった。おれは例の安楽いすに腰かけたままであった。蝋燭はすっかり燃えつきて、大尉の部屋でもみんな寝てしまって、あたりはこの家として珍しくしんとしていた。まず第一におれのしたことは、なみなみならぬ驚きに打たれて、跳びあがったことである。こんなことは、ごくつまらないこまごました点にいたるまで、今までかつてなかったことである。例えば、おれは決して安楽いすにすわったまま、寝込むようなことはなかったのだ。と、そのとたん、おれがぼんやり立って、徐々に正気に返っているうち、ふと前のテーブルにおかれたピストルが目に入った、ちゃんと弾丸がこめられて、用意ができているやつだ、――けれど、おれはたちまちそれをわきのほうへ押しやった! おお、いまこそ生きるのだ、あくまで生きるのだ! おれは双手を挙げて、永遠の真理に呼びかけた。呼びかけたのではない、泣きだしたのだ。狂喜の念、はかり知れぬ狂喜の念が、おれの全存在を揺りあげた。そうだ、生活だ、そして伝道だ! 伝道ということに、おれは即座に決心した。そしてもう、もちろん、生涯の仕事なのだ! おれは伝道に出かける、おれは伝道したいのだ、――何をだって? 真理だ、なぜなら、おれはそれを見たのだもの、この目でちゃんと見たのだもの、真理の光栄を残りなく見たのだもの!
 こうして、おれは現に、今日まで伝道している! のみならず、だれよりも一番、おれのことを冷笑した連中を、ことごとく愛している。なぜそうなのか知らない、説明ができない。がそれでいいのだ。彼らにいわせれば、おれは今でもしどろもどろのことをいってるそうだ。つまり、今からもうあんなにしどろもどろでは、さきざきどんなことになるのやら、というわけだ。正真正銘、そのとおりである。おれはしどろもどろのことをいっていて、さきざきもっとひどくなるかもしれない。もちろん、伝道のこつを、つまりいかなる言葉、いかなる行為で伝道するかを発見するまでには、幾度もしどろもどろをきわめるだろう、なにぶん、これはとても実行の困難なことなのだから。おれにとっては、それは今でも火を見るより明らかなのだが、しかし聴いてもらいたい。まったくだれだって、少しもまごつかない者なんかありゃしない! けれど、すべての人間は、同じものを目ざして進んでいるのではないか。少なくとも、すべての人間が、賢者から、しがない盗人風情にいたるまで、道こそ違え、同じものを目ざして行こうとしているのだ。これは月並みな真理ではあるが、この中に新しいところがある。というのはほかでもない、おれはあまりひどくはしどろもどろになり得ない。なぜなら、おれは真理を見たからだ。おれは見た。だから、知っているが、人間は地上に住む能力《ちから》を失うことなしに、美しく幸福なものとなり得るのだ。悪が人間の常態であるなんて、おれはそんなことはいやだ、そんなことはほんとうにしない。ところで、彼らはみんな、ただおれのこうした信仰を笑うのだ。しかし、どうしてこれが信ぜずにいられよう、おれは真理を見たのだもの、――頭で考え出したものやなんかと違って、おれは見たのだ、しかと見たのだ。そして、その生ける形象[#「生ける形象」に傍点](かたち)が永遠におれの魂を充たしたのだ。おれはそれをばあまりにも充実した完全さで見たものだから、そういうことが人間にあり得ないとは、信じられないのである。さあ、としてみれば、どうしておれのいうことがしどろもどろなのだ? もちろん、横道にそれることはあるだろう、しかも幾度もあるかもしれない、ひょっとしたら、借り物の言葉でしゃべるかもわからない。が、それも長いことではない。おれの見た生ける形象《かたち》は常におれとともにあって、たえずおれを匡《ただし》し、指向してくれるだろう。なに、おれは元気だ、おれは生き生きしている。だからあくまで進む、よしんば千年だって進む。実のところ、おれは初め、彼らを堕落させたことを隠そうかとさえ思ったけれど、それはおれの誤りだった、――これがそもそも第一の誤りだったのだ! しかし、真理が、お前はうそをついてるぞ[#「うそをついてるぞ」に傍点]とささやいて、おれを守護し、正道に立ち帰らしてくれた。が、いったいなんとして楽園をつくったものか、おれは知らない。なぜなら、言葉でつたえることができないからだ。夢がさめてから、おれは言葉を取り落としてしまった。少なくも、おもな最も重要な言葉をすっかり失くしたのだ。だが、かまわない、おれは出かける、そして始終うまずたゆまず話すつもりだ、というのは、自分の見たことを伝えるすべは知らないけれど、なんといっても、この目で、ちゃんと見たからである。ところが、笑い好きの連中にはこれが腑に落ちない。曰く、「夢を見たのさ、うわ言だ、幻覚だ」と。ええっ! いったいそれがそんなに賢いことなんだろうか? 彼らはいかにも得々としているのだ! 夢だって? 夢とはそもそもなんであるか? わが人生ははたして夢でないのか? いや、なお一歩すすんでいおう、よしんば、よしんばこれが決して実現することがなく、地上の楽園などあり得ぬこととしてもよい(なるほど、それはおれも納得している!)――が、それにしても、やっぱり伝道をつづけるつもりだ。しかしながら、これは実に造作のないことで、一日で、たった一時間で[#「たった一時間で」に傍点]、なにもかもたちまちできあがってしまうかもしれやしない! まずかんじんなのは、おのれみずからのごとく他を愛せよということ、これがいちばん大切なのだ、これがすべてであって、これ以上まったくなんにもいりゃしない。これさえあれば、いかに実現されるかは即座にわかってしまう。しかも、これは幾億度となくくり返しお説教された古臭い真理なのだが、どうもうまく生活に融け合わなかったのだ! 「生命の意識は生命よりも上のものだ、幸福の法則の知識は幸福よりも貴い」というやつ。つまりこいつとたたかわなければいけないのだ! だからおれはそれをやる。もしみんながその気になりさえすれば、たちまちなにもかもできあがってしまうのだがなあ。
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 ところで、あの小さな女の子はさがし出した……伝道に出かけるのだ! 出かけるのだとも!