『カラマーゾフの兄弟』P346-357   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦21日目]

教は、鎮魂祭がすむと、すぐ読誦を始めた。パイーシイ主教は、一日一晩読み通すつもりであったけれど、今のところ庵室取締りとともどもに、だいぶ忙しそうな様子であった。それは、僧院の同宿の間にも、僧院付属の宿泊所や町うちから押し寄せた人々の間にも、何かしらとうてい『あり得べからざる』、類のない異常な動揺と、いらだたしい期待の色が現われて、一刻一刻と目立ってきたからである。庵室取締りとパイーシイ主教は、かくまで騒がしく波だってくる群衆を鎮撫するのに、ありたけの力をそそいでいた。やがて、かなり日が高くなってきたとき、町から病人、ことに子供を連れて来るものが、ぞくぞくと現われ始めた。彼らは今こそ猶予なく治療の秘力が発顕するものと信じて、前からこの瞬間を待ちもうけていたものらしい。この地方の人々が、故長老を疑いもなく偉大なる聖者として、まだ在世の頃から、どれくらいまで尊敬し馴れていたか、この時はじめて明らかになったのである。群衆の中には、決して平民ということのできないような人たちもあった。
 こうして、あまりにも性急に、あまりにもあらわに表現された信者たちの異常な期待の情、というより、むしろいらだたしい要求は、パイーシイ主教の目に疑いもなく迷いと観じられた。彼はずっと前からこれを予感していたけれども、事実は彼の期待を超えたのである。興奮した僧たちに出会うたびごとに、彼は一々言い聞かせるのであった。『そのように、あまり性急に偉大な事柄を待ちもうけるのは』と彼は言った。『俗世の人にのみあり得べき軽率な挙動で、われわれとしてあるまじきことです。』とはいえ、彼の言葉に耳を傾けるものはほとんどなかった。パイーシイ主教は、不安の念をいだきながら、これに注目していた。しかし、彼自身も(正直にありのままを しるすならば)、あまりにもいらだたしい期待の情をにがにがしく感じて、その中に軽挙妄動を発見したにもかかわらず、心の奥のほうでは、これらの興奮した人たちと、ほとんど同じようなものを待ち望んでいるのであった。これは自分でも認めな いわけにゆかなかった。それにしても、彼はある種の人に行きあった時、とくに不快の念を覚えた。一種の直覚作用が、深い疑惑を呼び起したからである。
 長老の庵室内に群っている人ごみの中に、まだ僧院に逗留し ているオブドールスクの客僧や、ラキーチンなどの姿を見つけ た時、パイーシイは嫌悪の情を禁じ得なかった(もっとも、彼はその時すぐに、こうした心持になる自分を自分で責めた)。彼はこの二人をどういうわけか、怪しい人物と睨んでいた。しかし、こういう意味の注意人物は、彼ら二人にかぎったわけではなかったのだ。オブドールスクの僧は、興奮した人々の中でも、とりわけ慌しい人物として目に立った。彼の姿は到るところ、あらゆる場所で見受けられた。彼は到るところでいろいろなことを訊き出し、到るところで耳を傾け、到るところで一風ちがった様子ありげな顔つきをして、ひそひそと囁きあっていた。顔の表情は極度にいらだたしそうで、期待があまり長く実現されないために、業をにやしているようにすら見受けられた。
 ラキーチンのほうはどうかというと、彼がこんなに早くから庵室へ姿を現わしたのは、ホフラコーヴァ夫人の特別な依頼のためだということがあとでわかった。人はいいけれど肚のない夫人は、自分で庵室へ入れてもらうわけにゆかないために、朝目をさまして、長老の話を聞くやいなや、いきなり性急な好奇心に全心を領されて、さっそくラキーチンを代理として庵室へ送り、そこで起ったことをすっかり詳しく[#「そこで起ったことをすっかり詳しく」に傍点]観察して、約三十分ごとに、手紙をもって報告させることにしたのである。夫人はラキーチンを潔白な、信仰の厚い青年と思い込んでいた、――それほど彼は巧みにすべての人に取り入って、少しでも自分のためになることと見てとったら、相手の希望どおりな人間になってみせるのが上手であった。
 それは晴れやかな輝かしい日であった。参詣の巡礼者は多く墓のまわりに群っていた。墓はおもに本堂の周囲にかたまっていたが、また庵庭の諸所に散在しているのもあった。庵室を巡っているうちに、パイーシイ主教はふとアリョーシャのことを思い出した。もうかなり前から、ほとんど夜の明けぬうちから、この青年の姿を見受けなかったのである。このことを考えつくと同時に、彼は庵庭の片隅なる塀のかたわらに、青年の姿を発見した。アリョーシャはだいぶ昔にこの世を去った、いろいろな苦行によって名を知られている、ひとりの僧侶の墓石の上に腰かけていた。彼は庵室を背にして、塀のほうへ顔を向けながら、墓標に姿を隠すようにして坐っていた。そのそばへ近近と歩み寄ったパイーシイ主教は、彼が両手で顔を蔽いながら、声こそ立てね、全身を顫わせつつ、苦い涙に咽んでいるのに気がついた。主教はしばらくそのそばにじっと立っていた。
「もうたくさんだ、アリョーシャ、たくさんだよ、倅。」やがて彼はしんみりした声で口をきった。「お前、一たいどうしたのだ? 嘆くどころか、かえって悦ぶべき時ではないか。それともお前は今日があのお方[#「あのお方」に傍点]にとって最も偉大な日、だということを知らないのか? あの方が[#「あの方」に傍点]今、この瞬間どこにいらっしゃるか、そのことを考えてみただけでたくさんではないか!」
 アリョーシャは、子供のように泣きはらした顔から手をのけて、主教のほうをちらと振り返って見たが、すぐにまた一ことも口をきかないで、向きを変えると、そのまま両手に顔を埋め てしまった。
「いや、あるいはそのほうがよいかもしれぬ」とパイーシイ主教はもの案じ顔に言った。「あるいは泣いたほうがよいかもしれぬて、キリストさまがその涙をお前に送って下さったのであ ろう。」
『お前の悲痛な涙はただ魂の休息にすぎないのだ。やがてお前の可憐な心の浮き立つよすがとなるであろう。』彼はここを離れて、道々やさしい心持でアリョーシャのことを思いつづけながら、心の中でこうつけたした。もっとも、彼は急ぎ足で、ここを立ち去った。この青年の様子を見つづけていたら、自分まで一緒に泣きだしそうに感じられたからである。その間に時は移っていった。故長老に対する僧院の儀式や祭典は、順序をふんで行われるのであった。パイーシイ主教は、ヨシフ主教の姿を棺のかたわらに認めたので、ふたたび代って福音書の読誦を引き受けた。
 しかし、午後もまだ三時を過ぎぬうちに、もう前篇の終りにちょっと述べておいた事件がもちあがった。誰一人として思いもうけなかったこの出来事は、極度に人々の希望を裏切ったので、繰り返して言うが、これに関する詳細をきわめた浅薄な物語が、町うちはおろか近在一般に亘って、いまだに言い伝えられているほどである。ここで筆者はいま一息、自分の意見を述べておこう。筆者はこの愚かしい、人を迷わすような出来事を思いだすたびに、嫌悪の念を感じないでいられない。しかも、この出来事は実際のところ、意味もないきわめて自然なことであるから、もしこれが物語の本主人公たる(もっとも、未来の本主人公ではあるけれど)アリョーシャの霊魂と心情に、ある強烈な影響を与えなかったら、筆者はもちろん、こんな事件については一ことも話さないで、物語を進めたはずなのである。実際、この事件は彼の魂に一転期を画し、その理性を震撼すると同時に、ある目的に向けて生涯ゆるぎなく固定さしたのである。
 さて、いよいよ物語に移ろう。まだ夜の明けぬうちに、埋葬の準備を整えた長老の遺骸を、棺に納めて、とっつきの部屋、すなわちもと応接の間になっていた部屋へ運び出したとき、棺のそばにいた人々の間に、窓を開けなくてよかろうかという疑問が生じた。しかし、誰かが何げなしにちょっと口をすべらしたこの疑問には、誰ひとり返事をするものもなく、ほとんど気にもとめないで過ぎてしまった。もし誰か気にとめたものがあるとすれば、それは次のような意味にすぎなかった。つまり、こういう聖者の死体から腐敗や悪臭を期待するのは、あまりにも馬鹿げきった話であって、こういう質問を発した人の信仰の薄いことや、考えの浅はかなことは、たとえ冷笑でないまでも憐憫に価するくらいである。つまり、人々はぜんぜん正反対なことを期待していたのである。
 ところが、正午を過ぎて間もないころ、何かしら妙なことが始まった。部屋を出たり入ったりする人たちは、自分の心中に頭を持ちあげだした疑念を、はじめのうちは無言で胸に秘めて、誰にもせよ他人に伝えるのを恐れるようなふうであった。しかし、三時近くになると、はじめ少し気を催していたものが、もはや否定することのできないほど明瞭になったので、この報知は飛ぶように庵室ぜんたいへ拡がって、参詣の巡礼者の間に行きわたり、たちまちにして僧院の内部へ侵入し、同宿の人々を驚倒させた後、ごく僅かな間に町まで伝わって、信者不信者の別なく、一同を動顛さしたのである。不信者は跳りあがって悦んだ。信者のほうはどうかというに、彼らの中にも不信者以上に欣喜雀躍したものがあった。なぜなれば、故長老が自分の教訓の中で説いたとおり、『人は正しき者の堕落と汚辱を悦ぶ』からである。
 そのわけはほかでもない。棺の中からきわめて緩慢ではあるけれど、刻一刻と烈しく腐屍の匂いが発し始めて、三時頃には、もはや明らかにそれと感じられるようになったのである。この出来事についで、ただちに人々の間に(僧侶たちの間にさえ)生じた無作法で不謹慎なにがにがしい擾乱は、この僧院の過去の歴史ぜんたいを繰ってみても、絶えて久しくなかった事件、いな、むしろ想起することのできない事件であった。もしこれが別な場合だったなら、実にあり得べからざる事件なのである。その後、幾年もたった時に、寺内でも分別のある僧たちは、この一日のことを詳しく追懐して、どういうわけであのにがにがしい騒擾が、あのような度合いにまで達したのだろう、と思って、驚愕と畏怖を感じたくらいである。以前にも、一点非のうちどころのない正しい生活を送り、しかもその正しさをすべての人に認められていた僧侶や、敬神の念の深い長老などが死んだ時、その尊い棺の中から譬屍の匂いが発したこともままあった。それは、すべての死人にとってきわめて自然な現象であるが、とにかく、その時には見苦しい擾乱は言うまでもなく、僅かな動揺すら惹き起さないですんだ。もちろん、この僧院でも、ずっと昔この世を去った僧侶の中に、遺骸から臭気を発しなかった、という伝説を持った人もある。こういう人に関する記憶は、今もなお僧院内に生き生きと残っているが、上記の事実は、同宿の人たちに感激に充ちた神秘的な影響を与え、一種神々しい奇蹟的なものとして、一同の記憶に蔵せられた。つまり、神のみ心によって時が到ったならば、まだまだ偉大な光栄がその墓所から現われるに違いないという、約束かなんぞのように思われたのである。
 そういう人々の中で、とくに明らかな記憶を残しているのは、百五歳まで寿命を保ったヨフ長老である。この人はもはやずっと前、現世紀の十年代あたりにこの世を去ったが、僧院の人々は初めて参詣したすべての巡礼者を、非常な尊敬を払ってこの墓へ案内した。そうして、この墓に、ある偉大な希望がつながれている旨を、語って聞かせるのであった(それは、今朝アリョーシャが腰かけているところを、パイーシイ主教に見つけられた墓である)。ずっと昔に世を去ったこの長老のほか、比較的あたらしく逝去した大主教ヴァルソノーフィ長老に関しても、これと同じような記憶がまだなまなましく残っている。ゾシマが長老職を受け継いだのも、この人からである。在世中この人は参詣の巡礼だちから、純然たる宗教的畸人《ユロージヴァイ》と思われていた。この二人についてはこんな伝説が残っている。彼らは、棺に納められている間じゅう、さながら生きた人のようで、埋葬の時なども、少しの崩れも見えなかった。棺の中に臥ている顏は、輝き渡るようであった。中には、彼らの体からまざまざと芳香が感じられた、などという追憶を主張する人もあった。
 こうした有難い追憶がいろいろあるにもせよ、それでもゾシマ長老の棺の周囲に、ああまで軽率な、しかも愚かしく毒々しい現象の生じた原因は、容易に説明することができない。筆者一個の考えを述べるなら、この事件には他の分子もたくさんまじっていたので、さまざまな原因が同時に落ちあって影響をおよぼしたものに相違ない。たとえば、そういう原因の中には、長老制度を目して有害な新制度とする、根ざしの深い憎悪の念があった。これは、僧院における多くの僧侶の心に奥深くひそんでいた。それから、もう一つ重要なのは、聖者としての故人の地位に対する羨望であった。この地位は長老の在世から、確固たるものとなってしまって、異を立てることさえ禁じられている有様であった。実際、故長老は奇蹟というよりむしろ愛をもって、多くの人を自分のほうへ索き寄せ、愛慕者の群をもって一つの世界ともいうべきものを自分の周囲に樹立していたが、それにもかかわらず、というより、むしろこれがために、多数の羨望者と激烈な反対者を生み出したのである。彼らの中には公然と言明するものもあれば、陰に廻ってこそこそ細工をする連中もあった。しかも、これらの分子は単に僧院内ばかりでなく、一般世間にまで拡まっていた。長老は、何一つ人に害を加えたことがないけれども、ここに一つ問題がある、『なぜあの人はああ聖人あつかいされるのだろう?』この問い一つだけが絶えず繰り返されているうちに、ついに飽くことなき憎悪の深淵を形づくったのである。これがために、多数のものは彼の遺骸から腐屍の匂いを、しかもこんなにまで早く(長老が死んでまだ一日もたたないのである)嗅ぎつけた時、限りなき悦びを感じたのだと筆者は考える。また今まで長老に敬服していた人たちのうちにさえ、この出来事のために自分が侮辱を受けたように感じた人が、すぐさま幾たりか現われた。事件は次のような順序をふんで展開していった。
 腐敗が発見されるやいなや、故長老の庵室へ入って来る僧たちの顔を見たばかりで、何のためにやって来たのか察することができた。彼らは入って来てもあまり長くは立っていず、群をなして外で待っているほかの連中に、少しも早く噂の裏書をしようと思って、そわそわと出て行くのであった。外で待っている連中のうちには、愁わしげに首を振るものもあったけれど、その他の者は、毒々しい目の中に、ありありと輝きだした悦びの色を隠そうともしなかった。もはや誰ひとりこれを咎めるものもなかった。誰ひとり善の声を発するものがなかった。それは実に不思議なほどであった。何といっても、長老に信服している人は、僧院内で多数を占めていたはずなのである。しかし、察するところ、このたびは神が少数のものに一時の勝利を与えられたのであろう。
 間もなく僧侶以外の人も、密使として庵室の中へ入って来るようになった。それはおもに、教育のある人が多かった。平民階級の人たちは、庵庭の門ぎわに、大勢群集していたけれど、庵室の中へはあまり入って来なかった。三時から後は町の人の潮来が目に見えて多くなった。それは疑いもなく、例の人の心をそそるような噂のためであった。今日決してここへ来るはずのない人たち、――そんなつもりの少しもなかった人たちまで、今はわざわざ駆けつけて来た。その中には位の高い名士も幾たりか交っていた。とはいえ、表面の儀礼はまだ破られなかった。パイーシイ主教は厳めしい顔をして、しっかりした調子で、一語一語くぎるようにしながら、引きつづいて福音書を声高に読誦していた。彼はとっくから何か異常なことが起ったのに気づいていたが、それでも何も知らないようなそぶりをしていた。ところが、しまいには、人々の話し声が彼の耳にまで入るようになった。その声は初めごくごく低かったが、次第に大胆なしっかりした調子になってきた。『つまり、神様のお裁きなのだ、人間わざじゃない!』
 突然、こういう声をパイーシイ主教は聞きつけた。それをまっさきに口に出したのは、かなり年とった町の官吏で、信仰家として通っている人であった。しかし、これは、すでにだいぶ前から僧たちがお互い同士で囁きあっていたことを、公然と繰り返したにすぎないのである。僧たちはもうとっくから、この非道な言葉を口にしていたが、何よりも悪いことには、この言葉が発せられる時、一種勝ち誇ったような気分が頭を持ちあげて、それが刻一刻と募ってゆくのであった。やがて、間もなく式場の作法さえ崩れだした。しかも、人々は、それを蹂躪する権利があるような気持でいるらしかった。
『どうしてこんなこと[#「こんなこと」に傍点]ができたのだろう。』僧たちの中には、何となく憐れむような調子で、こう言いだすものがあった。『あの人の体は非常に小柄で、乾ききって、まるで骨と皮とくっついていたのに、どこからこんな匂いが出て来るんだろう?』
『つまり、神様がことさらわれわれの目を開けて下すったのだ』と別な僧たちが急いでこうつけたした。そうして、彼らの意見はすぐさま、何らの異議なしに受け入れられた。たとえ腐屍の匂いが自然なものであるにもせよ、どんな罪深い人の死骸でも匂いを発するのはもっと後のことで、少くとも一昼夜をへた後でなければならない。これは誰の目にもあまり早すぎる、『自然を超越している』、してみると、神がその尊いみ手をもって、人間の誤りをさし示されたものと解釈するより仕方がない、こういうのが彼らの意見であった。この意見はいなみがたい力をもって人々の心を打った。
 故長老の寵を受けていた図書係りの僧ヨシフ主教は、平生おとなしい人であったが、今は毒舌家の誰かれに向って、『しかし、いつもそうばかりはゆかない』と言って弁駁を試み始めた。つまり、聖者の遺骸は腐敗すべきものにあらずというのは、決して正教の教義でなく、ただの意見にすぎない。最も正教の盛んな国、たとえばアトスなどでも、腐屍の匂いのためにこう騒ぐようなことはない。のみならず、隠遁者の光栄の兆とされているものは、肉体が腐敗しないということではなくて、骨の色なのである。死体が幾年も幾年も地中に埋まって、やがて壊滅しはじめたとき、『もし骨が蝋のように黄いろくなったなら、これこそ神が故人を正しき者として祝福された最も重大な兆であるが、もし黄でなく黒い色に変ったなら、神がその人に光栄を授けたまわなかったことになる。これが、昔から光明と清浄の中に儼として正教を保存している偉大なる聖地アトスにおける定めなのだ』とヨシフ主教は結論を下した。
 しかし、温良な主教の言葉は、何の効果もなく消えてしまって、むしろ嘲笑的な反抗を呼び起した。『あれはみな新奇を悦ぶ衒学者の言葉だ、耳を傾ける必要がない。』僧たちは自分たちの判でこう決めてしまった。『われわれは昔どおりにすればいいのだ。この頃は新しいことがやたらに出て来るから、一々まねをしていられるものか?』と他の連中はつけたした。『口シヤにだって、アトスに負けないくらい、たくさんの聖僧が出ている、あそこはトルコ人の治下におかれているために、何もかもすっかり忘れてしまっているのだ。あそこの正教はもうとうから濁っている。現にあそこには鐘もないじゃないか。』一ばん口の悪い連中は、こう言って調子をあわした。
 ヨシフ主教は愁わしげにそこを立ち去った、それに、彼自身の駁論の調子もあまり確固たるものでなく、何となく半信半疑というようなふうであった。彼は、困惑の情を胸にいだきつつ、何か非常に見苦しいことが始まりかけたのを見てとった。事実、もう公然たる反抗が頭を持ちあげたのである。ヨシフ主教の弁駁の後は、次第に是非を論ずる声がしずまっていった。生前ゾシマ長老を愛したのみならず、感激をもって従順に長老制を認めていたすべての人が、どうしたわけか、急にひどく何かにおびえあがって、途中出会っても、ただ臆病げに互いの顔を見くらべるばかりであった。奇怪な新制度として長老制に反対する人たちは、傲然として首をそらしていた。 『ヴァルソノーフィ長老がおかくれになった時は、悪い匂いが立たなかったばかりでなく、芳香が馥郁としていた』と彼らは意地わるい悦びの色を浮べながら、こんなことを引き合いに出した。『あのお方は長老という位のためでなく、ご自分で正しい道を履まれたために、あれだけの酬いをお受けになったのだからな。』
 これにつづいて、今度は故長老に対する非難や、譴責の声すら聞えはじめたのである。『あの人の教えは間違っていた。あの人の教えによると、人生は涙に充ちた忍従でなくて、偉大なる喜悦なんだそうだ。』一番わけのわからない連中が、こんなことを言った。『あの人の信仰はこの頃はやりのもので、物質的な地獄の火を認めていなかった。』なお一そうわけのわからない連中が、こう調子をあわした。『精進に対してもあまり厳格でなかった、甘いものを平気で口に入れ、お茶と一緒に桜のジャムを食べていた。非常な好物だったので、しじゅう奥さんだちから届けてもらっていた。隠遁者がお茶を飲むなんて法があるものか?』こういう声が羨望者の仲間から聞えた。『恐ろしく威張りかえって坐ってたじゃないか?』最も意地わるい悦びを感じている人たちが、残酷な調子で言いだした。『自分で聖人を気どって、人が自分の前へ平伏しても、あたりまえのようにあしらっていたじゃないか。』
『懺悔の秘密を濫用したのだ。』最も獰猛な長老制の反対者が、毒々しい調子でこう囁いた。これらは、僧侶仲間でも一番の年長者で、敬神の点についてはきわめて峻厳な、真の意味における禁欲と沈黙の行者であった。彼らは故人の存命中かたく沈黙を守っていたが、今とつぜん口を開いたのである。これが何よりも恐ろしかった。というのは、彼らの言葉は、まだ定見をもっていない若い僧たちに、強烈な印象を与えたからである。
 オブドールスクの聖シリヴェストル僧院から来た客僧は、これらすべてのことを、一心に耳をすましながら聞いていた。彼は深い溜息をつき、小首を傾けながら、『いや、どうもフェラポント主教が昨日おっしゃったことは本当らしい』と心の中で考えた。ちょうどその時、僧フェラポントが姿を現わした。それは、一同の動揺の度を強めようと思って、わざと出て来たかのようであった。
 前にも述べておいたとおり、彼が養蜂場にある自分の木造の庵室から出ることは、きわめてまれであった。会堂へすら長いあいだ顔を出さないのが常であった。僧院のほうでも彼を宗教的畸人《ユロージヴァイ》と見て、一般に対する規則をもって律しないで、何事も大目に見てやっていた。が、本当のところを言えば、これも一種の必要に迫られて許していたのである。そのわけは、こうして朝から晩まで祈っている(実際、寝るのも膝をついたままなのである)、偉大な禁欲と沈黙の行者をば、自分から服従を望んでもいないのに無理に一般の規則へ当て嵌めるのは、非礼と言っていいくらいだからである。もし、そんなことをしたら、僧たちはこう言うにちがいない。『あの方はわれわれの誰より最も神聖な人で、規則に従うよりも、もっと困難な義務をはたしておいでになるのだ。あの方が会堂へ出られないのは、つまり自分で自分の行くべき道をちゃんと承知していらっしゃるからだ。あのお方には自分の規則があるのだ。』こういう不平や騒擾の起り得べきことを想像して、フェラポントを放任しているのであった。彼がゾシマ長老を非常に嫌っているのは、一同に知れ渡った事実である。ところが、今とつぜん彼の庵室へ、『あれは神の裁きだ、人間わざではない。自然律さえも超越している』という報知が伝わった。第一番に彼のもとへ駆けつけた人の中には、きのう彼を訪れて、恐怖をいだきながら辞し去った、オブドールスクの客僧も交っていたものと考えなければならぬ。 これも前に言ったことであるが、パイーシイ主教は確固不抜の姿勢で、棺のそばに立って読経していた。彼は庵室の外で起ったことを、見聞するわけにゆがなかったが、それでも、おもなる経過はことごとく心の中で誤りなく推察していた。彼は周囲の人々の腹の中をたなごころを指すように見抜いていたのである。しかし彼は困惑など感じないで、何の恐れげもなく、起り得べき一切のことを待ちもうけていた。そして、今は自分の心眼に映ずる擾乱の経過を、刺し透すような目つきで見まもるのであった。
 そのとき入口のほうにあたって、もはや疑う余地のないほど明瞭に、式場の作法を破るなみなみならぬ物音が、彼の聴覚を刺激した。と、戸がさっと開け放たれて、フェラポントの姿が閾の上に現われた。それにつづいて大勢の僧侶が(その中には俗世の人々もまじっていた)、入口の階段の下に群がる気配がした。これは庵室の中からもはっきりと見えた。取り巻きの連中は中へも入らなければ、入口の階段へもあがらないで、これからフェラポントが、どんなことを言ったりしたりするかと、じっと佇みながら、待ちかまえていた。彼らは、自分たちがずいぶん無作法な言行をあえてしているにもかかわらず、フェラポントがここへやって来たのは何か思わくあってに相違ないと想像して、一種の恐怖さえ感じたのである。
 フェラポントが閾に立って、両手を上へさし伸べた時、オブドールスクの客僧の好奇に輝く鋭い目が、その右手の陰からちらりと覗いた。彼は、自分の烈しい好奇心を我慢することができないで、フェラポントの後から階段を駆け昇ったただ一人であった。ほかの者は、戸ががたんと開け放されるやいなや、思いがけない恐怖におそわれて、かえって互いに押しあいながら、なお後ずさりしたものである。両手を高くさし上げると、フェラポントはふいに叫びだした。
「われあくまでもしりぞけん!」彼はかわるがわる四方八方に向き直りながら、庵室の壁と四隅に十字をきり始めた。取り巻きの連中はたちまちこの動作の意味を了解した。彼はどこへ入る時でも、必ずこれをやって悪霊を追い払わないうちは、決して腰もおろさなければものも言わない。それをみんな知っていたのである。
「怨敵退散、怨敵退散!」彼は十字を切るたびに一々こう繰り返した。「われあくまでもしりぞけん!」とまたしても叫んだ。彼は例の粗末な袈裟を着て、繩の帯をしめていた。麻のシャツの下からは、胡麻塩毛の一面に生えた、あらわな胸が覗いていた。足はまるっきり跣であった。彼が手を振り始めるやいなや、袈裟の下にかけてある錘《おもり》が震えて、もの凄い音を立てるのであった。パイーシイ主教は読誦をやめて進み寄り、待ちもうけるように彼の前にじっと立っていた。
「何のために来たのです? 何のために式をみだすのです? 何のために、温順なる衆生を惑わすのです?」と厳しい目つきで相手を見つめながら、ついに彼はこう言いだした。
「何のために来たとな? 一たい何か望みなのじゃ? 一たいどんな信仰を持っておるのじゃ?」とフェラポントは一種異様な言葉づかいで叫んだ。「ここにいるお前たちの客人を、穢らわしい悪霊を、追い払おうと思うて、やって来たのじゃ。どれ、わしのおらぬ間に大勢あつまったか、一つ見てやろう。わしはやつらを白樺の箒で掃き出してくれるわ。」
「悪霊を追い払うなどと言いながら、ご自分こそ悪霊に仕えておられるかもしれませぬぞ。」とパイーシイ主教は恐るるさまもなく言葉をつづけた。「それに『われこそは聖人である』と言い得る人がどこにありましょう? お前さまには言えますかな?」
「わしは穢れた人間じゃ、聖人ではない。それじゃによって、わしは肘椅子などに坐りはせぬ。偶像《でく》のように拝んでもらいとうもないわ!」とフェラポントは呶鳴りつけた。「今の人間は、神聖なる信仰を滅ぼしておる。お前がたの亡くなった上人さまはな、」群衆に向って棺を指さしながら、彼はこう言った。「サタンを否定して、魔よけの薬なぞ飲ませたではないか。つまりそのために、部屋の隅に蜘蛛の子のように、サタンどもが殖えてきたのじゃ。そうして、今日はとうとう、自分から臭い匂いを立ておった。なんと、この中に神様の偉大な啓示が窺われるではないか。」
 これは実際、ゾシマ長老の在世中に、あったことなのである。ある時、ひとりの僧侶が毎晩夢に悪魔を見ていたが、ついにはうつつにもありありと見えるようになった。彼が烈しい恐怖におそわれて、このことを長老に打ち明けた時、長老は絶えず祈禱をして、てむに精進を励むようにと勧めた。しかし、これでも験《しるし》がなかったので、長老は祈禱も精進もつづけながら、そのかたわら、ある薬を用いるように勧めた、当時、多数のものはこれがために迷いを起して、首をひねりながら仲間同士噂をしていた、――その音頭とりはフェラポントであった。それは、幾たりかの毒舌家が、その時すぐさま、この僧のもとへ駆けつけて、こういう特別な場合に対する『類のない』長老の処置を報告したからである。
「お出なさい!」とパイーシイ主教は、命令するように言った。「裁きをするのは神様です、人間ではありません。今ここに見る啓示は、お前さまもわたくしも、了解することのできないようなものかもしれませぬ。さあ、お出なさい、そして、衆生を惑わさぬようにして下さい!」とパイーシイ主教は強硬に繰り返した。
「わが僧位に相当する斎戒を守らなんだために、こういう啓示が現われたのじゃ。それはわかりきった話で、かくし立てするだけ罪なことじゃ。」もう理性を失って夢中になった狂信者は、なかなか静まろうとしなかった。「菓子の甘味にそそのかされて、奥さんがたにかくしへ入れて持って来さしたり、お茶に舌鼓を打ったりしていた。こういうふうに、腹は甘い物で、頭は傲慢な考えで台なしにしてしもうた……それがためにこんな恥を受けたのじゃ……」
「それは軽薄な言葉というものですぞ!」パイーシイ主教も声を高めた。「あなたの精進苦行には驚嘆しておりますけれど、その言葉の軽薄なことは、定見のない軽薄な俗世の若者が言うようではありませぬか。さあ、お出なさい、わたくしが命令しておるのですぞ。」パイーシイ主教も、しまいのほうはもう呶鳴るように言った。
「わしは出て行くとも!」幾分ひるんだような形であったが、それでもやはり毒念を捨てないで、フェラポントはこう言った。「お前さまがたはみな学者でござるよ。えらい知恵があるというて、つまらんわしを高みから眺めておったのじゃ。わしは無学をも恥じずにここへ来た。そうして、来てみると、前に知っておったことさえ忘れてしもうたが、神様がこのつまらんわしをば、お前がたの大智から守って下さったわ……」
 パイーシイ主教はそのそばに立って、毅然たる態度でじっと待っていた。フェラポントはしばらく無言でいたが、急に悲しそうな様子で右手で頬杖をつき、故長老の棺をじっと見やりつつ、歌でも歌うように言いだした。
「この男はあす『助力者保護者』を歌うてもらえる、――実にこの上ない有難いお歌なのじゃ。ところが、わしが息を引き取った時は、つまらん歌い手の口から、ようよう『生の悦び』を歌うてもらえるだけじゃ」と彼は涙っぽい悲しげな声で言った。「威張りかえって、高うとまりおったな。ええ、もうこんなところなど空になってしまえ!」突然、彼は気ちがいのようになって、こう叫ぶと、手をひと振りして、くるりと踵を転じ、飛ぶように階段を降りて行った。下で待っていた群衆は、急にざわめきだした。ある者はすぐあとからついて行ったが、またある者はしばらくためらっていた。それは、庵室の戸がやはり開け放されたままであるし、その上、パイーシイ主教が、フェラポントにつづいて、上り口まで出て来て、じっと立ったまま様子を見ていたからである。しかし、羽目をはずしてしまった老僧は、まだすっかり自分の仕事をしおおせたのではなかった。二十歩ばかり庵室を離れたとき、彼はとつぜん入日に向って立ちどまり、両手を頭上高くさし上げた、――と、まるで誰かに両足を薙がれたように、恐ろしい叫び声とともにばたりと地上へ倒れた。
「わが主は勝ちたまえり! キリストは落日にうち勝ちたまえり!」両手を入日に向けてさし上げながら、狂猛な声を立ててこう叫ぶと、地面にぴたりと顔を押しつけて、小さな子供のように声を立てて慟哭しはじめた。彼は両手を左右にひろげて、地上へ投げ出したま大涙に咽せて全身を顫わせるのであった。
 もうこの時こそ、一同は猶予なく彼のほうへ飛びかかった。歓喜の叫びと相呼応するような慟哭の声が響き渡った……一種の興奮が一同をおそったのである。
「これこそ本当に神聖な人だ! これこそ本当に正しい人だ!」という歓呼の声が、もう惧れげなしに発せられた。「これこそ長老の席に坐るべき人だ。」ある者はも憎々しげな調子でつけたした。
「この方はそんな席に坐りはなさらない……自分でお断わりなさるよ……怪しげな新制度に奉仕されるはずがない……馬鹿げた人真似なぞなさるものか」と別な人の声がまたこう抑えた。
 このまま進んだら、どこまでゆくか想像もできないくらいであったが、ちょうどそのとき晩の祈禱式を知らせる鐘の声が、ふいに響き渡った。一同は急に十字を切り始めた。フェラポントも起きあかって、十字の印で身を固めながら、あとを振り向こうともせず、わが庵室をさして歩きだした。依然として何やら叫びつづけていたが、それはもうまるで辻褄の合わないことであった。そのあとから、ごく少数のものが幾たりかついて行ったが、多くはちりぢりになって、祈禱式へ急ぎだした。パイーシイ主教は読経をヨシフ主教に依頼して、階段をおりて行った。狂信者の興奮した叫びなどで信念をゆるがされる彼ではなかったが、心が急に沈んできて、何か別なことを思い悩むようになった。彼自身にもそれが感じられたのである。彼は立ちどまって、急に自問してみた。『どうして自分は意気銷沈といっていいくらい、こんな憂愁を感じるのだろう?』その瞬間この思いがけない憂愁の念が、きわめて些細な特殊の原因から来ているらしいのを悟って、彼は奇異の思いをいだいた。
 ほかでもない、庵室の入口のすぐそばまで詰め寄せた群衆の中に、アリョーシャの姿が、興奮した人々の間に見受けられた。彼はこの青年の姿を認めたとき、心の底に一種の痛みともいうべきものを感じたのを、今思い出したからである。『一たいこの若者がおれの心にとって、これほど大きな意味をもっているのだろうか?』突然、彼は驚きの念をもってこう自問した。ちょうどこのとき、アリョーシャがそばを通り過ぎた。どこかへ急いでいる様子であったが、僧院の方角ではなかった。と、ふたりの目が出あった。アリョーシャは視線を転じて伏目になった。パイーシイ主教はそのそぶりを見ただけで今この青年の心に烈しい転換が生じているのを察したのである。
「一たいお前まで迷わされたのか?」とふいにパイーシイ主教は叫んだ。「一たいお前まで信仰の薄い人だちと同じ仲間なのか?」と彼は愁わしげにつけたした。
 アリョーシャは歩みをとめて、漠然とした表情でパイーシイ主教を見上げたが、またもや急に視線を転じて伏目になった。彼は斜かいに立って、問者に顔を向けなかった。パイーシイ主教は注意ぶかく観察していた。
「どこへそんなに急ぐのだ? 勤行《ごんぎょう》の知らせが鳴っているではないか」と彼はまた訊ねた。
 しかし、アリョーシャはやはり返事をしなかった。
「それとも庵室を出て行くのか? どういうわけだ、許しも乞わなければ祝福も受けずに?」
 アリョーシャはふいに口を曲げてにたりと笑い、奇妙な、恐ろしく奇妙な目つきで問者を見上げた。それはかつて自分の情知の指導者であり、自分の情知の支配者であった敬愛すべき長老から、将来の指導を委任ぜられた当の人である。ふいに、彼は依然として返事もせず、敬意を表しようなどとは考えもしない様子で、手を一つ振ると、庵庭から外へ通ずる出口の門をさして、急ぎ足に歩きだした。
「また帰って来るだろう!」愁わしげな驚異の色を浮べて、そのうしろを見送りながら、パイーシイ主教はこう呟いた。

   第二 こうした瞬間

 パイーシイ主教が自分の『可愛い少年』の帰来を予言したのは、確かに間違いでなかった。それどころか、かえってアリョーシヤの心理状態の、真の意味を洞察したのかもしれない(その洞察は十分なものではないけれど、しかし何といっても、眼力の鋭いところがあった)。とにかく、露骨に打ち明けたところを言うと、筆者自身でさえ、自分の心から愛している年若い主人公の生涯における、この不思議な、漠然とした一瞬間の意義を正確に伝えることは、今のところ非常にむずかしい仕事なのである。アリョーシャに向けて発せられた『一たいお前まで信仰の薄い人たちと同じ仲間なのか?』というパイーシイ主教の悲しい問いに対して、筆者はもちろん、アリョーシャに代って断乎たる調子で、『いや、彼は信仰の薄い人だちと同じ仲間ではない』と答えることができる。そればかりか、この中にはぜんぜん反対なものがふくまれているくらいである。つまり、彼の惑乱はすべて、あまりに多く信仰したがために生じたのである。しかし、とにかく惑乱が生じた。しかも、それはだいぶしばらくたった後までも、アリョーシャがこの日を目して、自分の一生における最も苦しい、宿命的な日の一つと数えたほど、悩ましい惑乱なのであった。
 が、もし向きつけに、『彼の心にああした憂悶や不安が生じたのは、長老の遺骸が即座に治療の秘力を発しないで、反対に、早くも腐敗しはじめたからだろうか?』と訊く人があれば、筆者はこれに対してためらうことなく、『そうだ、実際そうなのだ』と答えるであろう。ただ筆者は、あまり性急にわが少年の純潔な心を冷笑しないよう、読者に乞わなければならぬ。筆者自身にいたっては、彼のために謝罪しようという気もなければ、彼の単純な信仰を年の若いためとか、または以前修得した科学的知識の浅いためとか、そんなことを言って弁解しようという気もさらにない。それどころか、かえって彼の心情に心底から尊敬を払っている。これはきっぱり明言しておこう。実際、世間には非常に注意ぶかく心的印象を取り入れて、人を愛する態度も熱烈でなく生ぬるいし、その知性も正確ではあるけれど年に合せてあまり分別くさい(したがって安価なものである)、といったような青年もずいぷんある。こういう青年は、繰り返して言うが、わが主人公の心に起ったようなことを避けたに相違ない。しかし、時と場合によっては、たとえ無分別であろうとも、広大な愛から生じた熱情に没頭したほうが、ぜんぜん避けてしまうよりも尊敬に価することがある。若い時にはなおさらそうである。いつもいつもあまり分別くさい青年は、前途の見込みがなく、したがって人物も安っぽい……これが筆者の意見である!
『しかし』と、また分別のある人々は叫ぶであろう。『すべての青年が、そのような偏見を信じるわけにゆかねではないか。それに、お前の好きな青年は万人の模範ではないからな。』これに対して、筆者はまたこう答える。『さよう、私の青年は信じていました。神聖犯すべからざる信仰をいだいていました。しかし私は何といっても、彼のために謝罪なんかしません。』ところで、筆者は今わが主人公のために、説明や、謝罪や、言い訳などしないと言明したが、これはあまり性急に過ぎたかもしれない。今になってみると、やはり向後の物語の理解のために、何か少し説明しておく必要があった。そこで筆者はこう言う、問題は決して奇蹟にあるのではない、と。つまり、あまり性急なるがゆえに軽率な、奇蹟の期待が問題ではない。そのときアリョーシャが奇蹟を必要としたのは、何かの信念の勝利のためではない(そんなことは大丈夫ない[#「大丈夫ない」はママ])。また何か以前先入主となっていた観念が、いち早く他のものを圧倒することを歇したためでもない、――おお、決して、決してそのようなことはない。この問題において、彼の心中第一の場所を占めているのは一つの顔である。ただ顔だけである、――彼の愛してやまぬ長老の顔である、彼が崇拝の極度に達するまで尊敬していたかの正しき人の顔、これなのである! 彼の若く清き心にひそんでいる『ありとあらゆるものに対する』愛は、前の年からその当時へかけて、始終ただ一個の人物に向って集注せられていた。その愛し方はアブノーマルなものであったかもしれない、少くとも、激発的なものであったかもしれないが、――とまれ、今は世になき長老ひとりに集注されていたのである。実際、この人物は疑う余地のない正しい理想として、長いあいだ彼の眼前に立ち塞がっていたので、彼の若々しい精力と努力は、こと