京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P034-037   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦28日目]

ということなしに一同に向って、自分はトゥラ県の地主マクシーモフであると名乗りを上げると、さっそく一行の相談に口を入れるのであった。
「長老ゾシマさまは庵室に暮しておいでなされます。僧院から四百歩ばかりの庵室に閉じ籠っておられます。木立を越すのでござります。木立を越すので……」
「それはわたしも知っておりますよ、木立を越すということはな」とフョードルが答えた。「ところで、わしらは道をはっきり覚えておらんのだて。だいぶ長く来たことがないのでな。」
「ああ、それはこの門を入ってまっすぐに木立を通って……木立を通って……さあ、まいりましょう。もし何なら、わたしもご一緒に……わたくしが、その……さあ、こちらへ、こちらへ……」
 一同は門を抜けて木立の道を進んで行った。マクシーモフは六十くらいの年輩であったが、身ぶるいのつくほど極端な好奇心をもって一行を眺め廻しながら、横っちょのほうから、歩くというよりひしろ走って来るのであった。その目の中には何となく厚かましい表情があった。
「実はね、僕たちがあの長老のところへ行くのは、特別な用事のためなんです」とミウーソフは厳しい調子で彼に注意した。「僕たちはいわば『あの方』に謁見を許されたんだからね、道案内をして下さるのは有難いけれど、一緒にお入りを願うわけにゆかないんですよ。」
「わたくしはまいりました、まいりました、わたくしはもうまいりました……Un chevalier parfaut!(立派な騎士でござります)」と地主は空へ向けて指をぱちりと鳴らした。
「騎士《シュヴリエ》って誰のことです?」
「長老さまでございます。世にも珍しい長老さまでございます。あの長老さまは……まったくこの僧院の誉れでござります。ゾシマ様……あの方はまことに……」
 しかし、このだらしない言葉は、ちょうど一行に追いついた一人の僧に遮られた。それは頭巾つきの法衣《ころも》を着た、背の低い、恐ろしく痩せて蒼い顔の僧であった。フョードルとミウーソフは立ちどまった。僧は頭が腰まで下るくらい丁寧な会釈をして言った。
「皆さま、庵室のお話がすみましたら、僧院長が、皆さまにお食事《とき》をさし上げたいと申しておられます。時刻は正一時、それより遅くなりませぬよう、あなたもどうぞ」と彼はマクシーモフに向ってこう言った。
「それは必ずお受けしますよ!」と、フョードルはその招待に恐ろしく恐悦して叫んだ。「間違いなくまいります。実はな、私たちはここにおる間、挙動に気をつける約束をしたんですよ……ところで、ミウーソフさん、あなたもおいでになりますかな?」
「むろん、行かないわけがありませんよ。僕がここへ来たのは、つまり、僧院の習慣をすっかり見るためなんですからね。ただ困るのはつれがあなたなんでね、フョードル・パーヴロヴィッチ……」
「それにドミートリイがまだ来ないですな。」
「さよう、あの男がぶしつけな真似でもしたらなお結構でしょうよ。一たいあなたの家のごたごたが僕にとって、愉快だろうとでも思ってるんですか? おまけにあなたと一緒なんですからね。それじゃお食事《とき》に参上しますからって、僧院長によろしく言って下さい。」彼は僧に向ってこう言った。
「いえ、わたくしはあなた方を長老さまのところまでぃご案内しなくてはなりません」と僧は答えた。
「わたくしは僧院長さまのところへ……そういうことなれば、わたくしはその間に僧院長さまのところへまっすぐにまいりますで」とマクシーモフが囀り始めた。
「僧院長さまはただ今お忙しいのですけれど、しかしあなたのご都合で……」と、僧はしぶりがちに答えた。
「なんてうるさい爺だろう。」マクシーモフがまたもとの僧院のほうへ駆け出すやいなや、ミウーソフは口に出してこう言った。
「フォン・ゾン(当時世を騒がした殺人事件の被害者、女を餌に魔窟へおびき込まれて殺害された)に似てらあ。」突然フョードルがこう言った。
「あなたの知ってるのはそんなことだけですよ………どうしてあの男がフォン・ゾンに似てるんです! あなたは自分でフォン・ゾンを見たことがありますか?」
「写真で見ましたよ。べつに顔つきが似ておるわけじゃないが、どこと言えん似たところがあるんですよ。正真正銘のフォン・ゾンの雛形だ。わしはいつも顔つきを見ただけでそういうことがわかるんでね。」
「大きにね、あなたはこの道の通人だから。ただね、フョードル・パーヴロヴィッチ、あなたがたった今自分でおっしゃったとおり、僕たちは挙動に気をつけるって約束したんですよ、覚えてるでしょう。僕は一応注意しておきますが、気をおつけなさい。あなたが道化の役廻りを演じるのは、かまわないけれど、ぼくはここの人に自分をあなたと同列におかれる気はさらさらないですからね。え、何という人でしょう」と彼は僧の方を振り向いた。「僕は、この人と一緒に身分のある人を訪問するのが、恐ろしくてたまりませんよ。」
 血の気のない蒼ざめた僧の唇には、一種ずるそうな陰をおびた、淡い無言の微笑が浮んだ。けれど、彼は何とも答えなかった。その沈黙が自分の品位を重んずる心から出たものであることは、明瞭すぎるくらいであった。ミウーソフは一そう眉を顰めた。
『ええ、こん畜生、何百年もかかって拵え上げたしかつめらしい顔をしているが、本当のところは詐欺だ、無意味だ!』こういう考えが彼の頭をかすめた。
「ああ、あれが庵室だ、いよいよ着きましたぜ!」とフョードルが叫んだ。「ちゃんと囲いがしてあって門がしまっとる。」
 彼は門の上や、その両側に描いてある聖徒の像に向って、ぎょうさんな十字を切り始めた。
「郷に入れば郷に従えということがあるが」と彼は言いだした。「この庵室の中には二十五人からの聖人《しょうにん》さまが浮世を遁れて、お互いに睨みっこしながらキャベツばかり食べていなさる。そのくせ女は一人もこの門を入ることができん、ここが肝心なところなんですよ。これはまったく本当のことなんですよ。しかし、長老が婦人がたにお会いなさるという話を聞きましたが、それはどういうわけでしょうなあ?」ふいに彼は案内の僧に向ってこう訊いた。
「平民の女性《にょしょう》は、今でもそれ、あすこの廊下の傍に待っております。ところで、上流の貴婦人がたのためには小部屋が二つ、この廊下の中に建て添えてありますが、しかし、囲いそとになっておりますので。それ、あそこに見えておる窓がそうです。長老はご気分のよい時に内部《こちら》の廊下を通って、やはり囲いのそとへ出てから、婦人がたにお会いなさるのでございます。今も一人の貴婦人の方が、ハリコフの地主でホフラコーヴァ夫人という方が、病み衰えた娘さんを連れて待っておられます。たぶんお会いなさるように、約束をなさったのでございましょう。もっとも、このごろ大層ご衰弱で、平民の人たちにもめったにお会いになりませんが。」
「じゃ、何ですか、やっぱり庵室から奥さん方のところへ、抜け穴が作ってあるんですな。いや、なに、あなた、わしが何か妙なことを考えてると思わんで下さい。わしはただ、その……ところで、アトスではご承知でもありましょうが、女性《にょしょう》の訪問が禁制になっとるばかりでなく、どんな生きものでも牝はならん、牝鶏でも、牝の七面鳥でも、牝牛の小さいのでも……」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、僕はあなたを一人ここへうっちゃっといて、帰ってしまいますよ。僕がいなかったら、あなたなんぞ両手を取って引っ張り出されっちまう、それは僕が予言しておきますよ。」
「わしが一たいどうしてあなたの邪魔になるんですい、ミウーソフさん? おや、ご覧なさい、」庵室の囲いうちヘー歩踏み込んだ時、彼はだしぬけにこう叫んだ。「ご覧なさい、ここの人たちはまるで薔薇の谷の中に暮しておるんですな!」
 見ると、薔薇の花こそ今はなかったが、めずらしく美しい秋の花が、植えられそうなところは少しも余さず、おびただしく咲き誇っていた。世話をする人は、見受けるところ、なかなかの老練家らしい。花壇はいろいろな堂の囲いうちにも、墓と墓の間にもしつらえてあった。長老の庵室になっている小さな木造の平家も、同様に花を植えめぐらしてある。家の入口の前には廊下があった。
「これは前長老のヴァルソノーフィ様の時分からあったんですかな? あの方は優美なことが大嫌いで、貴婦大たちにさえ跳りかかって杖でぶたれたとかいう話ですが」とフョードルは正面の階段を昇りながら言った。
「ヴァルソノーフィ長老はまったく時として、宗教的畸人《ユロージヴァイ》のように見えることがありましたが、人の話にはずいぶん馬鹿げたことも多うございます。ことに杖で人をぶたれたことなぞは一度もありません」と僧は答えた。「ちょっと皆さんお待ち下さいませ、ただいま皆さんのおいでを知らせてまいりますから。」
「フョードル・パーヴロヴィッチ、これが最後の約束ですよ、いいですか。本当に言行に気をつけて下さい、それでないと僕も考えがありますからね。」ミウーソフはその間にまたこう囁いた。
「いかなれば君はかかる偉大なる興奮を感じたもうやらむ、どうもさっぱり合点がいきませんなあ」とフョードルはおひゃらかすように言った。「それとも、身の罪のほどが恐ろしいんですかな? 何でも長老は人の目つきを見ただけで、どんな罪を持っているかということを知るそうですからな。しかし、あなたのようなちゃきちゃきのパリっ子で、第一流の紳士が、どうしてそんなに坊主どもの思わくを恐れるんでしょう。わしはびっくりしてしまいましたぜ、まったく!」 ミウーソフがこの皮肉に対して答える暇のないうちに、一同は内部へ招じられた。彼は幾分いらいらした気味で入って行った……
『もう前からちゃんとわかってる、おれは癇癪を起して、喧嘩をおっぱじめる……そして、のぼせてしまって、自分も自分の思想も卑下するくらいがおちだ』という考えが彼の頭にひらめいた。

   第二 老いたる道化

 彼らが中へはいったのは、長老が自分の寝室から出て来るのと、ほとんど同時であった。庵室では一行に先立って二人の僧が、長老の出て来るのを待っていた。一人は図書がかりで、いま一人は博学の噂の高い、さして年寄りでもないけれど病身な、パイーシイという僧であった。そのほかにもう一人、片隅に立っている若い男があった(この男は、それから後もずっと立ち通しであった。見たところ二十二くらいの年恰好で、普通のフロックコートを着ている。これはどういうわけか、僧院と僧侶団から保護を受けている神学校卒業生で、未来の神学者なのであった。彼はかなり背の高いほうで、色つやのいい顔は頬骨が広く、利口そうな注意ぶかい目は小さくて鳶色をしている。その顔にはきわめてうやうやしい表情が浮んでいるが、それはきわめて礼儀にかなったもので、少しも卑屈らしいところが見えない。入り来る客たちに対しても、彼は会釈しようともしない。それはまるで、自分が人の指揮監督を受ける身分で、対等の人間でないことを自覚しているようなふうであった。
 長老ゾシマはアリョーシャといま一人の聴法者に伴われて来た。僧たちは立ちあかって、指が床に届くほど深い会釈をもって彼を迎えた。それから、長老の祝福を受けると、その手を接吻するのであった。二人の僧を祝福し終ると、長老も同じく指が床に届くくらい一人一人に会釈を返して、こちらからも一々祝福を求めた。これらの礼式はまるで毎日しきたりの型のようでなく、非常に荘重で、ほとんど一種の感激さえ伴っていた。しかし、ミウーソフには一切のことが、わざとらしい思わせぶりのように見えた。彼は一緒に入った仲間のまっ先に立っていたから、よし自分がどんな思想を抱いているにもせよ、ただ礼儀のためとしても(ここではそういう習慣なのだから)、長老の傍へ寄って祝福を乞わねばならぬ、手を接吻しないまでも、せめて祝福を乞うくらいのことはしなくちゃならない、――これは彼が昨夜から考えていたことなのである。ところが、今いたるところで僧たちの妙な会釈や接吻を見ると、彼はたちまち決心をひるがえしてしまった。そして、ものものしく真面目くさって、ふつう世間風の会釈をすると、そのまま、椅子のほうへ退いた。フョードルもそのとおりをした。彼は今度は猿のようにミウーソフの真似をしたのである。イヴァンも非常にものものしい真面目な会釈をしたが、やはり気をつけの姿勢であった。カルガーノフはすっかりまごついてしまって、まるっきり礼をしなかった。長老は祝福のために上げた手をおろし、ふたたび一同に会釈をして着座を乞うた。くれないがアリョーシャの頬に昇った。彼は羞しくてたまらなかった。不吉な予感は事実となって現われ始めたのである。
 長老は革張りの、恐ろしく旧式なマホガニイの長椅子に腰をおろし、二人の僧を除く一同の客を、反対の壁ぎわに据えてある、黒い革のひどくすれた、四脚のマホガニイの椅子に並んで