『カラマーゾフの兄弟』P258-269   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦30日目]

いては、もう一ことも言わないことにする。僕はわざと論題をせばめたのだ。僕は南京虫みたいなやつだから、何のために一切がこんなふうになってるのか、少しも理解することができないのを、深い屈辱の念をもって、つくづくと痛感している。つまり、人間自身が悪いのさ。もともと彼らには楽園が与えられていたものを、自分たちが不幸におちいるってことを知りながら、自由を欲して天国から火を盗んだんだもの、何も可哀そうなことはありゃしない。僕の哀れな地上的な、ユウクリッド式の知恵をもってしては、ただ苦痛があるのみで、罪びとはない、一切は直接に簡単に事件から事件を生みながら、絶えず流れ去って平均を保って行く、ということだけしかわからない。しかし、これはユウクリッド式の野蛮な考えだ。僕もこれを承知しているから、そんな考え方によって生きて行くのは不承知なんだ! しかし、罪びとがなくて、すべては直接に簡単に事件から事件を生んで行く、という事実が僕にとって何になる? またこの事実を知ってるからって、それがそもそも何になる? 僕には応報が必要なのだ。でなければ、僕は自滅してしまう。しかも、その応報もいつか無限の中のどこかで与えられる、というのでは厭だ。ちゃんとこの地上で、僕の目前で行われなくちゃ厭だ。僕は自分で見たいのだ。もしその時分僕が死んでいたら、蘇生さしてもらわなくちゃならない。なぜって、僕のいない時にそんなことをするなんて、あんまり順にさわるじゃないか。実際、僕が苦しんだのは、何も自分自身の体や、自分の悪行や、自分の苦痛を肥《こや》しにして、どこの馬の骨だかわからないやつの未来のハーモニイをつちかってやるためじゃないんだからね。鹿が獅子のそばに似ているところや、殺されたものがむくむくと起きあかって、自分を殺したものと抱擁するところを、自分の目で見届けたいのだ。つまり、みなの者が一切のことわけを知る時に、僕もその場に居合せたいのだ。地上におけるすべての宗教は、この希望の上に建てられているのだ。しかし、僕は信仰する。
 ところが、また例の子供だ、一たいわれわれはそんな場合、子供をどう始末したらいいのだろう? これが僕に解決のできない問題だ。うるさいようだが、もう一度、繰り返して言う、――問題は山ほどあるけれど、僕はただ子供だけを例にとった。そのわけは、僕の言わなければならないことが、明瞭にその中に現われてるからだ。いいかい、すべての人間が苦しまねばならないのは、苦痛をもって永久の調和を贖うためだとしても、何のために子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか? 何のために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和を贖わなけりゃならないのか、さっぱりわからないじゃないか! どういうわけで、子供までが材料の中へ入って、どこの馬の骨だかわからないやつのために、未来の調和の肥しにならなけりゃならないのだろう? 人間同士の間における罪悪の連帯関係は、僕も認める。しかし、子供との間に連帯関係があるとは思えない。もし子供も父のあらゆる悪行に対して、父と連帯の関係があるというのが真実ならば、この真理はあの世に属するもので、僕なんかにはわからない。中にはまた剽軽なやっかあって、どっちにしたって、子供もそのうちに大きくなるから、間もなくいろんな悪いことをするさ、などと言うかもしれないが、実際その子供はまだ大きくなっていないじゃないか。まだ九つやそこいらのものを、犬で狩り立てたじゃないか。おお、アリョーシャ、僕は決して神を誹譏するわけじゃないよ! もし天上地下のものがことごとく一つの讃美の声となって、すべての生あるものと、かつて生ありしものとが声をあわして、『主よ、なんじの言葉は正しかりき。何となれば、なんじの道ひらけたればなり!』と叫んだ時、全宇宙がどんなに震撼するかということも、僕にはよく想像できる。また母親が自分の息子を犬に引き裂かした暴君と抱き合って、三人のものが涙ながらに声を揃えて、『主よ、なんじの言葉は正しかりき!』と叫ぶ時には、それこそもちろん、認識の勝利の時が到来したので、一切の事物はことごとく明らかになるのだ。
 ところが、またそこへ、コンマが入る。僕はそれを許容することができないのだ。で、僕はこの地上にあらんかぎり、自分自身で至急方法を講じる。ねえ、アリョーシャ、ことによったら、実際、僕は自分の目で、わが子の仇敵《かたき》と抱き合っている母親の姿を見て、『主よ、なんじの言葉は正しかりき』と叫ぶことができる時まで生き長らえるか、あるいはそれを見るためにわざわざ生き返るかもしれない。しかし、僕はその時『主よ』と叫びたくないよ。まだ時日のある間に、僕は急いで自分自身を防衛する、したがって、神聖なる調和は平にご辞退申すのだ。なぜって、そんな調和はね、あの臭い牢屋の中で小さな拳を固め、われとわが胸を叩きながら、贖われることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の、一滴の涙にすら価しないからだ! なぜ価しないか、それはこの涙が永久に、躋われることなくして棄てられたからだ。この涙は必ず贖われなくちゃならない。でなければ、調和などというものがあるはずはない。しがし、何で、何をもってそれを贖おうというのだ? それはそもそもできることだろうか? それとも、暴虐者に復讐をして贖うべきだろうか? しかし、われわれには復讐なぞ必要はない。暴虐者のための地獄なぞ必要はない。すでに罪なき者が苦しめられてしまったあとで、地獄なぞが何の助けになるものか! それに、地獄のあるところに調和のあろうはずがない。僕は赦したいのだ、抱擁したいのだ、決して人間がこれ以上苦しひことを欲しない。もし子供の苦悶が、真理の贖いに必要なだけの苦悶の定量を充すのに必要だというなら、僕は前からきっぱり断言しておく、――一切の真理もこれだけの代償に価しない。そんな価を払うくらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と抱擁しなくたってかまわない! 母親だってその暴君を赦す権利はないのだ! もしたって望むなら、自分だけの分を赦すがいい、自分の母親としての無量の苦痛を赦してやるがいい、しかし、八つ裂きにせられたわが子の苦痛は、決して赦す権利を持っていない。たとえわが子が赦すと言っても、その暴君を赦すわけにゆかない! もしそうとすれば、もしみんなが赦す権利を持っていないとすれば、一たいどこに調和があり得るんだ? 一たいこの世界に、赦すという権利を持った人がいるだろうか? 僕は調和なぞほしくない、つまり、人類に対する愛のためにほしくないと言うのだ。僕はむしろ贖われざる苦悶をもって終始したい。たとえ僕の考えが間違っていても[#「たとえ僕の考えが間違っていても」に傍点]、贖われざる苦悶と、癒されざる不満の境にとどまるのを潔しとする。それに、調和ってやつがあまり高く値踏みされてるから、そんな入場料を払うのはまるで僕らの懐に合わないよ。だから、僕は自分の入場券を急いでお返しする。もし僕が潔白な人間であるならば、できるだけ早くお返しするのが義務なんだよ。そこで、僕はそれを実行するのだ。ねえ、アリョーシャ、僕は神様を承認しないのじゃない、ただ『調和』の入場券を謹んでお返しするだけだ。」
「それは謀叛です」とアリョーシャは目を伏せながら小さな声で言った。
「謀叛? 僕はお前からそんな言葉を聞きたくはなかったんだよ」とイヴァンはしみじみとした声で言った。「謀叛などで生きてゆかれるかい。僕は生きてゆきたいんだからね。さあ、僕はお前を名ざして訊くから、まっすぐに返事をしてくれ。いいかい、かりにだね、お前が最後において人間を幸福にし、かつ平和と安静を与える目的をもって、人類の運命の塔を築いているものとして、このためにはただ一つのちっぽけな生物を一例のいたいけな拳を固めて自分の胸を打った女の子でもいい、――是が非でも苦しめなければならない、この子供の贖われざる涙の上でなければ、その塔を建てることができないと仮定したら、お前ははたしてこんな条件で、その建築の技師となることを承諾するかね。さあ、偽らずに言ってみな!」
「いいえ、承諾するわけにゆきません」とアリョーシャは小さな声で言った。
「それから、世界の人間が小さな受難者の、償われざる血潮の上に建てられた幸福を甘受して、永久に幸福を楽しひだろうというような想念を、平然として許容することができるかい?」
「いや、できません。ねえ、兄さん」とアリョーシャは、急に目を輝かしながら言いだした。「兄さんはいま赦すという権利を持ったものが、この世の中にいるだろうかと言いましたね?
ところが、それがいるんですよ。その人はすべてのことに対して、すべての人を赦すことができるのです。なぜって、その人はすべてのものに代って、自分で自分の無辜の血を流したからです。兄さんはこの人のことを忘れていましたね。ところが、この人を基礎としてその塔は築かれているのです。この人に向ってこそわれわれは、『主よ、なんじの言葉は正しかりき、何となれば、なんじの道ひらけたればなり!』と叫ぶのです。」
「ああ、それは『罪なき唯一人』とその血のことだろう! どうしてどうして、この人のことは忘れやしなかった。それどころか、どうしてお前がこの人を引き合いに出さないのかしらんと、長いあいだ不思議に思っていたんだよ。だって、普通お前たちは論争の時に、何よりもまず、この人を引き合いに出すんだものなあ。しかしね、アリョーシャ、笑っちゃいけないよ、僕はいつか一年ばかり前に、一つの劇詩を作ったことがあるんだ。もし僕を相手にもう十分ほど暇をつぶすことができるなら、一つお前に話して聞かしてもいいがね。」
「兄さん、劇詩を作ったことがあるんですって?」
「なんの、そんなことはない」とイヴァンは笑いだした。「僕は今までかつて、二連と詩を作ったことがないよ。その劇詩はただ頭の中で考えて、いまだに覚えているというだけさ。しかし、熱心に考えたものだよ。お前は僕の最初の読者、ではない、聴き手なんだ。まったく作者にとってはたった一人でも、聴き手をとり逃したくないもんだからね」とイヴァンは薄笑いをもらした。「話そうか、どうしよう?」
「僕、悦んで聞きますよ」とアリョーシャは言った。
「僕の劇詩は、『大審問官』というんだ。ばかばかしいものだけれど、何だかお前に聞かしたいのだ。」

   第五 大審問官

「ところでこの場合、序言をぬきにするわけにゆかないのだ、――つまり文学的序言さね、へっ!(とイヴァンは笑った。)どうも大変な作者になったもんだ! さて、僕の劇詩の時代は十六世紀だ、それはちょうど、――もっとも、こんなことはお前も学校時分からちゃんと知ってるだろうが、――それはちょうど詩作の中で天上の力を地上へ引きおろすのが流行していた時代なんだ。ダンテのことなぞ持ち出すまでもなく、フランスでは裁判所の書記だの僧院の坊さんなどが、いろいろな芝居をして見せたものだが、それは大ていマドンナや、天使や、聖徒や、キリストや、神様自身などを、舞台へ引っ張り出すようなものばかりだ。もっとも、その時分はごく無邪気に取り扱われていた。ヴィクトル・ユゴーの|Notre Dame de paris《ノートル ダム ド パリ》の中には、ルイ十一世の御代に皇太子誕生奉祝のため、パリの市会議所で、”Le bon jugement de la tres sainte et gracieuse Vierge Marie”という芸題の教訓劇が、無料で人民に観覧を許されたことが書いてある。この劇では聖母みずから舞台に現われて、その美しき裁判を行うことになっている。ロシヤでは昔ピョートル大帝以前にモスクワで、主として旧約から材を取った似寄りの芝居が、やはりときどき演じられていた。当時、演創興行のほかに、いろんな小説や『詩』が世上に現われたが、その中には聖徒や、天使や、すべて天国に縁のあるものが、必要に応じて活動することになっているのだ。ロシヤの僧院でもやはり翻訳や、書き抜きや、中には創作にさえ手を染める者があったが、それが鞭靼侵入時代だから驚くよ。一つ例をあげてみると、ある僧院でできた(と言ってもむんろん、ギリシャ語から翻訳したものだ)劇詩に、『聖母の苦患《くげん》遍歴』というのがある。これはダンテにも劣らないほど大胆な光景に充ちている。つまり聖母が大天使ミハイルに導かれて地獄の中の苦患《くげん》を遍歴し、多くの罪びととその苦患を目撃するというのだ。その中には火の池に落された最も注目すべき罪びとの一群がいる。彼らの中でも、永劫うかみ出ることができないほどこの池の底ふかく沈んでしまったものは、『神様にも忘れられる』ことになるのだが、実に深刻な力強い表現じゃないか。そこで、聖母は驚き悲しみながら、神の御座《みくら》の前に伏しまろんで、地獄に落ちたすべての人、聖母の見て来たすべての人に対し、一切無差別に憐憫を垂れたまわんことを乞うた。聖母と神の対話は実に絶大な興味をふくんでいるよ。聖母はひたすら哀願して、そばを離れようとしない。すると、神はその子キリストの釘づけにされた手足を指さしながら、『彼を苦しめたものどもを、どうして赦すことができようぞ?』と訊かれた。聖母はすべての聖者、すべての殉教者、すべての天使、すべての大天使に向って、自分と一緒に神の大前にひれ伏し、あらゆる罪びとの赦免を哀願してくれと頼んだ。で、結局、聖母は毎年、神聖金曜日から精霊降臨祭までの五十日間、すべての苦痛を中止するという許しを得た。このとき罪びとらは地獄の中から主に感謝して、『主よ、かく裁きたるなんじは正し』と叫ぶ。
 さて、僕の劇詩も当時に現われたら、おそらくこれと似寄ったものになるだろう。僕の劇詩ではキリストが舞台へ出て来るのだ。もっとも、一口もものを言わずに、ただ顔を出しただけで通り過ぎてしまうんだよ。その時は、彼が地上をみずからの王国となし、ふたたび出現しようと約束してから、もう十五世紀たっているのだ。『こはすみやかに来るべし。されど、その日と時とは神の子みずからも知る能わず。ただ天にましますわが父のみこれを知りたもう』と予言者もしるし、キリスト自身もまだ地上に生きている頃にこう言った時から、もう十五世紀たっているのだ。しかし、人類は以前と同じ信仰、以前と同じ感激をもって彼の出現を待っている、いな、むしろ旧に倍する信仰をもって待っている。なぜなら、天より人間に与えられた保証がなくなって以来、もう十五世紀からたっているではないか!

  信ぜよ胸のささやきを
  今はなし神の保証《かため》も

 つまり、ただ胸の囁きを信ずるよりほかなかったのだ! もっとも、その当時にも多くの奇蹟があったのは事実だ。霊験あらたかな治療を行った聖者もあったし、中には聖母の訪れを受けた恵まれたる人たちもあった(ただし、その伝記によればだ)。しかし、悪魔も昼寝をしてはいなかったから、これらの奇蹟の真実さを疑うものが、人類の中に現われ始めた。ちょうどその頃、北方ゲルマニヤに恐ろしい邪教が発生した。『炬火に似た』(つまり教会に似た)大きな星が『水の源に隕《お》ちて水は苦くなれり』だ。これらの邪教が大胆にも奇蹟を否定しにかかった。しかし、信仰を保っている人は、なおさら熱烈に信じつづけたのだ。人類の涙は天国なるキリストのほうへ昇ってゆき、依然として鮟を衍ち、彼を愛し、以前に変らず彼に望みをつないでいた。こうして、幾世紀も幾世紀も、人類が信仰と熱情をもって、『主なる神よ、われらに姿を現じたまえ』と哀願したので、無量の同情を有するキリストは、ついに祈れる人々のもとへ降ってやろう、という気になったのだ。その以前も彼は天国を降って、まだこの地上に住んでいる聖なる隠遁者や、殉教者や、苦行者などを訪れたということは、この人たちの伝記にも見えている。わが国でも自分の言葉の真実をふかく信じていたチュッチェフ(一八〇三―七三年、外交官にしてかつ純芸術派の人、その作品は深い象徴味をもって知られている)が、こんなふうに言っている。

  十字架の重荷のために喘ぎつつ
  神の子は奴隷のごとき姿して
  母なる土よ、なれを隈なく
  祝福しつつめぐりたまいぬ

 それは、そのとおりであったに相違ない、それは僕も保証する。で、キリストは、ほんのちょっとでも民衆のところへ降ってやろう、という気を起したのだ。懊悩し苦悶しながら、暗い罪に蔽われていながらも、幼児のように自分を愛してくれる民衆のところへね……僕の劇詩はスペインのセヴィリヤを舞台にとっている。ところで、時代は、神の光栄のために毎日国内に薪の山の燃えていた、恐ろしい審問時代に属するのだ。

  厳めしき火刑の庭に
  烙《や》かるなり異教のやから

 むろんこの下界来降は、彼がかつて約束したように、天国の光栄に包まれて世の終りに出現するのとはまるで違う。決して東から西へかけて輝きわたる稲妻のごとき出現ではない。キリストはただほんの一瞬間でもいいから、わが子らを訪れたくなったのだ。そして、ことさら異教のやからを烙く焚火の爆音すさまじい土地を択んだのだ。限りなき慈悲をいだいたキリストは、十五世紀前に三十三年間、人々のあいだを遍歴したと同じ人間の姿を借りて、いま一ど民衆の間へ現われたのだ。彼は南方の町の『熱き巷』へ降ったが、それはちょうど『厳めしき火刑の庭』でほとんど百人に近い異教徒が、ad majorem gloriam Dei(神の大いなる光栄のために)、国王はじめ、廷臣、騎士、僧正、および嬋娟たる女官の面前で、大審問官の僧正の指揮のもとに、一度に烙き殺された翌日であった。キリストはいつともなくおもむろに現われた。すると一同の者は、――奇妙な話ではあるが、――それが主《しゅ》であることを悟ったのだ。ここは、僕の詩の中でも優れた個所の一つとなるべきところなんだ。つまり、どういうわけで皆がそれを悟るか、という理由が素敵なのだ。民衆は打ち克つことのできない力をもって、彼のほうへ押し寄せたと思うと、たちまちその周囲を取り囲み、次第に厚く人垣を築きながら、彼のうしろへ従って行く。彼は限りなき憐憫のほお笑みを静かに浮べながら、無言に群衆の中を進んで行く。愛の太陽はその胸に燃え、光明と力の光線はその目から流れ出て、人々の上に充ち溢れながら、応うるごとき愛をもって一同の心を顫わす。彼は一同の方《かた》へ手を伸べて祝福したが、その体ばかりか、ただ着物に触れただけで、一切のものをいやす力が生じるのだ。
 その時、幼い頃から盲になった一人の老人が、群衆の巾から、『主よ、わたくしをお癒し下さりませ。そうすれば、あなたさまを拝むことができまする』と叫んだ。と、たちまち目から鱗でもとれたように、盲人は主の顔が見えるようになった。民衆はありがた涙をこぼしながら、彼の踏んで行く土を接吻するのだ。子供らは彼の前に花を投げて歌いながら、『ホザナ!』を叫ぶ。『これはイエスさまだ、イエスさまご自身だ』と一同は繰り返す。『これはイエスさまに相違ない、イエスさまでのうて誰であろう。』
 やがて、彼はセヴィリヤ寺院の玄関に立ちどまった。その時、蓋をしない白い小さな棺が、泣き声とともに寺院の中へ舁ぎ込まれた。その中には、ある有名な市民の一人子で、八つになる女の子が横たわっている。小さな死骸は、花の中に埋まっているのだ。『あのお方は、お前の子を生き返らして下さるぞ。』悲嘆にくれている母に向って、群衆の中からこういう叫び声が起った。棺を迎えに出た寺僧は、けげんな顔をして眉をひそめながら眺めている。と、突然、死んだ子の母の叫びが響き渡った。彼女は主の足もとへ身を投げて、『もしあなたがイエスさまでいらっしゃいますなら、わたくしの子供を生き返らして下さりませ』と主のほうへ両手をさし伸べながら叫ぶのだ。葬列は立ちどまって、棺は寺の玄関へ、彼の足もとへおろされた。彼は憐憫の目をもって眺めていたが、その口は静かにかの『タリタ・クミ』(起きよ娘)をいま一ど繰り返した。と、女の子はむくむくと棺の中に起きあかって坐りながら、びっくりしたような目を大きく見ひらいて、にこにこあたりを見廻すのだ。その手の中には白ばらの花束があったが、これは棺の中でじっと持って臥ていたものである。群衆の間には動揺と叫喚と慟哭が起った。この瞬間、寺院の横の広場を、大審問官の僧正が通りかかったのである。
 彼はほとんど九十になんなんとしているけれども、背の高い腰のすぐな[#「腰のすぐな」はママ]老人で、顔は痩せこけ、目は落ち窪んでいたが、その中にはまだ火花のような光が閃めいている。彼の着物はきのうローマ教の敵を烙いた時に、人民の前でひけらかしていたような、きらびやかな大僧正の衣裳ではなく、古い粗末な法衣であった。その後からは、陰欝な顔をした助役の面々や、奴隷や、『神聖なる』護衛の侍どもが、一定の距離を保ってつづいている。大審問官は群衆の前に立ちどまって、遙かに様子を眺めていた。彼は一切のことを見た。棺がキリストの足もとへおろされたのも見たし、女の子が蘇生したのも見た。と、彼の顔は暗くなってきた。その白い厚い眉は八の字に寄せられ、目は不吉な火花を散らし始めた。彼は指を伸ばして護衛に向い、かの者を召し捕るように下知した。彼の権力はあくまで強く、人人は従順にしつけられ、戦々兢々と彼の命を奉ずることに馴れているので、群衆はさっと護衛の者に道を開いた。そして、突然おそい来った墓場のような沈黙の中で、護衛はキリストに手をかけ、引き立てて行った。群衆はさながら唯一人の人間のように、一斉に額が土につくほど老審問官に頭を下げた。こちらは無言のまま一同を祝福して、かたえを通り過ぎた。護衛は囚人《めしゅうど》を神聖裁判所の古い建物内にある、暗く狭い円天井の牢屋へ連れて来て、ぴんと鍵をかけてしまった。
 一日も過ぎて、鞜く暑い、『死せるがごときセヴィリヤの夜』が訪れた。空気は『桂とレモンの香に匂って』いる。深い闇の中に、とつぜん牢屋の鉄の戸が開いて、老いたる大審問が手にあかりを持って、しずしずと牢屋の中へ入って来た。彼はただ一人きりで、戸はそのうしろですぐさま閉された。彼は入口に立ちどまって、長いこと、一分間か二分間か、じいっとキリストの顔に見入っていた。とうとう静かに近寄って、あかりをテーブルの上にのせて口をきった。
『お前はイエスか? イエスか?』しかし、返事がないので、急いでまたつけたした。『返事しないがいい、黙っておるがいい。それに、お前なぞ何も言えるはずがないではないか! わしにはお前の言うことが、あまりにもわかりすぎるくらいだ。それに、お前はもう昔に言ってしまったこと以外に、何一つつけたす権利さえ持っていないのだ。なぜお前はわしらの邪魔をしに来たのだ? 本当にお前はわしらの邪魔をしに来たのだろう、それはお前自身でもわかっておるはずだ。しかし、お前は明日どんなことがあるか知っておるか? わしはお前が何者か知らぬ、また知りたくもないわ。お前が本当のイエスかまたは贋物か、そのようなことはどうでもよい。とにもかくにも、明日はお前を裁判して、一ばん性の悪い異教徒として烙いてしまうのだ。すると、今日お前の足を接吻した民衆が、明日はわしがちょっと小手招きしただけで、お前を烙く火の中へわれさきに炭を掻き込むことであろう、お前はそれを知っておるか?おそらく知っておるであろうな』と彼は一分間も囚人《めしゅうど》の顔から目を離さないで、しみじみと考え込むようなふうつきでこう言いたした。」
「僕はよくわかりません、兄さん一たいそれは何のことです?」しじゅう黙って聞いていたアリョーシャは、ほお笑みながら訊ねた。「それはただ途方もない妄想ですか、それとも老人の考え違いですか? まるで本当にはなさそうなqui pro quo(撞着)じゃありませんか。」
「じゃ、その一番しまいの分としといてもいいさ」とイヴァンは笑いだした。「もしお前が現代の現実主義に甘やかされたため、空想的な分子は少しも我慢することができないで、これをqui pro quoと考えたいなら、まあ、そんなことにしといてもいいさ。いや、まったくだよ」と彼はまた笑った。「老人はもう九十という年なんだから、だいぶ前から、気ちがいじみた観念を持ってるかもしれないよ。それに、囚人の容貌だけでも、老人の心を打ったはずだからね。いや、それどころか、ことによったら、それは九十になる老人のいまわの際の譫言かもしれない、幻かもしれない。おまけに、きのう火刑場で百人からの異教徒を烙き殺したため、まだ気が立ってるのかもしれないよ。しかし、僕にとってもお前にとっても、qui pro quoだろうが、途方もない妄想だろうが、同じようなものじゃないか。要するに、老人は自分の腹の中を、すっかり吐き出してしまいたかっただけの話さ、九十年間だまっていたことを、すっかり口に出して言ってしまっただけの話さ。」
「そして、囚人はやはり黙っているのですか? 相手の顔を見つめながら、一ことも口をきかないんですか?」
[そりゃ、そうなくちゃならないよ、どんな場合においてもね」と、イヴァンはまた笑いだした。「老人自身も、キリストは昔自分が言ってしまったこと以外に、何一つつけたす権利を持っていない、と断言してるじゃないか。もし何なら、その中にローマン・トリック教の最も根本的な特質がふくまれてる、と言ってもいいくらいだ。少くとも僕の意見ではね。『もうお前はみんなすっかり法王に渡してしまったじゃないか。いま一切のことは法王の手中にあるのだ。だから、今となって出て来るのは断然よしてもらいたい。少くとも、ある時期の来るまで邪魔をしないでくれ』というのさ。この意味において、彼らは単に口で言うばかりでなく、本に書いてるものさえある。少くとも、ジェスイットの連中はね。僕自身もこの派の神学者の書いたものを読んだことがあるよ。
『一たいお前は、自分が出て来たばかりのあの世の秘密を、よしんば一つでも、われわれに伝える権利を持っておるのか?』と大審問官はキリストに訊ねて、すぐみずから彼に代って答えた。『いや、いささかも持っていない。それはお前が以前いった言葉に、何一つつけたさないためだ。それはお前がまだこの地上におった頃、あれほど主張した自由を人民から奪わないためだ。お前が今あらたに伝えようとしていることは、すべて、人民の信仰の自由を危くするものだ。なぜと言うに、それが奇蹟として現われるからだ。ところで、人民の自由はまだあの頃から、千五百年前から、お前にとって何より大切なものだったじゃないか。あの当時「われはなんじらを自由にせんと歇す」と、よく言っていたのはお前じゃないか。ところが、今お前は彼らの自由な姿を見た。』もの思わしげな薄笑いを浮べながら、老人は急にこう言いたした。『ああ、この事業はわれわれにとって高価なものについた。』厳めしい目つきで相手を眺めながら、彼はこう言葉をつづけた。『が、いまわれわれはお前の名によって、ついにこの事業を完成した。十五世紀の間、われわれはこの自由のために苦しんだが、今はすでに完成した、きっぱりと完成した。お前は、きっぱり完成したと言っても、本当にしないだろうな? お前はつつましやかにわしを見つめたまま、憤慨するのも大人げないというような顔をしておるな。しかし、そのつもりでいるがよい、人民は今、いつにもまして今この時、自分らが十分自由になったことを信じている、しかし、その自由を彼らはみずから進んでわれわれに捧げてくれた。おとなしくわれわれの足もとへ置いてくれた。けれど、これを成し遂げたのはわれわれだ。お前が望んだのはこんなことじゃあるまい、こんな自由じゃあるまい?』」
「僕またわからなくなりました」とアリョーシャが迥った。「老人は馬鹿にしてるんですか、笑ってるんですか?」
「決して決して。つまり、彼はついに自由を征服して人民を幸福にしてやったのを、自分や仲間のものの手柄だと思ってるのさ。『なぜならば今はじめて(もちろん、彼は審問のことを言ってるんだ、)人間の幸福を考えることができるようになったからだ。人間はもともと暴徒にできあがっておるのだが、暴徒が幸福になると思うか? お前はよく人から注意を受けた、――と彼はキリストに言うのだ、――お前は注意や警戒にことを欠かなかったが、お前はその注意和聞かないで、人間を幸福になし得る唯一の方法をしりぞけたではないか。しかし、幸いにも、お前がこの世を去る時に、自分の事業をわれわれに引き渡していった。お前は自分の口から誓言して、人間を結んだり解いたりする権利をわれわれに授けてくれた。だから、もちろん今となって、その権利をわれわれから奪うわけにゆかない。どうしてお前はわれわれの邪魔に来たのだ?』」
「注意や警戒にことを欠かなかった、というのは、一たい何の意味でしょう?」とアリョーシャが訊いた。
「そこが老人の言いたいと思う肝心なところなんだよ。『恐ろしくしかも賢なる精霊』と老人は語りつづける。『自滅と虚無の精霊、――偉大なる精霊が、荒野でお前と問答をしたことがある。書物に伝えられておるところによれば、これがお前を「試みた」ことになるのだそうだ。それは本当のことかな? しかし、その精霊が三つの問いにおいて、お前に告げた言葉、お前に否定せられて書物の中で「試み」と呼ばれている言葉以上に、より真実なことを何か言い得るであろうか? もしいつかこの地上で本当に偉大なる奇蹟が行われた時があるとすれば、それはこの三つの試みの日にほかならぬのだ。つまり、この三つの試みの中に奇蹟がふくまれているのだ。もしかりにだな、試みにだな、この恐ろしき精霊の三つの問いが、跡かたなく書物の中から消え去ったので、ふたたびそれを書物の中へ書き入れるために、あらたに考え出して作らねばならなくなったとする。そして、このために世界じゅうの賢者、政治家、長老、学者、哲人、詩人などを呼び集めて、「さあ、三つの問いを工夫して作り出してくれ。しかし、それは事件の偉大さに相応しているのみならず、ただの三ことでもって、三つの人間の言葉でもって、世界と人類の未来史をことごとく表現していなくてはならぬ」という問題を提出する、――まあ、こんな空想をすることができるとして、世界じゅうの知恵を一束ねにしてみたところで、力と深みにおいて、かの強く賢い精霊が荒野の中でお前に発した三つの問いに、匹敵するようなものを考え出すことができるかできぬか、お前にだってわかりそうなものだ。
 この三つの問いだけで判断しても、その実現の奇蹟だけで判断しても、移りうごく人間の知恵ではなく、永遠に絶対な叡知を向うに廻している、ということがわかりそうなもんじゃないか。なぜというに、この三つの問いの中に人間の未来の歴史が、完全なる個となって凝結している上、地上における人間性の歴史的矛盾をことごとく包含した三つの形態が現われているからだ。もちろん、未来を知ることはできないから、その当時こそこんなことはよくわからなかったろうが、あれから千五百年もたった今となってみれば、もはや何一つ増減することができないほど、この三つの問いの中に一切のことが想像され予言されて、しかもその予言がことごとく的中しているのが、よくわかるではないか。
 一たいどっちの言うことが正しいか、自分で考えてみるがよい、――お前自身か、それとも、あの時お前を試みたものか? 第一の試みはどうだろう。言葉はちがうかもしれぬが、意味はこんなことであった。「お前は世の中へ行こうとしている。しかも、自由の約束とやらを持ったきりで、空手《からて》で出かけようとしている。しかし、生れつき下品で馬鹿な人民は、その約束の意味を悟ることができないで、かえって恐れている。なぜと言うに、人間や人間社会にとって、自由ほどたえがたいものはほかにないからだ! この真裸な焼野原の石を見ろ。もしお前がこの石をパンにすることができたら、全人類は感謝の念に燃えながら、おとなしい羊の群のように、お前のあとを追うて走るであろう。そうして、お前が手を引っ込めて、パッをよこさなくなりはせぬかと、それのみを気づかって、永久に戦々兢々としておるに相違ない」と言った。ところが、お前は人民から自由を奪うことを欲しないで、その申し出をしりぞけてしまった。お前の考えでは、もし服従がパンで買われたものならば、どうして自由が存在し得よう、という肚だったのだ。そのときお前は「人はパンのみにて生くるものにあらず」と答えたが、しかし、この地上のパンの名をもって、地の精霊がお前に反旗をひるがえし、お前と戦って勝利を博するのだ。そして、すべてのものは、「この獣に似たるものこそ、天より火を盗みてわれらに与えたるものなり」と絶叫しながら、その後にしたがって行くのを、お前は知らないのか。幾百千年と過ぎ去った後に、人類はおのれの知恵と科学の口を借りて、「犯罪もなければ、またしたがって罪業もない、ただ飢えたるものがあるばかりだ」と公言するのを、お前は知らないのか。「食を与えたるのち善行を求めよ!」と書いた旗を押し立てて、人々はお前に向って一揆を起す。そうして、この旗がお前の寺を破壊するのだ。
 お前の寺の跡にはやがて新しい建物が築かれる、またさらに恐ろしいバビロンの塔が築かれるのだ、もっとも、この塔も以前の塔と同じように落成することはなかろうが、それにしても、お前はこの新しい塔の建物を避けて、人々の苦痛を千年だけ縮めることができたはずなのだ。なぜと言うに、彼らは千年の間、自分の塔のために苦しみ通した挙句、われわれのところへやって来るに相違ない! そのとき彼らは、われわれがふたたび土の下の、塋窟《はかあな》の中に隠れているところを捜し出すのだ(と言うのは、われわれがふたたび迫害せられ、苦しめられるからだ)、捜し出したら、われわれに向って、「わたくしどもに食べ物を下さい。わたくしどもに天国の火を盗んでやると約束した人が嘘をついたのでございます」と絶叫する。そのとき初めてわれわれが彼らの塔を落成さしてやる。なぜと言って、落成さすことができるのは、ただ彼らに食を与えるものにかぎるが、われわれはお前の名をもって、彼らに食を与えてやるからだ。しかし、お前の名をもってと言うのは、ほんの出まかせにすぎないのだ。そうとも、われわれがいなかったら、彼らは永久に食を得ることができないのだ! 彼らが自由でいる間は、いかなる科学でも彼らにパンを与えることはできないのだ! しかし、とどのつまり、彼らは自分の自由をわれわれの足もとに捧げて、「わたくしどもを奴隷にして下すってもよろしいから、どうぞ食べ物を下さいませ」と言うに違いない。つまり、自由とパンとはいかなる人間にとっても両立しがたいものであることを、彼ら自身が悟るのだ。実際どんなことがあっても、どんなことがあっても、彼らは自分たちの間でうまく分配することができないにきまっているからな! また決して自由になることができないということも、彼らは同様に悟るであろう。なぜと言うに、彼らは意気地なしで、不身持で、一文の値うちもない暴徒だからな。お前は天上のパンを約束したが、しかしまた繰り返して言う、はたしてあの意気地のない、永久に不身持な、永久に下司ばった人間の目から見て、天上のパンが地上のパンとくらべものになるだろうか? よし幾千人、幾万人のものが、天上のパンのためにお前のあとからついて行くとしても、天上のパンのために地上のパンを蔑視することのできない幾百幾千万の人間は、一たいどうなるというのだ? それともお前の大事なのは、偉大で豪邁な幾万かの人間ばかりで、そのほかの弱い、けれどもお前を愛している幾百万かの人間、いや、浜の真砂のように数知れぬ人間は、偉大で豪邁な人間の材料とならねばならぬと言うのか? いやいや、われわれにとっては弱い人間も大切なのだ。彼らは放蕩者で暴徒ではあるけれど、しまいにはこういう人間が、かえって従順になるのだ。彼らはわれわれに驚嘆して、神様とまで崇めるだろう。なぜと言うに、われわれは彼らのかしらに立って、彼らの恐れる自由を甘んじてたえ忍び、彼らに君臨することを承諾したからである。で、最後に彼らは、自由になるのを恐ろしいと感じ始めるに違いない! が、われわれは、自分たちもキリストに対して従順なので、お前たちに君臨するのもキリストのみ名のためだ、と言って聞かしてやる。われわれはこうしてまたもや彼らを欺くが、もう決してお前をわれわれのそばへ近づけないから大丈夫だ。この偽りの中にわれわれの苦悶があるのだ。なぜなら、われわれは永久に嘘をつかなければならないからだ。さあ、荒野における第一の問いはこういう意味を持っているのだ。お前は自分が何より最も尊重している自由のために、これだけのものをしりぞけたのだ。
 そのほか、この問題の中には、現世の大秘密がふくまれている。もしお前が「地上のパン」を許容したら、個人および全人類に共通な永遠の憂悶に対して、答えを与えることになったのだ。それは「何びとを崇拝すべきか?」という疑問なのだ。自由になった人間にとって最も苦しい、しかもたえまのない問題は、少しも早く自分の崇拝すべき人を捜し出すことである。しかし、人間というものは間違いなく崇拝に価するものを求めている。万人が一時にうち揃ってその前に跪き得るくらい、間違いのないものを求めているのだ。これらの哀れな生物の心配は、めいめい勝手な崇拝の対象を求めるばかりでなく、万人が信仰してその前に跪くようなものを捜し出すことにある。つまり、どうしてもすべての人と一緒[#「すべての人と一緒」に傍点]でなければ承知しないのだ。この共通な[#「共通な」に傍点]崇拝の要求が、この世の始まりから、各個人および全人類の主な苦悶となっている。崇拝の共通ということのために、彼らは互いに剣をもって殺し合った。彼らは神を創り出して、互いに招き合っている。つまり、「お前たちの神を捨てて、われわれの神を奉じないか。そうしないと、お前たちもお前たちの神も命がないぞ!」というのだ。これは世界の終るまでこのとおりだ。神というものが地上から消え失せた時でも、やはり同じことだ。彼らは偶像の前に跪くだろうからな。お前はこの人間本性の根本秘密を知っていたろう、いや、知らぬはずはない。ところが、お前はすべての人間を無条件で自分の前に跪かせるため、精霊がお前に勧めた唯一絶対の旗幟、つまり地上のパンという旗幟をしりぞけた、しかも天上のパッと自由の名をもってしりぞけたではないか。
 それから、その上にお前がどんなことをしたか、考えてみるがよい。何でもかでも例によって、自由の名をもっていったではないか! わしがお前に言っておるとおり、人間という哀れな生物は、生れ落ちるときから授かっている自由の賜物を譲りわたすべき人を、少しも早く見つけねばならぬ、この心配ほど人間にとって苦しいものはない。しかし、人間の自由を支配する人は、その良心を安め得るものにかぎる。お前にはパッという間違いのない旗幟が与えられたのだから、パッさえ与えれば、人はお前の足もとに跪くに相違ない。なぜと言うに、パッほど間違いのないものはないからだ。しかし、もしその時お前よりほかに、人間の良心を支配するものが出て来たら、――おお、その時はお前のパンを捨てても、人間は自分の良心をそそのかす人に従うに違いない。この点においては、お前も正しかったのだ。なぜと言うに、人間生活の秘密はただ生きることばかりでなく、何のために生きるかということに存するからだ。何のために生きるかという確固たる観念がなかったら、人間はたとえ周囲にパンの山を積まれても、生活するをいさぎよしとせず、こんな地上にとどまるよりも、むしろ自殺の道を採ったに相違ない。これはまったくそのとおりだ。ところが、実際はどうであったろう。お前は人間の自由を支配するどころか、かえって一そう自由を増してやったではないか! それとも、お前は人間にとって平安のほうが(時としては死でさえも)、善悪の認識界における自由の選択より、はるかに大切なものであることを忘れたのか? それはむろん、人間としては、良心の自由ほど魅惑的なものはないけれど、またこれほど苦しいものはないめだ。ところがお前は、人間の良心を永久に慰める確固たる根拠を与えないで、ありとあらゆる異常な、謎のような、しかも取りとめのない、人間の力にそぐわないものを取って与えた。それゆえ、お前の行為は、少しも人間を愛さないでしたのと同じ結果になってしまった、――しかも、それは誰かというと、人類のために自分の命を投げ出した人なのだ! お前は人間の良心を支配する代りに、かえってその良心を増し、その苦しみによって、永久に人間の心の国に重荷を負わしたではないか。お前は自分でそそのかし擒《とりこ》にした人間か、自由意志でお前に従って来るように、人間の自由な愛を望んだ。確固たる古代の掟に引き換えて、人間はこれからさきおのれの自由な心を