京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P282-293   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦33日目]

き始めた。こうした憎悪の念が、かくまで険悪な経過をとってきたのは、最初イヴァンの帰省当時、ぜんぜん反対な事実が生じたためかもしれぬ。当時、イヴァンは急にスメルジャコフに対して、一種特別な同情を示すようになったばかりでなく、彼を非常に風変りな人間だとまで考え始めた。この下男が自分と話をするように仕向けたのは、彼自身であったが、いつも妙にわけのわからない話しぶり、というより、むしろ彼の考えが妙に不安な影をおびているのに、一驚を喫するのであった。そして、一たい何かこの『瞑想者』をこうたえまなく執拗にさわがしているのか、合点がいかなかった。
 彼らは哲学的な問題も語り合ったし、また創世のとき太陽や月や星は、やっと四日目に創られたばかりだのに、どうして最初の日に光がさしていたのだろうか、この事実を何と解釈すべきだろうか、などという問題をも話し合ったことがある。しかし、イヴァンは間もなく、問題は決して太陽や、月や、星でないことを悟った。実際、太陽や、月や、星は、興味のある問題に相違ないが、スメルジャコフにとってはぜんぜん第三義的のもので、必要なのはまるっきり別なものらしかった。そうして、そのときどきによって工合は違うけれど、とにかくどんな場合でも底の知れない自尊心、おまけに侮辱されたる自尊心が、ありありと顔をのぞけ始めるのであった。イヴァンはそれがひどく気にくわなかった。これから彼の嫌悪の念がきざし始めたのである。
 その後、家庭に内訌が生じて、グルーシェンカが現われたり、兄ドミートリイの騒ぎがもちあがったりして、いろいろ面倒なことがつづいた時、二人はこのことについても語り合った。もっとも、スメルジャコフはこの話をする時でも、非常に興奮した様子を示しながらも、やはり彼自身どんなことが望ましいのか、どうしても正確に突きとめることができなかった。それどころか、不用意のうちに顔をのぞけるいつも決って茫漠とした彼の希望が、ひどく非論理的で秩序が立ってないのに、ひしろ一驚を喫するくらいであった。彼は絶えず何か訊き出そうとするかのように、前から考えていたらしい遠廻しな質問を持ちかけるのであったが、何のためか説明はしなかった。しかも、非常に熱中して何か訊ねている最中に、ふいにぴたりと口をつぐんで、まるで別なほうへ話を移すのであった。
 しかし、ついにイヴァンを極端までいらだたせて、その心に激烈な嫌悪の情を植えつけたのは、このごろ彼がイヴァンに対してまざまざと示すようになった一種特別ないまわしいなれなれしさである。しかも、これが日をふるにしたがって、ますます目立ってくるのであった。しかし、それかといって、イヴァンに対して失礼な態度をあえて見せる、というわけではさらさらない。それどころか、いつも非常にうやうやしい調子で口をきいたが、なぜかしら、彼は自分とイヴァンとがあることについて、共同な関係でも持っているように思い込んでるらしい。そして、いつか二人の間に言い交わした秘密の約束でもあって、自分たち二人にだけはわかっているけれど、まわりにうようよしている人間どもにはとうていわかりっこない、とでもいうような調子でいつも話をする、これが定式のようになってしまったのである。もっとも、イヴァンはその時にもこの真因を――次第につのってゆく嫌悪の原因を、長いあいだ悟ることができなかったが、この頃になってようやく事の真相がわかってきた。
 腹立たしい、いらいらした感触をいだきながら、彼はいま無言のまま、スメルジャコフのほうを見ないで、すっとくぐりの中へ通り抜けようと思った。と、その瞬間、スメルジャコフはっとベンチを立ちあがった。その身振りを見ただけで、イヴァンはすぐさま、彼が何か特別な相談を持ちかけようと思っていることを、察してしまったのである。イヴァンはちらとそのほうを見て立ちどまった。つい一分間まえに決心したように、そのまますっと通り過ぎないで、立ちどまったことを意識すると、彼は身うちの顫えるほど腹が立ってきた。憤怒と嫌悪の念をもって、彼はスメルジャコフの去勢僧のように痙せこけた顔や、櫛で綺麗に掻き上げた両鬢や、小さな鶏冠《とさか》のように盛り上げた前髪をじっと睨んだ。心もち細めた左の目は、ちょうど、『いかがです、通り過ぎておしまいにならないところを見れば、やはりわたくしどものような利口な人間には、何か話すことがあると見えますな』とでも言いたそうに、笑みをふくんでしぱしぱと瞬いている。イヴァンはぶるっと身を顫わした。『どけろ、馬鹿野郎、おれは貴様なんぞの仲間じゃないぞ。こん畜生!』と呶鳴りつけようと思ったが、自分ながら意外にも、ぜんぜん別な言葉が口をすべり出たのである。
「どうだ、お父さんは寝てらっしゃるかい、それともお目ざめかい?」自分でも思いがけないほど静かに、おとなしくこう言った。そして、やはり思いがけなく、ひょいとベンチへ坐り込んでしまった。その刹那、彼はほとんど恐ろしくなった(このことは後に思い出したのである)。スメルジャコフは手を背中で組みながらその前に立って、自信ありげな、ほとんどいかついくらいな目つきで彼を見つめていた。
「まだお休みでございます」と彼は悠々として言った。この調子は『さきに口を切ったのはあなたご自身で、私じゃありませんよ』というようであった。「若旦那、あなたには驚いてしまいますよ。」ややしばらく無言の後、わざとらしく目を落しながら、彼はこう言い添え、右の足を一歩前へ踏み出して、漆塗りの靴の爪先をひょいひょいと動かすのであった。
「どうして僕に驚いてしまうんだろう?」イヴァンは一生懸命に自分を抑制しながら、ぶっきらぼうな素気ない調子でこう言ったが、突然、自分がなみなみならぬ好奇心をいだいていて、それを満足させないうちは、どんなことがあってもこの場を立ち去りそうにもないのを感じて、われながら嫌悪の情を禁じ得なかった。
「若旦那。なぜあなたはチェルマーシニャヘいらっしゃいません?」ふいにスメルジャコフは視線を上げて、なれなれしくにたりと笑った。『私がどうして笑ったか、あなたご自身でおわかりのはずです、もしあなたがお賢い方でしたならばね……」と、細めた左の目が言うように思われた。
「何のために僕がチェルマーシニャヘ行くんだ?」イヴァンは面くらった。
 スメルジャコフはまたちょっと無言でいた。
「旦那さまご自身でさえ、あなたにこのことをお頼みになったではございませんか。」とうとう彼はゆっくりとこう言ったが、自分でもこの返答を大して重要なものとは思っていないらしい。『これはただ何か言わないわけにゆかないから、つまらない理由を持ち出してごまかすんでさあ』とでもいうようなふうつきであった。
「ええ、こん畜生、もっとはっきり言ねないか、貴様どうしようというんだ?」ついにイヴァンは温良な態度から、一転して粗暴な態度に移りながら、腹立たしげに一喝した。
 スメルジャコフは、踏み出していた右足を引いて、左足へ当てながら、ちょっと体をまっすぐに伸ばしたが、しかし、依然たる落ちつきと薄笑いをもって、相手の顔を見つめるのであった。
「べつに大したことはございません……ただちょいと話のついでに……」
 ふたたび沈黙がつづいた。二人は一分間ばかりも黙り込んでいた。イヴァンは、もう今こそ立ちあがって叱りつけるべき時だと思ったが、スメルジャコフはその前に突っ立ったまま、何が待ちもうけているようなふうつきであった。『お前さんが怒るか怒らないか、一つ拝見いたしましょうかな。』少くともイヴァンにはそう感じられた。ついに彼は立ちあがろうと身を動かした。と、下男は待ち構えていたように、その一瞬を捉えた。
「若旦那、わたくしの境涯は実に恐ろしゅうございます、どうしたらいいか、それさえわかりません。」突然、彼はしっかりと一語一語区切るようにこう言って、最後の一句とともに、溜息をつくのであった。イヴァンはまたすぐに腰をおろした。
「お二人ともすっかり逆上《のぼ》せあかってしまって、まるっきり赤ん坊同然になっていらっしゃいます」とスメルジャコフは語をついだ。「わたくしはあなたのお父さまと、お兄さまのドミートリイ・フョードルイチのことを申すのでございます。今にもお目ざめになりましたら(つまり、その、お父さまのことなので)、すぐさまわたくしを摑まえて、しつこくのべつにお訊ねになりまず。『どうてあれは来なかったか? どういうわけで来なかった?』と、これが夜の十二時頃まで、いや、十二時すぎまでつづくのでございます。ところが、もしアグラフェーナさまがおいでにならなかったら(もしかしたら、あの方はまるっきり、そんな考えを持っていらっしゃらないかもしれませんよ)、翌朝また早速わたくしに飛びかかって、『なぜ来なかった?どういうわけで来なかった? 一たいいつ来るのだ?』と、まるでわたくしの知ったことかなんぞのようでございます。ところが、また一方では、そろそろ暗くなりかかるやいなや、――いえ、それよりもっと早いこともございます、――お兄さまが刃物を持って隣りへお見えになりまして、『いいか、悪党、下司男、もし貴様があの女を見のがして、ここへ来たことをおれに知らせなかったら、誰よりもまっさきに貴様を殺してやるから』とおっしゃいます。それから、夜が明けて朝になると、またしても旦那さまが同じように、こっぴどくわたくしをおいじめになるのでございます。『どうして来なかった。もうすぐやって来るだろうか?』と、ここでもまたあのご婦人がお見えにならなかっだのを、まるで私が知ったことのようにおっしゃいます。こうして、お二人のお腹立ちが一日ごとに、いえ、一時間ごとに烈しくなってゆきますので、わたくしはときどき恐ろしさのあまりに、いっそ自殺してしまおうかと思うことがございます。若旦那、わたくしはあのお二人には愛想がつきはてました。」
「じゃ、何だってかかり合いになったのだ? 何だってドミートリイに内通を始めたんだ?」とイヴァンはいらだたしげに言った。
「どうしてかかり合わずにいられましょう? それに、すっかりありのままを申しますと。決してわたくしがかかり合ったのではございません。わたくしは初めから一口も言葉を返す元気もなく、始終だまっていたのでございます。ただあの人が勝手にわたくしを自分の召使に、リチャルドに決めておしまいになったので。その頃からドミートリイさまは、『悪党め、もしあの女を見のがしたら、貴様の命はないぞ!』としか、言うことをご存じないのでございます。若旦那、明日はたしかに長い発作が起るに相違ないと思います。」
「何が長い発作なのだ?」
「長い癲癇の発作なのでございます、おそろしい発作なので……何時間も何時間も、ひょっとしたら一日も二日もつづくかもしれません。一度なんか、三日間もつづいたことがございます。その時は屋根部屋から落ちましたので、やんだかと思うとまたぶり返して、三日間どうしても人心地に返ることができませんでしたよ。そのとき旦那さまが、ヘルツェンシュトゥベという、この町のお医者さまを呼んで下さいまして、頭を氷で冷やしていただきました。ああ、それからま一つ何かの薬をいただきましたっけ……本当に危なく死んでしまうところでございました。」
「しかし、癲癇という病気は、いつごろ起るかってことを、前もって知るわけにゆかないというじゃないか。どうしてお前は明日発作が起るなんて言うのだ?」一種特別ないらいらした好奇心をいだきながら、イヴァンはこう訊ねた。
「それはそのとおりでございます、前もって知るわけにはまいりません。」
「それに、その時お前は屋根部屋から落ちたんじゃないか。」
「屋根部屋へは毎日あがりますから、明日もまた屋根部屋から落ちるかもわかりません。もし屋根部屋でなければ、穴蔵へ落ちるかもしれません。穴蔵へも毎日、用事がございますから、しょっちゅう往き来いたします。」
 イヴァンは長いこと、じいっと彼を見つめていた。
「何かでたらめを言ってるな、見えすいてるぞ。それにお前の言うことはどうもよくわからない。」低い声ではあるが、何となく脅しつけるような調子で彼は言いだした。「一たいお前は明日から三日の間、癲癇の真似をするつもりじゃないのか? おい?」
 スメルジャコフは地べたを見つめながら、またしても右足の爪先をひょいひょいと動かしていたが、このとき右足をもとのところへ引っ込め、その代りに左足を前へ出して顔を上げ、薄笑いを浮べながら言った。
「もしわたくしがそうするとしても、つまり真似をするとしても(それは経験のある人間にとって決してむずかしいことじゃありませんからね)、わたくしはそれに対して十分な権利を持っているのでございます。なぜと申して、自分の命を助ける方法なんですものね。わたくしが病気で臥てさえいれば、たとえアグラフェーナさんが旦那さまのところへお見えになっても、病人を摑まえて、『なぜ知らせなかった』と責めるわけにまいりません。お兄さまご自身でも恥しいことだとお思いになりますからね。」
「ええ、こん畜生!」イヴァンは憤怒のために顔を歪めながら、いきなり飛びあがった。「何だって貴様は自分の命ばかり心配してるんだ! そんな脅かしはただ腹立ちまぎれの言葉だ、それっきりのことだよ。兄貴はお前なんか殺しゃしない。もし殺すとしてもお前じゃないよ!」
「蠅のように叩き殺しておしまいなさいます。そして、わたくしが第一番にやられるのでございます。しかし、何より恐ろしいのは別のことなので、――つまり、お兄さまが旦那さまのお身の上に、何か馬鹿なことをしでかしなすった時、あの方とぐるのように思われるのが、恐ろしいのでございます。」
「なぜお前がぐるのように思われるんだ?」
「わたくしがぐるのように思われるわけは、例の合図をごく内《うち》でお知らせしたからで。」
「合図って何だ? 誰に知らせたのだ? 本当にこいつどうしてくれよう、はっきり言わんか?」
「もうすっかり白状いたさねばなりません。」ペダントじみた落ちつきをもってスメルジャコフは、言葉じりを引きながらこう言った。「実はわたくしと旦那さまとの間に、一つ秘密があるのでございます。ご承知でもございましょうが(たぶんご承知でございましょうね)、旦那さまはこの三四日、夜になると、いえ、早い時には晩になるとすぐ、部屋の内側から戸に鍵をかけておしまいになります! もっとも、あなたはこの頃いつも早く二階の居間へ引っ込んでおしまいになりますし、昨日はまるでどこへもおいでになりませんでしたから、もしかしたらご存じないかもしれませんね。ところが、旦那さまはこのごろ夜になると、大へん念入りに戸締りをなさるのでございます。そして、グリゴーリイさんが行っても、声でもって確かにそうだとわからないうちは、決して戸をお開けになりません。ところで、グリゴーリイさんもあまり行かないから、今のところお居間のお世話をするのは、わたくし一人でございます、――これはアグラフェーナさんの騒ぎが始まって以来、旦那さまがご自身でお決めになったことなので……しかし、夜になりますと、わたくしは且那さまのお申しつけで、離れのほうへさかって休みますが、それでも夜なか頃までは寝ずの番をしなけりゃなりません。ときどき起きて邸内を一廻りして、アグラフェーナさまのおいでを待ち受けていなくちゃなりません。なぜと申して、旦那さまはこの二三日まるで気ちがいみたいになって、あの方を待っていらっしゃいますので。旦那さまのお考えでは、あの方はお兄さまを、ドミートリイ・フョードルイチを(旦那さまはいつも、ミーチカとおっしゃいますが)恐れていらっしゃるから、夜もだいぶ遅くなってから、裏道を通ってお見えになるに相違ない。『だから、貴様ちょうど十二時まで、いや、もっと遅くまで見張りをしろ。もしあれがやって来たら、居間の戸口へ走って来て叩いてもよし、庭から窓を叩いてもいい。しかし、初めの二つはこんなふうにゆっくり叩いて、それからすぐ早目に三つ、とんとんとんと叩くのだ。そうすれば、わしはすぐ、あれが来たのだと思って、そっと戸を開けてやる』とこうおっしゃるのでございます。それから、もし何か変ったことが起った時の用心に、もう一つの合図を教えて下さいました。それは初め二つ早目にとんとんと打って、それから少したってから、もう一つずっときつく、どんと叩くのでございます。すると、旦那さまは何か変《へん》があったので、わたくしがぜひ旦那さまのお目にかからなくちゃならない、ということをお察しになって、やはりすぐ戸を開けて下さいます。そこでわたくしは入って行って、お知らせするのでございます。それは、アグラフェーナさんがご自分でお見えにならないで。使いでもって何かお知らせになる場合の用心でございます。そのほか、ドミートリイさまもやはりおいでになるかもしれませんから、あの方が近くまで来ていらっしゃることを、旦那さまへお知らせしなければなりません。旦那さまは大へんお兄さまを怖がっていらっしゃいますから、たとえアグラフェーナさまがお見えになって旦那さまと一緒に部屋の中へ閉じ籟っていらっしゃる時でも、お兄さまが近くに姿をお見せになりましたら、わたくしはすぐに戸を三つ叩いて、ぜひそのことをお知らせしなければなりません。こういうわけで、五へん叩く方の合図は、『アグラフェーナさまがおいでになりました』ということで、も一つの三べん叩く方の合図は、『ぜひお話ししなければならぬことがあります』というわけなのでございます。これは旦那さまがご自分で幾度も真似をして、よく説明しながら教えて下すったので。こういうわけで、広い世界にこの合図を知っておるのは、わたくしと旦那さまと二人きりでございますから、旦那さまは少しも疑いなしに声を出さないで(旦那さまは声を出すのを、大へん恐れていらっしゃいます)、すっと戸を開けて下さいます。この合図が今お兄さまに知れているのでございます。」 
「なぜ知れてるんだ? 貴様が告げ口したのか? どうしてそんな大胆なことをしたのだ?」
「つまり、恐ろしいからでございます。どうしてあの方に隠しおおせることができましょう? お兄さまは毎日のように、『貴様はおれを騙してるんじゃないか? 何かおれに隠してるんじゃないか? そんなことをしたら、貴様の両足を叩き折ってやるから!』と脅しなさるじゃありませんか。そこで、わたくしはあの方に、この秘密の合図をお知らせしました。つまり、それでもって、こちらの奴隷のような服従を見ていただいて、わたくしが決して騙すどころじゃない、かえって何でもかでもお知らせしてる、ということを信じていただくためなので。」
「もし兄貴がその合図を利用して入りそうだと思ったら、貴様が入れないようにしたらいいじゃないか。」
「そりゃわたくしだって、お兄さまの乱暴なことを承知の上で、生意気にお通しすまいと考えたにしろ、もしわたくしが発作で倒れていましたら、何ともしようがないではございませんか。」
「ええ、こん畜生! どうして貴様は発作が起ることに決めてやがるんだ、本当にどうしてくれよう? 一たい貴様は僕をからかってるのか、どうだ?」
「どうしてあなたをからかうなんて、そんな生意気なことができましょう。それに、こんな恐ろしいことを目の前に控えているのに、冗談どころの話ですか? 何だか癲癇が起りそうな気がいたします、そんな気がするのでございます。ただ恐ろしいと思うばかりでも起ります。」
「こん畜生! 明日お前が臥れば、グリゴーリイが見張りをするよ。前からあれにそう言っといたら、あれは決して兄貴を入れやしない。」
「あの合図は、旦那さまのお許しなしにグリゴーリイさんに知らせるわけには、どんなことがあってもまいりません。ところで、グリゴーリイさんがお兄さまのおいでを聞きつけて、入れないようにするだろうとおっしゃいますが、あの人はちょうど、きのうから患いだしまして、明日マルファさんが療治をすることになっております。さきほどそんな相談ができましたので。ところで、あの人の療治はずいぶん面白いことをするのでございます。マルファさんはある水薬を知っていて、いつも絶やさないようにしまっておりますが、何かの草をウォートカの中に浸けたきつい薬でございます。あのひとはその秘伝を知っておりますので。グリゴーリイさんは一年に三べんほど中風かなんぞのように、腰が抜けてしまいそうなほど痛いので、そんな時この薬で療治をします。何でも年に三べんくらいでございます。その時マルファさんは、この草の汁をしませた酒で手拭を濡らして、三十分ばかりつれあいの背中を一面にこすって、からからになって赤く腫れあがるまでつづけた後、何かおまじないを言いながら、壜に残っている薬をつれあいに飲ませます。もっとも、みなすっかりではございません。こんな時いつも少少残しておいて、自分でも飲ひのでございます。すると、二人とも酒のいけない人なので、そのままそこへ倒れてしまって、ずいぶん長い間ぐっすりと寝込むのでございます。グリゴーリイさんは目をさました後、いつも病気がよくなりますが、マルファさんは目をさました後、いつも頭痛がするのでございます。こういうわけでして、もしマルファさんがあす本当に療治をすれば、あの夫婦の人が何か物音を聞きつけて、ドミートリイさまを入れないようにするなどということは、どうもおぼつかない話でございます。きっと寝入ってしまいますから。」
「何というばかばかしい話だ! 何もかもわざと拵えたように一緒になるじゃないか……貴様は癲癇を起すし、グリゴーリイ夫婦は前後不覚に寝てしまうなんて!」とイヴァンは叫んだ。「もしや貴様がわざとそんなふうに仕組むつもりじゃないか?」ふいに彼はこう口をすべらして、もの凄く眉をしかめた。「どうしてわたくしがそんなことを仕組みましょう……そして、何のためにそんなことを仕組みましょう。何もかもお兄さまのお考え次第で、どうともなるのではございませんか……あの方が何かしでかそうとお思いになれば、そのとおりしでかしなさるでしょうよ。本当にめっそうもない、わたくしがあの方の手引きをして、旦那さまのとこへ踏み込ませるなんて、そのようなことがあってよいものですか。」
「じゃ、何のために兄貴がお父さんのところへやって来るのだ、しかも内証に来る必要がどこにある? アグラフェーナさんは決してここへ来やしないと、貴様自分で言ってるじゃないか。」イヴァンは憤怒のため顔を真っ蒼にしながら言葉をつづけた。「貴様自分でもそう言ってるし、僕もここで暮しているうちにちゃんと見抜いてしまった。親父はただ夢を見ているだけで、あの淫売女《じごく》は決してやって来やしない。あの女が来もしないのに、どうして兄貴が親父のところへ暴れ込むんだ。言ってみろ! 僕は貴様の肚ん中が知りたいのだ。」
「なぜいらっしゃるか、ご自分でご承知でございます。わたくしの肚の中などを詮索する必要はございません。お兄さまはただ腹立ちまぎれにもいらっしゃいましょうし、もしわたくしが病気でもしましたら、あの疑り深い性分のために、もしやという気をお起しになって、昨日のように我慢しきれなくなって、部屋の中まで捜しにいらっしゃいます、――もしやあの女が自分に隠れて入りゃしないかしらん、とお思いになるのでございます。その上お兄さまは旦那さまのところに、三千ルーブリのお金を封じ込んだ大きな封筒が、ちゃんと用意してあることも、やはりご存じでございます。その封筒は三重に封をした上に紐でゆわえて、『わが天使グルーシェンカヘ、もしわれに来るならば』とご自分の手でお書きになりましたが、それから三日たってまた『雛鳥へ』と書き添えられました。これがそもそも怪しいのでございます。」
「くだらんことを!」イヴァンはほとんどわれを忘れて呶鳴った。「兄貴は金を盗むような男じゃない、おまけに、そのついでに親を殺すなんてはずがない。昨日のような場合には、癇癪持ちの馬鹿が夢中になったことだから、グルーシェンカのために親父を殺すかもしれないが、強盗なぞに出かけてたまるものか!」
「しかし、お兄さまはとてもお金をほしかっておいでになりますよ、若旦那、そりゃあもう大変なお困りようでございます。あなたはお兄さまがどれほど困っていらっしゃるか、ご承知ないのでございましょう。」スメルジャコフはどこまでも落ちつきはらって、恐ろしくはきはきした調子で説明にかかった。「その上お兄さまはこの三千ルーブリの金を、まるで自分のものかなんぞのように思っていらっしゃいます。『親父はまだちょうど三千ルーブリだけ、おれに支払う義務があるのだ』と、ご自分でわたくしにおっしゃいました。それに若旦那、もう一つ間違いのない真実がございます。よくご自分で判断してごらんなさいまし。遠慮なく申しますと、アグラフェーナさんは、自分でその気にさえなられましたら、わけなくあの方を、つまり、旦那さまをあやつって、結婚させておしまいになります。それはほとんど確かな話でございます。わたくしは、あの婦人がその気になられたらと申しましたが、案外その気になられるかもしれません。わたくしはあの婦人は決して来られないと申しましたが、もしかしたら、そんなことよりも、ただ奥さまになりたいという気を起されるかもしれません。わたくしの聞きましたところでは、あの婦人の旦那でサムソノフという商人が、あの方に向って無遠慮に、それはなかなか気のきいた話だと言って、笑ったそうでございます。それに、ご当人も利口な人でございますから、お兄さまのような裸一貫の男と結婚されるはずはありません。これだけのことを頭へ入れて考えてごらんなさいまし、若旦那。そうなればお兄さまも、あなたも、弟ごのアレクセイさまも、旦那さまがおかくれになったら、もう一ルーブリだってもらえることじゃございません。なぜと申して、アグラフェーナさまが旦那さまと結婚なさるのは、何もかも一さい自分の名義に書き換えて、財産という財産をみんな自分のものにするためではありませんか。ところで、まだこんなことのないうちに、お父さまがおかくれなすったら、さっそくあなた方にはめいめい四万ルーブリずつのお金が渡ります。旦那さまのあれほど憎んでいらっしゃるドミートリイさまでさえ、遺言状が拵えてありませんから、分け前が手に入るわけなので……それはお兄さまにもよくわかっております。」
 イヴァンの顔面筋肉が妙に歪んで、ぴくりと慄えたように思われた。彼は急に真っ赤になった。
「じゃあ、貴様はどういうわけで」と彼は突然スメルジャコフを遮った。「そんな事情があるのに、チェルマーシニャヘ行けなどと僕に勧めたんだ? どういうつもりであんなことを言ったのだ? 僕が行ってしまったら、その留守に大変なことが起るじゃないか。」
 イヴァンはやっとの思いで息をついでいた。
「まったくそのとおりでございます。」スメルジャコフは静かに分別くさい調子で言った。とはいえ、一心にイヴァンの顔色を窺いながら。
「何がまったくそのとおりなんだ?」辛うじて自分で自分を抑えながら、もの凄く目を輝かしつつ、イヴァンはこう問い返した。「わたくしはあなたがお気の毒で、ああ申したのでございます。わたくしがあなたのような位置におりましたら、こんなことにかかり合おうより……いっそ何もかも捨てて行っちまいます……」ぎらぎら光るイヴァンの目を思いきって露骨な表情で見つめながら、スメルジャコフは答えた。
 二人ともしばらく無言でいた。
「貴様はどうも大馬鹿らしい。そして、もちろん……恐ろしい悪党だ!」突然イヴァンはベンチを立ってこう言った。
 それからすぐに、くぐりの中へ入ってしまおうと思ったが、ふいに立ちどまって、下男のほうを振り返った。何かしら奇怪なことが生じた。イヴァンは思いがけなく痙攣でも起したように、唇を噛みしめて拳を固めた、――もう一瞬の後には、スメルジャコフに跳りかかりそうな勢いであった。こちらは咄嗟の間にその様子を見てとったので、思わずぎくりとして体をうしろへ引いた。しかし、その一瞬間はスメルジャコフにとって無事に通過した。イヴァンは何やら思い惑った様子で、無言のままくぐりのほうへ踵を転じた。
「僕はあすモスクワへ発つよ。もし望みなら教えてやるが、明日の朝早く立つんだ……わかったかい!」と彼は憎悪の色を浮べて、一こと一こと分けるように大きな声で言った。彼は後になって、どんな必要があってこんなことをスメルジャコフに言ったのか、われながら不思議でたまらなかったのである。
「それが一番よろしゅうございますよ」とこちらは、待ちかまえていたように受けた。「ただひょっと何か変ったことがあった場合に、ここから電報でお呼びするようなことがあるかもしれませんが。」
 イヴァンはまたもや立ちどまって、急にくるりと下男のほうを振り向いた。と、スメルジャコフに何か変化が生じたように思われた。例のなれなれしい気のない表情が束の間に消え失せて、その顔ぜんたいが極度の注意と期待を現わしていたが、しかし、それはもう臆病な卑屈らしいものであった。『まだ何かおっしゃることはございませんか、もう何も言いたしなさることはございませんか?』じっと穴のあくほどイヴァンを見つめている目の中には、こんな意味が読まれるのであった。
「チェルマーシニャだったら、呼んではくれないのか……その、何かことがあった場合に?」何のためとも知れず急に声を張り上げて、イヴァンはいきなり呶鳴りつけた。
「チェルマーシニャでございましても……やはりお知らせ申しますで……」とスメルジャコフは慌てたように、ほとんど囁くような声で呟いたが、しかし依然として、穴のあくほどイヴァンの目をひたと見つめていた。
「しかし、貴様がチェルマーシニャ行きを勧めるところをみると、モスクワは遠くってチェルマーシニャは近いから、旅費が惜しいとでも言うのかい。それとも、僕が無駄な大廻りをするのが気の毒だとでも言うのかい?」
「まったくそのとおりでございます……」またしてもいやらしく、にたにた笑いながら、ひっちぎれたような声でスメルジャコフはこう呟いた。そして痙攣的な身振りで、すばやくうしろへ飛びのく用意をするのであった。
 しかし、イヴァンはだしぬけにからからと笑いだして、スメルジャコフを驚かした。そして、いつまでも笑いやまないで、急ぎ足にくぐりの中へ入ってしまった。このとき誰でも彼の顔を一目見たならば、彼が笑いだしだのは決して愉快なためではないということを、間違いなく推察したにちがいない。また彼自身もこの瞬間、何事が心に生じたのか、とうてい説明することができなかったであろう。彼の身振りも足どりも、さながら痙攣にかかったようであった。

   第七 『賢い人とはちょっと話しても面白い』

 ものの言い方もやはりそんなふうであった。広間へ入りしなにフョードルと出会った時、彼はいきなり手を振りながら父に向って、『僕は二階の居間へ帰るんです、あなたのところへ行くのじゃありません、さよなら!』と喚いて、父の顔を見ないようにしながら、そばを通り過ぎてしまった。この瞬間、老人が憎らしくてたまらないというのは、大いにあり得べきことながら、これほどまでに露骨な憎悪の表情は、フョードルにとっても実に思いがけないことであった。しかも、老人は大急ぎで彼に話したいことがあって、わざわざ広間まで迎えに出たのである。こういう無愛想な言葉を聞いたとき、老人は無言のまま立ちどまって、中二階さして段々を昇って行くわが子の姿を、あざ笑うような顔つきで見えなくなるまで目送した。
「一たい、あいつどうしたんだ?」と彼は、イヴァンの後から入って来たスメルジャコフにこう訊いた。
「何やら腹を立てていらっしゃいますが、若旦那のなさることはさっぱりわけがわかりません」と、こちらは逃げをうつような調子で呟いた。
「ええ、勝手にしろ! 怒るなら怒らしとけ。お前もサモワールを出しといて、早く出て行くがいい、さあ、急いで。ときに、何か変った話はないかな?」
 こうして、たった今スメルジャコフがイヴァンに訴えたような、しつこい質問が始まった。つまり、彼が待ちもうけている例の女のことばかりであるから、筆者は、この質問をくだくだしくここで繰り返すのをよそう。三十分の後、家はすっかり戸締りができた、そうして心の狂った老人は、ただひとり部屋の申を歩き廻って、今にも例の五つのノックの合図が聞えはせぬかと、胸を躍らして待ちかまえながら、ときどき暗い窓外を覗いて見るのであったが、『夜』のほかには何一つ目に入るものはなかった。
 もうずいぶん遅かったけれども、イヴァンはまだ眠らないでもの思いに耽っていた。この夜、彼はかなり遅く、二時ごろに床についた。しかし、今かれの思想の流れをくわしく伝えることはやめておこう。それに、今はこの霊魂に立ち入るべき時でないのだ。この霊魂については、やがて語るべき順番がくる。のみならず、たとえ今何か読者に伝えようとしてみたところで、それは非常に困難な試みとなるに相違ない。なぜなら、彼の頭の申にあるのは思想というべきものでなく、何かしらとりとめのない、しかも恐ろしく入り乱れたものだからである。彼自身も、自分の心がすっかりこんぐらかってしまったような気がした。その上に、奇妙な、まるで思いがけないさまざまな欲望が湧き起って、彼を苦しめるのであった。例えば、もう十二時過ぎた時分に、突然、矢も楯もたまらないほど、下へおりて、戸を開けて、離れへ押し入り、スメルジャコフをぶちのめしてやりたくなる、と言ったような類であった。しかし、もし誰かにどういうわけかと訊かれても、あの下男が憎くてたまらない、この世にまたとないほどの重い侮辱を自分に加えた人間のような気がする、と言うよりほか、何一つ正確な理由を示すことができなかったであろう。
 いま一方から見ると、彼はこの晩、一種説明することのできない、いまいましい臆した心持に魂を摑まれて、そのためにとつぜん肉体的の力まで失ったような感じがした。頭がずきずき痛んで、目まいがする。何だかまるで誰かに復讐でも企てているように、にくにくしい毒念が彼の胸を刺すのであった。彼はさきほどの会話を思い出して、アリョーシャさえも憎んだ。ときおり自分自身さえ憎くてたまらなかった。カチェリーナのことはほとんど考えようともしなかった。彼はけさ彼女に向って、『明朝はモスクワへ行きます』と立派に広言した時でさえ、腹の中では『なに、でたらめだ、何で行けるものか、お前はいま、から威張りをしているが、そうやすやすと別れることができるものか』と自分で自分に囁いたのを、はっきりと覚えているので、このとき彼女のことを忘れてしまったのが、なおさら奇怪に感じられる。彼は後になって、深くこの事実に驚嘆したのである。
 大分たって、この夜のことを思い出した時、イヴァンの心に烈しい嫌悪の念を呼びさました事実が一つある、ほかでもない、彼はときどきふいと長椅子を立って、ちょうど自分の様子を隙見されるのが恐ろしく気になるように、そうっと戸を開けて階段の上まで出て、下の方へじっと耳を傾けながら、父が下の部屋で動いたり、歩いたりするのを、て心に聞きすますゐであった。しかも、一種奇怪な好奇心をいだきながら、息をひそめて烈しく動悸を打たせつつ、長いこと、五分間ばかりも耳をすますのであった。しかし、何のためにこんなことをするのか、何のために耳をすますのか、むろん、彼自身にもわからなかった。その後、彼は一生の間これを「卑劣な」行為と呼んでいた。深い深い心の奥底で、生涯を通じての最も卑劣な行為だと考えたのである。当のフョードルに対しては、その時いささかも憎悪を感じなかったが、ただどうしたわけか、なみなみならぬ好奇の念を覚えたのである。いま父は下の部屋をどんな恰好で歩いてるだろうか。いま一人きりでどんなことをしてるだろうか、などと考えてみたり、今頃は定めし、暗い窓を覗いているかと思うと、またふいに部屋の真ん中に立ちどまって、誰か戸を叩きはしないかと、じりじりしながら待ち焦れているに相違ない、などと想像してみるのであった。こんなことをするために、イヴァンは二度までも階段の上り口へ出たのである。二時ごろにあたりがしんと静まって、もはやフョードルも眠りについたとき、イヴァンは体がへとへとに疲れたように感じられたので、少しも早く寝つきたいものだという強い希望をいだきながら、床に入った。
 はたせるかな、彼はたちまちにして眠りに落ち、ぐっすりと夢もなく寝込んでしまった。しかし、目をさましたのはかなり早く、まだ夜が明けて間もない七時頃であった。われながら驚いたことには、目をあけると、すぐ彼は自分の体内に異常なエネルギーが潮のごとく押し寄せるのを感じて、すばしこく跳ね起きて着替えをすませ、それから鞄を引き出して、猶予なく荷造りに取りかかった。肌着類はちょうどきのうの朝、すっかり洗濯屋から受け取ったばかりであった。イヴァンは一切が都合よく運んで、この急な出発を妨げるものが、少しもないことを考えると、思わず微笑をもらしたほどである。実際、この出発は急なものであった。なぜなら、イヴァンは昨日カチェリーナとアリョーシャと、それから少し遅れてスメルジャコフに、今日の出発を話しはしたものの、しかしゆうべ床へつく時には、出発のことなどてんで考えていなかったからである。少くとも朝、目をさましたとき、第一着手として鞄の荷造りに取りかかろうなどとは、夢にも考えなかったことをよく覚えている。
 ついに鞄とサックの荷造りはできあがった。九時頃にマルファが彼のところへ入って来て、『お茶はどこでおあがりになり、ます。お居間になさいますか、下へお降りになりますか?』と、いつもの問いを持ち出した。イヴァンは下へおりた。彼の言葉にも身振りにも、何となくそわそわした、忙しそうなところがあったが、それでも全体の様子がいかにも楽しそうであった。愛想よく父に挨拶して、体の加減まで訊いた後、彼は父の返事も待だないで、一時間後にはモスクワへ向けて行ってしまうから、馬車を呼びにやってくれと、ずばりと言いきった。が、老人は息子の出発を悲しむという礼儀上の要求さえ忘れて、微塵も驚いた様子を見せずに、この知らせを聞き終った。そして、出発を悲しむ代りに、ちょうどいいあんばいに自身の大切な用事を思い出し、急にひどく慌てだした。
「えっ、お前は! 何という男だ! きのう黙ってるなんて……しかし、まあ、どっちでも同じことだ、今すぐでも話はつくだろう。なあ、おい、イヴァン、お願いだから、お慈悲にチェルマーシニャヘ行ってくれ、ヴォローヴィヤ駅からちょっと左へ曲ったらいいのじゃないか、わずか十二露里ばかり行けば、もうそれチェルマーシニャだあね。」
「とんでもない、駄目ですよ。鉄道まで八十露里もあるのに、汽車は晩の七時に発つんですから、やっと間に合うくらいな勘定なんですよ。」
「なに、明日の間には十分あうよ、でなきゃ、明後日な。しかし、今日はぜひチェルマーシニャヘ寄ってくれ。ほんのちょっとの手間で親を安心させるというものだ! もしここに仕事がなかったら、もうとっくにわしが自分で飛んで行ってるところなんだよ。なにしろ急を要する大事な用だからな。しかし、こっちの仕事の都合で……そうしちゃいられないんだ……いいかい、あの森はベギーチェフとジャーチキンの二区にわたって、淋しい場所にあるんだ。ところで、商人のマースロフ親子が木を伐らしてくれと言うんだが、たった八千ルーブリしか出さんのだ。去年ついた買い手は、破談になったけれど、一万二千ルーブリ出すと言ったよ。それはここの者でないんだ、――こいつに曰くがあるのさ。なぜと言って、ここの人間じゃ今とても捌け口がないからさ、このマースロフというのが親子とも十万長者だが、いつもたちの悪い買占めをやって、自分が値をつけたら、ぜひ取らなくちゃ承知せんというふうなのだ。しかも、ここの商人で、この親子と競争しようというやつが一人もな