京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P070-073   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦37日目]

「まるきりふざけたのではない、それは本当じゃ。この思想はまだあなたの心内で決しられてないので、あなたを悩まし通しておるのじゃ。しかし、悩めるものも時には絶望のあまり、自分の絶望を慰みとすることがある。あなたも今のところ、絶望のあまりに雑誌へ論文を載せたり、社交界で議論をしたりして慰んでおられる。しかし、自分で自分の弁証を少しも信じないで、胸の痛みを感じながら、心の中でその弁証を冷笑しておられる……実際あなたの心中でこの問題はまだ決しておらぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある。なぜというに、それはどこまでも解決を強要するからじゃ……」
「この問題が、僕の心中で解決せられることがありましょうか? 肯定のほうへ解決せられることが?」依然としてえたいの知れぬ薄笑いを浮べたまま、長老の顔を見つめながら、イヴァンはまた奇妙な質問をつづけるのであった。
「もし肯定のほうへ解決することができなければ、否定のほうへも決して解決せられる時はない。こういうあなたの心の特性は、ご自分でも知っておられるじゃろう。これがすなわちあなたの苦しみなのじゃ。しかし、こういう苦しみを悩むことのできる高邁なる心をお授け下された創世主に、感謝せられたがよい。『高きものに思いをめぐらし高きものを求めよ。何となればわれらのすみかは天国にあればなり。』どうか神様のお恵みで、まだこの世におられるうちに、この解決があなたの心を訪れますように、そうしてあなたの歩む道が祝福せられますように。」
 長老は手を挙げて、その場に坐ったままイヴァンに十字を切ってやろうとした。しかし、こちらはとつぜん椅子を立って長老に近寄り、その祝福を受けて手を接吻すると、無言に自分の席へ返った。彼の顔つきはしっかりして、真面目であった。この振舞いと、またイヴァンとしては思いがけない長老との会話は、その不可解な点において、また厳粛な点において一同を驚かした。人々はしばらく声をひそめ、アリョーシャの顔にはほとんど慴えたような表情が浮んだほどである。しかし、突然ミウーソフがひょいと肩をすくめると、それをきっかけにフョードルは椅子を飛びあがった。
「神のごとく聖なる長老さま!」と彼はイヴァンを指さしながら叫んだ。「これはわたくしの息子、わたくしの肉から出た肉、わたくしの最愛の肉でございます! これはわたくしの、さよう……尊敬すべきカルル・モールでして。これは、――たった今はいって来ましたドミートリイ、つまり、こうしてお裁きをお願いするようになった相手方でございますが、――これは尊敬すべからざるフランツ・モールでございます(この二人はどっちもシルレルの『群盗』の人物なので)。ところで、わたくしはさしずめ|Regierender Graf von Moor《レギーレンター グラフ フォンモール》の役廻りでございます! どうかご判断の上、お助けを願います! わたくしどもはあなたのお祈りばかりでなく、予言さえも聞かしていただきたいのでございます。」
「そのような気ちがいめいたものの言い方をされぬがよい。そして家の者を辱しめるような言葉で口をきるものではありませんじゃ」と長老は衰えた、よわよわしい声で答えた。見たところ、彼は疲れが烈しくなるにつれて、だんだん気力を失ってゆく様子であった。「愚にもつかない茶番です。僕はここへ来る前から感づいていました!」とドミートリイは憤懣のあまり、同じく席を飛びあがってう叫んだ。「お許し下さい、長老さま」と彼はゾシマのほうを向いて、「僕は無教育な男ですから、何と言ってあなたをお呼び申したらいいか知らないくらいですが、あなたは騙されていらっしゃるのです。わたしどもにここへ集ることを許して下すったのは、あまりお心が優しすぎたのです。親爺に必要なのは不体裁な馬鹿さわぎだけなんです。何のためか、それは親爺の胸一つにあることです。親爺にはいつでも自己一流の目算があるのですから。しかし、今になってみると、どうやらその目的がわかるような気がしますよ……」
「みんなが、みんながわたくし一人を悪しざまに申します!」と、フョードルも負けず劣らず叫んだ。「現にミウーソフさんもわたくしを責めます。いいや、ミウーソフさん、責めましたよ、責めました!」ふいに彼はミウーソフのほうを向いてこう言った。そのくせ、べつに彼が口を出したわけでもないのである。「つまり、わたくしが子供の金を靴の中に隠して、口の端を拭っている、と言うて責めるんですが、しかし裁判所というものがありますからね、ドミートリイさん、そこへ出たら、お前さんの書いた受取りや手紙や証文を基として、お前さんのところに幾らあったか、お前さんが幾ら使ったか、そして今幾ら残ってるか、すっかり勘定してくれまさあね! ミウーソフさんが裁判を嫌うわけは、ドミートリイさんがこの人にとってまんざらの他人でないからですよ。それで皆がわたしに食ってかかるんです。ドミートリイさんはかえってわしに借りがあるくらいですよ。しかも少々のはした金じゃなくて、何千というたかですからな。それにはちゃんと証拠があります! なにしろこの人の放蕩の噂で、いま町じゅうが、煮えくり返るほどですからな! それから、以前勤務しておった町では、良家の処女を誘惑するために、千の二千のという金をつかったもんでさあ。なあ、ドミートリイさん、よっく承知しとりますよ、人の知らん秘密まで詳しく知っとりますよ、わしが立派に証明しますよ……神聖なる長老さま、あなたは本当になさるまいけれど、この人は高潔無比な良家の令嬢を迷わしたのでございます。お父さんは自分の元の長官で、アンナ利剣章を首にかけた、勲功ある勇敢な大佐なので。こういう令嬢に結婚を申し込んで迷惑をかけたために、当の令嬢はいま両親のないみなし子としてこの町に暮しております。もう許婚《いいなずけ》の約束ができておるくせに、ドミートリイさんはその人を目の前において、この町の淫売のところへ通っておるのでございます。もっとも、以前は淫売でしたが、今はさる立派な仁《じん》と民法結婚(法律で認められたばかりで教会の祝福を受けないもの)をして、それになかなか気性のしっかりした女ですから、誰に言わしても難攻不落の要塞、まあ正妻も同じこってさあ。なにしろ淑徳の高い女ですからなあ、まったく! ねえ、和尚さん方、本当に淑徳の高い女でございます! ところでドミートリイは、この要塞を黄金の鍵で開けようとしておるもんだから、今わたくしを相手に威張り返っておりますので。つまり、わたくしから金をもぎ取りたいのでございます。もう今までにも、この淫売のために、何千という金をちりあくだ同然に使うておるんですからなあ。だから、のべつ借金ばかりしてるんでさあ。しかし、誰から借りるんだとお思いになります? おい、ミーチャ、言おうか言うまいか?」
「お黙んなさい!」とミーチャが叫んだ。「僕の出て行くまで待って下さい、僕のいるところで、純潔な処女を穢すようなことは言わせない……あなたがあの人のことを口にしたということだけでも、あの人の身の穢れです……僕は許しません!」
 彼は息をはずましていた。
「ミーチャ! ミーチャ!」とフョードルはよわよわしい調子で、涙を絞り出しながら叫んだ。「一たい生みの親の祝福は何のためなんだ。もしわしがお前を呪うたら、その時はどうするつもりだ?」
「恥知らずの面かぶり!」とドミートリイは獰猛に呶鳴りつけた。
「あれが父親に、現在の父親に向って言う言葉ですもの、ほかの人にどんなことをするかわかったもんじゃありません! 皆さん、ここに一人の退職大尉がおります。貧乏だが名誉ある仁《じん》でございます。とんでもない災難のために退職を命じられましたが、公けに軍法会議に付せられたわけではなく、名誉は立派に保持されて退職になったのでございます。いま大勢の家族のために難儀しておりますが、三週間ばかり前、ミーチャがある酒屋で、この仁の髯を摑んで往来へ引っ張り出し、多くの人の目の前でうち打擲したのでございます。それというのも、この仁がちょっとした事件について、内証でわたくしの代理人を勤めたからなので。」
「それはみんな嘘です! 外見は事実だが、裏面から見るとみな嘘の皮です!」ドミートリイは憤怒に全身を慄わせた。「お父さん、僕は自分の行為を弁護するわけじゃありません。いや立派に皆さんの前で白状します。僕はその大尉に対して獣同然の振舞いをしました。今でも為の獣のような行為を悔んで、われとわが身に愛想をつかしています。しかし、あなたの代理人とかいうあの大尉は、たった今お父さんが淫売と言われた婦人のところへ行って、もしミーチャがあまりうるさく財産の清算を迫ったら、あなたのところにあるミーチャの手形を引き受けて訴訟を起し、あいつを監獄へぶち込んでくれと、あなたの名で申し込まれたのです。お父さんは、僕がこの婦人に弱みを持っていると言われたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑さしたのじゃありませんか! ええ、あの女が僕に面と向って話して聞かせましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕に嫉妬しているからです。そうです、あなたは自分からあの婦人に言い寄ったのです。これもやはりあの女が笑いながら話して聞かせたから、僕ちゃんと承知しています、――いいですか、あなたのことを笑いながら、僕に話して聞かせたんですよ。皆さん、このとおりです、放蕩息子を咎める父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の怒りっぼい性分を赦して下さい。しかし、僕は初めからこの狸じじいが、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さんをここへ呼んだってことは、ちゃんと感づいていました。僕はもし親爺が折れて出たら、こっちから赦しもし、また赦しも乞おうと思ってやって来たのです。しかし、親父は僕一人でなく、僕が尊敬のあまりいたずらに名前を口にすることさえ憚っている純潔な処女まで辱しめましたから、こっちもこの男のからくりを、皆さんの前で、すっかり暴露してやる気になったのです。実際、僕にとっては親身の父なんですけれど……」
 彼はもはや言葉をつづけることができなかった。目はぎらぎら光って、息づかいも苦しそうであった。庵室の中はざわめいてきた。長老を除く一同の者は不安に駆られて席を立った。二人の主教は厳めしい目つきをして睨んでいたが、それでもまだ長老の意見を待っていた。当の長老は真蒼な顔をしていたが、それは興奮のためでなく病的な衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇にほのかに光っていた。彼は怒り狂う人々を押し鎮めようとするかのごとく、ときどき手を挙げるのであった。もちろんこの身振り一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよく呑み込んでおこうとするように、じっと一座の光景に見入りながら控えていた。ついにミウーソフは、自分がまったく辱しめられ、穢されたような心持がした。
「この不体裁の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した調子で言いだした。「僕はここへ来る前に、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたが……これは即刻、始末をつけなきゃなりません! 長老さま、どうぞ信じて下さい、僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです。まったくいま聞き初めなのです……現在の父親が卑しい稼業の女のために息子を嫉妬して、その売女《じごく》とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて……僕はこんな連中の中へ交わるように仕向けられたのです……欺かれたのです、皆さんの前で明言します、僕は皆さんに劣らぬくらい欺かれたのです……」
「ドミートーイさん!」突然フョードルが、何かまるで借物のような声を振り絞った、「もしお前さんがわしの息子でなかったら、わしはすぐにも、お前さんに決闘を申し込むところなんだ……武器はピストル、距離は三歩……ハンカチを、「ンカチを上から被せてな!」と彼は、地団太を踏みながら言葉を結んだ。
 こうして、一生涯役者の真似をし通した嘘つき老人でも、興奮のあまり本当に身ぶるいしながら泣きだすほど、真に迫った心持になる瞬間がよくあるものである。もっとも、その瞬間(もしくは一秒ほどたった後)『やい、恥知らずの老いぼれ、貴様がどんなに「神聖な」怒りだの、「神聖な」怒りの瞬間を感じたって、やはり貴様は嘘をついてるのだ、今でも役者の真似をしてるのだ』と自分で自分に囁くのだ。
 ドミートリイは恐ろしく眉を顰めて、何とも言えない侮蔑の色を浮べながら父を見つめた。
「僕は……僕は、」彼は妙に静かな抑えつけたような調子で言いだした。「僕は故郷《くに》へ帰ったら、自分の心の天使ともいうべき未来の妻とともに、父の老後をいたわろうと思っていたのです。ところが来てみると、父は放埒無慙の色情狂で、しかも卑劣この上ない茶番師なんです!」
「決闘だ!」と老人は息を切らして、一語一語に唾を飛ばしながら泣き声を上げた。「ところで、ミウーソフさん、今あんたが失礼にも『じごく』呼ばわりをしたあの女ほど、高尚で潔白な(いいですか、潔白なと言うておるんですよ)婦人は、あんたのご一門に一人もありませんよ! それから、ドミートリイさん、お前さんが自分の許嫁をあの『じごく』に見かえたところを見ると、つまり許嫁の令嬢でさえあの『じごく』の靴の裏