京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P078-081   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦39日目]

想念を押しこたえることができなかった。それほど自分で自分の思いに心をひしがれたのである。彼は径の両側につらなる、幾百年かへた松の並木をじっと見つめた。その径は大して長いものでなく、僅か五百歩ばかりにすぎなかった。この時刻に誰とも出くわすはずがないと思っていたのに、突然はじめての曲り角にラキーチンの姿が見えた。彼は誰やら待ち受けていたのである。
「僕を待ってるんじゃないの?」アリョーシャはそばへ寄ってこう訊いた。
「図星だ。君なのさ。」ラキーチンはにやりと笑った。「僧院長のところへ急いでるんだろう、知ってるよ。饗応があるんだからね。大主教がパハートフ将軍と一緒にお見えになったとき以来、あれほどのご馳走は今までなかったくらいだ。僕はあんなところへ行かないが、君は一つ出かけて、ソースでも配りたまえ。ただ一つ聞きたいことがあるんだ。一たいあの寝言は何のこったね? 僕こいつが訊きたくってさ。」
「寝言って何?」
「あの君の兄さんに向って、地べたに頭がつくほどお辞儀をしたやつさ。しかも、額がこつんといったじゃないか!」
「それはゾシマ長老のことなの?」
「ああ、ゾシマ長老のことだよ。」
「額がこつんだって?」
「ははは、言い方がぞんざいだって言うのかい! まあ、ぞんざいだっていいやね。で、一たいあの寝言は何のことだろう?」
「知らないよ、ミーシャ、何のことだかねえ。」
「じゃ、長老は君に話して聞かせなかったんだね、そうだろうと思ったよ。もちろん、何も不思議なことはないさ。いつもおきまりの有難いノンセンスにすぎないらしい。しかし、あの手品はわざと拵えたものなんだよ。今に見たまえ、町じゅうの有難や連が騒ぎだして、県下一円に持ち廻るから。『一たいあの寝言は何のことだろう?』ってんでね。僕の考えでは、お爺さん本当に洞察力があるよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。まったく君の家庭は少々臭いぜ。」
「一たいどんな犯罪を?」
 ラキーチンは、何やら言いたいことがあるらしいふうであった。
「君の家庭で起るよ、その犯罪めいたものがさ。それは君の二人の兄さんと、福々の親父さんの間に起るんだよ。それでゾシマ長老も万一をおもんばかって、額でこつんをやったのさ、あとで何か起った時に、『ああ、なるほど、あの聖人が予言したとおりだ』と言わせるためなんだ。もっとも、あのお爺さんが額でこつんとやったのは、予言でも何でもありゃしないよ。ところが、世間のやつらは、いやあれはシンボルだ、いやアレゴリイでござるとか、いろんなくだらもないことを言って語り伝えるのさ。犯罪を未然に察したとか、犯人を嗅ぎ出したとかってね。宗教的畸人《ユロージヴァイ》なんてものはみんなそうなんだ。酒屋に向いて十字を切って、お寺へ石を投げつける、――君の長老殿もそのとおりで、正直なものは棒で追いたくりながら、人殺しの足もとにはお辞儀をする……」
「どんな犯罪なの? 人殺しって誰のことなの?」アリョーシャは釘づけにされたように突立った。ラキーチンも立ちどまった。
「どんなって? 妙に白を切るね! 僕、賭けでもするよ、君はもうこのことを考えてたに相違ない。しかし、こいつあちょっと面白い問題だ。ねえ、アリョーシャ、君はいつも二股膏薬だけれど、とにかく本当のことを言うから、一つ訊こうじゃないか、――一たい君はこのことを考えてたのかい?」
「考えてたよ」アリョーシャが低い声で答えたので、当のラキーチンさえ少々面くらった。
「何だって? 本当に君はもう考えてたのかい?」と彼は叫んだ。
「僕……僕はべつに考えてたってわけじゃないけれども」とアリョーシャはあやふやした調子で、「いま君があんな妙なことを言いだしたので、僕自身もそんなことを考えていたような気がしたのさ。」
「ほらね? ほらね? (いや、まったく君は上手に言い廻したよ)。今日おやじさんと兄さんのミーチャを見てるうちに、犯罪ということを考えたんだろう? してみると、僕の推察は誤らないだろう?」
「まあ、待ちたまえ、待ちたまえ」とアリョーシャは不安そうに遮った。「君はどういうところから、そんなことを感づいたの?……何だってそんなことばかり気にするの、これが第一の問題だ。」
「その二つの質問はまるで別々なのだが、しかし自然なものだあね。おのおの別々に答えよう。まずどういうところから感づいたかってのは、きょう君の兄さんのドミートリイの正体を突然、一瞬の間にすっかり見孩いてしまったからだ。でなけりゃ、そんなことを感づくはずじゃなかったのさ。つまり、何かしらちょっとしたところから、すっかりあの人の全貌を摑んでしまったのさ、ああいう正直一方の、しかし情欲の熾んな人には、決して踏み越してならない一線がある。まったくあの人はいつどんなことで、親父さんを刀でぶすりとやらないともかぎらないよ。ところが、親父さんは酔っ払いの放埒な道楽者で、何事につけても決して度というものがわからない。そこで両方とも譲り合おうとしないから、一緒にどぶの中へ真っ逆さまに……」
「違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら僕も安心した。そんなところまで行きゃしないから。」
「何だって君、そんなにぶるぶる慄えてるんだい? 一たい君にこういうことがわかるかい? よしやあの人が、ミーチャが正直な人だとしても(あの人は馬鹿だけれど、正直だよ)、しかし、あの人は好きものだからね。これがあの人に対する完全な評語だ、あの人の勘どころだ。それは親父さんがあの人に下劣な肉欲を譲ったからだよ。僕はただ君だけには驚いてるよ、ねえ、アリョーシャ、君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって、君もやはりカラマーゾフじゃないか? 君の家庭では肉欲が炎症とも言うべき程度に達してるんだものね。ところで、今あの三人の好きものが互いに追っかけあっている……ナイフを長靴の胴に隠してね。こうして、三人が鉢合せをしたんだから、あるいは君も第四の好きものかもしれないぜ。」
「しかし、君もあの女のことは思い違いをしてるよ。ミーチャはあの女を……軽蔑している。」何だか妙に身ぶるいしながらアリョーシャはこう言った。
「グルーシェンカを? いいや、君、軽蔑しちゃいないよ。現在自分の花嫁を公然とあの女に見かえた以上、決して軽蔑してるとは言えない。その瞰には……その間《かん》には今の君に理解できないようなことがあるのだ。もしある男が一種の美、つまり女の肉体、もしくは肉体のある一部分に迷い込んだら(これはああした好きものでなければわからないが)そのためには、自分の子供でも渡してしまう、父母もロシヤも売ってしまうのだ。正直でありながら盗みをやる、温良でありながら人殺しをする、誠実でありながら謀叛をする。女の足の讃美者プーシュキンは、自分の詩(オネーギン)のなかで女の足を歌ってる。ほかの連中は歌いこそしないが、戦慄を感じずに女の足を見ることができないのだ。しかし、もちろん、足ばかりにかぎらないがね……で、よしんばミーチャがあの女を軽蔑してるにしてからが、この際、軽蔑なぞ何の役にも立ちゃしない。軽蔑してるくせに目を放すことができないのだ。」
「それは僕にもわかる。」アリョーシャはだしぬけにわれ知らず言い放った。
「へえ? 君がそんなにいきなり不注意に言ってのけたところを見ると、君はこのことが本当にわかるんだね」とラキーチンは意地わるい悦びを浮べつつ叫んだ。「君は今なんの気なしに口をすべらしたんだが、それだけ君の自白がなおさら尊いものになるよ。つまり、このテーマはもう君にお馴染みなんだね。この肉欲ということをもう考えてたんだね! ようよう童貞の少年よ! と言いたくなるね。ねえ、アリョーシャ、君がおとなしい神聖な人間だってことは僕も異存なしだが、神聖であると同時に、まあ大変なことを考えてるんだね、本当に大変なことを承知してるんだね! 童貞の少年であると同時に、もうそんな深刻な道を通ってるんだ。僕も前からそれを観取していたよ。君自身もやはりカラマーゾフだ、徹頭徹尾カラマーゾフだよ、――してみると、血統というやつは争えんものだなあ。親父の方からは好きもの、母親の方からは宗教的畸人《ユロージヴァイ》の性を受けたんだ。何だってぶるぶる慄えるんだい? それとも図星をさされたのかね。ときにね、君、グルーシェンカが僕に頼んだぜ、『あの人を(つまり君のことさ)つれて来てちょうだい、わたしあの人の法衣を脱がしちゃうから』つてね、まったく一生懸命に頼んだぜ、連れて来い、連れて来いって。一たい何だってあの女が、ああまで君に興味を持つのかと、僕は不思議に思ったよ。君、あれもやはり非凡な女だよ!」
「よろしく言ってくれたまえ、行きゃしないから」と、アリョーシャは苦笑いをした。「それよりか、ミーシャ、言いさしたことをしまいまで話したまえ。僕はあとから自分の考えを言うから。」
「この際、しまいまで話すも何もありゃしない。何もかも明白だあね。こんなことは古臭い話だあね。もし君の体の中に好きものが隠れているとすれば同腹の兄さんのイヴァンにいたってはどうだろう? あの人もやはりカラマーゾフだからね。この中に君たちカラマーゾフの問題がふくまれてるのさ、――好きものと、欲張りと、宗教的畸人《ユロージヴァイ》か! 今イヴァン君は無神論者のくせに、何かわけのわからない恐ろしい馬鹿げた目算のために、神学的な論文を冗談半分に雑誌に載せてる。そして、自分のやり方の卑劣なことを自分で承知しているのだ、――君の兄貴のイヴァン君がさ。おまけに兄のミーチャからお嫁さんを横取りしようとしてるが、この魂胆はおそらく成就するだろう。しかも、どんなふうにやっているかというと、当のミーチャの承諾を得たうえなんだから驚くよ。なぜって、ミーチャは、ただただ許嫁の絆を逃れて、あのグルーシェンカのところへ走りたいばっかりに、みずから進んで未来の妻を譲ろうとしているんだからね。しかも、それが公明潔白な性質から生じるのだから、注目の価値があるよ。まったく揃いも揃って恐ろしい連中だ! こうなってくると、何か何やらわかったもんじゃない。自分で自分の卑劣を自覚しながら、その卑劣の中へ入って行くのだ! それから、まあ、先を聞きたまえ。今ミーチャの道をせいているのはあの老いぼれ親父だ。親父さんはこのごろ急にグルーシェンカに血道を上げて、あの女の顔を見たばかりで、涎をたらたら流してるじゃないか。親父さんがいま庵室で大乱痴気をしでかしたのは、ただミウーソフが無遠慮にあの女のことを、じごくだなんぞと言ったからさ。まるでさかりのついた猫より劣ってる。以前あの女は何か酒場に関係したうしろ暗い仕事で、親父さんの手助けをしていたが、いまごろ急にその器量に気がついて、気ちがいのようになって申し込みを始めたんだ、もっとも、その申し込みもむろん、正々堂々たるものじゃないがね。だから二人は、――親父さんと兄さんは、どうしてもこの道で衝突しずにいられないよ。ところで、グルーシェンカのほうは、どっちともつかない曖昧なことを言って、両方をからかってる。そして、どっちがとくだか日和見しているのさ。なぜって、親父さんのほうからは金が引き出せるけれど、その代り結婚はしてくれない。そして、しまいにはすっかりユダヤ式になっちまって、財布の口をしめて放さないかもしれない。こうなると、ミーチャにも別種の価値が生じてくる。金はないけれど、その代り結婚する。うん、結婚するよ! 自分の許嫁を捨てて、――金持で、貴族で、大佐令嬢のカチェリーナ・イヴァーノヴナという、比較にならぬほどの美人を棄てて、町長のサムソノフに、百姓爺のような道楽者の商人に囲われていた、グルーシェンカと結婚するに相違ない。こういうすべての事情を総合すると、本当に何か犯罪めいたものが起るかもしれないよ。ところが、兄さんのイヴァンはそれを待ち受けてるんだ。それこそ有卦に入るというものさ。自分がいま身も細るほど思ってるカチェリーナさんも手に入るし、六万ルーブリというあの人の持参金も手繰り込めようという算段だ。イヴァン君のような裸一貫の男にとっては、この金高は手はじめとしてなかなか悪くないよ。それからまだ注意すべきは、それがミーチャを侮辱しないばかりか、かえって死ぬまで恩に着られるということさ。僕たしかに知ってる。つい先週ミーチャがある料理屋でジプシイ女などと一緒に酔いつぶれた挙句、自分はカーチャを妻とする値うちがない。ところが、弟のイヴァンなら、本当にあの女の愛に相当する、と自分で大きな声をして呶嗚ったんだもの。当のカチェリーナさんは、もちろんイヴァン君のような誘惑者を、最後まで退ける勇気はない。今でも現に二人の間に立って迷ってるんだからね。しかし、一たいイヴァン君はどうして君らをみんな丸め込んじまったのかしら? 君らはみなあの人を三拝九拝してるじゃないか。そのくせ、あの人は君らをみんな馬鹿にしてるんだよ。わたし一人がまる儲け、わたしは皆さんの褌で相撲を取りますってね。」
「だが、どうして君はそんなことを知ってるの? どうしてそ