京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P094-097   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦43日目]

「わからにゃわからんでええ。しかし、それはそうに違えねえだ。もうこのさき口いきくなよ。」
 そして、本当に二人はこの家を去らなかった。フョードルは夫婦の者に僅かな給金を定めて、ちびりちびりと支払うのであった。しかし、グリゴーリイは疑いもなく主人に対して、一種の勢力をもっていた。これは彼自身も承知している。そして彼がこう感じたのは、決して思い違いではなかった。狡猾で執拗な道化者のフョードルは、『世の中のある種の事物については』(これは彼自身の言い草である)なかなかしっかりした気性を持っているけれど、『世の中の別種な事物については』自分でもびっくりするほど、恐ろしく意気地がなかったのである。それがどんな事物であるかは、彼も自分で承知していたので、さまざまなことに恐れをいだいていた。世の中のある種の事物については、ずいぶん警戒しなければならぬ場合が多かったので、誰か忠実な人間がなくては心細かったのである。ところで、グリゴーリイは忠実無比な人間であった。フョードルはあれだけの富を積む間に、幾度となくぶたれそうな、しかもこっぴどくぶたれそうな場合もしょっちゅうあったが、そういう時には、いつもグリゴーリイが彼を救い出した。もっとも、あとで必ずお説教をして聞かせるのがきまりであった……とはいえ、フョードルもぶたれるだけなら、さして恐ろしくもなかったろうが、まだまだそれより一そう高級な、複雑微妙な場合がたびたびあって、フョードルはなぜかわからないけれど、とつぜん瞬間的に、誰か忠実な人間を自分のそばに置きたいという、なみなみならぬ要求を心に感じるのであった。しかも彼自身でさえ、その理由を明らかにすることができなかった。それはほとんど病的といってもいいくらいな場合である。放埒無比であり、しかもその放埒のためにしばしば残忍なことをあえてする、まるで意地わるい虫けらのようなフョードルが、酔っ払った時などふいと心の中に精神的の震駭感と、恐怖とを感じるのであった。この震駭感はほとんど生理的に彼の魂に反応した。
『こんな時、わしはな、魂が咽喉の辺で慄えておるような気持だ』と彼はときどきこんなことを言った。こういう瞬間に、彼は自分に信服した、しっかりした男が自分の身辺に、同じ部屋の中でなくてもよいが、せめて離れのほうにでもいてほしかった。その男は自分のような道楽者とはまるで別人であるけれども、目前に行われるこれらの悪行を見、秘密という秘密を知りつくしていながら、信服の念のために一切のことを許して反抗しない。それに、何より大切な点は、いささかも非難めいたことを言わないで、この世でも先の世でも決して脅かしめいたことをしない。しかも、すわという時には自分を防いでくれる――しかし誰から? 誰からかわからないが、とにかく危険な恐ろしい人間から庇ってくれる。要するに、昔なじみの親しい自分以外[#「自分以外」に傍点]の人間が、ぜひなくてはならないのである。心の痛むような時にこの男を呼び寄せる。それもただじっとその顔を見つめて、気が向いたら何か一つ二つ無駄口を叩き合うくらいのことで、もし相手が平気な顔をしてかくべつ腹も立てなければ、それで心が安まるし、もし腹を立てれば、よけい気が鬱しようというものである。ごく時たまではあるけれど、こんなこともあった。フョードルは夜中に離れへ行って、グリゴーリイを叩き起し、ちょっとでいいから来てくれと言う。こっちは起きて行ってみると、思いきって下らない話をしてすぐにさがらしてしまう。どうかすると、別れぎわに冷かしや冗談を言うこともある。そして、ご当人はぺっと唾を吐いて横になると、もう天使のような眠りに落ちてしまうのであった。
 アリョーシャが帰って来た時も、ちょっとこれに似寄ったことがフョードルの心中に生じた。アリョーシャは「一緒に暮して、何もかも見ておりながら、少しも咎め立てをしない」というところで、彼の『心を刺し通した』のである。そればかりか、アリョーシャは彼にとって未曾有のものをもたらした。ほかでもない、この老人に対して少しも軽蔑の色を見せないばかりか、それほどの値うちもないこの老人にいつも愛想がよくて、しかもきわめて自然で素直な愛慕の情を寄せるのであった。今までただ『穢れ』のみを愛していた、家庭というもののない、年とった好色漢にとって、こういうことはすべて思いがけない賜物であった。アリョーシャが寺へ去った後、彼は今まで理解することを欲しなかったあるものを理解した、と心中ひそかに自認したのである。
 グリゴーリイがフョードルの先妻、すなわち長男ドミートリイの母アデライーダを憎み、その反対に、後妻のソフィヤ、『|憑かれた女《クリクーシカ》』を当の主人に楯ついてまで庇いだてし、彼女について軽はずみな悪口を言うものをことごとく相手どって争ったということは、もう物語の初めに述べておいた。この不幸な婦人に対する彼の同情は、一種神聖なものかなんぞのようになって、二十年もたった今日でも、誰の口から出たにせよ、彼女を悪く言うようなあてこすりに我慢できないで、すぐさまその人をやりこめるのであった。
 外貌から言うと、グリゴーリイは冷やかな、しかつめらしい男で、口数はきわめて少く、軽はずみなところの少しもない、おもおもしい言葉を一つずつ押し出すような話しぶりであった。彼がおとなしい無口な妻を愛しているかどうか、ちょっと見ただけでははっきりしたことが言えなかった。しかし、ひろん、愛していたに相違ないので、妻もそれを承知していた。このマルファ・イグナーチエヴナは決して馬鹿な女でなかったばかりか、かえって亭主より利口なくらいであった。少くとも実生活のこまごました事柄にかけては、ずっと分別があった。が、それでも彼女は一緒になったそもそもから、いささかも不平など言わないでグリゴーリイに服従し、その精神的にすぐれた点を絶対に尊敬するのであった。なお一風変っているのは、この夫婦がごくごく必要な目前の事柄を除いて、あまり口をきき合わないということであった。グリゴーリイはいつもしかつめらしい、ものものしい様子をして、一切の仕事や心配を自分一人で考えるのであった。それゆえマルファも、彼が自分の忠言などてんで求めていない、夫は自分の無口なのを尊んで、そのために自分を賢いものと見てくれるのだ、と悟ったのである。グリゴーリイは決して妻を折檻したことがない。けれど、例外としてたった一度、それもほんの少しばかりぶったことがある。フョードルがアデライーダと結婚した最初の年、あるとき村の娘や女房どもが(当時まだ農奴であった)、地主邸へ呼び集められて、歌ったり踊ったりしたことがある。『草原で』の踊りが始まった時、当時まだ若かったマルファが突然コーフスの前へ跳り出して、一種とくべつな身振りで『ロシヤ踊り』を踊った。それは女房どものような田舎臭いものと違って、彼女が物持ちのミウーソフ家で女中を勤めていたころ、モスクワから招聘された踊りの師匠に教えられて、同家の家庭劇場で踊ったようなものであった。グリゴーリイは妻の踊りを黙って見ていたが、一時間後、自分の家へ帰って、少々髪を引っ張って彼女を懲らしめた。しかし、手荒な折檻はそれきりで終って、もうその後一度も繰り返されなかった。マルファもそれからふっつり踊りを断念してしまった。
 この夫婦には子供が授からなかった。もっとも、一人赤ん坊ができたが、それもすぐ死んでしまった。グリゴーリイは見うけたところ子供が好きらしかったし、またそれを隠そうともしなかった。つまり、それをおもてに見せるのを恥しがる様子がなかったのである。アデライーダが家出したとき、彼は三つになるミーチャを自分の手に引き取って、自分で髪を梳かしてやったり、盥に入れて洗ってやったりして、一年ばかりも世話を焼いた。それから後、イヴァンとアリョーシャの面倒をもみてやったが、そのために頬げたを一つ見舞われるようなことになった。しかしこのことはもう前に話しておいた。
 自分の子供が彼に悦ばしい希望をいだかしたのは、ただマルファが妊娠している間だけであった。生れてみると、その子は悲しみと恐れとをもって彼の心を刺し通した。ほかでもない、この男の子は六本指に生れついたのである。これを見たグリゴーリイはすっかり落胆して、洗礼の日までむっつり黙り込んでいたばかりでなく、口をきかないですかようにわざと庭へ出て行った。ちょうど春のことで、彼は三日間しじゅう菜園の畦を起していた。三日目に幼児の洗礼をすることになったが、この時までにグリゴーリイはもう何か思案を決めていたのである。家では僧侶もちゃんと支度をととのえ、客も集り、主人フョードルも名づけ親の格でわざわざ出かけていたが、彼は小屋へ入るといきなり、子供はまるで洗礼しなくてもよいと言いだした。それも、大きな声でくどくど述べたてたわけでなく、一こと二こと歯の間から押し出すような言い方で、同時に僧の方を鈍い目つきで、じっと見つめるのであった。
「どういうわけで?」と僧ははしゃいだ驚愕の調子で問い返した。
「なぜちゅうて……あれは竜でござりますからな……」とグリゴーリイは呟いた。
「え、竜だって……竜て何のことじゃな?」
 グリゴーリイはしばらく黙っていた。
「神様のお手違いができたのでござりますよ……」彼は不明瞭ではあったが、しっかりした声でこう呟いた。見うけたところ、あまりくどくど説明したくないようなふうであった。
 人々は一笑に付して、不幸な幼児の洗礼はむろんそのまま執り行われた。彼は洗礼盤のそばで一心に祈禱したけれども、幼児に対する意見は変えようとしなかった。しかし、それかといって、かくべつ邪魔をするでもなかったが、病身な子供の生きている二週間というもの、ほとんど一度もその顔を見なかった。そしてときどき目に入るのもいやな様子で、多くは家の外にばかり出ていた。しかし、二週間の後、幼児が鵞口瘡のために死んだ時、自分でその死体を小さな棺に納め、深い憂愁の色を浮べながら、じっと眺めていた。ささやかな浅い墓穴に土をかぶせたとき、彼は跪いて、土饅頭に額のつくほど、礼拝するのであった。
 その時から多くの年月が流れたが、彼は一度も自分の子供のことを口にしなかった。またマルファも夫の前で子供のことを追想しないようにした。ときどき誰かを相手に「赤ちゃん」の話をするようなことがあったら、その場にグリゴーリイがいあわさなくっても、小さな声でささやくのが常であった。マルファの気づいたところによると、あのとき墓場から帰るとすぐ、彼はおもに『神様に関係のあること』を研究するようになり、『殉教者伝』など読みふけり始めた。それも大抵一人で黙読するので、そのたびにいつも大きな円い銀縁の眼鏡をかけるのであった。声を出して読むのはごくまれで、四旬斎の時くらいのものであった。ヨブ記を好んで読んだが、またどこからか『聖き父イサーク・シーリン』の箴言や教訓の書き抜きを手に入れて、ほとんど何一つわからぬくせに、長年のあいだ辛抱づよく読み返すのであった。しかし、そのわからないということのために、余計この書物を尊重し、かつ愛したのかもしれない。最近にいたって、近所に凝り屋があったために、フルイスト派の説を注意して傾聴しはじめ、だいぶ烈しい感動を受けたらしいが、その新しい宗派へ移ろうとも思わなかった。『神様に関係のある』書物を耽読したということは、彼の外貌に一そうものものしい影を添えたのである。
 もしかしたら、彼は元来、神秘的傾向を持っていたのかもしれぬ。ところで、六本指の子供の誕生と、つづいてその死亡とほとんど同時に、まるでわざとのように、いま一つ思いがけない、奇怪な、そしてほかに類のないような出来事がもちあかって、彼の心に深い『烙印』を捺した(これはあとで彼自身の言ったことなのである)。それはほかでもない、ちょうど夫婦が六本指の幼児を葬った日、ふと夜中に目をさましたマルファが、生ま落ちたばかりの赤ん坊の泣き声ともおぼしいものを聞きつけた。彼女は、びっくりして夫を呼び起した。こちらは耳をすましていたが、あれは赤ん坊というより、誰か唸ってるのだ、『しかも女らしいぞ』と言った。とにかく、彼は起きあがって着替えをした。それはかなり暗い五月の夜であった。あがり段へ出てみると、呻き声は明らかに庭園のほうから聞えてくる、しかし、庭園は夜になると裏庭から錠を下ろしてしまう上に、まわりにはすっかり高い堅固な塀をめぐらしてあるから、この入口よりほかに庭園へはいる口がないのであった。
 グリゴーリイは家へとって返して提灯をともし、庭園の鍵を取った。そして、妻のマルファが、自分にはどぅしても子供の泣き声らしく聞える、きっと死んだ子が自分を呼んで泣いてるに相違ない、とヒステリイでも起したように怖がるのに耳もかさず、黙って庭園へ出て行った。ここでは彼は明らかに、呻き声はくぐりからほど遠からぬ庭園に立っている湯殿の中から出て来るので、そのぬしはじじつ女に相違ないと悟った。湯殿の戸を開けた時、彼はある光景の前に立ちすくんでしまった。いつもこの町をうろつき廻って町じゅう誰知らぬものもない、綽名をリザヴェータ・スメルジャーシチャヤ(悪臭を発する女の意)という宗教的畸人《ユロージヴァヤ》が、この家の湯殿へ入り込んで、たったいま赤ん坊を生んだばかりのところであった。赤ん坊は彼女のそばに転がって、産婦はもはや死になんなんとしていた。彼女は何一つ話さなかった。話したくても話すすべを知らないのであった。しかし、この事件は特別の説明を要する。