『カラマーゾフの兄弟』P126-129   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦51日目]

で、甘いものと一緒にコニヤクを飲むのが好きであった。イヴァンも同じく食卓に向ってコーヒーを啜っていた。二人の下男、グリゴーリイとスメルジャコフとがてーぶルのそばに立っていた。見受けたところ、主従とも並みはずれて愉快に元気づいているらしい。フョードルは大きな声でからからと笑っている。アリョーシャはやっと玄関へ入ったばかりだのに、もう以前からずいぶん耳に馴染んでいる父の甲高い笑い声によって、父がまだ酔っ払ってるどころか、ほんの一杯機嫌でいるにすぎない、ということをすぐに推察してしまった。
「やあ、来たぞ、来たぞ!」フョードルは、アリョーシャが来たのを無性に悦んでこう叫んだ。「さあ、仲間へ入れ、そして坐ってコーヒーでも飲めよ、――なに、コーヒーはお精進だからいい、熱い素敵なやつだぜ! コニヤクは勧めない、お前は坊さんだからな、しかし飲むかな、飲むかな? いや、それより、お前にはリキュールのほうがいいわ、素晴しいもんだぜ! スメルジャコフ、戸棚へ行ってみい、二番目の棚の右側にある。ほら、鍵だ、早く早く!」
 アリョーシャはリキュールも断わろうとしたが、
「なあに、どうせ出るもんだ。お前がいやなら、わしらがやるよ」と、フョードルはほくほくもので、「ところでお前、食事はすんだのかどうだな?」
「すみました」とアリョーシャは答えたが、実際は僧院長の台所でパンを一切れと、クワスを一杯飲んだばかりであった。「私はこの熱いコーヒーのほうが結構です。」
「感心だ! えらいぞ! おい、この子はコーヒーを飲むと言うぞ。温めんでいいか? いや、今でもまだ煮立ってるわ。素敵なコーヒーだぞ、スメルジャコフ式なんだ。この男はコーヒーと魚饅頭《フィッシュ・パイ》にかけたら芸術家だ、ああ、それから魚汁にかけてもな、実際、いつか魚汁を食べに来んか。その時は前もって知らせるんだぞ……いや、待ったり待ったり、わしはさっきお前に、今日さっそく蒲団と枕を持って帰って来いと言いつけたが、本当に蒲団をかついで来たかな? へへへ!」
「いいえ、持って來ませんでした」とアリョーシャも薄笑いをした。
「びっくりしたろう、さっきは本当にびっくりしたろう? なあ、おい、アリョーシャ、お前を侮辱するなんてことが一たいわしにできると思うかい? ところでな、イヴァン、わしはこの子がこんなふうにわしの顔を見て笑うと、どうもたまらんよ、実に可愛くてなあ! アリョーシカ、一つわしが父としての祝福を授けてやろう。」
 アリョーシャは立ちあがった。しかし、フョードルはもうその間に思案を変えてしまった。
「まあ、いい。まあ、いい、今はただ十字を切るだけにしとこう、さあよし、腰をかけろ。ところで、お前の悦ぶ話があるんだ、しかもお前の畑なんだぜ。うんと笑えるような話だ。家のヴァラームの驢馬(ヴァラームの不幸を人間の言葉で警告した聖書伝説中の驢馬))が喋りだしたのさ。しかも、その話のうまいこと、うまいこと!」
 ヴァラームの驢馬というのは、召使のスメルジャコフのことであった。彼はまだやっと二十四歳の若者であったが、恐ろしく人づきが悪くて口数が少かった。それも、野育ちの恥しがりというわけではなかった。それどころか、かえって生来高慢で、すべての人を軽蔑しているようなふうであった。ここで筆者《わたし》はこの男のことを、せめて一言でも述べておかなければならなくなった。しかも、ぜひ居間でなくてはならないのである。
 彼はグリゴーリイとマルファの手で育てられたが、グリゴーリイの言葉を借りて言うと、『ちっとも恩を知る様子がなく』小さな野獣みたいに、隅っこのほうからすべての人を窺うようにして大きくなった。幼いころ彼は猫の首を吊って、その後で埋葬の式をするのが大好きであった。この式のために敷布をひっかけて袈裟の代りとし、何か提げ香炉の代りになるものを猫の死骸の上で振り廻しながら、葬式の歌を歌うのであった。これは非常な秘密のうちにこっそりと行われたのである。あるとき一度こんな勉強をしているところを、グリゴーリイに見つかって、鞭でこっぴどく折檻されたことがある。少年は片隅に引っ込んでしまって、一週間ばかりそこから白い目を光らしていた。『この餓鬼はわしら二人を好いていねえだよ』とグリゴーリイは妻のマルファに言い言いした。『それに誰ひとり好いていねえ。一たいおめえは人間か?』彼はだしぬけに当のスメルジャコフに向ってこう言うことがあった。『うんにや、おめえは人間でねえ、湯殿の湿気から湧いて出たんだ、それだけのやつだよ……』これはあとでわかったことだが、少年はグリゴーリイのこの言葉を、深く怨みに思っていた。グリゴーリイは彼に読み書きを教えていたが、少年が十三になったとき神代史の講義を始めた。しかし、この試みはすぐ駄目になった。まだやっと二度目か三度目の授業の時、少年は突然にたりと笑った。「何だ?」とグリゴーリイは眼鏡ごしに、恐ろしい目つきをして睨みながら訊ね化。「何でもありませんよ。神様が世界をおつくりになったのは初めての日でしょう、それにお日様やお月様やお星様ができたのは四日目じゃありませんか。一たいはじめての日には、どこから光が射したんだろう?」
 グリゴーリイは棒のように立ちすくんでしまった。少年は嘲るように『先生』を見やっていたが、その目の中には何か高慢ちきなところさえあった。グリゴーリイはこらえきれなくなって、『ここからだ!』と呶鳴るやいなや、猛烈な勢いで少年の頬っぺたを引っぱたいた。こっちは黙ってその折檻をこらえていたが、またしても幾日かのあいだ隅っこに引っ込んでしまった。ところが、一週間の後、初めて彼の一生の持病である癲癇の徴候が現われた。このことを聞いた時、フョードルはとつぜん少年に対する態度を一変した。それまで彼は出会うたびに、一コペイカずつくれてやったり、また機嫌のいい時は、折ふし食事のテーブルから甘い物を届けてやったりして、決して叱るようなことはなかったけれども、何だか無関心な目で彼を眺めていた。ところが、そのとき病気の話を聞くやいなや、急にこの少年のことを心配しはじめ、医師を迎えて治療にかかった。けれどすぐに、治療の見込みのないことがわかった。発作は一月にならし一度ずつおそってきたが、その時期はさまざまであった。また発作の程度もまちまちで、時には軽く時にはきわめて激烈であった。フョードルはグリゴーリイに向って、少年に体刑を加えることを厳重に禁じたうえ、自分の部屋へ出入りすることを許した。何にもせよ物を教えることは当分さしとめたが、あるとき少年がもはや十五になった時、フョードルは書籍戸棚の辺をうろつき廻って、ガラス戸ごしに本の標題を読んでいる少年の姿を見つけた。フョードルのところにはかなりたくさんな、百冊あまりの書物があったけれど、当人が書物に向っているところを見たものは一人もない。彼はさっそく戸棚の鍵をスメルジャコフに渡して、
「さあ、読め読め、庭をうろつき廻るよりか、図書がかりにでもなったほうがよかろう、坐って読むがいい。まずこれを読んでみい」とフョードルは『ジカニカ近郊夜話』を拭き出してやった。
 少年は読みにかかったが、大いに不満らしい様子で、まるきりにこりともしないのみか、かえって読み終った時には眉をしかめていた。
「どうだ? おかしゅうないか?」とフョードルが訊いた。
 スメルジャコフは押し黙っていた。
「返事せんか、馬鹿。」
「でたらめばかり書いてあるんですもの。」スメルジャコフは苦笑しながら答えた。
「ちょっ、勝手にどこへなと行っちまえ、本当に下司根性だなあ、まあ、待て、これを貸してやろう、スマラーグドフの万国史だ。これはもう本当のことばかり書いてあるから読んでみい。」
 が、スメルジャコフは十ページと読まなかった。さっぱり面白くなかったのである。こうして、書物戸棚はまた閉じられてしまった。間もなくマルファとグリゴーリイは、だんだんスメルジャコフが何かしら馬鹿げて気むずかしくなったことを、主人フョードルに報告した。ほかでもない、スープを食べにかかっても、匙をもって一生懸命にスープの中を掻き廻したり、屈み込んで覗いたり、一匙すくって明りにすかしてみたりするのであった。「油虫でもいるのか?」とグリゴーリイが訊く。「きっと蠅でしょう」とマルファが口をいれる。
 潔癖な青年は一度も返事をしたことがないけれど、パンであろうと肉であろうと、すべての食物について同じようなことが繰り返された。よくパンの切れをフォークにさして明りのほうへ持って行き、まるで顕微鏡にでもかけるように検査して、長いあいだ決しかねているが、とうとう思いきって口へ入れるというふうであった。『ふん、まるで華族さまのお坊ちゃんだあね』とグリゴーリイはそれを見てこう呟いた。フョードルは彼の新しい性質を聞くと、さっそく料理人に仕立てることにして、モスクワへ修業にやった。
 彼は幾年かのあいだ修業に行っていたが、帰って来た時にはすっかり面変りがしていた。まるで年につり合わないほど恐ろしく老け込んで、皺がよって黄色くなったところは、ちょうど去勢僧のようだった。性質はモスクワへ行く前とほとんど変りなかった。やはり大づきが悪く、相手が誰であろうと他人と交わるなどということに、てんから必要を認めないのであった。あとで人の話したところによると、モスクワでも始終だまりこんでいたそうである。モスクワそのものもほとんど彼の興味を引かなかったので、市中のこともほんの僅かばかりしか知っていない、その余のことには何の注意をもはらわなかったのである。芝居にも一度行ったことがあるけれども、ぶすっとして不満らしい様子で帰って来た。その代り、モスクワからこの町へ帰って来た時は、なかなか凝った服装をしていた。きれいなフロックにシャツを着込み、日に二度は必ず自分で念入りに着物にブラッシをかけ、気どった牛皮の靴を特製のイギリヌ墨で、鏡のように磨き上げるのが好きであった。
 料理人としての腕は立派なものであった。フョードルは一定の俸給を与えていたが、彼はその俸給を全部、着物やポマードや香水などに使ってしまう。しかし、女性を軽蔑することは、男性に対するのと変りがなさそうで、女に対する時はいかにもしかつめらしく、ほとんど近寄ることができないくらいに振舞った。フョードルはまた少々別な見地から彼を眺めるようになった。ほかでもない、癲癇の発作がだんだん強くなってきて、そういう日には、食物がマルファの手で料理されるので、それがどうもフョードルにはたまらなかったのである。
「どういうわけで、お前の発作はだんだんひどくなるんだろう?」と彼は新しい料理人の顔を横目に見ながら言った。「お前、誰かと結婚したらどうだ、望みなら世話をするぜ。」
 しかし、スメルジャコフはこの言葉を聞いても、ただいまいましさに顔を真っ蒼にするばかりで、一口も返事をしなかった。で、フョードルも手を振って、向うへ行ってしまうのであった。
 しかし、何より重大なのは、彼がこの青年の正直な心を信じきっていることであった。しかも、それは一つの事情のため、永久に固められた信念である。ある時フョードルが酔っ払ったまぎれに、自宅の庭のぬかるみに、受け取ったばかりの虹(百ルーブリ紙幣、虹の模様がある)を三枚落したことがある。翌日になって初めて気づき、あわててかくしの中を探しにかかったが、ふと見ると、虹は三枚ともちゃんとテーブルにのっている。どこから出て来たのかと思ったら、スメルジャコフが拾って、もう昨日から持つ
とがないわい。」フョードルはその時こう言って、彼に十ルーブリくれてやった。しかし、断わっておかねばならぬのは、フョードルは単に彼の正直なことを信じていたのみならず、なぜかこの青年が好きなのであった。そのくせ、若い料理人は彼に対してもほかの者と同様に、不気味な横目づかいばかりして、始終むっつりしていた。口をきくなどということは、ごくたまにしかなかった。もしこんなとき誰か彼の顔を見ているうちに、一たいこの若者は何に興味をいだいているのか、また最も多く彼の頭にやどる想念はどんなものか、ということが知りたくなったとしても、彼の様子を見たばかりでは、その疑問を解決することは、しょせん不可能であったろう。ところで、彼はどうかすると、家の中でも庭の上でも、または往来の真ん中でも、ふいと立ちどまって、何やら考え込みながら、十分くらいも立ちすくんでいることがよくあった。もし人相学者が彼の顔をじっと観察したならば、今この男の心中には想念もなければ思想もなく、ただ何か一種の瞑想ともいうべきものがあるばかりだ、とこう言うに相違ない。
 クラムスコイの作品中に『瞑想する人』と題する優れた画がある。それは冬の森の描写で、その森の路には、何のあてもなくさまよい込んだ一人の百姓が、ぼろぼろの上衣に木の皮靴の姿で、ただ一人深い瞑想の中に立っている、彼はじっと突っ立って、何かもの思いに沈んでいるようなふうであるけれども、決して考えているのではなく、ただ何やら『瞑想』しているのである。もしこの男をうしろからとんと突いたら、彼はきっとびくりとして、まるで目がさめたように、その人の顔をぼんや