京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ボボーク』(『ドストエーフスキイ全集14 作家の日記上』P049~P066、1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)[挑戦55日目]

る。
 しかし、居残ったもう一人のヴラス、つまり誘惑者のほうはどうなったか? 伝説は彼が憫悔のためにはって行ったとは語っていない。彼については何事をも伝えていない。あるいは彼もはって行ったのかもしれない。が、あるいは村に残って、今でも事もなく生活をつづけ、祭日には相変わらず酒をあおって、憎まれ口をたたいているかもしれない。なにしろ、幻を見たのは彼ではないからである。けれども、はたしてそうだろうか? 参考のために、研究のために、彼の身の上をぜひ知りたいものである。
 それから、またこういう理由でも知りたくなる。もし彼が正真正銘の田舎の虚無主義者であり、世間しらずの否定者であり思想家であって、手製の神を信ぜず、思いあがった嘲笑を浮かべて、競争の対象を選み[#「選み」はママ]、わたしがこの研究で述べたように、おのが犠牲とともに苦しみもせず、戦慄もせず、冷やかな好奇心をもって、犠牲者の戦慄と痙攣を見守っていたとすれば、どうだろう? ただ他人の苦悩と人間の屈辱に対する要求から出たのだとすれば、また万々が一、学問的な実験のためであったとすれば?
 もしかような特質がすでに国民的性格の中にさえあるとすれば(現代ではいかなることでも仮定ができる)、さらにこれがわが国の農村にさえあるとすれば、それこそすでに新しい発見であって、多少意外にさえ思われる。かような特質については、かつて聞いたことがないような気がする。オストローフスキイの素晴らしい喜劇『気ままに暮らすな』の中には、誘惑者があまりにまずく書かれている。残念ながら、この喜劇では何ひとつ確実なことを知るわけにいかない。
 要するに、ここに語られた事件の興味は、――もしもその中に興味があるとすれば、――ただそれが真実なものだという点だけである。しかし、現代のヴラスの魂をのぞいて見ることは、時には無駄でもないのである。現代のヴラスは急激に変わりつつある。二月十九日(一八六一年農奴解放令発布の日)を振り出しとして、下層の農村には、われわれ上層におけると同様の醗酵作用が生じている。昔話の勇士は目をさまして、手足を撫している。あるいははめをはずして、ひと騒ぎしようと考えだすかもしれない。もう騒ぎだしたという話である。泥酔、強奪、酔っぱらった子供たち、泥酔した母親たち、無恥、赤貧、破廉恥、無信仰など、さまざまの恐怖すべきことどもが口々に語られ、新聞に書かれている。中でもまじめな、しかし多少せっかちな人たちは、こう考えている、しかも事実に即して考えている。つまり、こんな「騒ぎ」がわずか十年間でもつづいたら、単に経済的な観点から見ただけでも、その結果は想像もできないほどである。けれど、われわれは「ヴラス」のことを思い出して、心を安んずるであろう。いよいよという最後の瞬間に、いっさいの虚偽が(もし虚偽があるとすれば)、民衆の心からけし飛んでしまい、信ぜられないほどの力強い非難となって、彼らの前に立ちあがるであろう。ヴラスは本心に返って、神の仕事に取りかかるに違いない。いずれにしても、たとえほんとうに不幸な結果に到達したにもせよ、自分で自分を救うに違いない。自己を救い、われわれを救うに相違ない。なぜなら、くり返していうが、光と救いは下のほうから輝き出して来るからである(ことによったら、わが自由主義者たちのぜんぜん意外とするような形で輝き出すかもしれない。そのために、いろいろ喜劇的なことが起こるであろう)。現に、この意外な変化に対する暗示さえある。今でもさまざまの事実が拾い上げられるほどである……もっとも、このことはいずれ後に語るおりがあろう。いずれにしても、われわれの破産は、ちょうど「ピョートル大帝の古巣の雛たち」のそれと同じく、今やまさに疑いもない。なにぶんにも二月十九日をもって、事実、ロシヤ史上のピョートル時代が終わりを告げて、われわれはもうとっくにぜんぜん未知の世界にふみ入ったわけである。

   6 ボボーク

 今度は『ある男の手記』を掲載することにしよう。それはわたしではない。まったく別な人なのである。これ以上の前置きは不必要と思う。 

    『ある男の手記』

 セミョーン・アルダリオーノヴィチが、おとといわたしをうかまえてだしぬけに、
「ねえ、イヴァン・イヴァーノヴィチ、きみはいつか、しらふのことがあるのかい、お慈悲にひとつ聞かしてもらいたいね」といった。不思議な所望である。わたしはべつに腹を立てはしない、わたしは臆病な人間だから。しかし、それでも、このわたしが気ちがいのようにさせられたことがある。ある画家がたまたまわたしの肖像画を書いた。「なんといってもきみは文士だからな」と彼はいう。わたしは彼のいうままになった。すると、彼はそれを展覧会に出したのである。ふと新聞を見ると、「この病的な気ちがいに近い顔を見に行きたまえ」と書いてある。
 それはまあいいとしても、公けの機関で、こうあけすけにいうとは何事だ! 新聞雑誌というものは、まず上品な書き方をしなければならない。理想というものが必要である。それだのに、これは……
 少なくとも、婉曲にいいまわすがよい。そこが文章のあやというものだ。ところが、どっこい、婉曲にいいまわすのはいやだとおっしゃる。きょう日ではユーモアとか、あやのある文句というものは影をひそめて、悪罵が機知として通用している。わたしはべつに腹を立ててはいない。気ちがいになるなんて、そんなのが文学者といえるか。小説をものした、――が、載せてはくれない。雑文を書きあげた、――が、断わられてしまった。かような雑文を、わたしは諸所の編集局へふんだんに持ちまわったのだが、到るところで断わられてしまった。曰く、きみのものにはぴりっとしたところがない、と。
「きみのいうぴりっとしたというのは、どんなものだい?」とわたしは冷かし半分にたずねる。「お上品なのかね?」
 だが、やつらはそれさえわからない。で、おもに出版屋どものために、フランスものを翻訳してやったり、商人たちのために広告さえも書いてやる。「稀有の珍品! 自家用農園の葉を製したる紅茶……」といった調子だ。故ピョートル・マトヴェーエヴィチ閣下に対する頌詞を書いて、莫大なお礼をとった。『婦人に好かれる秘訣』を、ある出版屋の注文ででっち上げたこともある。まあ、こんな書物をわたしは生涯のうちに六冊ばかり出した。ヴォルテール式の寸鉄言をも蒐集しようと思っているが、わが国の読者には水っぽく思われやしないかと心配である。今どきいかなるヴォルテールがいるというのか、今日ではヴォルテールの代わりに、でくの坊が横行しているのだ。なけなしの歯をお互い同士ぶち抜き合うしまつだ! さて、そういったものがわたしの文学上の仕事である。せいぜい、一文にもならないのに、自分の名を完全に署名した手紙を、方々の編集局に送るくらいなものだ。指示や忠告を与えたり、批評したり、道を示してやったりしている。ある編集所へは、先週また手紙を送ったが、それはこの二か年間の勘定によると、まさに四十本めである。切手代だけでも四ルーブリも費ったものだ。わたしの性分は情けないものである、まったく。
 思うに画家は、文学のためでなく、わたしの額に対《つい》になっている二つの疣《いぼ》のために、わたしを描いたのだ。つまり、珍無類のしろ物だというわけである。思想なんてものはない。それは、目下さまざまな珍無類のしろ物に乗って横行している。いや、実際のところ、彼の描いた肖像画では、わたしの疣がなんとうまくいったことか、生けるがごとしである! これをすなわち彼らはレアリズムと呼んでいるのだ。
 だが、発狂ということになると、わが国では昨年、多くのものが狂人の刻印を打たれた。しかも、文句がふるっている、曰く、「これほどの先天的才能を有しながら……取後に如上のことが明白となった……もっとも、すでに以前から予想すべきことではあったけれど」……それはなかなか凝ったもので、純芸術の見地からしても、賞讃に値するくらいである。さて、ところで、彼らがとつぜん、前より賢くなって帰って来たのである。わが国では人を気ちがいにすることはしながら、まだだれも前より賢くしたものはない、それが問題なのだ。
 わたしの考えでは、月一度なりとも、自分で自分をばかと呼ぶ人が、だれよりいちばん賢いのである。――現代ではめったに聞かれない能力だ! もとはばか者が少なくとも年に一度なりと、自分で自分のことをばかと考えたものである。ところが、きょう日では決して、決して、事態がすっかり混乱してしまったので、もはやばか者と利口者の区別さえ立たなくなった。これは彼らが故意にやったことである。
 スペインのある頓知話が思い浮かべられる。フランス人が今から二世紀半の昔に、初めて瘋癲病院を建てた時、「彼らは自分が賢い人間であることを証明するために、ばか者を一人のこさず特別な建物へ押し込めてしまった」それはまったくの図星で、いくらほかの人を気ちがい病院に押し込めたところで、それによって、自分の賢さを証明したことにはならないのである。「Kは気ちがいになった、つまり、今ではわれわれが賢人なのだ」いやいや、まだそうは参らぬ。
 だが、ばかな……なんだってわたしは自分の知恵を吹聴しているのだ。ぶつぶつ不平ばかりいって、女中にまでうるさがられるようになってしまった。きのう友だちがやって来て、いうには、「きみの文章は変わったね、ぶつ切り文章じゃないか。ぶつり、ぶつり切れて、それから挿句が来る、するとその挿句にまた挿句がくっつく。それから、またぞろ何かを括弧に入れて、その次にはまたぶつり、ぶつりだ……」
 なるほど友人のいうとおりだ。わたしはどうも変なふうになっている。性質は変わっていくし、頭痛はするし、なんだか妙なことを見たり、聞いたりするようになった。声というのではないが、まるでだれかがわたしのそばで、「ボボーク、ボボーク、ボボーク!」といっているようなのである。
 いったいぜんたいボボークとはなんだろう? ひとつ気散じをしなければならない。
     ―――――――――――――――――
 気散じに少し歩いた後、ふと思い出して葬式に行った。遠い親威だ。ところで、彼は六等官なのである。未亡人、五人の娘、娘はみんなまだ嫁入前ときている。だから、靴だけにしてみたところで、どれだけのものにつくか知れやしない! 故人は一生懸命とりこんでいたが、今では鼻くそほどの年金しかない。遺族は間もなく尻っ尾を捲くに相違ない。わたしはいつもこの家で無愛想な扱いを受けていた。だから、こういう非常な場合でなかったら、わたしは今度も、出かけはしなかったろう。ほかの人たちの中にまじって墓地まで見送ったが、みんなはわたしを避けて、傲然としている。わたしの略服は、実際のところ、少々みすぼらしかったのである。二十五年間ばかりというもの、考えると、わたしは墓地に来たことがなかった。それにしても、これはまあなんというところだろう!
 まず第一、においがたまらない。十五人からの死人が一時にやって来たのだ。上等、下等、さまざまの覆い布、二つの贅沢な棺台さえあった。一つは将軍ので、もう一つはどこかの貴婦人のである。悲嘆に沈んだ顔もたくさんあったが、うわべばかりの悲しげなふうをしたのも多いし、明けっ放しに愉快そうな様子をしたのも多かった。坊主の連中は、文句なしだろう、収入になるからだ。しかし、におい、においがたまらない。ここのお寺様にはなりたくないものだ。
 自分の感受性をあまり大きく考えていなかったので、死人たちの顔をそっとのぞいてみた。もの優しい表情もあれば、不愉快なのもある。微笑しているのは概してよくない、中にはたまらなくいやなのさえある。真っ平だ、夢に見そうな気がする。
 礼拝式の最中に、息抜きに教会の外へ出た。空は灰色がかってはいたけれど、乾いた日であった。それに、寒くもある。もっとも、なにぶん、十月だから無理もない。墓の間を歩いてみた。種々雑多な等級がある。三級のは三十ルーブリで、体裁もいいし、お値段も高くない。一級と二級とは教会の中にあって、玄関の下になっているが、さて、それはお歯に合わない。三級にはこのとき六人の死者が葬られた。その中に将軍も婦人も交っている。
 墓穴の中をのぞいてみたが、実にひどい。水、しかもおそろしい水である。まったく緑色をしていて、それに……いちいちいったってしようがない! のべつ墓掘人が柄杓で汲み出している。わたしは外へ出て、式の間じゅう門の外をぶらついた。すぐそこには慈善院があって、少しさきには料理屋もある。ちょっとした相当な料理屋で、口直しでもなんでもできそうである。会葬者も多勢つめかけていた。盛んにはしゃいで、心から浮き浮きしているらしい。わたしはひと口たべて、いっぱい飲んだ。
 それから、棺を教会から墓へ移すのに、自分で手を下して手伝った。なぜ棺の中の死人はこんなに重くなるものか? 人の話によると、何かの惰性にしたがって、体がなんというか、自分で自分の釣合いを取ることができないとか……なんとかそういったようなばかげたことをいうが、そんなことは力学と健全な常識に矛盾している。わが国の人々は一般的な教養しかないのに、専門的なことに口出しをするが、わたしはそれを好まない。けれど、わが国ではそれがのべつ幕なしに見られるのである。文官が武官に関したことや、元帥に関係した事柄さえ論じたがる。また工業の教育を受けたものが、哲学や政治・経済のことをよけいに論じたがるものである。
 連禱の式へは行かなかった。わたしはこれでも意地の強い人間なので、特別な場合だというので、しぶしぶ人並みに扱われるようなところでは、たとえ葬式の際であろうとも、なんであんなやつらの饗応にのこのこ出かけて行くものか? ただなぜ墓地に残ったのか、それが自分ながらわからない。わたしは墓石に腰を下ろして、それ相応に考え込んだものである。
 まずモスクワの展覧会をふり出しに、一般のテーマとして「驚き」に関する考察で結んだ。「驚き」についてはわたしはこういう結論を引き出した。
「あらゆるものに驚嘆するのは、むろん、ばかな話である。そして、なにものにも驚嘆しないのは、はるかに美しいこととせられ、なぜかしら立派な態度だと認められている。しかし、はたして真実そのとおりであろうか。わたしの考えでは、なにものにも驚嘆しないということは、あらゆるものに驚嘆するよりはるかに愚かしいことである。のみならず、なにものにも驚嘆しないのは、たにものをも尊敬しないのとほとんど同じである。実際、愚かな人間は尊敬することもできないのだ」
「さよう、わたしは何よりも尊敬することを願っています。わたしは尊敬することを渇望しています[#「渇望しています」に傍点]」と知人の一人が、先日ふとわたしにいったことがある。
 彼は尊敬することを渇望している! そして、おお、――とわたしは考えた、――もしきみがそれを大胆不敵にも新聞雑誌に発表したら、それこそきみはどんな目にあうかわからないぞ!
 ここでわたしは忘我の境に入ったのである。わたしは墓碑銘を読むのを好まない。いつも決まって同じだからである。わたしのそばの平らな石の上には、サンドウィッチの食いさしが置いてある。ばかばかしいことだし、それに場所がらにふさわしくない。たたき落としてやった。なぜなら、それはパンではなくて、サンドウィッチにすぎないからである。けれども、地べたにパンを落として粉々にするのは、べつに罪なことではないらしい。それが床の上だと罪になる。スヴォーリンの年鑑を参照のこと。
 どうやら、わたしは長いことすわっていたらしい。あまり長すぎたくらいである。つまり、大理石の棺みたいな恰好をした、長い石の上に横になったのである。ふと、どうしてそうなったかわからないが、とつぜんいろいろなことが耳に入り始めた。初めのうちは注意も向けずばかにしきっていた。しかし、それにもかかわらず、不思議な会話は依然としてつづいた。聞いてみると、――それは陰《いん》にこもった話し声で、まるで口を枕で抑えているかのようである。が、にもかかわらずはっきりしていて、しかも非常に近い。わたしはわれに返ってすわり直し、注意ぶかく耳を傾け始めた。
「閣下、それじゃどうにもやりきれません、閣下はハートを宣言なさいました。で、わたしがそれを助けることになりました。するととつぜん、あなたの手にダイヤの七が出て来たんです。まず初めに、ダイヤのことを決めておかなければならなかったのです」
「なんだって、では、そらでやれっていうのかね? では、いったいどこに面白みがあるのだ?」
「いえ、閣下、保証というものなしには、決してやれるものではありません。ぜひばか者とやらねばいけません。そうして、ひとついんちきな配り方をしてやるんですな」
「ふん、ここにばかが都合よく見つかるものか」
 それにしても、なんという高慢な言葉だ! 不思議でもあり、また思いがけないことでもある。一つはいかにもおんもりした貫目のある声で、もう一つはなんとなく甘ったれたもの柔らかな声である。もし自分が実際に聞いたのでなければ、ほんとうにならないくらいであった。わたしは連禱には行かなかったはずである。しかし、それにしても、どうしてこんなところでプレフェランス(カルタ遊びの一種)をやっているのか、そして将軍とはそもそもなにものか? その声が墓の中から出て来るのは、ゆめ疑うところがなかった。わたしは身を屈めて、墓碑銘を読んだ。
「『*位勲*等功*級陸軍少将ペルヴォエードフの遺骸このところに眠る』ふむ。『本年八月没……享年五十七歳……親しき屍よ、喜ばしき朝まで休らえかし!』」
 ふむ、こいつあほんとうに将官だわい! 追従声が聞こえたほうのもう一つの墓には、まだ墓標がなかった。ただ平らな石が載っているきりで、たしか新仏に違いない。声の調子でみると七等官らしい。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」とまったく新しい声が、少将のところから五サージェン(一〇・五メートル)ばかり離れた、まだ真新しい土饅頭の中から聞こえた、――それは男性の平民らしい声であるが、うやうやしげな感じ入ったような調子に弱められていた。
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」
「おや、またあの男がしゃっくりをしてる!」とつぜん上流社会の入らしい、いらだたしい、噛んで吐き出すような、高慢な婦人の声が響いた。「あの小商人《こあきんど》に隣り合わすなんて、わたしはいったいなんの罰が当たったのでしょう!」
「わたしはべつにしゃっくりなんかしやしません。それに、べつに食べ物をいただきませんので。これはただわたしの生まれつきなんでして、――どうも、奥さん、あなたはその気ままのために、どうしても心をのんびりさせることがおできになれませんですね」
「では、なぜあんたはここへお休みになったんですの?」
「置いてくれたからでございます。家内や小さい子供たちが置いてくれたからなので。なにもわたしが自分で横になったわけではございません。つまり、死の秘密というものでございます! わたしはどんなことがあろうとも、どれほどお金をいただこうとも、あなたのおそばなんか、休み場所にしたくはないのでございます。けれど、値段に応じて、自分のふところと相談で、ここで横になっている次第なんで。なにぶん、わたしどもだって第三級の墓地料を払うぐらいのことは、いつでもできますからね」
「溜め込んだんだね。お客をごまかしたんだろう?」
「まあ、一月からこっち、まるでお払いくださらなかったんですもの、あなた様をごまかそうにも、ごまかしようがないじゃありませんか。あなた様の勘定書が、手前の店にちゃんとございます」
「まあ、なんてばからしい、わたしなんかにいわせれば、ここで貸金の取り立てをするなんて、ほんとにばからしいことですわ! 娑婆へ出て、姪にきいてごらんなさい、あれが後とりですから」
「なんの、今さらそんなことがきけるものですか。それに、どこへまいれましょう。二人とも、行くところまで行き着いてしまったんで、神様のおん前では、だれも同じように変わりのない罪人でございますよ」
「罪人ですって!」婦人の亡者は蔑むように口真似をした。「もうわたしに生意気な口をきくのはやめてちょうだい!」
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ!」
「なんといっても、商人のやつは奥さんのいうことを聞いておりますよ、閣下」
「いうことを聞かんはずがないじゃないか?」
「いや、もう、それはあたりまえの話でございますよ。閣下、つまり、ここには新しい規則がありますので」
「その新しい規則とはどんなものかね?」
「なにぶんにも、その、わたしたちは、いわば、死にましたので、閣下」
「ああ、そうだ! それにしても、やっぱり規則というものは……」
 いや、大きにありがとう。いやはや、とんだお慰みだ! ここでさえ話がもうこんなところまできたとすれば、娑婆のほうなどはいわずもがなである! とにかく、なんという話だ! が、大いに憤慨してはみたものの、なおも引きつづき耳を傾けていた。
     ―――――――――――――――――
「いや、ぼくはもう少し生きたかった! いや……ぼくは、その……ぼくはもう少し生きていたかった!」将軍と怒りっぼい奥さんとの間にあたるどこかで、ふいにだれかの新しい声が叫んだ。
「どうです、閣下、例の先生がまた同じことをいいだしましたぜ。三日問というものは黙って、黙って、黙り込んでいたくせに、とつぜん『ぼくはもう少し生きていたかった、いや、ぼくはもう少し生きていたかった!』とくる。しかも、どうでしょう、あんな激しい勢いで、ひ、ひ!」
「それに、軽薄な調子でな」
あいつだんだん腐ってきましてね、閣下、たんですよ、土がかぶさってきてるんです。すっかりかぶさってきてるんです。なにしろ、四月この方ですからね。それがだしぬけに『ぼくはもう少し生きていたかった』なんて!」
「だが、少々退屈だね」と、閣下がいった。
「少々退屈でございますね、閣下。またアヴドーチヤ・イグナーチェヴナでも、少しからかってみますかね、ひひ!」
「いいや、もうそれはご免をこうむりたいよ。あの喧嘩っ早いがなり屋は、我慢ができないよ」
「わたしこそあべこべに、あなたがたお二人には我慢ができませんよ」とがなり屋夫人が嚙んで吐き出すように、言葉を返した。「あなたがたこそ二人とも、くそ面白くもない人たちで、理想的なことったら、なに一つお話しになれないじゃありませんか。わたしはあなたのことを知っていますよ、閣下、――どうぞ高慢ぶらないでください、――わたしは知っていますよ、ある朝、あなたがよその奥さんの寝台の下から、下男に箒で追い出されたっていう、あの話をね」
「穢らわしい女だ!」と将軍は歯の間から押し出すようにいった。
「もし、アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ」と、またもや商人がふいに叫んだ。「ねえ、奥さん、昔の恨みは忘れて、底意なく聞かしてくださいませんか、いったいいまのわたしは地獄の苦しみをつぎつぎと受けているんでしょうか、それともなにかほかのことなんでしょうか。?………」
「ああ、あの男はまた同じことをいっている。わたしはどうもそんな気がしていたっけ。なにしろ、あまり男の臭いが鼻についてきたんでね、臭いが。それはきっとあの男がもがいている証拠なんだ!」
「奥さん、わたしはもがいてなんかいませんよ、それに、わたしはべつにこれという臭いを立てやしませんので。なぜって、わたしはまだ自分の体をそっくりそのままもたしているからですよ。それよりね、奥さん、あなたこそもう少し参りかかっていなさるんですよ。――だって、こんなところに住んでいてさえ、とてもたまらない臭いが、ぷんぷんしているんですからね。わたしはただ作法を守って黙っているだけですがね」
「ええ、なんていやらしい失礼な男だろう! 自分こそひどい臭いをぷんぷんさせているくせに。あの男はわたしにいいがかりをつけて」
「ほっ、ほっ、ほっ、ほっ! せめて四十日忌でも早くやってくればいいになあ。そしたら、涙にしめったみんなの声が頭の上で聞こえるのだがなあ、家内の啜り泣きや子供らの静かな泣き声が!………」
「まあ、あんなことをいって泣いてるよ、みんなは蜜飯(法事の時につくる飯で、乾葡萄を加え使者の霊前に供するもの)、そのまま行ってしまうだけのことさ。ああ、だれかまた目をさましてくれればいいのに!」
「アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ」と追従声の官吏がいいだした。「ちょっと待っててごらんなさい、いまに新参連が話しだしますから」
「その中に若い人たちがいますか?」
若い人たちもおりますよ、アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ、ほんの子供あがりさえもおりますよ」
「まあ、なんていい都合でしょう!」
「だが、どうしたんだ、まだ始めないじゃないか」と閣下がたずねた。
「だって、一昨日の連中でさえ、まだ目をさまさないのですよ、閣下。ごぞんじでしょうが、時によると、一週間も黙っていることがありますからね。しかし、昨日と一昨日と今日で、いっぺんにああたくさん運んで来たから、けっこうでしたよ。でなかったら、わたしたちのまわり十サージェン(約二十一メートル)四方というもの、去年の連中ばかりですからな」
「いや、面白い」
「ところで、閣下、今日は一等官のタラセーヴィチ閣下が埋葬されましたよ。わたしはみんなの話し声でそれとわかったのです。あの人の甥はわたしの知人でして、つい最前もその男が棺を下ろしました」
「ふむ、その方はどこに今いらっしゃるんだね?」
「閣下、あなたから五歩ばかり左手のところで。ほとんどあなたのお足もとといっていいくらいですよ……ちょっと、そのなんですな、閣下、お近づきになるとよろしゅうございますな」
「うむ、いや、――どうも……わたしが皮きりでは」
「なに、あの方がご自分から切り出しますよ、閣下。かえって光栄とされるくらいです。万事わたしに任してください。閣下、そしたらわたしが……」
「ああ、ああ……ああ、これはいったいどうしたのか?」とつぜん、だれかの新しい声が、驚いたように唸りだした。
「新参《しんまい》ですよ、閣下、新参ですよ。いいあんばいだった。なんという早いこと! 時によると、一週間も黙りこんでいるんですがね」
「まあ、若い人らしい!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが黄色い声を立てた。
「ぼくは……ぼくは……ぼくは併発症で、こんなにとつぜん!」とまたもや青年が、おぼつかない調子でいいだした。「前の晩にシュルツがぼくにむかって、あなたは併発症を起こしていますといったのだが、夜明け頃にぼくとつぜん、ころりと往ってしまったんです。ああ! ああ!」
「でも、仕方がありませんよ、お若い方」と将軍は憐れみ深そうに、とはいえ、明らかにこの新参を歓迎しながらいった。「諦めなければいけないね! いわゆる、わがヨサファートの谷へようこそおいでなさった、といわなくちゃなるまい。わたしたちは善人ぞろいだ、お近づきになったら、よくわかってくださるだろう。陸軍少将ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ペルヴォエードフというもので、いつでもお力になりましょう」
「ああ、いえ、いえ! いえ、いえ、ぼくそんなことは決して! ぼくはシュルツにかかっていたところが、急に、その併発症状になって、はじめは胸がつまって咳が出ていたものですが、それから冷え込んでしまって、胸のほうと流行性感冒と……そして、どうでしょう、とつぜん、まったく思いがけなく……なによりいけないことには、まったく唐突に」
「お話の模様ですと、まず最初に胸だったんですね」この新参を励ますように、官吏が優しく口を挿んだ。
「ええ、胸をやられて、痰に苦しめられたんです。それから、とつぜん痰が切れたと思うと、胸がつまって、息もできない……そして、おわかりでしょうが……」
「わかってます、わかってますよ。だが、もし胸のほうだったら、シュルツよりもむしろ、エークにおかかりになったほうがよかったでしょうに」
「いや、実はわたしはボートキンのところへ行こう行こう、と思っていたのですが……とつぜん……」
「だが、ボートキンはお歯にあわんでしょう」と将軍がいった。
「いえ、どうして、歯に合わないなんてことはありません、わたしの聞いたところでは、あの人は大へんに注意ぶかくって、なんでも前々からいってくれるそうです」
「閣下は値段のことをおっしゃったんですよ」と官吏が注を入れた。
「まあ、なにをおっしゃるんです、話に聞いたところでは、一切合切三ルーブリで、とてもよく診察して、処方をくれるそうです……で、わたしはぜひにと思ったんです、みながそういうものですからね……どうでしょう……皆さん、どちらにしたものでしょう。エークのほうにするか、ボートキンにするか?」
「なんですって? どこへ行くんだって?」愉快そうに大笑いしながら、将軍の死骸はゆらゆらと揺れだした。官吏は作り声でその笑いに同じた。
「かわいらしい坊ちゃん、かわいらしい、うれしい坊ちゃん、わたしお前さんが好きでたまらないわ!」とアグドーチヤ・イグナーチエグナが夢中になって、金切り声を立てた。「まあ、もしこんな人がわたしのそばへ置かれたらね!」
 いけない、わたしはもうこんなことを許してはおけない! これでも現代の死者なのか! けれど、もう少し聞くことにして、結論を急ぐまい。この男は鼻垂小僧の新参なのだ、――わたしはついさきほど棺の中にいた彼を思い出す、――その表情はびっくりした雛っ子のようで、世界中でこのうえもなく厭わしいものであった! だが、さきはどうなるか?
 しかし、そのさきはひどいてんやわんやで、わたしはとてもみながみな覚えていられなかった。やたらに大勢の死人が一度に目をさましたからである。五等官の官吏が目をさまして、某省における新しい小委員会の計画や、その小委員会におそらく伴なうべき官吏の更迭のことなどを、さっそくいきなり将軍と話しだしたが、それが大いに将軍の気をまぎらしたのである。ありていにいえば、わたし自身も多くの新しい事実を知ったので、さまざまな偶然によって、この首都における行政上の新事実を知ることができるものだと、一驚を吃した次第である。それから、ある技師が半分目をさました。けれど、いつまでも長いあいだ、まったく愚にもつかないことをしゃべっていたので、仲間の連中もそれに注意を向けず、そのまましばらく休ませておいた。最後に、今朝、棺台つきで埋葬された有名な貴婦人が、死後の目ざめの徴候を示した。レベジャートニコフ(なぜなら、将軍ペルヴォエードフのそばに陣取った、お世辞屋の、わたしの大きらいな七等官は、名前をレベジャートニコフといったからだ)が、恐ろしくあわてふためいて、びっくりしたものだから、今度はたちまち一同が目をさましたのである。正直なところ、わたしも驚いた。もっとも、目ざめたものの中のあるものは、まだついおととい埋葬されたばかりであった。例えば、一人の非常に年若な娘などがそれで、年ごろは十六くらいであったが、始終ひひひ笑いをしているのであった……いやらしい、淫乱な笑い方である。
「閣下、一等官のタラセーヴィチ閣下が、お目をさましていらっしゃいますよ!」とだしぬけにひどくあわてふためきながら、レベジャートニコフが報告した。
「あ? どうしたのか?」とつぜん目をさました一等官が、しゅうしゅうという歯洩れのする声で、吐き出すようにいった。その音の響きには、どこか気まぐれで権高なところがあった。わたしは好奇心をもって耳を澄ました。最近このタラセーヴィチについて、多少聞いたことがあるからで、――それはきわめて魅惑に富んだ、人の胸を騒がせる事実であった。
「手前でございます、閣下。さしむき今のところ、手前一人きりでございます」
「願いの筋はなんだ、なんの用かな?」
「ただ閣下のご機嫌を伺いたいとぞんじまして、ここではどなた様も不馴れのために、はじめは窮屈のようにお感じなさいますので……実はペルヴォエードフ将軍が、閣下とお近づきの光栄にあずかりたいと申されまして、願わくば……」
「聞いたことがないな」
「とんでもない、閣下、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ・ペルヴォエードフ将軍でございます……」
「あんたがペルヴォエードフ将軍かな?」
「いいえ、閣下、手前はやっと七等官のレベジャートニコフと申しまして、なにぶんよろしくお願い申しあげますが、実はペルヴォエードフ将軍が……」
「つまらんことを! わしにかまわんとおいてもらおう」
「かまいなさんな」とうとう、当のペルヴォエードフ将軍は、威をおびた声で、墓場における子分の見苦しいあわて方を押し止めた。
「まだよくお目ざめになっておりませんので、閣下、それを察してあげなければなりません。あれは不馴れのせいでございます。お目がさめれば、その時は別な態度になりますよ……」
「かまいなさんな」と将軍はまたくり返した。
     ―――――――――――――――――
「ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ! もし、あなた、閣下!」とつぜんアヴドーチヤ・イグナーチエヴナのすぐそばで、ぜんぜん新しい声がたかだかと性急に叫んだ、――それはいかにも旦那様然とした横柄な声で、いま流行のどこか疲れたような口のきき方をして、小生意気な抑揚をつけている。「わたしはあなたがた一同を、もう二時間ばかりも観察していたんです。なにしろ、三日もここに横になっていますのでね。あなたわたしを覚えていらっしゃいますか、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ? クリネーヴィチですよ、よくヴォロコンスキイさんのところで会いましたね、なぜだか知りませんけれど、あなたもあの家へ出入りを許されていましたね」
「ええ、ピョートル・ペトローヴィチ伯爵……ほんとうにあなたですか、……しかも、あれほどのお若さで……いやはやご愁傷のいたりですね!」
「ぼく自身も愁傷に思いますよ、だが、ぼくは要するに同じことです。ぼくはどこにいてもできるだけのものを引き出すつもりなんですから。ただし、伯爵じゃありません、男爵です、一介の男爵にすぎないのです。わたしの家は、どこの馬の骨とも知れぬけち臭い男爵で、下男あがりなんです。なぜだか知らないけれど、そんなことは糞くらえだ。ぼくはえせ上流社会の悪党にすぎないんで、『愛すべき若造』と思われています。ぼくの父は下っぱの将軍で、母はかつてen haut lieu(宮廷)に召されたこともあります! ぼくはジフェリというユダヤ人とぐるになって、昨年五万ルーブリの屓さつを作りましてね、それからやつを訴えてやった。ところが、金は全部ユーリカ・シャルパンチエ・ド・ルシニャンが、ボルドーへ持ち逃げしてしまったのです。それにどうでしょう、ぼくはもうすっかり婚約を済ませたところだったんです。相手はシチェヴァレーフスカヤという娘で、満十六歳にはまだ三月たりないという年頃、まだ女学校に通っていましたが、九万ルーブリばかりの持参金がついているのです。アヴドーチヤ・イグナーチエヴナ、覚えてますか、今から十五年前、ぼくがまだ十四の子供の時に、あなたがぼくを堕落させたのを?………」
「おや、じゃ、あれはお前さんなの、このやくざ者、お前さんがやって来たのは、神様のお引き合わせとはいいながら、でもこんなところで……」
「あなたがお隣りの商人をくさいにおいを立てるなどと疑われたのは、ありゃ間違っていますぜ……ぼくはただ黙って、笑っていましたがね。あれはぼくのにおいなんです。なにぶん、ぼくは棺を釘づけにして埋められたもんですから」
「まあ、なんていやな人だろう! でも、わたしやっぱりうれしいわ。あなたはよもやとお思いになるでしょうが、クリネーヴィチ、ほんとうにはなさらないでしょうが、ここには、それはそれは、生気と頓知というものが不足しているんですの」
「なるほど、なるほど、だから、ぼくもここへ何か奇抜なものを持ち込むつもりなんです。閣下、ぼくはあなたをお呼び申したのではありませんので、ペルヴォエードフ閣下、実はもう一人の閣下タラセーヴィチさん、一等官のお方を呼んだのです。ご返事をなすってください! あなたをマドモアゼル・フュリーのところへ斎戒《ものいみ》の日にお連れ申した、クリネーヴィチでございます、おわかりになりますか?」
「なるほど、わかりますよ、クリネーヴィチ君、そして大へんうれしい、それに、実際……」
「爪の垢ほども信ずるものか、糞くらえだ。ねえ、かわいいおじいさん、ぼくはあなたを、ところきらわず接吻してやりたいのだが、いいあんばいにそれができんのです。諸君、諸君はこのgrand-pere(おじいさん)が何をしでかしたかごぞんじですか、彼はおとといか、さきおとといかに死んだのです。ところが、どうでしょう、役所の金に四十万ルーブリも穴を明けっ放しにして来たんですよ!
 その金はやもめや、みなしごに向けられることになっていたのに、なぜかこの人が、お手盛にしておったのです。というのは、要するに、八年間も検閲を受けずにいたからです。今頃あちらでみんながどんな間抜け面をして、この人のことをどんなにいっているか、考えただけでも愉快ですな。まったくぞくぞくしてくるくらいじゃありませんか! ぼくは最後の一年間というもの、どうしてこんな七十にもなるお年寄りに、手も足も痛風に悩んでいる大年寄りに、相も変わらずこれほどの淫蕩に耽る精力が宿っているのかと、驚きとおしたものですが、今やっとその謎が解けました。この後家やみなしごたち、――こういった連中のことをちょっと考えてみただけでも、彼の情欲が燃え立ったに違いないのです!………ぼくはこのことをもうよほど前から知っていたんです。ぼくだけが知っていたんです、シャルパンチエがぼくにすっぱ抜いてくれたのです。それと知るや、ぼくは神聖週間に彼をつかまえて、友だちらしくざっくばらんにやったのです、『二万五千ルーブリくれたまえ。でないと、明日にも検閲に調べられるぞ』ところが、どうでしょう、先生そのとき、一万三千しか持ち合わせがなかったのです。だから、いま死んだのは大へんいい折だったわけです。grand-pere, grand-pere(おじいさん、おじいさん)聞こえますかね?」
「タリネーヴィチ君、わたしはすっかりお説に同意だけれど、どうも困るじゃないか……そんなこまごましいことを沸い立てるなんて。世の中には悩みや呵責はあれほど多いのに、報いというものは実に少ないもので……結局、わたしは安息をねがったのだ。それに、見受けたところ、ここの生活からでも、好きなものが引き出せそうな気がする……」
「わたしは賭けでもするが、あいつはもうカチーシ・ペレストーヴアを嗅ぎつけやがったに相違ない!」
「どこの?……どこのカチーシなんだい?」と老人の声がさも貪婪そうに顫《ふる》えだした。
「ははあ、どこのカチーシかですって? そら、ここの左手にいますよ、ぼくのところから五歩ばかり、あなたのところからは十歩ばかりのところにね。ここへ来てから、これでもう五日目になります。あなたはごぞんじないでしょうが、grand-pereあいつはひどい腐れ女なんです……良家の生まれで、教育もありながら、それでいて化生の者なんです、とてつもない妖怪なんですよ! ぼくは娑婆ではあの女をだれにも見せなかった、ぼくだけが知っていたんです……カテーシ、返事をしろよ!」
「ひひひ!」と若い女のひび割れたような声が応じたが、それにはどこか針で剌すような調子があった。「ひひひ!」
「金色の、髪をした、女かな?」と|おじいさん《グランペール》は声を句切り句切り、まわらぬ舌でいった。
「ひひひ!」
「わしは……わしはとうから……その」と老人は息を切らしながら、舌もつれをさせてしゃべりだした。「わしはブロンドの娘のことを空想するのが好きだったので……年は十五くらいかな……しかも、こんな時と場所で……」
「ああ、この狒々爺《ひひじじ》い!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが叫んだ。
「たくさんだ!」とクリネーヴィチがきっぱりいった。「こいつは素敵な材料らしい。ぼくらはここでさっそく具合よくおちつきましょうよ。かんじんなのは、残った時を愉快に送ることですな。が、それはどういう時なのでしょう? もし、レベジャートニコフとやらいうお役人さん、たしか、あなたはそんなお名前のように聞きましたが!」
「さよう、レベジャートニコフ、七等官で、セミョーン・エフセーイブチと申します。どうぞよろしくお願い申します。大へんに、大へんにうれしくぞんじます」
「あなたがうれしいなんて、そんなことは屁でもない。ただあなたはここのことをすっかりごぞんじらしいから、ひとつ聞かしてもらいましょう。まず第一に(わたしはもう昨日から不思議でたまらないんですが)、まあ、ぼくらがここで話しているのは、どんな具合なんでしょう? なんせ、ぼくらは死んだものじゃありませんか、それだのに話をしている、おまけに動いてもいるようです。そのくせ、話もしなければ、動いてもいないんですからね? なんというきてれつなことでしょう」
「そのことは、もしお望みとあれば、男爵、手前よりもプラトン・ニコラエヴィチのほうが上手に説明できるでしょう」
「そのプラトン・ニコラエヴィチというのは、いったいだれですか? 曖昧なことをいわないで、本題に入ってください」
プラトン・ニコラエヴィチというのは、この土地出来の哲学者で、自然科学者で、そして博士なんです。彼は哲学上の著述を幾冊か出しましたが、もうこれで三か月もまったく寝込んだきりなので、今では揺り起こすわけにもゆかないくらいです。一週間に一度ぐらいは、辻褄の合わないことをぶつぶついいだしますがね」
「本題に、本題に入ってください!………」
「彼の説明によりますと、われわれがまだ娑婆で生きていた時には、あちらの世界における死を、粗忽にもほんとうの死と考えていたからで、きわめて簡単な事実なんだそうです。肉体はここでもういちど生き返るというようなわけで、生命の残りが一つに集中する。けれど、それはただ意識の中だけです。これは――どうもなんといいあらわしたらいいのか、わたしにはわかりませんが、――まあ、生命が惰性にしたがって継続する、といったようなあんばいなんですね。彼の意見によりますと、すべてが意識内のどこかに集中されて、なお二、三か月……時には半年も継続するんです。……例えば、ここに一人の男がいます。もうほとんどまったく解体してしまったんですが、ちょうど六週間に一度だけ、とつぜんある一つの言葉をつぶやくのです。むろん、それはなんの意味もない言葉で、豆粒《ボボーク》がどうかしたというのです。『ボボーク、ボボーク』って。しかし、その男の中にも、つまり、生命が依然として、目に見えない火花のように燃えている証拠なんです……」
「かなりばかばかしいですな。ときに、ぼくはこのとおり嗅覚を持っていないのに、臭気を感ずるのはどうしたわけでしょう?」
「それは……へっへっ……まあ、そのことになると、わが哲学者どのも五里霧中になってしまったんで。嗅覚のこともいいましたよ。つまり、この世界でも臭気が感ぜられる。いわば精神的な臭いですな、――へっへっ! いわば魂の臭い、この二、三か月の間に目ざめんがための保証で……いってみれば、最後の恵みといったようなわけです……ただし、わたしにいわせれば、男爵、そんなことはすべて彼の状態として、大いにゆるさるべき神秘的な囈言《わたごと》にすぎないんです……」
「たくさんですよ、それからさきもきっと囈言にすぎないのだから。大切な点は、二か月か三か月生命が残っていても、結局は豆粒《ボボーク》になってしまうということなんですよ。ぼくはこの二か月をできるだけ面白く過ごすように、そしてそのために、なにかある別な基礎の上に立命することを提言しますよ。諸君! ぼくはなにものをも恥ずるなかれと提言します!」
「おお、なにものをも恥ずるなかれ、そうしよう、そうしましょうよ!」という多くの声々が聞こえた。そして、不思議なことには、ぜんぜん初耳の声さえも聞こえた、つまり、その間に新しく目をさましたものの声なのである。もうまったく目をさました技師は、特別の意気込みで、自分の賛意を太いバスで表示した。カチーシ嬢はうれしそうに、ひひひと笑いだした。
「ああ、わたしほんとうになに一つ恥ずかしがらないようにしたくって、たまらないのですよ!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが感きわまったように叫んだ。
「あれを聞きましたか、アヴドーチヤ・イグナーチエグナまでが、なに一つ恥としないなんていいだすんだから……」
「いえ、いえ、いえ、クリネーヴィチさん、わたしももとは恥ずかしがったものでした。わたしも娑婆ではやっぱり恥ずかしがったものです。でも、ここではわたしいっさい恥ずかしがらないようにしたくって、したくってたまらないんですの!」
「ぼくにはわかりますよ、クリネーヴィチさん」と技師はバスでいいだした。「あなたがここの生活を、いわば新しい、今度こそ合理的な基礎の上に築こうと提議なすった気持ちがね」
「なあに、そんなことは糞くらえだ! この点については、タジェヤーロフが来るのを待ちましょう、きのう運ばれて来た男ですよ。今に目がさめたら、諸君に何もかも説明することでしょうよ。彼は素晴らしい人物です。たいしたえらぶつです! 明日あたりは、また一人の自然科学者と、おそらく一人の将校が引きずられて来るはずです。また、ぼくの推察がはずれないとしたら、三、四日のうちに一人の雑文家が来ましょう、おそらく編集人といっしょにね。だが、あんなやつらなんか、どうでもいいや、しかし、われわれの仲間がひと塊りできあがって、なにもかも自然に具合よくゆくでしょうよ。けれど、今のところぼくはうそをつきたくない。ぼくはそれのみを希望しているんです。なぜって、それがいちばんかんじんなことですからね。地上では、生きていながらうそをつかぬということは不可能です。なにぶん、生活と虚偽とは同意語《シノニム》なんだから。だが、ここではお笑いぐさにうそをつかないことにしましょうよ。へん、ばかばかしい。墓へ来たら、ちっとばかり変わったことがあったっていいや! わたしたちは自分の身の上話をして、もうなんにも恥ずかしがらないことにしましょう。ぼくがまず第一に、自分の身の上を話しますよ。ぼくはね、肉食動物の仲間なんでね。娑婆では何もかも腐りきった繩で縛られていたんです。繩などおっぽり出してしまえ。この二か月の間は、思いきり破廉恥な真実の中に生きようじゃありませんか! 裸になろうじゃありませんか、素っ裸になろうじゃありませんか!」
「素っ裸になりましょう、素っ裸になりましょう!」と一同は声を揃えて叫びだした。
「わたしは裸になりたくって、なりたくって、たまらないのよ!」とアヴドーチヤ・イグナーチエヴナが、金切り声を立てた。
「ああ……ああ……ああ……どうやらここは面白くなるらしいぞ、ぼくはもうエークのところへなんか行きたくないや!」
「いいや、ぼくはもう少し生きていたかった、ああ、ぼくはもう少し生きていたかった!」
「ひひひ!」とカチーシが思い出し笑いをした。
「大切な点は、だれもわれわれをさし止め得ないことです。ペルヴォエードフさんが怒っているのはわかっているけれど、ぼくのところまで手が届かないから大丈夫だ。|おじいさん《グランペール》、賛成ですかね?」
「わしはまったく、それこそまったく賛成だよ、徹頭徹尾、異存がない。ただし、条件がある、まずカチーシさんから第一番に身の上話を始めてもらうことだ」
「反対だ! 徹頭徹尾、反対だ」断固としてペルヴォエードフ将軍がいった。
「閣下!」小悪党のレベジャートニコフが、あわただしい興奮した様子で、声を落としながらしゃべりだし、説き伏せにかかった。「閣下、わたしたちは賛成しておいたほうが、かえってとくじゃありませんか。今ここで、ねえ、あの娘が……それに、第一あのいろいろ風変わりな話も出て来て……」
「そりゃ、まあ、娘はいいにしても、しかし……」
「とくですよ、閣下、たしかにとくですよ! まあ、ほんの小手調べのためにでも、まあ、やってみようではありませんか……」
「墓場に来てさえも、静かにさせてくれやあしない!」
「第一に、将軍、あなたは墓の中でカルタなんかやってるじゃありませんか! 第二に、わたしたちはあなたを屁とも思ってないのです」とクリネーヴィチが気どって、抑揚をつけながらいった。
「あなた、それにしても、前後を忘れないように願います」
「なんだって、あなたはここまで手が届かないんだから、ぼくはここからあなたをユーリカの狆ころ同様、からかってやれるんですよ。それに第一、みなさん、この男をここで将軍といえますか? 娑婆ではなるほど将軍だったが、ここじゃ豚の脂です!」
「いいや、豚の脂ではない……わしはここでも……」
「ここへ来たら、あなたは棺の中で腐っていくきりなんだ。そして、あなたから残るものといったら、真鍮のボタン六つきりなんですよ」
「ひや、ひや、クリネーヴィチ君、はっはっは!」と一同の声が叫んだ。
「わしはわが陛下にお仕え申したのだぞ……わしには剣がある……」
「あなたの剣は鼠を刺すくらいなものでさあ。それに、一度だって抜いたことがない」
「そんなことはどっちだって同じだ。わたしはこれでも全軍の一部をなしておったのだ」
「全軍の一部にも、ぴんからきりまでありますからね」
「ひや、ひや、タリネーヴィチ君、ひや、ひや、はっはっは!」
「剣て、なんのことだか、わたしにはわからん」と技師が声高にいった。
「われわれは鼠のように、油虫油虫の異名をプロシヤ兵というのにかけた洒落)さえ恐れて逃げ出すんだ、そしてこっぱ微塵に蹂躙されるんだ!」とわたしには初耳の声が遠くのほうから、文字通り夢中になって、息をつまらしながら叫んだ。
「諸君、剣は、名誉のしるしでありますぞ!」と将軍は叫びかけたが、彼の言葉を聞き取ったのは、わたしだけであった。長い猛烈な咆哮や、反対の叫びや、騒然たるどよめきが湧きあがった。そして、アヴドーチヤ・イグナーチエグナのヒステリーじみるほど、いらいらした声が新しく聞き取れた。
「さあ、早く、早く! ああ、いつになったら、わたしたちはなんにも恥ずかしがらないようになるんでしょう!」
「おーほ、ほ、ほ! たしかに魂が地獄の試錬にかかっているんだ!」という平民の声が聞こえた。そして……
 けれど、ここでとつぜんわたしは嚏《くしゃみ》をした。これは思いがけなく、なんの底意もなしに出たのであるが、その効果は驚くばかりであった。なにもかも墓地らしく黙り込んで、夢のように消え失せてしまった。それこそほんとうに墓のごとき静寂がおそってきた。彼らがわたしの手前を恥じたとは考えられない。彼らはたった今、なにごとをも恥じないことに、衆議一決したのではないか? わたしは五分間ばかり待ってみたけれど、話し声ひとこと物音一つ聞こえなかった。彼らが警察に密訴されるのを恐れたのだとは、やはり想像するわけにゆかない。なぜなら、この場合、警察がはたして何をなし得ようか? そこで仕方なく、彼らには生きた人間の知らないある秘密があって、それをあらゆる生きた人間からひたすら匿そうとしているに違いない、とわたしは結論した次第である。
「さて、かわいい人たち、これからもまた訪ねてあげるよ」とわたしは考えた。そして、この言葉とともに、墓地を去ったのである。
     ―――――――――――――――――
 いや、わたしはこんなことを認めるわけにゆかない、いや、ほんとうにできないのである! わたしを当惑させたのはボボークではない(それはつまりボボークにすぎなかったのだ!)。
 ああいう場所における淫蕩、最後の希望の崩壊、腐ってぶよぶよした死屍の放縦、しかも意識に与えられた最後の瞬間さえ惜しもうとしないのだ! 彼らにはこの瞬間が与えられていたのだ! 賦与されていたのだ! そして……けれど重大な点は、重大な点というのは、それがかかる場所で行なわれたということである! いいや、わたしはとうていそんなことを認めるわけにゆかない……
 ほかの等級のところにも足を止めて、到るところで耳を傾けよう。つまり、概念を得んがためには、それこそまったく一つの片隅ばかりでなく、到るところで聞いてみなければならない。もしかしたら、慰安となるものに、ぶつかるかもしれない。
 あの連中のところへは、ぜひとももういちど行ってみよう。めいめい自分の身の上話や、いろいろな笑い話をするといっていたのだから。いやはや! だが、行くとしよう、ぜひとも行くとしよう、なにしろ良心の問題だから!
『グラジダニン』誌へ持って行こう。あそこでは一人の編集者の肖像画が、れいれいしく載せられたくらいだから。もしかしたら、掲載してくれるかもしれない。

   7 「受難の御顔」

 わたしは現代文学を少しばかり読んでみた。で、わが『グラジダニン』も、その誌上でこれに言及すべきだと感じたのである。しかし、わたしは批評家としてどんな資格を持っているだろう。実際、わたしは批評文を書こうと思ったけれど、