『カラマーゾフの兄弟』P150-153   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦57日目]

に対する考えを、あんな偉そうな調子で言ったのが恥しくもあった。
 こういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカチェリーナを一目見た時、彼の驚きはなおさら強かった。もしかしたら、あの時の考えがまるで誤っていたかもしれない、と感じたくらいである。いま彼女の顔はわざとならぬ善良な心持と、一本気な、熱しやすい真心に輝いていた。あの時あれほどまでにアリョーシャを驚かした、思いあがった傲慢な態度の中から、いまはただ勇敢で潔白なエネルギーと、はればれした力強い自信が窺われるばかりであった。愛する男との関係から生じた自分の位置の悲劇性《トラギズム》は、彼女にとって毫も秘密でないばかりか、彼女はもはや一切のことを、-何から何まで一切のことを承知しているのかもしれない。アリョーシャは彼女の顔を一目見、その声を一こと聞いたばかりで、こう直覚した。が、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明とがみちみちていた。
 アリョーシャは急に自分が彼女に、意識して重大な罪を犯しているように思われだした。彼は一瞬の間に征服せられ、牽きつけられてしまったのである。そのほか、彼はカチェリーナの最初の言葉を聞いたばかりで、彼女が何かしら異常な興奮、ほとんど歓喜ともいうべき興奮の状態にあることを見てとった。
「わたしがそんなにあなたをお待ちしていたわけはね、いま本当のことを聞かして下さるのはあなただけだからですの。ほかにそんな人は一人もありません!」
「僕が来たのは……」アリョーシャは、まごつきながら言い出した。「僕……兄さんの使いで来たのです……」
「ああ、兄さんがよこしなすったんですって? わたしもそうだろうと思ってましたわ。今はもう、何でもわかってますのよ、すっかり!」とカチェリーナは急に目を輝かしながら叫んだ。「あのね、アレクセイさん、わたしどういうわけで、そんなにあなたをお待ちしたかってことを、前もってお話しておきますわ。もしかしたら、わたしはあなたよりずっとたくさん、いろんなことを知ってるかもしれませんのよ。わたしがあなたから伺いたいのは、事実の報告じゃありません。あなたがご自身でお受けなすったあの人の最近の印象が知りたいんでございますの。どうか遠慮も飾り気もなく、あの人の近状を話して聞かして下さいませんか。無作法な話でもかまいません(えええ、いくら無作法な話でもようござんすわ!) 一たいあなたは今の兄さんを何とごらんになります? そして今日あなたと会ってから後の兄さんの状態を、何とごらんになりまして? これはわたしが自分であの人に話すよか、きっといいに相違ないと思いますわ。あの人はもうわたしのところへ来ないつもりでいるんです。わたしが何をあなたから望んでいるか、これでおわかりになりましたでしょう? さあ、今度はあの人が何用であなたを使いによこしなすったか(わたし必ずよこしなさるだろうと思ってましたわ!)どうぞ手短かに、一ばん肝心なところを聞かして下さいません!………」
「兄さんはあなたに……よろしく言ってくれ、もう今後決して足踏みしないから、……あなたによろしく言ってくれ……って申しました。」
「よろしく? あの人がそう言ったんですの、そのとおりの言い廻しをしたんですの?」
「ええ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしに言ったのかもしれませんね。間違って妙な言葉が、口に出たのかもしれませんわね。」
「いいえ、兄さんはこの『よろしく』という言葉を、ぜひ伝えてくれって言いつけたのです。忘れないように伝えてくれって、三度も念を押したのです。」
 カチェリーナはかっと赧くなった。
「アレクセイさん、どうぞわたしに一つ力添えをして下さいな。今こそ本当にあなたのご助力が必要なんですの、わたし自分の考えを言ってみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、おっしゃって下さいませんか。ようござんすか、もしあの人が何の気なしによろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり、特別この言葉に力を入れて、この言葉をぜひ伝えるように念を押さなかったのですと、それがもうすべてなのです……それで万事おしまいなのです! けれど、もしあの人が特別この言葉に念を押して、特別この『よろしく』を忘れないでわたしに伝えるように言いつけたのですと、あの人はつまり、興奮していたということになります。ひょっとしたら、前後を忘れていたのかもしれませんね。決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れているのです! 確かな足どりでわたしのそばを離れたのでなく、急な坂を走って下りたのです。この言葉に力を入れたのは、ただのから威張りだという証拠じゃないでしょうか……」
「そうです、そうです!」とアリョーシャは熱心に叫んだ。
「僕にも今そう思われます。」
「もしそうでしたら、あの人はまだ駄目じゃありません! ただ自暴になってるだけですから、わたしはあの人を救うことができます。それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブリのことをあなたに話しませんでしたか?」
「話したばかりじゃありません。これが一ばん烈しく兄さんを苦しめているらしいのです。兄さんはもうこうなっては、身の潔白まで奪われたのだから、どうなったって同じことだと言ってました」とアリョーシャは熱くなって叫んだ。彼は、自分の心にむらむらと希望が湧き起って来るのを感じ、本当に兄のために救済の道が開けだのかもしれない、というような気持がした。「しかし、あなたは一たい……あの金のことをご存じなんですか?」と言いたしたが、急に言葉を切ってしまった。
「とうから知ってますわ。正確に知ってますわ、わたしモスクワへ電報で問い合せて、お金が着いてないってことを、とうに知りました。あの人はお金を送らなかったのです、けれど、わたしは黙ってましたの。先週になって初めてあの人にお金のいったこと、そして今でもいることを知りました……わたしはこのことについて、ただ一つの目的を定めましたの。つまりあの人が、自分は結局誰の手へ帰ったらいいか、そして誰が自分の一ばん忠実な親友かってことを、悟ってくれるように仕向けたいのでございます。ところがあの人は、わたしがその一ばん忠実な友達だってことを、信じてくれないんですの。わたしの心を見抜こうとしないで、ただ女としてわたしを見ているのでございます。わたしはまる一週間、おそろしい心配に苦しめられました、――あの人が例の三千ルーブリの使い込みを恥と思わないようにするには、一たいまあどうしたらいいだろうと思いましてねえ。それはもう、世間の人や、自分自身に恥じるのはかまいませんけれど、わたしに恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様には少しも恥じないで、一切を打ち明けてるじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためにどんな辛抱でもできるってことを、なぜ今まで知ってくれないんでしょう? なぜ、なぜあの人にはわたしの心がわからないんでしょう? ああいうことがあった後だのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるのでしょう? わたしはどこまでもあの人を助けとうございます。あの人が許嫁としてのわたしを忘れたってかまいません! それだのに、あの人はわたしに対して、身の潔白なんか心配してるんですもの! だってねえ、アレクセイさん、あなたには何の恐れもなしに打ち明けたじゃありませんか。一たいわたしはどうして今まで、それだけのこともしてもらえないんでしょう?」
 終りのほうの言葉は涙の中から聞えてきた。涙が彼女の目からはふり落ちるのであった。
「僕はたったいま兄さんと父との間に起ったことを、あなたにお話しなきゃなりません」とアリョーシャも同様に顫える声で言った。彼はさきほどの一場をすっかり話した。金の使いで父のもとへ行ったこと、そこへ兄が闖入して、父を殴打したこと、そのあとで兄がとくにもう一度彼に向って、『よろしく』のことづけに念を押したこと、などを物語ったのである。
「兄さんはそれからあの女のところへ行きました……」と彼は低い声でつけたした。
「まあ、あなたはわたしがあのひとを嫌ってるとでも思ってらっしゃるの? 兄さんもそう思ってるのでしょうか、わたしあのひとが厭でえまらないなんて? けれど、兄さんはあのひとと結婚しませんよ。」ふいに彼女は神経的に笑いだした。「一たいカラマーゾフの人が、いつまでもあんな情欲に燃えることができるでしょうか! 丸え、あれは情欲ですわ、愛じゃありませんとも。兄さんは、結婚なんかしませんよ、だってあのひとが承知しませんもの……」突然またカチェリーナは奇妙な薄笑いをもらした。
「しかし、兄さんは結婚するかも知れませんよ」とアリョーシャは目を伏せながら、悲しげな調子でこう言った。
「いいえ、結婚しません、わたし受け合いますわ!」
 あの娘さんはまるで天使のような人ですよ、あなたそれをご存じ? あなたそれをご存じ?」突然カチェリーナは異常な熱をおびた声で叫んだ。「あの娘さんはまったくほかに類のないくらい、ロマンティックな人なんですよ! わたし、あのひとがずいぶん誘惑の力を持っているのも知ってますが、またあのひとが親切でしっかりしていて、しかも高尚な娘さんだってことも承知しています。何だってあなたそんな目をして、わたしをごらんなさるんですの? 大方わたしの言うことにびっくりなすったのでしょう、たぶんわたしの言うことを本当になさらないんでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!(グルーシャの正確な呼び方)」とふいに彼女は次の間に向って、こう誰かを呼びかけた。「こっちへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのはアリョーシャですよ。もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、こちらへ出て挨拶をなさいな!」
「わたしカーテンの陰で、あなたが呼んで下さるのを、今か今かと待ってましたのよ」という幾分あまったるいくらい優しい女の声が聞えた。
 と、とばりがもちあがって……当のグルーシェンカが嬉しそうに笑いながらテーブルに近づいた。アリョーシャは腹の中がひっくり返ったような気がした。彼の目は女の方へ吸いつけられて、引き放すことができなかった。ああ、これがあの女なのだ。兄イヴァンが三十分まえに口をすべらして、『獣』と言ったあの恐ろしい女なのだ。そのくせ、いま彼の前に立っているのは、ちょっと見たところきわめてありふれた単純な女、人の好さそうな愛くるしい女であった。かりに美人であるとしても、美しいけれど『ありふれた』世間一般の女に似たり寄ったりの美人であった。しかし、何といっても美しいには相違ない、非常にと言ってもいいくらいである……つまり、多くの人から夢中になるくらい愛される、ロシヤ式の美しさであった。彼女はかなり背の高い女であったが、しかし、カチェリーナよりはちょっと低かった(カチェリーナはずぬけて背の高いほうであった)。肉つきはいい方で、体の運動などは、ほとんど音を立てないほど柔かであったが、やはり声と同じように、甘ったるい感じがするくらい、わざとらしくしなしなしていた。
 彼女は、カチェリーナみたいに力の籠った大胆な足どりでなく、反対に音の立たないようにして近づいたのである。その足は床に触れてもまるで音が聞えなかった。彼女は洒落た黒い絹の着物を柔かに鳴らしながら、柔かに肘椅子に腰をおろし、高価な黒い毛織の襟巻で、泡のように白いむっちりした頸と、幅のある肩を、しなしなした手つきでくるんだ。 彼女は二十二であったが、その顔はきっちりこの年齢に相応していた。上品な薄ばら色がほんのりとさして、抜けるほど白い顔の輪郭は、どっちかと言えば帽広なほうで、下頤は心もちそり加減なくらいである。上唇はごく薄かったが、やや突き出た下唇は二層倍も厚くて、脹れぼったかった。しかし、類のないふさふさした暗色《あんしょく》の髪と、黒貂《こくてん》のように黒い眉と、睫の長い灰色がかった空色をした美しい目とは、どんなに雑沓した人込みの中を散歩している気のないそわそわした男でも、思わず視線を向けて、長くその印象を畳み込まずにいられないほどであった。この顔の中で最も強くアリョーシャを打ったのは、子供らしい開けっ放しの表情であった。彼女は子供のような目つきをして、何か知らないが、子供のように悦んでいる様子であった。事実、彼女はさも嬉しそうにテーブルへ近づいたが、その様子はちょうど、今にも何か変っ化ことがあるだろうと信じきって、子供らしい好奇心をいだきながら、じりじりして待ち受けているというようなふうであった。彼女の目つきにも、人の心を浮き立たせるようなところがあった、――アリョーシャもこれを直覚した。
 まだその上に彼女の中には、何とも説明することができないけれど、しかし無意識にそれとなく感じられるあるものがあっ化。それは例の肉体の運動が、柔かくしなやかで猫のように静かなことである。そのくせ、彼女は力の充ち溢れた体をしていた。ショールの下には、幅のある肥えた肩や、むっちり高い、まるでまだ処女のような乳房が感じられた。ことによったら、この体は将来ミロのヴィーナス(ルーヴル所蔵のギリシャ彫刻)の形をとるかもしれない。もっとも、それはもう今でも、その誇張されたプロポーションの中に予想されるのであった。ロシヤ女性美の研究家はグルーシェンカを見て、間違いなしにこういうことを予言し得るであろう、ほかではない、このいきいきしたまだ処女の