『市民科学者として生きる』『原発事故はなぜくりかすのか』(高木仁三郎)の精読
テキストを「文化」で検索すると、最後の章は「文化」が「安全」とセットになっていることがわかる。
市民科学者として、とよみくらべると、何か重要なものがちがっている。
高木先生が東海村臨界事故にこれほどおどろいたことに、わたしは感動した。
第三章、他に類のない文章。なぜ注目されないのか?
「これは少々独断的なタイトルでお叱りを受けるかもしれないと覚悟しています。」(第三章)
「一八・八%の濃縮ウラン(略)バケツ一杯でも放射能は弱いとは言えません。」(第三章)
第七章、インターネット文化との比較が必要(生命科学も)。インターネットに安全文化がない、または軽視されているのは当然なのか?
「つまり、技術というものに対する考え方、その像が、根本的にゆがんでいる、間違っている、変質しているところに起因しているのです。」(第七章)
インターネットで入手できる情報、とはいったいなにか? たとえば、『こころ』と『人間失格』は、「インターネットで入手できる情報」なのか? 『細雪』と『幻影城』は?
紙に書いてあるものをインターネットに書き写す作業が必要だということを、どうして覚えられないのだろう?
索引
第1章
第2章
第3章 シーボーグ マンハッタン計画 人体実験 一ppt セシウム―137 ポロニウム―210
第4章 仏師 仏像
第5章
第6章
第7章
目次
はじめに
臨界事故
青い閃光
八月六日
峠三吉の詩
饒舌な報告書1 議論なし、批判なし、思想なし
安全神話の崩壊
安全文化
原子力文化
安全第一
自己点検のなさ
原子力産業の状況
さまざまな用途の研究
相互批判なし
議論なし、思想なし
原子力の導入の歴史
原子力村の形成
奇妙なブーム
ある経験2 押しつけられた運命共同体
国家まかせ
大事故の評価
トップダウン型の開発
サッカーにたとえると
「三ない主義」
「我が国」という発想
マイ・カントリー3 放射能を知らない原子力屋さん
バケツにウランの衝撃
物理屋さんと化学屋さん
放射化学屋の感覚
物理屋さんの感覚
自分の手で扱う
放射能は計算したより漏れ易い
事故調査委員会も化学抜き4 個人の中に見る「公」のなさ
パブリックな「私」
普遍性と没主体性
公益性と普遍性
仏師の公共性
技術の基本
原子力は特殊?
科学技術庁のいう公益性5 自己検証のなさ
自己検証のない原子力産業
事故に対する甘さ
自己検証型と防衛型
委員会への誘われ方
結論を内包した委員会
アカウンタビリティー
寄せ集め技術の危険性6 隠蔽から改ざんへ
隠蔽の時代
質的転換
技術にあってはならない改ざん
技術者なし7 技術者像の変貌
物の確かな感触
ヴァーチャルな世界
倫理的なバリアの欠如
新しい時代の技術者倫理綱領8 技術の向かうべきところ
トーンを変えた政府
JCOの事故の意味
技術の極致
現代技術の非武装化あとがきにかえて
友へ 高木仁三郎からの最後のメッセージ
高木さんを送る高木仁三郎・年譜