京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP025-P048

もう見わけもなにもつかないくらいなありさまにして、浅ましくほうり出しているのを、通りすがりにふと見つけたような時、いったいどんな憂愁と憤懣に胸を掻きむしられることか! なんの、なんの! われわれの時代はこんなふうじゃなかった、われわれの努力の目的はそんなものじゃなかった。どうしてどうして、まるっきり違っていた。わたしには少しも見わけがつかん……そのうちに、またわれわれの時代がやってきて、現代のふらついているいっさいの事物を、堅実な道へ引き戻してくれるに相違ない。そうでもなければ、いったいどうなることかわかりゃしない……』

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 ペテルブルグから帰るとすぐ、ヴァルヴァーラ夫人は自分の親友を外国へ『休息』にやった。それに、二人はしばらく別れている必要があるということを、夫人も心に悟ったのである。スチェパン氏は歓喜の情に燃えながら旅立った。『向こうへ行ったら、わたしは復活します!』と彼は叫んだ。『向こうへ行ったら、わたしも今度こそ学術の研究にとりかかります!』ところが、ベルリンへ着くと早々送って来た手紙には、またもやお定りの文句が並べてあった。『老生の心はすでに疲れはて申し候』こう彼はヴァルヴァーラ夫人に宛てて書いた。『老生はいっさいのことを微塵も忘れ申さず候。このベルリンにありては、すべてが老生の古き過去を思い起こさせ申し候。わが最初のよろこびとわが最初の悩みとを、思い起こさするをいかにすべき! ああ、彼女は今いずこにかある? かの二人の女《もの》はそもいずこにかある? ああ、汝《いまし》らは今いずこにか去りつる? いましらは腑甲斐なきわれの妻たるには、もったいなきばかり美しく、天使にも似たる女なりしよ! ああ、またわがいとし子はいずこをかさ迷える? しかして、われみずからは今いずこにかある、――鋼《はがね》のごとき力を持し、大磐石をも欺く毅然たる精神を有したる、昔のわれはそもいずこにかある! おお、今は正教を奉ずる一介の道化にすぎざるアンドレエフとやらんいえる髭むさき老爺すらも peut briser mon existence en deux(わが存在を真二つに打ち割り得るに非ずや)』というような類であった。
 ついでに、スチェパン氏の息子のことをいっておくが、氏が自分の息子を見たのは、後にも先にもたった二度しかない。一度は子供が生まれた時で、二度目は、さきごろ、もう一人前の青年となった息子が、大学へ入ろうというとき、ペテルブルグで会ったのである。それまでは、前にもちょっといっておいたとおり、ずっとO県の叔母さんの手もとで人となったのである。それはスクヴァレーシニキイから七百露里ほど離れた所で、費用はヴァルヴァーラ夫人が引き受けていた。アンドレエフとは何者かというに、これはただなんでもない、わたしたちの町の小商人だが、独学で考古学を修めたという変わり者で、ロシヤ古代の遺品を熱心に蒐集して、スチェパン氏とも時おり知識というより、むしろ主義上の鞘当をすることがあった。この胡麻塩ひげを生やして銀縁眼鏡をかけた相当地位のある商人が、スクヴァレーシニキイに隣り合ったスチェパン氏の小さな領内にある幾町歩かの森の採伐権を買い取りながら、その代金四百ルーブリを払わないのであった。もっとも、ヴァルヴァーラ夫人は自分の友人をベルリンへ送り出す際、十分の手当をしてやったのだが、スチェパン氏は出立前に、この四百ルーブリをたぶん内証の小遣いにとでも思ったのであろう、とくべつ当てにしていたので、アンドレエフがもう一月待ってくれと頼んだときには、泣きださないばかりであった。しかし、商人はこの延期に対しては、立派に権利をもっていたのだ。なぜというに、半年ばかり前スチェパン氏が非常に困っているとき、まとまった金を前払いで渡しておいたからである。
 ヴァルヴァーラ夫人は貪るように、この最初の手紙を読んだ。そして『かの二人の女《もの》はそもいずこにかある?』という叫びに鉛筆でアンダーラインを引いて、年月日をつけ、手箱の中へ入れ鍵をかけた。もちろん彼は亡くなった自分の二人の妻のことを思い出したのである。
 二度目にベルリンから届いた手紙では、歌の調子が少々違っていた。
『老生は日ごとに十二時間ずつ働きおり候(せめて十一時間くらいに遠慮しとけばいいのに、とヴァルヴァーラ夫人はつぶやいた)。図書館をあさり校合をなし、書抜きを作り、ここかしこと馳せ廻り、もろもろの教授たちを訪《おとな》うこと、これらが老生の仕事にこれ有り候。ドゥンダーソヴァ一家とも旧交を温め候が、ナジェージダ・ニコラエヴナの今にいたりても艶色を失わざるは、驚かるるばかりに候。貴女へよろしくとのことにござ候。その年若き夫を初め甥三人も、みなベルリン住まいにて、夜ごと夜ごと若き人々と共にしののめ近きまで語り明かし、アテネの夜な夜なもかくやと思わるるばかりに候。ただし、その似通いたるところは、優美にして洗練せられたる趣味の点のみなることを、ご承知くだされたく候。すべては気品にみち候いて、楽の音(主としてスペインふうの節奏)に耳を傾け、全人類の更生を夢み、永久の美にあくがれ、システィンのマドンナを語り、闇をつん裂く光明を空想いたし候。とは申せ、月に叢雲のたとえをいかにいたし候べき! おお、わが友よ、高潔にして信篤きわが友よ! 老生は常に貴女と心をともにし、老生の心身は貴女のものにこれ有り候。貴女とはいつ en tout pays(いかなる国にありても)離るることはこれなく候。かのペテルブルグ出発の際、身内の戦慄をとどめえずして、貴女とともに語りたる、dans le pays de Makar et de ses veaux(マカールとその子牛の国)にても厭いはこれなく候。老生はいま当時のことどもを、微笑とともに追憶いたしおり候。ああ、国境を越えてこの方、老生はいま幾十年来はじめて身の安泰と、あやしくも新たなる気分を味わい申し候……云々』
「ふん、みんな寝ごとだ!」とヴァルヴァーラ夫人は手紙をたたみながら、こう決めてしまった。「アテネの夜な夜なが、しののめまでも続くとしたら、一日に十二時間ずつも机に向かっているはずがない。いったい酔っぱらったあげくにでも書いたのかしら? それに、あのドゥンダーソヴァ、よくもまあずうずうしく、わたしによろしくなどといえたものだ。だけどまあ、あの人にもちっとは気保養さしたほうがいいのだ……」
 “Dans le pays de Makar et de ses veaux” の句は、『マカールの子牛を追うて来ぬところ』([#割り注]鳥も通わぬ国の意[#割り注終わり])というロシヤの諺を直訳したものである。スチェパン氏はロシヤの格言や固有の諺を、わざと間の抜けたフランス語に訳すことが時々あった。そのくせ、自分でははるか巧みに解釈することもできれば、翻訳する腕もあるのはもちろんだが、彼がこんなことをするのは、一種特別な見栄のためで、これを何か非常に気の利いたことのように思っているのであった。
 しかし、彼の気保養はほんの少しばかりの間だった。彼は四か月と辛抱しきれないで、尻に帆を上げるようにして、スクヴァレーシニキイヘ帰って来た。最後に届いた幾通かの彼の手紙は、遠く離れた友に対する感傷的な愛の訴えのみに埋められ、まったく形容でなく別離の涙に濡れていた。世の中にはまるで狆かなんぞのように、非常によく家に馴れつく性質の人がある。二人の親友の再会は歓喜にみちたものであった。が、二日の後すべてはもとのごとくに、いや、もとよりもなお単調に流れ始めた。
『ねえ、きみ』二週間たった時、スチェパン氏はわたしに向かって、ごく内証でこういった。『ねえ、わたしは自分にとって恐ろしい……新事実をきみにうち明けよう。Je suis un(わたしはただ一介の)居候にすぎないのだよ、et rien de plus! Mais r-r-rien de plus!(それっきりの者だよ! ま、まったくそれっきりの者なんだよ!)』

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 それから、この町の気分にも凪《なぎ》が生じて、その後ずうっと今日まで九年間つづいた。規則正しくくり返されるヒステリックの発作も、わたしの肩にもたれかかってのすすりなきも、いっこうわれわれ仲間の泰平な生活を妨げなかった。それどころか、むしろスチェパン氏がこの間にぶくぶく肥えていかないのが不思議なくらいであった。ただ変わったのは、彼の鼻が少し赤くなって、ますますお人好しの特色が著しくなったくらいのものである。
 だんだんと彼の周囲には、一つのサークルが形作られていったが、しかし、いつも人数は多くなかった。ヴァルヴァーラ夫人はあまりそのサークルに関係しなかったが、わたしたちは夫人を保護者に決めていた。ペテルブルグでこりごりした夫人は、すっかりこの町に腰を据えてしまって、冬は町の持家を住居とし、夏は郊外の領地に引き移ることに決めていた。最近七年間、つまり、今の県知事が赴任して来るまで、彼女はこの町の交際社会に素晴らしい勢力をもっていた。前県知事のイヴァン・オシッポヴィチは今でも町の人が忘れかねているほど優しい良二千石《りょうにせんせき》であったが、これがヴァルヴァーラ夫人の近い親戚に当たるうえ、むかし夫人の世話になったこともあるので、知事夫人などはヴァルヴァーラ夫人の機嫌でもそこねたら大変と、しじゅうびくびくものであった。夫人に対する県ぜんたいの崇拝は、苦々しく思われるくらい極度に達した。したがって、スチェパン氏にとっても万事都合がよかった。で、彼はクラブの一員となって、もったいぶった様子をしながら、カルタに負けてばかりいた。しかし、世間の人は単に『学者』として彼を見ていたけれど、とにかく一般の尊敬を受けていたのである。その後、ヴァルヴァーラ夫人が彼に別居を許すようになって以来、われわれはなおのこと自由になった。われわれは週に三度ずつ彼のところに集まったが、彼が惜気もなくシャンパンを振舞う時なぞは、とくに賑かであった。酒は例のアンドレエフの店で取ってきて、年に二度ずつヴァルヴァーラ夫人が勘定を取り寄せ、払いをすることになっていたが、その勘定日はたいていいつもスチェパン氏のヒステリイを起こす日であった。
 われわれのサークルで一ばん古いのは、リプーチンであった。これはもう中年の県庁役人だったが、大の自由主義者で、町でも無神論者で通っていた。二度目の細君は若い綺麗な女で、彼はこの女の持参金に目をつけてもらったのである。そのほか、彼は三人のだいぶ大きな娘を持っていた。家族の者は彼の前に慴伏してしまって、まるで押籠めも同様な暮らしをしていた。彼は恐ろしい吝嗇家《しまつや》で、ために俸給で小さな家も買い込めば、ちょっとした財産もこしらえていた。落ちつきのない男であるうえに、官位もごく低いところなので、町でもあまり人に尊敬せられず、上流ではてんで相手にされなかった。そのうえ、彼はあまねく知れ渡った中傷家で、一再ならずひどい目にあったことがある。なんでも一度はある将校、二度目はれっきとした一家の主人であるさる地主にやられたのである。しかし、わたしたちは彼の鋭い機知と、好奇心の強い性質と、一種特別な毒々しい快活な態度が好きだった。ヴァルヴァーラ夫人は彼を毛嫌いしていたにもかかわらず、彼はいつも巧みに夫人に取り入るのであった。
 夫人はまた、つい去年仲間に入ったばかりのシャートフも嫌いだった。シャートフは以前大学生だったが、ある学生騒動のために除名された。子供の時分は、スチェパン氏の教え子だった。もともと彼は、ヴァルヴァーラ夫人のかかえ百姓で同家の侍僕をしていたパーヴェル・フョードロフの子で、夫人には一方ならぬ世話になったのである。ところが、大学を逐《お》われたのち、真っ直ぐに夫人の手もとへ帰って来ないばかりか、当時夫人がわざわざ送った手紙に返事も出さないで、どこかの開けた商人の家へかかえられ、子供の教育を引き受けたために、夫人はその高慢な忘恩の振舞いを憤慨して、それ以来彼をゆるすことができないのである。彼はこの商人の家族とともに、家庭教師というよりも、むしろ書生という資格で外国へ乗り出した。彼は当時、矢も楯もたまらず、外国へ行きたかったのだ。彼のほかにも、ひとり女の家庭教師がついていた。これは出発直前に、値段の安いのが気に入って雇われたおてんばなロシヤ娘であったが、二た月ばかりたってから、商人は『女にあるまじき放縦な思想』をいだいているといって、この女を追ん出してしまった。すると、シャートフも女の跡を追って家を飛び出し、間もなくジュネーブでこの女と結婚した。二人は三月ばかりいっしょに暮らしたが、そののち互いになんの拘束も受けない自由の人として、別れ話になってしまった。原因はむろん貧のためである。それから長い間、どこということもなくヨーロッパじゅうさ迷い歩いた。人の話では、往来で靴磨きをしていたとか、ある港で担夫《かるこ》までしたとかいうことである。とうとう一年ばかり前に、もとの古巣へ立ち戻って、年とった伯母さんのところで暮らしたが、その伯母さんも一月たった後に、もう葬らなければならなかった。
 やはりヴァルヴァーラ夫人に養われながら、その寵児としてごく上品に育て上げられた妹のダーシャ([#割り注]ダーリヤ[#割り注終わり])とも、彼はきわめて遠々しくしていた。仲間のあいだでも、彼はむっつりとして口数が少なかったが、たまに自分の信念にさわられた時なぞは、病的にいらだってきて、恐ろしく不謹慎な口のきき方をする。『シャートフという男はまず縛りつけておいて、それから議論にかからなくちゃ駄目だよ』よくスチェパン氏はこういって戯れたが、しかし、彼はシャートフを愛していた。外国へ行っている間に、彼は以前の社会主義的な思想を根本から変えてしまって、一躍、正反対の極へ飛び移ったのである。彼はとつぜん何かある強い思想に心を射られると、もうすっかりそれに圧伏されてしまい、どうかすると、永久にその思想の威力を免れられないような、典型的ロシヤ人の一人であった。こうした連中はその思想の是非を判別できないで、ただ無性に信じてしまう。で、彼らの生活は、まるで上から落ちかかった石の下に敷かれて、半分押しひしがれながら、虫の息でぴくぴくしているような、そういう有様で過ぎてしまうのである。
 外貌からいっても、シャートフはよくその信念に相当していた。彼は無骨で、髪は白っぽい光沢《つや》を帯び、毛深くて、背が低く、肩幅が広くて、唇が厚く、白っぽい眉は欝陶しく垂れさがり、額にはいつも皺を寄せ、無愛想な何か恥じるような目は、しぶとそうに伏せられていた。彼の頭には、いつも一束の髪がぴんと突っ立っていて、どうしてもおとなしく臥《ね》ようとしなかった。年は二十七か八であった。
『あの男の家内が逃げ出したというのも、ちっとも不思議はありゃしません』ある時ヴァルヴァーラ夫人は、じっと彼の様子を見つめた後に、こんな批評を下したくらいである。
 彼はひどく貧乏だったけれど、みなりだけは、小綺麗にしようと苦心していた。今度もヴァルヴァーラ夫人の助力を求めようとしないで、本当にその時その時の出たとこ勝負で、口すぎをしていた。商人たちの家庭教師も勤めてみた。一度などは、小店の店番をしたこともあるし、その後ある手代の助手という資格で、汽船《ふね》に乗って行商に出ようとまでしたこともあった。けれど、出立の間際に病気したため沙汰やみとなった。実際、彼がどのくらいまで貧困に堪えていき、かつそれをいささかも意に介せずにいられるか、想像もむずかしいくらいであった。
 ヴァルヴァーラ夫人は彼の病後、そっと無名で百ルーブリの金を送った。しかし、彼はその秘密を察してしまったので、しばらく考えた後、その金を納め、夫人のもとへ礼におもむいた。夫人は夢中になってよろこんで彼を迎えた。が、ここでもまたあつかましく、夫人の期待を裏切った。鈍い目を伏せて床を眺めながら、馬鹿げた微笑を浮かべつつ、僅か五分ばかり坐っていたかと思うと、とつぜん夫人の話の最も佳境に入ったところを聞きさしに、つと立ちあがって、横向きに不器用なお辞儀をした。そして、きまり悪さにすっかりあがってしまい、行きがけの駄賃に、高価な飾りつきの仕事づくえを轟然と床の上に倒してばらばらに毀したまま、面目なさに生きた心地もなく逃げ出した。リプーチンは、そのとき彼がもとの暴君たる地主の手から出た百ルーブリの金を傲然と突き返さず、のめのめと受け取ったばかりか、おまけに、お礼にまで出かけたといって、後でひどく彼を責めた。彼は町はずれに孤独な生活を送って、仲間のものが行ってもよろこばなかった。スチェパン氏の家の集まりには絶えず顔を出して、新聞や書物を借りて行くのであった。
 スチェパン氏の家の集まりには、もう一人ヴィルギンスキイとやらいう若い男が出席した。土地の官吏で、いくらかシャートフに似たところがある。もっとも見かけは、すべての点においてまるで正反対の人間のように思われる。しかし、これもやはり『世帯持ち』であった。見ても気の毒になるほどおとなしい青年で(とはいえ、もう三十恰好の年輩である)、なかなか教育もあるけれど、どちらかといえば独学のほうである。彼は貧しい身の上で、おまけに女房持ちなので、役所で勤めながら細君の伯母や妹を養っている。細君をはじめその家の婦人連は、みんなきわめて最新の思想をいだいているが、それが少々下品に外へ現われるので、問題は別だが、まさにかつてスチェパン氏の用いた『巷に落ちたる理想』という評語に、似たようなものが感じられるのであった。この婦人連はいっさいのものを書物から取ってくるので、ペテルブルグあたりでわが進歩主義者の立てこもっている巣窟から出た漠然とした噂を耳にするが早いか、たとえその噂が『何もかもみんな窓の外へほうり出してしまえ』というような意味のものであっても、さっそくそれを実行しかねまじい勢いであった。madame ヴィルギンスキイはこの町で産婆をしていた。娘時分には、長いあいだペテルブルグに住んでいたのである。当のヴィルギンスキイはまれに見る心情潔白な人間で、わたしもあれ以上無垢な心的情熱を見たことがない。
『ぼくはけっして、けっしてこの明るい希望をなげうつようなことをしやしない』と彼はよく目を輝かしながらわたしにいった。この『明るい希望』のことをいいだす時には、彼はいつも秘密めかしく、半分ささやくような小さな声で、さも楽しげな表情を浮かべるのであった。彼はかなり背の高いほうであったが、恐ろしく痩せこけて、肩の辺なぞは見すぼらしいほど狭かった。髪は赤みがかった色合いを帯び、それが並みはずれて疎《うす》かった。彼のいだいているある種の意見に対するスチェパン氏の傲慢な嘲笑をも、すべて彼は素直にとって、ときどきひどく真面目な調子で反駁を始めるので、スチェパン氏もよく面くらうことがあった。氏は彼に優しく応対していた。もっとも、氏は彼ばかりでなくわれわれ一同に対しても、全体に父親らしい態度をとっていたのである。
「きみたちはみんな『月足らず』連中なんだよ」と彼はヴィルギンスキイに向かって、ふざけた調子でいった。「きみのような人たちはみんな……もっともね、ヴィルギンスキイ君、わたしはよくペテルブルグの 〔chez ces se'minaristes〕(神学生の間に)見受けるような視野の狭《せまあ》い物の見方を、きみがいだいているとは思わないが、それでもやはり『月足らず』の仲間だよ。シャートフは、月満ちて生まれた仲間に入りたくてたまらないのだが、あの男もやはり月足らずだよ」
「じゃ、わたしは?」リプーチンがきいた。
「きみはまあ、なんだね、黄金《おうごん》のごとき中庸をえたる人だ。どこへ行っても、うまく生活に適応することができる……ただし自分一流の方法でね」
 リプーチンは怒ってしまった。
 ヴィルギンスキイについてはこんな噂がある。そして、残念なことには、それがすこぶる確かなのだ。ほかでもない、彼の妻が正式な結婚をしてから一年もたたないうちに、だしぬけに彼に向かって、あなたはもう棄てられた人だ、わたしはレビャードキンに乗り換えます、と宣告した。このレビャードキンというのは、どこかよそからやって来たものであるが、後になって、どうも素姓の怪しい人間で、自分で吹聴しているような退職二等大尉でもなんでもない、ということがわかった。彼はただ髭を捻り廻して、酒を飲み、自分の頭で考え出しうる限りの、思いきって下品な馬鹿話をしゃべり立てるよりほか能のない男であった。この男はずうずうしくも、すぐに彼ら夫婦のところへ移って来て、ただほどうまいものはないというので、夫婦のところで食ったり寝たりした。そして、しまいには家の主人さえ上から見おろすような態度を取った。一説によると、ヴィルギンスキイは妻が彼に向かって、『あなたはもう棄てられた人だ』と宣告したとき、『ああ、ぼくは今まできみをただ愛していたにすぎないが、今は進んで尊敬する』といったそうだが、本当にこんな古代ローマ式な言葉が発しられたかどうか、すこぶる疑わしいものである。かえってそれどころか、しゃくり上げて泣いたという説さえあるくらいだ。二週間ばかりたったある時のこと、彼らは一家をあげて郊外の森へ、知人とともに茶を飲みに出かけた。ヴィルギンスキイはまるで熱病やみのようにはしゃいで、踊りの仲間にさえ加わったが、ふいに(その前に喧嘩などするようなこともなく)、カンカンのソロを踊っている巨人のようなレビャードキンの髪をいきなり引っつかんで、下のほうへ抑えつけながら、甲走った叫び声を上げたり、泣いたりしながら、めちゃめちゃに引き摺り廻した。巨人はふいをくらって、すっかり怯えあがってしまったので、引かれるままに身をまかせながら、初めからしまいまで少しも声を立てなかった。しかし、引き廻しがすんでから、彼は潔白な男子の熱烈な憤激を示して、かんかんに怒りだしたのである。ヴィルギンスキイは、その晩、夜っぴて、妻の前にひざまずいてゆるしを乞うたが、ついにゆるしをうることができなかった。それはなんといっても、レビャードキンのところへ謝罪に行くことを、がえんじなかったからである。おまけに、彼は妻に信念の微弱と、愚鈍を指摘された。ほかではない、彼が女と話をするとき、膝を突いたというのである。二等大尉は間もなく姿を隠してしまったが、最近にいたって、また妹を連れてこの町へ現われた。それには新たな目的があったのだが、そのことはまた後で話そう。
 こういうわけであるから、この哀れな『世帯持ち』が、われわれの仲間で息を継ぐために、われわれとの交遊を必要としたのも、けっして不思議はない。自分の家のことは、一度も口に出したことがない。ただ一度、わたしといっしょにスチェパン氏のところから帰る途中、遠廻しに自分の境遇を話しだしたが、すぐにわたしの手を取って、燃えるような調子で叫んだ。
「しかし、こんなことは大したことではない。これはただ一個人に関する出来事にすぎない。こんなことはけっして、けっして『共同の事業』の妨げにはならない!」
 わたしたちのサークルへは、また飛入りの客人もやって来た。リャームシンというユダヤ人も来たし、カルトゥゾフという大尉も出入りした。しばらくのあいだ、好奇心の盛んなある老人もよく出て来たが、これは死んでしまった。それから、リプーチンが、スウォンツェフスキという流刑のポーランド僧を連れて来たこともある。で、しばらくの間、われわれの主義にそむかないために、出入りを許していたが、やがてそれもやめてしまった。

[#6字下げ]9[#「9」は小見出し

 一ころ町でわたしたちのことを、放縦な思想と、淫蕩と、無神論の養成場のようにいい伝えたことがある。そうして、この噂はもういつか確固不易のものとなってしまった。ところが、われわれの間ではきわめて無邪気な、面白い、ぜんぜんロシヤ式な、陽気な、自由思想的饒舌が交換されるにすぎなかった。
『高級自由主義』と『高級自由主義者』、すなわちいっさいの目的を持たぬ自由主義者は、ロシヤにおいてのみ初めて見うるところである。スチェパン氏は、すべて機知に富んだ人の常として、聴き手を必要とした。そしてまた、自分は理想の宣伝という最上の義務をはたしているという、自意識が必要なのであった。そのほか、だれかといっしょにシャンパン酒を乾す必要もあったし、また酒の間にロシヤとか、『ロシヤ精神』とか、一般に神とか、また特殊のものとしてはロシヤの神とか、そういうものに関するある種の快活な思想を交換し合ったり、または一同に知れ渡ってだれでも暗記しているロシヤ式の猥雑な小話を、五十ぺんでも百ぺんでもくり返す必要があったのである。わたしたちはまた市井のかげ口めいた噂を、口にすることもあえて辞さなかった。そして、どうかすると、恐ろしくやかましい高尚な、道徳的宣告を下すこともあった。また時には、一般人類に関する話にも落ちていって、欧州や人類の未来の運命などを論ずることもあった。たとえば、あの大帝国主義を終わった後のフランスは、二等帝国の範疇に堕するに相違ない、しかも恐ろしく急にたやすく実現されるに相違ないと、きわめて教権的な態度で予言するような類《たぐい》である。法皇なんてものは、統一されたイタリアにおける単なる大僧正にすぎないということは、わたしたちの仲間でとっくの昔に決定されていた。そして、こうした千有余年の大問題も、この人道主義と工業と鉄道の時代にあって、一顧だに値せぬことと信じ込んだものである。しかし、『高級なるロシヤの自由主義者』は、これ以外に採るべき態度がないではないか。
 スチェパン氏はまた時に芸術を談じた。なかなか巧妙なものではあったが、やや抽象的に流れる憾《うら》みがあった。また時には、青年時代の友だちの話もしたが、それはすべて露国発達史上に名をとどめている人物であった。こういう人たちの話をする彼の態度は、感激と敬虔の調子を帯びていたが、いくぶん羨望の色がないでもなかった。退屈でたまらないような場合には、ピアノの名人のユダヤ人リャームシンが(これは郵便局の事務員で)、何か弾いて聞かせた。そして、その幕間《アントラクト》には豚の鳴き声だの、夕立の音だの、陣痛の後で赤ん坊の第一声の響き渡るところなど、真似て聞かせた。こんなことのためにだけ招かれている男なのである。またあまり飲み過ぎた時には(こんなことは、しょっちゅうでもないけれど、やはり時々あった)、リャームシンの伴奏で『マルセイエーズ』を合唱した。ただし出来のところはなんともいわれない。
 かの偉大なる二月十九日([#割り注]一八六一年、アレクサンドル二世の農奴解放令発布の日[#割り注終わり])は、歓喜に酔いながら迎えたばかりでなく、だいぶ前からこの日を祝うために、乾杯を重ねていたのである。それはもうずっと前のことで、その時分はまだシャートフも、ヴィルギンスキイもいなくって、スチェパン氏もヴァルヴァーラ夫人と一つ家に暮らしていた。この偉大なる日の四、五日前から、スチェパン氏は、例の少々不自然ではあるが、きわめて人口に膾炙した詩を、口癖のように口ずさんでいた。これはなんでも自由思想家の旧地主が作ったものである。

[#ここから2字下げ]
百姓が行く、斧を担いで
何かしら、恐ろしいことがありそうだ
[#ここで字下げ終わり]

 一々文句は覚えていないが、なんでもこんなふうだったと思う。これをヴァルヴァーラ夫人が小耳に挿んで、『馬鹿馬鹿しい、なんて馬鹿馬鹿しいことでしょう!』とどなりつけ、真っ赤になって出て行った。ちょうどこの場に居合わせたリプーチンが、皮肉な調子でスチェパン氏にいった。
「もし本当にもとのおかかえの百姓どもが、嬉しまぎれに地主の旦那様がたに対して、何か面白くないことでもしでかしたら、困りますなあ」
 こういって、彼は人差指で、自分の頸の廻りを一撫でした。
「友《シェラミ》よ」と、スチェパン氏は人のいい調子で答えた。「実際のところ、これは[#「これは」に傍点](と、人差指で頸の廻りの手真似をくり返しながら)、地主にとっても、またわれわれ全体に対しても、少しも益をもたらしゃしないよ。われわれの頭というやつは、むしろ理解の邪魔をしているくらいだが、それかといって、頭がなくなっては、何一つしでかせないからね」
 ついでにいっておくが、多くの人は勅令発布の日に、何かリプーチンの予言したような、異常な出来事が突発しやしないかと考えた。それがみんないわゆるロシヤ通、ロシヤ国民通なる連中だった。スチェパン氏もどうやらこの意見と同じらしかった。で、偉大なる日の前日には、突然ヴァルヴァーラ夫人に向かって、外国へやってもらいたいといいだしたほどである。つまり、心配になってきたのである。しかし、偉大なる日も過ぎて、その後またしばらくたったとき、再びスチェパン氏の唇には傲慢な微笑が浮かんだ。彼はわれわれをつかまえて、ロシヤ人ぜんたい、とくにロシヤの百姓の特性について、卓絶した意見を吐露して聞かせた。
「われわれはせっかちの癖として、百姓に対しても早まったことをしたのだ」と彼はその卓越した意見を結んだ。「われわれは彼らを一代の流行児としてしまった。文学のほうでも二、三年この方、彼らをまるで新しく発見した貴重品のように扱って、立派な一つの流派をこしらえ上げたくらいだ。われわれは虱だらけの頭に月桂冠をのっけたんだよ。ロシヤの村がまる千年の間に与えたものは、ただカマリンスキイ([#割り注]卑俗な農村の踊り[#割り注終わり])だけだ。優れた、純ロシヤ的な、しかも機知にも乏しくないある一人の優れた詩人が、初めてかの偉大なるラシェール([#割り注]有名なフランスの女優[#割り注終わり])を舞台に見た時、『わたしはこのラシェールを、一人の百姓と取り替えるのもいやだ!』と叫んだ。しかし、わたしはさらに進んで、『一人のラシェールと取っ替えっこなら、ロシヤの百姓をみんなやってしまう』という勇気があるね。もういいかげん冷静に物事を観察して、ロシヤ固有の粗野なタールの臭いと 〔Bouquet de l'impe'ratrice〕([#割り注]皇后の花束、香水の名[#割り注終わり])をいっしょにしないように気をつけてもいい頃だよ」
 リプーチンはさっそく同意したが、それでも一世の風潮に順行するためには、おのれの本意を曲げても、百姓を賞めなければならぬ、今では上流の婦人たちでさえ、『アントン・ゴレムイカ』([#割り注]グリゴローヴィチの農民小説[#割り注終わり])を読んで涙を流す有様であって、中にはパリからはるばると自分の支配人のところへ手紙を寄せ、今からさっそく百姓にできるだけ人道的な取り扱いをするようにと、いって来るものさえある由を述べた。
 一度こういうことがあった。しかも、まるでわざと誂えたように、アントン・ゴレムイカに関する噂が広がってからすぐ後のことだった。わたしたちの県内で、スクヴァレーシニキイから僅か十五露里ばかりしかない所で、ある奇怪な出来事が起こったので、当路者はあわてて軍隊まで派遣したものである。この時のスチェパン氏の心配は大変なもので、わたしたちさえもびっくりするほどだった。彼はもっともっと兵隊を送らなければならぬ、隣郡から電報で呼び寄せるがいい、などとクラブで呼号したり、県知事のところへ駆けつけて、自分はこの事件になんの関係もないと誓ったうえ、どうか古い記憶のために自分を巻き添えにしないでくれと頼んだり、自分のこの申告をペテルブルグのしかるべき筋へすぐさま報告するように、といいだしたりした。まあ、仕合わせと、この事件は無事にすんで、なんの結果をも見ずに落着したからいいようなものの、当時のスチェパン氏には、わたしもすっかり面くらってしまった。
 三年ばかりたって、人も知るごとく、みないっせいに国民性を口にするようになり、いわゆる『世論』なるものが生まれた。その時スチェパン氏はさんざんにこれを冷笑した。
「諸君《メザミ》よ」と彼はわたしたちに説いて聞かせた。「わが国民性なんてものは、かりにいま新聞などで喧しくいってるとおり、本当に生まれ出たものとしても、まだやっと小学校時代だよ。ドイツ学を基礎としたペテルシュール([#割り注]ピョートル大帝の起こした学校[#割り注終わり])あたりで、ドイツ語の本をかかえながら一生懸命に、いつもいつも変わりのないドイツ語の学課を暗記してるといったとこさ。そして、ドイツ人の教師は必要な場合、罰として膝をつかすこともあるんだよ。わたしはドイツ人の教師を賞めてやるよ。しかし、何事も起こらなかったというのが、一ばん確かなところさね。何ものも生まれなかったんだよ。そして、すべては旧態依然たりさ、つまり神の守護の下に生活してるのさ! わたしの意見では、ロシヤにとっては、pour notre sainte Russie(わが神聖なるロシヤにとっては)それでたくさんなんだよ。それに、このスラブ主義や国民性なんてものは、新しきものとなるべくあまりに[#「なるべくあまりに」はママ]古すぎるよ。もし強いて国民性がお望みなら、それは地主たち、しかもモスクワの地主たちのクラブの思いつき、というような形を取って現われたくらいのもので、ほかにはけっしてない現象だからね。もちろん、わたしはイーゴリ公時代([#割り注]十二世紀[#割り注終わり])のことをいってるんじゃないよ。そして、最後に注意すべきは、すべては安逸から生じるということだ。ロシヤではすべてが、善きにつけ、悪しきにつけ、すべて安逸から生まれるんだよ。何もかもロシヤ独特の地主的な、教養のある、愛すべき、気まぐれな安逸から生じるんだ。わたしは三万年間でも、このことを断言してはばからないね。いったいロシヤ人は、自分の労力で生活できない国民なんだ。ぜんたいなんだってあの連中は、ふいに天から降ってでも来たように、だしぬけに『生まれて来た』社会的意向なんてものを担いで、騒ぎ廻っているんだろう? 一つの意見を獲得するためには、何よりもまず第一に労力、自分自身の労力と、事業に対する自己の創意と、自分自身の実践が必要だということを、いったいあの連中は会得しないのかね? なんだって、ただで得られるものは一つもありゃしない。なんでも努力するんだね。そしたら、自分の意見をも持つことができる。ところが、われわれはけっして努力しないから、われわれに代わって今まで努力したものが、われわれに代わって自己の意見をも持ってくれる。それは依然として、例の西欧だ。例のドイツ人だ。つまり、二百年来のわれわれのお師範役なのだ。おまけにロシヤという国は、ドイツ人の力を借りずして、彼らの努力を待たずして、われわれの自力で解決するにはあまりに大きな謎なのだ。わたしももうこれで二十年間、警鐘を鳴らして働けと叫んでいる! この警報のために自分の一生を捧げて、馬鹿馬鹿しくもその効果を信じていたのだ。今ではもうそんなことを信じないけれど、警鐘は今でも鳴らしている。死ぬまで鳴らしつづけるつもりだ。人がわたしの法会《ほうえ》に鐘を鳴らしてくれるまで、縄が切れても鳴らしつづけるつもりだ!」
 悲しいかな! われわれはただ合槌を打つばかりであった。われわれはこの指導者の言にわけもなく喝采した、しかも夢中になって喝采した! 今でもこうした『愛すべき、機知に富んだ、自由主義的な』、古いロシヤ式のでたらめが、のべつその辺に響いていないだろうか、諸君もっていかんとなす?
 わが指導者は神を信じていた。「どうしてここの人がみな、わたしのことを不信心者と銘打ってしまったのか、とんと合点がいかないよ」ときどき彼はこう言いいいした。「わたしは神を信ずる。Mais distinguons(しかし断わっておくが)わたしはただわたしの中にあって自己を意識する存在物としてのみ、神を信じているのだ。実際うちのナスターシヤ(女中)や、どこかの地主などのように、『万一の用心のため』に、神を信ずるわけにはゆかないからね。それから、それからまた、かの親愛なるシャートフのような信じ方もできない、――いや、しかし、シャートフは勘定に入れまい。シャートフはモスクワのスラブ主義者のように、強制的[#「強制的」に傍点]に信じてるんだからね。そこでキリスト教はどうかというに、わたしは衷心からこれに尊敬をいだいてはいるけれど、しかし、キリスト教徒じゃない、わたしはどちらかというと、大ゲーテかまたは古代ギリシャ人のような古い異教徒なんだ。それは、キリスト教が女を解しなかったという、この一つだけでも立派な理由になるよ、このことは、――ジョルジュ・サンドがその天才的な作品の一つで、立派に指摘しているとおりだ。また礼拝だの、精進だの、その他なんだのかだのということにいたっては、どういうわけで人からそんなことを干渉されるのか、いっこうに合点がいかないよ。ここの告げ口屋どもがどんなに騒いだって、ジェスイット教徒なんかにはけっしてなろうと思わない。一八四七年のことだ。外国におったベリンスキイが、ゴーゴリにかの有名な手紙を寄せて、ゴーゴリが『なんだか妙な神なんてもの』を信じているといって、手きびしく非難したものだ。Entre nous soit dit(ここっきりの話だが)ゴーゴリが(当時のゴーゴリだよ!)この一節を読み……この手紙の全文を読み終わった瞬間以上に滑稽なものを、わたしはちょっと想像することができないよ! しかし、滑稽などいう感じは棄ててしまって(実際、わたしはことの本質には同感なんだからね)、直截に断言するが、こういう人たちこそ本当の人間だったのだ。彼らは自国民を愛することができた、自国民のために苦しむことができた、自国民のためにいっさいを犠牲にすることができた、しかもそれと同時に、必要な場合には、自国民に接近しないでいることができた、ある種の観念に対してはけっして仮借しない、という態度を取ることができた。まったくベリンスキイも、精進バターや、豌豆と大根の煮つけなどの中に、救いを求めることはできなかろうじゃないか!………」
 が、ここでシャートフが口をいれた。
「いや、あんな連中はけっして国民を愛したことはないです、国民のために苦しんだこともないです、何一つ犠牲にしたこともないです。いくらあの連中が自分の気休めに、そんなことを考えたって駄目です!」と彼は目を伏せたまま、じれったそうに椅子の上で体を捻じ向けながら、気むずかしげに唸るようにいった。
「え、それはあの人たちが、国民を愛しなかったというのかね!」とスチェパン氏が叫んだ。「おお、あの人たちがどんなにロシヤを愛していたか!」
「いや、ロシヤを愛したこともなけりゃ、国民を愛したこともありません」シャートフは目を光らせながら、負けずにわめいた。「自分の知らないものを、愛するわけにいきゃしません。ところが、あの連中はロシヤの国民について、てんで理解を持ってないのです! あの連中はみんな(そして、あなたもその仲間です)、ロシヤの国民というものを、指の間から覗いていたのです。ベリンスキイにいたってはことにそうです。それは、ゴーゴリに与えた彼の手紙でよくわかります。ベリンスキイはちょうどあのクルイロフの『もの好きや』と同じように、動物園に行っても象を見落とす組で、ただもう虫けら同然なフランスの社会主義者にばかり気を取られていたのです。で、結局、フランスの社会主義者を担いだだけで終わっています。しかも、ベリンスキイはあなた方のだれよりも、利口だったかもしれませんが、それでいて、やはりこんなものです! あなた方は人民を見落としたばかりでなく、陋劣きわまる侮蔑の態度で彼らに向かったのです、それはもうあなた方が人民なる言葉を、単にフランスの国民、それもただパリの市民だけと解釈して、ロシヤの人民がパリジャンのようでないのを恥じていられた、この事実のみに徴しても明らかです。ええ、それは赤裸々の事実です! 実際、人民を持たぬものは、神をも持たぬ人です! ぼくは正確に断言しますが、自国民を本当に理解することができなくって、これと連絡を失って行く者は、それと同時に国民的信仰をも失って、無神論者になるか、またはまるで無関心の人間になってしまいます。ええ、まったくですとも! これは、やがて実地に証明さるべき事実なのです。だからして、あなた方一同ならびにぼくら一同は、現在、いまわしい無神論者でないとすれば、すべての事物に無関心な、放埒なやくざ者にすぎないのです。スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたもやはりそうですよ。ぼくは少しもあなたを除外しません。いや、むしろあなたを目安に置いていったくらいです、いいですか!」
 たいていいつもこんなふうの独白をいった後で(彼はよくこんなことをやった)、シャートフはいきなり粗末な帽子を引っつかむと、そのまま戸口を目ざして飛び出したものである。彼はもう万事了した、自分とスチェパン氏との交遊は、これで永久に終わりを告げたのだと、固く信じきっていた。しかし、こちらはいつも機敏に彼を引き止めた。
「もういいかげんで和解しようじゃないか、シャートフ、きみもその面白い意見を吐いてしまったんだから、もういいじゃないか」さも人の好さそうな様子で、肘掛けいすから手を差し伸べながら、彼はこういった。
 無骨なくせに恥ずかしがりのシャートフは、優しい情愛めいた言語挙動が大嫌いだった。彼は外から見たところは、粗暴な男のようであったが、はらの中は非常にデリケートなところがあったらしい。しょっちゅう常軌を逸したことばかりしていたけれど、そのくせ、まずそれがために苦しむのは当人だった。スチェパン氏の言葉に対して、何か口の中でもぐもぐいいながら、一つところで熊かなんぞのように足踏みしているが、やがて突然、思いがけなくにたりと笑って、帽子をどこかわきのほうへ置く。そして、執念ぶかく地べたを見つめながら、元の椅子へ腰をおろすのであった。もちろん、すぐに酒が運ばれて、スチェパン氏は過去に活動した名士の記念とかなんとかいって、いい加減な祝杯の音頭を取る。

[#3字下げ]第2章 王子ハーリイ 縁談[#「第2章 王子ハーリイ 縁談」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 スチェパン氏のほかに、ヴァルヴァーラ夫人が心から傾倒している人物が、この地上にもう一人あった。それは夫人の一人息子、ニコライ・フセーヴォロドヴィチ・スタヴローギンである。この子のためにスチェパン氏も、養育者として招聘されたのである。少年はその時八つかそこらであったが、無分別な父親《てておや》スタヴローギン将軍は、当時すでにヴァルヴァーラ夫人と別居していたので、少年は母の保護一つの下に成長してきた。ここでスチェパン氏の長所として認めてやらなければならぬことがある。ほかではない、彼はこの少年をすっかり懐《なつ》けてしまう腕があったのである。しかも、そのいっさいの秘伝は、ただ彼自身子供だということにすぎない。当時わたしもまだいなかったので、彼は常に真実な友だちを要求していた。で、彼は少年がほんの僅かばかり成長するやいなや、すぐさま少しの顧慮もなく、この幼いものを自分の友だちにしてしまったのである。そして、自然と二人の間には、いささかの隔てもないようになった。彼はよく十か十一にしかならない友だちを、よる夜中わざわざ揺り起こして、辱しめられた自分の感情を涙ながらに披瀝したり、家庭内の秘密をうち明けたりして、それが実に許すべからざる行為だということには、いっこう気がつかないのであった。二人は両方から飛びかかって、だき合いながら泣いたものである。
 少年は、母が自分を非常に愛していることを知ってはいたけれど、彼自身のほうでそれほど母を愛していたかどうか、しごく疑わしいものであった。母はあまり彼を相手に話をしなかったし、また何事につけてもあまり干渉しなかったが、じっとうしろから見つめているような母の視線を、彼はいつも何かしら病的なほど自分の体に感ずるのであった。もっとも、夫人はわが子の教育や精神修養については、いっさいスチェパン氏にまかせきりであった。その頃は夫人も彼を絶対に信じていたので。しかし、この養育者は自分の生徒の神経を、いくらか弱くしたものと見なければなるまい。数え年十六になってから学習院《リセイ》へ入ったニコライは、ひなひなした体にあお白い顔をして、不思議なくらいもの静かで、ともすれば考え込みやすい青年であった(その後、彼はなみなみならぬ腕力で人を驚かすようになった)。またこの二人の友だちが、夜中に両方から飛びかかって、だき合いながら泣いたのも、つまらない家庭内の秘密談に関係したことばかりではない、というような想像も許されうるのであった。スチェパン氏は、少年の心の深い深い奥底に潜んでいる琴線に触れて、まだ漠としたものではあるけれど、かの神聖な永遠の憂悶の最初の感覚を、呼びさましたのである。選ばれたる霊魂の所有者は、ひと度この永遠の憂悶を味わい知ると、もはやその後けっして安価な満足に換えることを欲しなくなるものである(それどころか、たとえ根本的な満足がありうるとしても、むしろこの永遠の憂悶のほうをより多く尊重する、というような熱愛者もあるほどである)。が、何にしてもこの少年と教師とを、少し遅蒔きの嫌いはあったが、別々に引き離したのはいいことであった。
 学習院へ入ってから最初二年間は、この少年も休暇に田舎へやって来た。ヴァルヴァーラ夫人とスチェパン氏のペテルブルグ行きの時にも、彼はおりおり母夫人のところで催される文学会へ出席して、じっと耳を傾けながら、観察していた。口数は少ないほうで、依然としてもの静かな、遠慮ぶかい青年であった。スチェパン氏には以前同様な優しい注意をもって対したが、いくぶん控えめがちになって、高尚な話題や過去の追懐などは、なるべく避けるようにしていた。学校を卒業してから、彼は夫人の希望で軍務に従った。そして、間もなく、青年子弟の憧憬の的になっているさる近衛の騎兵連隊へ入った。しかし、軍服姿を母夫人に見せに来るようなことはなかった。そのうちペテルブルグからも、あまり手紙をよこさなくなった。ヴァルヴァーラ夫人は農奴解放の改革以来、領地の収入がどっと減って、最初のうちは、以前の半分にも足らぬほどであったが、それでも息子のところへは惜気もなく金を送ってやった。もっとも夫人は長い間の経済な生活で、少なからぬ金を蓄えてはいたのである。彼女は、ペテルブルグの上流社会におけるわが子の成功を、ひどく心にかけていた。自分の成功しえなかったものも、この将来有望な若い富裕な将校は、必ず獲得するに相違ない。事実、彼は、夫人などがもう夢にも見られないような人々と交遊を始め、いたるところで非常な歓迎を受けたのである。
 が、それから間もなくヴァルヴァーラ夫人の耳に、かなり奇怪な噂が入るようになった。急にこの青年が、どうしたことか気ちがいじみた放蕩を始めたのである。何もべつに博奕を打つとか、大酒を飲むとかいうわけではないが、もうまるで野獣のような放縦であった。競馬馬《けいばうま》に乗って人を踏み倒すとか、自分の関係している上流の貴婦人を衆人環視の間で侮辱するとか、そういう畜生同然の振舞いがしきりに噂された。とにかく、あまりに醜悪なあるものが、この事件の中に感じられた。そればかりでなく、おまけに、彼はひどい暴れ者で、喧嘩の押売りをしては、単に侮辱の快感を味わうために、他人を侮辱するとのことであった。ヴァルヴァーラ夫人は心配もすれば、悲しみもした。スチェパン氏は夫人を慰めて、これはあまりに豊富な肉体組織の最初の兇暴な発現にすぎぬ、そのうちに荒れ狂う海も鎮まるに相違ない、そして、この事件は沙翁の書いたハーリイ王子が、ファルスタッフやポインスやクイクリイ夫人と、遊蕩に耽った物語によく似ている、と述べた。ヴァルヴァーラ夫人はこの頃ともすれば、スチェパン氏に向かって、『馬鹿馬鹿しい、馬鹿な話です!』と一言できめつけるのがきまりになっていたが、今度ばかりはそんなことをいうどころか、かえって一心に耳を傾けて聞いていたが、後でもっと詳しく説明してほしいと、いいだした。そして、自分でも沙翁を取り出して、非常な注意を払いながら、この不朽の物語を通読した。けれど、この物語も、さして夫人の心を鎮めてはくれなかった。大して似寄ったところもなかったのである。夫人は自分の幾通かの問合わせの手紙に対する返事を熱病やみのように待っていた。返事はすぐに届いた。間もなく恐ろしい報知が伝えられたのである。ほかでもない、ハーリイ王子はほとんど一時に二つの決闘をした。しかも両方とも、罪はことごとく彼のほうにあった。そして、相手の一人はその場で即死させ、いま一人は不具者《かたわ》にしてしまって、その結果、とうとう裁判に付せられたとのことであった。ついに彼は官位特権剥奪のうえ、一兵卒の勤務を命ぜられ、ある普通師団の歩兵連隊へ左遷せられ、ようやく事件は落着したが、それも特別の思召しによる取り計らいであった。
 一八六三年([#割り注]コーカサス征伐戦[#割り注終わり])、彼は殊勲を現わす機会をえて、十字章を授けられたうえ、下士官に任ぜられ、その後、不思議なほど早く将校に復官した。そのあいだしじゅうヴァルヴァーラ夫人は都のほうへ、数百通の哀願の手紙を送ったのである。彼女はこういう非常な場合であるから、いくぶん自分の威厳を落とすのもあえて意としなかった。復官してから間もなく、ニコライはとつぜん辞表を出した。その時も彼はスクヴァレーシニキイヘ帰って来ないばかりか、母へ手紙さえよこさなくなった。とうとうわきのほうから手を廻して、彼がまた[#「また」はママ]ペテルブルグにいることを突き止めた。しかし、以前の社会にはまったく顔を出さないで、どこかへ身を隠したような具合であった。その後、彼がなんだか奇妙な仲間に入り込んで、ペテルブルグの屑の屑ともいうべき人たちとかかりあっている、ということを探り当てた。それは哀れな腰弁連中や、公然と人の袖に縋って歩く退職軍人や、酔っぱらいなどの仲間である。彼はこういう連中の薄汚い家庭を訪問したり、暗い洞穴のようなところに日泊り夜泊りしたり、なんともえたい[#「えたい」に傍点]の知れぬ路地の奥に沈湎《ちんめん》したり、ぼろぼろの着物を引き摺ってみたりした。しかも、そんなことをする以上、これが気に入ったものと見るより仕方がなかった。金のことでは母に無心をいわなかった。彼は、父スタヴローギン将軍の持村であった小さな領地を自分のものとしていて、いくらかの収入があったからである。もっとも、噂によると、彼はこの領地をサクソンあたりのドイツ人に貸してやったとのことである。とうとう母の切なる乞いによって、ハーリイ王子もこの町へ姿を現わすこととなった。このとき初めてわたしも彼の顔を見た。それまで一度も会ったことがなかったのである。
 それは年の頃二十五ばかりの、きわめて美しい青年であった。そして、白状するが、わたしはその美に打たれてしまった。わたしの予想していたところでは、放蕩のために腐蝕されつくして、傍へ寄るとぷんとウォートカの匂いでもしそうな、なんだか汚らしいごろつきに相違ないと思ったが、どうしてそれどころか、わたしの今まで見ただれよりも立ちまさって、優美な紳士なのであった。みなりは飛び切り立派で、ものごしは最も洗練された礼容に馴れた人でなければ、とても真似のできないほど垢抜けていた。びっくりしたのはわたし一人ではない。町じゅうの者がすべて面くらったのである。彼らも、もちろん、スタヴローギン氏の経歴をちゃんと承知していた。むしろ、どうしてそんなに、と思われるほど詳しく承知していた。しかも、何より驚くべきことには、彼らの伝えている噂が、半分くらい真実だったのである。
 町の貴婦人連は、この新来の客にすっかり正気を失ってしまった。彼らはかっきりと二派に別れたが、一方は神様のように彼を崇拝し、一方はさながら仇敵のように憎んだ。けれど、両方とも、彼のために正気を失っているのは同じであった。あの人の心にはおそらく、何か非常な秘密が潜んでいるのだろう、といって嬉しがる女もあれば、またある女は、彼が人殺しだというところがすっかり御意に召した。彼がきわめてしっかりした教育を受けてい、立派な知識を持っているということも、みんなにわかってきた。しかし、この町の人を驚かすには、あまり大した知識の必要がないのはもちろんである。けれど、彼はきわめて興味ある生活の根本問題を論議することもできた。そして、何より尊いのは、その論調がはなはだ周到なことである。ここに一つの不思議として述べておくが、ほとんど到着の第一日から、人々は彼を非常に頭の緻密な人と考えるようになった。彼はあまり口数が多くなく、きざなところなど微塵もないみやびやかな態度を備え、驚くばかりつつましやかであったが、同時にこの町のだれにも見られないほど大胆で、自信があった。町のハイカラ連は羨望の目をもって彼を眺めた。この貴公子の前へ出ると、彼らはまるで存在が認められなくなるのであった。
 彼の顔もわたしを驚かした。髪はなんだかあまりに黒々とし、薄色の目はなんだかあまりに落ちつきすまして明るく、顔色はなんだかあまりに白くしなやかで、頬のくれないはなんだかあまり鮮やかに澄んでいて、歯は真珠、唇は珊瑚のよう、一口にいえば、画に描いた美男子のようであるべきはずなのだが、それと同時に、なんとなく嫌悪を感じさせるようなところがある。人は彼の顔が仮面《めん》に似ているといった。が、また多くの人は、彼が恐ろしい腕力を持っているともいい伝えた。背はまあ高いというほうであろう。ヴァルヴァーラ夫人は、さも誇らしげに彼を眺めていたが、その表情にはいつも不安の色が見えた。彼はこの町で半年ばかり、ものうげにひっそりと、かなり気むずかしそうな日を送っていた。しかし、社交界へは顔を出して、この地方の町の儀礼を一生懸命に気をつけて守っていた。県知事とは父方の筋で親類に当たっているので、知事の家では近しい親戚として遇せられていた。けれど、何か月かたったとき、とつぜん野獣は爪をあらわしたのである。
 ここでちょっと括弧という体裁でいっておくが、わが愛すべきもの柔かな前県知事イヴァン・オシッポヴィチは、いくぶん女に似たところがあった(もっとも、女といっても良家の生まれで、立派な親類縁者を持っているほうなのだ)。彼がいつも仕事らしい仕事を少しもしないで、あの長いあいだ本県で知事の椅子を占めていたのも、右の性質で説明できると思う。客のもてなし振りのいいところからいっても、昔の暢気な時代の貴族団長くらいが相当しているので、今どきの厄介な時代における県知事などという柄ではない。市中ではいつも、県の支配をしているのはこの人でなく、ヴァルヴァーラ夫人だといい囃していた。もちろんこれは毒々しいほどうまい皮肉ではあるが、まるっきり根も葉もないことなのである。このことについて町の人は、もっともっと皮肉を撒き散らしているけれど、事実はそれと反対で、最近ヴァルヴァーラ夫人は、社会ぜんたいから深い尊敬を受けているにもかかわらず、とくに気をつけていっさいの高尚な仕事から遠ざかり、自分で決めた縄張りの中へ好んで閉じこもっていた。夫人は高尚な社会事業の代わりに、急に家政のほうへ身を入れ始めた。そして、二、三年間に自分の家の収入を、ほとんど以前と同じくらいの程度に持ち直したのである。以前の詩的な衝動(ペテルブルグ行き、雑誌発行のたぐい)は跡形もなく消えて、夫人はけちけちと溜めにかかった。スチェパン氏さえも別の家に住まいを借りることを許して、傍から遠ざけてしまった。もっとも、このことは当のスチェパン氏も望むところで、とうからいろんな口実の下に、夫人に許可を迫っていたのである。だんだんと彼は夫人のことを散文的な女、もしくはいっそうふざけた調子で、『わが散文的な友』と呼ぶようになった。もっとも、こんな冗談は、しばらく適当の折を見計らって、ごくていねいな調子を使わなければ、うっかり口には出さなかった。
 いま夫人にとって、わが子の帰来はまるで新しい希望か、または何か新しい空想の出現のごとく感じられるので、それはわれわれ友人一同もよく了解した。スチェパン氏はだれよりも一番に、これを感傷的に考えたのである。わが子に対する夫人の熱烈な愛情は、彼がペテルブルグの交際界で成功した頃からはじまり、奪官されて兵卒に成りさがったという報告を受け取った瞬間から、さらに強まったのである。けれども、見受けたところ、夫人は明らかに彼を恐れているらしく、その前へ出ると、まるで奴隷のようであった。そして、自分でもこうといい現わすことのできない、何かしら漠とした神秘めいたあるものを恐れている様子がありありと見えた。夫人は何やら思いめぐらしながら、謎でも解こうとするように、幾度となく目立たぬようにじっとニコラス([#割り注]ニコライのフランス風の呼び方[#割り注終わり])を見つめる……とふいに……野獣が思いがけなくその爪を現わしたのである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 わが王子はふいになんの原因もなく、土地の人に対して、二、三のゆるすべからざる暴行を働いた。しかも、その方法が、今までまるで聞いたこともない、なんともかともいいようのない、普通こういう場合に用いられるものと似ても似つかぬ、馬鹿馬鹿しい子供めいたもので、おまけになんのためにしたことやら、まるで理由がわからなかったのである。町のクラブでも、人の尊敬を受けている年寄り株の一人に、ピョートル・パーヴロヴィチ・ガガーノフという、もう相当の年輩で、なかなか功労のある人があったが、二こと目には、『いや、どうしてどうして、わしの鼻面を取って引き廻すことなんかできるものじゃない!』と、むきになっていい添える罪のない癖を持っていた。まあ、そんなことは少しも差支えないわけだが、あるときクラブで何か喧しい問題を論じているうち、彼はまた傍に集まっている一団のクラブ員(しかも相当に地位のある人たち)に向かって、このきまり文句を持ち出した。そのとき、少しわき寄りに立っていて、だれから話しかけられたというでもないニコライが、ふいにガガーノフの傍へよって、思いがけなく、二本指でしっかりと彼の鼻を抓み、広間の中を二、三歩ばかり引き廻したのである。彼がこのガガーノフ氏に憤懣を感じるなどということは、けっしてあろうはずがないから、これは純然たる子供じみた悪戯とでも解《と》らねばならぬが、それにしてもとうてい許すべからざる悪戯である。しかし、後での噂によるとその荒療治の瞬間、彼は妙に考え込んだらしい顔つきをして、『まるで気でもちがったよう』であった。これはずっと後に、いろんなことを照らし合わせて思い出したことである。初めはみんな憤激のあまり、第二の瞬間だけしか思い出さなかった。この時は彼も確かにいっさいのことを、ありのままに理解していたに相違ない。けれど、きまりの悪そうな顔でもするどころか、かえって意地悪い愉快げな微笑を浮かべて、『いささかも悔悟の色が見えなかった』。恐ろしい騒動が持ちあがった。人々は彼を取り囲んだ。ニコライはだれにも返事をせず、大声をあげてわめく連中の顔を、もの珍しげに見つめながら、あちらこちらと身を転じて、あたりを見廻すのであった。が、とうとう急にまた考え込むようなふうをして(少なくとも、そういい伝えている)、眉をひそめた。そして、辱しめられたガガーノフのほうへ、しっかりした足取りで歩み寄り、さもじれったそうに早口でこういった。
「あなたゆるしてください……どうして急にあんな気になったか、自分ながらまるでわからない……馬鹿げたことです……」
 謝罪の無造作な調子は、さらに新しい侮辱となった。叫び声はいっそう強く周囲に高まった。ニコライはひょいと肩をすくめて、出て行った。
 これらすべては、思いきり馬鹿げたことであった。その醜怪さにいたっては、言葉を用いるまでもない、――しかも、それはちょっと見には、初めから企んだ醜行のように思われた。したがって、それはまたこの町の社交界ぜんたいに対して企まれた、言語に絶した暴慢な侮辱でなければならぬ、こう人々はこの事件を解釈したのである。まず第一着手として、一同はすぐに満場一致でスタヴローギン氏をクラブから除名してしまった。それから、クラブ全会員の名で県知事に対して、『その委任せられたる行政上の権限をもって、さっそく猶予なしに(公式に裁判に付せられるのを待たず)、この有害な暴れ者、――都育ちのならずものを制縛し、それによってこの種の暴行を未然に防ぎ、町の身分ある階級の平安を守ってほしい』と申請することに決議した。このとき子供らしい憤りを発して、『実際スタヴローギン氏は、何か法の適用を受けるかもしれない』とつけ足すものもあった。まったく一同は、ヴァルヴァーラ夫人のことで、知事に皮肉るつもりで、このとおりの文句を準備した。そして、一種の快感を覚えながら、まだいろいろな文句をひねくり廻したものである。県知事はその時、ちょうど狙ったように町にいなかった。彼はあまりほど遠からぬ所に住んでいて、ついこの頃やもめになったばかりのある面白い女の家へ、子供の洗礼に出かけたのである(この女は妊娠ちゅう夫に死に別れたので)。しかし、彼がほどなく帰って来るのはわかっていた。知事の帰りを待っている暇に、辱しめられたる名士ガガーノフ氏のために、まるで凱旋式のような騒ぎをした。みんなでだきついて接吻するやら、町じゅうのものが彼の家を訪問するやら、はては賛成者を募集して、彼の名誉のために宴会を催す計画まで成立したが、これだけは彼の熱心な乞いによって、沙汰やみとなった、――おそらく生きた人が鼻面を取って引き廻されたのに、なにもお祝いなどする必要もなかろうということを、やっと悟ったのかもしれない。
 しかし、どうしてこんなことが起こったのだろう? どうしてこんなことが起こりえたのだろう? 注意すべきは、町じゅうのものがだれ一人として、この奇怪な振舞いを精神錯乱に帰するものがなかったことである。してみると、ニコライのような利発な人間から、かかる行為を期待する気持ちが、皆の心にあったものと見なければならぬ。わたしもこの事件をなんと説明してよいのか、いまだにわからないでいる。もっとも、その後まもなくまた別な事件が起こって、いっさいの事情を説明し、一同の心を落ちつかせたように思われたのは事実である。それから、もう一つつけ足しておこう、四年ばかりたった時、このクラブ事件に関するわたしの慎重な問いに対して、ニコライは眉をひそめながら、こう答えた。『ええ、ぼくもあの時はあまり健康でなかったものだから』しかし、そう先っ走りすることはいらない。
 けれど、あの当時、みんなでこの『暴れ者で都育ちのならずもの』に食ってかかったあの凄じい全般的な憎悪の爆発も、わたしにとっては不思議なくらいである。一同はあの事件の中に、町の社交界ぜんたいを一挙にして侮辱しようという高慢な企みと、どこまでも考え抜いたもくろみとを、発見せずにはおくまいと意気込んだ。実際、彼はだれに向いても、気に入りそうなことをいわなかった。いや、それどころか、むしろ自分に対して武器をとらすように仕向けたのである、――が、いったい、どういう方法を用いたのだろう? この事件が起こるまで、彼はかつて、だれとも諍《いさか》いをしたことがない。だれひとり侮辱したことがない。そして、その慇懃なことといったら、流行の絵から抜け出したナイト(もしそれが口でもきけるものとしたら)のようであった。たぶんその誇りの強い態度に、憎しみを感じたのだろう。初め夢中になって崇拝した町の婦人連でさえ、今は男子連以上に猛烈な叫びを発するようになった。
 ヴァルヴァーラ夫人は恐ろしく仰天してしまった。これは、夫人が後でスチェパン氏に告白したところだが、彼女はずっと前からこういうことを予想していた。もう半年も前から毎日のように、ちょうどこれと同じようなことを想像していた。これは生みの母の告白として、注目すべきものである。『始まった!』と彼女は身に戦慄を覚えながら考えた。クラブで恐ろしい出来事のあった翌朝、夫人は用心ぶかい、とはいえ決然たる態度で、わが子の詰問にかかった。けれど、その決心にも似ず、真っ青な顔をして、体じゅうわなわな慄わせていた。夫人は夜っぴてまんじりともせず、朝早くスチェパン氏のところへ相談に出かけて、そこでさめざめと泣きだしたほどである。彼女は今まで、人前で泣いたことなどなかったのである。夫人は、ニコラスが自分になんとかいってほしかった、せめてこうこうだとうち明けてくれても、罰は当たるまいにと悲しかった。いつも母に対して慇懃でうやうやしいニコラスは、しばらくのあいだ眉をひそめながら、ひどく真面目な様子をして聞いていたが、突然ひとことも返事しないで、母の手に接吻したまま、ぷいと出て行ってしまった。ところが、ちょうどその晩、またわざと狙ったように、新しい醜悪な事件が持ちあがった。これは前のにくらべるとだいぶ効果の弱い、やや平凡なものであったが、それでも一般の気分に促進されて、さらに市中の叫喚を高めたのである。
 ほかでもない、われわれの友だちのリプーチンが、貧乏籤を抽いたのである。彼はニコライが母夫人との対談を終えた直後にやって来て、今日は妻の誕生日だから、晩にぜひおいでを願いたいと、一心になって頼むのであった。ヴァルヴァーラ夫人は、わが子の交遊の方向が、こんな低いほうへさして行くのを、以前から胸をわななかせながら眺めていたが、このことについては、一言も注意する気力がなかった。彼はもうそれでなくとも、この町の第三流、――或いはもっとひどい階級と交際を始めていたが、もともとそういう傾向があるのだから仕方がない。彼は当のリプーチンとはよく会うけれど、その家へはまだ一度も行ったことがなかった。スタヴローギンは、今リプーチンが自分を招待するのは、昨夜のクラブ事件のためだなと見抜いてしまった。彼は土地の自由主義者として、この騒ぎで有頂天になっていた。そして、クラブの古老たちにはああいう待遇をするのが当然だ、これは実際いいことだと、心底から考えているのであった。ニコライは笑って、出席を約した。
 客は大勢あつまった。その顔ぶれは、華かなものではないが、賑かな連中であった。自尊心と羨望心の強いリプーチンは、年に僅か二度しか客を呼ばなかったが、その二回の招待日には金を惜しまなかった。最も上客のスチェパン氏は、病気で顔を見せなかった。茶が出、豊富な前菜《ザクースカ》が出、ウォートカが出た。三か所のテーブルでカルタが始まって、若い人たちは夜食を待つ間に、ピアノの伴奏で舞踏を始めた。ニコライはリプーチン夫人を招じて(非常にかわいい顔をした小柄な婦人だが、彼の前へ出ると、すっかりおどおどしていた)二|節《せつ》ばかり踊った後、並び合って坐りながら、いろんな話をして相手を笑わせた。やがて彼女の笑顔がいかにもかわいいのに気がつくと、とつぜん大勢の客のいる前で彼女の細腰を抱き寄せ、つづけざまに三どほど唇の真ん中へ、十分あまみを吸い取るように、遠慮なく接吻したのである。哀れな婦人は、驚きのあまり気絶してしまった。ニコライは帽子を取って、一座の動揺の中に呆然と突っ立っているリプーチンに近寄り、じっとその顔を見つめて、ちょっと自分でもどぎまぎしながら、早口に『怒らないでください』とつぶやいて、そのまま部屋を出てしまった。リプーチンはつづいて控え室から駆け出した。そして、手ずから外套を彼の手へ渡したりして、階段から会釈しながら見送ったものである。けれど、翌日この罪のない(比較的の話であるが)挿話の本体へ、かなり面白い後日譚がついたために、リプーチンは世間から一種の尊敬さえ受けるようになった。そして、彼はその尊敬を十分たくみに利用したのである。
 翌朝十時頃、スタヴローギン夫人の家へ、リプーチンの下女アガーフィヤが姿を現わした。これは年恰好三十ばかり、ざっくばらんな、元気のいい、赤い頬っぺたをした女であった。彼女はニコライに対して用事を頼まれて来たので、どうしても『旦那様にじきじきお目にかかりたい』といった。ニコライは頭痛がしてたまらなかったが、押して出て見た。ヴァルヴァーラ夫人はこの伝言披露の席に、うまく割り込んだ。
「セルゲイ・ヴァシーリッチ(つまりリプーチン)が」とアガーフィヤは元気のいい調子で切り出した。「まず第一に、旦那様へよろしく申し上げるように、とこうお言いつけでございました。そして、ご機嫌はいかがでいらっしゃいますか、昨日あの後どんなふうにお休みになりましたか、また今お気分はいかがでございますか、それをよく伺って来るように、とのことでございました、昨日あのことがあった後でね」
 ニコライはにやりと笑った。
「ああそうか、よくお礼をいってくれ。それからね、アガーフィヤ、帰ったら旦那様に、おれがあの人は町じゅうで一番かしこい人だといってたって、そう取り次いでおくれな」
「それについて、旦那様はこうお答えしろとおっしゃりました」とアガーフィヤはいっそう元気な調子で受け止めた。「そのことはあなた様から伺わなくとも、自分でよく承知しております。そして、あなたさまもご同様でいらっしゃるように望んでおります、とこうおっしゃってでございました」
「へえ! どうしてあの人はおれがお前にいうことを、ちゃんと見抜いてしまったんだろう?」
「どうして見抜かれましたか、そのへんはとんとわかりませんが、なんでもわたくしが外へ出て、横町をすっかり出きった時、うしろから旦那様がシャッポを冠らないで、わたくしを追っかけていらっしゃるのでございます。そして、『おい、アガーフィヤ、もし先方でやけ半分に、お前の旦那様は町じゅうで一番かしこい人だ、とこういうふうなことづけがあったら、お前すぐ忘れないでね、それは自分でよく承知しております、そしてあなたさまもご同様でいらっしゃるように望んでおります、とこう返答しろ』とおっしゃいましたので……」

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 ついに県知事との応対が実現せられた。もの柔かな愛すべきわがイヴァン・オシッポヴィチは、帰って来ると早々、クラブの人たちの火のように憤激した訴えを聞かされたのである。まったく、なんとか方法を講ずる必要があるのは疑いをいれないところだけれど、彼は少々当惑した。この客あしらいのいい老人も、やはりこの親戚の青年を幾分おそれていたのである。が、彼はニコライを説き伏せて、クラブに対しても、また侮辱を受けた当人に対しても、十分得心のゆくような謝罪をさせよう、場合によっては詫び証文でも入れさせようと決心した。それから、じっくりとすすめてこの地を出発させ、イタリアなりどこなり、見物にやろうと思ったのである。このとき彼が、スタヴローギンを待たせてある客間へ出て見ると(いつもなら親類というので、勝手に家じゅう歩き廻るのだが)、そこには子飼から育て上げたアリョーシャ・チェリャートニコフといって、官吏であると同時に知事の家族同様になっている男が、片隅のテーブルで小包の封を切っているし、次の間では広間に通じる扉に一番近い窓際で、主人の親友でもあれば元の同僚でもある、どこかよそからやって来た肥った丈夫そうな大佐が、『声《ゴーロス》』紙を読んでいた。もちろん、客間の出来事などにはいささかも注意を払わず、こちらへ背中を向けて坐っていた。知事は遠廻しに、ほとんどささやくような声でいいだしたが、いくぶんまごつき気味だった。ニコラスは恐ろしく無愛想な、いっこう親類らしくうち解けたところのない様子で、あおざめた顔をしながら、伏目がちに坐って、まるで烈しい痛みでもこらえているように、眉根を寄せて聞いていた。
「ニコラス、きみは優しい高潔な心情を持っている人だ」と老人はしまいにこういった。「きみは立派な教育を受けた人で、しじゅう上流の社会に出入りしていたんだし、またここでも模範的な挙動を示して、お母さん、――われわれ一同にとって大切な人、――を安心させていたのじゃないか……それが急にこんな奇怪な、世間から見て危険な色彩を帯びてくるというのは……ねえ、きみ、わたしはきみの家の親友として、また心からきみを愛する親類の老人としていうのだから、腹なぞ立てるべきじゃないよ……え、きみ、あんふう[#「あんふうに」はママ]社会上の約束や習慣をいっさい無視して、思いきり乱暴な行為を決行させた原因は、いったいなんだろう? あんな熱病に浮かされたようなとっぴな行為には、どんな意味があるんだろう?」
 ニコラスはいまいましい、じれったそうな表情で聞いていた。と、突然その目に何かしら狡猾な、人を馬鹿にしたような色がちらと浮かんだ。
「それじゃ、その原因というのをお話しましょう」と気むずかしそうな調子でこういって、彼はあたりを見廻しながら、知事の耳の傍ちかく身をかがめた。
 子飼のアリョーシャは、また三歩ばかり窓のほうへ遠のいたし、大佐は『声《ゴーロス》』を読みながら、咳払いしていた。憫むべし、老知事は正直に急いで耳を差し出した、――彼は極端に好奇心が強かったので。と、突然この瞬間、とうていあり得べからざる出来事が生じたのである。しかし、それも一方から見れば、ある点においてあまりに明瞭なことであった。ふいに老人は、ニコラスが何か面白い秘密でもささやくと思いのほか、こともあろうにだしぬけにかれの耳の上のほうを歯で咬えて、かなり強く締めつけるのを感じた。老人はびくりとして、思わず息を引いた。
「ニコラス、なんという悪洒落だ!」まるで自分のものと思われないような声で、彼は機械的にこう呻いた。
 アリョーシャと大佐は、まだなんにも気がつかなかった。それに、二人とも何も見えなかったので、主客は本当に何か耳打ちしているものと、最後まで信じていたのである。しかし、老人の恐ろしい顔つきは、二人に不安の念をいだかした。彼らはかねてうち合わせのとおり、飛んで行って力を貸したものか、それともいま少し待ったものか、どちらとも決しかねて、目をぱちくりさせながら、互いに顔を見合わせていた。ニコラスはそれに気がついたものか、前よりももっとひどくぎゅっと噛んだ。
「ニコラス、ニコラス!」と哀れな犠牲はまた呻いた。「さあ……冗談はもういいかげんにしてくれ……」
 もう一秒間もつづいたら、哀れな老人は驚きのあまり死んでしまったかもしれない。けれど、この無頼漢もさすがかわいそう[#「さすがかわいそう」はママ]になって、咬えた耳を放した。この死ぬような恐ろしい思いがものの一分間もつづいたので、老人はその後なにかの発作を起こしたほどである。けれど、三十分の後、ニコラスは捕縛されて、当分かりに営倉へ送られた。そして、独房へ閉じこめられ、戸口に特別歩哨を付せられた。これはなかなか思いきった処置であったが、もの柔かなわが長官も、すっかり腹を立ててしまって、いっさいの責任、――ヴァルヴァーラ夫人に対する責任すらも、一身に引き受けようと決心したのである。夫人が火急の用談のため、取るものも取りあえず、恐ろしく気をいら立たせながら、県知事のところへ駆けつけた時、彼は玄関口で面会を断わってしまった。これは町ぜんたいにとっての驚異であった。夫人は馬車から出ないでほとんどわれとわが身を疑いながら、そのまますごすごわが家へ引っ返した。
 けれど、ついにいっさいは解決された! それは夜中の二時であった。今まで驚くばかり静かに寝ていた囚人が、急に騒がしい物音を立て、拳で兇暴に扉を叩き始め、人間業と思われないような力をもって、扉の端から鉄の格子をもぎ放し、われとわが手を傷つけて、ガラスを打ち毀した。見張りの将校が部下を引きつれ、鍵を持って現場へ駆けつけ、乱暴者を取り抑えて縛り上げさせるため、監房の扉を開けるように命令したとき、彼が烈しい精神性の熱病に罹っていることを、初めて確かめたのである。で、彼は母夫人の手もとへ移された。すべては一度に明瞭となった。町の医者は三人とも、この病人が三日以前も同様に、熱に浮かされたような状態に落ちていたのは、容易に想像しうることだと意見を述べた。うち見たところ自意識もあれば、狡知も持っているようであるが、もはや理性も意志も健全なものでないということは、事実によって裏書きされたのである。こういうわけで、つまりリプーチンが真っ先に、ことの原因を洞察したことに