京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP097-P120

「きみの話があんまり意外なもんだから……」とスチェパン氏はへどもどした調子でいった。「わたしはどうも本当にならんよ……」
「まあ、待ってください、待ってください」と、まるで相手の言葉も耳に入らないようなふうで、リプーチンはさえぎった。「まあ、これで奥さんの心配も不安も、たいてい見当がつくでしょう。なにしろああいう高いところから、そんな重大問題をひっさげて、わたしみたいな人間に相談を持ちかけられるんですからな。それに、ご自分のほうから内密に頼むなどと、それほど卑下した態度に出るなんて、実になんといったらいいのでしょう? あなた、何かニコライ・フセーヴォロドウィチについて、意外な報知でもお聞きになりませんでしたか?」
「わたしは……そんな報知なんかまるで知らないよ……もう二、三日あわないから。しかし、きみにちょっと注意するが……」かろうじて思想を整頓しているようなふうつきで、スチェパン氏は吃り吃りこういった。「しかし、リプーチン君、きみにちょっと注意するが、――きみは内密にといってうち明けられた話を、今みんなの前で……」
「まったく内密にうち明けられたのです!………もしそんな……そんなことをすれば、神罰が立ちどころに当たりますよ……しかし、今ここで話したのが、それがいったい、どうだとおっしゃるんです? わたしたちはそんな水臭い仲ではないじゃありませんか。キリーロフ氏にしたって同じことですよ」
「わたしはその意見に賛成するわけにはいかないね。むろん、わたしたち三人は秘密を守るに相違ないが、第四人めのきみが心配だよ。わたしは何一つきみを信用することができないんだ!」
「それは全体なんのことです? わたしはだれよりも一ばん関係が深いんですよ。わたしは永久の感謝を約束されてるんですよ! ところで、わたしはこの問題について、一つ奇怪きわまる事実を指摘しようと思ってたんです。いや、奇怪というより、むしろ心理的な事実なんです。ほかじゃありませんが、ゆうべわたしは、ヴァルヴァーラ夫人の話から受けた感激に駆られて(わたしがどんな印象を受けたか、あなた方もお察しくださるでしょう)、キリーロフ氏のところへ行って、遠廻しに問いかけたもんです。つまり、『あなたは外国にいらっしゃる頃といい、またその前のペテルブルグ時代も、ニコライ・フセーヴォロドヴィチをごぞんじだったのですが、あの人の頭脳や能力について、どういう考えをお持ちですか?』とこうきいてみました。すると、この方のご返事は、例によって簡単です。曰く、『非常に細緻な頭脳と、判断力を持った人だ』とのことです。『あなたは長い年月の間に、何かその、思想の偏向というか、特殊な思想の形態というか、さもなくば、その、いわば精神錯乱の徴候に、お気がつかれましたか?』となんのことはない、ヴァルヴァーラ夫人の質問を、そのままこの方に持ち出してみたのですよ。すると、どうでしょう、キリーロフ氏はふいにじっと考え込んで、ちょうどいまと同じように顔を顰めるじゃありませんか。『そうだねえ、ぼくにもときどき思われることがあるよ』とこういわれるのですが、ねえ、考えてもごらんなさい、キリーロフ氏までなんだか変に思われるとすれば、本当はまあどうなんでしょう、え?」
「それは本当のことですか?」とスチェパン氏はキリーロフのほうを振り向いた。
「ぼくはこのことについて、口をききたくないのです」とキリーロフは急に首を上げて、目を光らしながら答えた。「リプーチン君、ぼくはきみの権利を否認するよ。きみはこの場合そんなことをしゃべる権利なんか持ってやしないんだから。ぼくはけっして自分の意見を、ぜんぶきみに洩らしたわけじゃない。もちろん、ぼくもスタヴローギンとはペテルブルグで知り合いになったが、それはもうずうっと前のことだからね。今度も会ったにゃ会ったけれど、ぼくがあの男について知るところははなはだ少ないのです。だから、どうかぼくだけは、この話の圏外に置いていただきたい、それに……こういう話はなんだかくだらない陰口めいてね」
 リプーチンは『罪なくして迫害される人』という表情で、両手を広げて見せた。
「告げ口屋ですかね! いっそのこと、間諜《いぬ》といってしまったらどうです? アレクセイ・ニールイチ、あなたなぞはいっさいの圏外に立って、冷静な批評をされるんだからけっこうなもんですよ。ところで、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはとても本当になさるまいけれど、あのレビャードキン大尉ですね、あれはその、なんです……馬鹿ですよ、馬鹿というのも恥ずかしいくらいな馬鹿なんです。ほら、こういう意味の程度を現わすロシヤ式の比較法があるでしょう。ところがですね、あの男はニコライ・フセーヴォロドヴィチから、侮辱を受けたように考えてるんですよ。そのくせ、あの方の機知には兜を脱いでしまって、『あの人にはまったく度胆を抜かれちゃった。まるで賢《さかし》き蛇だよ』(これはあの男の言葉そのままです)といってました。そこで、わたしは彼奴に向いて(その時もやはり昨日の感激の名ごりがあったし、それにキリーロフ氏と話した後のことでもあったのでね)、『どうだね、大尉、きみは自分の立場上どう考える、きみのいわゆる賢き蛇は気がちがってるだろうかね?』とたずねると、まあ、どうでしょう、まるでうしろから断わりなしに鞭でどやしつけられでもしたように、いきなり椅子から飛びあがるじゃありませんか。『そうだ……そうだ、しかし、それがためになんの影響もないだろう……』というのです。が、何に対する影響やら、そこのところははっきりいいませんでしたがね。それから、急に悲しそうな恰好をして、酒の酔いも一時に醒めはてた様子でしたよ。わたしたちは、フィリッポフの酒場に陣取っていたんですが、三十分ばかりもたったとき、先生、急に拳固でテーブルを叩いて『そうだ、或いは気がちがってるかもしれん。しかし、それがためになんの影響もないだろう……』といいだしたが、何に対する影響なのか、それはまたいわずにしまいました。もちろん、わたしは肝腎なところだけ取り次いでるんですが、いわんと欲するところはおわかりでしょう。だれに聞いてごらんになったって、頭に浮かぶ考えはこれ一つきりですよ。もっとも、以前はだれだって、そんなことを考えるものもなかったんですがね。『そうだ、気ちがいだ、非常に利口な人だが、しかし、まったく気ちがいかもしれん』とこうだれでも思いますよ」
 スチェパン氏はもの思う風情で、じっと坐ったまま、かれこれと一生懸命に思い合わせていた。
「ところで、レビャードキンは、どうして知ってるんだろう?」
「そのことなら、いまわたしに間諜《いぬ》よばわりをされたキリーロフ氏におたずねになったらいかがです。わたしは間諜《いぬ》でありながら何も知らないけれど、キリーロフ氏は底まで知りながら、黙り込んでいらっしゃる」
「ぼくはなんにも知りません、知ってるにしても、ごく僅かです」依然としていらだたしげな声で、技師は答えた。「きみは一つ何か嗅ぎ出すつもりで、レビャードキンを盛り潰そうとかかっているが、ぼくをここへ引っ張って来たのも、何か嗅ぎ出そうというつもりだったんだろう。ぼくに白状させるもくろみだったんだろう。してみれば、つまり間諜《いぬ》じゃないか」
「わたしはやつを盛り潰そうとしたことはありません。第一、あの男の秘密なんか、そんなお金をかける値打ちがありませんや。あなたはどうお思いか知らないけれど、わたしはあの男の秘密なんか、それくらいのものだと思ってますよ。それどころじゃない、あの男、十二日ばかり前には、わたしのところへやって来て、十五コペイカの無心をいったもんだが、今じゃ札びらを切ってるんですよ。シャンパンを奢ったのもわたしじゃありません、あの男なんですよ。しかし、あなたはいい思案を貸してくだすった。まったく必要に応じては、一つあの男を盛り潰してやりましょう、つまり、嗅ぎ出すためにね。そして、本当に嗅ぎ出してお目にかけましょう……あなたの秘密とかいうやつをね」とリプーチンは毒々しげに食ってかかった。
 スチェパン氏は相争える二人の者を、不審げに見まもっていた。二人とも自分の本音を吐きながら、少しも遠慮しようとしなかった。わたしの見るところでは、リプーチンがこのキリーロフを引っ張って来たのは、つまり第三者を介して、自分の狙っている話の中へ技師を引き摺り込む計略らしく思われた、――これは常に彼の好んで用いる兵法であった。
「キリーロフ氏は知りすぎるほど、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを知っていられるくせに」と彼はいらいらした調子でつづけた。「ただ隠してばかりいられるのです。ところで、あなたはレビャードキン大尉のことをおたずねになりましたが、あの男はわれわれ仲間のだれよりも早く、もう五、六年も前から、ペテルブルグでニコライ・フセーヴォロドヴィチと近づきになったのです。つまり、あの方の生涯中でも不明の闇に包まれた(もしそんな言い方ができればですよ)時分のことです。その時分あの方はわざわざ来訪して、われわれに光栄を垂れようなどとは、考えてもいられなかったのですよ。こういうわけですから、わが王子はあの当時、ずいぶん奇妙な交友の選択をしていられたものと、こう結論を下さざるをえんですなあ。このキリーロフ氏と近づきになられたのも、やっぱりこの時分のことらしい」
「気をつけたまえ、リプーチン君、ニコライ君は近いうちにここへ来るつもりだったんだよ。あの男は自分の名誉を守るすべを知ってるからね」
「わたしはなにも、あの方に憎まれる覚えはありませんよ。わたしは自分から音頭取りになって、デリケートな洗練された頭脳を持った方だ、と吹聴してるじゃありませんか。昨日もヴァルヴァーラ夫人にこのことをいって、とっくりと気を落ちつかしてあげたのです。ただ『あの方の気性については、なんともお請合いができません』と、これだけは申しあげておきました。ところが、昨日レビャードキンも、まるで申し合わせたようにこういいましたよ。『あの気性のおかげで、どれだけひどい目にあったかわからない』って。ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはけっこうなもんですよ。人のことを告げ口屋だの間諜《いぬ》だのいっておきながら、ご自分ではすっかり、わたしから聞き出してしまったじゃありませんか。しかも、ずいぶん恐ろしい好奇心をむき出しにしてね。ところが、ヴァルヴァーラ夫人のいわれるには(夫人は昨日ちゃんと急所を刺しておしまいになりましたよ)、『あなたは直接事件に関係していらっしたのですから、それであなたにご相談申しあげるのです』と、こうなんです。もっとも至極の話じゃありませんか! え、わたしが衆人|稠座《ちゅうざ》の中で、あの方から侮辱を嘗めてるのに、目的も何もあったもんですか? わたしだって、ただの誹譏、讒謗以外、この事件に興味を持つ仔細がありそうなもんですよ。なにしろ、今日親しそうに握手するかと思えば、もう明日は数数の心づくしのお礼に、ただちょっとした気の向き方一つで、多くの人の面前で、その男の頬桁をお見舞い申すというふうなんですからね。つまり、不自由がなさすぎるからですよ! あの方の事件というのは、まあ主に女性ですな。なにしろ軽きこと春蝶のごとく、猛きこと雄鶏《ゆうけい》のごとしだからたまりませんや! 古《いにしえ》の愛神《アモル》みたいに翼を持った地主で、なんのことはないペチョーリン([#割り注]レールモントフ作『現代の英雄』の主人公[#割り注終わり])式の女殺しですな? ねえ、スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたは気随気ままの独身者だから、そんな暢気なことをいって、あの方のためにわたしを告げ口屋よばわりなさるのもいいでしょう。が、もしこれで綺麗な若い娘さんと結婚でもされれば(だって、あなたはまだ今でもなかなかの好男子でいらっしゃるから)、その時はあなたもわが王子の来襲を恐れて、戸に鍵を掛けるばかりでなく、自分の家に防塁《バリケード》でもおこしらえなさるでしょうよ! 実際これはなんという事情でしょう。もしあの鞭で毎日ひっぱたかれているレビャードキナ嬢が、気ちがいでびっこでなかったら、まったくのところ、あの女がわが王子の情欲の犠牲だったのじゃないか、そして、レビャードキン大尉のいわゆる『家系の傷』なるものも、ここに潜んでいるのじゃないか、と考えるとこだったんですよ。ただあの方の洗練されたる趣味に矛盾したところがあるんだけれど、それも大したことじゃないかもしれませんさ。どんなしろ物だろうと、うまくあの人の気分にぴたりと合えば、立派に役を勤めることができるんですからね。ところが、あなたはすぐ讒謗よばわりをなさる。わたしはもう町じゅうが大騒ぎしているから、それで初めてわめきだしたんです。わたしはただ人の噂を聞いて、相槌を打ってるだけなんです。だって、相槌を打つのは法度《はっと》になっていませんからなあ」
「町じゅうが大騒ぎしている? 何を大騒ぎしてるんだね!」
「なに、つまりレビャードキン大尉が酔った勢いで、町じゅう響けとわめいてるんです。だからもう、広場一杯の群衆がわめいてるのも同じことじゃありませんか! いったいわたしのどこが悪いんです? わたしはただ親友同士の間で、ちょっと好奇心を動かしてるだけです。実際、これでもわたしはいま親友の間にいるものと考えてるんですからね」と彼は罪のない顔つきでわたしたちを見廻した。「ところが、ここに一つ事件があるんですよ。いいですか。あの男の話によると、わが王子はまだスイスにいられる時に、淑徳ならびなき一人の令嬢を介して(この方はわたしも拝顔の栄を担いましたが、きわめて柔和な孤児といってもいいくらいなものです)、レビャードキン大尉に渡すようにといって、三百ルーブリの金を送られたんだそうです。ところがレビャードキンは、間もなくある人から精密な報知をえたのですが、それによってみると送った金は三百ルーブリでなくて、まる千ルーブリだったとのことです(わたしはだれからその報知をえたかいいませんが、やっぱりれっきとした身分ある人なんですよ)。そこでレビャードキンは、あのお嬢さんがおれの金を七百ルーブリくすねおったとわめきだして、もうあやうく警察沙汰にまでしようという騒ぎなんです。少なくも町じゅう触れ廻して、示威運動をやってるんで……」
「それは卑劣だ、それは、きみ、卑劣だ!」とふいに技師は椅子から躍りあがった。
「だって、そのれっきとした身分のある人というのは、ほかじゃない、あなたのことなんですぜ。ニコライ・フセーヴォロドヴィチがスイスから送ったのは、三百ルーブリではない千ルーブリだ、とあなたが断言なすったんでしょう。当のレビャードキンが酔っぱらって教えてくれましたよ」
「それは……それは不幸な誤謬だ。だれか思い違いをしてそんなことになったのだ……それはでたらめだ、そして、きみは卑劣な人だ!………」
「ええ、わたしもでたらめだってことを信じたいのですが、悲しいかな、耳に入る噂をいかんせんですよ。なぜって(あなたはどうお思いになろうとご勝手ですが)、あの淑徳ならびなき令嬢が、第一にその七百ルーブリ事件、第二にニコライ・フセーヴォロドヴィチとの艶聞にも、関係があるんですからなあ。実際、わが王子にとって、無垢な処女を傷つけたり、他人の妻をけがしたりするのは、朝飯前の仕事ですよ。ちょうどいつかのわたしに関した事件と同じようにね。不幸にして、寛厚の心にみちた人物が、あの方の行く手に出くわそうなものなら、すぐ自分の潔白な名前をもって、他人の罪業をおおうような目にあわされますよ。ちょうどわたしがあったような目にね。わたしは自分のことをいってるんですよ……」
「気をつけたまえ、リプーチン!」とスチェパン氏は、肘掛けいすから身を起こしながら、顔の色を真っ青にした。
「本気にしちゃいけません、本当にしちゃ! それはだれかが間違って……それにリプーチンは酔っぱらってるんですから……」たとえようもない興奮のさまを示しながら、技師はこう叫んだ。「今にすっかりわかります。が、ぼくはもうたまりません……それは、卑劣なことだと思いますから、いや、たくさんです、たくさんです!」と彼は部屋を駆け出した。
「おや、あなたはどうしたんです? じゃ、わたしもいっしょに!」リプーチンは急に泡を食って飛びあがると、そのままキリーロフの後を追って駆け出した。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 スチェパン氏はもの思わしげに、じっと一分間ばかり突っ立ったまま、何を見ているのかわからないような目つきで、わたしの顔を見つめていたが、とつぜん帽子とステッキを取って、静かに部屋を出て行った。わたしは先ほどと同じように、また後からついて行った。彼は門を出るとき、わたしがついて来るのに気がついてこういった。
「ああ、そうだ、きみは証人になるかもしれない…… de l'accident(この事件の)。Vous m'accompagnerez n'est-ce pas?(きみ、わたしについて来てくれるでしょうね)」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、あなたはまたあすこへいらっしゃるんですか? まあ、考えてごらんなさい。そんなことをしたら、いったいどんな騒ぎになるでしょう?」
 悄然ととほうにくれたような微笑を浮かべながら、――やるせない絶望と羞恥の色を帯びてはいるが、同時に何やら奇怪な歓喜を含んだ微笑を浮かべながら、彼はちょっと立ちどまってささやいた。
「しかし、わたしは『他人の罪業』と結婚するわけにいかないからね!」
 わたしは実にこの一言を期待していたのである。長い間わたしに隠していた秘密の一言は、一週間のごまかしと弥縫の後、ついに彼の口から発しられた。わたしはすっかり憤慨してしまった。
「そんな醜悪な、そんな……卑劣な考えがよくまあ、あなたの、スチェパン・ヴェルホーヴェンスキイ氏の心中に湧き出たものですね。あなたの明快な頭の中に、あなたの善良な心の中に……しかもリプーチンの話を聞かない先から!………」
 彼はわたしの顔を見まもったが、返事もしないでぐんぐん歩きつづけた。わたしは遅れまいとした。ヴァルヴァーラ夫人のために証人になりたかったのである。もしこれが持ち前の女々しい狭い心から、ただリプーチンの言葉だけを彼が信じたものならば、わたしもそれを諒としたに相違ない。けれど、彼はリプーチンの話を聞かないうちから、このことをなにもかも自分で考えついたので、リプーチンはただ彼の猜疑に裏書きし、燃ゆる火に油をそそいだにすぎない。それはもはや疑いをいれなかった。彼はもうそもそもの初めから、なんの根拠もないのに、まったくリプーチンほどの根拠もないのに、ダーリヤの純潔を疑い始めたのである。彼はヴァルヴァーラ夫人の横暴な処置に対して、ほかに解釈の方法を見出しえなかった。つまり、夫人は自分の限りなく愛しているニコラスの貴族にありがちな罪業を、名誉ある人との結婚によって少しも早く塗り潰そうと、夢中になっているのだ! わたしは彼がこの卑劣な疑いに対して、ぜひとも罰を受けるようにと心に願った。
「O! Dieu, qui est si grand et si bon!(おお、偉大にして善良なる神よ!)おお、だれがわたしを慰めてくれるのだろう?」また百歩ばかり歩くと、ふいにぴたりと足を止めて、彼はこう叫んだ。
「すぐ家へ帰りましょう、わたしがすっかり説明してあげます!」とわたしは無理に家のほうへ引き戻しながらいった。
「おや、まあ! スチェパンさま、あなたでございましたか? まあ?」とつぜん音楽かなんぞのように新鮮な、若々しい、蓮葉な声が、二人の傍で響いた。
 わたしたちは少しも気がつかないでいたが、ふいにかの騎馬令嬢リザヴェータ・ニコラエヴナが、いつものつれといっしょに二人の傍へ現われたのである。彼女は馬を止めた。
「いらっしゃい、早くいらっしゃい!」と彼女は高い声で愉快げに叫んだ。「あたしもう十二年もお目にかからなかったけれど、すぐわかりましたわ、スチェパンさま……あなた、あたしがおわかりになりません?」
 スチェパン氏は、差し伸べられた女の手をとって、うやうやしく接吻した。彼はまるで祈りでもするように、女の顔を見つめたまま、とみに言葉さえ出なかった。
「まあ、気がついてよろこんでらっしゃる! マヴリーキイ・ニコラエヴィチ、この方はあたしに会ったのが嬉しいって、夢中になっていらっしゃるのよ! どうしてあなたまる二週間というもの、訪ねて来てくださいませんでしたの? ヴァルヴァーラ小母さんたらね、あなたはご病気だから、うっちゃっておくほうがいいっておっしゃるけど、あたしだって、小母さんが嘘ついていらっしゃるくらい知ってますわ。あたしね、いつもじだんだふんで、あなたの悪口ついていたんですけど、でも、ぜひあなたのほうから先に来ていただきたかったので、わざとお迎えをあげませんでしたの。あら、まあ、ちっともお変わりにならないのねえ!」と彼女は鞍の上からかがみ込むようにして、彼の顔をと見こう見するのであった。「本当におかしいほど変わってらっしゃらない! あっ、そうじゃない、小皺がある、目のまわりや頬の辺にたくさん小皺がある、それに、白髪も交ってるわ。だけど、目はもとのままよ! ですが、あたし変わったでしょう? ね、変わったでしょう? まあ、なんだってあなた黙り込んでらっしゃるんですの?」
 わたしはこの瞬間、彼女の昔話を思い出した。十一の年にペテルブルグヘ連れて行かれた時は、ほとんど病人といっていいくらい体が弱かったが、病気などした時には、泣いてスチェパン氏に会いたがったということである。
「あなた……わたしは……」今はよろこびのあまり途切れがちな声で、彼は舌を縺らせながらこういった。「わたしはたった今『だれがわたしを慰めてくれるのだろう!』と叫んだばかりなんですよ。ところへ、あなたの声が聞こえたじゃありませんか。それこそ奇蹟だと思います。〔et je commence a` croire〕(わたしはまた信仰を回復しそうです)」
「En Dieu? 〔En Dieu, qui est la`-haut et qui est grand et si bon?〕(神に対する信仰でしょう、高き所にあり、偉大にしてかつ善良なる神に対する信仰でしょう?)ねえ、あたしあなたの講義をすっかり暗記していますの。マヴリーキイさん、この方はね、その頃あたしに偉大にして善良なる神に対する信仰を、熱心に説いてくだすったものよ! あなた覚えていらっしゃって、コロンブスアメリカを発見した時、みんなが陸地陸地と叫んだ話をしてくだすったのを? あたしは後でその晩夢中になって、うわごとに陸地、陸地といったって、乳母のアリョーナ・フローロヴナが話して聞かせましたの。それから、王子ハムレットの話を聞かせてくだすったのを、覚えていらっしゃいます? ああ、そしてまた哀れな移民たちが、ヨーロッパからアメリカへ輸送される光景を、くわしく目に見えるように教えてくださいましたわねえ、だけど、あれはみんな嘘でしたわ。あたしその後、ほんとの輸送の模様を見ましたもの。けれどね、マヴリーキイさん、この方はその時どんなに上手に嘘をおつきになったでしょう。本当よりもいいくらいですわ。スチェパンさま、なんだってそんなにマヴリーキイさんを一生懸命に見ていらっしゃいますの? この方は地球全体の人間の中で、一等すぐれた、一等誠実な方ですから、あなたもぜひあたし同様に、かわいがってあげてくださいな! il fait tout ce que je veux(この人はあたしの望むことを何でもしてくださいますの)ときにスチェパンさま、あなた往来の真ん中で『だれがわたしを慰めてくれるのだ』などとわめいていらっしゃるところを見ると、まだやっぱり不仕合わせでいらっしゃると見えますね? 不仕合わせなんでしょう、ね、そうでしょう? そうでしょう?」
「今はもう仕合わせになりました……」
「小母さまが失礼なことをなさるんですの?」と彼女は相手の言葉に耳を藉さないで、勝手に話しつづけるのであった。「いつもいつもあのとおり意地の悪い、勝手な人ですけれど、いつまでたってもあたしたちにとって大切な人は、あの小母さまですわねえ! 覚えていらしって? あなたがよく庭の中でいきなり飛びかかって、あたしを抱きしめてくださると、あたしは泣きながら、あなたを慰めたものですわねえ。ああ、マヴリーキイさんを怖がらないでくださいな。この人はあなたのことを、とうの昔からすっかり知ってらっしゃるんですもの。あなたこの人の肩にもたれかかって、いくらでも足りるほどお泣きになってよござんすの。この人は幾時間でもじっと立ってますから!………まあ、帽子を少し持ち上げて、いえ、ちょっとの間すっかり脱いでくださいな。そして、首を伸ばして爪立ちをしてくださいな。あたしすぐにあなたの額を接吻しますから。ちょうど最後のお別れにしたようにね。ご覧なさい、あのお嬢さんが窓の中から、あたしたちを不思議そうに眺めていますわ。さあ、もっと、もっと寄ってちょうだい! あらまあ、なんて白髪におなんなすったのでしょう!」
 彼女は鞍の上から身をかがめて、スチェパン氏の額を接吻した。
「さあ、今度はお宅へまいりましょう! あたしあなたのお宅をぞんじてますわ。あたしすぐに、本当に今すぐお宅へあがりますわ。あなたが頑固屋さんだから、こちらから先にまず訪問しておいて、それから一日あなたを宅へ引きつけてしまいますよ。さあ、いらっしゃい。そして、もてなしの用意をしといてくださいな」
 こういって、彼女は自分の守護者《ナイト》マヴリーキイとともにかなたへ駆け去った。で、わたしたちも引っ返した。スチェパン氏は長いすに身を投げて、さめざめと泣き出した。
「Dieu, Diue!」と彼は叫んだ。「Enfin une minute de bonheur!(ああ、ああ、ついに幸福の瞬間が来た!)」
 十分もたたないうちに、彼女は約束どおり、マヴリーキイを連れてやって来た。
「〔Vous et le bonheur, vous arrivez en me^me temps!〕(あなたと幸福が同時に到着しました!)」と彼は入り来るリーザを迎えに立ちあがった。
「さあ、花束を差しあげます。あたし今マダム・シュヴァリエのところへ行ってまいりましたの。あの店には冬の間だって、命名日の主人公に贈る花束がありますの。さ、この方がマヴリーキイさんです、どうぞお心安く願います。あたし、花束のかわりにお菓子っていったんですけれど、マヴリーキイさんがそれはロシヤ式でないとおっしゃるものですから」
 このマヴリーキイは砲兵大尉で、年は三十三、四、背の高い、美しい、申し分のない気品のある容貌を持った紳士である。表情は幾分ものものしく、ちょっと見はいかついくらいであったが、実際はどんな人でも、彼と近づきになった最初の瞬間から、すぐ気づかずにいられないような、驚くばかり優しい善良な人なのであった。けれども、彼は非常に無口で、見たところいかにも冷淡な性質らしく、しいて交遊を求めようとしないらしかった。その後、この町で多くのものがあれは少し鈍い人間だなどといったが、それはぜんぜん正鵠を穿っているとはいえない。
 わたしはリザヴェータの美貌を描き立てるのはやめようと思う。もう町じゅうで彼女の美しさを囃し立てているのだから。もっとも夫人連や令嬢たちの中には、大いに憤慨してこの評判を否定するものもあった。中にはリザヴェータを憎むものすらあった。その理由は、第一に高慢だというのである。ドロズドヴァ母子は、まだ町の名士連の訪問を始めなかったので、それが生意気に思われたのだ。しかし、この訪問延引の原因は、実際のところ、プラスコーヴィヤ夫人の患いがちなためだった。また第二の原因は、彼女が知事夫人の親戚に当たるということであり、第三は彼女が毎日馬に乗って散歩するということだった。この町では、それまで女の馬乗りが一人もなかったので、まだ訪問も始めないうちに、馬で散歩などするリザヴェータの出現が、わが社交界を憤慨さしたのはもっともな次第である。とはいえ、彼女が馬上で散歩するのは、医師の命令によるものだということを、人々はもう承知していたのである。そのうえ彼女の病身な生まれつきを、皮肉な調子で噂し合っていた。
 実際、彼女は病身のほうだった。彼女に会ってまず第一に気がつくのは、病的な神経質らしい、絶えず落ちつく暇のないような表情であった。哀れにもこの薄命な処女は、非常な苦しみを経験していたのだ。それは後ですっかりわかった。しかし、今こうして過去を追懐するに当たって、わたしは彼女が当時自分の目に映ったほど、素晴らしい美人だとはあえていうまい。ことによったら、まるで美人でなかったかもしれない。背が高くてほっそりしていながら、同時に強靭な体を持った彼女は、その顔面の不規則な輪郭によって、奇異の感じをいだかせるほどであった。彼女の目はカルムイク人([#割り注]南部シベリヤ土民、蒙古族[#割り注終わり])のように、なんだか少し斜《はす》に吊っていた。顔立ちは痩せて、頬骨が出て、あお白い色つやをしていたが、その中には何か相手の心を征服しなければやまぬ、魅力に富んだあるものが感じられた。何か非常に力強いあるものが、その暗い色をした、燃えるような眼ざしの中に感じられた。彼女は『征服せんがために、征服者として』出現したのである。実際、彼女は傲岸[#「傲岸」はママ]に見えるばかりでなく、どうかすると暴慢に感じられることさえあった。彼女が善良な人間になりえたかどうかは知らぬが、しかし、強制的に自分を善良な人間にしたくてたまらないので、そのために煩悶しているのは、わたしにも察しられた。もちろんこの人の内部《うち》には美しい翹望も、正しい試みも十分にあったが、しかし、彼女の持っているすべてのものは、常に正しい標準点をえようとして、しかも、永久にそれを見出しえないために、何もかも混沌と、擾乱と、不安の渦中に投じられている、といったふうな様子だった。彼女はあまり厳格すぎるほどの要求をもって、自分自身に対しているのかもしれぬ。けれど、その要求を満足させるだけの力は、どうしても発見できないらしい。
 彼女は長いすに坐って、部屋を見廻した。
「どうしてあたしはこういう時に、いつも妙にもの悲しくなるんでしょう、あなた学者だから一つ解いてくださいな。あたしね、今までずうっと考えてましたの、もしあなたに会って昔のことを話したら、まあどんなにか嬉しいだろうって。ところが、今はなんだかまるで嬉しくないような気がするじゃありませんか。それでいて、あたしあなたが大好きなんですの……あらまあ、ここにあたしの肖像がかかってるわ! ちょっと見せてくださいな、あたし覚えててよ、覚えててよ!」
 十二のリーザを描いたこの見事な小品の水彩画は、かつて九年ほど前にドロズドフ家の人が、ペテルブルグからスチェパン氏へ送ったものである。それ以来この肖像画は、いつも書斎の壁にかかっていた。
「まあ、本当にあたしこんなかわいい子だったのかしら? 本当にこれがあたしの顔でしょうか?」と彼女は立ちあがって、肖像を片手に持ちながら、鏡を見つめた。
「早く取ってください!」肖像を手渡しながら、彼女はこう叫んだ。「今かけないでちょうだい、あとで。あたしもう見るのもいや」彼女はふたたび長いすに腰を下ろした。「一つの生活が終わって、新しい生活が始まり、それがすんでしまうと、今度はまた別な生活が始まる、――こうして際限なしに続くんですわね。鋏でちょんちょん切ったようにね。ねえ、あたしとても古い話を持ち出すでしょう、けれど、この中にはずいぶん真理がありますわ!」
 彼女は薄笑いを浮かべながら、わたしを見た。もう彼女は幾度となくわたしに目をつけたが、スチェパン氏はすっかりのぼせてしまって、わたしを引きあわせるという約束を忘れているのであった。
「ですが、なんだってあたしの肖像は、匕首《あいくち》の下にかかってるんでしょう? まあ、なんだってあなたは匕首や刀を、あんなにたくさんもってらっしゃるの?」
 実際、なんのためだか知らないが、壁には二ふりの|トルコ剣《ヤタガン》が、十字形に組み合わせてかかっている上に、本物のチェルケス刀まで飾ってあった。こんなことを聞きながら、彼女はひたとわたしのほうを見つめるので、わたしも何か返事しようとしたが、口ごもってしまった。スチェパン氏はやっと気がついて、わたしを紹介した。
「知ってます、知ってます」と彼女はいった。「まったく嬉しゅうございますわ。母もやっぱりあなたのことを、いろいろ伺って承知していますの。マヴリーキイさんとも近づきになってあげてくださいな、それはいい人なんですから。あたしね、あなたという人のことで、おかしな概念を作り上げてしまってるんですの。だって、あなたはスチェパンさまの相談柱でしょう?」
 わたしはあかくなった。
「ああ、どうか堪忍してくださいましね、あたし妙な言葉づかいをしてしまいまして。何もけっしておかしいことはないんですの、ただその……」彼女は顔をあかくし、どぎまぎしてしまった。「もっとも、あなたが立派な方だからって、何も恥ずかしがることはありませんわねえ。それはそうと、マヴリーキイさん、そろそろお暇しましょう! スチェパンさま、もう三十分たったら宅へいらっしゃらなくちゃいけませんよ。ねえ、うんと話しましょうよ! もう今度はあたしが相談柱ですよ、すっかり話しましょうね。すっかり[#「すっかり」に傍点]。よござんすか?」
 スチェパン氏はたちまちもう泡をくった。
「おお、マヴリーキイさんはみんな知ってらっしゃるんですの。この方にご遠慮はいりませんわ!」
「何を知ってらっしゃるんです?」
「まあ、あなた何をおっしゃるんですの!」と彼女は驚いて叫んだ。「なるほど、みんなが隠してるっていうのは、まったくなんですわね。あたし本当にできなかったわ。ダーシャまで隠そうとしてるのよ。小母さんたら、さっきあたしを、ダーシャに会わしてくださらないんですもの。あの娘《こ》は頭が痛いとかいってね」
「しかし……どうしてあなたそんなことを知ったのです?」
「まあ、何をおっしゃるの、皆と同じように知っただけですわ。なにも大して知恵なんか、いりゃしませんよ!」
「え、皆が……」
「そうですわ、なぜ? もっとも、最初はお母さんが、乳母のアリョーナから聞きましたの。そして乳母にはね、お宅のナスターシヤが駆けつけて知らせてくれましたの。だって、あなたナスターシヤにお話しなすったんでしょう? あれがそういってましたもの、あなたご自身の口から聞いたんだって」
「わたしは……わたしはたった一ど話したきりです……」とスチェパン氏は真っ赤になって、吃り吃りこういった。「しかし……ただちょっと匂わしたばかりなんで…… 〔j'e'tais si nerveux et malade et puis〕(わたしはあのとき非 常に神経が昂ぶって病的になってたんです。それに)……」
 彼女はからからと笑った。
「それに、手近なところに相談柱が居合わさなかった、そこへ折よくナスターシヤが来合わせたんでしょう、――それだけでもうたくさんなのよ。あの女にかかったら、町じゅうが親類同士みたいなもんですからね。まあ、そんなことどうでもいいわ! 知ったなら知ったで好きにさせとけばいいのよ。かえってそのほうがいいくらい。どうぞ、早く来てくださいな。うちじゃ正餐《ごはん》が早いんですから……ああ、忘れてた」と彼女はふたたび腰をおろした。「ねえ、いったいシャートフってどういう人ですの?」
「シャートフですか? あれはダーリヤさんの兄さんです!……」
「兄さんてことは知ってますわ、本当にあなたはなんて人でしょうねえ」と彼女はじりじりしながらさえぎった。「あたしその人物が知りたいんですの、いったいどんな人でしょう?」
「C'est une pense-creux d'ici. C'est le meilleur et le plus irascible homme du monde(あの男はこの土地での空想家ですが、世界じゅうで一ばん人のいい、そして一ばん怒りっぽい男なんです)」
「あの方が妙な変人だってことは、あたしも聞いてましたわ。だけど、そのことじゃありませんの。なんでもあたしの聞いたところでは、シャートフさんは三か国の言葉を知っていて、英語にも詳しく、文学的の仕事にも携わることができるそうですね。そうすると、あたしその人に向きそうな仕事をいくらでも持ってるんですの。あたし助手が入用なんですの、そして早いだけけっこうなのよ。その人はそういう仕事を引き受けてくださるでしょうか。ちょっと推薦する人がありましてね」
「そりゃもちろんですよ。et vous fairex un bienfait……(そして、あなたは功徳を施すことになりますよ)」
「あたしけっして功徳のためじゃありませんわ。あたし自身に助手がいるんですの」
「ぼくはかなりよくシャートフを知っています」とわたしがいった。「で、もしその伝言をぼくに託してくだすったら、すぐにこれから出かけますが」
「じゃ、明日十二時に来るようにいってくださいな。まあ、いい都合だこと! ありがとうございます。マヴリーキイさん、お支度はよくって?」
 二人は立ち去った。わたしはむろんすぐさまシャートフの家をさして駆け出した。
「|きみ《モナミ》」とスチェパン氏は、玄関の出口でわたしに追いついて、「ぜひお願いだから、十時か十一時頃、わたしの帰って来る時分に、うちへ来てくれたまえな。おお、わたしは実に、実にすまない。きみに対しても……またみんなに対しても、まったくすまない」

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 シャートフは家にいなかった。二時間ばかりたって、もう一ど駆けつけてみたが、やっぱり留守だった。とうとう七時過ぎにわたしは会って話をするか、さもなくば置き手紙をして行こうという決心で、彼のもとへ出かけた。と、はたしてまた留守だった。その住まいには鍵がかかっていた。しかも、彼はまるで召使をおかずに、たった一人で暮らしているのだ。わたしは階下《した》のレビャードキン大尉にぶっつかって、シャートフのことを聞いてみようかと考えついたが、ここもやっぱり戸が閉まって、こそとのもの音もしない。まるで空家のよう。わたしはさきほどの話の印象を忘れかねて、好奇の念を覚えながら、大尉の住まいの戸口を通り抜けた。結局、わたしは明日の朝、早目に寄ってみることにした。置き手紙もあまり当てにならなかったからである。シャートフはしぶとくて人ずきの悪い男だから、そんなものなぞ大して気にかけそうもない。わたしは自分の失敗を呪いながら、門を潜って出ようとすると、偶然にもキリーロフ氏に行き会った。彼は家へ入ろうとするところだったが、まず第一番にわたしの顔を見分けた。向こうからいろいろと問いかけるので、わたしも事の始末をかいつまんで話したうえ、手紙を持っていることを告げた。
「まあ、おはいんなさい」と彼はいった。「ぼくがすっかりよくしてあげます」
 わたしはふと思い出した。リプーチンの言葉によると、彼は今朝から裏庭に建っている木造の離れを借りているはずである。独り者には少し広すぎるこの離れには、年とった聾の女房が住んでいて、これが彼の世話をやくことになっていた。この家の持ち主は別の通りにある別の新しい家で、料理屋を経営していたが、その親類に当たるとかいうこの老婆は、古い家ぜんたいの監督にここへ残っているのであった。離れの部屋はいずれも小ざっぱりしているが、壁紙が汚かった。わたしたちのはいって行った部屋を飾る道具は、寄せ集めの大小不揃いなもので、まったくのがらくたであった。まずカルタ卓が二つ、榛《はん》の木造りの箪笥一棹、どこかの百姓小屋か、台所からでも引っ張り出したような、大形の荒削りのテーブル一つ、いくつかのいす、格子のよっかかりと固い革枕のついた長いす一脚、といったふうなものである。片隅には時代ものの聖像が飾ってあって、その前には、わたしたちのはいって来ないうちにお婆さんのともした燈明が吊るしてあった。傍の壁には、朦朧とした二枚の大きな油絵の肖像がかかっていたが、一つは先帝ニコライ一世を描いたもので、見受けたところ、二十年代に写し取ったものらしい。いま一つは何か僧正の姿を現わしたものであった。
 キリーロフ氏は部屋へはいると蝋燭をともし、まだ片づけもせず、隅のほうにほうり出してあるカバンの中から、封筒と封蝋と水晶の封印とを取り出した。
「その手紙に封をして、封筒に宛名をお書きなさい」
 わたしはそんな必要はないといってみたが、彼はどうしても聞かなかった。封筒に宛名を書くと、わたしは帽子を取り上げた。
「ぼくは茶でもなにされるかと思っていました」と彼はいった。「ぼく、茶を買ったです。おいや?」
 わたしは辞退しなかった。間もなく婆さんが茶を持って来た。というのは、熱い湯の入った素晴らしく大きな土瓶と、ふんだんに茶を入れた急須と、俗な模様のついた無骨な茶碗二つと、大きな丸パンと、深皿いっぱいに盛った割り砂糖とであった。
「ぼくは茶が好きです」と彼がいった。「夜ね、やたらに歩いては飲むんです。夜が明けるまで。外国にいると、夜の茶は都合が悪いですね」
「あなたは夜明けにお休みになるんですか?」
「ええ、いつも――ずっと以前から。ぼくはあまり物を食べないで、茶ばかり飲むんです。リプーチンは狡猾だけれど、せっかちですね」
 この人が何をいおうとするのかわからないで、わたしは面くらってしまった。わたしはこの機を利用しようと決心して、
「さっきはちょっといやな行き違いが起こりましたね」といってみた。
 彼は恐ろしく顔をしかめた。
「あれは馬鹿げたことです。あれはまったく下らんことです。あれはもう一から十まで下らんことばかりです。なぜって、レビャードキンは酔っぱらいじゃありませんか。ぼくはリプーチンに話をしたんじゃありません。ちょっと下らんことを説明しただけなんです。それをあの男がまた尾鰭をつけたのです。リプーチンはやたらに想像が強いから、針小棒大にやってるんです。ぼくは昨日までリプーチンを信じていました」
「ところで、今日はぼくを信じるんですか?」とわたしは笑った。
「さっきの一件でたいていもうおわかりでしょう。リプーチンは弱い男か、でなければせっかちか、でなければ有害な男か、でなければ……やっかみ屋なんです」
 わたしはこの最後の言葉に一驚を喫した。
「しかし、あなたはずいぶんたくさん形容詞をおならべになりましたね。それだけいえば、どれか一つくらい当てはまるでしょうよ」
「ところが、どれにもすっかり当てはまるかもしれません」
「ええ、それもそうですね。リプーチンはまるで一つの混沌ですからねえ? ときに、あなたが何か著述をなさるように、先ほどあの男がいったのは、でたらめですか?」
「なぜでたらめなんです?」じっと足もとを見据えながら、彼はまたも眉をひそめた。
 わたしは失言を謝して、何か探り出そうなどというはらでないことを誓った。彼は顔をあかくした。
「あの男のいったのは本当です。ぼく、書いています。けれど、そんなことはどうだっていいじゃありませんか」
 しばらく二人は黙っていた。とふいに、彼は先ほどと同じ子供らしい笑い方でほほえんだ。
「が、あの首の話はあの男が、本の中から引っ張り出したのです。初め自分でぼくに話して聞かせましたが、その解釈が成ってないです。ぼくはただね、どういうわけで人間は自殺する勇気を持たないか、その原因を求めているのです。それっきりです。が、これもどうだっていいです」
「なぜ勇気がないのです! 自殺の数が少ないとでもおっしゃるのですか?」
「非常に少ないです?」
「え、あなたはそうお考えですか?」
 彼は答えなかった。そして、ふいと立ちあがり、物思いに沈んであちこちと歩き始めた。
「あなたのお考えによると、人間の自殺を妨げるものはなんでしょう?」とわたしはたずねた。
 彼はたったいま二人が話し合ったことを、思い出そうとでもするように、ぼんやり視線を向けた。
「ぼくは……ぼくはまだよくわかりませんがね……二つの偏見が邪魔をしてるんですよ。二つのもの、たった二つのものです。一つは非常に小さいけれど、いま一つはたいへん大きいのです。しかし、小さいほうだって、やはり非常に大きいですね」
「小さいほうってなんです?」
「痛みです」
「痛み? いったい、それがそんな大した問題なのでしょうか……この場合?」
「最も重要な問題です。これにも二種類ありますがね。非常な憂愁とか、また憤懣のために自殺する者、気ちがい、それから……まあ、なんだっていい、そんな連中はいきなりやっつけます。こんな連中はあまり痛みのことなど考えないで、いきなりやっつける。ところが、思索の結果やる連中は、非常に考えるんです」
「思索の結果やる者があるでしょうか?」
「非常にたくさんあります。もし偏見がなかったら、もっとたくさんあるんです。非常にたくさんあるんです、みんなそうです」
「へえ、みんなになっちまいましたね」
 彼はいっとき口をつぐんだ。
「けれど、痛みなしに死ぬ方法がないと思いますか?」
「いいですか」と彼はわたしの前に立ち止まった。「かりに大きな家ほどもある大磐石を想像してごらんなさい。そいつが宙にぶら下って、あなたがその下にいるんです。ところで、もしそれがあなたの頭の上へ落ちて来たら――痛いでしょうか?」
「家くらいの石? むろん、恐ろしいですよ」
「ぼくは恐ろしいかどうか聞いてるんじゃない。痛いでしょうかというんです」
「山のような石ですね、百万貫もある? もちろん、少しも痛かありませんさ」
「ところが、実際その下へ立ってみたら、そいつがぶら下っている間じゅう、あなたはさぞ痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない。どんな第一流の学者だって、第一流の医者だって、みんなだれでも非常に恐れるに相違ない。だれでも痛くないと承知しながら、だれでも痛いだろうと思って、非常に恐れるに相違ない」
「なるほど、じゃ第二の原因は、大きいほうは?」
「来世です」
「というのは、神罰ですか?」
「そんなことはどうだっていいです。来世です、ただ来世だけ」 
「しかし、ぜんぜん来世を信じない無神論者もあるでしょう?」
 ふたたび彼は言葉を切った。
「あなたはおそらく自分を基にして判断してるんでしょう」
「だれだって自分を基にして判断するより、仕方がないじゃありませんか」と彼は顔を染めながらいった。「完全な自由というものは、生きても生きなくても同じになった時、初めてえられるのです。これがいっさいの目的です」
「目的? それじゃだれ一人、生を欲するものがなくなるんですね?」
「ええ、だれ一人」彼はきっぱりといいきった。
「人間は生を愛するがゆえに死を恐れます。これがぼくの見解です」とわたしはいった。「そして、これが自然の命令です」
「それは陋劣です。その中にいっさいの欺瞞があるのです!」彼の目はぎらぎら光ってきた。「生は苦痛です。生は恐怖です。ゆえに人間は不幸なのです。現代はすべてが苦痛と恐怖です。いま人間は生を愛している、それは苦痛と恐怖とを愛するからです。そして、実際そのとおりにしてきたのです。いま生活は苦痛と恐怖の代償として与えられている、しかも、その中にいっさいの欺瞞が含まれているのです。今の人間は本当の人間じゃありません。今に幸福と誇りとに満ちた新人が出現する。生きても生きなくても同じになった人が、すなわち新人なのです。苦痛と恐怖とを征服した人はみずから神となる。そうすると、今までの神はなくなってしまう」
「してみると、今までの神はあるとお考えなんですね?」
「神はない、けれど、神はある。石の中に苦痛はないけれど、石に対する恐怖には苦痛がある。神は死に対する恐怖の苦痛です。苦痛と恐怖とを征服したものはみずから神となるのです。その時こそ新生活がはじまる、新人が生まれる。いっさいが新しくなる……その時こそ、歴史は二つの部分に分けられるようになる――ゴリラから神の撲滅までと、神の撲滅から……」
「ゴリラまで?」
「地球と人類の物理的変化まで。人間が神になると、肉体的にも変化します。そして世界も変化し、事物も変化します、思想も感情もすべて変化します。あなたどう思います。その時は人間が肉体的に変化しますか?」
「もし生きても生きなくても同じになったら、みんな自殺してしまいますよ。まあ、それくらいの変化でしょうかねえ」
「そんなことはどうだっていい。欺瞞が殺されるのです。だれにもせよ最高の自由を欲するものは、必ず自殺する勇気を持ってなくちゃならない。自殺する勇気のある者は、欺瞞の秘密を見破ったのです。もうそれ以上の自由はない。その中にすべてがあるのです。それより先には何もありません。自殺する勇気のある者は、もう神になったのです。神もなければ何物もないという状態には、現在だれでもすることができる。しかし、まだだれも今までやったものがない」
「自殺したものは、何百万あったかわかりませんよ」
「しかし、みんな目的が違います。みんな恐怖をいだきながらやってるので、まるで目的が違います。けっして恐怖を殺すためじゃない。ただただ恐怖を殺さんがために自殺するものだけが、初めて神になるのです」
「たぶん間に合わんでしょう」とわたしがいった。
「それはどうだっていいです」彼は侮蔑といっていいくらい平静な誇りの色を浮かべて、小さな声でこう答えた。「あなたは冷やかしていられるようですね、ぼくはそれが残念ですよ」としばらくたって彼はいい足した。
「ぼくはまた、さっきあんなにいらいらしておられたあなたが、そんなに落ちついて話をなさるのが不思議なんです。もっとも、だいぶ熱心な様子ではありますがね」
「さっき? さっきはおかしかったのです」と彼は微笑を浮かべながら答えた。「ぼくは口論するのが嫌いなんです。そして、どんなことがあっても、冷やかしなどしません」と彼は沈んだ調子でいい添えた。
「けれど、あなたが茶を飲みながら送られる夜な夜なは、あまり愉快なものじゃありませんね」
 わたしは立ちあがって、帽子を取った。
「そうお思いですか?」いくらか驚きの色を見せて、彼は微笑した。「なぜ、いや、ぼく……ぼくわからんです」と彼は急にまごついて、「ほかの人はどうか知らんが、ぼくはそう感じられるのです、――ぼくはほかの人のようにはできない。ほかの人は何か考えると、すぐにまたほかのことを考える。ぼくほかのことは駄目だ。ぼくは一生ひとつことばかり考えてきたです。ぼくは一生、神に苦しめられました」と彼は急に驚くばかり多弁になって、こう言葉を結んだ。
「失礼ですが、ちょっと伺います。あなたはどうしてそんな不正確なロシヤ語をお話しなさるんです? 外国に五年もいる間に、お忘れになったのですか?」
「へえ、ぼく、不正確ですか? わかりません。いや、外国のせいじゃない。ぼくはずっとこんなふうに話してきたのです……ぼくどうでもいいです」
「もう一つ伺います、しかも、より以上デリケートな質問ですよ。あなたは人に会うのがあまりお好きでないでしょう。そして、あまり人とお話しにならんでしょう。ぼくは固くそう信じます。ところで、今はどうしてぼくに向かってそう多弁になられたんでしょう?」
「あなたに向かって? さっきじっと坐っていられた様子が、気に入ったのです。それに、あなたは……もっとも、こんなことはどうだっていいけれど……あなたはぼくの兄弟に似ていらっしゃる、非常に、大変」と彼は真っ赤になっていった。「七年前に死にました、兄貴です。非常に、非常によく似てらっしゃる」
「きっとあなたの思想に影響を与えたんでしょうね」
「い、いいえ、兄は口数が少なかったです。兄はまるで口をきかなかったです、ぼくあなたの手紙をお渡ししましょう」
 彼はわたしの出た後で戸締りをするために、角燈を持って門まで送って来た。『むろん、気ちがいだ』とわたしは心の中で決めてしまった。と、門の下でまた別の男に行き当たった。

[#6字下げ]9[#「9」は小見出し

 わたしがくぐりの高い閾を跨ごうとして片足ふみ出した時、とつぜんだれかの強い手が、むんずとわたしの胸倉を抑えた。
「こいつあ何者だ!」とだれかの声が咆えるようにいった。「敵か味方か? 白状せえ!」
「味方だ、味方だ!」リプーチンの黄いろい声がすぐ傍から起こった。「これはGさんだ、古典教育を受けて、上流の社交界に知己の多い青年紳士だよ」
社交界、そいつあ気に入った、古典……じゃあ深い教養があるんだな……わしは退職大尉イグナート・レビャードキン、世のため親友のためには、いつでも一肌ぬごうという男だ……もしきゃつらに誠があればだ、もし誠があればだよ、こん畜生!」
 レビャードキンは六尺ゆたかの大男で、体は肥えて肉が盛りあがり、髪は渦を巻いて、顔はすっかり酔っぱらって真っ赤だったが、わたしの前に立っているのもやっとの思いで、むずかしそうに舌を廻していた。もっとも、わたしは以前遠くのほうからこの男を見たことがある。
「やあ、こいつもか!」まだ角燈を持ったまま、去りもやらずにいるキリーロフを見ると、彼はまた咆えるようにこういった。拳を振り上げようとしたが、すぐに下ろしてしまった。
「学問に免じてゆるしてやろう! イグナート・レビャードキン、――ふかあい教養のある男だ……」

[#ここから2字下げ]
燃え上る愛の榴弾、破裂しぬ
イグナーチイの胸の中にて
さらにまた苦《にが》き悩みに
腕なしは泣き出《いだ》すなり
セヴァストーポリを思い出《いだ》して
[#ここで字下げ終わり]

「セヴァストーポリの役に参加したこともなければ、また腕なしでもないけれど、まあ素敵なリズムじゃないか!」と彼は熟柿臭い顔をわたしのほうへ突き出した。
「この人はお忙しいんだよ、まったくお忙しいんだよ、家へお帰りになるんだ」とリプーチンがなだめた。「明日リザヴェータさんに、すっかりいいつけられてしまうぜ」
「リザヴェータさんに!」と彼はまたわめき出した。「待て、行っちゃいかん! かえ歌だ」

[#ここから2字下げ]
数多きアマゾンの円舞の中を
馬を駆り飛びちがうなり星のアマゾン
われを見て駒の上よりほほえみぬ
ああなれこそは貴族の子なれ
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]『星のアマゾンへ』

「おい、いいか、これは頌歌だぞ! これは頌歌だぞ、貴様が驢馬でなけりゃわかるだろう! ああ、本当に能なし野郎め、わかるもんか! 待て!」わたしが一生懸命くぐりのほうへ逃げようとすると、彼はひしとわたしの外套にしがみついた。「おい、わしは潔白なナイトだと、そういってくれ。ダーシュカ([#割り注]ダーリヤのこと、ダーシャ、ダーシェンカは愛撫を表わすが、このダーシュカは侮蔑の感じを示す[#割り注終わり])なんぞ……ダーシュカなんぞ、二本指で抓み出してくれる……地主に縛られた女奴隷の分際で生意気な……」
 こういって、彼はばったり倒れてしまった。わたしが無理にその手をもぎ放して、通りを駆け出したからである。リプーチンはまた後からつきまとって来た。
「あの男はキリーロフさんが始末をつけてくれますよ。実はね、ぼくあいつから面白いことを聞いたんですよ」と彼はせわしない調子でしゃべり出した。「あの詩を聞きましたか? あいつはあの『星のアマゾンへ』という詩を封筒の中へ入れて、明日リザヴェータさんのとこへ送ろうとしてるんですよ。しかも、立派に自分の署名をしてね。まあ、どうです!」
「ぼくは賭でもします。それはきみが自分で入れ知恵をしたんでしょう」
「そりゃきみの負けですよ!」とリプーチンはからからと笑った。「惚れ込んでるんです、まるで猫の仔のように惚れ込んでるんです。ところがね、実際は憎い憎いから始まったことですよ。あいつはこれまでリザヴェータさんを憎んでいたのです。あのひとが馬に乗って歩くからといってね、ほとんど往来で悪口つかないばかりでしたよ。いや、実際罵倒したものです。つい一昨日もあのひとが馬で通った時、悪口雑言したんですが、いいあんばいに、あのひとに聞こえなかったです。ところが、今度はだしぬけに詩と来るじゃありませんか! まあ、どうです。あいつは大胆にも、結婚を申し込もうとしてるんですぜ。まったく、まったくですよ!」
「きみにもあきれてしまいますね、リプーチン君、ちょっとでもこうしたいまわしい話が持ちあがると、もうきみはさっそくそこで采配を振ってるじゃありませんか!」とわたしは憤然としていった。
「しかし、きみ、きみは少しいい過ぎやしませんか、G君。いったい競争者が現われたのにびっくりして、心の臓が縮みあがりでもしたのですか? え?」
「なあんだって?」わたしは歩みを止めて、こうどなった。
「いや、もう罰としてなんにもいいませんよ? きみはさぞ聞きたいでしょうね! ただ一つだけ教えてあげますが、今あの馬鹿者はもうただの大尉じゃなくって、この郡の地主さまですぜ。地主もかなり大きなほうでさあ。というのは、ニコライさんが以前もっていた二百人という農奴つきの領地を、ついこの間あいつに譲ったんですからね。ぼくは誓ってもいい、――嘘なんかつきゃしません。たったいま聞いたばかりですがね、その代わり出所は確かですよ。さあ、もうこれから先は一人で探り出しなさい。もうなんにもいわないから。さよなら!」

[#6字下げ]10[#「10」は小見出し

 スチェパン氏は、ヒステリイじみたいらだたしい心持ちで、わたしを待っていた。彼はもう一時間から前に帰っていたのだ。わたしが部屋へ入ったとき、彼はまるで酔っぱらいのようであった。少なくとも最初五分ばかり、わたしは酔ってるものとばかり思っていた。悲しいかな、ドロズドフ家の訪問はかえって彼の頭をすっかり混乱させてしまったのである。
「Mon ami わたしはすっかり手蔓を失くしてしまった…… Lise ……わたしは依然として、そうだ、まったく依然としてあの天使を敬愛しているが、しかし、どうやらあの人たちは二人とも、ただもうわたしから何か探り出して……つまり、てもなくわたしからいるだけのものを引き抜いてさ、あとはどうとも勝手になさい……といったふうな目的で、わたしを呼んだのじゃないかと思われる。いや、まったくそのとおりなんだよ」
「あなたはよくまあ、恥ずかしくないこってすねえ!」とわたしはこらえかねてこう叫んだ。
「ねえ、きみ、わたしはいま本当に一人っきりだ。enfin c'est ridicule(要するに、滑稽な話だがね)まあ、考えてもみたまえ、あの家まですっかり秘密に包まれてるじゃないか。母娘《おやこ》はいきなりわたしに飛びかかって、例の鼻だの耳だの、それにペテルブルグ時代の秘密だの、そんなことを聞き出そうとするのさ。母娘《ふたり》は四年前ここでニコラスのしたことを、今度はじめて知ったんだからね。『あなたはここにいて、ご自分でご覧になったのですもの。いったい、あの人が気ちがいだってのは本当ですか!』だとさ。全体そんな考えがどこから飛び出したんだろうね、合点がいかないよ。どうしてプラスコーヴィヤさんはなんでもかでも、ニコラスを気ちがいにしてしまいたいんだろう? あのひとはそうしたくてたまらないんだよ。本当に! あのモーリイス、じゃない。なんとかいったっけなあ、あのマヴリーキイ・ニコラエヴィチは、〔brave homme tout de me^me〕(とにかくいい男だよ)、しかし、それが当人のためになるかなあ。しかも、あのひとがわざわざパリから〔cette che`re amie〕(うちの気の毒な友だち([#割り注]ヴァルヴァーラ夫人をさす[#割り注終わり]))へ宛てて、あんな手紙をよこした後で……enfin(要するに)〔cette che`re amie〕(うちの親愛なる友だち)のいわゆるプラスコーヴィヤは、一つの立派なタイプだね。ゴーゴリが不朽にした小箱夫人《カローボチカ》([#割り注]『死せる魂』の一人物、わからずやの典型[#割り注終わり])だ。ただこの小箱《カローボチカ》は意地悪で、喧嘩買いだ、無限に誇大される小箱だよ」
「それじゃ、大箱になってしまうじゃありませんか、もし無限に誇大すればですね」
「じゃ、縮小されたものでもいいよ、どっちも同じこった。ただ横槍を入れないでくれたまえ。わたしはなんだかごっちゃになってしまったんだから。あの連中はすっかり喧嘩わかれになってしまったらしいよ。もっとも Lise だけは別だ。あれは今でもやっぱり『小母さん、小母さん』といってる。しかし、Lise はずるいから、そこにはなにか底意があるようだ。秘密さ。しかし、お婆さん同士は喧嘩したんだ。|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さんはまったく皆に対して、暴虐をふるいすぎるからね……なにしろ県知事夫人が現われたり、社会全体の尊敬が薄らいだり、カルマジーノフが『不遜の態度』を示したり、いろんなことが重なってるところへ、かてて加えて、ニコラスの発狂などという疑いが湧いて出たり、ce Lipoutin, ce que je ne comprends pas ……(それにあのリプーチンの件、あれはどうしてもわからない)なんでも話によると、頭を酢でしめしたり、大騒ぎだったそうだ。そこへ持ってきて、われわれ二人がいろんなことを訴えたり、手紙を送ったりするんだろう……ああ、わたしはあのひとを苦しめたのだ、しかもよりによってこういう時にさ! Je suis un ingrat!(わたしは恩知らずだ!)まあ、どうだろう、わたしが帰ってみると、あのひとから手紙が来てるじゃないか、読んでみたまえ、読んでみたまえ! 実にわたしは忘恩の振舞いをしていたよ」
 彼はたった今うけ取ったばかりの、ヴァルヴァーラ夫人の手紙を差し出した。夫人は今朝ほどの『家にじっとしていらっしゃい』を後悔しているらしい。今度の手紙は慇懃な書き方だったが、それでもやっぱり言葉少なく、断固たるものであった。ほかではない、明後日日曜正十二時に、ぜひとも家へ来てほしい、そしてなるべくだれか一人、友だちをつれて来るように、とのことであった(括弧の中にわたしの名前が入っていた)。同時に夫人は自分のほうからも、ダーリヤの兄として、シャートフを招待する旨を約していた。『あなたは彼女《あれ》の口から、最後の決答を聞くことができるのです。それでご満足ですか! この形式的な手続きがご入用だったのですか?』
「このしまいに書いてある形式的云々の、いらいらした文句に注意してくれたまえ。気の毒だ。本当に気の毒な人だ、わたしの生涯を通じてたった一人の友だちなんだがなあ! しかし、まったくのところ、わたしの運命はこの思いがけない[#「思いがけない」に傍点]決定のために、まるで圧しひしがれてしまったようなものだ……わたしは白状するが、今まではまだやっぱり一縷の希望をいだいていた。が、今は tout est dit(すべては語られたりだ)もうわかってる、万事了したんだ。C'est terrible(恐ろしい)ああ、今度の日曜というものがなくて万事いままでどおりだったらなあ。きみも毎日来てくれるし、わたしもここにいて……」
「あなたはさっきリプーチンのいった穢らわしい作りごとに、すっかり迷わされてしまいましたね」
「ねえ、きみ、きみは今その友情に富んだ指で、また別な傷口に触ったね。そうした、友情の指というやつは、えて残酷なもんだよ、時には条理を没却することもあるくらいだ。pardon(失敬)しかし、きみは信じてくれるかどうか知らないが、わたしはもうそうした穢らわしい話を、おおかた忘れてしまってた。いや、けっして忘れたわけではないが、例のおめでたい性分だから、Lise のところにいる間じゅう、幸福になろうと努めた。そして、おれは幸福なのだと、自分で自分に思わせようとしたものだ。しかし、今は、……いまわたしはあの度量の大きい、人道的な婦人のことを考えてるのだ。わたしの醜い欠点に対して辛抱づよい婦人のことをね、――もっとも、非常に辛抱づよいというわけにはゆかないが、しかし、わたし自身がどんな人間で、どんなに空虚な、いとわしい性格を持ってるかってことを考えたら、こんなことなぞいわれた道理ではないのだ! 実際、わたしはおめでたい子供だ。そのくせ、子供特有の利己心ばかりは、そっくり全部もち合わせているが、その無邪気さはまるでないんだよ。あのひとは二十年間、乳母かなんぞのようにわたしの世話をしてくれた、|あの気の毒《セットポーヴル》な小母さん――これは Lise の考え出した優雅な呼び方なんだよ……ところが、二十年もたった後に、この子供が急に結婚しようといいだした、早く嫁を取ってくれ、早く嫁をといった調子で、後から後から手紙を書き始めたじゃないか。で、あのひとは、つむりを酢でしめすという始末さ、ところが……ところが、とうとう無理にねだりつけて、今度の日曜日には立派な女房持ちだ、冗談じゃないねえ……しかし、わたしは自分のほうから何をいい張ったんだろう、まあ、なんだって自分のほうから手紙なぞ書いたんだろう? ああ、忘れていたが、Lise はダーリヤを神様のように崇めているよ、少なくともそんなふうにいってるね。あの女はダーリヤのことを C'est un ange(あの人は天使です)、ただ少し引っ込み思案すぎるけれど』といっているのさ。とにかく、母娘《おやこ》ともわたしにすすめてくれたよ、プラスコーヴィヤでさえ……いや、プラスコーヴィヤはすすめてくれたんじゃない。まったくあの『小箱《カローボチカ》』の中にはずいぶん毒が隠れてるからねえ! それにリーザだって、本当にすすめたわけじゃないんだ。曰く『なんだってあなた、結婚の必要なんかあるんでしょう。知識の楽しみだけで十分じゃありませんか』といって大きな声で笑うのだ。わたしはその哄笑をゆるしてやった。あのひと自身も胸を掻きむしられるようなんだからね。それから、母娘《おやこ》でいうことには、『でも、あなたはやっぱり女なしじゃいられない。だんだんと老衰していらっしゃるんだから、その時にはあの女がよく世話をしてくれるでしょうよ、でなければまた……』ma foi(実際のところ)わたし自身もこうしてきみと話している間じゅう、心の中でそう考えていたよ、――これは荒れに荒れたわたしの生涯の終わりに当たって、神様があのひとを授けてくだすったのだ、あのひとはわたしをよく世話してくれるに相違ない、でなければ…… enfin(つまり)、また家政を見てくれるものが必要なんだ。そら、わたしの家はあんなに埃《ごみ》だらけだ、見たまえ、あのとおりごちゃごちゃなんだ、ついさっき掃除をいいつけたんだがね。それに、本まで床にごろごろしている。la pauvre amie(あの不幸な女友だち)はわたしのところが埃《ごみ》だらけだといって、始終おこり通していたっけが……ああ、もうこれからはあのひとの声も響くことはないのだ! 二十年《ヴァンタン》! ところが、あの母娘《おやこ》の者は、無名の手紙を幾本も持ってるらしい、実に驚いてしまうじゃないか。ニコラスがレビャードキンに領地を売ってしまったなんて。C'est un monstre(まったくどえらいことだよ)|つまり《アンファン》、レビャードキンとは何者かという問題なんだ。Lise は一生懸命に聴いてるんだ! 夢中になって聴いてるんだ。わたしがあの哄笑をゆるしたのも、つまり、その聴いてる顔つきが真剣だったからさ。ところが、ce Maurice(あのモーリス)……わたしは今のあの男の役には廻りたくないよ。〔brave homme tout de me^me〕(とにかく正直な男だが)、少し内気すぎるよ。だが、あんな男のことなぞどうだってかまわないさ……」
 彼は口をつぐんだ。彼は疲れて、しどろもどろになり、ぐったりしたように、じっと床を見つめながら、力なくかしらを垂れて坐っていた。わたしは言葉の切れ目を幸いに、例のフィリッポフの持ち家訪問を物語った。そのついでに、ぶっきら棒なそっけない調子で、自分の考えを話してみた。ほかでもない、あのレビャードキンの妹は(もっとも、自分で会ったことはないけれど)、ニコラスがリプーチンのいわゆる謎の生活を送っていた時代に、実際、彼の犠牲になったのかもしれない。そして、レビャードキンがなぜかニコラスから金をもらっているというのも、大いにありうることだ。しかし、ほんのそれだけのことらしい。ダーリヤに関する讒謗にいたっては、もうまったく馬鹿馬鹿しい話で、リプーチンの畜生のこじつけにすぎない。少なくも、キリーロフがむきになって、その噂を否定している以上、われわれはその言葉を信じないわけにいかない。
 スチェパン氏はまるで、自分にはなんのさし触りもないような、ぼんやりしたふうでわたしの説明を聞いていた。わたしは話のついでに、キリーロフとの対話を物語って、あの男はことによったら気ちがいかもしれぬ、といい足した。
「あの男は気ちがいじゃなくて、お手軽な思想を持った連中の仲間なのさ」と彼はさも大儀そうなだらけた調子で、口の中でもぐもぐいった。「〔Ces gens-la` supposent la nature et la socie'te' humaine autres que Dieu ne les a faites et qu' elles ne sont re'ellement〕(ああいう連中は自然や人間社会を、神が造ったものとも、また実際におけるものとも、別なふうに想像している)よく人はああいう連中と遊びたがるものだが、少なくともスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイはそんなことをしない。わたしは〔avec cett che`re amie〕(わが親愛なる女友だちといっしょに)、ペテルブルグであの手合いに会ったが(当時、わたしは実際あのひとを侮辱したものだ!)、わたしはあの手合いの罵倒ばかりでなく、賞讃の言葉にさえ驚かなかった。今でも驚きゃしないよ。mais parlons d'autre chose(しかし、もうほかの話をしよう)……わたしはどうも恐ろしいことをしでかしたような気がする。まあ、どうだろう、わたしは昨日ダーリヤに手紙を出したんだ。そして……わたしは今となって、そんなことをした自分を自分で呪っている!」
「何を書いたんです?」
「ねえ、きみ、それもこれもみんな高潔な心持ちでしたことなんだ。わたしはあのひとにね、五日ばかり前ニコラスに手紙を出したと書いてやったのさ。これもやっぱり高潔な心持ちでしたことなんだよ」
「今こそわかった!」とわたしは熱くなって叫んだ。「どんな権利があって、あなたはそういうふうにあの二人を対照させるんです?」
「しかし、きみ、どうか最後の一撃を与えないでくれたまえ、そうどならないでくれたまえ、それでなくてもまるで……まるで油虫のように踏み潰されてしまってるんだから。それに、わたしはむしろ高潔なことと思ってるんだよ。まあ、かりに何か実際…… en Suisse(スイスで)何か起こった……いや、まあ、起こりかかったと仮定したまえ。わたしはあらかじめ、二人の心中を聞いておく義務があるじゃないか。|つまり《アンファン》、二人の心の邪魔にならないように、二人の行く手をふさがないようにさ……わたしはつまり高潔な心持ちからして……」
「まあ、本当に、なんて馬鹿なことをしたんでしょう!」わたしは思わず声を筒抜けさした。
「馬鹿なことだ、馬鹿なことだ」と彼は貪るような調子で引き取った。「きみの今までいった言葉の中で、一ばん気が利いてるよ。〔c'e'tait be^te, mais que faire, tout est dit〕(まったく馬鹿なことだ、が、仕方がない、してしまったことだもの)どうせ結婚するんだ。『他人の罪業』とだってかまやしない。してみると、手紙なぞ書く必要はなかったんだね? そうじゃないか?」
「あなたはまたそんなことを!」
「おお、今はもういくらどなっても、わたしをへこますわけにはいかない。いまきみの前にいるのは、依然たるスチェパン・ヴェルホーヴェンスキイじゃないよ。あれは、もう葬り去られたのだ。Enfin tout est dit(つまり、すべてが終わったのだ)。それに、いったいなんのためにどなるんだね? ほかでもない、要するに、結婚する当人がきみでないからだ、お定まりの飾りを頭へのせるのがきみでないからだ。それできみは気が気でないんだろう? きみはかわいそうなものだよ、きみはまだ女をしらないんだ。ところが、わたしはその研究を仕事にしているのだ。『もし全世界を征服せんとせば、まず汝みずからを征服せよ』これは義兄シャートフの、――きみと同じようなロマン派の言として、たった一つ成功したモットーなのだ。わたしはあの男の言を好んでここに引用するよ。そこで、わたしはみずからを征服するつもりだが、さてかちうるものはなんだろう、全世界はさておいてさ。ねえ、きみ、結婚というやつは、すべて誇り高き魂、独立不羈の心にとって、精神上の死なんだよ。結婚生活はわたしを淫佚にし、事業に奉仕すべき精力と勇気とを奪ってしまう。そして、子供でもできたら……それも或いは自分のものでないかもしれぬ――いいや、もちろん、自分のものではないのだ。賢者