京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP169-P192

て、だれでもそれに記入することができるって……」
 大尉は急に言葉を切った。彼は何か困難な仕事でもした後のように、重々しく息をついていた。この慈善会云々は、やっぱりリプーチンの仕組んだ筋書によって、あらかじめ用意して来たものらしい。彼はまたいっそうひどく汗をかいた。文字どおりに玉の汗がこめかみに滲み出ていた。ヴァルヴァーラ夫人は刺すような目で見入っていたが、
「その寄付帳は」と厳かな調子で切り出した。「いつも階下《した》の玄関番のところにありますから、もしお望みなら、そこで寄付額を書き込んでくださればよろしいのです。だから、どうぞそのお金をやたらに振り廻さないで、早くしまってくださいまし。ええ、そうそう。それから、どうぞ元のお席に着いてくださいませんか。ええ、そうそう。そこで、あなた、わたしはお妹ごさんのことで大変な思い違いをして、これほど裕福でいらっしゃるのも知らず、めぐみ金などして、まことに失礼でございました。ただ一つ合点がゆかないのは、なぜお妹ごはわたしからなら受け取って、ほかの人からはどうしてもお取りにならないのでしょう。あなたはこの点に力をお入れなさいましたから、わたしも十分正確なご説明を願いたいのです」
「奥さん、それは棺の中にのみ葬りうる秘密です!」と大尉は答えた。
「なぜですか?」とたずねたヴァルヴァーラ夫人の声は、もう前ほどきっぱりしていなかった。
「奥さん、奥さん……」
 彼は足もとを見つめて、右手を胸に当てながら、暗然たる表情で口をつぐんだ。
「奥さん!」彼は突然またどなり出した。「失礼ですが、一つ質問を提出さしていただきます。たった一つですが、その代わり露骨で直截で、ロシヤふうな、心の底からの質問です」
「さあ、どうぞ」
「奥さん、あなたはこれまでお苦しみになったことがありますか?」
「つまり、あなたがおっしゃりたいのは、あなたがだれかに苦しめられたことがあるとか、またはいま苦しめられているとか、そういうふうのことなんでしょう?」
「奥さん、奥さん!」自分で自分が何をしているかわからないようなふうで、彼は自分の胸をとんと叩きながら、またもや椅子を飛びあがった。「ここが、この胸の中が、実に、実に煮え返るようなのです。もし最後の審判《さばき》の日に、これをすっかりぶちまけてしまったら、神様でさえびっくりされるくらいですよ!」
「へえ、ずいぶん猛烈な言い方ですね」
「奥さん、ことによったら、わたしはいらいらした言葉づかいをするかもしれませんが……」
「ご心配はいりません、いつあなたの口を止めたらいいかってことは、自分でよく承知していますから」
「もう一つ質問を提出してよろしゅうございますか?」
「もう一つくらいいいでしょう」
「ただただ自分の高潔な心情のためのみに、死ぬことができるものでしょうか?」
「知りません、そんなことは考えたことがありませんから」
「お知りにならない? そんなことは考えたこともおありにならん!」と彼は悲痛な皮肉の調子で叫んだ。「そういうわけなら、そういうわけなら――

[#2字下げ]口を噤みね、望みなき胸!

だ!」と彼はもう一度いきおい猛に胸を叩いた。
 彼はまたぞろ部屋を歩き出した。こういう連中の特徴は、心の中に欲望を抑えつけておくことが、まるっきりできないという点であった。それどころか、彼らは何か欲望が生じるやいなや、だらしなくぶちまけてしまいたいという、やみ難い要求さえ感じるのであった。こういう連中は、少し自分より毛色の変わった社会へ入って来ると、まず最初馬鹿におどおどしているのが普通である。けれど、ちょっとでもこちらから下手に出ようものなら、もうさっそく一足飛びに、思い切り暴慢な態度を取るものである。大尉は今やすっかりのぼせあがって、歩き廻ったり手を振ったりして、人のたずねる言葉なぞ耳にも入れず、自分のことばかり早口にまくし立てた。どうかすると、舌縺れがして、一つの言葉をいい終わらないうちに、次の言葉に移ってしまう。もっとも、全然しらふでいたわけでもないのだ。一座の中にはリザヴェータが坐っていたが、彼はその方を一度も見なかった。しかし、この令嬢がいるために、恐ろしく動顛していたらしいが、これは単なる臆測にすぎない。とにかく、こう考えて来ると、ヴァルヴァーラ夫人が嫌悪の念を抑えて、こんな男のいうことをしまいまで聞こうと決心したには、何か特別な原因がなくてはならぬ。
 プラスコーヴィヤ夫人は、ただもう恐ろしさに顫えていた。もっとも、ことの真相ははっきりわかっていないらしかったけれど……スチェパン氏も同様に慄えていたが、この人はいつもの癖として、余計に気を廻し過ぎるためなのである。マヴリーキイは、一同の護衛者といったポーズで立っていた。リーザは真っ青な顔をしながら、大きな目をいっぱいに開けて、瞬きもせずにこの奇怪な大尉を見守っていた。シャートフはもとのままの姿勢だった。が、何より不思議なのは、マリヤが笑いやめたばかりでなく、恐ろしく沈み込んでしまったことである。彼女はテーブルの上に右手を肘突して、滔々と弁じ立てる兄の様子を、じっと食い入るような、愁わしげな目つきで注視していた。ただ一人ダーリヤのみが、平然と落ちついているように思われた。
「それはみんな一文にもならない諷喩《アレゴリ》です」ヴァルヴァーラ夫人はとうとう腹を立ててしまった。「あなたは『なぜ』というわたしの問いに答えませんでした。わたしは、あくまでそのお答えを待ってるんですよ」
「『なぜ』に対して答えなかったとおっしゃるんですか? 『なぜ』に対する答えを待っておられるんですって?」と大尉は目をしばたたきながらいった。「この『なぜ』という小さな言葉が、世界創造の第一日からして、全宇宙に漲り渡っているのですよ、奥さん。そして、自然界ぜんたいは創造主に向かって、一刻も絶え間なくこの『なぜ』を叫んでおりますが、もう七千年間というもの、答えをえないでいるのです。はたしてレビャードキン一人が、この答えを与えなきゃならんでしょうか? これがはたして公平といわれるでしょうか、奥さん?」
「それはみんな寝言です、見当ちがいです」とヴァルヴァーラ夫人は本当に怒ってしまった。もう我慢しきれなくなったのである。「それはアレゴリです。おまけに、あなたのものの言い方はあんまり飾りが多過ぎて、もうきざに思われるくらいですよ」
「奥さん」と大尉はそれには耳もかさないで、「わたしはエルネストと呼ばれたいくらいに思っているのですが、実際においては、イグナートなどという下品な名を持って歩かねばならぬ仕儀になっております、――それはいったいなぜでしょう、あなたなんとお考えになります? またわたしはド・モンバール公爵と呼ばれたいくらいに思っているのに、実際はただのレビャードキンです。白鳥《レーベジ》から取った名前です、――いったいなぜでしょう? 全体わたしは心からの詩人で、出版者から千ルーブリぐらいの金が取れるはずなんですが、実際はいぶせき茅屋《あばらや》に住まねばならぬ仕儀になっている。なぜでしょう、いったいなぜでしょう? 奥さん! わたしにいわせれば、ロシヤは運命の悪戯です、――それっきりです!」
「あなたはどうしても、ちゃんとまとまったことが何一ついえないのですか?」
「わたしは『油虫』という詩を朗読してお聞かせすることができます、奥さん!」
「なあんですって?」
「奥さん、わたしはまだ発狂してはおりませんよ! いずれ発狂するでしょう、いや、きっと発狂するでしょうけれど、まだ発狂しておらんです! 奥さん、ある一人の友だちが、――立派な一人の紳士が、『油虫』という題で、一つクルイロフ式の寓意詩を書いたのです――そいつを朗読してよろしいですか?」
「あなたは何かしら、クルイロフの寓意詩を朗読するつもりなんですか?」
「いいや、クルイロフの寓意詩を朗読しようというのではありません。わたしの詩です、わたしが自分で作ったものです! いいですか、奥さん、腹を立てられては困りますが、わたしはロシヤがクルイロフという偉大なる寓意詩人を所有してるのを知らないような、そんな無教育な、堕落した人間じゃありませんよ。クルイロフのためには文部大臣が、『|夏の園《レートニイ・サード》』に銅像を建てて、幼年者の遊び場にしてあります。ところで、奥さん、あなたは『なぜ』とおたずねになりますが、それに対する答えはこの寓意詩の裏に、焔のごとき文字で書かれてあるです!」
「じゃ、その寓意詩を読んでごらんなさい」

[#ここから2字下げ]
昔々一匹の
油虫めがおりました
子供の時から正真の
間違いなしの油虫
あるときふっと蠅捕りの
薬を入れたコップヘと
のこのこ入って行きました……
[#ここで字下げ終わり]

「ええまあ、それはいったいなにごとです?」とヴァルヴァーラ夫人は叫んだ。
「それはつまり夏にですな」朗読の邪魔をされた作者らしい、いらだたしそうな焦躁の表情で、やたらに手を振り廻しながら、大尉はせき込んでこういった。「夏、蠅がコップに集まると、それ、蠅が薬に酔ってふらふらになる。こんなことはどんな馬鹿でもわかります。まあ、口を出さんでください、口を出さんで。今にわかりますよ、今にわかりますよ……(彼はのべつ両手を振っていた)

[#ここから2字下げ]
油虫めの場所ふさぎ
おいらのコップが恐ろしく
狭うなったと蠅どもは
不平たらたらしまいには
ジュピター様にと大声で
喚き出したが、がやがやと
騒ぎの中にニキーフォルの
偉い老爺《じじい》が罷り出て……
[#ここで字下げ終わり]

 これからさきはまだ仕上げができていませんが、まあ、同じことでさあ、口でいいましょうよ!」大尉はせき込んで、じりじりしながらこういった。「ニキーフォルはコップを取って、がやがや騒ぎ立てるのもかまわず、その喜劇をそっくりそのまま、蠅も油虫もいっしょに、豚小屋へぶちまけてしまいました。実際、もう疾うにそうしてやるべきはずだったんですよ! ところが、いいですか、いいですか、奥さん、油虫は不平をいわなかったです! これがあなたの『なぜ』という問いに対する答えです!」と彼は大得意でどなった。「『あーぶら虫は黙々と、ちっとも不平をいわなんだ』そこで、ニキーフォルはどうかというと、これは自然を象徴したものなんです」と口早にこうつけ足して、さも満足そうに部屋の中を歩き出した。
 ヴァルヴァーラ夫人はもうすっかり腹を立ててしまった。
「それじゃおたずねしますが、あなたはニコライが送ってきた金を、すっかりあなたに渡さなかったといって、家にいるある一人の人物を責めたそうですが、いったいそれはどういう金なんですか!」
「そりゃ言いがかりです!」悲劇じみた恰好で右手を差し上げながら、レビャードキンは咆えるようにいった。
「いいえ、言いがかりじゃありません」
「しかし、奥さん、時としては、万やむを得ざる事情のために、無遠慮に真実を高唱するよりもですな、むしろ一家の屈辱に甘んじなくちゃならんことがあるもんですよ、奥さん。レビャードキンはけっして口外しませんよ」
 彼はもう有頂天になって、目が眩んでしまったらしい。彼は急に偉くなったような気がした。きっと何か妙なことを心に浮かべたに相違ない。彼はどうかして人を侮辱したり、醜態を演じたりして、それでもって自分の威力を見せたくてたまらなかった。
「スチェパン・トロフィーモヴィチ、どうかベルを鳴らしてくださいな」とヴァルヴァーラ夫人が頼んだ。
「レビャードキンはずるいですよ。奥さん」彼はいやらしい薄笑いとともに、目をぱちりとさせた。「ずるいですが、やっぱり弱味を持っております、情熱の入口を持っています! この情熱の入口は、かのジェニス・ダヴィドフ([#割り注]一七八一―一八三九年、ナポレオン侵略の際、遊撃隊として活躍した詩人[#割り注終わり])の唱ったお馴染みの軽騎兵の酒びんです。この入口に立ったとき、素晴らしい韻文の手紙を送るようなことをしでかすですよ、――しかし、後になると、ありったけの涙を流して、その手紙を取り戻したいと思うのです、実際、美の感情が崩されますからな、けれど、鳥が立ってしまった後で、尻尾を抑えることはできません! この入口に立った時にですな、奥さん、レビャードキンは侮辱に掻き乱された魂の、高潔なる憤激といったような意味合で、名誉ある令嬢のことについても、口をすべらすことがある。そこを敵に利用されたのです。しかし、レビャードキンはずるいですよ、奥さん! 意地の悪い狼が盃に酒を注《つ》ぎ込んでは、今か今かとその結果を待ち受けながら、じっと傍で見張っていますが、とても駄目なことです。レビャードキンはうっかり口をすべらす男じゃありません。いつもびんの底に残るのは、当てにしていた甘い汁でなくって、このレビャードキンの抜け目のないところばかりでさあ! しかし、たくさんです、もうたくさんです! 奥さん、あなたの立派なお館は、ある立派なご仁のものになるかもしれなかったのですが、しかし、油虫は不平をいいません! いいですか、まったくいいですか、けっして不平をいいませんからね。どうか偉大なる精神を認識してください!」
 ちょうどこの瞬間、下の玄関でベルの音が響きわたった。そして、スチェパン氏の鳴らしたベルに対して、少し顔を出し遅れたアレクセイが、ほとんど同時に姿を現わした。不断きちんととり澄ましたこの老僕が、今はなんだか恐ろしく狼狽している様子であった。
「若旦那さまがただ今お着きになりまして、さっそくこちらへおいでのところでございます」ヴァルヴァーラ夫人の不審そうな目つきに答えるように、彼はこう披露した。
 わたしは今でもこの瞬間の夫人を、はっきりと思い出すことができる。はじめ彼女はさっと顔をあおくしたが、とつぜん目がぎらぎら光り出したと思うと、なみなみならぬ決心をおもてに見せて、肘掛けいすの上できっと身を正した。それに、一同の者も実際びっくりしたのである。まだ一月たたなければこの町へ帰らないものと想像されていたニコライの、この意想外な到着は、単に思いがけないというばかりでなく、ちょうどこの運命的な瞬間に遭遇した点において、なんともいえない奇怪な感じを与えた。さすがの大尉も部屋の真ん中へ棒立ちになって、大きな口をぽかんと開けたまま、馬鹿げきった様子をして、戸口のほうを見やるのであった。
 と、隣室の大きな長いホールから、しだいに近づいて来るいそがしげな足音が聞こえてきた。だれか恐ろしく小刻みな足音で、まるで転がってでも来るようであった、――と、いきなり客間へ飛び込んで来たのは、ニコライとはまるで違った、だれひとり見覚えのない青年だった。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 わたしはちょっとここで物語の進行を止めて、とつぜん現われてきたこの人物の輪郭を、ざっと描いておくことにする。
 これは年の頃二十七かそこいらの若者で、中背よりも少し高く、かなり長い髪は薄くて白っぽく、ちょぼちょぼとした口ひげや顎ひげは、やっと見えるか見えないかであった。みなりはさっぱりとして流行ふうだったが、さりとて伊達男というほどでもない。ちょっと見には、ずんぐりむっくりして不恰好のようだが、けっしてずんぐりむっくりどころでなく、かえってとりなしは捌けたほうである。なんだか変人らしくも思われるが、その後、町の人たちの噂によると、彼の言語挙動は作法にかなって、話しぶりも場所がらにはまっていた。
 容貌にしても、けっして醜いという者はなかろうが、その顔はだれにも好かれなかった。後頭が少し長めになって、まるで両わきから押し潰されたような具合なので、顔までが妙にとがって見えた。彼の額は高くて狭く、顔の輪郭はこせこせしている。目は鋭く、鼻は小さく尖って、唇は長くて薄かった。全体の顔の表情は病的なようであったが、それはただそう思われるというまでのことだ。頬から顴骨のほうへかけて、なんだかかさかさしたような線が浮かんで、そのために重病の回復期にある人らしく見えるが、実際はまったく健康で体力も強く、今までまるで病気したこともないくらいだった。
 彼はやたらに忙しそうに歩いたり、動きまわったりする。が、別段どこといって急いでいるわけでもない。彼は見たところ、どんなことがあってもへこまされそうにない。どんな事情の下におかれても、どんな人の中へ出ても、平然としていそうである。非常に自己満足の性質を持っているけれど、自分ではそれに気もつかない。
 彼の話は早口で忙しそうであったが、同時に恐ろしく自信に富んでいて、まごついて言葉をさがし廻るようなことはなかった。その急がしそうな様子にも似ず、彼の思想は平静で、明瞭で、きっぱりしている、――これがとくに目立つのであった。発音は驚くばかり明晰だった。まるでちゃんと拾い分けて、いつでも役に立つように用意してある、綺麗に揃った大振りな豆粒みたいに、言葉が後から後からと撒き出されるのだ。だれも初めはこれが気に入るけれど、後にはだんだんいや気がさして来る。それはただあまりに明晰なこの発音のためである、ちゃんと用意のできた南京玉のような言葉のためなのである。彼の口の中に隠れている舌は、きっと一種特別な恰好をしているに相違ない、恐ろしく細長くて、やたらに赤く、しかも、さきがむやみに尖って、ひとりでに絶え間なく動きつづけているに相違ない、こういったような感じがしだいに強くなって来る。
 で、この青年がいま客間へ飛び込んで来たのである。実際のところ、わたしは今でもやっぱり、この青年が次の間あたりから話しかけて、そのまましゃべりながら入って来たように思われて仕方がない。彼はたちまちヴァルヴァーラ夫人の目の前に現われた。
「……まあ、どうでしょう、奥さん」と彼は南京玉を撒き散らすような調子でいった。「ぼくはもうあの人が十五分くらい前に、ここへ来ているものと思って入って来たんですよ。あの人が着いてから、もう一時間半になりますよ。ぼくらはキリーロフのところで落ち合ったのです。あの人は三十分前に、真っ直ぐにこちらへ向けて出かけましてね、ぼくにも十五分ばかりたったら、やっぱりこちらへ出向くようにと、いいつけて行ったんですがね……」
「え、まあ、だれのことですの? だれがこちらへ来いといいつけたんですの!」とヴァルヴァーラ夫人はたずねた。
「だれって、ニコライ君にきまってるじゃありませんか! じゃ、あなたは本当に今はじめてお聞きになるんですか? しかし、それにしても、荷物がとっくに届いていそうなもんですが、どうしてあなたに知らせなかったんでしょう? じゃ、つまり、ぼくが第一番にお知らせしたわけなんですね。どこかへあの人を迎えにやってみてもいいですが、きっと間もなくお見えになるでしょう。あの人のいだいてるある期待に符合する時刻にね。少なくも、ぼくの判断するところでは、あの人のいだいているある目算に符合する刻限にね」と、ここで彼は部屋の中を一巡ぐるりと見廻したが、その目はとくに大尉のうえに注意深く据えられた。「ああ、リザヴェータさん、来るとさっそくあなたとお目にかかれるなんて、実に愉快ですな。こうしてあなたのお手を握るのは実に嬉しいです」と彼は素早く飛んで行って、愉しげにほほえみつつ、差し伸べられたリーザの手を握った。「それから、お見受けしたところプラスコーヴィヤさんも、この『先生』を忘れていらっしゃらないようですね。スイスではいつも怒ってばかりいらっしゃいましたが、今はべつにご立腹の模様もありませんね。ときに、ここへいらしってからおみ足はいかがですか? そして、故国の気候の効能を説いたスイスの医者の言葉は本当でしたろうか? え? 湿布ですって? きっと、ききめがあるに相違ないでしょう。しかし、奥さん(と彼はまた素早くヴァルヴァーラ夫人のほうへ振り向いた)、ぼくはあのとき外国でお目にかかって、新しく敬意を表することができなかったのを、どんなに残念に思ったでしょう。それに、いろいろとお知らせしたいこともあったんですからね。ぼくがここへ来るってことは、うちの爺さんに知らせといたんですが、この人は大方、例によって例のごとく……」
ペトルーシャ!」([#割り注]ピョートルの愛称[#割り注終わり])忽然として茫然自失の状態から醒めたスチェパン氏は、ふいにこう叫んで両手を鳴らしながらわが子のほうへ飛びついた「Pierre!([#割り注]ピョートルのフランス読み[#割り注終わり])倅《モナンファン》! わたしはお前を見それていたよ!」彼はわが子をじっとだき締めた。涙はその目からはふり落ちた。
「ちえっ、冗談はおよしよ、冗談は。身振りは抜きにしてもらいたいな、さあ、たくさんたくさん、後生だから」父の抱擁を免れようと努めながら、ペトルーシャは忙しそうにこういった。
「わたしはいつもお前にすまんことばかりしていた!」
「もうたくさんだってば、その話は後にしましょうよ。きっとふざけた真似をはじめなさるだろうと思っていたが、はたせるかなだ。さあ、少し真面目になってくださいな、後生だから」
「だといって、わたしはもう十年からお前を見なかったんだよ!」
「それだから、なおさらそんな芝居めいたせりふを並べるわけはないじゃないか……」
「倅《モナンファン》!」
「いや、わかってるよ、お父さんがぼくを愛してくれることは、よくわかってるよ。さ、その手をどけてください。だって、ほかの人の邪魔になるじゃないか……おや、ニコライ君が見えた。ね、冗談はよしにしよう、お願いだから!」
 実際、ニコライはもう部屋の中に入っていた。彼は静かに入って来ると、戸口のところでちょっと立ちどまって、じいっと一座を見廻した。
 四年前はじめて見た時と同じように、今度もわたしは一瞥してすぐ彼の容貌に打たれた。けっして彼の顔を見忘れたわけではないが、よく世間にはいつでも会うたびに何か新しいあるもの、――よしんば今まで百ぺんくらい会ったことがあるにせよ、以前少しも気のつかなかったようなあるもの、――を表わして見せる容貌の所有者があるものだ。もっとも、一見したところ、彼は四年前と同じようだった。同じように優美で、同じように尊大で、同じように若々しく、そして、入って来た時の態度もあの時のままに尊大であった。軽い微笑は同じように礼儀ばった愛嬌を帯びて、また同じように自足の色を表わしているし、眼ざしは同じように厳めしく考え深そうで、しかも何となく放心したようであった。要するに、われわれは昨日別れたばかりのような気がしたほどだ。が、ただ一つわたしを驚かしたことがある。ほかでもない、以前は美男子の定評はあったけれども、社交界の口悪な婦人仲間で噂したとおり、彼の顔は実際『仮面《めん》に似て』いた。ところが、今はどうだろう、――今はなぜだか知らないけれど、わたしは彼を一目見るなり、何一つ非の打ちどころもない立派な美男子だと感じた。もはや彼の顔が仮面《めん》に似ているなどとは、どうしてもいうことができなかった。それは以前より心もちあおざめて、いくぶん痩せて見えるせいだろうか? それとも、何か新しい観念が、いま彼の目に輝いているためだろうか?
「ニコライ!」ヴァルヴァーラ夫人は、肘掛けいすから下りようともせず、ぐっと身をそらして、高圧的な身振りでわが子を押し止めながら叫んだ。「ちょっとそこに待っててちょうだい!」
 しかし、この身振りと叫びに続いて発せられた恐ろしい質問、――ヴァルヴァーラ夫人のような性質の人からさえも、とうてい予想することのできないような、あの質問を明らかにするために、わたしは読者諸君に対して、ヴァルヴァーラ夫人の性質が常にどんなものであったか、想起せられんことを望んでおく。実際、夫人は何か異常な瞬間に遭遇すると、まるで前後を忘れてしまって、思い切ったことを平気で断行するというふうであった。それから、もう一つ頭に入れといてもらいたいのは、夫人は意志が鞏固で、相当の分別もあれば、実際的(家政的といってもいいくらい)の手腕にも長けているにかかわらず、その生涯の間には、突然なにもかも忘れてしまって、こらえじょうなしに(もしこんな言い方が許されれば)、自分の感情に没頭してしまう瞬間が、ほとんど絶え間なしに続いていたことである。それから最後に、もう一つ注意を払っておいてもらいたいことがある。ほかではない、今のこの瞬間は彼女にとってまったく重大な意義を帯びたもので、この一瞬間のうちには、ちょうどレンズの焦点のように、生活の本質、――過去、現在、もしかしたら、未来の真髄までがことごとく圧搾され、封じ込められていたかもしれないのである。それから、なお一ついっておかねばならぬのは、夫人の受け取った無名の手紙である。さきほど夫人はプラスコーヴィヤに向かって、いらいらした調子でこの手紙のことをいい出したが、どうやら立ち入った内容にいたっては口を緘していたらしい。どうして夫人がわが子に向かって、あんな恐ろしい問いを発することができたか、という不思議な謎を解く秘|鑰《やく》も、もしかしたら、この手紙の中に潜んでいるのかもしれない。
「ニコライ」と夫人は一句一句明確に句ぎりながら、しっかりした調子でくり返した。その声には、恐ろしい挑むような意気込みが響いていた。「あなた後生だから今すぐ、この場を動かないで返答をしてください。いったいあの不仕合わせなびっこの婦人、――ほら、あのひとです、ごらんなさい、あそこにいます! いったいあのひとが……あなたの正当な妻だというのは、本当のことですか?」
 わたしはこの時のことをはっきりおぼえている。彼は目ばたきもしないで、じっと母親を見つめた。そして顔色を微塵も変えなかった。やがて、妙にへりくだったような微笑を浮かべながら静かににやりとしたかと思うと、ひと言も答えないで、おもむろに母に近寄ってその手を取り、うやうやしく唇へ持って行って接吻した。彼がいつも母親に与える打ち克ち難い力が、ここでもまた強くヴァルヴァーラ夫人に働いたので、夫人はすぐその手を振り払う勇気がなかった。夫人は全身一つの質問に化したかと思われるほど、じっとわが子の顔を見つめていた。この様子を見ただけで、もう一瞬間このままで続いたら、夫人はとうてい未知の苦悶に耐えきれないだろう、と察しられた。
 しかし、彼は依然として無言のままであった。母の手を接吻すると、いま一ど部屋の中をぐるりと見廻した。そして、やっぱり悠々たる足取りで、マリヤのほうへ向けて歩き出した。ある瞬間における人間の表情を描写するのは、非常にむずかしいものである。たとえば、わたしの記憶している範囲では、マリヤは驚きのあまり麻痺したような表情をしながら、彼を出迎えるつもりらしく立ちあがり、まるで哀願でもするように両手を組み合わせた。が、同時に、歓喜の色がその眼ざしに浮かんだのを、わたしは確かにおぼえている。それは、彼女の輪郭まで曲げてしまうようなもの狂おしい歓喜、――人間の心には堪え難いほどの烈しい歓喜だった。或いは驚愕も歓喜も、両方ともあったかもしれない。けれど、わたしは自分があわてて彼女の傍へ摺り寄ったのを今だに覚えている(わたしはほとんど彼女のすぐ傍に坐っていた)、彼女が今にも卒倒しそうに思われたからである。
「あなたはここにいらっしゃるわけにまいりません」と彼は優しいメロディックな声でマリヤにいった。その目にはなみなみならぬ優しさが輝いていた。
 彼は非常なうやうやしい態度で彼女の前に立っていたが、その一挙一動にも、偽りならぬ尊敬の色が表われていた。『不仕合わせな女』はせき込んで息を切らしながら、ささやくような声で呟いた。
「わたし……今……あなたの前に、膝をついてよろしゅうございますか?」
「いいえ、それはどうしてもいけません」と彼は鮮やかにほほえんで見せた。すると、彼女もそれに釣られて、嬉しそうににっと笑った。
 彼は例のメロディックな声で、まるで子供かなんぞのように言葉やさしくすかしながら、ものものしい調子でこういい足した。
「まあ、考えてごらんなさい。あなたは娘さんのお身の上でしょう。それに、わたしはあなたにとって、真実なお友だちではありますけれど、それだってやっぱり赤の他人です。夫でもなければ、お父さんでもなく、また許婚《いいなずけ》というわけでもありません。さあ、お手を貸してください。お伴しましょう。わたしが馬車までお見送りしますから。しかし、お望みでしたら、お宅まで送って差し上げましょう」
 彼女は男の言葉を聴き終わると、何か思案げに小首をかしげた。
「まいりましょう」と彼女は吐息をつき、手を差し出しながら、こういった。
 けれど、ちょうどこの時、小さな不幸が彼女の身に生じた。きっと不注意に身を転じて、病んでいる短いほうの足から踏み出したためだろう、彼女は横ざまにどっと肘掛けいすの上に倒れた。もしこの肘掛けいすがなかったら、彼女は床の上へほうり出されたかもしれない。ニコライはたちまち手を伸べて彼女を抱き留め、しっかりと腕を組み合わせながら、情けをこめてそろそろと戸口へ連れて行った。彼女は明らかに、自分の失策を悲しんでいるらしく、どぎまぎしながら真っ赤になって、恐ろしく恥じ入った様子であった。無言のまま足下に目を落とし、烈しくびっこを引きながら、ほとんど男の手にぶらさがるようにして、その後にしたがった。こうして、二人は出て行った。リーザは(わたしはちゃんと見ていた)、とつぜんなんのためやら肘掛けいすから躍りあがって、二人が戸の陰に見えなくなるまで瞬きもせずに見送った。やがて無言のまま再び腰を下ろしたが、その顔にはまるで何やら毒虫にでもさわったような、痙攣的な顫動が見られた。
 ニコライとマリヤとの間にこの場面が続いているうちは、みんな呆っ気に取られて鳴りを潜めていた。それこそ蠅の羽音まで聞こえそうなほどだった。が、二人が出て行くと同時に、一座は急にがやがやと話し出した。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 もっとも、それは話というより叫びに近かった。その時の細かい順序は、わたしももはやはっきり覚えていない。なにしろ、何もかもめちゃめちゃになってしまったのである。スチェパン氏はフランス語で何か叫んで、両手をぱちりと鳴らした。が、ヴァルヴァーラ夫人はそれどころでなかった。マヴリーキイさえも何やら早口に、きれぎれな調子でつぶやいた。けれど、だれよりも一番あつくなったのはピョートルだった。彼は盛んな身振りをしながら、何やら一生懸命にヴァルヴァーラ夫人を説いていたが、わたしは長い間なんのことだか会得できなかった。彼はまたプラスコーヴィヤ夫人や、リザヴェータにもときどき言葉をかけたが、その間にはつい夢中になって、――父親にも何やらどなりつけていた、――手短かにいえば、彼は部屋じゅうをくるくる飛び廻っているのだった。ヴァルヴァーラ夫人は真っ赤になって、思わず席を飛びあがりかけると、プラスコーヴィヤ夫人に向かって、『あんた聞いて? あれが今ここであの女にいったことを聞いて?』と叫んだ。けれど、こちらはもう返事ができず、ただ手を振って、何やらもぐもぐいうばかりだった。哀れなプラスコーヴィヤは自身に心配を持っていたのだ。彼女はひっきりなしにリーザのほうへ首を向けて、ゆえのない恐怖に慄えながら、娘を眺めるのであった。娘が席を立たないうちに、立ちあがって出て行くなどとは、思いも寄らぬことであった。大尉はこのどさくさ紛れに、すべり抜けようと思ったらしい。それはわたしも気がついた。ニコライが入って来た瞬間から、すっかりいじけ込んでしまったのは、ありありと見え透いていた。しかし、ピョートルはその手をつかまえて逃さなかった。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません、ぜひともそうしなくちゃ」と彼は例の南京玉を撒き散らすような調子で、相変わらずヴァルヴァーラ夫人を説きつづけた。
 彼は夫人の前に突っ立っていた。夫人はもう肘掛けいすに腰を下ろして、わたしの覚えている限りでは、貪るように相手の言葉に耳を澄ましていた。ところが、これがこちらの思う壺だった。彼は首尾よく夫人の注意を奪ってしまったのである。
「そりゃ、ぜひともそうしなくちゃなりません。奥さんもご覧のとおり、これには誤解があるのです。そして、ちょっと見には、いかにも奇怪千万なことだらけのようですが、事実、この出来事は蝋燭のごとく明瞭で、手の指のごとく単純なものなんです。ぼくは別にだれからも一部始終の顛末を話してくれと依頼されたわけではないです。かえって自分から差し出がましいことをするのは、あるいは滑稽に属するかもしれませんが、しかし、まず第一に、ニコライ君自身はこの事件に、なんの意味も認めていられないし、また世間には往往、自分であえて説明するのが具合が悪いために、ぜひともそれをよりたやすく述べられる第三者の労を必要とするような、デリケートな事柄を含んだ場合もまたありがちのことですからね。まったくですよ。奥さん、ニコライ君はさっきあなたの問いに対して、すぐ端的に明瞭に返事をされなかったですが、けっしてあの人が悪いのじゃありません。なにしろ馬鹿馬鹿しい話なんですからね。ぼくはもうペテルブルグ時分からこの話を知ってるんですよ。それにこのエピソードはかえってニコライ君のために、名誉を増すことになるくらいですよ、もしぜひともこの『名誉』というような曖昧な言葉を使わねばならんとすればですね……」
「では、つまり、あなたはこの……誤解の原因となったある事件の、実見者だったとおっしゃるのですか?」とヴァルヴァーラ夫人がたずねた。
「実見者でもあり、関係者でもあったのです」とピョートルはさっそくひき取った。
「もしあなたが、わたしに対するニコライの優しい感情をけっして侮辱しない、と誓ってくださるならば……あれは何一つわたしに隠し立てしないのですから……それからまた、ニコライがかえってよろこんでくれる、という自信があなたにおありでしたら……」
「そう、そりゃもうよろこぶに相違ありません。それだからこそぼくは自分でもこれを非常なよろこびとしているのです。ぼくはむしろ、あの人のほうから進んで頼むだろう、と信じてるくらいです」
 まるで天から降って来たようなこの紳士が、自分のほうから押しつけがましく、他人の身の上を話そうなぞといい出すのは、ずいぶん奇怪なことでもあり、また普通のやり方とも違っていた。しかし、彼はヴァルヴァーラ夫人の一ばん痛いところへ触れて、まんまと思う壺へはめてしまったのである。当時わたしは、まだこの男の性質もまったく知らないくらいだったから、その目論見なぞはなおさらわかろうはずがなかった。
「では、お聴きしましょう」自分の譲歩をいくぶん心苦しく感じながら、ヴァルヴァーラ夫人は控え目な用心ぶかい調子でこういった。
「話はごく簡単なんです。あるいは厳密な意味において、事件ということはできないかもしれません」と彼は南京玉を撒き散らし始めた。「もっとも、小説家に聞かせたら、退屈まぎれに一編の物語にでっち上げるかもしれません。かなり面白い話ですからね、プラスコーヴィヤさん、それにリーザさんも、興味をもって聴いてくださることと思います。なぜって、これには不思議とまではゆかないでしょうが、なかなかふう変わりな点がたくさんあるんですから。五年ばかり前ニコライ君はペテルブルグで、初めてこの先生と知り合いになられました。――そら、このレビャードキン先生です。先生、口をぽかんと開けて立ってるが、今にも抜け出そうと身がまえてるようですね。いや、奥さん、ごめんください。ねえ、きみは今ここを逃げ出さないほうがよかろうぜ、糧秣局の退職官吏さん(どうだね、よく覚えてるだろう)。きみがここでやった小細工は、ぼくにもニコライ君にも、わかり過ぎるくらいわかってるんだから、きみはその責任を明らかにする義務があるんだよ、忘れちゃいけないぜ。いや、奥さん、失礼しました、もう一度お詫びいたします。ニコライ君は当時この先生のことを、ファルスタッフといっておられましたが、それはきっと(彼はとつぜん説明を始めた)、それは以前どこかにいた burlesque(滑稽)な人物で、人もこの男を笑い草にしていたし、また自分でも平気で笑い草にされて、ただ金さえもらえばいい、というふうだったんでしょう。ニコライ君は当時ペテルブルグで、なんといいますか、嘲笑的生活を送っておられました。ぼくはこれ以外、当時のあの人の生活を形容すべき適当な言葉を発見することができません。なぜって、あの人はけっして幻滅などに陥る人じゃありませんし、また仕事などというものは当時すっかり馬鹿にしきって、少しも手を出さなかったんですからね。奥さん、ぼくはただあの時のことだけをいってるんですよ。ところで、このレビャードキンには妹がありました。そら、たった今までここに坐ってた女ですよ。この兄貴と妹は、自分の棲家というものを持っていなかったので、人の家ばかりごろつき廻っていました。先生のほうは勧工場の廊下をうろうろして(きっと以前の制服を着てたに相違ありません)、小綺麗ななりをした通行人の袖を引いたものです。そして、もらい集めた金は、みんな飲みしろにしてしまうのです。妹のほうはまるで空の鳥と同じような口すぎをしていました。つまり、方方の貧乏長屋の手伝いをしたり、忙しい時の使い走りなどしていた。いやはや、なんともいえない恐ろしい乱脈でしたが、まあ、こんなどん底生活の描写はぬきにしましょう。とにかく、ニコライ君もその偏屈な性癖のために、この生活に没入してしまわれたのです。奥さん、ぼくはただ当時のことだけをいってるんですよ。ところが、この『偏屈』というのは、ニコライ君自身いったことなんです。あの人はいろんなことをぼくにうち明けてくれますのでね。あの人は一頃マドモアゼル・レビャードキナにしょっちゅう出あう機会がありましたが、嬢はあの人の美貌に打たれてしまったのです。なにしろ、あの人は嬢の生活のむさくるしい背景に、一点かがやきだしたダイヤモンドみたいなものなんですからね。ぼくは微妙な感情の描出などということにかけては、しごく不得手なほうですから、いい加減にして先へ行きましょう。しかし、うるさい木っ葉連どもが、さっそくあの女をいい笑い草にしてしまったので、あの女はひどくふさぎ込むようになりました。なに、あの女はいい加減みんなの笑い草にされていたのですが、それまでは自分でも気がつかなかったので。もうその頃から頭が変でしたが、しかしそれでも、今ほどじゃありませんでしたよ。子供の時分には、だれか世話になった奥さんのおかげで、ちょっと教育も受けたらしい形跡があるんでね。ニコライ君はあの女なぞには一顧も与えないで、たいていいつも小役人どもを相手に、古い脂じみたカルタを握って、二厘五毛賭けのプレフェランス([#割り注]勝負の名[#割り注終わり])をやっておられました。ところが、ある時またあの女をからかったものがあった。その時ニコライ君はわけもたださないで、いきなりその小役人の襟髪を引っつかむが早いか、二階の窓から外へほうり出してしまったのです。しかし、これは虐げられたる無辜に対するナイト式感憤、などというようなものではけっしてありません。この荒療治はみなのきゃっきゃっという笑い声の中で行なわれたのです。そして、当のニコライ君などは、だれよりも一ばん余計に笑っていましたよ。で、万事おだやかに落着してしまった時、双方が揃ってポンス酒を飲み出したくらいです。けれど、その『虐げられた無辜』どののほうで、このことをいつまでも忘れなかった。で、結局、あの女の知的能力が根本から震撼されたのは申すまでもありません。ぼくは微妙な感情の描写は不得手です。これはくり返しお断わりしておきますが、しかし、ここでおもな働きをしているのは空想です。しかも、ニコライ君はまるでわざとのように、この空想を突っつくようなことを仕向けたのです。てんで頭から笑ってしまえばいいものを、なんと思ったか、突然思いがけないうやうやしい態度で、レビャードキナ嬢を遇し始めたのです。当時あちらのほうにいたキリーロフも(恐ろしいふう変わりな男ですよ、奥さん。そして、恐ろしいぶっきら棒な男なんですがね、たぶんどっかでお逢いになるでしょう。今こちらへ来ていますから)。で、このキリーロフが不断むっつりしているたちにも似ず、急に憤慨しだして、今でも覚えていますが、ニコライ君に忠告したものです、――あなたはあの婦人を、まるで侯爵夫人のようにあしらっておられるが、そんなことをすると、もう取り返しのつかないほど、あの女の運命を粉砕することになる、とこうです。念のために申しておきますが、ニコライ君も幾分このキリーロフを尊敬してましたよ。ところで、あの人がどう答えたとお思いになります。『キリーロフ君、きみはぼくがあの女をからかってると思ってるようだが、それは考え違いだ。ぼくは本当にあの女を尊敬してるんだ。だって、あの女はわれわれのだれよりも優れてるからさ』しかもね、奥さん、それが実に真面目な調子なんですよ。ところが、あの人はこの二、三か月の間あの女に向かって、ただ『今日は』と『さよなら』のほか、まったく一言も口をきかなかったんです。ぼくはその場にいた人間だからよくおぼえていますが、しまいにはあの女がニコライ君を、自分の許婚みたいに考えるようになった。この許婚の夫が自分を「盗み出して」くれないのは、ただ彼に大勢の敵がいたり、家庭上の障碍があったりするためだ、とかなんとか、そんなことを信じるまでにいたったのです。まあ、とにかくみんな笑わされたもんですよ! そうこうしているうち、ニコライ君はこちらへ来ることになったが、出発する前に、あの女に補助金を出してやるように手続きされました。しかも、かなりまとまった年金で、おそらく三百ルーブリより少なくはないと思います。手っとり早くいえば、このことはニコライ君のがわから見ると、時ならずして疲労を感じ始めた男の妄想、――出来心ともいい得るでしょう。ことによったら、キリーロフのいったように、すべてに飽満を感じている男が、気の狂った片輪ものをどのくらい夢中にすることができるか、一つためしてやれというような目的で、書いた狂言にすぎないかもしれません。『きみはわざわざ屑の屑ともいうべき女を選り出した、永劫に消えない汚辱と、打擲《ちょうちゃく》の痕におおわれた片輪ものを選び出したのだ、――しかも、その女がきみ自身に喜劇めいた恋をいだいて、焦れ死に死にそうなのを百も承知でいるくせに、きみはわざとそれを惑わすようなことをするじゃないか。しかも、その目的は、ただただこうすればどうなるだろう? という好奇心にすぎないんだからね!』とこうキリーロフはいっていました。しかし、いつも二こと以上言葉をかけたことのない、気ちがい女の妄想に対して、特別どういう責任があるんでしょう? ねえ、奥さん、世間には気の利いた体裁で話せないばかりでなく、第一、話し出すのさえ間が抜けて見えるようなことが、ままあるものです。まあ、やっぱり『偏屈』くらいのところでしょうね、――それ以外なんともいいようがありませんもの。ところが、それだけのことから大騒ぎが持ちあがったんですよ……奥さん、ぼくはここでどういうことが起こってるか、たいてい承知してますよ」
 話し手はふいに言葉を切って、レビャードキンのほうへ向こうとしたが、ヴァルヴァーラ夫人が急に彼を押しとめた。夫人はもうすっかり感動してしまったのである。
「もうしまいまでお話しになりまして?」と彼女はたずねた。
「いや、まだです。ぼくは自分の説明を完全にするために、もしお許しくださるなら、ちょいとこの先生に訊問したいことがあるんです……今にすっかり真相がおわかりになりますよ、奥さん」
「たくさんです、それは後にして、ちょいと待ってください、お願いですから。ああ、あなたの話をとめないで、本当にいいことをしました!」
「それにねえ、奥さん」とピョートルは跳ねあがるような調子で、「実際、ニコライ君だって、さっきあなたの質問に対して自分で返答ができたとお思いになりますか、――あの質問はどうも、あまり思い切りがよすぎましたからね」
「ああ、まったくあんまりでした」
「それに、ぼくがああいったのは実際でしたろう、――つまり、――ある場合には、当事者自身より、第三者のほうがずっと説明しやすいってことです!」
「ええ、ええ……だけど、ただ一つあなたは考え違いをしていらっしゃいました。そして、残念ながら、今でも引き続いて考え違いしていらっしゃるようでございます」
「そうですか? なんでしょう?」
「ほかではありません……ですが、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたお坐りになってはいかがです」
「ああ、それはどうともお気に召したように。ぼくも少々疲れましたから、ありがたくお請けしましょう」
 彼はたちまち肘掛けいすを前へ引き出した。そして、ちょうど一方にヴァルヴァーラ夫人、いま一方にはテーブルに対坐したプラスコーヴィヤ夫人を控え、しかも、レビャードキン氏を真正面に見据えるような位置へ、うまく肘掛けいすを落ちつけてしまった。彼はちょっとの間も大尉から目をはなさなかった。
「つまり、あなたがこの事件を、一概にあれの『偏屈』といいきっておしまいになるのを、わたしお考え違いだと申すのでございます……」
「ああ、もしそれがただ……」
「まあ、まあ、まあ、ちょっと待ってください」とヴァルヴァーラ夫人は夢中になって、滔々と弁じ出しそうな気がまえを見せながら、相手を押し止めた。
 ピョートルはそれに気がつくやいなや、さっそくからだ全体を注意そのものにした。
「違います、あれには何か『偏屈』以上のものがあります、神聖なといっていいくらいのものがあります! 誇りが強くて、しかも、あまりに早く侮辱を感じ、それがために恐ろしく『冷笑的』な態度を取るようになった、一個の人間なのです。あなたがお下しになったこの評言は、まったく正鵠を穿っております。つまり、あの当時スチェパン・トロフィーモヴィチのおっしゃった、ハーリイ王子という立派な比較につきていますよ。この比較はぜんぜん正確といっていいくらいですけれど、少なくもわたしの見たところでは、どちらかというと、ハムレットのほうに余計似ているようでございます」
「Et vous avez raison(あなたのお言葉も一理あります)」情をこめた重々しい調子で、スチェパン氏はこういった。
「ありがとうございます。スチェパン・トロフィーモヴィチ。いつもあなたがニコラスを信じてくだすったのを、あれの心情と使命の気高さを信じてくだすったのを、とりわけありがたく思っているのですよ。わたしがすっかり落胆しそうになった時でさえ、あなたは、わたしの心にこの信仰を維持さしてくださいました」
「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》……」
 スチェパン氏はもう一ど踏み出しかけたが、いま話をさえぎるのは危いと考え直して、足を止めた。
「もしいつもあれの傍に」と夫人はもう半ば歌でもうたうように続けた。「ホレーショのように、落ちついた、偉大な隠忍の友がついていたら(スチェパン・トロフィーモヴィチ、これもあなたのおっしゃった美しい表現ですよ)、あれは疾うにあのいつもいつもあれを苦しめてきた『思いがけない憂欝な冷笑の悪魔から』救われていたに相違ありません(この冷笑の悪魔というのも、やっぱりあなたのおっしゃったことなんですよ、スチェパン・トロフィーモヴィチ)。けれど、ニコラスにはホレーショもなければ、オフェリヤもなかったのです。もっとも、あれには一人の母親がありましたが、ああいう場合、母親一人きりでどれほどのことができましょう。ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしはどういうわけで、ニコラスみたいな人間が、今あなたのお話なすったような穢らわしい、洞穴みたいなところへ出入りする気になったか、その心持ちがだんだんよくわかって来るように思われます。今こそわたしは、その人生に対する『冷笑的な態度』も(本当に驚き入った正確な評言です!)飽くことを知らぬコントラストの渇望も、あれが『ダイヤモンドのように』輝き出でた暗澹たる背景も(『このダイヤモンド』もあなたのお言葉ですよ、ピョートル・スチェパーノヴィチ)、何もかもはっきり想像することができます。ところが、ちょうどそういう場所で、あれは世間から虐げられた一人の哀れな人間に出くわしたのです。その女は半分気ちがいみたいな片輪ものかもしれませんが、あるいは同時に、高潔な感情をいだいていたかもしれません!………」
「さよう……あるいはまあ……」
「ところが、これから後がまるであなたにわからないのです。あれはけっして皆と同じように、あの女を冷笑しておりません! まったく世間の人はねえ! あなた方はおわかりにならないでしょうが、あれは迫害者の手からあの女をかばっているのです。『侯爵夫人に対するような』尊敬をもって、あの女を包んでいるのです(そのキリーロフとかいう人は、非常に深く人間を知っておられるに相違ありません、もっとも、ニコラスを理解することはできなかったのですけれど!)。まあ、それはとにかく、つまり、そのコントラストのために悲劇が起こったのです。もしもあの不仕合わせな女が別な境遇にいたら、あれほど頭を晦ましてしまうような、烈しい空想をいだくにはいたらなかったでしょうにねえ。女です、女です。女でなければ、とてもその心持ちはわかりません。ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたが……いえ、何もあなたが女でないのを悲しむわけではありませんが、せめて今ちょっとの間だけでも、この心持ちを理解するためにね!」
「それはつまり、悪ければ悪いほどますますよくなるという、その意味合でおっしゃるのでしょう。わかりますよ、奥さん、ぼくだってわかりますよ。それはつまり、宗教などで見受けるのと、同じ性質のものでしょう。人間の生活が苦しければ苦しいだけ、一国民の状態が貧しく虐げられていればいるだけ、いよいよ天国の酬いを空想する念が執拗になって来る。しかも、かてて加えて、十万人からの坊主どもが一生懸命に骨折って、その空想に油をかけ、薪《たきぎ》を添えるようなことをすれば、それはもう……ぼくはよくあなたの心持ちがわかりますよ、奥さん、どうぞご安心ください」
「それはどうやら十分あたっていないようですが、まあ、あなたはどうお思いになります。いったい、ニコラスはあの不仕合わせなオルガニズム(どうして夫人がオルガニズムなどという言葉をつかったのか、わたしはかいもくわからなかった)の中に燃えている空想を消すために、自分でもはたの小役人どもと同じように、あの女を冷笑したり、侮辱したりせねばならなかったのでしょうか? いったい、ニコラスが突然きっとした調子でキリーロフに『ぼくはあの女をからかってやしないんだ』といった時のあの気高い同情や、腹の底から出るような高潔な戦慄を、いったいあなたは否定しようとなさるのですか。なんという高潔な尊い答えでしょう!」
「崇厳《シュブリーム》です」とスチェパン氏はつぶやいた。
「それにご承知ねがいたいのは、あれはお考えになるほど、けっして富裕な身の上ではないのです。富裕なのはわたしで、ニコラスじゃありません。当時あれは少しもわたしの仕送りを受けていませんでした」
「わかりました、すっかりわかりました、奥さん」とピョートルはもうじれったそうに、体をもじもじさせ始めた。
「ああ、まったくわたしの性質そっくりです! わたしはニコラスの中に、自分自身を見ることができます。わたしにはあの若さが感じられます。烈しくもの凄い情の激発が感じられます……ねえ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、もしわたしたちがいつか近しくお付き合いするようになれば(もっとも、これはわたしのほうで心底からお願いすることなんですよ。まして、いろいろお世話になったんですもの)――その時はあなたもおわかりになることと思います……」
「おお、もうそれはぼくのほうから、お願いすることですよ」とピョートルは素っけない調子でつぶやいた。
「その時はあなたも、そうした感情の激発を会得なさいますよ。そういう時は、盲目な高潔心にかられて、あらゆる点から見て自分より劣った人間を選び出すのです。まるでこちらを理解することができないで、機会さえあれば恩人を苦しめようとする人間を選び出して、あらゆる矛盾をも省みずに、いきなり自分の生きた理想、生きた空想として崇めまつり、その人の中にあらゆる希望を封じ込め、その前にひざまずき、生涯その人を愛するのです。しかも、なんのためやら、まるでわからないんですからね、――まあ大方、相手がそうしてもらう価値のない人だからでしょうよ……ああ、どんなにわたしは生涯くるしんだことでしょう、ピョートル・スチェパーノヴィチ!」
 スチェパン氏は病的な表情をして、わたしの視線を捕えようとかかった。けれど、わたしは素早くそらしてしまった。
「……しかも、つい近頃のことです。近頃のことですの、――おお、わたしはニコラスにすまないことをしました!………本当にしてはくださらないでしょうけれど、みんなが四方八方から、わたしを苦しめるんですの。ええ、だれもかれも、その辺のうようよした連中も、敵も、味方も、ひょっとしたら、敵よりも味方のほうが、余計くるしめたかもしれません。初めてわたしのところへあの賤しい無名の手紙をよこした時、まあ、ピョートル・スチェパーノヴィチ、どうでしょう、わたしはあの悪企みに対して、十分の侮蔑をもって酬いるだけの力がなかったのです……わたしはわれながら、ああ量見の狭かったのを、到底ゆるすことができないと思っています!」
「ええ、全体としてここの無名の手紙のことは、ぼくも今までだいぶ聞き込んでいますよ」ピョートルは急に元気づいた。「そのことはぼくがすっかり探り出してあげますから、どうかご安心なすってください」
「ですけれど、ここでどんな陰謀が始まってるか、あなたとても想像がつきますまい! その連中はかわいそうに、プラスコーヴィヤさんまでを苛め出したんですからね、――この人なんぞは、そんなことをされるわけがないじゃありませんか! わたし今日あんたに向かって、あまり失礼なことをいい過ぎたかもしれませんね」と夫人は寛大な感動の発作に駆られてつけ足したが、いくぶん得意そうな反語の調子がないでもなかった。
「もうたくさんですよ、あなた」とこっちは気が進まぬらしくつぶやいた。「それよりもいい加減に片づけたほうがいいと思いますよ。ずいぶん口数は多かったんですものね……」
 プラスコーヴィヤ夫人は、またもや臆病げにリーザを見やったが、彼女はじっとピョートルを見つめていた。
「ところで、あの不仕合わせな女、何もかも失いつくして、ただハートばかりを守っている気の狂った女ですね、あれをこれから、自分の娘分にしようと思っています!」とふいにヴァルヴァーラ夫人が叫んだ。「それはわたしの義務です。わたしはそれを神聖な態度で履行するつもりです。今日からさっそくあの女を保護してやります!」
「それはある意味で、大いにけっこうなことですよ!」とピョートルはすっかり元気づいた。「失礼ですが、ぼくはさっきしまいまでいい切らなかったのです。ぼくは、つまり、その保護のことを、お話しようと思ったのです。まあ、こういうわけなんですよ。当時ニコライ君がよそへ立って行かれると(ぼくはさっきやめたところから始めることにしますよ、奥さん)、さっそくこの先生が、このレビャードキン先生自身ですよ、妹のものと指定されている補助金を、一文残らず自由勝手に処分する権利があるように考えて、それを実行したわけなんですよ。当時ニコライ君がどんなふうにしていたか、確かなところは知りませんが、一年ばかりたった時、外国を旅行中のニコライ君はこの事情を聞きつけて、余儀なく別な方法をとることとなった。この点についても、ぼくはやっぱり詳しいことは知りません。いずれニコライ君からお話があるでしょうが、ただ一つ、あのふう変わりなお嬢さんをどこか遠い修道院へ入れた、ということだけは承知しています。そこでは非常に安楽にしておられたようですが、ただ友だち仲間の監視は受けていたのです。え、どうです? このレビャードキン氏がどんなことをやっつける人間か、あなた想像がおできになりますか? 先生はまず全力をつくして自分の米櫃、すなわち妹の隠れ家をさがしていましたが、この頃になって、やっと目的を達したのです。そして、自分はこの女に対して権利がある、とかなんとかいって、修道院から引っ張り出して、真っ直ぐにここへ連れて来たものです。ここへ来てから、先生は妹に食べ物もやらないで、打ったり叩いたりひどい目にあわせ、とうとうどう手を廻したものか、ニコライ君から莫大な金をもらって、さっそく酒に酔い食らってるんです。しかし、それをありがたいと思わないで、ついに生意気千万にもニコライ君に向かって、真っ直ぐに自分の手へ補助金を渡せばよし、さもなくば裁判所へ訴えるぞと、わけのわからん要求を提出して、ニコライ君を脅かそうとするじゃありませんか。こういうわけで、ニコライ君の好意上の贈り物を、先生は貢物かなんぞのように思っている、実にあきれてしまうじゃありませんか? レビャードキン君、ぼくが今ここでいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当だろう?」
 今まで無言のまま伏目で立っていた大尉は、急に二あし前へ出て、顔を真っ赤にした。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたはこのわたしに対して、残酷な仕打ちをなさいますなあ」と彼は引っちぎったような調子でいった。
「どうして残酷なんだね、どういうわけで? 失礼だが、残酷だの親切だのという話は後にして、ぼくはいま第一の問いに答えてもらいたいんだ、いまぼくのいったことはみんな[#「みんな」に傍点]本当かね、どうだね? もし間違ってると思ったら、すぐに異議の申立てをしたらいいだろう」
「わたしは……あなたご自分で知っておられるじゃありませんか、ピョートル・スチェパーノヴィチ……」と大尉はいいかけたが、急にぷつりと言葉を切って、黙ってしまった。
 ちょっと断わっておくが、ピョートルが足を組み合わせながら、肘掛けいすに腰をかけているに反して、大尉はすっかり恐れ入った姿勢で、その前に立っているのであった。
 レビャードキンの不決断は、大いにピョートルの気に入らなかったらしい。彼の顔は腹立たしげにぴりりと引っ吊った。
「本当にきみは何かいいたいことがあるのかね?」と彼は微妙な眼ざしで大尉を見つめた。「もしそうなら、遠慮なくいいたまえ、みんな待ってるんだから」
「わたしが何もいえないのは、ピョートル・スチェパーノヴィチ、あなたのほうでよくご承知じゃありませんか」
「いや、ぼくはそんなこと知りませんよ、はじめて承るんだから。どうしてきみは申立てができないんだね?」
 大尉は目を伏せたまま黙っていた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは帰らせていただきます」と彼はきっぱりいった。
「しかし、ぼくの第一の問いに対して、なんとか返事しなくちゃいけません、ぼくのいったことがすっかり[#「すっかり」に傍点]本当かどうか」
「本当です」とレビャードキンは響きのない声でいって、暴虐なぬしに目を上げた。
 彼の額には汗さえにじみ出ていた。
「みんな[#「みんな」に傍点]本当だね?」
「みんな[#「みんな」に傍点]本当です」
「もう何かいい足すことはありませんか、何か申し立てることは? もしぼくが不公平だと思ったら、遠慮なくいってくれたまえ、抗議を申し込んでくれたまえ、公然と不満を申し立ててくれたまえ」
「いえ、何もありません」
「きみは最近、ニコライ・フセーヴォロドヴィチを脅迫したかね?」
「それは……それはおもに酒のさせたわざなんで、ピョートル・スチェパーノヴィチ(彼はふいに首を上げた)――ピョートル・スチェパーノヴィチ、もし一家の名誉を思う心と、身に覚えない侮辱とが、世間に向かって訴えの叫びを上げるとしても、それでも、――いったいそれでもその男が悪いのでしょうか?」また前と同じく前後を忘れて、彼は突然こうわめいた。
「きみは今しらふなのかね、レビャードキン君?」ピョートルは刺し通すように相手を見つめた。
「わたしは……しらふです」
「一家の名誉と、身に覚えない侮辱とはなんのこってす?」
「それはだれのことでもありません、だれをどうしようというのじゃありません。わたしはただ自分のことをいったので」大尉はまたへたへたとなった。
「きみはどうやら、きみやきみの行為についてぼくのいった言葉が、非常に癪に触ったらしいね。きみは恐ろしい癇癪持ちだからね、レビャードキン君。しかし、いいかね、ぼくはまだきみの行為をありのままにはいわなかったよ。ところが、ぼくはきみの行為をありのままにいうつもりだよ。ああ、いうとも、それはいつのことかわからないがね。しかし、まだありのまま[#「ありのまま」に傍点]にはいってないんだよ」
 レビャードキンはぎくっとして、けうとい目つきでピョートルを見据えた。
「ピョートル・スチェパーノヴィチ、わたしは今やっと目がさめて来ました!」
「ふむ! それはぼくがさましてあげたのかね!」
「ええ、あなたがさましてくだすったので、ピョートル・スチェパーノヴィチ。わたしは四年間というもの、上からおっかぶさった黒雲の下で眠ってたんですよ。もうこれでいよいよ帰ってよろしいですか?」
「もういいです。ただし、奥さんに何かご用がおあんなされば……」
 けれど、夫人は両手を振った。
 大尉は一揖して、二あしばかり戸口のほうへ踏み出したが、ふいに立ちどまって、手で心臓を抑えながら、何やらいおうとした。が、結局それも口に出さず、すたすた駆け出した。と、ちょうど戸口のところで、ぱったりニコライに行き会った。彼はちょっと身を避けた。大尉は急に縮みあがったようなふうで、まるで大蛇に見込まれた野兎のように、じっと相手を見つめたまま、その場へ立ちすくんでしまった。ニコライはしばらく間をおいた後、軽く片手でわきへ押し退けるようにしながら、ずっと客間へ入って来た。

[#6字下げ]7[#「7」は小見出し

 彼は楽しげに落ちつき払っていた。もしかしたら、わたしたちこそ知らないけれど、たったいま何か非常に嬉しいことが彼の身に起こったのかもしれない。とにかく、彼は何やら恐ろしく満足そうな様子をしていた。
「ニコラス、お前はわたしをゆるしてくれるでしょうね?」とヴァルヴァーラ夫人はもうこらえきれないで、いそいそとわが子を出迎えるように立ちあがった。
 しかし、ニコラスは思い切って大きな声でからからと笑った。
「果たせるかなだ!」彼は人の好さそうなふざけた調子で叫んだ。「見たところ、何もかもすっかりご承知のようですね。ぼくはここを出て、馬車に乗ってから考えましたよ。『それにしても、あの逸話だけでも、話したほうがよかったのじゃないかしらん。あんなふうにぷいと出て行くなんて、だれにしたってしやしない』けれど、ヴェルホーヴェンスキイ君がここに残ったのを思い出したので、そんな心配なぞはどこかへけし飛んでしまいました」
 こういいながら彼は、ちらと一座を見廻した。
「ピョートル・スチェパーノヴィチはある畸人の生涯中、とりわけ面白いペテルブルグの逸話を聞かしてくだすったんだよ」ヴァルヴァーラ夫人は有頂天になって引き取った。「その人は気まぐれで、気ちがいじみているけれど、その感情はいつも高尚で、いつも古武士のように潔白なんです……」
「古武士のように? おやおや、そんな騒ぎになってしまったのですか?」とニコラスは笑った。「しかし、今度はぼくもヴェルホーヴェンスキイ君のせっかちを感謝します」(このとき彼ら二人は、ちらと素早く目交ぜをした)「お母さん、あなたにもご承知を願っておきますが、この人はどこへ行っても、調停者の役廻りなんです。これがこの人の病気で、そして得手なんです。ぼくはとくにこの点でこの人を推薦しますよ。この人がここでどんなことをしゃべりまくったか、たいてい見当がつきます。いや、この人が何かの話をするのは、まったくしゃべりまくるんですからね。この人の頭の中は、まるで事務所かなんぞのようになってるんですよ。ところが、この人はリアリストの立場からして、嘘をつくことができない。自分の成功いかんより、真実のほうが大切なんですからね……もちろん、成功のほうが真実より尊いという、特別な場合を除いてですよ(といいながら、彼はしじゅうあたりを見廻した)。こういうわけですからね、お母さん、あなたのほうからお謝りになる必要がないのは、明白なことじゃありませんか。もしこの際、気ちがいめいた行為があったとすれば、それはむろん、ぼくのせいなのです。したがって、結局、ぼくは気ちがいだということになるんです――だって、土地の評判を裏書きしなくちゃなりませんものね」
 ここで彼は優しく母をかきいだいた。
「とにかく、この事件は終わったのです、話しつくされたのです。だから、もうこの話はやめにしてもいいわけでしょう」と彼はいい足したが、その声にはなんとなく素っけない、こつこつしたような響きがあった。
 ヴァルヴァーラ夫人はこの響きを聞き分けたが、彼女の感激はまだ静まるどころか、むしろその反対だった。
「わたしはね、お前が帰って来るのはまだ一月あとのことで、それより早くなろうとは思いも寄りませんでしたよ、ニコラス?」
「そりゃもうすっかりわけをお話しますが、今は……」
 こういって、彼はプラスコーヴィヤ夫人のほうへ進んだ。
 夫人は、三十分前に初めて彼が姿を現わしたとき、仰天しないばかり驚いたにもかかわらず、今度はほとんど顔を向けようともしなかった。いま夫人には新しい心配が生まれたのである。大尉が部屋を出ようとして、戸口のところでニコライに行き当たった瞬間から、リーザは急に笑いだした、――初めは低くきれぎれだったが、しだいに笑いがつのっていって、声高にありありと聞こえるようになった。彼女は顔を真っ赤にしていた。さきほどの沈み切った様子にくらべると、その対照があまりに烈しかった。ニコライがヴァルヴァーラ夫人と話している間に、彼女は何やら耳打ちでもしたいらしいふうで、二度までもマヴリーキイを招き寄せた。けれど、相手が彼女のほうへ身をかがめるやいなや、リーザはすぐにからからと笑いだした。で、結局、彼女は憐れなマヴリーキイをからかっているものと想像するより仕方がなかった。とはいえ、彼女は一生懸命に我慢しているらしく、ハンカチを顔に押し当てていた。ニコライはきわめて無邪気な砕けた顔つきで、彼女に挨拶をのべた。
「あなた、どうぞごめんなすって」と彼女は早口にいった。「あなたは……あなたは、むろん、マヴリーキイさんとお会いになったことがあるでしょう……まあ、本当にマヴリーキイさん、あなたはなんてそう方図もなく背が高いんでしょう!」
 こういってまた笑いだした。マヴリーキイは背の高いほうだったけれど、けっしてそんなに方図もなく高くはなかった。
「あなたは……もうとうにお着きでございましたか?」と彼女はまた自分を制しながら、なんだか間の悪そうな様子でつぶやいたが、その目はぎらぎら光っていた。
「二時間あまり前でした」じっと相手に見入りながら、ニコライは答えた。ついでにいっておくが、彼はなみなみならず慇懃で控え目だったけれども、その慇懃という点をのけてしまうと、まるで気のないだらけた顔つきになるのであった。
「どこにお住まいなさいます?」
「ここで」
 ヴァルヴァーラ夫人も同様リーザを注視していたが、突然ある考えが彼女の頭に浮かんだ。
「ニコラス、お前はこの二時間あまりというもの、どこにいました?」と夫人は傍へやって来た。「汽車は十時に着くはずですが」
「ぼくはじめヴェルホーヴェンスキイ君をキリーロフのところへ連れて行ったのです。そのヴェルホーヴェンスキイ君とは、マトヴェーエヴォ駅(三つさきの停車場)で一つ箱に乗り合わせ、いっしょにここまでやって来たのです」
「ぼくは夜明け頃から、マトヴェーエヴォで待ってたんです」とピョートルが口をいれた。「ぼくの乗った列車のうしろの箱がゆうべ脱線して、あやうく足を折るところでした」
「足を折るところでしたって!」とリーザが叫んだ。「お母さん、お母さん、先週いっしょにマトヴェーエヴォヘ行こうっていいましたが、やっぱり足を折るところだったのねえ!」
「まあ、縁起でもない!」とプラスコーヴィヤ夫人は十字を切った。
「お母さん、お母さん、ねえ、お母さん、もしあたし本当に両足折ってしまっても、びっくりしちゃいやですよ。あたしにはありそうなことなんですもの。お母さん、自分でいってらっしゃるじゃありませんか、あたしが毎日めちゃくちゃに馬を飛ばしてるって。マヴリーキイさん、あたしがびっこになったら、あなた手を引いてくだすって!」彼女はまたしてもからからと笑った。「もし本当にそんなことになったら、あたしあなたのほかには、けっしてだれにも手を引かせやしないわ、大威張りで当てにしててちょうだい。まあかりにあたしが片足だけでも折ったとすれば……ねえ、後生ですから、それを幸福に思うといってちょうだい」
「片足になって何が幸福なんです?」とマヴリーキイは真面目に眉をひそめた。
「その代わりあなた手が引けますよ、あなた一人っきり、だれにも引かせやしないわ!」
「あなたはその時だって、ぼくを引き廻しなさるでしょう、リザヴェータさん」いっそうまじめな調子でマヴリーキイはつぶやいた。
「あら、どうしましょう、この人は地口をいおうとしてるんですよ!」まるで恐ろしいことでも聞いたかのように、リーザは叫んだ。「マヴリーキイさん、もうけっしてそんな野心を起こさないでちょうだい! だけど、あなたはどこまで利己主義だか、底が知れませんわ! あなたの名誉のために誓って申しますが、あなたはいま自分で自分を誹謗してらっしゃるのよ。それどころか、あなたは朝から晩まで、『あんたは片足なくして、かえって面白い人になった』と、あたしにお説教なさるに相違ないわ! ただ一つどうにもならないことは、あなたはそんなに方図もなく背が高いでしょう、ところで、あたしは足を失くすとずっと低くなるから、あなたじゃあたしの手の引きようがないわ。あたしたちどうも一対になれなくってよ!」
 こういって、彼女は病的に笑った。皮肉も当てこすりも平板な拙いものだったが、彼女は人の思惑などかまっていられなかったらしい。
「ヒステリイだ!」とピョートルはわたしにささやいた。「早くコップに水を持って来さしてください」
 彼の想像は当たった。一分の後、人々はあわてだした。水も運んできた。リーザは母をだいて、熱い熱い接吻をすると、急にその肩に顔を埋めて、泣き出した。が、すぐそれと同時に身をそらして、母の顔を見つめながら、いきなりからからと笑い出すのであった。とうとう母夫人もしくしく泣き出した。ヴァルヴァーラ夫人は、親子二人を急いで自分の部屋へ、さきほどダーリヤの出て来た戸口から連れて行った。しかし、二人がここにいたのは長いことではなかった。まあ、四分かそこいらで、それより以上ではない……
 今わたしはこの記憶すべき朝の最後の幾分間かを、一点一画も遁さないように、努めて思い出したいと思う。わたしの記憶しているところによると、婦人たちがいなくなって(ただしダーリヤだけは席を動こうともしなかった)、わたしたち男連中ばかり残った時、ニコライは部屋を一巡して、シャートフを除く一同と挨拶を交わした。シャートフは、依然として隅っこに坐ったまま、前よりよけい下のほうへかがみ込んでしまった。スチェパン氏はニコライに向かって、何か非常に気の利いたことをいおうとしかけたが、こちらは急に身をそらして、ダーリヤのほうへ歩き出した。すると、その途中でピョートルが、ほとんど無理やりに捕まえて窓ぎわへ連れて行き、そこで何やら早口にささやき出した。そのささやきに伴う顔の表情や身振りなどから察するところ、何か非常に重大な話らしい。しかし、ニコライは恐ろしく気のなさそうな、ぼんやりした様子で、持ち前のよそ行きの微笑を浮かべながら聞いていたが、しまいにはもうじれったそうな顔つきで、しきりにあちらへ行きたそうな素振りを見せ始めた。彼が窓の傍を離れた時、婦人たちは客間へ帰って来た。
 ヴァルヴァーラ夫人は、リーザを元の席に坐らせながら、せめて十分くらいは、ぜひ休みながら待っていなければならぬ、いますぐ新鮮な空気に当たるのは、疲れた神経によくあるまい、などとしきりに説いていた。夫人はなんだか無性に