京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP193-P216

リーザの世話を焼きながら、自分でもその傍へ並んで腰をかけた。ちょうどからだの明いたピョートルはすぐさまそのほうへ飛んで行って、早口に面白そうにしゃべり出した。この時ニコライは例のゆったりした足どりで、とうとうダーリヤの傍へ近寄った。ダーシャは彼が近づくのを見ると、急に坐ったままもじもじし始めたが、見るからばつの悪そうな様子で、顔を真っ赤にしながら、いきなり飛びあがった。
「あなたにはもうお祝いをいってもいいと思ったが……それともまだですかね?」と彼は一種特別な表情を浮かべながらいい出した。
 ダーシャは何かそれに答えたが、ほとんど聞き取ることができなかった。
「失礼をいったらゆるしてください」彼は声を高めた。「しかし、あなたもご承知でしょうが、ぼくは知らせをもらったもんだから……あなたそれをご承知なんでしょう?」
「ええ、あなたがわざわざ知らせをお受けになったのは、わたしもぞんじております」
「けれど、あんなお祝いをいって、かえって何かお邪魔をしやしなかったでしょうね?」と彼は笑った。「もしスチェパン・トロフィーモヴィチが……」
「なんの、なんのお祝いです?」出しぬけにピョートルがそばへ飛んで来た。
「なんのお祝いです、ダーリヤさん? あっ! 例の件じゃありませんか? お顔の紅葉《もみじ》が証拠ですよ、当たったでしょう。まったく美しい、淑徳の高い処女が祝いを受けるわけはなんでしょう? そして、その処女が一番よけい顔をあかくする原因はなんでしょう? いや、本当に当たったのなら、ぼくからもお祝いを受けてください。そして、賭けを払ってくださいな。覚えてらっしゃるでしょう、あなたが結婚なんかしないとおっしゃったので、スイスで賭けをしたじゃありませんか……ああ、そうだ、スイスといえば、――本当にぼくはどうしたんだろう? まあ、どうでしょう、半分はそのためにこちらへ上ったくせに、もうあやうく忘れかけるところでしたよ。ねえ、お父さん」と彼はくるりとスチェパン氏のほうへ振り返った。「お父さんはいつスイスへ行くの?」
「わたしが……スイスへ?」とスチェパン氏はびっくりして、まごまごした。
「え、じゃ、行かないの? だって、お父さんもやっぱり結婚する人じゃないの……自分で手紙にそう書いてたくせに?」
「ピエール!」とスチェパン氏は叫んだ。
「いったいピエールがどうしたの……もしこの縁談が、お父さんに会心なものだとすれば、ぼくはこれに少しも異存がないことを知らせるために、こうして取るものも取りあえず飛んで来たんだよ。だって、一刻も早くぼくの考えが聞きたいと書いてあったからね。ところで、もし(と彼は早口でしゃべった)同じ手紙の中で、お父さんが祈るように書いているとおり、本当に『救って』あげる必要があるとしても、やっぱりぼくはできるだけのことはしてあげるつもりだよ。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父が結婚するというのは本当ですか?」彼はくるりと夫人のほうを振り向いた。「ぼくはけっして出しゃばってないつもりですがね。だって、お父さんはあの手紙の中で、自分からそういってるんですもの。もうこのことは町じゅうみんな知っていて、だれもかれもお祝いをいって仕方がないから、その不快を避けるために、夜でなければ外へ出ないようにしてるって。その手紙は現にぼくのかくしにありますよ。が、どうでしょう、奥さん、ぼくはその手紙がてんでわからないんです! ねえ、お父さん、たった一言だけいってくださいよ、いったいお父さんは祝ったらいいのか、それとも『救わ』なくちゃならないのか、――どっちなの? 奥さん、あなたとても本当にはなさらんでしょうが、親父の手紙には、まるで幸福の絶頂に立ったような文句の間に、絶望のどん底に落ちたような言葉がまじってるんです。第一、親父はぼくに詫びをいっています。まあ、これなぞはああいう人たちの性分としておきましょうが……しかし、どうしてもいわずにいられないことがあります。考えてみてください、一生の間にたった二度、それもほんの偶然の機会でぼくを見たばかりの人が、こんど三度目の結婚をしようという間際になって、急に『そんなことをしては、あの子に対する親の義務を犯すことになる』てなことを考え出して、千露里も離れたところから『怒らないでくれ、許してくれ』といって、哀願してるじゃありませんか? お父さん、怒っちゃいけないよ、これも時代の特徴だから、ぼくは広い見地から見て、けっして非難しようとは思わない。かえってそれをお父さんの美点と見なしてもいいくらいだ。それはさておいて、肝腎なところは、その肝腎なところがてんでぼくにわからない、という点なのだ。あの手紙には何かしら『スイスにおける罪業』とかなんとか書かれていた。罪業によってだったか、他人の罪業のためだったか、とにかく結婚するというようなことで、どう書いてあったか、はっきり覚えてないけれど、――手っとり早くいえば『罪業』だ。まあ、そんなふうなことが書いてあるんですよ。『少女《とめ》は真珠にも夜光の玉にも譬うべく』だから、もちろん親父は『そを受くべき価値なきもの』に決まってますよ。ああいう人たちの一流の言い廻しです。ところが、何かの罪業とか、事情とかのために『余儀なく結婚を迫られ、スイスへおもむくべき運命と相成』ったわけなんです。こういう次第だから、『万事をなげうち、急ぎ来りてわれを救え』……ねえ、こんなふうですもの、どうしたって、少しでも合点のゆくはずがないじゃありませんか?………しかし……しかし、皆さんのお顔つきで見ると(彼は罪のない微笑を浮かべて、一同の顔を見つめながら、手紙を持ったまま、あちこちと体を捩じ向けた)、どうやらぼくはいつもどおり、明けっ放しな性分のために……というより、ニコライ君のいわゆるせっかちな性分のために、何か失敗をやったようですね。ぼくはここにいらっしゃる皆さんを自分の友だち……ではない、お父さん、あなたの友だちだと思っていたが、実際のところ、ぼくはほんの飛び入り者だったんですね。見たところ……見たところ、皆さんは何やらご承知のようですが、ぼくはその『何やら』を知らないんですよ」
 彼は絶えずじろじろ見廻すのをやめなかった。
「じゃ、スチェパン・トロフィーモヴィチが、あなたにそういう手紙をおよこしになったんですね。『スイスで行なわれた他人の罪業』と結婚するって、そして一刻も早く『救い』に来てくれって、そのとおりの言い廻しなんですね?」と、ふいにヴァルヴァーラ夫人が近寄った。顔は黄いろく歪み、唇はぴりぴりと慄えていた。
「つまり、その、なんですよ、もしこの事件について、何かぼくに合点のゆかないことがあるとすれば」ピョートルはすっかり面くらった様子で、いっそうあわて始めた。「それはもちろん、親爺がこんな書き方をしたから悪いんですよ。これがその手紙です。ごぞんじでもありましょうが、奥さん、こんな手紙が際限なしに、後から後からやって来るんですからね。ことに最近二、三か月というものは、ほとんどのべつ幕なしなんですよ。で、実のところ、ぼくもどうかすると、しまいまで読み切れないことがあるくらいです。お父さん勘忍してください、つい馬鹿なことを白状してしまって、しかし、考えてみれば、ぼくの宛名にはなっているけれど、まあ、どちらかといえば、子々孫々へ伝えるために書いたんだろうから、ぼくが読んだって読まなくたって同じこってさあね……ま、ま、そう怒っちゃいけない、なんといっても、二人は内輪同士だからね? しかし、この手紙はね、奥さん、この手紙はしまいまで読みましたよ。この『罪業』ですな、――この『他人の罪業』というやつは、大方なにか詰まらない先生自身の罪業なんでしょうよ。ぼく、賭けでもしますが、ごく無邪気な罪業なんですよ。そいつを枷《かせ》に使って、高潔なるニュアンスを帯びた恐ろしい騒ぎを持ち上げる気に、ふいとなったに相違ありません、――しかも、ただその高潔なる陰影のためのみにおっ始めたのです。ご承知でもありましょうが、ぼくらはちょっと金銭問題でゆき悩んでることがあるのです、――これはどうしても白状しなけりゃなりません。先生はご承知のとおり、カルタにはごく慎みの悪いほうで……しかし、これは余計なことですね。ぜんぜん余計なことですね、悪いことをいいました。ぼくはどうもおしゃべり過ぎてね。けれど、実際のところ、奥さん、ぼくはすっかり親父に嚇しつけられましてね、ほんとうに親父を『救う』気になったんですが、これじゃぼく自身のほうできまりが悪くなりますよ。いったい、ぼくが親父の喉もとへ、短刀でも突きつけようとしてるんでしょうか? そんなにぼくが没義道《もぎどう》な債権者に見えるでしょうか? 親父は持参金がどうとか書いてるんですが……それはそうと、お父さん、いったい本当に結婚するの? どうなの? もういい加減にして聞かせたらどうだね。まったくそんなふうになるかもしれないんだもの。いったいぼくらはいつもしゃべって、しゃべって、しゃべりまくるけれど、まったくただ言葉のためにすぎないんだよ……ああ、奥さん、今こそぼくは覚悟しています。大方あなたはぼくを悪く思ってらっしゃるでしょう、つまり、その言葉のために……」
「それどころですか、あなたのほうで勘忍袋の緒をお切らしなすったのは、わたしにもちゃんとわかります。そして、それもまったくごもっともだと思いますよ」とヴァルヴァーラ夫人は毒々しく受けた。
 彼女はピョートルの『正直な』饒舌を、意地悪いよろこびをもって聞き終わった(ピョートルが何か芝居を打ってるのは明瞭であったが、どんな芝居であるかは当時のわたしにはわからなかった。しかし、そのやり方が思い切って無遠慮なのは、争う余地もないくらいである)。
「それどころか」と夫人は語を次いだ。「あなたがそうして切り出してくだすったのを、わたしはかえってありがたく思っていますの。あなたが聞かしてくださらなかったら、このまま知らずに過ごすところだったのです。わたしは二十年の間に、今はじめて目が開きました。ニコライ、あなたは今さきわざわざ知らせを受けたとおいいだったが、あなたのところへもスチェパン・トロフィーモヴィチが、何かそんなふうの手紙をよこしたのじゃありませんか」
「ぼくはあの人からきわめて無邪気な、そして……そして……非常に高潔な手紙をもらったのです……」
「あなたは困ってますね、言葉につかえてますね――たくさんです! スチェパン・トロフィーモヴィチ、わたしはあなたに改まったお願いがありますの」と夫人は目をぎらぎら輝かせながら、そのほうへ振り向いた。「後生ですから、さっそくここを出てください。そして、今後うちの敷居を跨いではいけません」
 読者諸君、今でもなおスチェパン氏の胸に名ごりの消えやらぬ、さきほどの『感激』を想起していただきたい。もちろん、スチェパン氏自身が悪かったには相違ない! しかし、その時すっかりわたしを驚かせてしまったことがある。ほかでもない、ペトルーシャの『すっぱ抜き』に対しても、ヴァルヴァーラ夫人の『呪い』に対しても、ひと言もそれをさえぎろうとせず、驚くばかりの威厳を保って、毅然と立っていた一事である。いったいどこからこれだけの気力が出て来たのだろう? とにかく、さきほどのペトルーシャとの邂逅(つまり、さきほどの抱擁をさすのだ)によって、ふかい侮辱を感じたのは疑いのないところだ。それだけはわたしにもわかった。これは少なくとも彼の目から見て、本当の[#「本当の」に傍点]深い心の痛手だった。しかし、彼はその瞬間、また別な悲しみをいだいていた。それは自分が卑劣な真似をしたという、刺すような自覚であった。このことは後で例の開けっ放しの気性から、彼がわたしに白状したところである。けれど、この本当の間違いなしという悲しみは、その独特の徴候として、どうかするとほんの僅かな間だけでも、ふらふらした人間にしっかりと手応えのある態度をとらせるものだ。のみならず、真の心からなる悲しみのためには、馬鹿も時に賢くなることがある。もちろん、ちょっとの間だけではあるが、これが真の悲しみの特徴である。もしそうだとすれば、スチェパン氏のような人の心中に生ずるものはなんだろう? もちろん偉大なる転換だ、――が、これもやっぱりちょっとの間にすぎない。
 彼は威を帯びた態度で、ヴァルヴァーラ夫人に会釈したが、ひと言も口をきかなかった(もっとも、それ以上なにもすることはなかったのだ)。彼はそのまま出て行こうとしたが、とうとうこらえきれなくなって、ダーリヤのほうへ近寄った。こちらは相手の心持ちを感づいたらしく、大急ぎで先手を打とうとするように、ぎょっとしたふうで、さっそく自分のほうからいい出した。
「どうか、スチェパンさま、後生ですから、なんにもおっしゃらないでくださいまし」彼女は顔に病的な表情を浮かべつつ、あわてて、手を差し伸べながら、熱した早口な調子でいい出した。「わたしは、今でもやっぱり同じようにあなたを尊敬して……そして、同じように、あなたの価値を理解しています、まったくでございますの。ですから……わたしのこともやっぱり善く思ってくださいましな、スチェパンさま。そうすると、わたしもそのことを、大変大変ありがたくぞんじますわ……」
 スチェパン氏はうやうやしく彼女に会釈した。
「お前さんの考え一つですよ、ダーリヤ、このことについては、もうすっかりお前さんの考えにまかせてあるのだから! もともとそうだったし、今もそうです、またさきになってもやっぱりそうです」とヴァルヴァーラ夫人は重々しくいい切った。
「へえ! なるほど、今はじめてすっかりわかった!」ピョートルはぽんと額を叩いた。「しかし……しかし、そうしてみると、ぼくはなんという立場におかれたのでしょう? ダーリヤさん、どうかゆるしてください!………いったいお父さんはぼくをなんという目にあわせたんだい、え?」と彼は父のほうへ振り向いた。
「ピエール、お前はわたしに対して、なんとか、ほかにもののいいようがありそうなもんじゃないか、え、おい?」とスチェパン氏は非常に小さな声でいった。
「後生だからどならないでください」とピエールは両手を振った。「なに、それは年寄りの弱った神経なんでさあ。どなったってなんにもなりゃしない。それよりぼくが聞きたいのは、お父さんだって、ぼくが来るといきなりしゃべり出すってことは、たいてい想像がつきそうなはずだったのに、どうして口止めしておかなかったの?」
 スチェパン氏は穴のあくほど、わが子を見つめた。
「ピエール、お前はここの様子をそんなによく知っていながら、このことについてはなんにも知らなかったのか、なんにも聞かなかったのか?」
「なあんだって! あきれた人たちだ! 年をとった子供というだけでまだ足りないで、おまけに意地悪な子供ときた。ヴァルヴァーラ・ペトローヴナ、親父のいうことをお聞きになりましたか?」
 一座がざわついてきた。と、ふいに、だれしも思いがけないような騒動がもちあがったのである。

[#6字下げ]8[#「8」は小見出し

 まず何よりさきにいっておかねばならぬのは、しまい頃になってリザヴェータが、何か新しい惑乱におそわれたことである。彼女は母夫人と何か早口にささやき合ったり、自分のほうへかがみ込んで来るマヴリーキイに耳打ちしたりした。その顔は不安そうであったけれど、同時に断固たる色を浮かべていた。やがて帰りを急ぐもののように席を立って、母夫人をもせき立て始めた。マヴリーキイはその手を取って肘掛けいすから助け起こそうとした。しかし、彼らはこの場の様子を最後まで見なければ、立ち去ることのできない廻り合わせになっていたらしい。
 リザヴェータからほど遠からぬ片隅に、ぽつねんと皆に取りのこされていたシャートフは、なぜここを去ろうともせず、いつまでも坐り込んでいるのか、自分ながらわからないふうだったが、とつぜん椅子から立ちあがって、あわてず騒がず、しっかりした足どりで部屋を横切り、ニコライのほうへ進んで行った、まともに相手の顔を見つめながら。こちらは、まだ遠いところからその動作に気づいて、心持ちにっと笑った。けれど、シャートフがぴったり傍まで寄った時には、もう笑うのをやめてしまった。
 シャートフがじっと目をはなさずに、無言のまま彼の前に立ちどまった時、みんなは突然これに気がついて、急に鳴りを静めた。しかし、だれよりもおくれて気がついたのは、ピョートルであった。リーザと母夫人とは部屋の真ん中に立ちすくんだ。こうして五秒ほど過ぎた。ニコライの顔に浮かんでいた不敵な侮蔑の表情は、やがて憤怒の色に変わっていった。彼は眉をひそめた、とふいに……
 ふいにシャートフは、長い重たそうな手を振り上げて、力まかせにその頬っぺたを撲りつけた。ニコライはその場ではげしくよろめいた。
 シャートフの撲り方は一種特別であった。普通、頬打ちをくらわすのには、平手を使うものだが(こんなことがいえるかどうか知らないけれど)、彼は拳固を使った。ところが、彼の拳固は大きくて、どっしりと骨張っているうえに赤毛がもじゃもじゃして、そばかすだらけだった。もし鼻にでも当たったら、鼻筋を打ち砕いてしまったかもしれぬ。けれど、拳固は唇と上歯の左端をかすめて、頬へ当たったので、みるみる口から血が流れ出した。
 その時ほんの一瞬間、あっという叫び声が起こったような気がする。おそらくヴァルヴァーラ夫人であろう。しかし、すぐにまた静まり返ったので、はっきり覚えていない。しかし、この出来事は、ものの十秒と続かなかったのである。
 とはいえ、この十秒ばかりの間に、非常に多くのことが持ちあがった。
 ここでもう一ど読者に断わっておく。ニコライは恐れを知らぬ人の範疇に属すべき素質を持っていた。決闘などでも敵の発射のもとに、泰然自若として立つこともできれば、また野獣のように残酷な落ちつきをもってみずから狙いを定め、相手を殺すこともできた。もしだれか彼の頬っぺたを撲りでもしようものなら、彼は決闘を申し込むなどということをせず、すぐにその場で無礼者を屠ってしまったに相違ない。実際、彼はそういう質《たち》の人間だから、殺すにも完全な意識を持ったままで、けっして前後を忘れるということはない。思慮をめぐらす余裕もない、目くるめくような憤怒の発作など、彼は一度も経験したことがなかろうと思われる。時として彼の全幅を領することのある底知れぬ憎悪を感じた場合にでも、同じく自分自身に対する支配力をつねに失わずにいることができる。したがって、決闘以外の場所で人を殺せば、徒刑に処せられるということは立派にわきまえうるのだが、それでもやはりなんら躊躇することなく、その無礼者を殺してしまったに相違ない。
 わたしは最近絶え間なくニコライの人物を研究していたから、今これを書くに当たっても、いろいろな特別な事情でずいぶんたくさんの事実を知ることができた。そこで、わたしはいま世間にさまざまな伝奇的な追憶を残している過去の人人のある者と、このニコライを比較してみたらどうかと思う。たとえば十二月党員のLについてもいろいろの話がある。ほかでもない、彼は生涯の間わざわざ危険を求めて、その感覚を貪り味わい、それをば自然の要求に化してしまったという。若い時には理由もないのに決闘を始め、シベリヤへ行ってからは、ナイフ一梃で熊狩に出かけたり、森の中で脱獄囚に出会ったりするのを好んだ。ついでにいっておくが、脱獄囚は熊よりもまだ恐ろしいのである。疑いもなく、こうした伝奇小説の主人公のような人々も、恐怖の感情をいだきえたに相違ない。或いは非常に強くそれを感じたかもしれぬ。そうでなかったら、彼らはもっと遙かに穏かな暮らしをして、危険の感覚を自己性来の要求にする、というようなこともなかったはずである。ただ自己心内の怯懦を征服するということ、これが、いうまでもなく、この人たちを魅惑し去ったものである。絶えず勝利の快感に酔い、もはや自己を征服しうる者はないと意識すること、これが彼らを誘惑したのである。このLは流刑前にもしばらく饑餓と戦って、苦しい労働でおのれのパンをえたことがある。それは、ただただ富める父親の要求が間違っているといって、どうしてもそれに従おうとしなかったからである。こういうわけだから、彼は闘争の意味をすこぶる多方面に理解していたので、けっして単に熊や決闘ばかりで、おのれの人格の力や抵抗力を誇っていたわけではない。
 しかし、その時代から見ると多くの年数がたった。そして、へとへとに疲れ果てて神経質になり、かつ二重にも三重にも分裂した現代人の性格にとって、のん気な昔の世に波乱多き生活を送った人たちが求めていたような、直接純一な感覚の要求はとうてい望まるべくもない。ニコライなぞはこのLに対して、高みから見おろすような態度を取り、ことによったら、牡鶏かなんぞのようにから威張りばかりする臆病者くらいにいいかねなかったかもしれない(もっとも、口に出してはいわなかったかもしれないが)。彼は決闘で相手を打ち殺しもしたろう、必要があれば熊退治にも出かけたろう、森の中で追剥ぎの成敗もしたろう、――しかも、Lに劣らないくらいの手並を現わしたに相違ない。しかし、その代わり少しも快感を覚えることなしに、ただただ不愉快な必要に迫られて、張り合いのない、面倒臭そうな態度でやるのだ。もしかしたら、なまあくびさえ噛み殺すかもしれない。しかし、憎悪の点においては、もちろんLにくらべても、またレールモントフにくらべても、進歩の跡が認められる。ニコライはこの二人をいっしょにしたよりも、もっと多くの憎悪を蓄えていたかもしれない。しかし、それは冷ややかに落ちつきはらった憎悪で、妙な言い方だが理知的な[#「理知的な」に傍点]ものである。したがって、この世で最もいまわしく最も恐ろしい憎悪だった。もう一どくり返していうが、わたしは当時こう信じていた(もはやいっさいが終わりを告げた今となっても、やっぱりそう信じている)。つまり、彼は人から生面《いきづら》を叩かれるとか、またはそれと同じくらいの烈しい侮辱を受けたら、決闘などを申し込まないで、即座に相手を殺してしまうような性質の人間なのである。
 とはいえ、いま起こったことはなんだか一種異様な、奇怪なものであった。
 彼が頬を撲りつけられて、見苦しくも横ざまによろめきながら、ほとんど上半身をすっかり傾けてしまった後で、やっと体を持ち直すか持ち直さないかという瞬間だった。たったいま顔の真ん中を撲りつけた、水気でも含んだような拳の音が、まだ室内に消えもやらず漂っているかと思われるその瞬間、彼はふいに両手でシャートフの肩をつかんだ。しかし、すぐほとんどそれと同じ瞬間に、また両手を、つと後へ引きのけて、背中にしっかり組み合わした。彼は無言のまま、シャートフを見つめたが、その顔はシャツのように真っ青だった。しかし、不思議にも彼の眸の輝きは、急速に消えていくようだった。十秒の後、彼の目つきは元の冷静に返って、そして(わたしは嘘をいっているのではないと確信する)まったく穏かであったが、ただ恐ろしいほどあおい顔をしていた。もちろんわたしは内心のいかんは知らない。ただ外から見たところを話すのである。もし人が自分の意力を試すために、真っ赤に灼けた鉄の棒を取って、それをば手の中に握り締め、十秒間たえ難い痛みと戦って、ついにそれに打ち勝ったとすれば、その男は今ニコライが十秒間に経験したものと、ほぼ同じような心持ちを味わうだろうと、こうわたしには感じられた。
 二人のうちまず目を伏せたのはシャートフである。どうもそうせずにいられなかったためらしい。それから、ゆっくりと向きを変えて、ぷいと部屋を出て行った。けれど、その足どりは、さっきニコライの傍へ寄った時とはまるで違っていた。彼はなんだかとくべつ不恰好に肩をうしろへ突き上げ、首を深く前へ垂れ、何やら自問自答するようなふうで、そっと静かに出て行った。何か小さな声で独り言をいったようにすら思われた。戸口のところまでは用心ぶかい足どりで、なんにも突っかからず、なんにもひっくり返さないで、無事に行き着いたが、戸はほんのぽっちり隙間ほどしか開けないで、ほとんど体を横にしながら、すり抜けた。戸をすり抜ける時に、いつもうしろ頭にぴんと突っ立っている一つかみの髪の毛が、とくべつ目立って見えた。
 続いて起こった一同の叫び声にさき立って、だれかの恐ろしい叫びが響き渡った。ほかでもない、リザヴェータは母夫人の肩を捕え、マヴリーキイの手を引っつかんで、二人を部屋の外へ連れ出そうと二、三度ぐんぐんしょびいたが、ふいに一声たかく叫んで、横倒しに床の上へ気を失って倒れたのである。彼女が後頭部を絨毯の上にこつりとぶっつけた音を、わたしは今でもまざまざと聞く思いがする。
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[#1字下げ]第二編[#「第二編」は大見出し]





[#3字下げ]第1章 夜[#「第1章 夜」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 それから八日たった。もういっさいが終わりをつげて、わたしがこうして記録を書いている今となっては、ことの真相もよくわかってしまったけれど、当時わたしたちはなんにも知らなかったので、自然の数として、いろんなことが不思議に思われた。少なくもわたしとスチェパン氏とは、はじめのうち、家にばかり閉じこもって、遠方からびくびくしながら観察していたものである。ただわたしだけは、ちょいちょい方々へ出かけて、前のとおりいろいろの報知をもたらしていた。実際、そうしなくては、一日もたちゆかなかったのである。
 町じゅうに区々まちまちな風説が広がったのは、もちろんいうまでもないことである。つまり、例の『平手打ち』だの、リザヴェータの卒倒だの、そのほか、かの日曜日の出来事に関する風説である。ただどういうわけであの出来事が、こうまで迅速正確に表沙汰になってしまったか、これだけはまったく驚くほかはなかった。当時あの場に居合わせた人の中で、事件の秘密を破る必要を感じそうな者もなければ、そんなことをしてとくのゆきそうな者もいない。召使は一人も居合わさなかった。ただ一人レビャードキンだけはなにかしゃべったかもしれない。しかし、腹立ち紛れではない。それはあの時すっかりおびえあがって、出て行ったのに徴しても明らかである(敵に対する恐怖は、憎悪の念を消すものである)。だから、ただ本当に我慢できなくてしゃべったかもしれない。レビャードキン兄妹はその翌日、行きがた知れずになってしまった。彼らはフィリッポフの持ち家に見えなくなって、まるで消えてしまったように、どことも知れず姿をくらましたのである。わたしはシャートフに会って、マリヤのことを聞いてみようと思ったが、彼は部屋の戸を閉め切ってしまい、この八日間、町のほうの仕事もほうり出して、うちにばかりこもっていたものらしい。彼はわたしに会ってくれなかった。わたしは火曜日に彼のところへ寄って、戸をノックしてみたが、返事をしてもらえなかった。けれど、ある正確な報知によって、その在宅を信じ切っていたわたしは、もう一ど戸を叩いてみた。そのとき彼は寝台から飛び下りたらしい様子で、大股に戸口のほうへ近寄ると、ありたけの声を張り上げてどなった。『シャートフは留守です』で、わたしはそのまま立ち去った。
 わたしとスチェパン氏とは、いくらか自分たちの想像の大胆さに恐れを感じながらも、互いに相手を励ますようにして、ある一つの考えを是認せざるをえなかった。つまり、この風説を触れ廻した責任者は、ピョートルをおいてほかにないと決めたのである。もっとも、彼はしばらくたって父と談話をまじえたとき、事件後はじめて会った人々は、だれもかれもみんなその噂をしていた、ことにクラブではそれがいっそうひどくって、知事夫人も知事公自身も、いろいろこまかな点までも、すっかり知り抜いていたのだ、などといって一生懸命に弁解はしていた。なおまだ驚くべきことには、その翌日、すなわち月曜日の晩方、わたしがリプーチンに会ったとき、彼はもう何もかも残るところなく知っていた。とにかくこの男なぞは、第一番に嗅ぎつけたほうといわなければならぬ。
 婦人連も(ごく上流の人まで)かの『謎のびっこ』、つまりマリヤの身の上に、好奇心をいだき始めるものが多かった。そして、ぜひ会って親しく識り合ってみたいなどといい出すものさえ出てきた。こういうわけだから、急いでレビャードキン兄妹《きょうだい》を隠してしまった人たちの行動は、すこぶる機敏といわなければならぬ。しかし、なんといっても、いちばん問題になったのは、リザヴェータの気絶だった。とにかくことが、親戚であり、かつ保護者である知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナに関係している、という点から見ただけでも、『全社交界』の注意を惹くに十分であった。人々はありとあらゆる饒舌を逞しゅうした。この饒舌を助長したのは、いかにも秘密ありげな状態である。両家の戸はぴったりとざされてしまった。話によると、リザヴェータは熱病で倒れているとのことだし、ニコライについてもそれと同様な噂が伝わった。しかも、歯を一本たたき抜かれたとか、頬が腫れあがったとか、いやらしいほどこまごました話が付けたりになっていた。また隅のほうでこそこそと、こんな話もあった――ことによったら、この町で殺人があるかもしれぬ。スタヴローギンはけっして侮辱を忍んでいるような男でないから、きっとシャートフを殺してしまうに相違ない。しかし、公然にではなく、ちょうどコルシカ島の vendetta(仇討)のように、秘密のうちに行なわれるに違いない――この思いつきは町の人の気に入ったが、社交界若い人たちは大部分、われ関せず焉《えん》といったような無関心のていを装って(むろん付焼刃ではあるが)、さも軽蔑したような態度で聞いていた。
 ひっ括めていえば、この町の人のニコライに対する旧い敵意が、再び、明らかに現われてきたのである。身分のある立派な人たちでさえ、自分自身、ことのなんたるやを解しないくせに、無性に彼を攻撃し始めた。そして、陰のほうでこそこそと、リザヴェータの節操は彼のために穢されているだの、二人はスイスで怪しい関係があっただのと、そんなことをささやき合っていた。もちろん用心深い人たちは、慎んで控えていたけれど、しかし、みんなよろこんでそんな噂をむさぼり聞くのであった。そのほかまた別な噂もあった。それは一般にわたったものでなく、部分的な風説で、ごく時たま内証のように伝えられていたが、その内容は恐ろしく奇怪なものだった。わたしがこんな風説の存在をわざわざここへ持ち出すのは、ただ物語のさきのほうで起こる事件の予備知識として、読者の注意を促すにすぎない。それはこうである。何を根拠にいうのかしれないけれど、ニコライは何か特別な用向きがあって、この県へ来ているのだ、彼はK伯爵を通じて、ペテルブルグでもごく上流の社会へ入りこんでいるから、もしかしたら、政府に使われてるかもしれぬ、そして、だれかにある特別な任務を授けられてここへ来たのだ、とこんなことを、眉をひそめながら話し合う人もあった。ごく手堅い控え目な人たちが、この噂を聞いてにやりと笑いながら、しじゅういかがわしい騒ぎを身上《しんしょう》にして、この町へ来てからも、さっそく頬を腫らしたりなぞする男だ、あまりお役人らしくないじゃないかと、至極もっともな意見を吐いたとき、また一方は小さな声で、ニコライは表向きに勤めているのでなく、いわば内密な任務をしているのだから、したがって、なるべくお役人らしくないのが、都合がいいのではないかと答えた。この答えはかなり効果を奏した。なぜというに、この県の自治団が中央で一種特別の注意を受けているということは、土地の人に知れ渡っていたからである。しかし、くり返していうが、この噂はニコライのやって来た当時、ちょっと燃えあがったきりで、すぐに跡形もなく消えてしまった。ただ断わっておきたいのは、こういういろいろな風説のもととなったのは、先頃ペテルブルグから帰って来た近衛の予備大尉、アルチェーミイ・ガガーノフが、クラブで洩らした不明瞭で、簡単で、断片的な、しかし意地悪い二、三の言葉だった。この人は県内でも、郡内でも、うんと大きな地主で、しかも都育ちの世馴れた交際家だったが、これこそニコライが四年前、粗暴かつ奇矯な点において類のない衝突をした、町の長老ともいうべき故パーヴェル・ガガーノフの息子だった。この衝突のことは、物語の初めに述べておいた。
 また次の事実も、さっそく世間一般へ知れ渡った。ほかでもない、ユリヤ・レムブケー夫人が、ヴァルヴァーラ夫人のもとへ何か特別の用向きで馳せつけたところ、『気分が勝れぬからお会いするわけにいかぬ』といって、玄関払いを食ったのである。この訪問から二日たった後、ユリヤ夫人はわざわざ使いをやって、ヴァルヴァーラ夫人の容体をたずねさした。こうして、彼女は、しまいにはいたるところで、ヴァルヴァーラ夫人を弁護するようになった。もっとも、それは一ばん高尚な意味、すなわちきわめて漠然とした意味における弁護なのであった。つまり、あの日曜の出来事について、まず最初につたえられた気の早い当てこすりを、彼女はことごとくいかつい冷ややかな様子をして聞き流したので、二、三日たつうちには、もう彼女のいる前でそんな話をもち出すものもなくなってしまった。こういう具合なので、ユリヤ夫人はこの神秘的な事件をぜんぶ承知しているばかりでなく、その裏面の神秘的な意味すらも、微細な点まで了解している、――夫人はけっしてただの局外者ではなく、事件の直接関係者に相違ないという考えが、いたるところで確固不易なものとなってしまった。ついでにいっておくが、彼女は以前、一生懸命に追求、渇望していた上流社会における勢力を、しだいに獲得しはじめた。そして、だんだんと多くの人々に『取り巻かれた』自分を見いだすようになった。社会の一部は、彼女の実際的な才知と手腕を是認してきた……が、このことは後廻しにしよう。しかし、当時父スチェパン氏すら驚倒させたほどの、ピョートルのわが社交界における目ざましいもて方は、いくぶんレムブケー夫人の引き立てによったのである。
 或いはわたしもスチェパン氏も、大仰に考え過ぎたかもしれないが、それにしても、ピョートルは、第一に、来てから四日ばかりしかたたぬうちに、たちまちほとんど町中の者と知り合いになってしまった。彼が姿を現わしたのは日曜日であるが、火曜日にはもうアルチェーミイ・ガガーノフと、一つの馬車に乗っているところを見受けた。このガガーノフは世馴れた人物ではあるけれど、尊大で、癇癪もちで、しかも高慢なたちであるから、この人と親しく付き合うのは、いたって困難なことだった。ピョートルはまた県知事の家でもなかなかいい扱いを受けて、たちまちのうちに近しい知人、というよりは、お気に入りの青年ともいうべき位置を獲得してしまった。そして、毎日のようにユリヤ夫人のもとで食事をするのであった。彼はもとスイスで夫人と知り合いになったのだが、それにしても、閣下のもとにおける彼のこうした破天荒なもて方は、まったく何か謎のように思われるくらいだった。
 そのくせ、彼はまた、以前外国で活動していた革命家として、通り者になっていた。嘘か本当か知らないけれど、何か海外における秘密出版事業や、会議のようなものに携わっていたという噂もあった。『それは新聞を持ってきて証明することもできる』とアリョーシャ・チェリャートニコフが、かつてわたしに出会ったとき、さも憎らしそうにいったことがある。これはもと旧知事の家でお気に入りの青年だったが、無慚や今は一個の退職官吏にすぎない。しかし、ここに一つの事実が厳として控えている。ほかでもない、かつて革命運動にたずさわっていた男が、今この「もてなしのいい」祖国へ姿を現わしたのに、少しもうるさい目に会わないばかりか、むしろ歓迎されているほどであった。してみると、或いは何もなかったのかもしれない。ある時、リプーチンがわたしにこんなことを内証で聞かしてくれた、――噂によると、ピョートルはどこかで何もかもすっかり懺悔をした上に、二、三の仲間の名前をうち明けて、やっと放免されたとかいうことである。つまり、向後[#「向後」はママ]は国家有用の人物たるべきことを約して、罪亡し[#「罪亡し」はママ]をしてしまったらしい、というのだ。わたしはこの毒を含んだ言葉をスチェパン氏に伝えた。彼はとうてい考えごとなどできない状態だったけれど、これを聞くとひどく考えこんでしまった。
 これは後でわかったことだが、ピョートルは非常に立派な紹介状を幾通も持って、この町へやって来たとのことである。少なくとも、その中の一通は、なみなみならぬ勢力を持ったペテルブルグのさる老貴婦人から知事夫人へあてたものだった。ペテルブルグでも指折りの名士たる元老を夫にもったこの貴婦人は、ユリヤ・レムブケーの名づけ親になっていたが、その紹介状の中にこんなことが書いてあった。『T伯爵もニコライ殿の紹介にてピョートル殿に接し、一方ならず愛《め》でいつくしまれ、かつて邪路に迷い入りたることこそあれ、将来有望の青年と申しおられ候』ユリヤ夫人は、つねづね非常な苦心を払って繋ぎ止めている『雲上人の世界』との覚束ない関係を、一方ならず大事がっていたので、むろんこの勢力家の老婦人の手紙に有頂天になってしまったのだ。しかしそれでも、やはり何かちょっと妙なところがあった。彼女は自分の夫までも強いて、ピョートルとなれなれしい関係にしてしまったのである。フォン・レムブケー氏もだいぶこぼしていたが……しかし、これもやっぱり後廻しにしよう。
 もう一つ忘れないためにいっておくが、かの大文豪もきわめて好意ある態度でピョートルに接し、さっそく自分のところへ招待した。あの高慢ちきな男のこうしたさっそくなやり方は、何よりも一番スチェパン氏の胸にちくりとこたえた。しかし、わたしは心の中で別様に解釈した。つまり、カルマジーノフがこの虚無主義者をおびき寄せたのは、もちろん両首都における進歩党の青年たちとピョートルとの交渉を、ちゃんと頭においていたのである。彼は戦々兢々として最近の革命青年の鼻息をうかがっている。彼は愚かにも、ロシヤの未来の鍵は、彼らの手中に握られているものと考えて、卑屈な媚を呈しているのだ。しかし、おもな原因は、彼らが自分にいささかの注意も払ってくれないからである。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 ピョートルは二度ばかり、父親のところへちらと顔を出したが、不幸にも、二度ともわたしのいない時だった。はじめて彼が来訪したのは水曜日、すなわち最初の会見から四日めのことで、それもおまけに何か用事のためだった。ついでに断わっておくが、領地のほうの勘定は妙にこっそりと、目立たぬように片づいてしまった。ヴァルヴァーラ夫人がいっさい自分に引き受けて、そのささやかな領地を買い取った上、全部の支払いをすましてくれたのである。けれど、スチェパン氏にはただ、いっさいかたがついたと知らせたにすぎない。従僕アレクセイ・エゴールイチが夫人の代理として、何やら書類を持って来て署名してくれといったとき、彼は無言のままなみなみならぬ品位を見せて、いわれるままに署名した。品位といえば、彼はこの三、四日の間、これが以前のお爺さんだとは思えないくらいだった。態度が前とはがらりと変わって、びっくりするほど口数がすくなくなった。そして、あの日曜以来、ヴァルヴァーラ夫人にあてて、ふっつり手紙を書かなくなった(これなどは、奇蹟といってもいいくらいだ)。まあ、何より落ち着いてきた。彼が何か最後の異常な想念に固く根をおろして、そのために平静をえたのは、明瞭だった。彼はこの想念を探り当てると、じっと坐り込んだまま、何やら待ち受けていた。もっとも初めのうち、ことに月曜日は体が悪かった。例の疑似コレラである。それでも、外からの注進を聞かずにはいられなかったが、ちょっとわたしが事実の報告をやめて本体論に移り、何か自分の推察でも述べ始めると、すぐに手を振って、やめさせてしまうのであった。しかし、わが子との二度にわたる会見は、彼に病的な影響を与えた、もっとも、決心を動揺さすほどのことはなかった。その時は、二日とも、話がすんだ後で、酢を浸したハンカチを頭に巻き、長いすの上に臥せっていた。とはいえ、第一義的の意味では、依然として落ち着いていた。
 しかし、どうかすると、彼もわたしに手を振らないことがあった。どうかすると、胸の中へおさめた秘密の決心も、どうやら忘れたような具合になって、また何か新しい誘惑をおびた想念の奔流と戦いはじめたのではないか、と思われることがあった。それはほんの瞬間の現象だが、わたしはとくにここに記しておく。まったく、彼は再びこの隠棲の境を脱して、自己の存在を表明し、争闘を挑みたくなったのではないか、最後の決戦を試みたくなったのではないか、こうもわたしは疑ってみた。
「|きみ《シェル》、わたしはあの連中をこっぱ微塵にしてやりたい!」彼は覚えず口走った。それは金曜日、つまりピョートルとの二度目の会見後で、彼は頭を手拭で巻いて、長いすの上にねそべっていた。
 この瞬間まで、彼はいちんちひと言も、わたしに口をきかなかったのである。
「〔Fils, fils che'ri〕(わが子よ、いとしきわが子よ)とかなんとかいう表現は、そりゃまったく馬鹿げてる、飯炊婆さんの語彙《ヴォキャブラリイ》だ、そりゃわたしも同意する。だが、あんなやつら、なんとでも勝手にさしとくさ。わたしもいま自分で目が開いた。わたしはあれを養わなかった、ミルクも飲ませなかった。まだ乳呑児の時分にベルリンからN県へ『郵便』で送った。いや、何もかもそのとおり、わたしも同意だ。『お父さんはぼくにミルク一つ飲ませてくれないで、郵便でていよく送り出しておきながら、おまけにここでは僕《ひと》のものを、すっかり横領してしまったじゃないか』だとさ。そこで、わたしもどなってやった。お前は不仕合わせな子だ、しかし、わたしは一生お前のことで胸を痛めていたんだよ、やはりそれも郵便で送ったんだがね! ところが Il rit.(あいつは笑いやがるんだ)しかし、わたしも同意だ、そのとおり郵便……ということにしとくさ」彼はまるでうなされてでもいるような調子で言葉を結んだ。
「Passons.(それはまあいいとして)」五分ばかりたった後、彼はさらにこういい出した。「わたしはどうもツルゲーネフが腑に落ちない。彼の書いたバザーロフは、なんだかまるで実際にいない架空の人物みたいだ。今の若い連中も、当時自分たちの口から、ぜんぜん成ってないもののようにいって、その価値を否定してしまったくらいだ。あのバザーロフという人物は、なんだかノズドリョーフ([#割り注]ゴーゴリ『死せる魂』の中の一人物、えせ快男子の典型[#割り注終わり])とバイロンをいっしょにしたような、わけのわからないしろ物だという評判があったが、c'est le mot!(けだし名言だね)しかし、あの連中を注意して観察して見たまえ。あの連中は、まるで犬の子が日向ぼっこでもするように、嬉しそうに転げ廻って、きゃっきゃっといっている。実に幸福そうだ。まったく勝利者だ。ね、いったいどこがバイロンに似てるのだろう? おまけに、まあ、なんという月並みさ加減だろう? まるで下女かなんぞのように、みえ坊の怒りん坊で、そして fair du bruit autour de son nom(自分の名を担いで騒がれたいという)下劣な欲ばかり張ってるんだ。しかも|自分の名《ソンノム》が……その、なん[#「なん」に傍点]だということにはお気がつかないのだから、もう実にぽんち絵だよ! わたしはあいつにいって、どなってやった――おいおい冗談じゃないぜ、いったいお前は現在のままの自分を、キリストの代わりに人類へ薦《すす》めようと思ってるのか、ってね。Il rit. Il rit beaucoup, il rit trop.(あいつは笑う。あいつはやたらに笑う、笑いすぎるほど笑う)あいつは、なんだか奇妙な笑い方をする。あれの母親はあんな笑い方をしなかった。Il rit toujours.(あいつはいつでも笑っている)」
 また沈黙が続いた。
「あいつらはずるいよ、日曜日には二人で企んで、あんなことをしたんだよ……」と彼はとつぜん正面から切り出した。
「おお、そりゃそうですとも」とわたしは耳をそばだてながら叫んだ。「あれはみんな細工ですよ、しかし、その細工が白い糸で縫ってあるもんだから、実にやり方が拙かったですよ」
「わたしはそのことをいってるんじゃない。ねえ、きみ、あれはわざと見透かされるように、白い糸で縫ったんだよ……もっとも、必要のある人だけに見透かしてもらいたいんだがね。きみ、それがわかるかね?」
「いや、わかりませんよ」
「Trant mieux. Passons(その方がいいのだろう。まあこの話は止めにしよう)わたしは今日むやみに癇がたかぶってるんだよ」
「スチェパン・トロフィーモヴィチ。どうしてあなたはあの人と口論なんかしたのです?」とわたしは責めるようにいった。
「Je voulais convertir.(わたしはあいつを改心させようと思ったんだ)まあ、きみ、勝手に笑ってくれたまえ、|あの哀れな《セットポーブル》小母さんは elle entendra de belles choses!(もっといろいろ好い話を聞くだろうよ!)ねえ、きみ、まったくの話だがね、わたしはさっき、自分で自分が愛国者のような気がしたよ! もっとも、わたしはいつも、おれはロシヤ人だと自覚していたがね……いや、まったく正真のロシヤ人というものは、わたしやきみのような人間でなくちゃならないはずだ。〔Il y a la` dedans quelque choses d'aveugle et de louche.〕(実際、ロシヤ人の中にもめくらや藪睨みがずいぶんあるからね)」
「そりゃそれに違いありませんよ」とわたしは答えた。
「きみ、本当の真実はいつも本当らしくないもんだよ、きみそれがわかってるかね? 真実をより以上本当らしくするためには、どうしても嘘をまぜなけりゃならない。だから、人はいつでもそうしてきたものだ。大方そこには、われわれの理解できないような点があるのだろうよ。きみはいったいどう思うね、あの勝ち誇ったような絶叫の中に、われわれの理解できないようなものがあるだろうか? わたしはあってほしいと思うんだがね。あってくれるといいがなあ」
 わたしは押し黙っていた。彼もやはりだいぶ長いあいだ無言でいたが、
「よく人は、フランス式の知恵だと、一口にいってしまうが……」とふいに熱にでも浮かされたように、呂律の廻らぬ調子でいい出した。「それは嘘だ、それは今までもずうっと続けてそうだった。なんだってフランス式の知恵に言いがかりをするのだ? それはただロシヤ人のなまけ癖なのだ。理想の獲得に対する恥ずべき無力なのだ。各国民の間に介在している、ロシヤ人のいまわしい寄生虫的状態なのだ。Ils sont tout simplement des paresseux.(彼らはみんな、単なる怠け者なので)けっしてフランス式の知恵じゃない。そうだ、ロシヤ人は全人類の幸福のために、有害な寄生虫と同じく撲滅さるべきなのだ! われわれはけっして、けっしてそんな結果に向かって努力したのじゃない。わたしは何が何やらわからない。まるでわからなくなってしまった! わたしは息子《あいつ》にこうどなってやった――いいかい、こら、いいかい、もしお前たちが断頭台《ギロチン》を一番の眼目において、しかも夢中で得意になっているとすれば、それはけっしてほかに理由はない、ただただ首を切るのが一ばん容易で、理想をもつのがなによりむずかしいからにすぎないのだ! 〔Vous e^tes des paresseux! Votre drapeau est une guenille, une impuissance.〕(貴様たちは怠け者だ、貴様たちの旗印はぼろで役に立たないヤクザなものだ)例の荷車……ではない、なんとかいったっけ。『人類にパンを運ぶ荷車の響』とやらが、システィンのマドンナよりも有益だとか、まあ、なんだか、〔une be^tise dans ce genre.〕(そんなふうなばかげたことだったよ)しかし、とこうわたしはあいつにどなってやった――いったい貴様はわかってるかね、人間には幸福のほかに、全然それと同じくらいの程度に、不幸もまた必要欠くべからざるものだ! というと、Il rit.(あいつは笑ってるんだよ)そして、いうことがいいじゃないか、お父さんはここで、『ビロードの長いすに楽々と手足を伸ばしながら』警句《ボンモー》をはき散らしてるんだとさ(あれはもっと汚い言い方をしたんだよ)……ねえきみ、親子が敬語ぬきで話し合うロシヤの習慣は、二人が仲のいい時はけっこうだけれど、さあ、いったん喧嘩でもした時にはどんなもんだろう?」
 ちょっとの間、彼は言葉を休めた。
「|きみ《シェル》」とつぜん腰を浮かしながら、彼はこう結んだ。「ねえ、きみ、これはとどのつまり、必ず何か事件を惹き起こすね?」
「そりゃもちろんですよ」とわたしはいった。
「Vous ne comprenez pas. Passons.(きみにはわからないよ。まあこんな話はよしにしよう)しかし……普通なら、世間のことはどうということもなしに片がつくが、今度は何か結末があるよ、必ず、間違いなしに!」
 彼は立ちあがった。そして、恐ろしい興奮のていで部屋の中を一廻りしたが、また長いすの傍まで来ると、力抜けがしたようにその上へぐたりと倒れた。
 金曜日の朝、ピョートルはどこか郡部のほうへ出かけて、月曜日まで滞在した。その出立のことはリプーチンから聞いたのだが、その時、何かの話のついでに、レビャードキン兄妹《きょうだい》がどこか川向こうの、壺村《ゴルショーチナヤ》辺にいるということを知った。
「しかも、ぼくが引っ越しさせたんだよ」とリプーチンはつけ足したが、急にレビャードキンの話をぶつりと切ってしまって、今度は突然こんなことを知らせてくれた。リザヴェータはマヴリーキイと結婚することになった。まだ公けに披露こそしないけれど、婚約はもうちゃんと成立してしまったとのことである。翌日、わたしはリザヴェータがマヴリーキイと騎馬で通るのに行き会った。病後はじめての散歩である。彼女は遠くのほうから、目を光らせながらわたしを見たが、急にからからと笑いだして、非常になれなれしくうなずいて見せた。わたしはこれをすっかりスチェパン氏に伝えたが、彼はただレビャードキンに関する報告に、いくぶんの注意を払ったばかりである。
 今この八日間の謎のような状態を、まだ何も知れなかった時分の心持ちで説明したから、今度はそれに続いて起こったさまざまな出来事を、もう事情を知りつくしたものの心持ちで、――つまり、何もかも明らかに暴露されてしまった時の心持ちで、描きはじめることにしよう。まず例の日曜から数えて八日目、すなわち月曜日の晩からはじめようと思う。なぜといって、実際のところ、この晩が『新しい事件』の発端となったからである。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 晩の七時だった。ニコライはただひとり、前から気に入りの書斎に坐っていた、――それはさまざまの絨毯を敷きつめた、いくぶん重苦しい昔ふうの椅子テーブルを並べた、天井の高い部屋だった。外出でもするらしい服装《なり》をして、片隅の長いすに掛けていたが、どこへも出かけそうなふうは見えなかった。すぐ前のテーブルには笠をかぶったランプが置いてあったが、大きな部屋は両わきも四すみも闇の中に没していた。彼の眼ざしは一つところに集中されたように考え深そうだったが、なんとなく落ち着かぬ様子であった。その顔は倦怠の色を帯び、いくらか痩せて見えた。彼は、実際、頬腫れに悩んでいたけれど、歯を叩き折られたという噂には誇張があった。ただ、ちょいとぐらぐらしたのは事実であるが、今ではまた元のとおりにしっかりしてきた。上唇もやはり内側のほうが切れたけれど、これも癒ってしまった。頬腫れが一週間もひかなかったのは、病人がすぐに医者を招いて、腫れを切らすということをしないで、自然に口が開くのを待ったからにすぎない。
 彼は単に医者ばかりでなく、ほとんど母夫人さえ傍へ寄せつけなかった。まあ、一日に一度か二度、それも、もう大ぶん暗くなったけれど、まだ灯はついていないというたそがれどきに、ほんのちょっとのま入れるばかりだった。ピョートルもまだこの町にいる間、一日に二度も三度もヴァルヴァーラ夫人のところへ駆けつけたが、これにもやっぱり会おうとしなかった。ところが、この月曜日の朝、ピョートルは三日ばかりの旅行から帰って来ると、もうさっそく町を一まわり駆け廻って、知事夫人ユリヤ・ミハイロヴナのところでご馳走になった後、じりじりしながら待ちこがれているヴァルヴァーラ夫人のところへ、日暮れがたようよう姿を現わした。久し振りに禁止が解けて、ニコライが会うとのことだった。ヴァルヴァーラ夫人は、自分で客を書斎の戸口まで案内した。彼女は久しい以前から、二人の面談を待ちこがれていた。しかも、ピョートルは、ニコライのところからすぐ夫人のもとへ駆けつけて、様子を伝えると約束したのである。夫人はおずおずと戸を叩いてみたが、返事がないので、思い切って戸を二寸ばかり開けてみた。「ニコラス、ピョートル・スチェパーノヴィチをご案内していいかえ?」ランプの陰からニコライの顔を見透かそうと努めながら、夫人は小さな声で控え目にこうきいた。
「いいですとも、いいですとも、むろんいいですよ!」とピョートルはこちらから声高に愉快そうに叫びながら、自分の手で戸を開けて、中へ入ってしまった。
 ニコライはノックの音を聞かないで、母夫人のおずおずした問いを、初めて聞きつけたばかりであるが、それに対して返事をする暇がなかった。ちょうどこのとき彼の前には、たったいま読み終わったばかりの手紙が置いてあった。彼はこの手紙のことで、ひどく考え込んでいたのである。思いがけないピョートルの叫び声を聞きつけると、ぎっくりして、大急ぎで手紙を文鎮の下へ隠したが、うまくいかなかった。手紙の端と封筒のほとんど全部が、まざまざと顔をのぞけていたのである。
「ぼくはあなたに準備の余裕を与えようと思って、わざと一生懸命に大きな声をしたんですよ」ピョートルはテーブルの傍へ駆け寄りながら、驚くばかり罪のない調子で、早口にこうささやいた。彼はいきなり文鎮と手紙の端に目をつけた。
「そして、ぼくがたったいま受け取った手紙を、文鎮の下へ隠したのも、むろん見て取ったでしょうね」とニコライはその場を動こうともせずに、落ちつき払ってこういった。
「手紙? あなたが何をしようと、どんな手紙を受け取ろうと、ぼくの知ったことですか?」客は叫んだ。「しかし……肝要な点はですね……」と、今はもう閉まっている戸のほうへ体をねじ向け、そのほうを顎でしゃくりながらささやいた。
「母はけっして盗み聴きなどしないよ」とニコライは冷ややかに注意した。
「が、もし盗み聴きなすったら!」ピョートルは肘掛けいすに座を占めながら、愉快そうに声を高めて、さっそくこう抑えた。「が、ぼくはそんなこと別になんとも思いやしません。ぼくはただ二人きりで話がしたくてやって来たんですからね。いや、やっとのことであなたに会えましたよ! まず何よりもお体はいかがですか? お見受けしたところ、申し分ないようですね。もしそうだったら、明日はたいてい出席してくださるでしょう、え?」
「ことによったら」
「もういい加減にして、皆を安心さしてやってください、そしてぼくも安心さしてください!」と彼はおどけた気持ちのいい顔つきで、盛んに身振り手真似をしながら、「まあ、どんなことをあの連中にしゃべって聞かせなきゃならなかったか、少しでも察してくだすったらなあ。しかし、あなたはごぞんじでしょうね」
 彼は笑い出した。
「すっかりは知りませんよ。ただきみが大いに……活動したということだけは、母から聞いていましたがね」
「といっても、別にぼくが何かはっきりしたことを、しゃべったわけじゃないんですがね」まるで恐ろしい攻撃を防ぎ止めようとでもするように、ピョートルは急に躍りあがった。「実はね、ぼくはあのシャートフの細君を道具に使ったんですよ。つまり、あなたがパリであの女に関係したという風説を利用してね、それで、むろん、あの日曜日の出来事を説明したんですよ……あなた怒りゃしないでしょうね?」
「だいぶお骨折りだったとは察しています」
「いや、ぼくはただそればかり恐れていたんですよ。しかし、その『だいぶお骨折りだった』とは、いったいなんのこってしょう? それはつまり、非難の言葉になるじゃありませんか。しかし、あなたは真正面からぶっつかってくださる。ぼくはここへ来るみちすがら、あなたが真正面からぶっつかるのをいやがりはなさらんかと、それを一ばん心配してたんですよ」
「ぼくは何事も真正面からぶっつかるのはいやだね」ニコライはちょいといらだたしそうなふうでこういったが、すぐにたりと笑った。
「ぼくがいうのはそのことじゃありません、そのことじゃありません、誤解しないでください、そのことじゃありません!」さっそくあるじのいらだたしさを見て取って、悦に入りながら、まるで豆でもまき散らすように、ピョートルは両手を振って、浴びせかけるのだった。「ぼくは仲間[#「仲間」に傍点]の問題で、あなたに癇癪を起こさせなぞはしませんよ、ことに目下のような状態におられる場合ですからね。ぼくはただ日曜日の事件について、お話しようと思って飛んで来たのですが、それも、ほんの必要な程度だけにとどめておきます。だって、実際こまりますからね。ぼくは思い切ってうち明けた相談に来たんですが、それはあなたより、むしろぼくにとって必要な事件なんです、――あなたの自尊心を傷つけまいためにいうのですが、同時に事実でもあるんですよ。ぼくは今日から常に開放的にしたいと思って、わざわざやって来たのです」
「してみると、従来は非開放的だったんですね」
「それもあなた自身ご承知のはずですがね。ぼくは幾度か狡知を弄しましたよ……あなた笑いましたね。ぼくはあなたの微笑を事実闡明のいとぐちとして、非常に嬉しく思いますよ。ぼくはね、わざと『狡知を弄した』なぞという自慢そうな言葉を使って、その微笑を引き出したんです。ただし、あなたがすぐその後で、腹を立てるだろうと予想してね。『あんなやつが狡知を弄するなんて、よく生意気なことが考えられたもんだ』というわけでさあ。ところが、ぼくは今すぐ相談にかかりたいためにいったんですよ。ね、ね、ご覧なさい、今日はぼくずいぶん開放的になったでしょう。どうです、ぼくの話を聞いてくれますか?」
 いかにも前から準備して来たらしい、何かためにするところありげな、無礼なほど罪のない、しかも思い切ってずうずうしい言葉づかいで、相手の心をいらだたせようとする、客の見え透いた計略にもかかわらず、ニコライは依然として、馬鹿にしたような落ち着きと嘲りを見せていたが、ついにいくぶん好奇の色を浮かべてきた。
「まあ、聞いてください」とピョートルは前よりいっそう烈しく活動しながらいった。「ここへ来る途中、ここといっても、全体にこの町をさすんですよ、――十日前にここへ来る途中、ぼくはもちろん、一役演じる決心でした。しかし、何よりいいのはいっさい役なしに、素のままの自分でいくに限ります。そうじゃありませんか。素のままの自分より以上、ずるいものはありませんよ。だれも本当にするものがないですからね。ぼくは実際のところ、のろまの役廻りが引き受けてみたかったんですよ。なぜって、のろまのほうが、素の自分より楽ですからね。しかし、なんといっても、のろまは少し極端でしょう。ところが、極端という奴は、とかく好奇心をひきやすいものだから、とうとうぼくは素のままの自分に決めちゃったんです。さあ、ところが、ぼくの『素の自分』はなんでしょう? いわゆる黄金のごとき中庸です。馬鹿でもなければ利口でもなく、かなり凡くらでもあるし、おまけにここの賢い人たちのいうところによると、まるで天から降ったような人間だそうですからね、じゃありませんか?」
「そうさねえ、或いはそうかもしれない」とニコライは心もち微笑した。
「あっ、あなたもご同意なんですね――大いに愉快です。ぼくもこれはあなた自身の考えだと、初めから承知してたんですよ……ああ、ご心配はいりません、ご心配は。ぼく、怒ってやしませんよ。それに、ぼくが自分自身にあんな定義を下したのは、けっしてあなたから、『いや、きみは凡くらじゃない、それどころか大いに賢いよ』といったふうな、お返しを頂戴したいからじゃありません……おや、あなたはまたにたっと笑いましたね!………またしくじったぞ。いや、あなたは『きみは利口だ』なんかいわないでしょう、まあ、そうしておきましょう、ぼくは何にでも同意しますよ。親爺の言葉じゃないが、passons(やめにしよう)です。しかし、ちょいとお断わりしておきますが、ぼくの口数の多いのに腹を立てないでください。ところで、これがまたちょうど都合のいい例になるんですよ。ぼくはいつも余分なことをいうでしょう。つまり言葉数が多いでしょう。ぼくはあまりせき込むもんだから、いつもまとまったことがいえないんです。いったいどうしてぼくは言葉数が多くて、そのくせまとまったことがいえないんでしょう? ほかではない、話が下手だからです。話上手な人は、なんでも簡単にいってのける。してみると、実際、ぼくは凡くらに相違ない、――そうじゃありませんか? しかし、この凡くらが、ぼくにとっては自然の賜物なんですから、それを人工的に利用してならないって法はないじゃありませんか。だから、ぼくもそいつを利用するんでさあ。実のところ、ここへ来る前に、ぼくはいっそ沈黙を守ろうかと思ったのですが、沈黙というやつは非常な才能だから、ぼくとしては僭越でしょう。それに、第二として、黙ってばかりいるのは、なんといっても危険ですからなあ。で、とうとうぼくはしゃべるのが一番いいときめました。ただ、凡くら式にやるのです。つまり、しゃべってしゃべってしゃべり抜くのです。やたらにせき込んで論証しようとするのです。そうして、しまいには自分でも自分の論証にまごついちまえば、聴き手のほうでも不得要領で、ただあきれて両手を広げながら(もしぺっと唾でも吐いてくれれば何よりですがね)、ぼくの傍を離れて行ってしまいますよ。こうすれば、第一、自分の人の好さ加減を吹聴し、相手をすっかりいやがらせ、しかも自分の真相を晦ませるんだから、――一挙三得ってわけじゃありませんか! どうです、これでも秘密の企みを持ってるなどと、疑う人があるでしょうか? もしぼくが秘密の企みをいだいてる、などというものがあれば、世間の人はだれでもそのものに腹を立てまさあ。おまけに、ぼくはときどき滑稽なことをいって人を笑わすでしょう、――これなぞは実にまたと得がたい武器なんですよ。だから、今じゃ世間の人も、『以前外国で宣伝《アジ》ビラなんぞ出版した賢人は、自分たちよりも馬鹿だったのか』と思って、この理由一つだけでも、すっかりぼくをゆるすに決まってますよ。そうじゃありませんか? あなたの笑顔でもって、ご同意だってことがわかりますよ」
 けれど、ニコライはまるで笑顔など見せなかった。それどころか、顔をしかめながら、幾分じれったそうに聞いていた。
「え? なんですって? あなたは今『どうでもいい』とおっしゃったようですね?」とピョートルは炒り豆のはぜるような調子でしゃべり出した(ニコライはけっして何もいいはしなかったので)。「むろんですとも、むろんですとも、ぼくは何もあなたを自分の仲間扱いにして、迷惑をかけるためにいったんじゃありません。しかしねえ、今日あなたは恐ろしく癇が立っていますよ。ぼくはうち開いた、快活な心をいだいて駆けつけたのに、あなたは一々ぼくの言葉尻をつかまえるんですもの。誓っておきますが、今日は断じて尻擽ったいようなことはいいません。あらかじめ断わっておきますよ。そして、あなたの提出なさるいっさいの条件に、前もって同意を表明しておきます!」
 ニコライはしゅうねく押し黙っていた。
「え? なんですって? あなた何かいいましたか? ああ、わかった、わかった、ぼくは一人合点をしていたようですね。あなたは何も条件など提出されはしなかったんです、そして、また提出される気色もない、そうですとも、そうですとも。いや、まあ、安心してください。ぼくだって自分でわかっていますよ。つまり、ぼくなぞを相手に、そんなものを提出する価値がない、そうでしょう? ぼくはあなたの代わりに、さき廻りして答えておきます。それは、――もちろん、例の凡くらのせいです。凡くらです、凡くらです……あなた笑ってますね? え? どうしたのです!」
「なんでもありません」ニコライはとうとうにやりと笑った。「ぼくは今はじめて思い出したが、実際、ぼくはいつだったかきみのことを凡くらだといったことがある。しかし、そのとききみはいなかったはずだから、きっとだれかきみの耳へ入れた者があるんだろう……とにかく、手っ取り早く用件にとりかかってもらいたいね」
「いや、もう用件にとりかかろうとしてるんですよ。ぼくは、つまり、日曜日のことでやって来たんです!」とピョートルはさえずり出した。「いったいあの日曜日のぼくは何者だったのでしょう、どういう役どころだったのでしょう、あなたなんとお考えです? ほかじゃありません、例のせっかちな凡くらだったのです。ぼくはきわめて凡くらなやり方で、無理に一座の会話をあやつったのです。けれど、人はぼくに何もかもゆるしてくれました。なぜって、第一に、ぼくは天から降った人間でしょう。これは今この町でみんなが勝手に決めてしまったようです。第二には、あの可憐な話をして、あなたがた一同を救い出してあげたからです、違いますか、違いますか?」
「ところが、きみの話し方は、みんなの心に疑いを残して、ぼくらの狂言や細工をぶちまけてしまうような話し方でしたよ。しかも、ぼくらの間には狂言も何もなかったし、またぼくのほうから何一つ、きみにお願いしたこともなかったんですがね」
「そうです、そうです!」まるでよろこばしさに有頂天になったような調子で、ピョートルは引き取った。「ぼくはつまり、あなたにそういう細工を、すっかり気取《けど》ってもらおうと思ってしたんですよ。ぼくは何よりもまず第一に、あなたを目やすにして、ああして一生懸命に狂言を書いたんですよ。なぜって、ぼくはあなたを釣って、あなたと妥協したかったからなんです。まず何よりもね、あなたがどのくらいまで恐れているか、それをぼくは知りたかったんですよ」
「不思議ですね、どうしてきょうきみはそんなに露骨になったんだろう?」
「怒っちゃいけません、怒っちゃ、そんなに目を光らせないでください……もっとも、あなたは別に目を光らせてるわけじゃない。ところで、どうしてぼくがこんなに露骨なのか、それが不思議だというんですね? ほかじゃありません、今ではすべてが一変したからです、終わりを告げたからです。もうすべてが過ぎ去って、砂をかぶってしまったからです。ぼくは一挙にあなたに対する考えを変えましたよ。旧い手はもうすっかりおしまいです。ぼくはもう今さら旧い手であなたを煩わしなどけっしてしません、今度は新しい手です」
「戦法を変えたんですか?」
「戦法などありゃしません。今は万事あなたの自由意志があるのみです。つまり『諾《イエス》』といいたければ『諾《イエス》』、『否《ノー》』といいたければ『否《ノー》』といってください。それがぼくの新しい戦法です。われわれ仲間[#「われわれ仲間」に傍点]の事件なぞは、あなた自身の命令があるまで、おくびにも出しゃしません。あなた笑ってるんですか? どうかご随意に、ぼくも笑いますよ。しかし、ぼくは今まじめです。まじめもまじめ大まじめです。もっとも、こんなせっかちは凡くらにきまってますがね、そうでしょう? なあに、凡くらだってなんだっていいです、ぼくはまじめ、本当にまじめですからね」
 彼は実際まじめくさった、以前とはまるで別人のような調子になって、一種特別な興奮を示しながら、こういったので、ニコライは好奇の色を浮かべて、相手を見つめた。
「きみはぼくに対する考えを変えたといいましたね?」と彼はたずねた。
「あなたがシャートフに打たれた後で、手をうしろへ引っ込めたあの瞬間から、すっかり考えを変えてしまったのです。いや、それでたくさんです、たくさんです、どうかなんにもきかないでください。これより以上、今は何もいいませんから」
 彼はまるで質問をふるい落とそうとでもするように、両手を振り廻しながら跳びあがったが、べつだん質問も受けなかったし、それかといって、自分のほうから出て行く理由もなかったので、いくぶん落ち着きながら、また肘掛けいすに腰を下ろした。
「ついでにちょっといっておきますが」と彼はすぐしゃべり出した。「この町ではね、あなたがあの男を殺すだろうなぞといって、賭けまでしている連中があるんですよ。だもんだから、レムブケーなぞは、よっぽど警察に注意しようとかかったんですが、ユリヤ夫人がとめたのです……いや、たくさん、こんなことはたくさんです、ぼくはただちょっとお知らせしようと思って。もう一つついでにいっときますが、ぼくはあの日すぐレビャードキン兄妹を、河向こうへ越させておきましたよ。ご承知でしょう。所書のついたぼくの手紙は受け取りましたが?」
「あの時すぐ受け取りましたよ」
「あれなどはもう『凡くら』のせいじゃありません、あれはぼくしんからあなたのためにしたことなんですよ。よし手際は凡くらであろうとも、その代わり誠意がこもっています」
「いや、けっこう、或いはああする必要があったかもしれない……」と、ニコライはうち案じ顔にいった。「ただね、お願いだから、もうこれからぼくに手紙をよこさないでください」
「仕方なかったのです、もうあれ一度きりです」
「じゃ、リプーチンは知ってるんですね?」
「仕方なかったのです。しかし、リプーチンはご承知のとおり、そんな大胆なことのできる男じゃありません……ちょっと断わっておきますが、ひとつ仲間のところへ出かけなきゃなりませんよ。いや、仲間[#「仲間」に傍点]じゃありません、あの連中のところです。こういっておかないと、またあなたに尻尾をつかまえられますからね。しかし、心配しないでください、今じゃありません、いつかのことです。今は雨が降ってますからね。ぼくがみんなに知らせておくと、連中あつまって来ますよ。そのとき二人で晩がた出かけましょう。ある連中は、まるで巣の中の鴉の子みたいに、大きな口を開けて待ってまさあ、いったいどんなお土産を持って来てくれたかと思ってね。どうして、熱心なもんですよ。めいめい何か本を持ち出して、一争論しようとかまえています。ヴィルギンスキイは四海同胞論者で、リプーチンフーリエ派なんです。ただし、恐ろしく刑事探偵的傾向に富んだ男ですがね。ぼくにいわせれば、あの男はある一つの点においては非常に貴重な人間ですが、その他の点においては厳重な監視を要しますよ。それから、最後にひかえているのは、あの耳の長い先生で、あれが自家独得の主義系統をのべるはずです。ところが、どうでしょう、あの連中はぼくがみんなに冷淡で、かえって水をさすようなことをするといって、憤慨しているんですよ、へへ! しかし、ぜひ出かけなきゃなりません」
「きみはあの連中に、ぼくを首領かなんぞのように吹聴したんでしょう?」できるだけ無造作な調子で、ニコライはこうぶっつけた。
 ピョートルは素早く相手を見やった。
「ときに」まるで聞こえないふうをして、急いでもみ消そうとするように、彼はこう引き取った。「ぼくはヴァルヴァーラ夫人のところへも二、三度顔を出したが、やはりいろんなことをいわなくちゃならない始末になりましてね」
「察しています」
「いや、あまり察しないでください。ぼくはただあなたがあの男を殺す気づかいはない、といったような甘いことを、少しばかりいったきりでさあ。ところが、どうでしょう、お母さんはぼくがマリヤ嬢を河向こうへ越さしたことを、翌日さっそく知ってしまわれましたよ。いったいあなたが話したのですか?」
「思いも寄らないね」
「そうでしょう、あなたじゃないと思ってました。あなたでなけりゃ、いったいだれでしょう? おかしいなあ」
「むろん、リプーチンですよ」
「ど、どうして、リプーチンじゃありません」とピョートルは顔をしかめながら口ごもった。「それは今にぼくが洗い上げますよ。なんだかシャートフらしいとこもあるな……が、馬鹿馬鹿しい、もうこんなことはよそう! しかし、これでなかなか大切なこったからなあ……ときに、ぼくはいつも待ちかまえてたんですよ、――ほかじゃありませんが、いきなりお母さんがぼくに面と向かって、一ばん肝腎な質問を切り出されはしないかと思いましてね……ああ、そうそう、お母さんは初めのうち毎日毎日、恐ろしく気むずかしそうな様子をしておられましたが、きょう来てみると、まるでにこにこものでいらっしゃる。これはいったいどうしたわけなんでしょう?」
「それはね、もう四、五日たったらリザヴェータ・ニコラエヴナに結婚の申し込みをすると、きょうぼくが母に約束したからです」突然おもいがけない剥き出しな調子で、ニコライはこういい切った。
「ああ、なるほど……そりゃもちろん……」とピョートルはへどもどした様子で口ごもった。「いま町でマヴリーキイ氏とあのひとと婚約の噂があるのを、あなた知っていますか? まったく確かな話なんです。いや、しかし、あなたのいうとおりです。あのひとは式の間際にでも、あなたが一口声をかけさえすれば、さっそく逃げ出して来ますからね。ときに、あなたはぼくに腹を立てちゃいませんね、ぼくがこんな口のきき方をするので?」
「いや、腹なんか立てちゃいません」
「ぼくもさっきから気がついているんですが、今日はあなたを怒らすのが、恐ろしくむずかしいようですね。ぼくはなん