京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP385-P408

りませんよ」
 部屋の中がしいんとなってしまった。泣いていた子供までが黙りこんだ。ソーニャは死人のように青い顔をして立ったまま、ルージンの顔を見つめるだけで、ひと言も返事ができなかった。彼女はまだ話がよくのみ込めないらしい。幾秒か過ぎた。
「さあ、それで、いったいどうなんです?」ひたと彼女を見つめながら、ルージンは問いかけた。
「わたしぞんじません……わたし少しもぞんじません……」やっとソーニャは弱々しい声で答えた。
「知らないんですって? ごぞんじない?」とルージンは問い返したが、また幾秒間か黙っていた。「よく考えてごらんなさい、マドモアゼール」厳格ではあるが、それでもまだなんとなくさとすような調子で、彼はいい始めた。「よく分別してごらんなさい。わたしはもう少し熟考の時間をさしあげるのに異存ありません。ね、そうじゃありませんか、もしわたしが確信を持っていなかったら、もちろん、わたしくらい経験のある人間が、頭からあなたに罪をかぶせるような冒険はしませんよ。なぜといって、こんなふうに真正面から公然と、あなたに無実の罪をかぶせたら、たとえそれがまちがいから起こったことにもせよ、わたしはある意味において、みずから責任を問われねばなりませんからなあ。それくらいのことはちゃんと心得ていますよ。今朝わたしは必要があって、額面三千ルーブリの五分利付債券を現金に換えたのです。その勘定は、紙入れの中に書きとめてあります。家へ帰ると、わたしは――その証人はアンドレイ・セミョーヌイチですが――金の勘定を始めた。二千三百ルーブリまで数えて、それを紙入れにしまい、紙入れはフロッのわきポケットへ入れたのです。テーブルの上には紙幣で五百ルーブリばかり残っていました。その中の三枚はいずれも百ルーブリの紙幣だった。ちょうどその時、あなたがはいって来られたのです(わたしの招きに応じて)。それから、わたしのところにおられた間じゅう、あなたは非常にもじもじしていらした。で、話の途中に三度も立って、話がまだすっかりすんでいないのに、どういうものか、あわてて出て行こうとなすった。この事実は、すべてアンドレイ・セミョーヌイチが証明してくれますよ。マドモアゼール、おそらくあなた自身も否定はなさらんでしょうな、わたしの言葉を確かめてくださるでしょうな――わたしがアンドレイ・セミョーヌイチを通じてあなたを呼んだのは、ただただあなたの義母にあたるカチェリーナ・イヴァーノヴナの(わたしはこの人のところへ、法事に出席することができなかったものですから)孤児同然な頼りない境遇についてお話をし、またこのかたのために何か募金とか、慈善|富《とみ》くじとか、そういったようなものを催したら、どんなに有意義なことだろうと思って、それをご相談するためだったのです。あなたはわたしに感謝して、涙さえお流しなすった(わたしは何もかもありのままにお話ししているのです。それは第一に、あなたの記憶を呼びさますためと、第二には、どんなささいなことでもわたしの記憶から消えていないのを、あなたに知ってもらうためなんです)。それからわたしは、テーブルの上から十ルーブリ紙幣を取って、あなたの義母のために暮らし向きの扶助《ふじょ》という形で、寸志としてあなたにお渡しした。これも皆アンドレイ・セミョーヌイチが見ていたことです。それから、わたしはあなたを戸口までお送りしました。――その時もあなたはやはりもじもじしておられた。そのあとで、アンドレイ・セミョーヌイチとふたりきりになってから、ふたりで十分ばかり話しました――やがてアンドレイ・セミョーヌイチが出て行ったので、わたしはまた紙幣の勘定をすまして、前から考えていたとおり別にしておくつもりで、金ののっているテーブルに向かった。ところが、驚いたことには、その金の中に百ルーブリ紙幣が一枚見えないんです。ねえ、ひとつとっくり考えてみてください。アンドレイ・セミョーヌイチを疑うことは、わたしにはどうしてもできません。そういうことは想像するのさえ恥ずかしいくらいです。しかし、わたしが勘定まちがいをするということも同様ありえないことです。なぜといって、あなたの来られる一分ほど前に、一度ぜんぶ勘定をすまして、総計にまちがいないのを確かめておいたんですからな。え、あなただって、これがむりとはお思いになりますまい。あなたのもじもじした様子や、しじゅう出て行こうと急いでおられたことや、それから、あなたがしばらくの間テーブルの上に手をおいておられたことを思い出して、さらにまた、あなたの社会上の境遇と、それに関連する習性を考えに入れた結果、恐ろしいことではあるけれど、自分の意志に反しながらも、一つの疑念――もちろん残酷ではあるけれど――正当な疑念を肯定せざるをえなかった[#「えなかった」に傍点]のです! もうひと言くりかえしていい添えておきますが、わたしは十分明白な確信があるにもかかわらず、この告発がわたしにとって、やはり一種の冒険だということを自分でも承知しているのです。けれど、わたしはごらんのとおり、そのままうやむやに葬ることをしないで、敢然と立ちました。それはなぜかといえば、つまりただあなたの憎むべき忘恩によるのです! いったいどうでしょう? わたしはあなたの貧しい義母のためを思って、わざわざあなたをお招きし、その上わたしとしてできるかぎりの喜捨《きしゃ》、十ルーブリという金をあなたにさしあげているのです。それにあなたはすぐその場で、それにたいしてかような行為をもって報いるんですからな! いいや、これはどうもじつによくない! 罰が必要です。よく分別してごらんなさい。そのうえに、わたしはあなたの真実の友として、あなたにお願いする(わたし以上の友は、この瞬間あなたにはありえないんだから)、どうか正気に返ってください! さもないと、わたしはそれこそなんといっても承知しませんぞ! さあ、どうです?」
「わたし、あなたのものを何も取った覚えはございません」とソーニャはぞっとしたように小声でいって、「あなたはわたしに十ルーブリくださいました。さあ、どうぞお受け取りくださいまし」
 ソーニャは、ポケットからハンカチを取り出し、結び目をさがしてそれを解き、十ルーブリ紙幣を抜き出すと、その手をルージンのほうへさし伸べた。
「すると、そのほかの百ルーブリのことは白状しないんですな」その紙幣は受け取ろうともせず、彼は責めるように一国《いっこく》な調子でいった。
 ソーニャはあたりを見まわした。だれもかれもが恐ろしい、いかめしい、あざけるような、憎々しげな顔つきをして、彼女を見つめていた。彼女はちらとラスコーリニコフをながめた……彼は腕を十字に組んだまま壁ぎわに立ち、火のようなまなざしで彼女を見つめていた。
「ああ、情けない!」という叫びがソーニャの胸をほとばしり出た。
「アマリヤ・イヴァーノヴナ、警察へ知らせなけりゃならないから、どうかごめんどうですが、さしずめ庭番を呼びにやってくださらんか」と静かな、あいそのいい調子でルージンはいった。
「ゴット・デル・バルムヘルツィゲ(あれあれまあまあ)! わたしもあの娘が盗んだのは、ちゃんと知っていた!」と、アマリヤはぱっと両手をうち鳴らした。
「あなたもちゃんと知ってたんですって?」とルージンは言葉じりを押えた。「すると、以前からもうそんなふうに推定する根拠が、多少なりとあったんですね。じゃ、アマリヤ・イヴァーノヴナ、お願いですから今おっしゃったことを覚えていてください。もっとも、証人も大ぜいいることですがね」
 急に四方からがやがやと話し声が起こった。一座はざわついてきた。
「な、な、なんですって!」カチェリーナはわれに返ってふいにこう叫んだ。そして――まるで鎖が切れたように――ルージンのほうへ飛びかかった。「なんですって! あなたはこの娘《こ》をどろぼうとおっしゃるんですね? このソーニャを? ああ、あなたがたはなんて卑劣な、卑劣な人たちだ!」
 こういって、彼女はソーニャのほうへかけ寄ると、搾木《しめぎ》にでもかけるように、やせ細った手で彼女を抱きしめた。
「ソーニャ! よくもお前はあんな人から、十ルーブリもらって来られたねえ! ああ、ばかな娘ったら! こっちへおよこし! さあ、すぐその十ルーブリをおよこしったら――それ!」
 カチェリーナはソーニャの手から紙幣をひったくり、てのひらでもみくちゃにすると、すぐその手を返して、まともにルージンの顔へたたきつけた。丸められた紙玉はルージンの目にあたって、はね返りながら床の上に落ちた。アマリヤは飛んで行って金を拾い上げた。ルージンは火のように怒りだした。
「この気ちがい女をおさえろ!」と彼はわめいた。
 このとき戸口には、レベジャートニコフとならんで、四、五人の顔がならんでいた。その中には、例の田舎から出て来た夫人親子ものぞいていた。
「なんだって! 気ちがい女? それはわたしが気ちがい女だというんだね? ばかあ!」とカチェリーナは、かなきり声をあげた。「お前こそばかだ、三百代言《さんびゃくだいげん》だ、卑怯者《ひきょうもの》だ――ソーニャが、ソーニャがお前の金を盗んだって。ソーニャがどろぼうだって! ちぇっ、かえってあの娘《こ》のほうがお前にやるくらいだよ、ばか!」こういって、カチェリーナはヒステリックにからからと笑いだした。「皆さんこのばかをごらんになりましたか?」と彼女は一同にルージンを指さしながら、四方八方へ飛んで行って叫ぶのであった。「ああ! お前もそうだ!」彼女はふいに主婦を見つけた。「ええ、この腸詰屋(腸詰屋はドイツ人にたいする悪口)、お前までしり馬に乗って、今あれが『ぬしゅんだ』といったね、スカートをはいた下司《げす》なプロシヤの鶏の足め! ああ、みな! ああ、みな、なんというやつだろう! 第一、あの娘《こ》は、お前んとこから帰って来たまま部屋の外へ出やしないよ、畜生、ちゃんとここに、わたしとならんで腰をかけたんだよ。それはみんな見ていた。ロジオン・ロマーヌイチとならんで腰をかけたんだよ……あの子を調べてごらんなさい! どこへも出て行かなかったんだから、お金はきっとあの子の身についてるはずです! 調べてごらん、お調べ、お調べ! だがね、もしなんにも見つからなかったら、その時こそはお気の毒だがね、お前ただじゃすまないよ! わたしは陛下のところへ、陛下さまのところへ、お情けぶかい皇帝陛下さまのところへ、かけつけて、おみ足のそばに身を投げて、お願いするんだから、これから、今日すぐ! わたしは身よりのないやもめだもの! わたしなら通してくださる! 通してもらえないとお前は思ってるんだね! おふざけでない、行って見せる! 行って見せるとも! これはなんだな、あの娘《こ》がおとなしいものだから、それを見こんでこさえたんだな? お前はそれを当てにしたんだろう? ところがね、お前さん、そのかわりわたしのほうがきかないから! 一あわふかせてやるとも、お調べったら! お調べ、お調べ、さあ、お調べよう!」
 カチェリーナは夢中になって、ルージンをソーニャのほうへしょっ引きながら、こづきまわした。
「わたしは覚悟しております、責任を負いますとも……しかし、まあ気を静めてください、奥さん、気を静めて! あなたがきかない気性なことは、わかりすぎるほどわかりましたよ!………これは……これは……これはいったいどうしたもんでしょうな?」とルージンはまごまごしていった。「それは警察が立会いの上でなくちゃ……もっとも、今でも証人は多すぎるくらいだから……わたしはそのつもりでいますよ……しかし、いずれにしても男にはやりにくいですよ……性の関係があるから……もしアマリヤ・イヴァーノヴナにでも手を貸していただけば……もっとも、そういうやりかたはないし……これはいったいどうしたものかな?」
「だれでもよござんす! だれでもやりたい人は勝手に調べるがいい!」とカチェリーナは叫んだ。「ソーニャ、あいつらにポケットをひっくり返して見せておやり! ほら、ほら! 見るがいい、悪党、ほら、からじゃないか、ここにはハンカチがあっただけで、ポケットはからだよ、わかったかい! こんどはもう一つのほうだ、ほら、ほら! わかったかい! わかったかい!」
 カチェリーナはもう裏返すどころでなく、両のポケットを一つ一つ外へ引っぱり出して見せた。ところが、次の右ポケットからふいに紙きれが一つ飛び出して、空中に抛物線《ほうぶつせん》を描き、ルージンの足もとに落ちた。一同はそれを見た。多くのものはあっと叫んだ。ルージンはかがみ込んで、二本指で紙きれを床からつまみ上げ、みなに見えるようにさし上げて、ひろげて見せた。それは八つに畳んだ百ルーブリ紙幣であった。ルージンは手をぐるぐると振りまわしながら、みんなに紙幣を見せた。
「女どろぼう! さあ出て行け! ポリス、ポリス!」と、アマリヤはわめきだした。「あいつらシベリヤへ追っ払ってやらなくちゃ! 出てくれ!」
 叫喚《きょうかん》の声が四方八方から飛び始めた。ラスコーリニコフはソーニャから目を放さなかったが、ときどき、ちらとルージンのほうへ視線を転じながら、じっとおし黙っていた。ソーニャは意識を失ったように、同じところに立ちつくしていた。彼女はほとんど驚くのを通り越していたのである。と、ふいに紅《くれない》がその顔にさっとみなぎった。彼女はひと声叫びをあげて、両手で顔をおおった。
「いいえ、それはわたしじゃありません! わたしは取った覚えはありません! わたしは知りません!」彼女は、はらわたのちぎれるような叫び声とともに、カチェリーナに身を投じた。
 こちらは彼女をひっかかえ、われとわが胸ですべての人から守ろうとするように、ひしとばかり抱きしめた。
「ソーニャ! ソーニャ! わたしはほんとにしやしないよ! ごらん、わたしはほんとにしてやしないから!」カチェリーナは(明瞭《めいりょう》な事実を無視して)、彼女を両手で子供のようにゆすぶっては、数かぎりなく接吻《せっぷん》の雨を降らしながら、その手を探り求めて、食い入るようにむさぼり吸いながら、こう叫ぶのであった。「お前が取るなんて! まあ、なんてばかな人たちだろう! ああ、情けない! あなたがたはばかだ、ばかです」と彼女は一同に向かって叫ぶのであった。「そうです、あなたがたはまだごぞんじないのだ――この娘《こ》がどんな娘か、どんな心を持っているか、ごぞんじないのだ! この子が盗みをする、この子が! それどころか、この子はね、もしあなたがたが要《い》るといえば、かけ換えのない着物を脱いで売り飛ばし、自分ははだしで歩いても、みんなあなたがたにあげてしまいます、この娘《こ》はそんな娘《こ》なんです! この子は黄いろい鑑札も受けました。それはね、わたしの子供が飢《かつ》え死にしそうになったから、わたしたちのために身を売ってくれたんです! ああ、天国にいるわたしの主人、ねえ、あなた! ああ、セミョーン、セミョーン! あなたごらんになって? ごらんになって? これがあなたの法事なんですよ! なんということだろう! この子を守ってやってください。いったいあなたがたは何をぼんやり立ってるんです! ロジオン・ロマーヌイチ! あなたまでがなぜ肩を持ってくださらないんですの? あなたもやはりほんとうにしてらっしゃるんですか? お前さんたちはみんな、みんな、みんな、あの娘《こ》の小指だけの値うちもありゃしない! 神さま! どうぞ守ってくださいまし!」
 哀れな肺病やみの、みなし子も同然なカチェリーナの嘆きは、一同に深い感銘を与えたらしかった。この苦痛にゆがめられた、骨と皮ばかりの肺病やみらしい顔、この干からびて血のこびりついたくちびる、このしゃがれた叫び声、この子供の泣き声に似たすすり泣き、この信頼の情にみちた、子供らしい、同時に絶望的な、保護を祈る哀願、それはだれでもこの不幸な女に憐れみを感ぜざるをえないほど、いじらしさ、せつなさのこもったものだった。少なくも、ルージンはすぐに同情の気持[#「同情の気持」に傍点]を表わした。
「奥さん! 奥さん!」と、彼はさとすような調子で叫んだ。「これは何もあなたに関係したことじゃありません! だれもあなたに悪意があったとも、共謀《ぐる》になっていたとも、そんなことをあえて思うようなものはありませんよ。まして、あなたが自分でポケットを裏返して犯行を暴露されたんですからな。あなたが夢にもごぞんじなかったのは明白です。もしなんですな、貧困がソフィヤ・セミョーノヴナをかって、かかる行為をさせたものとすれば、わたしも同情を惜しむわけじゃありません。が、しかし、マドモアゼール、なぜあなたは自白しようとしなかったのです。恥辱を恐れたんですか? 初犯だからですか? あるいは気が顚倒《てんとう》していたのかもしれませんね? それはもっともなことです、大いにもっともなことです……しかし、なんのためにこんな種類のことを断行したもんかなあ! 皆さん!」と彼は一座の人々に向かってこういった。「皆さん! わたしはなんです、いま個人的に侮辱《ぶじょく》まで受けたのではありますが、同情の意味で、まあ許してあげてもかまいません。いいですか、マドモアゼール、今のこの恥辱を将来の教訓になさるがいい」と彼はソーニャに向かっていい添えた。「わたしもこれ以上追及しないことにして、水に流してしまいます。いよいよこれで打ち切り、もうたくさんだ!」
 ルージンは横目でラスコーリニコフをちらと見た。ふたりの視線はぴったり出会った。ラスコーリニコフの燃えるようなまなざしは、彼を焼きつくさんばかりであった。けれど一方、カチェリーナはもう何も耳にはいらぬ様子だった。彼女は狂気のようにソーニャを抱いて接吻していた。子供たちも同じように小さな手で、四方からソーニャにとりすがっていた。ポーレチカはまだよくわからないながら、ただもう涙におぼれつくした様子で泣きじゃくりながら、涙にはれあがったかわいい顔を、ソーニャの肩に隠していた。
「なんという卑劣なことだ!」この時ふいに戸口のところで、大きな声が響きわたった。
 ルージンはすばやくふり返った。
「なんという卑劣なことだ!」じっと彼の目を見つめながら、レベジャートニコフはまたくりかえした。
 ルージンはぴくりと身ぶるいさえしたようなふうだった。一同はそれに気がついた(あとで人々はこのことを思い出したのである)。レベジャートニコフは一歩、部屋の中へはいって来た。
「あなたはよくもずうずうしく、わたしを証人に立てるなんていいましたね!」ルージンのそばへ歩み寄りながら、彼はそういった。
「いったいそれはなんの意味です、アンドレイ・セミョーヌイチ! きみはいったい、なんのことをいってるんです?」ルージンはへどもどしながらつぶやいた。
「ほかでもない、あなたが……誣告《ぶこく》をやったということです、これがわたしの言葉の意味です!」とレベジャートニコフはしょぼしょぼした小さな目で、相手をきっと見すえながら、熱くなっていった。
 彼はかんかんに憤慨していた。ラスコーリニコフは、このひと言ひと言を受けとめて、はかりにでもかけて調べるように、穴のあくほどその顔に見入っていた。またもや沈黙が室内を領した。ルージンはほとんど、ろうばいしたようなふうだった。
「もしきみがぼくにそんな……」と彼はどもりながらいいだした。「いったいきみはどうしたんです? 気でも狂ったんじゃありませんか?」
「ぼくはちゃんと正気だが、あなたこそかえって……悪党だ! ああ、なんという卑劣なことだろう! ぼくは何もかも聞いていました。ぼくは万事とっくり了解しようと思って、わざと今まで待っていたんです。というのも、白状すると、今だに十分論理的でないくらいなんだから……いったい、あなたはなんのためにこんなことをしたんです……わけがわからない」
「ぼくが何をしたというんです! きみはそんな愚にもつかないなぞなぞ話を、いいかげんにしてよすつもりはないんですか! それとも、一杯きこしめしてるんじゃないかな!」
「それはあなたみたいな下劣な人間なら、酔っぱらうこともあるだろうが、ぼくはそんなことなんかしやしません! ぼくはウォートカなんか、かつて口にしたこともない。つまり信念に反するからです。どうでしょう、皆さん、あの男は、あの男は自分自身の手で、この百ルーブリ紙幣をソフィア・セミョーノヴナにやったんです――ぼくが見ていました、ぼくが証人です、ぼくは宣誓でもします! この男です、この男です!」レベジャートニコフはひとりひとりに向かって、こうくりかえすのであった。
「ほんとに君は気でもちがったのか、どうです、この青二才」とルージンは黄いろい声でわめいた。「その当人がきみの前に、ちゃんと目の前にいるんだ――その女が現在ここで、いま皆の前で、白状したじゃないか――十ルーブリよりほかに、ぼくから何も受け取りゃしないって。してみれば、どうしてぼくがそれを渡せたというんだ?」
「ぼくが見たんだ、ぼくが見たんだ!」とレベジャートニコフはくりかえし叫びつづけた。「こんなことは、ぼくの主義に反するけれど、ぼくは今すぐにでも裁判所へ出て、どんな宣誓でも立てる。だって、あなたがそっと紙幣《さつ》を押し込むのを、ぼくちゃんと見たんですからね! その時はぼく、ばかだもんだから、あなたが慈善を施すために、そっと押し込んだものと思ったんだが! 戸口であの女《ひと》と別れる時です、あの女《ひと》がふりかえり、あなたが片っぽの手でその手を握った時、あなたはもう一方の手――左手で、あの女《ひと》のポケットヘそっと紙幣《さつ》を押し込んだのです。ぼくは見ました! ぼくは見ました!」
 ルージンは青くなった。
「何をきみはでたらめばかりいうのだ!」と彼はずうずうしくどなりつけた。「きみは……窓のそばに立っていたのに、どうして紙幣《さつ》と見わけがついたんです? それはきみの目の迷いだろう――そのしょぼしょぼした目の。きみはたわ言をいってるんだ!」
「いいや、目の迷いじゃありません! ぼくは離れて立ってたけれど、何もかもすっかり見たんです。もっとも、窓のそばからでは、じっさい紙幣を見わけることはむずかしい――それはおっしゃるとおりです――けれどもぼくは特別な事情があって、それが百ルーブリ紙幣にちがいないことを、確かに知ってたんです。というのは、あなたがソフィヤ・セミョーノヴナに十ルーブリ紙幣を渡そうとなすった時――ぼくはちゃんと見ていたが――その時あなたがテーブルの上から、百ルーブリ紙幣を取ったからです(ぼくはその時そばに立っていたので、ちゃんと見とどけました。それに、その時ぼくの頭にある考えが浮かんだので、あなたの手に紙幣のあることを忘れなかったのです)。あなたはそれを畳んで、手に握りしめたまま、ずっと持っていたんです。それから、ぼくはほとんどそのことを忘れていたんだけれど、あなたが立ちあがりながら、それを右から左へ持ちかえて、危うくおっことそうとした。ぼくはそこまでまた思い出したんです。なぜって、ぼくの頭にはまた先と同じ考え――つまり、あなたはぼくに隠して、そっとあの女《ひと》に慈善をしてやるつもりだな、という考えが浮かんだからです。それがしかも、どうでしょう、ぼくはとくに気をつけていたところ、あなたがしゅびよく、あの女《ひと》のポケットヘ押し込んだのを見とどけました。ぼくは見ました。ちゃんと見ました。宣誓してもいいくらいです!」
 レベジャートニコフはほとんど息を切らさないばかりだった。四方からいろいろな叫び声――何よりも一ばんに驚愕《きょうがく》を現わす叫び声が起こった。しかし、威嚇的《いかくてき》な調子を帯びた叫びも聞こえた。一同はルージンのほうへ詰め寄った。カチェリーナはレベジャートニコフに飛びかかった。
アンドレイ・セミョーヌイチ! わたしはあなたを誤解していました! どうぞあの娘《こ》に加勢してやってください! あの娘《こ》の味方はあなたきりです! あれはみなし子ですもの! 神さまがあなたをさし向けてくだすったのです! アンドレイ・セミョーヌイチ、あなたは命の親です、親切なかたです!」
 こういいながらカチェリーナは、ほとんど自分のしていることもわきまえず、いきなり彼の前にひざをついた。
「世迷《よまよ》い言《ごと》だ!」気ちがいじみるほどたけり立ったルージンは夢中にわめき立てた。「きみは世迷い言ばかりこねまわしてるんだ……『忘れた、思い出した、思い出した、忘れた』――いったい、なんのことだ! してみると、ぼくがわざと紙幣《さつ》を入れたというんだね。そりゃぜんたいなんのためだね? どういう目的で? いったい、ぼくとこの女になんの共通点があるんだね……」
「なんのために? つまり、それがぼくにわからないんです。しかし、ぼくは正真正銘の事実を話してるのは、そりゃもう確かです! つまりこれがために、ぼくはあの時すぐ、あなたに感謝して、あなたの手を握りながらも、この疑問がぼくの頭に浮かんだのを、今でもちゃんと覚えているほどですから、まちがえたりなんかする訳がないじゃありませんか。ほんとにあなたは、なんというけがらわしい、罪の深い人だろう。その時ぼくがふしぎに考えたのは、なんのために、あなたはあの女《ひと》のポケットヘ、そっと金を入れたのだろう? つまり、そのそっと入れたのはなぜだろう? ということでした。それともただ、ぼくが常々慈善反対の信念を持っていて、根本的には悪をいやしえない個人的慈善を否定しているのを、あなたがちゃんと知っておられるので、ぼくに自分の行為を隠したかったからにすぎないのか? というふうに考えて、けっきょく、これはあんな大金を恵むのが、ぼくにたいしてきまりがわるかったのだ、とこう解釈しました。またそのほかに、もしかすると、あなたはあの女《ひと》にふいの贈り物がしたかったのかもしれない。あの女《ひと》が自分のうちへ帰って、ポケットの中に、百ルーブリという大金のあるのを見てびっくりする、それがおもしろかったのかもしれない(なぜといって、ある種の慈善家は自分の善行をそういうふうにこねくるのを、非常に好むものですからね。ぼくは知っています)。それからなお、こんなふうにも考えられたのです。ほかでもない、あなたは試験してみたかったのではないか。つまり、あの女がそれを見つけて、礼をいいに来るかどうかってね! またそれから、いわゆる『おのが右手にすら知らしむべからず』という主義で、あなたが感謝を避けようとしていられる……とも思われる。ひと口にいえば、まあその時は何やかやいろんな考えが頭に浮かんできたので、ぼくはすべてをあとでよく考え直すことに決めました。しかし、自分が秘密を知ってることを、あなたの前に暴露するのは、なんといってもぶしつけなわざだと思ったのです。が、そうは思いながら、すぐそのそばから、ソフィヤ・セミョーノヴナは気がつかないうちに、ひょっと金を落とすようなことがないともかぎらない、という問題がまた頭に浮かんだのです。つまりこのために、ぼくはここへ出向いて、あの女《ひと》を呼び出し、ポケットに百ルーブリはいってることを知らせようと、こう決心したわけなんです。それに、途中まずカブイリャートニコフ夫人の部屋へ寄って、『実証的方式概論』を届けもし、またとくにビデリットの論文を(ワグネルのも同様に)推薦《すいせん》する用もあったのです。それからここへ来てみると、もうこの騒ぎじゃありませんか! さあ、どうです、あなたがあの女《ひと》のポケットヘ百ルーブリ入れたのを見もしないで、こんな考えや想像がぼくの頭にわくと思いますか!」
 レベジャートニコフは、かくも論理的な帰納法《きのうほう》を結論に応用した長広舌《ちょうこうぜつ》を終わると、ひどくがっかりしてしまって、その顔からは玉のような汗まで流れ出た。悲しいかな、彼はロシヤ語でさえ、ろくすっぽ説明する能がなかったのである(もっとも、ほかの言葉だって一つも知らなかったので)。彼はこの弁護士的大偉業を成就《じょうじゅ》したあとで、なんとなく中身をすっかり吐き出したようなぐあいで、一時にげっそりやせたように思われた。にもかかわらず、彼の演説は非常な効果をもたらした。彼はやっきとなって、恐ろしい信念をいだきながら話したので、みんな彼の言葉を信じたらしかった。ルージンは形勢かんばしからずと直感した。
「きみの頭にどんなばかげた疑問が起ころうと、それがぼくにとってなんだというのです」と彼は叫んだ。「そんなことは証拠になりゃしない! それは、みんなきみが夢にでも見たんだろう、それだけの話だ! ぼくは断言するが、きみはうそをついてるんです! きみはぼくに何か悪意をいだいてるものだから、うそをついて人を中傷《ちゅうしょう》するんです。つまり、ぼくがきみの自由思想的な、無神論的な社会思想に共鳴しなかった。その腹いせなんですよ、そうですとも」
 しかしこの言いぬけは、ルージンになんの利益ももたらさなかった。それどころか、かえって四方から不満の声が聞こえた。
「ええ、きさまはそんなところへ、話を持って行くんだな!」とレベジャートニコフは絶叫した。「だめだよ! 巡査を呼べ、ぼくは宣誓でもしてやるから! ただ一つ合点がいかないのは、この男、なんのために、こんな卑劣な行為を思いきってしたんだろう! ああ、なんてみじめな陋劣《ろうれつ》な人間だろう!」
「なんのためにこの男が、思いきってあんな行為をしたか、それはぼくが説明しましょう、もし必要とあれば、ぼくも宣誓していいです!」ついにラスコーリニコフが、きっぱりした調子で口をきり、一歩前へ進み出た。
 彼は見たところ、落ちついてしっかりしていた。ひと目見ただけで、彼がじっさい事の真相を知っており、事件もいよいよ大団円に達したことが明白になった。
「今ぼくは何もかもすっかり明瞭《めいりょう》にすることができました」いきなりレベジャートニコフのほうに向かいながら、ラスコーリニコフは言葉をつづけた。「もうこの事件の最初から、これには何か卑劣な奸計《かんけい》があるのじゃないかと、ぼくは疑問をいだいていたのです。ぼくが疑問をいだくようになったのは、ぼくひとりだけしか知らない、ある特別な事情によるもので、それをこれからお話しましょう――いっさいの秘密はその中に含まれているのですから! しかもアンドレイ・セミョーヌイチ、今あなたのいわれた貴重な証言で、何もかも根本的に明瞭になったのです。どうか皆さん、ぜひぜひ聞いてください。この先生は(と彼はルージンを指さした)最近ひとりの娘に、名ざしていえば、ぼくの妹アヴドーチヤ・ロマーノヴナ・ラスコーリニコヴァに結婚を申し込んだのです。ところが、ペテルブルグへ来ると、おととい初対面早々からぼくとけんかをして、ぼくはこいつを自分の部屋から追い出したのです。これには証人がふたりあります。この男はなかなか腹の黒いやつでして……もっとも、おとといはぼくもまだ、この男がこの家の貸間に、アンドレイ・セミョーヌイチのところにいることは、いっこう知らなかったのです。したがって、そのけんかをした当日、つまり、おとといですね、ぼくが故マルメラードフ氏の友人の資格で、その未亡人たるカチェリーナ・イヴァーノヴナに、葬式の費用として何がしかの金を贈った顚末《てんまつ》を、この男がちゃんと見ていようとは、なおさら知るはずがなかったのです。ところが、この男はさっそくそのことを、ぼくの母のところへ手紙に書き送って、ぼくがありたけの金をカチェリーナ・イヴァーノヴナでなく、ソフィヤ・セミョーノヴナにやってしまったなどと報告し、おまけにソフィヤ・セミョーノヴナの……その……性質について、極端に下劣な言葉を弄《ろう》した。つまり、ぼくとソフィヤ・セミョーノヴナの間に、何か特別な関係でもあるようにほのめかしたんです。これはみな、お察しでもありましょうが、ぼくが肉親の工面してくれたなけなしの金を、よくない目的のために浪費したと吹き込んで、ぼくを母と妹と仲たがいさせようという魂胆《こんたん》だったのです。で、きのうの晩、ぼくはこの男の面前で母と妹に、金はカチェリーナ・イヴァーノヴナに葬式の費用として贈ったので、ソフィヤ・セミョーノヴナにやったのではない。ソフィヤ・セミョーノヴナとは、ついおとといまで知り合いでもなかったし、顔も見たことがなかったという証明をして、この真相を明瞭にしたのです。そのときぼくは、彼ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンなんか、ありたけの長所を集めても、彼がかくも悪しざまにいっているソフィヤ・セミョーノヴナの小指だけの価値もない、とこういい添えたのです。それから、じゃきみは、自分の妹をソフィヤ・セミョーノヴナに同席させる勇気があるか? というこの男の質問にたいして、ぼくは『それはもうちゃんと今日実行した』と答えました。母や妹が自分のさしがねどおりにぼくと仲たがいしないのを見て、ことごとく業を煮やしてしまったこの男は、ひと口ごとにふたりに向かって、許すべからざる無礼なことをいいだしたので、とうとう取り返しのつかない破裂となり、この男は家の外へ追い出されてしまいました。これはみなゆうべの出来事なんです。そこで、いまとくに注意をお願いしたいのは、ほかでもありません。どうでしょう、もし今ソフィヤ・セミョーノヴナがどろぼうであると証明できれば、彼は第一にぼくの妹と母にたいして、自分の疑念がほぼ正当だったことを証明できることになるでしょう。つまり、ぼくがソフィヤ・セミョーノヴナと妹を同列に置いたことにたいして、この男が憤慨したのはもっとも予万な話で、ぼくを攻撃したのは、ぼくの妹、つまり自分の花嫁の名誉を保護したのだ、ということになりますからね。ひと口にいえば、この事件を通じて、彼はもう一度ぼくを家族のものと仲たがいさせて、その上もちろん、ふたたび母や妹のごきげんを取り結ぼうと期待していたのです。彼がぼくにたいして個人的復讐を企てたのだということは、今さらとくに喋々《ちょうちょう》する必要はありますまい。なにしろ、ソフィヤ・セミョーノヴナの名誉と幸福が、ぼくにとってきわめて貴重なものだと考える根拠を、この男は持っているのですからね。これがこの男の目算の全部です! ぼくは、この事件をこう解釈します! これが原因の全部で、それ以外にはありえません!」
 こんなふうに、あるいはほとんどこんなふうに、ラスコーリニコフは自分の説明を終わった。もっとも、彼の言葉は、熱心に聞いている人々の叫び声に、しょっちゅうさえぎられはしたけれど、そうしたじゃまがはいったにもかかわらず、彼は落ちつきはらって、正確に明瞭に、きっぱりと鋭い語調で語り終わった。その鋭い声や、信念にみちた語調や、きびしい顔つきなどは、一同に異常な効果をもたらしたのである。
「そうです、そうです、それはそうにちがいありません!」とレベジャートニコフは、うちょうてんになって相づちを打った。「これはもうそうに決まっています。だってこの男は、ソフィヤ・セミョーノヴナがぼくらの部屋へはいって来るが早いか、ぼくをつかまえて、あなたがここへ来てるかどうか? カチェリーナ・イヴァーノヴナの客の中にあなたを見かけなかったか? などと尋ねたんですもの。この男はそのためにぼくを窓のほうへ呼んで、そこでこっそり聞いたんですからね。これでみるとこの男は、ぜひあなたにこの席にいてもらいたかったんですよ! それはそのとおりです、すっかりそのとおりです!」
 ルージンは無言のまま、にやにやと侮蔑の微笑を浮かべていた。もっとも、その顔は真青だった。見うけたところ、彼はどうしてこの場をすべり抜けようかと、思案をめぐらしているらしかった。彼はできることなら、よろこんで何もかもうっちゃらかして、この場を去ってしまったかもしれない。が、いまとなっては、それもほとんど不可能だった。それはつまり、自分に浴びせられた、非難攻撃がほんとうのことで、まさしく自分がソフィヤ・セミョーノヴナを讒誣《ざんぶ》したのを、自白することになるからであった、それに、たださえ一杯きげんの連中が、だいぶがやがやと騒いでいたのである。なかでも糧秣《りょうまつ》官吏は、よくも合点がいかないくせに、だれよりも一ばんわめき立て、ルージンにとって、しごくおもしろからぬ処置を提案した。が、そこには素面《しらふ》のものも交っていた。ほうぼうの部屋からも人がやって来て、そこに集まっていた。ポーランド大は三人とも恐ろしく憤慨して、のべつ『パーネ・ライダーク(この悪党め)』とどなっていたが、同時にまだいろんな威嚇《いかく》の言葉をポーランド語でぶつぶついっていた。ソーニャもやはり緊張した様子で聞いていたが、さながら卒倒から気がつきかかった人のように、やはりまだ事情がよくのみ込めない様子であった。彼女はただラスコーリニコフから目を放そうとしなかった。この人こそ自分の救い主だと感じたからである。カチェリーナは苦しげに、のどをぜいぜいいわせながら息をついていたが、もうへとへとに疲れきっている様子だった。アマリヤはだれよりも一ばんばかづらをして、口をぽかんとあけたまま、何が何やらかいもくわからず立っていた。彼女は、ただルージンが苦しいはめに落ちたのを、見てとったばかりである。ラスコーリニコフはまた何かいいだそうとしたが、もう口をきかしてもらえなかった。みんながののしったりおどかしたりしながら ルージンのまわりにひしひしと詰め寄ったからである。しかし、ルージンは臆《おく》する色もなかった。ソーニャを罪人にする企てがぜんぜん失敗に終わったのを見ると、彼はいきなり人を食ったずうずうしい態度に出た。
「ちょっと、皆さん、ちょっと。そう押さないで、通り道をあけてください!」と、群集を押し分けながら彼はいった。
「そして、どうかそんなおどかしはやめてもらいましょう。わたしは断言しておきますよ。そんなことをしたって、どうなるものですか、何ができるものですか。そんなので、びくびくするような人間じゃありませんよ。それどころか、きみがたは暴力で刑事事件を隠蔽《いんぺい》したかどで、法の前に答えなけりゃなりませんぞ。女どろぼうの犯行はりっぱに暴露されているんだから、わたしはどこまでも追求する。裁判官はそれほど盲目でもなければ……酔っぱらってもいやしないから、このふたりの折り紙つきの無神論者、扇動《せんどう》者、自由思想家のいうことなんか、取りあげやしませんよ。やつらは、私怨《しえん》でわたしに復讐《ふくしゅう》しようとしてるんです。それはやつらがばかだものだから、ちゃんと自分で白状してますよ……さあ、ちょっとごめんなさい!」
「もうぼくの部屋にあなたのにおいもしないように、すぐどこへでも越して行ってください。それでわれわれの関係はいっさいおしまいです! ああ、思えばいまいましい、ぼくは一生けんめいに汗水たらしながら、この男を啓発してやろうと思って、いろいろ説明してやったものだが……まる二週間も……」
「いや、アンドレイ・セミョーヌイチ、ぼくはさっき、きみがしきりに引き止めた時だって、もう必ず越して行くと、ちゃんといっておいたじゃありませんか。今はただきみがばかだということだけ、つけ加えておきますよ。最後にぼくは、きみの頭とそのしょぼしょぼ眼《まなこ》を、療治されるように望みます。ちょっとごめんなさい、皆さん!」
 彼は人垣《ひとがき》を押し分けて行った。ところが糧秣官吏は、ただの罵倒《ばとう》だけでやすやすと放してやりたくなかったので、テーブルの上のコップをつかむが早いか、ルージン目がけて投げつけた。けれど、コップはみごとアマリヤに命中した。彼女はきゃっと悲鳴をあげた。糧秣官吏ははずみでからだの中心を失い、どっとテーブルの下へ倒れた。ルージンは自分の部屋へ引きあげた。そして三十分後には彼の姿はもうこの家に見られなかった。生まれつきおくびょうなソーニャは以前から、自分という人間がだれよりも一ばん犠牲《ぎせい》にされやすいことを知っていた。だれでもほとんど罰せられることなしに、自分を凌辱《りょうじょく》しうることを知っていた。けれど、やはりこの最後の瞬間までは、ありとあらゆる人々にたいする警戒心や、温良従順な態度によって、どうにか不幸を避けられそうな気がしていた。で、こんどの幻滅は彼女にとってあまりに苦しかった。もっとも彼女は何事によらず――この災難すらも、ほとんど不平がましいことさえいわず、じっとしんぼうすることができたに相違ない。しかし最初の瞬間は、あまりにも情けないことに思われたので、今あかしが立って勝利を得られたにもかかわらず――最初の驚愕《きょうがく》と最初の失神状態が過ぎて、いっさいをはっきり会得《えとく》し、思い合わせてみると――身の頼りなさと侮辱のつらさが、たえがたいほど胸を締めつけるのであった。ついに彼女はヒステリイを起こした。彼女はたまらなくなって、部屋の外へ飛び出すと、自分の下宿へ走って帰った。それはルージンが出て行ったほとんどすぐあとだった。アマリヤも、コップを投げつけられて一同の哄笑《こうしょう》を浴びた時から――やはり振舞い酒に乱れたこの場の空気に、居たたまらなくなった。彼女は気ちがいめいた、かなきり声を立てながら、カチェリーナをいっさいの責任者のように思いこんで、いきなり彼女にむしゃぶりついた。
「部屋を明けてくれ! 今すぐ! さっさと!」
 彼女はこういいながら、カチェリーナの品物を手当たりしだいに引っつかみ、床の上へほうりつけにかかった。それでなくてさえ、さんざん痛めつけられて、卒倒しないばかりになり、真青な顔をして、はあはあ息を切らしていたカチェリーナは、ぐったりべッドの上に倒れていたが、いきなりがばとはね起きて、アマリヤにおどりかかった。けれど、戦いはあまりに段が違いすぎた。アマリヤはまるで羽根でも吹き飛ばすように、彼女を突き飛ばした。
「まあ、なんてことだ! 人にあられもないぬれ衣《ぎぬ》を着せただけで足りないで――このげす女はわたしにまで! ああ、なんてことだろう! 夫の葬式の日に、腹さんざん人のごちそうになっておきながら、みなし子かかえたやもめを家から追ん出そうなんて! いったい、わたしはどこへ行ったらいいんだろう!」と不幸な女は泣きじゃくりながら、はあはあ息をはずませて、わめき立てるのであった。「神さま!」とふいに彼女は目を輝かしながら叫んだ。「いったいこの世に正義というものはないのでございますか! わたしたちみなし子を守らないで、あなたはだれをお守りになるのでございます? ああそうだ、見てみよう! きっとこの世には審《さば》きも真《まこと》もあるにちがいない、わたしはそれをさがし出してみせる! 罰あたりのげす女め、今すぐだ、待ってるがいい!ポー[#「いい!ポー」はママ]レチカ、この子たちといっしょに残っておくれ、わたしはすぐ帰って来るからね、よしんば家の外ででもいいから、待っておいで! さあ、見てみよう、この世に真《まこと》があるかどうか?」
 そういってカチェリーナは、いつかなくなったマルメラードフがくどく話の中で説明した、例の緑色したドラデダーム織のショールを頭からかぶり、また部屋の中にひしめいている間借り人たちの、だらしない酔っぱらった群れを押し分けながら、悲鳴と涙とともに往来へかけ出した――今すぐ即座に、どうあろうとも、どこかで正義を見つけようという、あてどもない目的をいだきながら……ポーレチカは恐怖のあまり、子供たちをつれて片すみの箱の上に縮こまり、そこでふたりをしっかと抱きしめて、全身をわなわなとふるわせながら、母の帰りを待っていた。アマリヤは部屋の中をあばれまわって、泣いたりくどいたりしながら、手当たりしだいのものを床へ投げつけ、狂いたてるのであった。間借り人の連中は、てんでに勝手なことをしゃべっていた――中には今の出来事を、自分の知恵相当に解釈して、結論をつける者もあった。中にはけんかをして、ののしり合っている者もあり、かと思えば、歌をうたいだす者もあった……『もうおれも帰っていいころだ!』とラスコーリニコフは考えた。『さあ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ひとつ見てみようじゃありませんか、こんどあなたが何をいいだすか!』
 彼はソーニャの住まいへ足を向けた。

      4

 ラスコーリニコフは自分の胸の中に、あれほどの恐怖と苦痛を蔵していたにもかかわらず、ルージンを向こうにまわして、ソーニャのために敏腕かつ勇敢な弁護士となった。彼は朝のうち、あれだけ苦しみ抜いたために、いよいよ堪えがたくなってくる気分を転換する意味で、あの機会が与えられたのをむしろ喜んだくらいである。しかし、ソーニャを助けようとする彼の意欲の中には、きわめて多量の個人的な実感が含まれていたのはいうまでもない。のみならず、当面の問題として彼の頭にこびりつき、時には堪えがたいほど激しく彼の胸を騒がしていたのは、眼前に迫っているソーニャとの会見である。彼はだれがリザヴェータを殺したかを、説明しなければ[#「しなければ」に傍点]ならなかった。彼はそのおそろしい苦痛を予感し、両手でそれを払いのけるようにしていた。で、カチェリーナのところから出がけに、『さあ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、こんどあなたは何をいいだすか、ひとつ見てみよう』と、叫んだ時の彼は、まだ明らかに、ルージンにたいするさきほどの勝利で、外面的に興奮させられ、勇敢な挑戦《ちょうせん》的気分になっていたのである。しかるに、ふしぎなことが起こった。カペルナウモフの住まいまで来ると、彼はふいに力ぬけがして、心に恐怖を覚えた。彼は『だれがリザヴェータを殺したのか、ぜひいわなけりゃならないのだろうか?』という奇怪な疑問をいだきつつ、もの思わしげにドアの前に立ち止まった、この疑問は、げにも奇怪なものであった。なぜなら、彼はそれと同時に、単にいわずにいられないのみならず、たとえ一時にもせよ、この瞬間を延ばすことさえ不可能なのを、はっきり感じたからである。しかし、彼はまだ何故に不可能なのか知らなかった。ただそう感じた[#「感じた」に傍点]だけである。そして、この必然にたいして自分が無力であるという悩ましい意識が、ほとんど彼を圧倒しつくすぽかりであった。もうこのうえ考えて苦しみたくなかったので、彼は急いでドアをあけ、しきいの上からソーニャを見た。彼女はテーブルにひじを突き、両手で顔をおおいながらすわっていたが、ラスコーリニコフを見ると、あわてて立ちあがり、待ちかねていたように、彼のほうへ向かって歩きだした。
「ほんとにあの時あなたがいらしてくださらなかったら。わたしはどうなっていたでしょう?」彼と部屋のまん中で落ち合ったとき、彼女は早口にいった。
 彼女は明らかに、ただこれだけのことが少しも早くいいたかったらしい。で、あとは黙って待っていた。
 ラスコーリニコフはテーブルのそばへ寄り、今ソーニャが立ったばかりのいすへ腰をおろした。彼女は昨日と寸分たがわず、彼から二歩前のところにたたずんだ。
「どうです、ソーニャ?」と彼はいったが、ふと自分の声のふるえるのに気がついた。「いっさいのことはみな、『社会的地位とそれに関連した習慣』とに根を置いているんですよ。あなたはさっきこのことがわかりましたか?」
 苦悩の色が彼女に現われた。
「ただね、きのうのようなことをいわないでください!」と彼女はさえぎった。「どうぞもう、あんなことはいいださないで。でなくっても、いいかげん苦しいんですから……」
 彼女はこんな非難めいたことをいって、もしか彼の気にさわりはしまいかと、はっとしたように、急いで笑顔を作って見せた。
「わたし無考えに、ぷいとあのまま出てしまったんですが、あちらじゃ今どうしてるでしょう? わたしこれから、も一度行って見ようと思ったんですけど、いまにも……あなたがいらっしゃりそうな気がしたものですから」
 彼は、アマリヤが彼女一家に立ちのきを迫ったことから、カチェリーナが『真実《まこと》をさがす』といって、どこかへかけ出して行った顚末《てんまつ》を、ソーニャに話して聞かせた。
「ああ、どうしましょう!」とソーユヤは叫んだ。「さあ、早く行きましょう……」
 こういって、彼女は自分のマントをつかんだ。
「いつもいつも同じことばかり!」とラスコーリニコフはいらだたしげにいった。「あなたの頭の中には、あの人たちのことしかないんですね! 少しはぼくといっしょにいてくださいよ」
「だって……カチェリーナ・イヴァーノヴナは?」
「カチェリーナ・イヴァーノヴナなら、家からとび出してしまった以上、けっして、あなたなしにすますわけにいきませんよ、今に自分であなたのところへ来るに決まってます」と彼は気むずかしげにいいたした。「その時あなたがるすだったら、それこそあなたが悪いことになるじゃありませんか……」
 ソーニャは決心しかねるといったふうで、悩ましげにいすへ腰をおろした。ラスコーリニコフはじっと足もとを見つめたまま、何やら一心に考えこみながら、おし黙っていた。
「まあ、さっきはルージンがそんな気をおこさなかったからいいようなものの」ソーニャのほうを見ないで、彼は口をきった。「もしあの男がそんな気をおこしたら、もしそんなことがやつの計画にはいっていたら、あなたは監獄へぶち込まれたかもしれませんよ。もしぼくと、それからレベジャートニコフが居合わせなかったら! え?」
「そうですわ」と彼女は弱々しい声でいった。「そうですわ!」彼女は心の落ちつかぬさまで、そわそわした調子でこうくりかえした。
「だってじっさい、ぼくは居合わせなかったかもしれないんですからね! レベジャートニコフにいたっては、あの男があすこへ来たのはまったくの偶然ですよ」
 ソーニャは黙っていた。
「ねえ、もし監獄《かんごく》へでもはいったら、その時はどうなったと思います? ぼくがきのういったことを覚えていますか?」
 彼女はやはり答えなかった。こちらはしばらく待っていた。
「ぼくは、あなたが、『ああ、いわないでください、よしてください!』とわめくだろうと思いましたよ」とラスコーリニコフは笑いだしたが、それはなんとなくわざとらしかった。「どうです、また沈黙ですか?」一分間ばかりして彼は尋ねた。「だって、何か話をしなくちゃいけないじゃありませんか? ぼくはね、レベジャートニコフのいわゆる一つの『問題』を、あなたがどう解決するか、それを知りたいんですがね(彼は混乱してきたらしい様子だった)。いや、じっさい、ぼくはまじめなんです。ねえ、こういうことを考えてごらん、ソーニャ。あなたがルージンのたくらみを前からすっかり知っているとしましょう。それがためにカチェリーナ・イヴァーノヴナも、それから子供たちも、おまけにあなたまでいっしょに(あなたは自分をなんとも思っちゃいないからね、それでおまけ[#「おまけ」に傍点]なんですよ)、破滅してしまわなくちゃならないと知ってたら、つまり正確に知ってたらどうです(ポーレチカも同様ですよ……あの子もやはり同じ道をたどって行くに決まってますからね)。ねえ、そこでこういうことになるんですよ――もし万一この場合、すべてがあなたの決心一つにあるとしたら――つまり、この世の中で彼と彼らと、どちらが生きて行くべきであるか、ルージンが生きて、けがらわしいことをなすべきであるか、またはカチェリーナ・イヴァーノヴナが死ぬべきか? とこういうことになるとしたら、あなたはどう判決します? ふたりのうちどちらが死ぬべきだと思います? ぼくはそれが聞きたいんです」
 ソーニャは不安げに彼を見つめた。このあいまいな、何か遠まわしに忍び寄るような言葉の中に、ある特殊なものが響いていることを感じたのである。
「わたしもう初めから、あなたが何かそんなことをおききになりそうな気がしていましたわ」ためすような目つきで相手を見ながら、彼女はそういった。
「そうですか、かまいません。しかし、それにしても、どう判決します」
「あなたはなんだって、そんなできもしないことをおききになりますの?」と嫌悪《けんお》の表情を浮かべながらソーニャはいった。
「してみると、ルージンが生きていって、卑劣なことをするほうがいいんですね! あなたはそれさえ判決する勇気がないんですか?」
「だってわたし、神さまのみ心を知るわけにいきませんもの……どうしてあなたはそんなに、きいてはならないことをおききになるんですの? そんなつまらない質問をして、いったい何になさいますの? そんなことが、わたしの決断一つでどうにでもなるなんて、それはなぜですの? だれは生きるべきで、だれは生きるべきでないなんて、いったい、だれがわたしをそんな裁《さば》き手にしたのでしょう?」
「神の意志なんてものがはいってきたんじゃ、もうどうすることもできやしないさ」とラスコーリニコフは気むずかしげにいった。
「それよか、いっそまっすぐにいってください、あなた、どうしてほしいんですの!」とソーニャは苦痛の表情で叫んだ。「あなたはまた何かへ話を持っていこうとなさるんですわ……いったいあなたは、わたしを苦しめるために、ただそれだけのためにいらしったんですの!」
 彼女はこらえかねて、ふいにさめざめと泣きだした。彼は暗い憂愁をいだきながら、じっと彼女を見つめていた。五分ばかり過ぎた。
「いや、お前のいうとおりだよ、ソーニャ」彼はとうとう低い声でいいだした。
 彼はとつぜん別人のようになった。わざとらしいずうずうしさも、無力な挑戦的態度も、すべて消えてしまった。声まで急に弱々しくなった。
「きのうぼくは自分で、許しをこいに来るんじゃないといったね。ところが今は、ほとんど許しをこうも同然な言葉で話を始めてしまった……ぼくがルージンや神の意志のことをいったのは、あれはつまり自分のためだったんだ……あれはぼくが許しをこうたんだよ、ソーニャ」
 彼はにっこり笑おうとしたけれど、その青白い微笑の中には、何かしら力のない中途半端なものが浮かび出た。彼は頭《こうべ》をたれ、両手で顔をおおった。
 とふいに、ソーニャにたいする、刺すような怪しい憎悪の念が、思いがけなく彼の心を走り流れた。彼はこの感情にわれながら驚きおびえたように、とつぜん頭を上げて、彼女の顔をひたと見つめた。けれども彼は、自分の上にそそがれている不安げな、悩ましいほど心づかいにみちた、彼女の視線に出会った。そこには愛があった。彼の憎悪は、幻のごとく消え失せた。あれはそうではなかった。ある一つの感情をほかのものと取り違えたのだ。それはつまり、あの[#「あの」に傍点]瞬間がきたことを意味したにすぎないのだ。
 彼はふたたび両手で顔をおおい、頭《こうべ》を低くたれた。と、ふいに、さっと青くなって、いすから立ちあがり、ソーニャをちらと見やったが、なんにもいわず、機械的に彼女のべッドにすわり直した。
 この瞬間は、ラスコーリニコフの感覚の中で、彼がかの老婆のうしろに立ち、おのを輪からはずしながら、もう『このうえ一分も猶予できない』と感じた瞬間に、恐ろしいほど似かよっているのであった。
「どうなすったんですの?」と、すっかりおびえあがったソーニャはこう尋ねた。
 彼はひと言も口がきけなかった。こんなぐあいに声明[#「声明」に傍点]しようとは、まるで少しも予想していなかったので、今いったい自分がどうなっているのか、われながらわからなかった。彼女は静かに彼に近づき、ベッドの上にならんで腰をおろし、その顔から目を放さないで、じっと待っていた。彼女の心臓は激しく鼓動して、今にも麻痺《まひ》しそうな気がした。もうたまらなくなってきた。彼は死人のように青ざめた顔を女のほうへふり向けた。そのくちびるは何かいいだそうともがきながら、力なげにゆがむのであった。恐怖の念がソーニャの胸をさっと流れた。
「まあ、どうなさいましたの?」やや男から身を引きながら彼女はくりかえした。
「なんでもないよ、ソーニャ。びくびくしなくたっていいよ……くだらないことだ! まったくよく考えてみれば、くだらないことだ」と、うなされて前後を覚えない人のようなふうで、彼はつぶやくようにいった。「なんだってぼくは、お前ばかり苦しめに来たんだろう?」女を見つめながら、彼はふいにこうつけたした。「まったく、なぜだろう? ぼくはしじゅうこの問いを自分に発してるんだよ、ソーニャ……」
 彼は事実十五分前には、この問いを自分に発していたかもしれないけれど、今は全身に絶えまなき戦慄《せんりつ》を感じながら、すっかり力がぬけた様子で、ほとんどわれを忘れていったのである。
「ああ、あなたはどんなにか苦しんでらっしゃるんでしょうねえ!」と、彼の顔に見入りながら、彼女は同情にあふれる調子でそういった。
「何もかもばかばかしいことさ!……ところでね、ソーニャ(彼は急に、なぜか青白く、力なげに、ものの二秒ばかり、にやりと笑って見せた)――きのうぼくがお前に何を話そうとしたか、覚えているだろう?」
 ソーニャは不安な面もちで待っていた。
「ぼくは帰りぎわに、ことによったら、これが永久の別れになるかもしれない、しかし、もし明日やって来たら、そうしたらお前に……だれがリザヴェータを殺したか、聞かしてやるといったろう」
 彼女はふいに全身をわなわなふるわせ始めた。
「ねえ、だからぼくはそれを話しに来たんだよ」
「じゃ、ほんとにあなたは、きのう……」と彼女はやっとのことでささやいた。「どうして、それをごぞんじですの?」ふとわれに返った様子で、彼女は早口にこう尋ねた。
 ソーニャは苦しげに息をつき始めた。顔はいよいよ青白くなって行く。
「知ってるんだ」
 彼女はしばらく黙っていた。
「見つけでもなさったの、その男を[#「その男を」に傍点]?」彼女はおずおずと尋ねた。
「いや見つけたんじゃない」
「じゃ、どうしてあなたが、それをごぞんじなんでしょう?」またしても一分ばかり無言の後、またこんども聞き取れないほどの声で、彼女は問い返した。
 彼は女のほうへくるりとふり向いて、じいっと穴のあくほどその顔を見つめた。
「当ててごらん」さっきと同じひん曲がったような、弱々しい微笑を浮かべて、彼はこういった。
 と、彼女の全身を痙攣が走りすぎた――ような風情であった。
「まあ、あなたは……わたしを……なんだってあなたは、わたしをそんなに……びっくりさせようとなさるんですの?」幼い子供のような微笑を浮かべながら、彼女はつぶやいた。
「つまり、ぼくはその[#「その」に傍点]男と仲のいい友だちなんだよ……知ってる以上はね」とラスコーリニコフはもはや目を放すことができないように、彼女をどこまでも見つめながら、言葉をつづけた。「その男はあのリザヴェータを……殺そうとは思わなかったんだ……その男はあれを……ほんのはずみで殺したのだ……その男はばばあだけを殺そうと思ったのだ……ばばあがひとりきりの時に……そして、出かけて行ったのだ……ところが、そこヘリザヴェータがはいって来た……で、あの女まで殺してしまったのだ……」
 また恐ろしい一分間がすぎた。ふたりはいつまでも互いに顔を見つめ合っていた。
「これでも当てることができない?」ふいに鐘楼《しょうろう》からでも飛びおりるような感じで、彼はそう尋ねた。
「い、いいえ」とソーニャは聞こえるか聞こえないくらいの声でささやいた。
「ようく見てごらん」
 彼がこういうやいなや、またもやさきほど覚えのある感覚が、ふいに彼の心を凍らせた。彼はソーニャを見た。と、せつな、その顔に、リザヴェータの顔を見たような気がした。あのおのを持って近づいて行ったとき、あの時のリザヴェータの顔の表情を、彼はまざまざと思い浮かべた。小さな子供が急に何かに驚いたとき、自分を驚かしたものをじっと不安そうに見つめて、ぐっと後ろへ身をひきながら、小さな手を前へさし出して、今にも泣きだしそうにする――ちょうどそういったような子供らしい驚愕《きょうがく》の色を顔に現わしながら、リザヴェータは片手を前へかざして、彼をさけるように壁ぎわへあとずさりした。ほとんどそれと同じことが、いまのソーニャにくりかえされたのである。同じように力なげなふうで、同じような驚愕の表情を浮かべながら、彼女はしばらく彼をじっと見ていたが、ふいに左手を前へ突き出し、きわめて軽く指で彼の胸を押すようにして、だんだん彼から身を遠のけながら、じりじりとベッドから立ちあがった。彼の上にそそがれた視線は、いよいよ動かなくなった。彼女の恐怖はとつじょ、彼にも伝染した。まったく同じ驚愕が彼の顔にも現われた。まったく同じ様子で彼も女の顔を見入った。そして、ほとんど同じような子供らしい[#「子供らしい」に傍点]微笑さえ、その顔に浮かんでいるのであった。
「わかったね?」ついに彼はこうささやいた。
「ああ!」と彼女の胸から恐ろしい悲鳴がほとばしり出た。
 彼女は頭をまくらにうずめるようにしながら、ぐったり力なげにベッドの上へ倒れた。けれど、すぐにさっと身を起こして、つかつかと彼のそばへ寄ると、その両手をつかみ、搾木《しめぎ》にでもかけるように、その細い指でひしとばかり握りしめながら、またもや釘づけにされたように、身動きもせず、彼の顔を見つめにかかった。この最後の絶望的なまなざしで、彼女はせめて何か最後の希望らしいものを見つけ出し、それを捕えようと試みたのである。が、希望はなかった。疑惑はいささかも残らなかった。すべてはそのとおり[#「そのとおり」に傍点]であった! それからずっと後になって、このことを思い出したときでさえ、彼女はいつもなんともいえない、ふしぎな感がするのであった――あの時どうしていきなり[#「いきなり」に傍点]、もう疑惑はいっさいないと、見きわめてしまったのだろう? じっさい、こうしたふうのことを何か予感していたとは、どうしたっていえないではないか? それだのに、いま彼があれだけのことをいうが早いか、彼女は急にじっさい[#「じっさい」に傍点]それを予感していたような気がしたのである。
「もういいよ、ソーニャ、たくさんだ! ぼくを苦しめないでおくれ!」と彼は悩ましげに頼んだ。
 彼はこんなふうに彼女にうち明けようとは、まるで夢にも思わなかった。ところが、こんな[#「こんな」に傍点]ことになってしまったのである。
 彼女はわれを忘れたように飛びあがって、両手をもみしだきながら、部屋のまん中まで行ったが、すばやく踵《きびす》を転じて彼のそばへ引っ返し、ほとんど肩と肩がすれ合うほどちかぢかと並んで腰をかけた。ふいに、彼女は刺し通されでもしたように、ぴくっと身ぶるいして、ひと声叫びをあげると、自分でもなんのためとも知らず、いきなり彼の前にひざをついた。
「なんだってあなたは、なんだってあなたはご自分にたいして、そんなことをなさったんです!」と絶望したように彼女は叫んだ。
 そして急におどりあがりざま、彼の首へ飛びついて、両手で堅く堅く抱きしめた。
 ラスコーリニコフは思わず一歩うしろへよろけ、わびしげな笑みを含みながら、彼女を見やった。
「お前はなんて妙な女だろう。ソーニャ――ぼくがこんな[#「こんな」に傍点]ことをいったのに、抱いて接吻するなんて。お前、自分でも夢中なんだろう」
「いいえ、いま世界じゅうであなたより不幸な人は、ひとりもありませんわ!」彼の注意など耳にも入れず、彼女は興奮の極に達したようにこう叫んだ。とふいに、ヒステリイでも起こったように、しゃくりあげて泣きだした。
 もういつからか経験したことのない感情が、彼の胸へ波のようにどっと押し寄せて、みるみる彼の心をやわらげた。彼はもうそれに逆らおうとしなかった。涙の玉が二つ彼の両眼からこぼれ出て、まつげにかかった。
「じゃ、お前はぼくを見捨てないんだね、ソーニャ?」ほとんど希望の念さえいだきながら、彼は女の顔を見つめてこう尋ねた。
「ええ、ええ。いつまでも、どこまでも!」とソーニャはいった。「わたしはあなたについて行く、どこへでもついて行く! おお、神さま!………ああ、わたしは不幸な女です! なぜ、なぜわたしはもっと早く、あなたを知らなかったのでしょう! なぜあなたはもっと早く来てくださらなかったの? おお、情けない!」
「だからこのとおりやって来た」
「今! おお、いまさらどうすることができましょう!………いっしょに、いっしょに!」と彼女は前後を忘れたように、またもや彼を抱きしめながら、くりかえした。「わたし懲役《ちょうえき》へだって、あなたといっしょに行く!」
 彼は急に全身ぴりりと痙攣《けいれん》させた。そのくちびるにはさっきの憎々しげな、ほとんど不遜な微笑がしぼり出された。
「ぼくはね、ソーニャ、まだ懲役に行く気はないかもしれないよ」と彼はいった。
 ソーニャはすばやく彼をながめた。
 不幸な男にたいする感激と、苦痛にみちた同情の発作がすむと、またしても殺人という恐ろしい観念が、彼女の胸を打った。急に変わった彼の言葉の調子に、彼女はふと殺人者の声を聞いた。彼女はぎょっとして、彼を見やった。どういうわけで、どうして、なんのために、こんなことが行なわれたのか、彼女はまだ何もわかっていなかったのだ。これらの疑問が一時にぱっと、彼女の意識に燃えあがった。と、彼女はまたもやほんとうにできなくなった。『この人が、この人が人殺し! いったい、そんなことがあってよいものだろうか?』
「いったい、これはどうしたことだろう! わたしはどこに立っているのだろう!」彼女はまだわれに返れない様子で、深い疑惑に悩まされながらそういった。「どうしてあなたは、あなたは、そんな[#「そんな」に傍点]……そんなことが思いきってできたのでしょう? いったい、これはどうしたというんでしょう!」
「ふん、なに、物を盗《と》るためさ! もうよしてくれ、ソーニャ?」なんとなく疲れたような、むしろ、いらだたしげな調子で、彼は答えた。
 ソーニャは、脳天を打ちのめされたように突っ立っていたが、ふいに声をあげて叫んだ。
「あなたは食べものがなかったんでしょう! あなたは……お母さんを助けようと思って? ね、そうでしょう?」
「いや、ソーニャ、違う」と彼は顔をそむけて、うなだれたままつぶやいた。「ぼくはそんなに飢えちゃいなかった……ぼくはじっさい母を助けてやろうと思った。しかし……それだって完全に当たっているともいえない……もうぼくを苦しめないでくれ、ソーニャ?」
 ソーニャは両手をうち鳴らした。
「では、いったい、いったいこれは何もかもほんとうなんですの! ああ、これがどうしてほんとうなもんですか! だれがこんなことをほんとうにできましょう?………それにまた、どうして、どうしてあなたはご自分から、なけなしの金を人に恵んでやりながら、物を盗るために殺したなんて! ああ!………」と彼女はふいに叫んだ。「あのカチェリーナ・イヴァーノヴナにおやりになったお金も……あのお金も……ああ、いったいあの金もやはり……」
「違うよ、ソーニャ」と彼は急いでさえぎった。「あの金はそうじゃない、安心しておくれ! あの金は母がある商人の手を通して送ってくれたのだ。ぼくが病気で寝ているところへ届いたのだ、ぼくがあげた当日なんだ……ラズーミヒンが見て知っている……あの男がぼくの代りに受け取ったくらいなんだから……あの金はぼくのものだ、ぼく自身のものだ、ほんとうのぼくの金なんだ」
 ソーニャはいぶかしげに彼の言葉を聞きながら、一生けんめいに何やら思い合わそうと苦心していた。
「ところで、その金[#「その金」に傍点]だが……ぼくは、そこに金があったかどうか、それさえ知らないんだ」と彼はもの思わしげに低い声でいいたした。「ぼくはあの時、ばあさんが首にかけていた財布をはずしたんだ。ぎっちりいっぱいにつまった、なめし皮の財布だ……だが、ぼくはその中を見なかった。きっと見る暇がなかったんだろう……ところで品物は、みんな飾りボタンだの鎖だのというものだが――ぼくはそんなものをぜんぶ、財布といっしょに、翌朝V通りのある空地の石の下へかくしてしまった……今でもやはりそこにあるだろうよ……」
 ソーニャは一生けんめい聞いていた。
「まあ、それじゃ、なんだって……どうしてあなたは……物を盗るためだなんておっしゃりながら、ご自分じゃなんにもお取りにならなかったの?」と、わらしベー本にもすがりつく心もちで、彼女は早口に尋ねた。
「知らない……ぼくはまだ腹が決まっていなかったんだ――その金を取るか、取らないか」と彼はまたもやもの思わしげにそういったが、ふとわれに返り、ちらと短いうす笑いを浮かべた。「ちぇっ、ぼくはなんてばかなことをいったもんだろう、え?」
 ふとソーニャの頭には、『気ちがいではないだろうか?』という考えがひらめいた。けれど、彼女は即座にそれを否定し、『いや、これは何か別なことだ』彼女には何ひとつ、まったく何ひとつわからなかった!
「ねえ、ソーニャ」とふいに、彼はある感激に打たれていいだした。「ねえ、ぼくはお前に何をいおうとしてるかわかるかい。もしぼくが飢《かつ》えてるために人殺しをしたのなら」彼は一語一語に力をこめて、なぞでもかけるように、とはいえ、真剣に彼女を見つめながら、こう言葉をつづけた。「それなら今ぼくは……さぞ幸福[#「幸福」に傍点]だったろう! お前それを承知しといておくれ! それに、お前にとってなんだろう。それがお前にとってなんだろう」とすぐ次の瞬間、一種の絶望さえ声に響かせながら、彼は叫ぶのであった。「ねえ、ぼくが今、悪いことをしたと懴悔したからって、それがお前にとってなんだろう? ああソーニャ、ぼくはそんなことのために、今お前んとこへ来たんだろうか!」
 ソーニャはまた何かいおうとしたが、やはり沈黙を守っていた。
「きのうぼくがお前に、いっしょに行ってくれと頼んだのは、ぼくに残ってるのはお前よりほかに何もないからだよ」
「どこへ行くんですって?」とソーニャは問い返した。
「どろぼうするためでも、人を殺すためでもないから、心配しなくていいよ。そんなことじゃない」と彼は皮肉ににやりと笑った。「ぼくらふたりは、まるで違った人間なんだからね……ところで、ソーニャ、ぼくは今、ついたった今、きのうお前をどこへ[#「どこへ」に傍点]つれて行こうといったのか、はじめてわかったよ! きのうああいった時には、ぼく自身もどこかわからなかったんだ。ぼくが頼んだのも、ここへやって来たのも、目的はたった一つだ。お前、ぼくを見捨てないでくれ。見捨てないでくれるね、ソーニャ?」
 彼女は男の手をかたく握りしめた。
「ああ、なぜ、なぜおれはこの女にいったのだろう、なぜこの女にうち明けたのだろう!」限りない苦悩をいだいて彼女を見ながら、彼はしばらくしてから、絶望したように叫んだ。「げんにお前はぼくの説明を待っている。ね、ソーニャ、お前はじっとすわって待っている、ぼくにはそれがちゃんとわかる。だが、ぼくはお前に何をいえばいいのだ? お前はこの問題じゃなんにもわかりゃしない、たださんざん苦しみ抜くばかりだ……おれのために! ね、ほらお前は泣きながら、またぼくを抱きしめる――え、いったいなんだってお前は、ぼくを抱きしめるのだろう? まさかぼくが自分で持ちきれなくなって、『お前も苦しむがいい、おれが楽になるから!』といったようなぐあいに、自分の苦しみを他人の肩へ背負わせにやって来た、そのお礼でもなかろうね。いったいお前はこんな卑劣な人間を愛することができる?」
「だって、あなたもやはり苦しんでらっしゃるのじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
 またもや彼の胸には、さっきと同じ感情が波のように押し寄せ、一瞬、彼の心をやわらげた。
「ソーニャ、ぼくの心は毒を持ってるんだよ。お前それに気をつけておくれ。いろんなことが、それで説明できるんだから。ぼくは毒のある人間だから、それでやって来たんだよ。中には、やって来ないような連中もある。だが、ぼくはおくびょう者で……卑劣漢だ! だが……どうでもかまわない!こん[#「ない!こん」はママ]なことはみな見当ちがいだ……いま話さなくちゃいけないんだが、ぼくにはどうもうまく切り出せない……」
 彼は言葉をとめて、考えこんだ。
「ええっ、ぼくらふたりは別々な人間なんだ!」と彼はふたたび叫んだ。「まるで一つにならないんだ。なんだって、なんだってここへやって来たんだろう! このことはじつに、われながら許しがたい!」
「いいえ、いいえ、来てくださったのはいいことですわ!」
とソーニャは叫んだ。「そりゃわたしが知ってたほうがいいわ! ずっといいわ!」
 彼は苦痛の表情で彼女を見つめた。
「いや、そりゃほんとうだ!」十分考え抜いたという様子で、彼はいった。「まったくそのとおりなんじゃないか!つまりこうなんだよ。ぼくはナポレオンになりたかった、そのために人を殺したんだ……さあ、これでわかるかい?」
「い、いいえ」とソーニャは無邪気におくびょうらしくささやいた。「だけど……いって、いってちょうだい。わたしわかるわ、腹ん中[#「腹ん中」に傍点]でわかるわ!」と彼女は一心に頼んだ。
「わかるって? よし、じゃあ、ひとつ見てみよう!」
 彼は口をつぐんで、長いこと想を練っていた。
「じつはこういうわけなんだ。ある時ね、ぼくは自分にこんな問題を出してみた。たとえば、ぼくの位置にナポレオンがいたとしよう。そして、その立身の道を開くのに、トゥーロンも、エジプトも、モン・ブラン越えもなく、そういう美しいモニュメンタル(偉大)なものの代りに、ただもう滑稽《こっけい》な十四等官の後家ばあさんしかいない。しかもおまけに、そいつの長持から金を引き出すために(立身の道を開くためだよ、わかってるね?)そいつを殺さなけりゃならんとしたら――それ以外に方法がないとしたら、彼はそれを決行しただろうか? それがあまりに非モニュメンタルで、そして……そして罪ふかいことだからというので、ちゅうちょしやしないだろうか? ねえ、そこで、いいかい、ぼくはこの『問題』に、うんと長いあいだ悩み抜いた。で、やっと(ふいに何か