京都アニメーション放火殺人事件の死刑判決についてはっきり思うこと――殺人(とくに無差別殺人)をやめさせることはできません、わたしは投げ出します。と黙って認めるのは、究極の自虐である。ここは絶対に言い訳してはいけない。
殺人(とくに無差別殺人)をやめさせることはできません、わたしは投げ出します。と黙って認めるのは、究極の自虐である。ここは絶対に言い訳してはいけない。
現代日本にハイカルチャーがあるのか知らないが、サブカルチャーがこういう態度を取るのは非常に危険である。せめて、「全財産出せば、命だけは助かるかもしれない」ということを実行しないといけない。これは絶対である。ここで一番罪が深い分野はまちがいなくインターネット文化だ。情報と知識は背負うが、命は背負っていない、ということを言ったり、まして実行するのは、はっきりいって究極の身勝手であり結局のところ究極の自虐である。
この言葉を送る。
捨てる | 押川剛 公式ブログ
「刑法を犯すようなことは、どんな犠牲を払ってでも止めなければならない」
精神医学の師匠が遺した言葉を時々振り返り、
その文脈の意味を考えるのだが、俺には、
「人間のプロ」としての生き方を問われているように、感じられる。
アマチュアの人間は、物だけでなくひとに関しても、
さっぱり諦めたり、手放したり、巣立たせたりということができず、
家族も他人を振りまわし、どこまでも依存して生きていく。
が、ひとたび思い切って捨ててみれば、
案外すっきりとした気持ちで、生きていけるようにも思う。
私個人からも一言。
見栄と金、よけいな誘惑が多すぎる。
命を失ったら、何にもならないだろうが!