京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見地区放火殺人事件)などの事件に関するメモ

以下のメモの内容は無断転用を許す。

2049年12月31日まで、情報収集などの作業を続ける。司法、アニメ業界(サブカルチャー業界すべて)、マスコミ、三者がどう動こうが関係なく作業を続けることをここに宣言する。
(2023年8月28日)

インターネット産業、アニメ産業、メンタルヘルス業界、マスコミ、この4業種に対し、2024年9月17にまでの5年間、買い控えを実行することを宣言します。 - 京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

まず、妄想ふくむ精神疾患の治療をしないといけない。重要(ではあるがほぼ明らか)な妄想であるという判断を裁判所がやることになっている。



磯部涼氏のレポート、『令和元年のテロリズム』それと『ルポ 川崎』批判
絶対に必要!
まず、被害者(対象=京都アニメーション)と加害者の関係性の時系列がかけていない。加害者の子ども時代が不遇だったと書くばかりで、そのあとすぐ2019年7月15日に飛んでしまう。2,3件のこの本の書評をみたが、そのことに気がついて、と言うか驚いていないのに、わたし個人はひじょうに驚く。
堀川恵子氏の『永山則夫 封印された鑑定記録』の後に書かれたノンフィクションとしては信じられない雑さ。
話は変わるが、アニメーション業界の関係者は、すべての視聴者は4歳ぐらいのころからいろいろのアニメ作品を受容している、となんとなく考えていているらしくて、その緊張感のなさがわたしには気になる。たとえばリピーター獲得の戦略みたいな話は聞いたことが無い。わたしが知らないだけかもしれないが。サブカルチャー、娯楽だから生涯ないのかもしれないが、「個々の作品はともかく、アニメと言う娯楽自体はとりあえず好かれていて当然」という、はっきりいえば安易な考えがあるのではないか。わたしがナボコフやフォークナーなどの作家の伝記にも興味があったからこういうことに気がつくのかもしれないが。
わたしは今回の実行犯Aは創作の経験がかなり少ない、ひょっとしたら「盗作された」という作品が第一作目なのではないかと予想している。というのは、投稿された二作目、三作目が見つかったという報道が無いからだ。

病状の経過がわからない。医療につながっていたのか、そんな重要なこともわからない。
事件の予兆に気がつくこと。たとえ、事件がおきたあとでも。たとえば、30年ぐらい前までには、「グレる」という行為の原因として、親や教師の一見ささいなようだが、繊細な未成年を深く傷つける言動が問題視された。


インターネット文化は、やっかいなことに、(大げさな言い方だが)人類の書くという行為の歴史も背負う運命にある。しかし、たとえばインターネットを使っているあなたやわたしが、「失われた時を求めて」や「ユリシーズ」や「城(ひいてはカフカ作品すべて)」や「神聖喜劇」や「沖縄県史1・2」の存在の巨大さを意識しながらものを書いているかと言うと、とてもそんなことはいえない。安易なのである。舐められてもかまわない、あるいはどうしていいかわからない、あるいは、諦めている、という雰囲気を感じる。そこが問題。舐められて反抗する気のない連中に何かすごいことが出来るわけがない。

積もり積もった怨念というのは、どこかで必ず見えるはず。そこが見えてこない。
何でもはじまりがある、何でもだ。ハリー・スタックス・サリヴァンの指導。

実行犯Aは、経歴だけみれば、「熱狂的なファン」より「ニワカ」(これは蔑称だが)にちかい人物と推定される。というより、2023年5月20日までの新聞報道を総合すると、そう書くしかない。これがまず奇妙だ。

これから、3か月、ねてもさめても人間悪(小さなものも大きなものもすべて)の事を考えることにする。
失敗する可能性は当然あるが、とにかくためしてみないとつかめるものもつかめない。
防犯について考えているとでもいいわけしよう。

2023年広島サミット、空虚。原民喜氏の書くもののほとんどすべてに読みとれるある種の特殊さ、あれに挑戦しないといけない。

欲求や執着の強さがほとんどみえない?