京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP361-P384

なことはくだらない枝葉の問題ですよ! わたしなんかも、いつか自分の両親が死んだのを悔んだことがあるとすれば、それはもう、いつまでもなく今です。もしもまだ両親が生きていたら、それこそプロテスト(反抗)でもって、うんと心胆を寒からしめてやったものをと、そんなことを何度空想したかしれないくらいです! わざとでもそうしたはずですよ……子供はいわゆる『切り離されたパンのきれ』で、親のふところへもどりっこないなんて、ちぇっ、そんな旧式の消極主義はだめです! わたしは親たちに思い知らせてやったんだがなあ! びっくりさせてやったんだがなあ! まったく、だれもいないのが残念ですよ!」
「びっくりさせるためにですか? へ、へ、それはどうでもお好きなように」とルージンはさえぎった。「それより、一つお尋ねしたいことがある。あなたはあのなくなった役人の娘を知ってるでしょう、あの貧相なひ弱そうな女! あの娘のことでみんながいってるのは、まったく事実なんですかね、え?」
「それがいったいどうしたんです? わたしにいわせると。つまり、わたし一個の確信によると、あれは女として最もノーマルな状態ですよ。なぜあれがいけないんでしょう? つまりdistinguons(特性)なんですものね。現在の社会では、そりゃもちろん、ぜんぜんノーマルとはいえません。現在は強制的なものですからね。しかし、未来の社会では完全にノーマルなものになります。なぜなら自由行為なんですもの。それに今だってあの娘はその権利を持っていたんです。あの社会では、基金も不必要になるでしょうが、あの娘の役割は別の意味を付せられるようになり、整然とした合理的な条件を与えられるでしょう。ところで、ソフィヤ・セミョーノヴナ一個にかんしては、現在わたしは、彼女の行為を社会制度にたいする勇敢な、具象化されたプロテストと見ています。そして、このために彼女を深く尊敬しているのです。彼女をながめていると、喜びを感じるくらいです!」
「だが、この家からあの娘をいびり出したのは、ほかでもない、きみだってことを聞きましたぜ!」
 レベジャートニコフは猛烈な勢いで怒りだした。
「そらまた中傷《ちゅうしょう》だ!」と彼は絶叫した。「真相はまるで、まるで違っています! それこそ話が違いますよ! それはみなカチェリーナ・イヴァーノヴナが何もわからないもんだから、あの時でたらめをいったんです! それに、わたしはけっしてソフィヤ・セミョーノヴナをねらったことなんかない! わたしはまったくそういう野心なしに、ただもう、あの女にプロテストの意識を呼び起こそうと努力し、彼女の精神的発達を志したきりです……わたしにはただプロテストが必要だったんです。それに、ソフィア・セミョーノヴナ自身が、もうこの家にいられなくなったんじゃありませんか!」
「じゃ、共産団へでもはいれと勧めたんですかね!」
「あなたはしじゅう、ひやかしてばかりいらっしゃる。しかも、それがはなはだまずいんですよ。失礼ながらご注意しときます。あなたはなんにもおわかりにならないんです! 共産団にはそんな役割はありません。共産団はそんな役割をなくすために設立されてるんですよ。共産団になると、この役割は現在の本質をすっかり変えてしまいます。そして、ここで愚劣だったものも、あちらでは賢明なものになる。ここで、現在の状態では不自然なものも、あちらでは、きわめて自然なものになる。万事はすべて、人間がいかなる状況の中に、いかなる環境の中にいるか、で左右されるものです。すべては、環境のいかんにかかっているので、人間そのものは問題じゃないのです。ソフィヤ・セミョーノヴナとわたしは、今でも円満に交際していますが、これで見ても、彼女がまだ一度もわたしを自分の敵だとか、侮辱者だとかいうふうに思わなかった、りっぱな証拠じゃありませんか。わたしは彼女に共産団入りを勧めていますが、ただしそれは、ぜんぜん、ぜんぜん別な基礎の上に立つ共産団です! あなた、何がおかしいんです? 今われわれは従前のものよりいっそう広い基礎の上に、自分自身の特殊な共産団を創立しようとしているのです。われわれは信念の点からいって、さらに一歩進んでいるのです。われわれはさらに多くを否定するものです! もしドブロリューボフが棺の中からよみがえって来たら、わたしは彼とひと論争したでしょう! ベリンスキイなんか一ぺんでやっつけてやりますよ! が、まあ、さしあたり今のところ、ソフィヤ・セミョーノヴナの啓発をつづけますよ。あれはじつに、じつに美しい性質の持ち主です!」
「ふん、つまり、その美しい性質を利用しようってんでしょう、え? へ、へ、へ!」
「けっして! けっして! けっしてそんな! まるで反対です!」
「ふん、まるで反対もすさまじい! へ、へ、へ! よくいったもんだね!」
「ほんとうですというのに! いったいどんな理由があって、あなたに隠す必要があるんでしょう、まあ考えてもごらんなさい! それどころか、わたしは自分でもふしぎなくらいなんですよ――わたしとさし向かいになると、彼女は、なんだかとくべつ固くなって、恐怖に近いほど純潔なはにかみやになるんですからね!」
「それできみが、大いに啓発してるわけなんでしょう……へ、へ! まあ……そういう羞恥《しゅうち》なんて無意味なものだと、証明してやってるんでしょうな?……」
「まるで違います! まるで違います! あなたはまあ、なんてがさつに、なんて愚劣に――いや、これは失礼――啓発という語を解釈していらっしゃるんでしょう! あなたは、なあんにもおわかりにならないんだ! ああ、驚いた、あなたはじつにまだ……できていないんですねえ! われわれは女性の自由というものを求めているのに、あなたの頭にあるのはただ……わたしは女性の純潔とか、羞恥とかいう問題は、それ自体無益な偏見だと思うから、頭から問題にしないことにしていますが、彼女がわたしにたいして純潔な態度を持しているのは、十分に十分に認めてやります。なぜって、そこに彼らの意志と権利の全部があるからです。もちろん、もし彼女が自分からわたしに向かって、『あなたといっしょになりたい』といえば、わたしは自分を非常な幸運児と考えるでしょう。わたしはあの娘がとても気に入ってるんですからね。しかし今のところ、少なくとも今までは、わたし以上に礼儀ただしく、慇懃《いんぎん》に彼女にたいし、彼女の価値に尊敬を示した人間は、かつてひとりだってありゃしませんよ……わたしは待っているんです、望みをかけてるんです――ただそれだけです!」
「きみ、それより何かあの女に贈り物をしたらいいでしょう。ぼくは賭《か》けでもするが、きみはまだこのことを考えもしなかったにちがいない」
「今もいったことだが、あなたはなあんにもわからないんですね! そりゃもちろん、彼女の境遇はそういったものにちがいないです。しかし――これは別問題ですよ! ぜんぜん別問題ですよ! あなたはてんからあの女を侮蔑していらっしゃる。あなたは、侮蔑に値すると誤認した事実だけを見て、人間そのものにたいしてまで、人道的な見かたを拒もうとしていらっしゃるんです。あなたはまだあの女がどんな性質を持っているか、よくごぞんじないんだ! ただ一つ非常に残念なのは、彼女が近ごろどうしたのか、すっかり読書をやめてしまって、わたしのところへも本を借りに来なくなったことです。もとはよく借りたんですがね。それからもう一つ残念なのは、プロテストにたいする意力と決心とはありあまっていながら、――しかも一度はそれを実地に証明して見せながら――まだどうも独立心が、つまり自己以外のものに左右されない精神、いっさいを否定する精神が足りないので、ある種の偏見や……ばかげた習慣などから、まったく絶縁しきれないことですよ。が、それにもかかわらず、彼女はある種の問題にたいしては、きわめてすぐれた理解力を示しています。たとえば、彼女は手の接吻《せっぷん》にかんする問題をりっぱに理解しました、つまり男が女の手に接吻するのは、非平等《ひびょうどう》の観念で女を侮辱するものだということですね。この問題はわれわれ仲間で討論されたことがあるので、わたしはすぐ彼女に伝えてやったわけです。フランスにおける労働組合のことも、彼女は熱心に聞きましたよ。わたしはいま、未来の社会で、他人の部屋へ自由に出入りができるという問題を、彼女に説明してやっているところです」
「それはまた、いったいなんのことです?」
「最近われわれ仲間で、こういう問題を討論したんです。つまり、共産団の団員は、他の団員の部屋へ、それが男であろうと女であろうと、いつでもはいる権利があるやいなやの問題ですが……けっきょく、あるということに決議されました……」
「じゃ、もしそのとき、その男なり女なりが、欠くべからざる要求の遂行《すいこう》中だったら、どうするんです、へ、へ!」
 レベジャートニコフは腹を立ててしまった。
「あなたはいつもそんなことばかり! あなたはただもうそんなことばかり、そんないまいましい『要求』なんてことばかりいっていたいんですね!」と彼は憎々しげに叫んだ。「ちぇっ、わたしはあなたにシステムを説明するとき、つい早まって、このいまいましい要求なんてことを口にしたのが、じつにしゃくにさわる。腹が立ってたまらない! 畜生! これはあなたがたのような人にとって、つまずきの石です。一ばんいけないのは、まだはっきり会得のいかない前から、笑い草にしてしまうことですよ! しかも、それで自分たちのほうがほんとうだと思って、とくとくとしているんだからなあ! ちぇっ! わたしは幾度となく主張したんですよ――こういう問題を新参者に説明するのは、いよいよその当人が十分発達をとげ、方向が決まった時でなくちゃ駄目だってね。それにまあ考えてもごらんなさい。下水だめにだってなにも恥ずかしい、軽蔑すべきものはないじゃありませんか? わたしなんかまっさきに、どんな下水だめでも、掃除して見せる用意があります! これは自己犠牲でもなんでもありませんよ! 単に仕事です、社会のために有益な高尚《こうしょう》な活動にすぎません。それは他のいかなる活動にも劣るものではなく、むしろたとえば、ラファエルや、プーシュキンなどの活動よりも、はるかに上位にあるくらいです。なぜって、このほうがより有益だからです」
「そして、より高尚なんでしょう、より高尚なんでしょう、へ、へ、へ!」
「より高尚とはいったい、なんですか? 人間の活動を定義する意味において、そんな表現はわたしにはわからないんです。『より高尚』とか、『より寛大』とかいうような、そんなことはことごとく無意味です、愚劣です、わたしの否定している古い偏見にとらわれ言葉です! 人類にとって有益[#「有益」に傍点]なものは、すべて高尚なんです! わたしはただ有益[#「有益」に傍点]という一語を解するのみです! まあ、いくらでもひひひ笑いをなさい。しかし、それはそうなんですから!」
 ルージンは無性に笑った。彼はもう勘定をすまして金をしまっていた。けれど、その中のいくらかは、なぜかそのままテーブルの上に残しておいた。この『下水だめの問題』は、下劣きわまる性質を有しているにもかかわらず、もう幾度となく、ルージンとその若い友人の間で、不和と反目の原因になっていた。何よりもばかげているのは、レベジャートニコフがむきになって腹を立てると、ルージンはそれをいい腹いせにしていることだった。ことにいま彼は、とくべつにレベジャートニコフを怒らしてみたかったのである。
「あなたは、きのうの失敗が原因《もと》で、そんなにむしゃくしゃして、やたらに人にからんでくるんです」とレベジャートニコフは、とうとう腹にすえかねて、こういってしまった。彼は概していえば、その『独立心』やプロテストの精神にもかかわらず、どういうものか、ルージンには思いきって反対する勇気がなかった。ぜんたいとして、いまだに彼はルージンにたいして、長年の習慣になっている一種のうやうやしい態度を、守りつづけているのであった。
「まあ、それよりもこういうことを聞きたいんですがね」とルージンは高飛車《たかびしゃ》な調子でいまいましそうにいった。「きみにできるか知らん……いやそれより、こういったほうがいいかな――きみはほんとうに今いった若い娘とそれだけ親密なんですか? なら、今すぐちょっとここへ、この部屋へ呼んでもらいあたいんですがね。もうみんな墓場から帰ったらしい……なんだか騒々しい足音が聞こえてきたから……ぼくは、一つあの女に会って話したいことがあるんだけど、あの娘とね」
「あなた、いったい、なんの用で?」とレベジャートニコフはびっくりして尋ねた。
「なに、ちょっと用があるんでね。ぼくは今日明日にもここを立つつもりだから、ちょっとあの女に知らせておきたいことがあるんですよ……もっとも、きみもその話の間、ここにいてさしつかえありませんよ。いやむしろ、いてもらいたいくらいだ。でないと、きみはどんなことを考えるかわかりゃしないからね」
「わたしはけっして何も考えやしませんよ……ただちょっと聞いてみただけですよ。もし用があるんでしたら、あの女を呼び寄せるくらい、そうさもないこってす。すぐに行って来ましょう。が、ご安心なさい。あなたのじゃまなんかしませんからね」
 はたして五分ばかりたつと、レベジャートニコフはソーネチカを連れて帰って来た。ソーニャはさも驚いたらしい様子で、いつもの癖でおどおどしながらはいって来た。彼女はこういう場合、いつもおどおどして、新しい顔、新しい知己を極端に恐れるのであった。以前まだ子供の時分からそうだったのが、このごろではいっそうひどくなっていた……ルージンは『優しく慇懃《いんぎん》に』彼女を迎えたが、そこにはなんとなく浮わついたなれなれしさがあった。もっともそれは、ルージンの意見によると、彼のように名誉もあれば重みもある男が、彼女ごとき年の若い、ある意味において興味のある[#「興味のある」に傍点]女にたいするには、ふさわしいものなのであった。彼は、急いで彼女を『元気づけよう』と努めながら、自分とさし向かいにテーブルに着かせた。ソーニャは腰をおろし、あたりを見まわした――レベジャートニコフから、テーブルの上に置いてある金に、それからまた、ちらとルージンに目を移した。そして、まるで釘づけにでもされたように、そのまま彼から目を放さなかった。レベジャートニコフは戸口のほうへ行こうとした。ルージンは立ちあがって、しぐさでソーニャにすわっていろという意《こころ》を見せ、レベジャートニコフを戸口のところで引き止めた。
「あのラスコーリニコフは、あすこにいますかね? 来ていましたかね?」と彼はささやくように尋ねた。
ラスコーリニコフ? いましたよ。それがどうしたんです? ええ、あすこにいますよ……今はいって来たばかりです。わたしは見ましたよ……それがどうしたんです?」
「いや、だからこそぼくはとくにここに残って、われわれといっしょにいてくれたまえと頼むんですよ。ぼくがあの……娘さんとふたりきりになってしまわないようにね。話はくだらないことだけれど、それがためにどんな臆測《おくそく》をされるかわからないからな。ぼくはね、ラスコーリニコフにあそこで[#「あすこで」に傍点]すっぱ抜かれるのがいやなんだ……ぼくが何をいってるか、わかるでしょう?」
「あ、わかりました、わかりました!」とレベジャートニコフは急に察しがついた。「そうだ。あなたはその権利がある……もっとも、わたし一個の信ずるところによると、むろんあなたの心配はちと大げさすぎますがね、しかし……それでもあなたには権利がある。よろしい、わたしは残りましょう。ここの窓のそばに立っていて、あなたのじゃまをしないようにします……わたしの意見では、あなたはその権利があります……」
 ルージンは長いすへもどって、ソーニャの向かい側に腰をおろし、じっと穴のあくほど彼女を見つめていたが、ふいに、恐ろしくしかつめらしい、いくらかいかついくらいの顔つきをした。それは『お前だって何か変なことを考えるんじゃないよ』とでもいうようなふうだった。ソーニャはすっかりまごついてしまった。
「第一に、ソフィヤ・セミョーノヴナ、あなたのお母さんにあやまっていただきたいんです……確かそうでしたね? カチェリーナ・イヴァーノヴナは、あなたにとってお母さんがわりですね?」とルージンは大いにしかつめらしい、とはいえ、かなりあいそのいい調子で口をきった。
 彼がきわめて親切な意図をいだいているのは、よそ目にもそれと察しられた。
「ええ、そのとおりでございます。そのとおりですわ。母がわりなので」とソーニャは早口に、おどおどした調子で答えた。
「ところで、じつはわたしはやむをえない事情のために、失礼しなければならないので、そのことをお母さんにお断わりしてくださいませんか。せっかくご親切に招待してくださったのですが、ぼくはお宅のお茶の会に……いや、法事に出られなくなったんで」
「は……そう申します……今すぐ」ソーネチカはあわただしく、いすから飛びあがった。
「まだ[#「まだ」に傍点]それだけじゃないんですよ」ルージンは彼女がうすぼんやりで作法を知らないのを見、にやりと笑いながら、彼女を押し止めた。「あなたはわたくしをよくごぞんじないんですね、ソフィヤ・セミョーノヴナ。わたしがこんなつまらない、自分ひとりにかんしたことで、あなたのようなかたをわざわざお呼び立てしてご迷惑をかけるなんて、そんなことを考えてくだすったら困ります。わたしの目的はもっとほかにあるんですよ」
 ソーニャはいそいで腰をおろした。テーブルの上に置きっ放しにしてある灰色(二十五ルーブリ)や虹色(百ルーブリ)の紙幣が、またしても目の中でちらついたが、彼女はすばやくそれから顔をそむけて、ルージンを見上げた。と、ふいに彼[#「に彼」に傍点]女は[#「ふいに彼[#「に彼」に傍点]女は」はママ]、他人の金に目をくれるのが無作法な、とくに彼女にとって無作法なことに思われたのである。彼女はルージンが左の手で押えている金の柄つき眼鏡《めがね》と、それから同じ手の中指にはめてある大きな、どっしりした、すばらしくりっぱな黄いろい石入りの指輪に、視線を止めようとした。が、急にそれからも目をそらしてしまったので、やり場に困ったあげく、またもやルージンの目をまともに見つめた。こちらはしばらく無言の後、後よりもいっそうしかつめらしく言葉をつづけた。
「わたしはきのう、ふと通りがかりに、お気の毒なカチェリーナ・イヴァーノヴナと、ひと言ふた言、口をきき合ったんですが、そのひと言ふた言でも、あの人が……不自然な状態におられることを承知するのに、十分なくらいでした――もしこうした言いかたができるとすればですね……」
「そうでございます……不自然な」とソーニャはあわてて相づちを打った。
「あるいはもっと簡単に、もっとわかりやすくいえば――病的状態ですな」
「はあ、もっと簡単に、わかりやすく……そうですわ、病気なのですわ」
「そうですよ。そこでわたしは、あの女《ひと》の避くべからざる運命を見通して、人道的な感情――そのう、いわば同情の念にたえないので、何かお役に立ちたいと思うのです。どうやら、あの気の毒千万な家族一同は、今もうあなたひとりを命の綱にしているようですな」
「失礼でございますが」と急にソーニャは立ちあがった。「きのう、あなたは母に年金がいただけるかもしれないと、お話になったそうでございますね? で、母はもうきのうから、わたしをつかまえて、あなたが年金のおりるように骨折ってくださるって、そう申しておりました。いったいそれは、ほんとうでございましょうか?」
「いや、けっして。ある意味からいうと、そんなことはばかげているくらいですよ。わたしはただ、服職中に死んだ官吏の未亡人に支給される一時金のことを、それとなしに話したまでです――それもひきがあれば、という話なんですよ――ところが、たしかあなたのご親父《しんぷ》は、年限を勤めあげていらっしゃらないばかりか、最近ではまるで勤めにも出ておられなかったようでしたね。要するに、たとえ、望みがあるとしても、それはきわめて幻のようなものですよ。なぜといって、じっさいのところ、この場合には扶助料を受けるなんの権利もないどころか、むしろその反対なんですからね……それだのにあの女《ひと》は、もう年金なんてことを考え出すなんて、へ、へ、へ! なかなかがっちりした奥さんだ!」
「そうでございますわ、年金のことなんか……というのも、つまりあの女《ひと》が信じやすい、いい人だからでございますの。人がいいために、なんでもほんとうにするのでございます。そして……そして……そして……頭があんなふうな……そうですの……では、ごめんくださいまし」とソーニャはいって、また出て行きそうに立ちあがった。
「失礼ですが、あなたはまだすっかりお聞きにならないんですよ」
「はあ、すっかり伺いませんでしたわ」とソーニャはつぶやいた。
「ですから、おかけなさいよ」
 ソーニャは恐ろしくどぎまぎして、また三度めに腰をおろした。
「あの女《ひと》が不仕合わせな幼い子たちをかかえて、ああしている様子を見ると、わたしは――今もお話したとおり――何か力相応のことで、お役に立ちたいと思うんです。つまり力相応のことで、それ以上じゃありませんがね。たとえば、あの女《ひと》のために義捐金《ぎえんきん》を募るとか、あるいは、慈善富《じぜんとみ》くじのようなものでも催すとか……まあ、そういったふうのことをするんですな――よくこうした場合に近しい知人とか、または縁のない他人でも、一般に人助けをしたいと思う連中の企てることですね。つまり、そのことをお話したいと思ったのです。それはできると思いますが」
「はあ、けっこうでございますわ……きっと、神さまがあなたを……」
 じっとルージンを見つめながら、ソーニャはあいまいな調子でいった。
「できますとも。しかし……それはまたあとで……いや、今日でも始めようと思えば始められることです。晩にお目にかかって、ご相談のうえ、いわゆる基礎を作ることにしましょう。そうですな、七時ころにここへ、わたしのところへ来てください。たぶんアンドレイ・セミョーヌイチも、われわれの仲間にはいってくれるでしょう……しかし、ここに一つ前もって、ようく申しあげておかなければならないことがあるんです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、つまりそのために、わざわざあなたをお呼び立てして、ご迷惑をかけたわけなんです。ほかでもありませんが、わたしの意見はこうです――金をカチェリーナ・イヴァーノヴナの手へ渡すのはいけません、第一、危険ですからね。その証拠は――今日のあの法事です。いわば明日の日なくてはならぬパンの一きれもなければ、今日はやれヤマイカラム酒だの、やれマディラの赤ぶどう酒だの、やれ……コーヒーだのと買い込むんですからな。わたしは通りすがりにちょっと見ましたよ。ところが明日はまた、最後のパンの一きれのことまで、あなたの細腕にかかってくるしまつでしょう。それはもうばかげた話ですよ。だからその義金募集にしても、わたし一個の考えによると、あの不幸な未亡人には金のことは知らさないで、ただあなただけに含んでいてもらうようにしなければなりません。わたしのいうとおりでしょう?」
「わたしにはよくわかりません。でも、母があんなのはただ今日だけなんですの……なにぶん生涯に一度きりのことですから……母はもうちゃんと供養《くよう》がしたい、りっぱにあとを祭りたい、法事がしたいの一心でして……でも、母はたいへん賢い人なんですの。もっとも、それはもう、どちらでもおよろしいように。わたしほんとに、ほんとに……あの人たちも皆あなたに……神さまもあなたを……そして父のない子供たちも……」
 ソーニャはしまいまでいい終わらず、泣きだした。
「さよう。では、そのお含みで。ところで、さしむき当座のために、わたし一個として分相応の額を、とりあえずお納めください。それにつけて、くれぐれもお願いしますが、わたしの名は出さないでください。さあ……自分にもその、いろいろ心配があるので、これだけしかできませんが……」
 こういって、ルージンは十ルーブリ紙幣を念入りにひろげ、ソーニャにさし出した。ソーニャは受け取ると、ぱっと顔を赤くして、おどりあがった。そして何やらもぞもぞいいながら、いそいで別れのあいさつをはじめた。ルージンはとくとくとして、彼女を戸口まで見送った。彼女はやっとのことで部屋から飛び出すと、すっかり興奮して、へとへとになり、はげしい困惑を感じながら、カチェリーナのところへもどって来た。
 レベジャートニコフはこの一幕の間、話の腰を折るまいとして、ずっと窓のそばに立ったり、部屋の中を歩きまわったりしていた。ソーニャが出て行くと、彼は急にルージンのそばへ近より、荘重な態度で手をさし伸べた。
「わたしは何もかも聞きました。何もかも見ました[#「見ました」に傍点]」とくに、最後の言葉に力を入れながら、彼はこういった。「あれはじつに高潔です。いや、そうじゃない、わたしは人道的といおうと思ったんです! あなたは感謝を避けようとなさいましたね、わたしは見ましたよ! じつをいえば、わたしは主義として個人的慈善には同感できない。なぜならば、慈善は悪を根本的に絶滅しないばかりでなく、かえって、それをつちかうようなものだからです。がそれでも、あなたの行為を見て満足を感じたことを、白状せずにいられません――そうです、そうです、大いにわが意を得たりです」
「なあに、つまらんことですよ!」と、いくらか興奮した様子で、何かレベジャートニコフのほうをうかがうようにしながら、ルージンはつぶやいた。
「いや、つまらなかありません! あなたのように、きのうの事件で侮辱され、憤慨させられていながら、同時に他人の不幸を考えることのできる人――そういう人は……たとえ自分の行為で社会的に過失をおかしているにもせよ――それでもとにかく……尊敬に値しますよ! わたしはね、ピョートル・ペトローヴィチ、あなたにこんなことができようとは、思いもよらなかったですよ。まして、あなたのものの見かたからおしていけばね。ああ! あなたのものの見かたが、どれくらいあなたのじゃまをしていることでしょう! たとえば、あのきのうの失敗が、どんなにあなたを興奮させていることか」とお人よしのレベジャートニコフは、またしてもルージンに好感の増してくるのを覚えながら、感嘆の叫びを上げた。「なんのために、いったいなんのためにあなたは、この結婚がぜひとも必要なんです、この法律的[#「法律的」に傍点]結婚が? わが敬愛するピョートル・ペトローヴィチ、なんのためにあなたは結婚の合法性[#「合法性」に傍点]が必要なんです? ねえ、お望みならわたしを打《ぶ》ってもいいです――わたしはあの結婚が破談になって、あなたが自由の身になったのを喜んでいます。あなたが人類のために、まだぜんぜん滅びつくさなかったのを喜んでいます。喜んでいますとも……さあ、これですっかりいってしまいました!」
「それはほかでもない、きみのありがたがる自由結婚なんかして、角《つの》をはやさせられたり(妻に不貞を働かれること)、人の子供を背負い込まされたりするのがいやだからですよ。だから、ぼくには合法的結婚が必要なんですよ」ただ何か返事をするといった調子で、ルージンはこういった。
 彼は何かしら非常に気がかりなことがあって、考えこんでいる様子だった。
「子供? あなたは子供の問題に触れましたね」進軍ラッパを聞きつけた軍馬のように、レベジャートニコフはぶるっと身ぶるいした。「子供――これは最も重大な社会問題です。それはわたしも同感です。しかし、子供にかんする問題は別様に解決されねばなりません。ある人々は子供というものを家庭の暗示として、根本から否定しています。が、子供のことはあとで話すことにして、今は角《つの》のほうを論じましょう!じつを[#「ょう!じつ」はママ]いうと、これはわたしの苦手《にがて》なんですよ。あの醜悪な、軽騎兵(はででいきな女性征服者の代名詞)式のプーシュキン的な表現は、将来の辞書には、想像もできないくらいですよ。いったい角とはなんであるか? おお、なんという錯誤《さくご》だろう! いったい、なんの角です? なんのための角か? なんてばかばかしい! それどころか、自由結婚にはそんなものはありゃしません! 角《つの》、それはただ合法的結婚の自然的産物にすぎません。いわばその修正であり、プロテストであるんです。だからこの意味において、少しも恥ずべきものじゃありません……もしわたしがいつか――かりにそういう愚劣な想像を許すとして――合法的結婚をするとすれば、その時わたしはむしろ、あなたののろわれる角を喜ぶでしょう。その時わたしは妻にこういいます。『ねえ、ぼくはこれまでお前をただ愛していただけだが、今からお前を尊敬するよ。なぜって、お前はりっぱなプロテストをやったからだ!』とね。あなた笑いますね? それはまだ偏見から解放される力がない証拠です! くそっ、わたしだって合法的結婚で、妻に裹切られる場合の不愉快さがどんなものかってことは、よく知っています。しかし、それはただ双方がみずから卑しくしている、陋劣な事実の陋劣《ろうれつ》な結果にすぎないのです。自由結婚のように角が公然になってしまえば、その時はもう角なんかはなくなってしまう。そんなものは想像もできないようになり、角なんて名称さえなくなってしまいます。それどころか、あなたの奥さんはその行為によって、あなたを尊敬してることを証明するわけになります。だって、奥さんはあなたという人を、妻の幸福を阻害《そがい》しない人、新しい夫ができたといって、妻に復讐《ふくしゅう》なんかしない精神的発達をとげた人と見なしたことになるんですものね、いいなあ、畜生、わたしはときどき空想するんですよ――もしわたしが嫁入りするようなことがあったら――ちぇっ! 何をいってるんだ、もしわたしが結婚するようなことがあったら(自由結婚でも合法的結婚でもそれは同じですが)、もし妻《さい》がいつまでも色男をこさえなかったら、わたしはおそらく自分から、色男を引っぱって来てやるだろうと思いますよ。『ねえ』とわたしはいうでしょう。『ぼくはお前を愛しているが、その上にまだお前から尊敬してもらいたいのだ――そうなんだよ!』というふうにね。そうでしょう、ぼくのいうとおりでしょう……」
 ルージンはそれを聞きながら、ひひひと笑った。しかし、かくべつ身を入れている様子はなかった。それどころか、ろくすっぽ聞いてもいなかった。彼はじっさい何かほかのことを考えていたのである。とうとうレベジャートニコフもそれに気がついた。ルージンは興奮のていで、もみ手をしながら考えこんだ。レベジャートニコフは、あとになっていろいろ考え合わせ、こういうことをすべて思いおこしたのである……

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 いったいどういうわけで、カチェリーナの混乱した頭に、こうした無意味な法事の計画が生まれたのか、その原因を明確に説明するのはむずかしいことである。じっさいそのために、マルメラードフの葬儀費用として、ラスコーリニコフからもらった二十ルーブリなにがしのうち、ほとんど十ルーブリ近くの金がつぎ込まれたのである。ことによったら、カチェリーナは間借り人一同、わけてもアマリヤ・イヴァーノヴナに、故人が、『彼らと比べて、けっして劣らなかったばかりか、もしかすると、ずっとすぐれていたかもしれない』、したがって、彼らのだれひとりとして、故人を見くだす権利を持っていないということを思い知らせるために、『型のごとく』彼の供養《くよう》をするのが、故人にたいする義務だと考えたのかもしれない。あるいはまた、そこには特別な貧者の誇りが、何より影響していたのかもしれない、この心理のために多くの貧民は、ただもう他人に『ひけをとらない』ために、他人に『うしろ指をさされない』ために、最後の力をふり絞って、今の生活習慣であらゆる人々に必要欠くべからざるものとなっている社会的儀式などに、なけなしの貯金をはたいてしまうのである。それからまた、カチェリーナは世の中のすべてから見放されたような気のする今この時、これを機会として、『とるに足らぬ、けがわらしい間借り人たち』に、彼女が『世の中のしきたりや、接待のしかた』を知っているばかりでなく、第一、こうした境遇を送るために育てられたのとはまるで違う、『りっぱな、貴族といってもいいくらいな大佐の家庭』に人となったので、自分で床を掃いたり、夜中に、子供のぼろを洗たくしたりするように、しつけられてきたのではないということを、見せてやりたいと思った――こういう解釈も真実に近いような気がする。こうした矜持《きょうじ》と虚栄の発作《ほっさ》は、時おり非常に貧しい、生活に打ちのめされた人々をも訪れて、どうかするといらだたしい、矢もたてもたまらぬ要求に変じるものである。しかも、カチェリーナはその上、けっして打ちのめされた人間ではなかった。彼女は境遇のために殺されたかもしれないけれど、精神的に打ちのめされる[#「打ちのめされる」に傍点]こと、つまり、おどしつけて屈服《くっぷく》させられることは、ありえないのだった。ソーネチカが彼女のことを、頭がめちゃめちゃになりかかっているといったのは、十分根拠のあることである。もっとも、確かに絶対にそうだとはまだいえなかったけれど、最近この一年間に、彼女のあわれな頭はあまりに悩まされ通してきたので、いくらか変調をきたさざるをえなかった。医者の言葉によると、肺病の劇烈《げきれつ》な症状|亢進《こうしん》も、やはり知的能力の混乱に影響するとのことである。
 酒類[#「酒類」に傍点]はわざわざ複数で表現するほど、いろいろ種類があったわけでもない。マディラ酒[#「マディラ酒」に傍点]も同様である。それは、誇張にすぎないが、しかし酒はあった。ウォートカ、ラム酒リスボンぶどう酒などで、品質は思いきり下等なものながら、量はいずれも十分にあった。食い物のほうは、聖飯《せいはん》のほかに二、三の料理があったが、(その中にはプリン(薄焼きのパンケーキ)もまじっていた)それはみなリッペヴェフゼルの台所から運ばれたのである。そのうえに食後の茶とポンス酒のために、サモワールが一時に二つも用意された。買い出しのほうはカチェリーナ自身がどういうわけか、リッペヴェフゼル夫人のところに居候している、みじめなポーランド人を助手にしてとり仕切った。この男はすぐさま走り使い用にカチェリーナのもとへさし向けられて、一生けんめいに犬のように舌を吐き吐き、しかもそれを人目に立てようとつとめながら、きのう一日と今朝いっぱいかけまわった。そしてくだらない、ちょっとした用でも、のべつカチェリーナのとこへ相談にかけつけたり、マーケットまで追っかけて捜しに行きなどして、ひっきりなしに彼女を『パニ・ホルンジナ(少尉夫人)』と呼びかけるので、初めのうちこそ、この『まめな親切な』人がなかったら、自分はとほうにくれていたとこだ、などといっていた彼女も、しまいには閉口してうんざりしてしまった。
 いったいカチェリーナの性分《しょうぶん》は、だれでもかれでも手当たりしだいの人をつかまえて、この上もなくりっぱな輝かしい色に塗りあげ、人によってはきまりわるくなるほど性急に賞《ほ》めちぎるくせがあった。そして相手を賞めたい一心で、てんでありもしないことまで考え出して、自分でも心からまじめにそれをほんとうのことと信じてしまう。ところが、あとでとつぜん一時に幻滅を感じて、つい何時間か前までは文字どおりに崇拝しきっていた人とけんかをして、つばを吐きかけて突き出してしまう、というようなふうであった。彼女は生来、笑いじょうごの快活で穏やかな質《たち》であったが、つづく不幸と失敗の結果、すべての人が平和と喜びの中に暮らして、それ以外の生活など考えもしない[#「考えもしない」に傍点]ようにという願望をあまり激しく持ちすぎるばかりか、それを要求するほどになったので、生活上のごくなんでもない不調和や、ほんのちょっとした失敗でも、ほとんど狂憤の状態に彼女を突き落とした。今までこの上もなく輝かしい希望と空想をいだいていたかと思うと、たちまち運命をのろいながら、手当たりしだいのものを引き裂いたり、投げつけたり、壁に頭をぶっつけたりするようになる。アマリヤ・イヴァーノヴナ(リッペヴェフゼル)もどうしたわけか、急にカチェリーナから、ひとかたならぬ信頼と尊敬をかちえたひとりである。それはただこの法事が企てられた時、アマリヤが衷心《ちゅうしん》からいっさいのめんどうを見ようと腹を決めた、その辺からきているらしかった。彼女は食卓の支度から、テーブル・クロースや食器その他の工面をはじめ、自分の台所で料理を作ることまで引き受けた。カチェリーナはいっさいの全権を彼女にゆだね、るすのことを万事頼んで、自分は墓地へ出かけたのである。
 じっさい、何もかもりっぱに準備ができた。テーブルはさっぱりとクロースでおおわれた。食器、フォーク、ナイフ、さかずき、コップ、茶わん、これらのものはむろん、いろんな間借り人から借りあつめたので、形も大きさもちぐはぐではあったが、とにかく一定の時間には、それぞれおのおのの場所にならんでいた。で、アマリヤはりっぱに役目をしおおせたと感じながら、黒の服に新しい喪章をつけた室内帽子をかぶり、大めかしにめかしこんで、やや得意げに帰って来た人たちを出迎えた。この得意さは当然なものであったにかかわらず、なぜかカチェリーナの気に入らなかった。『まるでアマリヤ・イヴァーノヴナがいなくちゃ、テーブルの支度もできない、といったような顔つきだよ、ほんとに!』それから新しいリボンのついた帽子も、やはり気に入らなかった。『ひょっとしたら、このばかなドイツ女は自分がお主婦《かみ》さんだのに、困っている間借り人をお慈悲で助けてやるんだなどと、鼻にかけているんじゃないかしら? お慈悲で! とんでもないことですよ! カチェリーナ・イヴァーノヴナの父親は大佐で、ほとんど知事に匹敵《ひってき》するくらいなんですからね。時には四十人分からの食卓を用意したこともありますよ。だから、どこの馬の骨ともしれないアマリヤ・イヴァーノヴナなんか――じゃなかった、リュドヴィーゴヴナといったほうがいいのだ――そんな人間なんか台所へだって入れてもらえやしませんよ……』で、カチェリーナの腹の中で、今日こそはどうでもアマリヤをやっつけて、身のほどを思い知らせてやろう、でないと、どこまで増長するか知れやしないと、内々決心はしていたけれど、今のところただ、そっけなくあしらっただけで、いざという時になるまでは、こうした感情は口には出すまいと、腹をきめたのである。
 それからいま一つの不快な事情も、カチェリーナをいらだたせる一部の原因をなしていた。ほかでもない、葬式の場には、墓地までついて来たポーランド人をのけると、招かれた間借り人たちがだれひとり顔を出さなかったくせに、法事には、つまり振舞いのほうには、ごくつまらない貧乏たらしい、まるで人並みでないようなかっこうをしたやくざな連中が、ぞろぞろやって来たことである。しかも、彼らの中で少しは年功もあり、地位もあるような連中は申し合わせたように、みんなすっぽかしてしまった。たとえば、間借り人の中で一ばん地位のありそうな、ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンなどが、顔を出していなかった。しかもカチェリーナは昨日の晩、世界じゅうの人を向こうにまわして、つまりアマリヤだの、ポーレチカだの、ソーニャだの、ポーランド人だのをつかまえて、あの高潔無比で寛大この上もない紳士は、もと彼女の先夫の友人だった人で、彼女の父の家に出入りしたこともあり、広く各方面に縁故があるので、彼女に相当な年金がさがるように、あらゆる手段を講じてやると約束してくれたと、さんざん吹聴《ふいちょう》したのである。ここで注意しておくが、カチェリーナはよし他人との関係や、状況をじまんするようなことがあっても、それはいっさいなんの利害観念も利己的打算もあるのではなく、まったくの無心無欲で、いわば感情のあふれ出るままに、ただもう人のことをよくいいたい、そして相手に一段の価値を添えたいという、そうした自己満足から出ていたのである。ルージンにつづいては、たぶん『そのまねをした』のだろう、『あのいやな、やくざ者のレベジャートニコフ』も顔を出さなかった。この男などはいったい自分をなんと心得ているのだろう? この男こそほんのお慈悲で招待してやったのではないか。それも、ルージンと同じ部屋に住んで、その知り合いでもあるので、招待しないのもぐあいが悪かったから、というまでのことだ。それから、とう[#「とう」に傍点]のたった娘を連れている痩せた夫人も来なかった。それはアマリヤの貸間へ来てから、やっと二週間にしかならないのに、マルメラードフ一家の部屋で――ことに故人が酔っぱらって帰って来たときに――起こる騒ぎや叫び声にたいして、もう何度か苦情を持ち込んだことがある。この話はむろん、もうとっくにアマリヤを通じて、カチェリーナの耳にはいっていた。というのは、彼女がカチェリーナと口論して、家族ぜんぶを追い出してやるとおどしたついでに、お前さん一家が『お前さんたちなど足もとにも及ばぬりっぱな間借り人』に迷惑をかけて困ると、ありったけの声でわめいたことがあったからである。それでカチェリーナはいまわざわざ、自分など『足もとにも及ばぬ』この夫人と娘を招待したのである。ことにこれまで偶然出会うたびに、その夫人が高慢らしく顔をそむけていたのだから、なおさらのことである――つまり、彼女はその夫人に、『自分たちは考えかたも感情も、あなたがたより高尚《こうしょう》で、恨みを忘れて招待する』ということを思い知らせ、またカチェリーナがこうした浅ましい生活になれた人間でないことを、見せつけてやろうというのであった。この点は食事の間に、亡父の知事|云々《うんぬん》のことといっしょに、彼らに説明してやらなければならない。それと同時に、途中で会ったとき、なにも顔をそむけることはない、そんなことはばかばかしい話だということを、それとなくほのめかしてやるはずであった。まだそのほかに、太った陸軍中佐(じつは退職の二等大尉)もやって来なかった。が、これはもう昨日の朝から『酔っぱらって足が立たない』でいることがわかった。
 要するに、出席したのはただポーランド人と、あぶらじみた燕尾服《えんびふく》を着て、いやなにおいをさせる、あばたづらの、無口で貧弱な腰弁《こしべん》と、それからもうひとり、昔どこかの郵便本局に勤めていたが、いつの昔からかなんのためともわからず、だれかの情けでこのアマリヤの貸間に置いてもらっている、つんぼでほとんど盲目《めくら》同然の老人くらいなものだった。それからいまひとり酔っぱらいの退職中尉がいたが、これもじつは糧秣局《りょうまつきょく》の役人で、無作法きわまる傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な笑い声を立てる男で、しかも『どうだろう』、チョッキもつけていないのである! また、だれやらえたいもしれぬひとりの男は、カチェリーナにあいさつもしないで、いきなりテーブルに着いてしまった。それから最後に、ひとりの女が、着物の持ち合わせがないので、寝間着《ねまき》のままではいって来ようとしたが、それは、あまりといえばあんまり無作法すぎるので、アマリヤとポーランド人が骨を折って、やっと外へ引っぱり出した。もっともポーランド人は、アマリヤの貸間にはかつて住んだこともなく、ここではだれもついぞ見かけたことのない、仲間のポーランド人をふたりつれて来た。それやこれやがいっしょになって、カチェリーナをたまらなく不愉快にいらいらさせた。『こんなことなら、だれのために、あんな支度をしたのかわかりゃしない!』場所にゆとりをつけるために、子供たちはたださえ部屋じゅうをふさいでいるテーブルにつかせず、後ろの片すみで、箱の上に布をかけてすわらせた。しかも、ふたりの小さい子供をベンチにかけさせたので、ポーレチカは姉の役目で、ふたりの世話をし、ものを食べさせてやったり、『上品な子供らしく』ふたりの鼻をかんでやったりしなければならなかった。
 ひと口にいえば、カチェリーナはわれともなく常にもまして尊大な、むしろ傲慢《ごうまん》といってもいいくらいの態度で、一同を迎えなければならなかった。中でも二、三のものには、まずいかつい目つきでじろじろ見まわしたのち、高飛車に着席をこうた。カチェリーナはどういうわけか、すべての不参者にたいする責任は、ことごとくアマリヤが負うべきものと考えたので、急にひどく彼女にぞんざいな態度を取りだした。すると、こちらはすぐにそれを気《け》どって、これまた、はなはだ感情をそこねてしまった。こうした発端は無事な結末を予想させるはずがない。やがて一同は席についた。ラスコーリニコフは、皆が墓地から帰って来たのと、ほとんど同時にはいって来た。カチェリーナは彼の出席を心から喜んだ。第一、彼は来客一同の中で唯一の『教養ある客』だし、それに『人も知るとおり、二年後には、ここの大学で教授の講座を占めるはず』だからである。第二には、彼がすぐさま丁重な言葉で、なんとか葬儀に参列しようと思いながら、その意をはたすことができなかったと、詫びをいったからである。カヂェリーナは彼に飛びつくようにして、自分のすぐ左手にすわらせた(右手にはアマリヤが腰をおろした)。彼女は、料理が順序よく運ばれてみんなに行きわたるよう、のべつ気をくばったり、やきもきしたりした。そのうえ、この二、三日ことに根づよくなったらしい苦しげなせきが、絶えず彼女の声をとぎらせ、のどを締めつけるにもかかわらず、ひっきりなしにラスコーリニコフに話しかけて、なかばささやくような声で、胸にたまった感情や、法事が失敗に終わった不満などを、性急に吐き出そうとするのであった。けれども、その不満はまた出しぬけに、ここに集まっている客たち――それも主として当の主婦にたいする嘲笑《ちょうしょう》――さも愉快そうにこらえきれない嘲笑に入れ替わるのであった。
「何もかも、この郭公鳥《かっこうどり》のせいでございますよ。わたしがだれのことをいってるかおわかりになりまして? あの女のことですよ。あの女の!」とカチェリーナは主婦のほうをあごでしゃくって見せた。「まあ、あれをごらんなさい。あんな大きな目をして、わたしたちがあの女のことを話してると感づいたんですよ。でも、なんのことだかわからないものだから、目の玉ばかりむき出してるんですよ。ちぇっ、ふくろうだ! は、は、は!………ごほん、ごほん、ごほん! いったいあの女はあの帽子がどうだというんだろう! ごほん、ごほん、ごほん! あなた気がおつきになりまして? あの女はね、しじゅう自分がわたしを保護してるので、この席に出るのはわたしにとって光栄なのだ、とこういうふうに皆さんに思われたくってたまらないんですよ。わたしはあの女をしっかりした人だと思ったものですから、少しは気のきいた人たちを、つまり故人の知り合いだけを招待してくれと頼んだのに、まあごらんなさい、なんて連中を引っぱって来たんでしょう! なんだか道化みたいな者ばかり! けがらわしいったらありゃしない! ちょっと、あのうすぎたない顔をした男をごらんなさい。二本足をはやした、かさぶたのお化けじゃありませんか! それからあのポーランド人たち……は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん! だれひとり、だれひとり、あんな者を一度もここで見た人はないんですよ。わたしだって、あとにも先にも見たことはありゃしない。ねえ、いったいなんだってあんな連中がやって来たんでしょうね。ほんとにお尋ねしたいくらいですよ。お行儀よく並んですわってること。パーネ(あなた、もし)!」彼女はふいにそのひとりに呼びかけた。「あなたプリン(薄焼きのパンケーキ)をお召しになりましたか? もっとお取んなさいまし! ビールを召しあがれ、ビールを! ウォートカはいかが? まあ、ごらんなさい、飛びあがってぺこぺこおじぎをしていますわ。ごらんなさい、ごらんなさい、きっとひもじくてたまらないんですよ。かわいそうに! なに、かまやしません、少し食べさせてやりましょう。まあ、とにかく乱暴しないんですからね。ただ……ただ、わたしはまったく主婦《かみ》さんの銀さじが心配ですの!………アマリヤ・イヴァーノヴナ!」と彼女は出しぬけに主婦のほうへふり向き、ほとんど皆に聞こえるような声でいった。「もし、ひょっとあなたのさじが盗まれても、わたしは責任を持ちませんからね、まえもってお断わりしておきますよ! は、は、は!」と、彼女はまたラスコーリニコフのほうへ向き直って、またもや主婦のほうをあごでしゃくり、自分の奇抜《きばつ》な思いつきをよろこびながら、からからと高笑いをした。「わからないんだ、まだわからないんだ! 口をぽかんとあけてすわってる様子ったら、ごらんなさい、ふくろうですわ、正真正銘のふくろうですわ、新しいリボンをつけた雌ふくろう、は、は、は!」
 その時またもやこの笑いは、絶え入るようなせきにさえぎられ、それが五分もつづいた、ハンカチには血のあとが残り、額には汗の玉がにじみ出た。彼女は無言でラスコーリニコフに血を見せた。そして、やっと息がつけるようになると、もうさっそく無性に元気づいて、赤いしみをほおに浮かべながら、ひそひそ彼にささやき始めた。
「まあ、どうでしょう、わたしはあの女に、あの奥さんと娘を呼んでくれるようにって(だれのことかおわかりになるでしょう)、いわばごくデリケートな使者を頼んだんですよ。なにしろ、そういう場合には、それこそデリケートな態度で、うんとじょうずに話をしなければならないのに、あの女のやりかたがまずいものだから、あのよそ者のばか女が、あの高慢ちきなげす女が、あのやくざな田舎者が、ただ来ないことに決めてしまったばかりか、こういう場合ごく普通な礼儀になっている断わりさえ、いってよこさないんですよ! それも自分がどこかの少佐の未亡人で、年金の運動をするためにやって来て、お役所にお百度を踏んで、そのうえ、もう五十五にもなるというのに、眉《まゆ》を描いたり、白粉《おしろい》をつけたり、口紅をさしたりする(これはもうだれでも知っていますよ)、そのためなんですからね! それから、ピョートル・ペトローヴィチがなぜ来てくださらないのか、わけがわかりませんわ。それはそうと、ソーニャはどこにいるんだろう? どこへ行ってしまったんだろう? ああ、そういってるところへあの娘《こ》がまいりました、やっとのことで! どうしたの、ソーニャ、どこへ行ってたの! ほかならぬお父さんのお弔《とむら》いだというのに、そんなにだらしなくしてちゃおかしいじゃないの。ロジオン・ロマーヌイチ、どうぞこの娘《こ》をあなたの隣へ掛けさせてやってくださいまし。さあ、ここがお前の席だよ、ソーネチカ……なんでも好きなものをお取り。まあ魚の煮こごりでもお取りな、それがいいよ。いまプリンを持って来るからね。それはそうと、子供たちにはやったかしら。ポーレチカ、お前たちのほうには、皆あるかえ? ごほん、ごほん、ごほん! ああ、よしよし。いい子をしてるんですよ、リョーニャ、それからお前、コーリャ、足《あんよ》をばたばたさせるんじゃありませんよ。坊ちゃんらしくお行儀よくすわってらっしゃい。え、なんだって、ソーネチカ?」
 ソーニャはさっそく大急ぎで、みんなに聞こえるように苦心しながら、自分が当人に代ってこしらえあげて、しかもその上に修飾を施した選《え》りぬきの丁重な言葉づかいで、ルージンの謝辞を彼女に伝えた。それからまた、ルージンがじきじきさし向かいで用件[#「用件」に傍点]の話をしたり、今後とるべき方法についてうち合わせもしたいしするから、暇ができしだい、さっそくおたずねするという伝言をも申し添えた。
 ソーニャは、この報告がカチェリーナの心をやわらげ、落ちつかせるばかりでなく、その自尊心を喜ばせ、かつ何よりもその誇りを満足させるにちがいないということを、よく承知していた。彼女はラスコーリニコフのそばに腰をおろすと、あわただしく彼におじぎをして、ちらと好奇の視線を投げた。もっとも、それからあとはずっとしまいまで、彼のほうを見ることも口をきくことも、妙に避けるようにしていた。彼女はカチェリーナのきげんをとるために、その顔ばかり見ていたが、なんとなく放心したような様子だった。彼女もカチェリーナも、着物の持ち合わせがないために、喪服をつけていなかった。ソーニャは何やら肉桂《にっけい》色のじみなものを着ていたが、カチェリーナは一張羅《いっちょうら》のじみなしま更紗《さらさ》の服を身にまとっていた。ルージンにかんする報告は、するすると無事に、なめらかに通過した。ものものしくソーニャの言葉を聞き終わったカチェリーナは、同じくものものしい口調《くちょう》で、ピョートル・ペトローヴィチのごきげんはどうかと尋ねた。それからすぐ、ほとんど聞こえよがしに、よしルージンが彼女一家に深い信服の念をいだき、彼女の父親と古い友情こそあるにしても、ああいう尊敬すべき、れっきとした紳士が、こんな『とっぴな一座』に仲間入りなどしたら、まったく奇怪千万なことだったろうと、ラスコーリニコフにささやいた。
「こういうわけですからね、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたが、こんなていたらくなのもおいといなく、こんな心ばかりのおもてなしを、快く受けてくださいましたのを、かくべつありがたくぞんじているのでございますよ」と彼女はかたり大きな声でいい添えた。「もっとも、あの気の毒な主人と、ああまで親しくしてくださったればこそ、お約束を守ってくださいましたこととはぞんじますが」
 それから彼女はもう一度|傲然《ごうぜん》と、品位にみちた態度で、客一同を見まわしたが、ふいにとくべつ主婦らしい心づかいを見せながら、テーブルごしにつんぼの老人のほうへ向いて、『焼き肉をあがりませんか、リスボン酒はおつぎしましたかしら?』と大きな声で問いかけた。老人は返事をしなかった。隣席の人たちがおもしろ半分に、そばからつついたりしたけれど、何を問われたのか長いこと合点《がてん》がいかなかった。彼は口をぽかんとあけたまま、あたりを見まわすばかりだった。それがまたよけい一座のうきうきした気分に油をかけた。
「まあなんてとんまだろう! ごらんなさい! いったいなんのためにあんな人を引っぱって来たんでしょう? ところで、ピョートル・ペトローヴィチのことは、わたしいつも信用しきっていたんですよ」とカチェリーナはラスコーリニコフに向かって言葉をつづけた。「そりゃむろん、比べものになりませんさ……」彼女はこう鋭く声高にいって、ふいに恐ろしくいかつい顔をしながら、アマリヤのほうへ向き直った。こちらはその剣幕《けんまく》におじけづいたくらいだった。「まったく、あのふたりみたいなお高くとまったお引きずりとは、比べものになりゃしませんよ。だいたいあの母娘《おやこ》なんか、わたしの父だったら、台所の料理女にだって雇うことじゃありません。まあなくなった夫《たく》なら、ああいう底の知れない善人ですから、採用の光栄を授けてもやったでしょうけれどね」
「さよう、一杯やるのがお好きでしたな。これが好物でしたな。なかなかいけるほうで!」と、十二杯目のウォートカを乾しながら、糧秣官吏の古手《ふるて》が出しぬけにわめいた。
「なくなった主人は、なるほど、そういう欠点を持っておりました。それはもう世間にも知れていることです」とカチェリーナはいきなりその男に食いさがった。「けれど、主人は人がよくて潔白な性質で、自分の家族を愛しもし、尊敬もしておりました。ただ一ついけなかったのは、人がいいために、そんじょそこらの放埒者《ほうらつもの》をいちいち信用して、まるでえたいの知れないような人とでも、自分のくつ底だけの値うちもない人とでも、いっしょにお酒を飲んだことですの! でもね、ロジオン・ロマーヌイチ、まあどうでしょう、あの人のポケットに、鶏の形をした薑餅《しょうがもち》がはいってたんですよ。死人のように酔っぱらって歩いていても、子供のみやげは忘れなかったと見えましてね」
「にわーとーり? あなた、にわーとーりとおっしゃったんですか」と糧秣官吏がどなった。
 カチェリーナはそれにはてんで返事もしてやらなかった。彼女は何やら考えこみ、ほっとため息をついた。
「ねえ、あなたもやはりみんなと同じように、わたしがあの人をきびしく扱いすぎたとお考えなさるでしょうね」と彼女はラスコーリニコフに向かって言葉をつづけた。「ところが、それはまちがいなんでございますよ! 主人はわたしを尊敬してくれました。それはそれは尊敬してくれました! 優しい心の人でしたからねえ! ですからどうかすると、あの人が気の毒でたまらなくなることがありました! よくじっと腰かけたまま、すみっこのほうから、わたしの顔色を見ておりましたが、そんな時には気の毒でたまらなくなって、優しくしてあげようかとも思いますけれど、すぐ心の中で、『いやいや、優しくしたら、また酔いつぶれてしまうだろう』と思い直したものです。ただやかましくいっておれば、多少でも引きしめることができたんでね」
「さよう、よく横びんをむしられたことがありましたなあ、一度や二度でなく」とまたもや糧秣官吏はわめいて、ウォートカをもう一杯、口の中へ流し込んだ。
「横びんをむしるどころじゃありません、どうかしたばか者なんか、箒《ほうき》でしまつしてやったほうが、よっぽどためになりますよ。ですが、これはもう主人のことをいってるんじゃありませんよ!」とカチェリーナは断ち切るように、糧秣官吏に一矢《いっし》むくいた。
 彼女のほおの赤いしみはますます濃くなり、胸は大きく波うっていた。いま一分もしたら、彼女はもうひと騒動もちあげかねない有様だった。多くの者はひひひひと笑った。彼らはそれがおもしろいらしかった。みんなは糧秣官吏を突っついて、何やら彼の耳へささやきだした。明らかにふたりをかみ合わそうというたくらみらしい。
「なあんですって、あなたはいったい、だれのことをおっしゃるんです?」と糧秣官吏はやりだした。「つまり、だれの……だれさまのことを当てつけて……あなたは今……だが、まあ、どうでもいい! くだらないことだ! 後家《ごけ》さんなんだからな! 未亡人なんだからな! 許してやろう………パス(中止)だ!」
 こういって、彼はまたウォートカをごくりとあおった。
 ラスコーリニコフは黙って腰かけたまま、嫌悪《けんお》の念を感じながら、これらの話を聞いていた。彼はただほんの礼儀を守るために、カチェリーナがひっきりなしに皿《さら》へ取ってくれる料理に手をつけていたが、それもカチェリーナの気を悪くしないためである。彼はじっとソーニャの顔に見入っていた。ソーニャはだんだん不安になり、ますます気のもめる様子だった。彼女もやはり、この法事が穏やかな結末を見ないのを予感していたので、恐怖の念をいだきながら、しだいに募っていくカチェリーナの興奮に注意していた。彼女はなぜ田舎出の夫人と娘が、カチェリーナの招待を、ああまでぶしつけに無視してしまったか、そのおもな原因を知っていた。それはほかならぬ彼女ソーニャなのである。彼女はアマリヤの口から、母親のほうがかえってこの招待に腹を立て、『どうしてわたしはあの女[#「あの女」に傍点]と、自分の娘をいっしょにすわらせることができると思います?』とさかねじを食わせた話を聞いたのである。ソーニャはこの話がどうかして、カチェリーナの耳にもはいっているものと感じた。ところで、彼女ソーユヤに加えられた侮辱《ぶじょく》はカチェリーナにとって、彼女自身やその子供たち――いな、父親に加えられた侮辱よりも、もっと重大な意味を持っていた。つまり、手っとり早くいえば、致命的の侮辱だったのである。で、いまとなったら、もはやカチェリーナは、『あの引きずり女どもに、ご当人がどんな人間か思い知らせないうちは』、けっして落ちつきそうもない、それを、ソーニャはよく知っていた。しかもちょうど、わざとねらったように、テーブルの一方の端から、だれかしらソーニャのところへ、矢につらぬかれた二つの心臓を黒パンで作り、それを皿にのせてまわしてよこした。カチェリーナはかっとなって、さっそくテーブルごしに大きな声で、それをまわしてよこしたものは、むろん『酔っぱらいのろばに相違ない』といった。やはり何かよくないことを予感すると同時に、カチェリーナの高慢な態度に真底《しんそこ》から業《ごう》を煮やしていたアマリヤは、一座の不快な気分をほかへそらせ、かつ同時に、みんなに自分を認めさせようと思って、なんのきっかけもなく出しぬけに、『薬屋のカルル』という彼女の知り合いが、夜つじ馬車に乗って行ったところ、『御者《ぎょしゃ》がその男を殺しかけました。カルルは御者に殺さないでください、とたいへん、たいへん頼みました、泣きました、手を合わせました。そして、びっくりして恐ろしくって、心臓を突き刺されたような気がしました』という話を始めた。カチェリーナもにやりと笑いはしたものの、すぐそのあとで、アマリヤ・イヴァーノヴナなんかはロシヤ語でしゃれた話をするがらじゃない、と注意した。こちらはよけいに腹を立てて、『わたしのファーテル(父)はアウス・ベルリン(ベルリンでも)たいへん、たいへん、えらい人で、いつも手をポケットに入れてまわっていました』(ロシヤ語ではすりを働く意味になる)といい返した。笑いじょうごのカチェリーナはがまんしきれず、腹をかかえながらからからと笑った。で、アマリヤもとうとう堪忍ぶくろの緒《お》を切らしかけたが、やっとのことで、押しこたえた。
「ほら、まったくふくろうでしょう!」カチェリーナは浮かれださないばかりの様子で、すぐまたラスコーリニコフにささやき始めた。「あの女は、手をポケットに入れて歩いてた、といいたかったんですが、手を人のポケットに突っ込んでまわったことになっちまったんですよ、ごほん、ごほん! ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなた気がおつきになりませんか? このペテルブルグにいる外国人、といって、つまりおもに、どこから集まって来るんだかえたいの知れないドイツ人なんですけれど、そろいもそろって、わたしたちよりばかばかりなんですよ! 必ずきまってそうなんですの。ねえ、そうじゃありませんか、『薬屋のカルルが恐ろしくって、心臓を突き刺された』だの、その男が(鼻たれ小僧が!)御者をふん縛ってやろうともしないで、『手を合わせました、泣きました、たいへん頼みました』なんて、お話にもならないじゃありませんか、ちえっ、なんておたんちんでしょう!そのく[#「ょう!その」はママ]せ当人は、これがとてもおもしろい話みたいに思って、自分がどんな大ばかか、夢にも考えてみないんですからね! わたしにいわせると、この酔っぱらいの糧秣官吏のほうが、まだしもずっと利口ですよ。とにかく、なけなしの分別まで飲んでしまった道楽者だってことが、ちゃんとわかってますからね。ところで、あの連中のぞろいもそろってお行儀がよくって、まじめなこと……おや、ふくろうさんがつんとして、目を丸くしている。怒ってるんだ! 怒ってるんだ! は、は、は! ごほん、ごほん、ごほん!」
 すっかり浮かれてしまったカチェリーナは、すぐに夢中で、いろいろくわしい身の上話を始めたが、ふと出しぬけに、年金が手にはいったら、それを元手《もとで》に必ず故郷の町で、良家の子女を収容する寄宿学校を創立するつもりだ、といいだした。このことはまだカチェリーナ自身の口から、ラスコーリニコフに話してなかったので、彼女は魅力に富んださまざまなデテールに、すっかり夢中になってしまった。いつの間に、どうしてだかわからないが、例の『賞状』が彼女の手に現われた。それはなくなったマルメラードフが、いっそや酒場でラスコーリニコフをつかまえて、妻のカチェリーナが学校を卒業するとき、『知事やその他の人たちの前で』ショールの舞いをまったことを話したとき、彼に吹聴《ふいちょう》した賞状なのである。この賞状はいうまでもなく、こんど寄宿学校を設立するにあたって、カチェリーナの資格を証明することになるわけらしかった。が、何よりかんじんなのは、『母娘《おやこ》の高慢ちきなお引きずり』が、法事の席につらなった場合に、ふたりをぐうの音《ね》も出ないようにやっつけて、カチェリーナが非常に素姓《すじょう》のいい、『貴族といってもいいくらいな大佐の家に生まれた娘で、近ごろやたらにふえてきた女山師にくらべると、確かにずっと気がきいている』ということを、はっきり証明しようという目算で、用意してあったのである。賞状はさっそく酔った客たちの手から手へわたり始めた。カチェリーナもべつにそれを止めようともしなかった。それには彼女が七等官で帯勲者《たいくんしゃ》の娘だということが、りっぱに、en tou tes lettres(まちがいなく)うたってあるので、したがって、まったく大佐(大佐は五等官相当)の娘といっても、ほとんど変わりないからである。うちょうてんになってしまったカチェリーナは、T市における未来の美しい、平安な暮らしを、さっそくこと細かにくわしく話しだした。寄宿学校の教授に招聘《しょうへい》する中学教師のことや、まだカチェリーナ自身が学校時代にフランス語を習ったマンゴーという尊敬すべきフランスの老人のことや、その老人は今でもT市に余生を送っているので、俸給《ほうきゅう》も折り合いのいいところで、きっと来てくれるに相違ない、というようなことである。ついに話はソーニャのことに及んだ。『この娘《こ》はわたしといっしょにT市へ行って、そこ』で万事わたしの手助けをするのです』ところが、そのときふいに、だれかテーブルの端のほうで、ふっと吹き出した。カチェリーナは急いでさも軽蔑したように、テーブルの一端で起こった笑い声には、気も止めないふりをしようと努めたが、すぐにわざと声を高めて、ソフィヤ・セミョーノヴナが彼女の助手として、疑いもなく十分な才能を持っていることだの、『彼女がおとなしくて、忍耐《にんたい》づよく、自己犠牲の精神に富んで、潔白で教育がある』ことなどを、むきになって話しだした。そしてソーニャのほおを軽くたたきながら、ちょっと腰を浮かし、彼女に二度も熱い接吻《せっぷん》を与えた。ソーニャはまっ赤になったが、カチェリーナは急にわっと泣きだした。そして、自分で自分のことを、『わたしは神経の弱い、ばかな女で、興奮しすぎてからだの調子が変になってしまった、もうそろそろ切りあげなければならない。それに食べるものも片づいてしまったから、もうお茶でも出したらよかろう』といった。
 ちょうどこの時、だれの話にもてんで仲間入りができず、自分のいうことをだれにも聞いてもらえなかったので、すっかり憤慨してしまったアマリヤが、ふいに最後の試みと一つの冒険を企てた。彼女はカチェリーナに向かって、こんどできる寄宿学校では、ディ・ヴェーシェ(娘)たちの肌着が清潔《きれい》なように、とくべつ注意をはらって、『必ず皆の肌着によく気をつける、しっかりしたディ・ダーメ(婦人)をおかなけりゃならない』、第二には『すべて年ごろの娘たちがよる夜中、いっさい小説などを隠れ読みなどしないように』しなければならない、とまことにもっとも千万な、意味深長な注意をした。じっさいからだの調子が変になって、もう接待もいやになっていたカチェリーナは、即座に、『愚にもつかぬことばかりいっている』あなたなんかには、なんにもわかりゃしないのだ、ヴェーシェ(娘)の肌着の心配などは衣服がかりの仕事で、りっぱな女学校の校長のすることではない、また小説の隠れ読み云々《うんぬん》のことは、それはもうまったく無作法というもので、どうか黙ってもらいたいと、きっぱり『とどめを刺し』た。アマリヤはまっ赤になって、さも憎々しそうに、わたしはただ『ためを思っていったのだ』、わたしは『たいへんたいへん、ためを思っていったのだ』、おまけに『あんたはもうずっと前からゲルト(銭)も払わないじゃないか』とやり返した。カチェリーナはすぐそれにたいして、『ためを思っていった』なんてうその皮だ、げんについ昨日まだ故人の遺骸《いがい》がテーブルの上にのせてあるのに、家賃の催促で自分を苦しめたではないかと『やり込め』た。これを聞くと、アマリヤは恐ろしい順序だった論法で、わたしは『あの夫人|母娘《おやこ》を招待したが、夫人たちは来なかった、だってあの母娘は素姓の正しい人たちなので、素姓の卑しい女のところへは来られないのだ』といってのけた。カチェリーナはすかさずその言葉じりを押えて、お前さんなんかげす女だから、どんなのがほんとうに正しい素姓なのか判断ができないのだ、と『やっつけた』。アマリヤはたまりかねて、すぐにまたもや『わたしのファーテル(父)はベルリンでもたいへん、たいへんえらい人で、両手をポケットに入れてまわっていた、そしていつもこんなふうにプーフ! プーフ! やっていた』と声明した。おまけに、自分のファーテルをいっそうまざまざと現わして見せるために、いすからおどりあがって、両手をポケットに突っ込み、ほおをふくらませて、プーフ! プーフという音に似るように、口で何かあいまいな響きを出し始めた。すると間借り人一同はどっとばかりに笑いくずれ、つかみ合いのけんかを予想しながら、わざとアマリヤをおだてた。しかし、カチェリーナも、これだけはがまんしきれなくなり、いきなり皆に聞こえるように、アマリヤにはファーテルなんてまるでありゃしない、アマリヤはペテルブルグをうろうろした飲んだくれのフィンランド女で、以前はきっとどこかの女中奉公か、まかりまちがえば、もっと悪い商売をしていたにちがいないと、『ずばりといってのけた』。アマリヤはえび[#「えび」に傍点]のように赤くなって、それはたぶん、カチェリーナこそ『まるでファーテルがなかったろうが、わたしのファーテルはアウス・ベルリン(ベルリンに)あって、こんなに長いフロックを着こみ、しじゅうプーフ、プーフ、プーフ! やっていた』と、かなきり声を立てた。カチェリーナはさも軽蔑したように、彼女の出生はだれでもが知っていることで、げんにこの賞状にも、彼女の父が大佐だったことがちゃんと活字で印刷してある。ところが、アマリヤの父は、『もし何か父親というものがあったとすれば』、きっと牛乳でも行商していたペテルブルグのフィンランド人だったに相違ない。が、まあ父親などてんでなかったというのが、一ばん確かなところらしい。今日までアマリヤの父称がイヴァーノヴナだか、リュドヴィーゴヴナだか、よくわからないのが何よりの証拠ではないか! といった。その時アマリヤはすっかりかんかんになって、げんこでテーブルをたたきながら、わたしはアマリヤ・イヴァーノヴナで、リュドヴィーゴヴナではない、わたしのファーテルは『ヨハンといって市長をしていた。ところがカチェリーナのファーテルは一度だって市長などしたことはない』と、かなきり声でわめきだした。カチェリーナは、いすから立ちあがって、きっとそり身になり、上面《うわべ》だけは落ちついた声で(すっかり血の気《け》を失って、胸をはげしく波だたせてはいたが)、アマリヤに向かい、『お前さんがまたほんの一度でもそのやくざなファーテルと、わたしのお父さまをひとし並みに取り扱ったら、その時こそわたしは、カチェリーナ・イヴァーノヴナは、お前さんの帽子をひったくって、足で踏みにじってやる』といった。それを聞くと、アマリヤは部屋じゅうをかけまわりながら、自分は家主だから、カチェリーナに『今すぐ家を引き払ってもらおう』と、ありたけの声を絞ってわめき立てた。それから、なんのためにか、いきなりテーブルの上のさじをかきあつめにかかった。騒々しい物音と叫び声が起った。子供たちは泣きだした。ソーニャはカチェリーナをなだめようと、そのそばにかけ寄った。けれど、アマリヤが、ふいに黄いろい鑑札がどうとか叫びだしたとき、カチェリーナはソーニャを突きのけて、帽子云々のさきほどの威嚇をさっそく実行するために、アマリヤのほうへ飛んで行った。と、ちょうどこの時ドアがあいて、入口のしきいの上へ、思いがけないルージンが姿を現わした。彼はそこに突っ立ったまま、いかめしく部屋じゅうを見まわした。カチェリーナはそのそばへかけ寄った。

      3

「ピョートル・ペトローヴィチ!」と彼女は叫んだ。「せめてあなたでも、わたしの味方をしてください! あのばか女にいい聞かせてやってください。不幸にあった潔白な婦人をあんなふうに扱う法はない、そんなことをすると裁判にかかるぞといって……わたしは総督さまへじきじき……あの女はその報いを受けるんですよ……どうぞ父のお尽くししたことをおぼしめして、みなし子たちを守ってやってください」
「まあ、まあ、奥さん……まあ失礼ですが、ちょっと、奥さん」ルージンは両手で払いのけた。「あなたのお父さんとは、ごぞんじのとおり、わたしはまだ一度もお目にかかる光栄を得なかったんですから……まあ、ちょっと、奥さん!(だれやら大きな声で笑った)。それに、わたしはあなたとアマリヤ・イヴァーノヴナの際限のないけんかに、かかり合うつもりはありませんよ……わたしは自分の用で来たんですから……さっそくあなたの継娘《まなむすめ》の、ソフィヤ……イヴァーノヴナに……確かにそうでしたな?……お話したいことがありましてな。ちょっと通していただきましょう……」
 ルージンはからだを横にして、カチェリーナを避けながら、ソーニャのいる反対側のすみをさして行った。
 カチェリーナは雷にでも打れたように、そのままそこに立ちすくんだ。彼女は、どうしてルージンが父のもてなしを否定したのか、わけがわからなかった。一度このもてなしということを考え出して以来、彼女は自分でそれを神聖おかすべからざるもののように信じきっていたのである。ルージンの事務的なそっけない、侮辱的な威嚇《いかく》にみちた調子も、同じく彼女を驚かした。また一座のものも、彼が姿を現わすと同時に、なんとなくしだいに鳴りをひそめてきた。おまけに、この『事務的なまじめくさった』男は、一座の空気とあまりにもきわ立って不調和に感じられたのである。のみならず、彼が何か重大な用件があって来たということも、彼をこうした集まりへ引き出したのはよくよくのわけがなければならぬ、そうすれば、今に何か起こるにちがいない、何事かあるにちがいないということも、はっきり察しられたのである。ソーニャのそばに立っていたラスコーリニコフは、彼を通すために少しわきへ寄った。ルージンは、まるでそれに気づかない様子だった。一分ばかりたって、しきいの上ヘレベジャートニコフも姿を現わした。部屋の中へははいらなかったが、やはり一種とくべつな好奇心、というより、ほとんど驚愕《きょうがく》の表情を浮かべて、そこに立ち止まりながら、じっと耳をすましていたが、どうも何やら合点のいきかねる様子であった。
「せっかくのお楽しみの腰を折ることになるかもしれませんが、お許しを願います。しかし、事柄はかなり重大なものなんです」とルージンはとくにだれに向かうともなく、漠然とした調子で口をきった。「わたしはむしろ、皆さんがご列席なさるのを好都合なくらいに思います。アマリヤ・イヴァーノヴナ、あなたは家主という意味で、これから始まるわたしとソフィヤ・イヴァーノヴナとの話を、注意して聞いてくださるように折り入ってお願いします。ソフィヤ・イヴァーノヴナ」と彼は驚きまどっているソーニャのほうを向いて言葉をつづけた。「わたしの友人アンドレイ・セミョーヌイチ・レベジャートニコフの部屋へ、あなたがおたずねくだすったすぐあとで、わたしの所有にかかる百ルーブリ紙幣が、わたしのテーブルの上から一枚なくなったのです。もしどうかしてあなたがそれをごぞんじで、それが今どこにあるかを教えてくだすったら、わたしは名誉にかけて、またここにおられる皆さんを証人として、あなたに誓っていいますが、事はそれで済んでしまうのです。が、もしそうでなかった場合には、わたしはやむをえず非常手段に訴えなければならなくなる。その時には……あなたはもう自分を恨むよりしかたがあ