京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集9 悪霊 上』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP121-P144

は真実を直視することを恐れないからね……リプーチンはさっき、バリケードでニコラスを防げとすすめたが、あれは馬鹿なのだ、リプーチンは。女というやつは、最も透徹した眼光すら欺くからね。もちろん、le bon Dieu(かの善良なる神様)は女を造るとき、相手の何者たるやを自分でもよくごぞんじだったが、わたしの信ずるところでは、女が自分から神様の邪魔をして、自分というものを今のようなふうに……今のような属性をつけて造られてしまったのだ。さもなければ、だれがただでそんな面倒な仕事をするものかね。ナスターシヤはわたしの放埒無慚な考えを聞いたら、さぞ腹を立てることだろうね。……だが、enfin tout est dit (しかし万事了したのだ)」
 もし彼が一時流行した安価な地口式自由思想を捻り出さなかったら、彼はもう前後も忘れてしまったに相違ない。が、少なくとも、今はこのちょっとした地口でみずから慰めた。とはいえ、それも長くはつづかないのだ。
「おお、どうしてこの明後日が、この日曜日がなくちゃならんのだろう?」ふいに彼はすっかり絶望しきったように叫んだ。「どういうわけで、せめてこの一週間だけでも、日曜なしですまされないのだろう、 ――si miracle existe(もし奇蹟があるならば)、せめて無神論者どもに威力を示して、et que tout soit dit(何もかもいってしまう)ためだけにでも、たった一度の日曜日を暦から抹殺するくらい、神様にとってどれだけの労でもないじゃないか! ああ、わたしはあのひとを愛していた。二十年間、まる二十年間、しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった!」
「だれのことをいってるんです? ぼくはあなたのいうことがわかりませんよ!」とわたしはびっくりしてたずねた。
「二十年《ヴァンタン》! しかも、あのひとは一度もわたしの心を知ってくれなかった、おお、なんという残酷なことだ! いったいあのひとはわたしが恐怖や必要のために、結婚すると思ってるのか! おお、汚らわしいことだ!『小母さん』『小母さん』、みんなあなたのためですよ! ああ、あのひとに、あの『小母さん』に、ぜひこのことを知ってもらわなきゃならん。わたしは二十年間、あのひと一人だけを崇めてきたのだ! あのひとはぜひそれを知らなけりゃならん、そうしなきゃ駄目だ。そうでなかったら、むりやりにわたしを ce qu' on appelle le(いわゆる)華燭の典へ引っ張って行くも同じだ!」
 わたしは初めてこの告白、かくまで力強く表現された告白を聞いた。しかも、隠さずに白状するが、わたしは噴き出したくてたまらなかった。が、それは間違っていた。
「そうだ、あれが一人きりだ、あれがいまわたしに残された唯一のものだ、わたしの唯一の希望だ!」とつぜん思いもよらぬ想念に打たれたように、彼はふいに両手を拍った。「もう今はあれ一人きりだ。あの不仕合わせな子がわたしを救ってくれるだけだ。そして、――ああ、なぜ帰って来ないのだろう? おお、わが子よ、おお、ペトルーシャよ……わたしは父の名に値しないけれど、むしろ虎といったほうがいいくらいだけれど、しかし……laissez moi, mon ami(きみ、もうわたしをうっちゃっといてくれたまえ)わたしは少し休んで頭をまとめよう。すっかり疲れちゃった、すっかり疲れちゃった。それに、きみももう寝る時刻だろう、voyez vous(見たまえ)、十二時だよ……」

[#3字下げ]第4章 跛の女[#「第4章 跛の女」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 シャートフは別に強情も張らず、わたしの手紙に応じて、正午にリザヴェータのところへやって来た。わたしたちはほとんどいっしょに入った。わたしもやっぱり最初の訪問に出かけたのである。一同、――といっても、リーザと、母夫人と、マヴリーキイは、大広間に坐って言いあいをしていた。母夫人はリーザに向かって、何かワルツをピアノで弾くようにといいだしたが、こちらがいわれるままの曲を弾き出すと、それは別なワルツだといい張った。マヴリーキイが持ち前の正直な性質から、リーザの肩を持って、ワルツは注文どおりのものだと主張したので、老婦人は面当てがましく、手放しで泣きだしてしまった。彼女は病気して、歩くのもやっとだった。両方の足をすっかり腫らしているので、この三、四日気まぐればかり起こしては、だれにでもかれにでも食ってかかるのを仕事にしていた。もっとも、リーザにはいつも一目おいていたけれど。一同はわたしたちの訪問を心からよろこんだ。リーザは、嬉しさのあまり顔をあかくしながら、わたしに|ありがとう《メルシイ》といって(むろんシャートフを連れてきたお礼なので)、彼のほうへ近寄り、もの珍しそうに、じろじろ見廻すのであった。
 シャートフは入口のところで、不恰好に立ちどまった。リーザは彼に来訪の礼を述べたうえ、母夫人の傍へ連れて行った。
「この方がいつかお話したシャートフさん、この方はGさんといって、あたしにとっても、スチェパンさまにとっても、ごくごく親しいお友だちなんですの。マヴリーキイさんも昨日お近づきになられましたわ」
「どちらが先生なの?」
「先生なんか、てんでいらっしゃりゃしないわ」
「いいえ、いらっしゃるよ。お前自分で、先生がお見えになるといったじゃないか。きっとこの人だろう」と彼女は気むずかしい顔つきで、シャートフをさした。
「あたしお母さんに先生がいらっしゃるなんて、一度もいったことはありゃしなくってよ。Gさんはお勤めですし、シャートフさんは以前、大学の学生でいらしったんですもの」
「学生だって先生だって、やっぱり大学の人じゃないか。お前さんはただもう口返答さえすればいいんだからねえ。あのスイスの先生は口ひげもあったし、顎ひげも生やしていたね」
「母はスチェパンさまのご子息のことを、先生先生って仕方がないんですの」リーザはこういいながら、シャートフを連れて、広間の向こう側に据えてある、長いすのほうへ行ってしまった。「お母さんは足が腫れると、いつもあんなふうなんですの。おわかりでしょうけれど、病身なものですからねえ」と彼女はシャートフにささやいたが、相変わらず恐ろしい好奇の心を浮かべながら、相手の全身、――ことに頭の上にぴんと突っ立っている一房の髪毛を、じろじろ見廻すのであった。
「あなた軍人ですか?」老婦人はわたしに問いかけた。リーザは無慈悲にも、この老婦人の傍へわたしを置き去りにしてしまったのである。
「いいえ、わたしは勤めに出ていますので……」
「Gさんはスチェパンさまの大の親友でいらっしゃるのよ」とすぐにリーザが応じた。
「スチェパン・トロフィーモヴィチのところで勤めていらっしゃるんですか? だって、あの人先生でしょう?」
「まあ、お母さん、あなたはきっと夜寝てまで、先生の夢を見てらっしゃるんでしょう」とリーザがじれったそうに叫んだ。
「夢どころじゃない、本物だって見すぎるくらい見ていますよ。いったいお前はいつもいつも、お母さんに楯ついてばかりいるじゃないかえ。あなたは、四年前ニコライ・フセーヴォロドヴィチが見えたとき、ここにいらっしゃいましたか?」
 わたしはそうだと答えた。
「その時あなた方の仲間に、だれかイギリス人がおりましたか?」
「いいえ、おりませんでしたよ」
「ほらご覧、イギリス人なんか、まるでいなかったそうじゃないか、してみるとでたらめなんだね。ヴァルヴァーラさんもスチェパン・トロフィーモヴィチも、二人ともでたらめをいってるんだよ。ああ、みんなでたらめばかりいってるんだよ」
「あれはね、小母さまのせいなんですの。スチェパンさまも昨日こうおっしゃったんですの……ニコライ・フセーヴォロドヴィチは、沙翁の『へンリイ四世』に出て来る、ハーリイ王子と似たところがあるって。お母さんがイギリス人というのは、このことなんですよ」とリーザが説明してくれた。
「ハーリイがいなければ、つまり、イギリス人がいなかったことになるじゃないか。ニコライ・フセーヴォロドヴィチ一人だけが馬鹿な真似をしたのさね」
「あれはね、まったくのところ、お母さんわざとああいってるんですの」リーザはシャートフに弁解の労をとる必要を認めて、こういった。「お母さんは沙翁をよく知っていますのよ。『オセロ』の序幕なんか、あたし自分で読んで聞かせてあげたくらいですわ。だけど、いま病気が悪いもんですから……ねえ、お母さん、十二時が打ちますよ。もうお薬を召しあがる時刻ですわ」
「お医者さまが見えました」小間使が戸口に姿を現わした。
 老婦人が立ちあがって、犬を呼び始めた。
「ゼミルカ、ゼミルカ、せめてお前でも、わたしといっしょに行っておくれ」
 みすぼらしい小さな老いぼれ犬のゼミルカは、いうことを聞かないで、リーザの坐っている長いすの下へ潜り込んでしまった。
「いやかえ? じゃ、わたしもお前なんかいやだよ。さよなら、あなた、わたしはあなたのお名前を知りませんが」と彼女はわたしにいった。
「アントン・ラヴレンチッチ……」
「いえ、同じこってすよ。わたしなんか伺ったって、すぐ耳から耳へ抜けてしまうのですから。マヴリーキイさん、どうか送らないでちょうだい、わたしはゼミルカを呼んだだけですよ。仕合わせと、まだ一人で歩けますからね。明日は馬車で散歩に出かけます」
 彼女は腹立たしげに広間を出て行った。
「アントン・ラヴレンチッチ、あなたはちょっとの間、マヴリーキイさんと話してくださいな。あたし請け合っておきますわ。あなた方がお互いにもっと親しくおなんなすったら、お二人ともいいことをしたとお思いになりますよ」
 リーザはそういって、マヴリーキイにさも親しげな微笑を見せた。こちらはその一瞥で、満面よろこびに輝き渡った。
 わたしは仕方なしにそこへ居残って、マヴリーキイと話にかかった。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 驚いたことに、シャートフに対するリザヴェータの用事というのは、まったく文学上のものにすぎないことがわかった。わたしはなぜか知らないが、彼女がシャートフを呼んだのは、何か別なことだとばかり思っていた。われわれ、といって、つまりわたしとマヴリーキイは、二人がべつに隠し立てをするふうもなく、かなり大きな声で話をするので、しだいにそのほうへ耳を傾けはじめた。しまいには、かえって向こうからわたしたちに相談をしかけてきた。話というのはほかでもない、リザヴェータはもうとうから、彼女の意見によると非常に有益な、ある書物の出版を思いついていたが、まるでそのほうの経験がないので、協力者を必要とするというのであった。シャートフに自分の計画を説明する彼女の真面目な態度は、むしろわたしを驚かしたくらいである。
『きっと新しい女の仲間に相違ない』とわたしは考えた。『なるほどスイスにいただけのことはある』
 シャートフは、視線を地べたへ突き刺すようにしながら、注意ぶかく聴いていた。そして、軽はずみな上流の令嬢が、こうした柄にもない仕事に手を出すのを、いっこう不思議がるふうはなかった。
 その文学的な仕事というのは次のようなものであった。いまロシヤには中央・地方ひっくるめて、無数の新聞雑誌が出版されている。その中には、毎日無数の出来事が報道されているが、一年もたつと新聞はどこの家でも、戸棚の中に積み込まれるか、埃だらけになるか、破けるか、それでなければ包み紙や、上被いに使われてしまうかである。で、いったん発表された多くの事実は、一時読者に印象を与えて記憶に残るけれど、年とともにだんだんと忘れられてゆく。多くのものは、後で何か調べてみたいと思っても、その出来事の起こった日も、場所も、月もわからないことが多いのだから、無尽蔵な紙の山からさがし出すのは、容易ならぬ努力である。ところで、こうしたふうの出来事を、一年ごとに一冊の書物にまとめてみたらどうだろう。一定の立案により、一定の思想を基として、目次や索引をつけ、月日順に配列したらどうだろう。新聞雑誌に発表される事実は、実際に起こるそれにくらべたら、ほとんどいうに足らぬ一小部分にすぎないけれど、こうして一まとめになった出来事は、過去一年間におけるロシヤ生活の真髄を、明瞭に描き出すに相違ない。
「それじゃ無数の新聞紙の代わりに、幾冊かの厖大な本ができあがるばかりですよ」とシャートフがいった。
 しかし、リザヴェータは説明が困難で、うまくゆかないのにも屈しないで、熱心に自分の思いつきを弁護するのだった。彼女の主張によると、本は一冊で、しかもあまり厚くないものにする必要がある。まあかりに厚くなるとしても、明瞭でなくてはならない。なぜというに、要は事実の配列方法と、その性質にあるからである。もちろんすべてを蒐集して、印刷に付するのは不可能だ。政府の布告や政治的処置や、地方令や、法規や、そんなものは非常に重大な事実ではあるけれど、予定されている出版ではこの種の事実はぜんぜん逸してしまってもかまわない。まだいろいろのものを芟除《せんじょ》して、多少なりその時代の国民の精神的個人的生活、ロシヤ国民の個性を表示するような出来事を、選び出すだけでかまわない。もちろん、その本にはなんでも入れることができる。滑稽な出来事、火事、寄付、すべての善行悪行、すべての意見や演説、洪水の報知、あるいは進んで、ある種の法令さえも登載することができる。しかし、何にもせよ、時代を描いて見せるようなものばかりを選択する必要がある。すべての出来事は、一定の解釈と、一定の意図と、一定の思想とによって編入され、その思想に全体が照らし出されていなければならぬ。また最後にこの書物は、調べ物の参考として必要なばかりでなく、軽い読物として興味がなくてはならない! つまり、この書物は、一年間におけるロシヤの精神的、倫理的内部生活の絵巻物でなくてはならぬ。
「みんなに買ってもらわなくちゃなりません。あたしこの本を机上必備のものにしなくちゃいやですわ」とリーザは主張した。「あたし、この仕事の成否は、ただ工夫一つにあるのを知っていますから、それであなたにお願いするんですよ」と彼女は言葉を結んだ。その様子があまり熱心なので、その説明が模糊として不十分なのにもかかわらず、シャートフもだんだん合点がいってきた。
「つまり、何か傾向を帯びたものができるわけですね。ある一定の傾向の下に、事実を取捨するんでしょうね」まだやっぱり首を上げないで、彼はこうつぶやいた。
「けっしてそうじゃありません。そんな特定の傾向の下に取捨する必要はありませんわ。それに、傾向なんてものはいっさい必要がありません。公平無私、これが傾向なんですの」
「傾向もあながち悪くはありません」とシャートフはごそごそ体を動かしながら、「それに、少しでも取捨が加わる以上、ぜんぜん傾向を避けることはできません。事実の取捨の中に、解釈の方向がうかがわれますからね。が、あなたの思いつきはけっこうですな」
「じゃ、そういう本もできるとおっしゃるんですね?」とリーザはほくほくものだった。
「しかし、よく落ちついて考量しなければなりません。これはなかなか大事業ですからね。ちょっと急には考えがつきませんよ。経験が必要です。それに、いよいよ本を出す段になっても、出版についていかなる方法を取るか、こいつが容易に及び難い問題ですよ。まあ、いろいろ経験を積んだ後に、やっと合点がゆくんでしょう。けれど、その思想はまとまりますね。思いつきはなかなか有益ですよ」
 彼はやっと目を上げたが、その瞳は満足の色に輝いていた。彼はすっかり引きこまれたのである。
「これはあなたご自分でお考えつきになったのですか?」と彼は優しい恥じを含んだような調子で、リーザに問いかけた。
「だって、考えつくのは、大した骨折りじゃないんですもの、骨の折れるのは立案ですわ」とリーザはにっこり笑った。「あたしは大してもののわかる女でもなければ、あまり賢いほうでもありませんから、ただ自分ではっきりわかってることばかり追求するんですの……」
「追求なさる?」
「もしかしたら、間違った言葉づかいをしたかもしれませんね?」とリーザは早口にきいた。
「その言葉でもいいのかもしれません。ぼくなにもべつに」
「あたし外国にいるあいだから、自分だって何か有益なことができそうなものだ、という気がしていましたの。あたし自分のおあし[#「おあし」に傍点]を持っていながら、それをただつまらなく寝かしてるんですもの。あたしだって公共の事業のために、働けないわけがありませんわねえ。それにこの考えはまるで自然《ひとりで》に、頭に浮かんだような具合なんですの。あたしべつに考えだそうとしたわけでもなかったものですから、この考えが浮かんだ時とても嬉しゅうございましたわ。ですけど、すぐに『これは手伝っていただく人がなくちゃ駄目だ』と悟りましたの。だって、自分じゃ何一つできないんですもの。その協力者は、もちろん、また本の共同出版者にもなるわけですの。あたしたちすっかり半々持ちでやりましょう。あなたの立案と労力、そして、あたしの思いつきと資本、――ねえ、算盤が取れるでしょう」
「もし正しい案を掘り当てたら、確かにこの本は成功しますよ」
「前もってお断わりしておきますが、あたしけっして営利のためにするわけじゃありませんけれど、うんと本の売れるのを望んでいます。そして、儲けがあるのを誇りとしますわ」
「なるほど、しかし、ぼくはどういう位置に立つのです?」
「あたしの協力者になってくださいと、そう申してるじゃありませんか……半分半分ですわ。あなたが案を考えだしてくださるんですの」
「どうしてあなたは、ぼくにそれを案出する力があるとお考えです?」
「人の噂でも聞いてましたし、ここへ来てからも、いろいろ耳に入りましたもの……あなたがたいへん賢い方で……真面目な仕事をしていらしって、そして……ずいぶん思索もしていらっしってるってことは、あたしよく承知していますの。あたしピョートル・スチェパーノヴィチ([#割り注]ヴェルホーヴェンスキイの息子[#割り注終わり])からもスイスであなたのことを伺いましたわ」と彼女は早口にいい足した。「あの人はたいへん賢い方ですわね、そうじゃありません?」
 シャートフは瞬間ちらとかすめるような目つきで、ちょっと相手の顔を見上げたが、すぐにまた目を伏せてしまった。
「ニコライ・フセーヴォロドヴィチも、あなたのことをいろいろ聞かしてくださいました」
 シャートフはとつぜん真っ赤になった。
「まあ、とにかくここに新聞がありますが」とリーザは前から用意して括ってある新聞の束を、忙しそうな手つきで椅子から取り上げた。「あたし選び出す時の参考に、いろんな事実にしるしをつけたり、取捨をしたり、番号を打ったりしてみましたの……あなたご覧なすってください」
 シャートフは束を受け取った。
「お家へ持って帰って見てくださいましな。あなたお住まいはどこでございますの?」
「ボゴヤーヴレンスカヤ街で、フィリッポフの持ち家です」
「あたし知ってますわ。あそこにはなんとかいう大尉が、あなたのお傍に住んでるそうですね、レビャードキンとかいう人が?」相変わらずせき込みながらリーザはたずねた。
 シャートフは新聞の束を受け取ると、片手にぶらりとぶら下げたまま、じっと床を見つめながら、一分間ばかり返事もせずに坐っていた。
「そんな仕事には、だれかほかの人をお選びになったらいいでしょう。ぼくはまるでお役に立ちません」なんだか恐ろしく調子を下げて、ほとんどささやくような声で、とうとう彼は口をきった。
 リーザはかっとあかくなった。
「そんな仕事とは何をおっしゃるんですの? マヴリーキイさん!」と彼女は叫んだ。「どうかさっきの手紙をここへ貸してくださいな」
 わたしもマヴリーキイの後からテーブルのほうへ近づいた。
「まあ、これを見てください」と彼女は恐ろしく興奮して、手紙を広げながら、だしぬけにわたしのほうへ振り向いた。「まあ、こんなものをいつかご覧になったことがありますか? どうか声を出して読んでみてくださいましな。あたしシャートフさんにも聞いていただきたいのですから」
 わたしは少なからぬ驚きを覚えながら、声高に次の手紙を読み上げた。

[#4字下げ]『完璧の処女トゥシン嬢へ呈す』

[#地から2字上げ]エリザヴェータ・ニコラエヴナの君よ!

[#ここから3字下げ]
おお美しきかの君よ
トゥシン嬢の美しさ
身うちの男《もの》と連れ立ちて
女鞍《めぐら》に乗りてかけるとき
房なす髪のはらはらと
風に戯れ遊ぶとき
或《ある》は母|御《ご》と打ち連れて
み堂の床にぬかを垂れ
うやうやしかるかんばせ
薔薇《そうび》の色の散れるとき
その時われは正当の
結婚の夢にあくがれつ
母|御《ご》とともに帰り行く
君が跡より涙贈るも
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]―無学者のいさかいなかばにものせる詩―
[#ここから1字下げ]
『一筆啓上つかまつり候!
 小生何よりも遺憾に存じ候は、足一度もセヴァストーポリの土を踏まず、したがって、かしこにて隻腕を喪わざりしことにご座候。当時小生はかの戦役の初めより終わりまで、小生のいさぎよしとせざる賤しき糧食供給に関する勤務に没頭つかまつり候。貴嬢は女神にして、小生は一顧の価値なき奴輩に候えども、無限ちょうことに想到つかまつり候。何とぞ詩としてご覧くだされたく、それ以外なんらの意味をも付与なされまじく候。なんとなれば詩は詮ずるところ、取るに足らざる譫言《たわごと》にして、散文にて非礼と見做さるることをも、是認しくるるものにこれあり候。たとえ滴虫類が水滴をもて何物かを作り出したればとて、太陽がこれに対して怒りを発するごときことこれあるべきや(もし顕微鏡をもて見れば、一滴の水中にも、無数の滴虫類を見出し得るものにこれあり候)。ペテルブルグにおける上流の家畜愛護会すらも、犬馬の権利のために同情の涙をそそぎながら、滴虫類のことにいたっては、彼らがある程度の生長に到達せずとの理由により、全然これを口にのぼすものなく、蔑視しおり候。小生も一定の生長に到達せざるものにご座候えば、貴嬢と結婚を望むがごときは、さぞかし滑稽に感ぜらるることと存じ候えども、貴嬢の軽蔑せらるるかの嫌人主義者を通じて、近々二百の農夫を有する領地の持ち主と相成るべく候。なお種々お耳に入れたきこともこれあり、小生は証書を提出して、もし必要あらば、シベリヤへ赴くをさえ辞せざるものにご座候。希くば、小生が申込みを一笑に付したもうことなかれ。詩もてしたためたる方を、滴虫類の手紙と思召し下さるべく候。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から7字上げ]貴嬢の柔順なる友にして閑人なる
[#地から1字上げ]レビャードキン大尉』

「この手紙は、しようのないやくざ者が、酔っぱらった勢いで書いたものです!」とわたしは憤懣のあまり叫んだ。「わたしはこいつを知っています」
「あたし昨日この手紙を受け取ったんですの」とリーザは真っ赤な顔をして、せき込みながら説明を始めた。「あたしはすぐに、これはどこかの馬鹿者がよこしたのだと察しましたの。ですから、まだお母さんに見せないんですよ。またこのうえ心配さしては大変ですからね。だけど、今後やっぱりこんなことをつづけられたら、あたしもうどうしていいかわかりませんわ。マヴリーキイさんは出かけて行って、とめて来るとおっしゃるんですけれど、あたしあなたを」と彼女はシャートフのほうを向いて、「自分の協力者のように思っていましたし、同じ家に住まってもいらっしゃるものですから、あなたのご判断に照らして、あの男がこの上まだどんなことをするか、それを伺いたいと思いましてね」
「酔っぱらいのやくざものです」とシャートフは進まぬ調子でつぶやいた。
「どうでしょう、いつもこんな馬鹿な男なのでしょうか?」
「いいえ、あの男が酔っぱらってない時は、けっして馬鹿どころじゃありません」
「わたしはちょうどこいつにそっくりの詩を作った、ある将軍を知っていますよ」とわたしは笑いながらいった。
「この手紙で見ても、ちゃんとはらに一物あることがわかりますよ」無口なマヴリーキイが突然こう口をはさんだ。
「この男はなんだか妹といっしょにいるそうですね」とリーザがたずねた。
「ええ、妹といっしょです」
「その妹をいじめるっていうのは、本当ですの?」
 シャートフはまたちらりと見上げたが、眉をひそめながら、「それはぼくの知ったことじゃありませんよ!」とつぶやいて、そのまま戸口のほうへ歩き出した。
「あら、待ってくださいな」とリーザは心配そうに叫んだ。「あなたどこへいらっしゃいますの? あたしまだいろいろお話したいことがあるんですから……」
「何を話すんです? あすぼくがお知らせしますよ……」
「いえ、あの一等肝腎なこと、活版のことですの! まったくですよ、あたし冗談でなく真面目にこの仕事をしたいと思ってるんですから」しだいに不安がつのっていく様子で、リーザは一生懸命にいった。「もし本当に出すとしたら、どこで印刷したものでしょう? これが一番大切な問題なんですよ。だって、あたしたちはそのためにわざわざモスクワへ行くわけにもいきませんし、ここの活版屋でそれだけの印刷はとてもできやしませんもの。あたし前から自分で活版所を起こそうかと思ってましたの、あなたのお名前でも拝借しましてね。母もあなたのお名前でしたら許してくれますわ、ええ、きっと……」
「どうして、あなたは、わたしが活版屋になれるとお思いですか?」とシャートフは気むずかしそうに問い返した。
「それはね、まだスイスにいる頃から、ピョートル・スチェパーノヴィチが、あたしにあなたを名ざしてくださいましたの。そして、あなたは活版事業を経営することがおできになる、事務に精通していらっしゃると、こうおっしゃったものですから。それに、ご自分からあなたに宛てて、手紙を書いてやるとまでおっしゃったんですの。あたしお願いするのを忘れてしまいましたけれど」
 今おもい出してみると、シャートフは急に顔色を変えた。彼は二、三秒間じっと立っていたが、突然ぷいと部屋を出てしまった。
 リーザは恐ろしく腹を立てた。
「あの人はいつもあんな帰り方をなさるんですの?」とわたしのほうを振り向いた。
 わたしは肩をすくめた。と、ふいにシャートフが帰って来た。そして、いきなりテーブルへ近寄って、いったん受け取った新聞の束をその上へ置いた。
「ぼくあなたの協力者になるのはやめにしましょう、暇がないから……」
「なぜですの、なぜですの? あなた腹をお立てになったようですね?」とリーザは絶望したような哀願の調子でたずねた。
 その声の響きは彼の心を打ったようであった。幾分かの間、まるで相手の心を見抜こうとするかのように、じっと穴のあくほどリーザの顔を見つめていたが、
「そんなことはどうだっていいです」と彼は小さな声でつぶやいた。「ぼくはいやなんです……」
 こういって、彼はいよいよ本当に帰ってしまった。リーザはもうあきれ返って、開いた口がふさがらなかった。少なくとも、わたしにはそう思われた。
「あきれ返った変人だ!」とマヴリーキイは大きな声でいった。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 もちろん『変人』である。しかし、この出来事ぜんたいの中には、まだまだわからないところがたくさんある。この出来事の裏には、何か隠れた意味があるに相違ない。わたしはあの出版の話には頭から信をおかなかった。それから、例の手紙、――ずいぶんばかげてはいるが、あの中には明らかに、何やら『証拠書類』を持って出るところへ出る、というようなことが書いてあるにもかかわらず、皆この点を不問に付して、よそごとをいっている。それから、またあの活版所の話、そして、最後に活版所の話を持ち出したがために、シャートフがとつぜん帰ってしまったこと、――かれこれ綜合してみると、どうもわたしの来る前に何かあって、それをわたしが少しも知らずにいるのではないか、というふうに考えられる。そうだとすれば、自分は余計な人間で、こんなことはいっさいわたしの知ったことでない。それに、もうそろそろ出かけてもいい時分である。初めての訪問にしてはこれでたくさんだ。そう思って、わたしは挨拶のためにリザヴェータの傍へ近づいた。
 彼女は、わたしが同じ部屋の中にいたことも忘れたらしく、首を垂れて絨毯の上の一点をじっと見つめながら、何やら思いに沈んだ体で、依然として元のテーブルの傍に立っていた。
「ああ、あなたも、じゃ、さようなら」と彼女は習慣になった優しい声でいった。「どうかスチェパンさまによろしく、そして、なるべく早く遊びに来てくださるように、あなたから勧めてくださいましね。マヴリーキイさん、Gさんがお帰りになりますよ。失礼ですが、母はご挨拶に出られませんですから……」
 わたしが外へ出て、もう階段を下りてしまったとき、ふいに下男が出口で追いついた。
「奥さまがぜひお帰りくださるようにとのことで……」
「奥さんですか、お嬢さんですか?」
「お嬢さまで」
 わたしがリーザを見つけたのは、以前の大広間ではなく、一ばん手前の応接室であった。今マヴリーキイが一人きり残っているその大広間へ通ずる戸口は、ぴったり閉めてあった。
 リーザはわたしにほほえみかけたが、その顔は真っ青だった。彼女はいかにも決しかねたらしい、心中の闘争に苦しんでいるようなふうで、部屋の真ん中に立っていたが、いきなりわたしの手を取って、無言のまま早足に窓のほうへ引っ張って行った。
「あたしすぐにあの女[#「あの女」に傍点]が見たいんですの」いささかの抗言すら許さぬ、熱した、強い、こらえ性《しょう》のない視線をわたしの顔へ注ぎながら、彼女は小声にささやくのであった。「あたし自分の目で、あの女を見なくちゃならないんです、どうかあなた助けてくださいませんか」
 彼女はもうすっかり前後を忘れて、自暴自棄の状態に陥っていた。
「あなただれが見たいとおっしゃるんです?」とわたしは面くらってこうたずねた。
「あのレビャードキナです、あのびっこです……あの女がびっこだっていうのは本当ですか?」
 わたしは胸がどきんとした。
「わたしはまだ一度も会ったことはありませんが、あの女がびっこだってことは聞きました。ついきのう聞いたばかりです」とわたしも同様にささやくような声で、なんの躊躇もなく忙しそうにこう答えた。
「あたしぜひあの女を見なくちゃなりませんの。あなた今日にもなんとか運びをつけていただけませんでしょうか?」
 わたしは彼女が気の毒でたまらなくなった。
「これはとうてい不可能です。それに、わたしもどういうふうに運びをつけたものか、まるでわからないんですもの」とわたしは彼女を納得させにかかった。「まずシャートフのところへ行って……」
「もしあなたが明日までに、運びをつけてくださらなければ、あたし自分であの女のところへ出かけます。だって、マヴリーキイさんは承知してくださらないんですもの。あたしは今あなただけを当てにしているんですもの、もうほかにだれも頼る人がありません。あたしさっきシャートフさんに馬鹿なことをいいましたわねえ……あたしはあなたが潔白な方で、ことによったら、あたしのために一臂の労を惜しまないほうかもしれない、とこういうふうに信じていますのよ。ですから、どうぞ運びをつけてくださいませんか」
 わたしの心にはなんであろうと、ぜひ彼女を助けてやりたいという、烈しい望みが湧き起こった。
「じゃ、こうしましょう」ちょっと心もち考えてからわたしはこういった。「わたしが自分で出かけます。そして、きょう必ず、必ず[#「必ず」に傍点]あの女に会って来ます! わたしはなんとでもして会って来ます。これはあなたに誓っておきます。ただシャートフにうち明けるのだけ許してください」
「では、あの人にそういってください、あたしの望みは一通りのものでないのですから、もうどうしても待つわけにいきません。けども、さっきはけっしてあの人をだましたわけじゃありません、とね。あの人が帰って行ったのも、あの人があまり潔白なものですから、あたしがあの人をだましでもするような態度をとったのがお気に入らなかったせいかもしれません。けれど、あたしだまそうとしたのじゃありません。あたし本当にあの本を発行して、活版所を起こそうと思っているのでございます……」
「あれは潔白な男です、まったく潔白な男です」とわたしは熱心に相槌を打った。
「もっとも、明日までに話がまとまらなかったら、あたしどんなことがあろうと自分で出かけます。人が知ったってかまいません」
「わたしは明日三時より早くこちらへあがれません」わたしは幾分おちついた気持ちになってから、こう断わった。
「じゃ、三時ですね? してみると、昨日あたしがスチェパンさまのところで想像したのは、本当のことだったんですわね。あたしはね、あなたがあたしのために尽くしてくださる人だと思いましたの」彼女は忙しげにわたしに最後の握手をして、一人とり残されたマヴリーキイのところへ急ぎながら、にっこりと笑って見せた。
 わたしは自分のした約束のために、圧しつけられるような心持ちを覚えながら外へ出た。いったい何事が起こったのやらわけがわからなかった。ただほとんど未知の男に大事をうち明けて、自分を危くするのもあえていとわないくらい、絶望の極に陥った一個の女を見たのみである。ああした苦しい瞬間に洩らした彼女の女らしいほほえみと、もう昨日からわたしの心持ちに気がついていたという意味ありげな彼女の言葉とは、さながらわたしの心臓を突き通したように思われた。しかし、とにかくかわいそうだ、まったくかわいそうだ、――それだけのことなのだ! すると、急に彼女の秘密が、何か神聖犯すべからざるものに思えてきた。で、今その秘密を開いて見せようとする者があっても、わたしは耳に蓋をして何一つ聞かなかったに相違ない。ただわたしは何かあるものを予感した……しかし、どういうふうにして、少しなりとも運びをつけるつもりなのか、もうまるっきりわからなかった。そればかりでない、つまりどういう行動をとればいいのか、いまだにさっぱりわからないのであった。会見だろうか! 会見とすれば、どういう会見なのだろう? それに、どうしてあの両女《ふたり》を引き合わせようというのだ? 希望は挙げてことごとくシャートフにかかっていたが、しかし、彼がどれだけの助けにもならないのは、初めからたいてい見当がついている。が、とにかくわたしは彼のもとへ走って行った。

[#6字下げ]4[#「4」は小見出し

 やっと晩の七時すぎに、わたしは彼をその住まいに発見した。驚いたことには、彼のところに来客があった。一人はキリーロフで、一人はわたしにとって半面識しかない人、――ヴィルギンスキイの細君の弟に当たる、シガリョフという男であった。
 このシガリョフはもうこの町に二か月ばかりも逗留しているはずだが、いったいどこから来たのか、それもわからぬ。わたしがこの男について知っているのは、彼がペテルブルグのある進歩派の雑誌に、何か論文を載せたということばかりだ。一度ヴィルギンスキイが偶然往来で、わたしにこの男を引きあわせてくれたことがある。わたしは今まで人間の顔でこれほど陰気な、燻り返った不景気な表情を見たことがない。彼の顔つきはまるで世界の破滅を待っているようだ。しかも、それは場合によって外れることのある漠然とした予言などを信じたためでなく、まるで明後日の十時二十五分かっきりといったような具合に、あくまで正確に予知しているようなふうつきであった。もっとも、わたしたちはそのときひと言もいわないで、悪事の連判人かなんぞのように、互いに握手をしたのみで別れてしまった。何より驚いたのはその耳であった。不自然なほどの大きさで、長くて広く、おまけに厚みがあって、なんだか特別不揃いに突っ立っているようだった。その動作は無器用で、のろのろしている。もしかりにリプーチンなどが、わが県内で共産団の実現を夢みているとすれば、この男はきっとその実現の時日を正確に知っているに違いない。彼はいつもわたしに薄気味の悪い印象を与えた。今シャートフの家でこの男に出あって、わたしは一驚を吃した。ことに、シャートフは一般に来客をよろこばないから、なおさら不思議であった。
 もう階段のあたりから三人が一時に口を開いて、何か大きな声で話し合っている、というより、むしろ論じ合っているのが聞こえた。が、わたしが姿を現わすと同時に、一同はぴたりと口をつぐんだ。彼らは立ったまま論争していたが、急に三人とも一時に腰を下ろしたので、わたしも腰を掛けねばならなかった。間の抜けた沈黙は、まる三分ほどもすこしも破れなかった。シガリョフはわたしがだれかということに気がついたが、わざと知らん顔をしていた。それも敵意があってのことではなく、なんというわけなしなのである。キリーロフとは互いに軽く会釈をしたが、それも無言のままで、なぜか両方とも握手をしなかった。とうとうシガリョフはいかつい顔をして、眉をひそめながらわたしを睨み始めた、そうすれば、わたしが急に立ちあがって出て行くだろうという、きわめて無邪気な信念をいだきながら。やがてシャートフも椅子を立った。すると、一同はとつぜん同じように立ちあがって、挨拶もせずに外へ出た。ただシガリョフばかりは、もう戸口まで出たとき、見送って来たシャートフに向かって、
「覚えていてくれたまえ、きみは報告の義務があるんだぜ」
「そんな報告なんか糞くらえだ! ぼくはどこのどいつにも義務は負ってないから」といって、シャートフは戸口に鍵をかけた。
「馬鹿者らめ!」彼はじろりとわたしを見、妙に口を曲げて笑いながら、こういった。
 彼の顔はいかにも腹立たしそうであった。しかしわたしは、彼が自分から口をきったのがなんとなく奇妙に感じられた。以前わたしがここへやって来たときは(もっとも、そんなことは時たまだったが)、たいていは彼は眉をひそめながら隅っこに坐って、腹立たしそうに受け答えをしているが、しばらくたつとすっかり元気づいて、しまいには愉快そうに話しだす。が、その代わり別れる時には、いつもまた必ず眉をひそめて、まるで仇敵でも追ん出すように、送り出すのが常であった。
「ぼくはあのキリーロフ君のところで、ゆうべ茶を飲んで来たよ」とわたしはいった。「あの男は無神論で気が触れてるようだね」
「ロシヤの無神論は、地口より先へ進んだことがないよ」古い蝋燭の燃えさしを新しいのに取り替えながら、シャートフは不満らしげにいった。
「いや、あの男は、ぼくの見るところでは地口じゃない。あの男は話ができないんだよ、地口どころじゃない」
「紙でこしらえた人間だよ。そんなことはみんな、思想的下男根性のために起こるんだ」シャートフは椅子の片隅に腰を乗っけて、膝の上に両肘を突きながら、落ちつきはらっていった。「そこにはまだ憎悪も手伝っているんだ」ちょっとのま黙っていたが、やがてこういいだした。「もしロシヤの国が、あの連中の夢想しているように改造されて、とつぜん無際限に豊富にかつ幸福になったら、あの連中はだれよりも真っ先に、恐ろしく不仕合わせなものになるだろうよ。そうなると、憎むべき対象がなくなるからだ、侮蔑と嘲笑の対象がなくなるからだ! あの連中の持ってるのは、ロシヤに対する憎悪ばかりだ。肉体組織の内部まで食い入った、飽くことなき動物的憎悪ばかりだ……表面の笑いの陰に秘められた、世の人に見えない涙なんて、けっしてありゃしないんだよ! 今までロシヤで発しられた言葉の中でも、この見えざる涙なんて言い草ほど、そらぞらしい言葉はありゃしない!」と彼は猛烈な勢いで叫んだ。
「きみはいったい何をいってるんだい!」とわたしは笑った。
「きみは『穏健な自由主義者』さ」とシャートフはにやりと笑った。「ところでだね」と彼は急に気がついたように、「ことによったら、『思想的下男根性云々』は、ぼくのいい過ぎだったかもしれないね。おそらくきみはすぐにこういいたかったんだろう。『それは自分が下男の子に生まれたんで、ぼくは下男じゃないよ』ってね」
「ぼくはまるでそんなことをいう気はなかったよ……きみは何をいいだすんだろう!」
「まあ、きみ、言いわけなんかしないでいいよ。ぼくはきみを恐れてやしないから。あのときぼくはただ下男の子に生まれたきりだったが、今はぼく自身、きみたちと同じような下男になっちゃった。わがロシヤの自由主義者はまず何より下男なのさ。そして、だれか靴を磨かしてくれる人はないかしらんと、きょろきょろあたりを見廻しているのだ」
「靴だって? それはなんの比喩なんだい?」
「比喩も何もありゃしない? きみは冷やかしているようだね……スチェパン氏がいったのは本当だよ、ぼくは石の下に敷かれてるんだ。そして、圧し潰されながら死にきれないで、ただぴくりぴくりやってるのさ。これはあの人にしてはうまい比喩だったね」
「スチェパン氏はきみのことを、ドイツ人崇拝で気が触れたんだといってるよ」とわたしは笑った。「しかし、なんといっても、われわれはドイツ人から何かしら引き出して、ポケットの中へしまい込んだね」
「二十コペイカ玉一つもらって、自分のほうから百ルーブリくれてやったようなもんさ」
 わたしたちはちょっとのま黙っていた。
「あれは先生、アメリカで寝すぎたために背負い込んだのさ」
「だれが? 背負い込んだとは何を?」
「ぼくはキリーロフのことをいってるんだ。ぼくは向こうにいる時、あの男と四月の間一つ小屋の中で、床《ゆか》の上にごろごろしてたんだからね」
「え、きみはいったいアメリカへ行ったのかい?」とわたしはびっくりして、「きみはちっとも話さなかったじゃないか」
「何も話すことはないさ。おととしぼくはキリーロフといっしょになけなしの金を出して、移民船でアメリカへ渡ったのだ。それは『自分の体でアメリカの労働者の生活を経験して、この社会で最も苦しい階級に属する人間の状態を、個人的[#「個人的」に傍点]経験によって検覈《けんかく》しよう』とこういう目的で二人は出かけたんだ」
「へえ!」とわたしは笑いだした。「そんな目的なら農繁期に、この県内のどこかへ行ったほうが、もっとよく『個人的経験で味わう』ことができたろうに、アメリカ三界まで飛んで行くなんて!」
「ぼくらはある開墾業者のところへ、労働者として傭われて行った。そこにはわれわれロシヤ人仲間が六人いた、――大学生もいれば、自分の領地を持った地主もいるし、将校までいるじゃないか。それがみんな同じように、崇高なる目的を持って来てるのだ。で、まあ、働いたよ、汗みどろになって、苦しい思いをして、疲れるほど働いた。が、とうとうぼくとキリーロフは逃げ出してしまった、病気にかかって、辛抱できなかったのだ。農園の主人は、勘定のとき算盤をごまかして、約束の三十ドルの代わりに、ぼくには八ドル、キリーロフには十五ドルきゃよこさないのだ。ぼくらもずいぶん撲られたものさ。ところが、こうして仕事がなくなったもんだから、ぼくらはある小さな町で四か月の間、床《ゆか》の上に並んで臥《ね》ていたんだ。あの男が一つのことを考えると、ぼくはまた別なことを考えるというふうでね」
「いったい主人がきみらを撲ったのかい、それがアメリカでの話なんだね? それでどうしたい、きっときみらはうんと罵倒したろうね?」
「どうして、少しも! それどころか、ぼくとキリーロフは、さっそくこういうことに決めたのさ。『われわれロシヤ人はアメリカ人の前へ出ると、まるで子供だ。やつらと同じ水準線へ立つためには、アメリカで生まれるか、それとも長いあいだアメリカ人の中で生活しなくちゃ駄目だ』それでまあ、どうだろう。僅か一コペイカか二コペイカのしろ物に一ドルも二ドルもぼられながら、ぼくらは大恐悦でそれを払ったばかりでなく、まるで夢中になってしまったものだ。ぼくらはなんでもかでも讃美した。降神術も、私刑《リンチ》も、ピストルも、放浪者までもね。あるとき汽車に乗ってると、一人の男がぼくのかくしへ手を突っ込んで、ぼくの髪ブラシを取り出しながら、そいつで頭を梳かし始めたんだ。ぼくとキリーロフとは、ただ目と目を見交すばかりだった。そして、『これはいい、大いに気に入った』と、二人で決めてしまったよ……」
「しかし、ロシヤ人はすべて思いつくだけでなく、それを実行するから妙だね」とわたしはいった。
「紙でこしらえた人間なんだ」とシャートフはくり返した。
「けれども『個人的経験で体得するため』とはいいながら、移民船で大洋を乗り切って、知らぬ他国へ渡って行くというのは、――まったく何か一種悠暢たる堅固さがあるようだね……ところで、きみはどうしてそこから抜け出したの?」
「ぼくは欧州にいる一人の男に手紙を書いたんだ。すると、その男が百ルーブリ送ってくれたのさ」
 シャートフはいつもの癖で、熱した時にさえ首を上げないで、始終しゅうねく足もとを見つめながら話していたが、この時とつぜん顔を上げた。
「きみ、その男の名を教えようか?」
「だれだね、いったい?」
「ニコライ・スタヴローギン」
 彼はとつぜん立ちあがって、菩提樹のテーブルに近寄り、その上で何やらさがし始めた。われわれの間では漠然としたものではあるが、正確な一つの噂が伝わっている、ほかではない、彼の妻がしばらくの間ニコライとパリで関係をつづけたというのである。しかも、それがちょうど二年ほど前だから、つまりシャートフがアメリカにいた頃に当たる、――もっとも、ジュネーブで棄てて行ってから、だいぶ時はたっていたけれど。『もしそうだとすれば、なんだって今頃そんな名前を担ぎ出して、くだらんことを捏ね廻す気になったんだろう?』とわたしは考えた。
「ぼくはいまだにそれを返さないでいるんだ」とつぜん彼はまたこちらを振り向いて、じっとわたしを見据えると、片隅に引っ込んで元の座に坐った。そして、今度はすっかり別な声で、引きちぎったような調子で問いかけた。
「きみはもちろんなにかの用で来たんだろう、なに用なんだい?」
 わたしはすぐにいっさいの顛末を、正確な歴史的順序を立てて物語ったうえ、こうつけ足した。いま自分は先はどの興奮から落ちついて、少し考え直すこともできたけれど、それでもいっそう頭がごたごたになってしまった。これにはリザヴェータ嬢にとって、何か非常に重大な事柄が含まれているのは確かだ、そして、ぜひとも助力したいという望みは固いけれど、ただ困ったことには、どんなにしたら、あのひととの約束を守ることができるかわからない。のみならず、はたして何を約束したのか、それさえ今はあやふやになってきた、――こういった後で、さらにわたしはしみじみした調子で、あのひとはきみをだます気ではなかったのだ、そんなことは考えてもいなかった、だからあのとき妙な誤解が生じて、きみがさっき突然な帰り方をしたのを、たいへん苦にしている、と断言した。
 彼は注意ぶかく聞き終わった。
「もしかしたらぼくは例の癖で、さっき本当に馬鹿なことをしたかもしれない……しかし、あのひと自身も、どうしてぼくがあんな帰り方をしたか知らないとすれば、それなら……あのひとにとっては、結局、仕合わせだ」
 彼は立ちあがって戸口に近寄り、ちょっとドアを開けて、階段の下へ聞き耳を立てた。
「きみは自分であの婦人を見たいというのかね?」
「それがぼくに必要なんだ、しかし、どうしたらいいんだろう」とわたしはよろこんで飛びあがった。
「なんでもないさ、あの女が一人きりでいる間にいっしょに行こう。あいつが帰って来て、ぼくらが来たってことを知ったら、またぶん撲るよ。ぼくはよく内証で行ってやるんだよ。ぼくはさっきも、やつが妹を打とうとした時、やつを撲りつけてやった」
「どうしてきみそんなことを?」
「つまり、ぼくがやつの髪をつかんで、妹から引き放してやったのさ。すると、やつめ、怒ってぼくを撲ろうとするから、ぼく、脅しつけといてやった、それでおしまいさ。ただ酔っぱらって帰りゃしないかと心配してる。あれを思い出したら、またこっぴどく妹を撲りつけるからね」
 わたしたちはすぐに降りて行った。

[#6字下げ]5[#「5」は小見出し

 レビャードキンの戸口は閉めてあるばかりで、鍵が掛けてなかった。で、わたしたちは自由に入ることができた。兄妹《きょうだい》の住まいというのは、薄汚い小さな部屋二つきりで、煤けた壁には汚い壁紙が、文字通りに房をなして下っていた。ここは幾年まえかに、家主のフィリッポフが新しい家へ引っ越すまで居酒屋を開いていたのだが、当時店に使っていた部屋はみんな閉め切りになって、この二つだけがレビャードキンの手に入ったのだ。家具は幾脚かの粗末な床几と、荒削りのテーブルばかりで、手の取れた古い肘掛けいすが唯一の例外だった。次の部屋の隅のほうには、更紗の夜具を掛けた寝台があったが、これはマドモアゼル・レビャードキナのものである。当の大尉は夜寝るとき、たいてい着のみ着のままで、床の上にごろりとひっくり返るのがきまりだった。家の中はどこもかしこも傷だらけ埃《ごみ》だらけで、おまけにべとべとしていた。ぐちょぐちょに濡れた、どっしりと大ぶりな雑巾が、とっつきの部屋の床《ゆか》の真ん中にほうり出されてあると、すぐ傍の水溜りの中には、はきへらした古靴が転がっている。見受けたところ、ここではだれも仕事なぞしないらしい。煖炉も焚かなければ、食事の支度もしない。シャートフが進んで説明したところによると、サモワールさえ持っていないとのことだ。大尉が妹を連れて来た時は、まるで乞食同然で、実際、リプーチンのいうように、方々の家を歩き廻って無心したものだ。ところが、急に思いがけない金を手に入れると、きっそくもう飲みにかかった。そして、酒にうつつを抜かして、家政も糞もなくなったのである。
 わたしが会おうと思ったレビャードキナ嬢は、次の間の隅っこで、荒削りの台所机を前にして、床几の上におとなしく、ひっそりと坐っていた。わたしたちが戸を開けても、別に声をかけようともせず、その座を動こうともしなかった。シャートフの話によると、この家ではいつも戸を閉めないそうで、一度なぞは一晩じゅう、玄関の戸が明けっ放しになっていたとのことである。鉄の燭台に立ててある細い蝋燭の朦朧たる光の中に、わたしは年の頃三十ばかりの、病的に痩せた女を見分けることができた。何かじみな古い更紗の着物をきていたが、細長い頸は何物にもおおわれることなく、うすい暗色《あんしょく》の髪はうしろ頭のほうで、二つ三つの子供の拳固くらいな小さな髷に束ねてあった。女はかなり愉快そうにわたしたちを眺めた。燭台のほか、彼女の前のテーブルには、木の枠をつけた小さな鏡と、一組の古いカルタと、ぼろぼろになった何かの唄本と、もう一口二口くい欠いたドイツ風の白パンが置いてあった。明らかにレビャードキナ嬢は、白粉をつけたり、頬紅をつけたりしたうえ、唇にも何か塗っているらしい。そうしなくともほっそりと長い黒い眉にまで、眉墨をつけている。狭くて高い額には、白粉にも隠されぬ三本の長い皺が、かなりはっきりと刻まれている。わたしは、この女がびっこだと知っていたけれども、このとき彼女は初めからしまいまで立ちも歩きもしなかった。いつかまだ青春の花の開き始める頃には、この痩せこけた顔も、さして悪くなかったかもしれない。その静かな優しい灰色の目は、今でも水際立っていた。静かな、ほとんど嬉しげに見える眼ざしには、何かしら空想的で真摯なあるものが輝いているように思われた。彼女のほほえみにも表われるこの静かな落ちついたよろこびは、例のコサックの鞭を手はじめに、いろいろ兄の乱行を聞かされていた後のこととて、驚異の念をわたしに与えたほどである。すべてこういうふうに神の罰を受けた人たちの前にいる時、普通感じられる重苦しい、恐怖に近い嫌悪の情を覚えるかわりに、不思議にもわたしは最初の瞬間から、この女を眺めるのが愉快なほどであった。その後つづいてわたしの心をみたしたものは憐愍の情くらいのもので、けっして嫌悪の念ではない。
「ほら、あんなふうに坐ってるんだ。文字どおりに毎日ぶっ通し、たった一人ぼっちで、身動きもせずにカルタの占いをしたり、鏡を見つめたりしてるんだ」とシャートフは閾のところからわたしに指さして見せた。「あいつ、ちっとも食べ物を当てがわないんだよ。離れの婆さんが、ときどきお情けに何か持って来るくらいなものさ。どうして蝋燭を持たせたまま一人きりでうっちゃっとくんだろう!」
 驚いたことに、シャートフはまるで女が部屋にいないもののように、大きな声でこんなことをいうのであった。
「ご機嫌よう、シャートゥシカ!」とレビャードキナ嬢は愛想よく声をかけた。
「ぼくはね、マリヤ・チモフェーヴナ。お客様を連れて来たよ」とシャートフはいった。
「それはよくいらっしゃいました。いったいお前さん、だれを連れて来たの、こんな人、なんだか覚えがないよ」と彼女は蝋燭の陰からじっとわたしを見つめたが、すぐにまたシャートフのほうへ向いてしまった(それからはもうずっとしまいまで、わたしの相手をしようとしなかった、まるでわたしという人間が傍にいないように)。
「お前さん、一人きりで部屋の中を歩き廻るのが、退屈になってきたの?」と彼女は笑ったが、そのとき二列の見事な歯が現われた。
「ああ、退屈になった。だから、お前をたずねてみる気になったんだ」
 シャートフは床几をテーブルのほうへ引き寄せて、わたしを傍へ並んで坐らした。
「わたし、話はいつでも好きだよ。だけど、お前さんはいつもおかしな恰好をしてるね、シャートゥシカ、まるでお坊さんみたいだよ。お前さんはいつ頭を梳かしたの? さあ、わたしがまた梳かしてあげましょう」と彼女はかくしから小さな櫛を取りだした。「たぶんこの前わたしが梳かしてあげた時から、まるで梳かないんでしょう?」
「それに、ぼくは櫛を持ってないんだよ」とシャートフも笑いだした。
「本当? じゃ、わたし自分のをお前さんにあげるよ。だけど、これじゃない、別の。ただそういってくれなくちゃ駄目だよ」
 彼女は思いきり真面目な様子をして、男の髪を梳かしにかかった。そして、横のほうに分け目までこしらえると少し体をうしろへそらして、よくできたかどうかちょいと眺めたうえ、また元のかくしへ櫛をしまった。
「ねえ、シャートゥシカ」と彼女は首を振りながら、「お前さんは、たぶん分別のある人だろうけれど、いつもぼんやりふさいでるね。わたしだれでも、お前さんみたいな人を見てると、不思議でならないよ。どうして人はあんなにふさぐんだろう、合点がゆかない。悲しいのとふさぐのとは別だよ。わたしは面白い」
「あんな兄貴といっしょにいて面白いかい?」
「お前さんはレビャードキンのことをいってるの? あれはわたしの下男《しもおとこ》だよ。あれがいようといまいと、わたしはまるで同じことだ。わたしが、『レビャードキン、水を持って来い、レビャードキン、靴を持って来い』というと、あれはあわてて駆け出すんだよ。どうかすると、あまりひどいと思うこともあるくらいなの。あれを見てるとおかしくなるよ」
「あれはまったく寸分たがわずあのとおりなんだよ」シャートフはまたしてもわたしのほうを向いて、大きな声で無遠慮にいいだした。「この女は兄貴をまるで下男同様に扱ってるんだ。この女が『レビャードキン、水を持って来い』といって、からからと笑うのをぼく自分で聞いたことがある。ただ違っているのは、レビャードキンが駆け出して水を取りに行かないで、かえってそういわれたために、この女をぶつという点なのさ。しかし、この女はいっこう兄貴を恐れていない。なんだか神経的な発作が毎日のように起こってね、すっかり記憶を奪ってしまうんだ。それで発作が起こった後は、たった今あったことをみんな忘れてしまって、いつも時をごっちゃにするんだよ。きみはぼくらの入って来た時のことを、この女がおぼえてると思うかね? 事実あるいはおぼえてるかもしれないが、しかし、きっと何もかも、自己流に作り変えてしまってるよ。そして、ぼくがシャートゥシカだってことは覚えているけれど、ぼくらを実際とは違った別な人間のように考えているに相違ない。ぼくが大きな声で話すって? なに、平気だよ。この女はすぐに相手の者のいうことを聞きやめて、自分の空想に飛びかかるんだからね。まったく飛びかかるんだよ。恐ろしい空想家だからなあ。毎日いちんち八時間くらいずつ、ひと所にじいっと坐ってるんだ。ここにパンがあるだろう。これなぞもたぶん、朝からたった一度くらいしか噛らないんだろう。すっかり片づけてしまうのは明日のことだよ。そら、今度はカルタで占いを始めた……」
「占ってるには、占ってるけれどね、シャートゥシカ、どうも妙なことばかり出て来るんだよ」相手の最後の言葉を小耳に挿んで、ふいにマリヤはこう引き取った。そして、べつに視線を転じないで、パンのほうへ手を伸ばした(やはりパンという言葉も耳に挿んだのだろう)。
 彼女はとうとうパンを取って、しばらく左手で持っていたが、新しく湧いてきた話題に気を取られ、一口も噛まないで、いつの間にか元のテーブルへ置いてしまった。
「いつも同じことばかりよ、道だの、悪党だの、だれかの悪企みだの、臨終の床だの、どこからか来た手紙だの、思いがけない知らせだの、――わたしはみんなでたらめだと思うよ。シャートゥシカ、お前さんはどう考える? 人間が嘘をつくくらいなら、カルタだって嘘をつかぬはずがないからね」と彼女はカルタをいっしょくたに交ぜてしまった。「わたしはこれと同じことを、プラスコーヴィヤの尼さんにも一ど話したことがあるよ。立派なひとだったがね、いつも院主の尼さんの目をぬすんで、わたしの房《へや》へ走って来て、カルタ占いをしたものだ。それも、このひと一人きりじゃなかった。みんなため息をついたり首を振ったりして、一生懸命に並べてるのさ。で、わたしは笑ってやった。『まあ、どうしてお前さん、プラスコーヴィヤさん、手紙なんか来るもんかね、もう十二年も来なかったんじゃないか』このひとはご亭主に娘をどこかトルコのほうへ連れて行かれて、十二年のあいだ音も沙汰もないんだよ。ところが、そのあくる日の晩、わたしは院主の尼さんのところで、お茶をご馳走になっていた(院主は公爵家のお生まれなんだよ)。そこには、どこかよそから来た奥さまと(これが大変な空想家なの)、それからアトスから来た坊様とが坐ってたっけ。この坊様はわたしにいわせれば、ずいぶんおかしな人だったよ。ところが、どうでしょう、シャートゥシカ、この坊様がちょうどその朝、プラスコーヴィヤ尼に宛てた娘の手紙を、トルコから持って来てくれたの。――ダイヤのジャックが出ただけのことはあったよ、――まったく思いがけない便りだったからね! わたしたちがお茶を飲んでいると、このアトスの坊様は院主の尼さんにこういうんだよ。『院主さま、この僧院《おてら》が神様から受けている祝福のなかで何よりもありがたいのは、この中に世にも稀な宝ものをおさめておられることでござりましょうな。』『その宝ものというのはなんでござりますな?』と院主の尼さんがきかれると、『あの奇特なリザヴェータ尼でござります』この奇特なリザヴェータ尼は、僧院《おてら》のまわりの塀に嵌め込んだ長さ一間、高さ二尺ほどの檻の中に坐ったまま、鉄格子の陰で十七年くらしてきた人なんだよ。身には麻の襦袢を一枚つけたきりで、しかもしじゅう藁だの、小枝だの、手当たりまかせのもので、その麻の襦袢ごしにちくちく体をつっ突いてるのさ。十七年のあいだ何一つものもいわず、髪も梳かず、顔も洗わない。冬になると、毛皮の外套を差し込んでやるくらいのものでね、毎日の食べ物は小箱に入れたパンと、コップ一杯の水っきりなんだよ。順礼の女たちはそれを見ると、あれまあと感心して、ため息をつきながら、お金を入れて行くよ。『とんだ宝ものを見つけたものですね』と院主の尼さんは返答せられたが、すっかり腹を立ててしまわれた。リザヴェータが恐ろしく嫌いだったのでね。『あの女は面当てに強情を張って、あんなところに坐っているのだ。あれはみんな見せかけだ』とこういわれるが、わたしはこれが気に入らなかったよ。だって、わたしもその当時、自分でそういうふうに閉じこもってみたかったんだもの。『わたしの考えますには、神様と自然は一つのものでござります』とこういったところ、みんな一時に口を揃えて、『これは、これは!』というではないかね。院主の尼さんは笑いだして、何やら奥様とひそひそ話をされたうえ、わたしを傍へ呼んで撫でてくだされたよ。それから、奥様はわたしに薔薇色のリボンをくだされたが、なんなら見せてあげてもいいよ。ところが、坊様はすぐわたしにお説教をしてくれたが、その言い方が優しくて穏かで、きっと立派な知識のお話に相違ないと思うよ。わたしはじっと坐って聴いていたが、『わかったかな』と聞かれたとき、『いいえ、ちっともわかりませんでした。どうかわたしにはかまわずにおいてください』といったものだから、その時から、わたしはいつも一人ぼっちで、だれひとりかまってくれるものがなくなったよ、シャートゥシカ。ところが、その僧院《おてら》の中には、予言をするとて懲らしめを受けているお婆さんが一人あったが、この人が礼拝堂を出る時に、耳の傍へ口を持ってきて、こういうんだよ。『聖母とはなんだと思いなさる?』『えらいお母さん、すべての人間が頼りに思うお方』とこうわたしは返答した。『そうだよ、聖母は偉大なる毋。うるおえる母なる大地なんだよ。そしてこの中に人間の大きなよろこびが含まれてるのだからね。あらゆる地上の悲しみ、あらゆる地上の涙は、わたしたちにとってのよろこびなんだよ。自分の涙で足もとの土を五寸、一尺と、だんだん深く濡らしていくうちに、すべてのことをよろこばしく思うようになる。そうすると、けっして悲しみなんてものはなくなってしまう。これがわたしの予言なんだよ』この言葉が当時わたしの心に深くしみ込んでね、それからというもの、お祈りで額を地びたにつけてお辞儀をする時、きっといつも大地に接吻をするようになったの。自分で接吻をしては泣くんだよ。まあ、聞いてちょうだい、シャートゥシカ、この涙の中にはちっとも悪いところはないよ。だって、自分には少しも悲しいことがなくなって、ただ嬉しいばかりに涙の出ることがあるんだもの。涙がひとりでに出る、それは本当だよ。わたしはよく湖の岸へ行った。一方はわたしたちの僧院《おてら》で、一方は尖った山なの。それで、その山を本当に皆とんがり山といってたよ。わたしはこの山に登ると、東のほうを向いて地びたに倒れたまま、泣いて泣いて泣きつくすの。何時間泣いてたかしれないくらい。それに、その時はなんにも知らなければ、覚えてもいなかった。それから起きあがって、後を振り返って見ると、お日さまが沈みかかってるんだよ。そのまあ大きくて、華々しくって、見事なこと、――お前さんお日さまを見るのは好き、シャートゥシカ[#「シャートゥシカ」は底本では「シャートシカ」]? いいもんだね、だけど淋しい。それからまた東のほうを振り返ると、影、――その山の影が矢のように狭く長く、湖の上を遠く走って、一里も先にある湖の上の島まで届いてるの。この石だらけの島がちょうどまっ二つに、山影を切ってしまうんだよ。ちょうどまっ二つに切れたと思うと、お日さまはすっかり沈んでしまって、まわりは急に火が消えたようになる。そこで、わたしはふいに恐ろしく悲しくなって気がつくと、闇が怖いような気がしてくるんだよ、シャートゥシカ。だけど、わたしは何よりも一番、自分の子供のことを思って泣いたっけ……」
「いったい子供があったのかい?」初めからなみなみならぬ注意を払って聞いていたシャートフは、このとき肘でわたしをとんと突いた。
「あったともね、かわいい薔薇色をした子で、こんな小っちゃな爪をしてたの。ただわたしのつらいことには、それが男の子だったか、女の子だったか、まるで覚えていないんだよ。どうかすると、男の子のようにも思われたり、また女の子のようにも思われたりするんだもの。当時わたしはその子を生むと、すぐ精麻《バチスト》やレースにくるんで、薔薇色のリボンで帯をしめ、体じゅう花で飾って、お祈りを唱えると、まだ洗礼もしない子を抱いて行った、森を越して抱いて行ったの。ところが、わたしは森が怖いから、気味が悪くてならなかった。ところがね、わたしはその子を産んだけれど、亭主がだれかわからないのが何よりつらくて泣いたんだよ」
「しかし、亭主があったんだろうか?」とシャートフは大事を取りながらたずねた。
「お前さんはおかしな考え方をする人だねえ、シャートゥシカ。あったんだよ。きっとあったんだよ。けれど、あったって仕方がないじゃないか、まるでないのも同じことなんだもの。さあ、この謎は、あまりむずかしくないから、解いてごらんよ!」と彼女はにたりと笑った。
「赤ん坊はどこへ抱いて行ったの?」
「池の中へ連れて行ったよ」と彼女は吐息をついた。
 シャートフはまたわたしを肘で突いた。
「もし赤ん坊もなにも、てんでなくって、そんなことはみんな夢だとしたら、どうするんだい、え?」
「むずかしい問いをかけたね、シャートゥシカ」こうした問いに驚く色もなく、彼女はもの思わしげに答えた。「このことは、わたしなんにもいわないことにしよう。もしかしたら、なかったのかもしれない。だけど、わたしにいわせれば、それはお前さんのもの好きな詮索だてだよ。わたしはどっちにしたって、あの子のために泣くのをやめやしないから、夢なんかで見たんじゃないからね」大粒な涙が彼女の目に光った。「シャートゥシカ、シャートゥシカ、お前さんの奥さんが逃げ出したというのは本当?」ふいに彼女は両手を男の肩に掛けて、憫れげにその顔を見入った。「ねえ、お前さん腹を立てないでちょうだい。だって、わたし自分でも情けなくなるんだもの。実はねえ、シャートゥシカ。わたしこんな夢を見たのよ、――あの人がまたわたしのところへ来て手招きしながら、『仔猫さん、うちの仔猫さん、わたしのほうへ出ておいで!』と声をかけるの。わたしこの『仔猫さん』が何よりも嬉しかった。かわいがってくれてるのだ、とこう思ったから」
「もしかしたら、本当にやって来るかもしれんさ」とシャートフは小声でつぶやいた。
「いいえ、シャートゥシカ、それはもう夢だよ……あの人が本当に来るはずがないもの。お前さんこういう唄を知ってる?

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新しき高きうてなも
われは欲りせずこのいおりこそ
とどまりてあらんところぞ
世を捨てて住みや果てなん
君が上《え》を神にいのりつ
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おお、シャートゥシカ、わたしの大事なシャートゥシカ、どうしてお前さんはちっともわたしにきかないの?」
「とても言やしないだろうと思って、それでぼくもきかないのさ」
「いわないとも、いわないとも、殺したって言やしない」と彼女は早口に受けた。「烙き殺したって言やしない。どんなに苦しい目にあったって、わたしはなんにも言やしないから。人に知らせることじゃない!」
「そら、ごらん、だれだって自分の秘密を持っているからなあ」しだいに低くかしらを垂れながら、シャートフは一段小さい声でそういった。
「だけど、お前さんがきいたら、わたしいうかもしれないよ、本当に、いったかもしれないよ?」と彼女は有頂天になってくり返した。「なぜきいてくれないの? きいてちょうだい、よっくきいてちょうだい、シャートゥシカ、わたし本当にいうかもしれないよ。一生懸命たのんでごらん、シャートゥシカ、わたし承知するかもしれないんだよ………シャートゥシカ、シャートゥシカ!」
 けれど、シャートフは黙っていた。一分間ばかり沈黙が一座を領した。涙は、白粉を塗った彼女の頬を伝って、静かに流れた。彼女は両手をシャートフの肩におき忘れたまま、じっと坐っていたが、もうその顔を見てはいなかった。
「ええ、お前なんぞにかまっていられない、それに罪なこった」ふいにシャートフは床几から立ちあがった。「おい、立たないか!」と彼は腹立たしげに、わたしの腰かけている床几をひったくって、元の場所へ戻した。
「もうやって来るよ、けどられないようにしなけりゃあ。ぼくももう行かなくちゃ」
「ああ、お前さんはやっぱりうちの下男《しもおとこ》のことをいってるんだね!」とマリヤは急に笑いだした。「怖いの! じゃ、さよなら、ねえ、ちょっとの間でいいから、わたしの話を聞いてちょうだい。あのね、さっきキリーロフさんが、あの赤ひげの家主のフィリッポフといっしょにやって来たの。ちょうどそのときうちの男がわたしに飛びかかったものだから、家主があいつをつかまえて、部屋じゅう引き摺り廻すんだよ。するとあいつは『おれが悪いんじゃない、人の罪で苦しんでるのだ!』とわめくものだから、お前さん本当にゃなるまいけれど、わたしたちその場に居合わせたものは、みんなおなかをかかえて笑ったよ……」
「なんの、マリヤ、それは赤ひげじゃなくって、ぼくだったんだよ。ぼくがさっきあいつの髪をつかまえて、お前から引き放してやったじゃないか。あの家主は一昨日やって来て、お前たちと喧嘩をして行ったんだ。それを、お前がいっしょにしたんだあね」
「待ってちょうだい、本当にわたしはいっしょにしてた。お前さんだったかもしれないよ。だけど、くだらないことでいい合うことはない。あの男から見れば、だれに引き放されたって同じじゃないの」と彼女は笑いだした。
「出かけよう」ふいにシャートフはわたしを引っ張った。「門がぎいといったから。もしぼくらを見つけたら、また妹を撲りつけるよ」
 しかし、わたしたちが階段のところまで出る暇のないうちに、早くも門の辺で酔っぱらいらしいどなり声が響きわたり、乱暴な罵詈雑言が、豆を撒き散らすように聞こえてきた。シャートフはわたしを自分の部屋へ入れて、戸にぴんと鍵をかけた。
「きみ、ちょっとここで待ってなきゃならないよ、もし悶着がいやだったらね。そら、まるで豚の子みたいにわめいてるだろう。きっとまた門の閾につまずいたんだよ。いつでも長くなってぶっ倒れるんだから」
 しかし、悶着なしではすまなかった。

[#6字下げ]6[#「6」は小見出し

 シャートフは鍵をかけた戸の傍へ立って、階段のほうへ聞き耳を立てていたが、ふいにさっと飛びのいた。
「こっちへ来てる、そうだろうと思った!」もの凄い調子で彼はこうささやいた。「ひょっとしたら、夜なかまでつきまとって、離れないかもしれないよ」
 と、急にどんどん拳で強く扉を乱打する音が、続けざまに響いた。
「シャートフ、シャートフ、開けてくれ!」と大尉がどなっ