京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集10 悪霊 下』(1970年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP073-096

しまいますよ。あなたはまだ女の心を知らないんですね! それにあのひとは、あなたと結婚するのが一番とくなんです。だって、あのひとはなんといってもやはり自分の顔に泥を塗ってしまったんですからね。そのうえ、ぼくはあのひとに『小舟』式の話を、うんとして聞かせたんですよ。まったく、あのひとには『小舟』式の話が何より利きめがあるんだから、どれくらいの娘さんかってことも、大抵わかってまさあね。ご心配はいりませんよ、あのひとは平気で鼻歌を唱いながら、二人の死骸を跨ぎますよ――それに、あなたはまるで、まったく清浄潔白なんですもの、ねえ、そうじゃありませんか? ただあのひとは結婚後二年目ぐらいから、あなたをちくりちくりいじめるために、あの死骸を大切にとっとくぐらいのもんでさあ。どんな女でも、結婚する時には、夫の過去からこういうふうなものをさがし出して、それをとっときにするのが普通ですからね。しかし、その頃にはまた……実際、一年たったらすっかり具合が違いますよ、ははは!」
「きみ、馬車に乗って来たのなら、今すぐあのひとをマヴリーキイのとこまで連れてってくれませんか。あのひとはぼくがいやでたまらないから、もうぼくの傍を離れてしまうって、たった今、そういったんですよ。だから、むろんうちの馬車なんかに乗って行きゃしない」
「ヘーえ! じゃ、本当に帰ってしまうんですか? どうしてそんなことになったのでしょう?」ピョートルは馬鹿げた顔つきをした。
「ぼくがあのひとを少しも愛してないってことを、ゆうべなんとかして察したんだろうよ……もっとも、そのことは前から承知してたんだがね」
「へえ、いったいあなたはあのひとを愛してないんですか?」ピョートルは仰天したような顔色を作りながら引き取った。「そういうわけなら、どうして、昨日あのひとがやって来た時、そのまま自分のとこへ置いたんです? どうして潔白な紳士のするように、自分はお前を愛していないって、まっすぐに告白しなかったんです。それはあなたとして恐ろしく卑劣なやり方じゃありませんか。それに、あなたのおかげで、ぼくはあのひとに対して、陋劣きわまる人間にされてしまいますよ」
 スタヴローギンは突然からからと笑い出した。
「ぼくは自分の猿を笑ったんだ」と彼はすぐ、こう説明した。
「ああ! ぼくがちょっと道化の真似をしたのに、気がつきましたね」とピョートルもすぐに高笑いした。「ぼくはちょっとあなたを笑わそうと思って! 実はねえ、ぼくはあなたが出て来るやいなや、顔つきでもって、何か『不幸』があったな、と察しましたよ。ひょっとしたら、ぜんぜん失敗だったかもしれませんね、え? ああそうだ、間違いない」ほとんど満足のあまりむせ返らないばかりに、彼はこう叫んだ。「あなた方は一晩じゅう広間の椅子に行儀よく並んで坐ったまま、何かしら高遠な品性論でもしながら、貴重な時間を消費してしまったんでしょう……いや、失礼、失礼、何もぼくの知ったことじゃない。ぼくはもう昨日から、きっとあなたはこの一件を馬鹿馬鹿しくおじゃんにしてしまうに相違ないと、ちゃんと見当をつけてましたよ。ぼくがあのひとを連れて来たのは、ただ、あなたを楽しませようと思ってのことです。ぼくがついてたら退屈しないってことを、証明しようがためなのです。こんなふうなことなら、何百ぺんでもお役に立ちますよ。ぼくは全体として、人によくするのが好きなんでね。もしぼくの予想どおり、あのひとがあなたに不要だとすると(ぼくも実はそのつもりでやって来たんですが)、そうすると……」
「それじゃ、きみはただぼくを楽しませたいばかりに、あのひとを連れて来たんですか?」
「でなくって、なんのためでしょう?」
「ぼくに女房を殺させるためじゃないんですか?」
「ヘーえ、いったいあなたが殺したんですか? なんという悲劇好きな人だろう!」
「同じことだよ、きみが殺したんだから」
「へえ、ぼくが殺したんですって? ぼくはこれっぱかりも関係がないって、さっきからいってるじゃありませんか。しかし、あなたのおかげで、ぼくはそろそろ心配になって来た……」
「さっきの続きをいって見たまえ。きみは『もしあのひとが不要だとすれば』といったね」
「むろん、それならぼくにまかせておしまいなさい! うまくあのひとをマヴリーキイにくっつけますよ。もっとも、あの男を棚の傍へ立たしたのは、けっしてぼくじゃありませんよ。そんなことまで考えてもらっちゃ困りますからね。ぼくは今あの男が怖いんです。ところで、あなたはいま馬車に乗って来たかといいましたね。ぼくはちょうどそばを駆け抜けて来たんだが……本当にもしあの男がピストルを持ってたら、どうでしょう? ……いいあんばいに、ぼくも自分で一梃もって来ましたがね。ほら(彼はかくしからピストルを出して見せ、すぐにまたしまった)少し遠方だからと思って、持って来たんですよ……もっとも、こんなことはすぐにまるくおさめてあげます。あのひとはいま少しばかりマヴリーキイが恋しくなってるんです……少なくも、恋しくなるべきはずですからね……まったくのところ、ぼくは少々あのひとがかわいそうなんですよ! ぼくあのひとをマヴリーキイといっしょにしてやります。そうすると、あのひとはすぐにあなたのことを思い出して、あの男の目の前であなたを褒めちぎり、当人のことは面と向かってけなすようになります、――それが女心でね! ほう、あなたはまた笑いますね? あなたがそんなにうきうきして来たのが、ぼく嬉しくってたまらない。じゃ、どうです、行こうじゃありませんか。ぼくはまずマヴリーキイから始めましょう。ところであの……殺された連中のことは……ねえ、いま黙ってたほうがよかありませんか? 遅かれ早かれ知れるんだから」
「何が知れるんですって? だれが殺されたんですの? あなたは今、マヴリーキイさんのことを、なんとおっしゃったんですの!」突然リーザが戸を開けた。
「ああ! あなたは立ち聴きしたんですか?」
「あなた、マヴリーキイさんのことをなんとおっしゃったの? あの人が殺されたんですか?」
「ああ! それじゃよく聞こえなかったんだ! ご安心なさい、マヴリーキイさんは生きて、ぴんぴんしています。それはあなたご自身で、今すぐ確かめられますよ。あの人はいま庭の鉄柵に近い、路ばたに立っておられますからね……どうやら、夜っぴてそこで明かされたらしいんです。外套を着て、体じゅうぐっしょりになってね……ぼくがここへ来る時、あの人はぼくを見たんですよ」
「そりゃ嘘です。あなたは『殺された』とおっしゃいました……だれが殺されたんです?」胸をかきむしるような疑いの調子で彼女はしゅうねくたずねた。
「殺されたのは、ただぼくの家内と、その兄のレビャードキンと、二人の使ってた女中っきりです」とスタヴローギンはきっぱりいいきった。
 リーザはぴくりとなって、みるみる顔をあおくした。
「奇怪な、残忍な事件です、リザヴェータさん、馬鹿げきった強盗殺人の事件です」とピョートルはすぐさま豆のはぜるように、口を入れた。「火事のどさくさまぎれにやった強盗、それだけのことです。それは懲役人のフェージカの仕事です。つまり、みんなに金を見せびらかしたレビャードキンの馬鹿が悪いのです……ぼくはそのために飛んで来たんです……まるで、石で額をがんとやられたような気がしましたよ。スタヴローギンさんは、ぼくがこの事件を知らせると、あやうく卒倒しないばかりでした。ぼくらはあなたにお知らせしたものかどうかと、ここでいま相談したところなんですよ」
「ニコライさん、この方のいったことは本当ですか?」リーザはやっとの思いでこれだけいった。
「いや、嘘です」
「どうして嘘です?」ピョートルはぴくりとした。「それはまたなんのことです?」
「ああ、あたし気が狂いそうだ!」とリーザは叫んだ。
「まあ、あなた少しは察しなくっちゃいけませんよ、この人はいま気が狂ってるんですよ!」とピョートルは一生懸命に叫んだ。「なんといっても、妻となった人が殺されたんですからね! ごらんなさい、なんてあおい顔をしてるんでしょう……実際、この人は一晩じゅうあなたといっしょにいて、少しも傍を離れなかったじゃありませんか。どうしてこの人を疑うことができます?」
「ニコライさん、どうか、神様の前へ出たつもりで、あなたに罪があるのかないのか、本当のことをいってください。そしたら、あたしはあなたのおっしゃったことを、神様の言葉として信じます。ええ、誓ってもいいわ、あたしは世界の果てでもあなたについて行きますわ、ええ、行きますとも! 犬っころのようについて行きます……」
「なんだってあなたはそうこの人を苦しめるんです、本当になんてとっぴなことを考える人だろう!」ピョートルは憤然として叫んだ。「リザヴェータさん、ぼく誓っていいますよ、もし嘘だったら、ぼくを臼の中へ入れてついてもいいです。ニコライさんは潔白です。かえって自分が殺されたようになって、ごらんのとおり、うわごとばかりいってるんです。けっしてなに一つ、――心の中でさえ、罪を犯してはいません!………何もかもまったく強盗どもの仕業です。きっと一週間も経ったらさがし出されて、鞭でぶん撲られるに相違ありません……あれは懲役人のフェージカと、シュピグーリンの職工どものしたことです。このことは、町じゅう大騒ぎして噂をしています。だから、ぼくもいってるんです!」
「そうですか? そうですか?」全身をわなわな慄わせながら、リーザは最後の宣告を待っていた。
「ぼくは自分で手を下しもしなかったし、そんな企てに反対もしてたんですが、しかし、あの人たちが殺されると知っていながら、下手人を止めようとしなかったのです。さあ、リーザ、ぼくから離れてください」といって、スタヴローギンは広間へ歩み去った。
 リーザは両手で顔をおおうと、そのまま家を出てしまった。ピョートルは後を追おうとしたが、すぐまた広間へ引っ返した。
「あなたはそういう気なんですか? 本当にそういう気なんですか? じゃ、あなたは何ものも恐れないんですね?」ほとんどいうべき言葉も知らないで、口のほとりに泡を吹かせつつ、憤怒のあまりスタヴローギンに躍りかからないばかりの勢いで、彼は脈絡もない言葉を口走るのであった。
 スタヴローギンは広間の真ん中に立ったまま、ひと言も返事をしなかった。彼は左手でちょっと一房の髪を握りながら、自失したような微笑を浮かべていた。ピョートルは、ぐいとその袖を引っ張った。
「いったいあなたは駄目になってしまったんですか? あんなことを始める気になったんですか? 大方あなたはみんなを密告して、自分は修道院か何かへ行ってしまうんでしょう……しかし、ぼくはどっちにしたってあなたを殺してしまいますよ、いかにあなたがぼくを恐れないたって駄目だ!」
「ああ、きみだね、騒々しくしゃべってるのは?」やっと、スタヴローギンは相手の顔を見分けた。
「あ、早く駆け出してくれたまえ」とつぜん彼はわれに返った。「あのひとの後を追っかけてくれたまえ、馬車をいいつけて。あのひとをうっちゃっといちゃいけない……早く、早く追っかけて! だれにも見つからないように、家まで送ってやってくれたまえ。あのひとがあすこへ……死骸を……死骸を見に行かないように……力ずくで馬車へ乗せてくれたまえ……アレクセイ! アレクセイ!」
「まあ、お待ちなさい、どならないで! あのひとは、今もうマヴリーキイに抱かれてますよ……大丈夫、マヴリーキイがあなたの馬車に乗せやしないから……お待ちなさいっていうのに、今は馬車より大切なことがあるんですよ!」
 彼はふたたびピストルを取り出した。スタヴローギンは真面目な表情でそれを見やった。
「仕方がない、殺したまえ」静かな、ほとんど諦めたような調子で、彼はこういった。
「ふう、馬鹿馬鹿しい、人間はどこまで偽りの仮面《めん》をかぶっていられるんだろう!」ピョートルは本当にぶるぶると体を慄わした。「まったく、殺してしまいたいほどだ! 実際、あのひとも、きみには唾を吐きかけずにはいられなかったろう!………きみは本当になんという『小舟』だ! もう毀すより仕方のない、古い穴だらけの薪舟だ!……ちぇっ、せめて面当てにでも、まったく面当てにでも、目をさましたらよさそうなもんだがなあ! ええっ! 自分から額へ弾丸をぶち込んでくれと頼むくらいなら、今はもうどっちにしたって同じでありそうなもんだ!」
 スタヴローギンは奇妙な薄笑いを洩らした。
「もしきみがそんな道化でなかったら、ぼくも今は諾《うん》といったかもしれないんだ……ほんの少しばかりでも利口だったら……」
「ぼくは道化です。しかし、あなたが、ぼくのおもな半身たるあなたが、道化になってしまうのはいやです! ぼくのいうことがわかりますか?」
 スタヴローギンはその言葉の意味を悟った。それはおそらく彼一人だけだろう。かつてスタヴローギンがシャートフに向かって、ピョートルには感激《エンスージアズム》があるといったとき、相手はすっかり呆気に取られたものである。
「さあ、もうぼくの傍を離れて、どこなと勝手に行きたまえ。明日までには、ぼく何か自分の中から搾り出すかもしれないさ。あす来たまえ」
「本当に? 本当に?」
「そんなことがわかるものか!……さあ、早く、とっとと行きたまえ!」
 こういって、彼はホールを出てしまった。
「ふん、或いはいいほうに向くかもしれないぞ」とピョートルはピストルを隠しながら、口の中でつぶやいた。

[#6字下げ]3[#「3」は小見出し

 彼はリザヴェータの跡を追って駆け出した。彼女はまだあまり遠くまで行かないで、家からわずか十歩ばかりの所にいた。跡をつけて行った老僕のアレクセイが、今はうやうやしげに燕尾服の小腰をかがめ、帽子もかぶらないで、一歩あとからついて歩きながら、しきりに彼女を引き止めようとしていた。馬車のできるまで少し待ってくれと、根気よく頼むのであった。老人はすっかりおびえてしまって、ほとんど泣き出さないばかりだった。
「お前早く行かないか。旦那様がお茶をくれといってらっしゃるのに、だれもあげる人がないんだよ」
 とピョートルは老人をはねのけ、いきなりリザヴェータの手を取って、小脇にかい込んだ。
 こちらは、その手を振りほどこうとしなかったが、まだすっかり正気に返ってはいなかった。
「第一、あなたの歩いてらっしゃるのは道が違いますよ」とピョートルが猫撫で声でいい出した。「こちらへ行かなくちゃならないんですよ。そんなに庭について行くんじゃありません。それに、どうしたって歩いて行かれやしませんよ。お宅まで三露里からあるうえに、あなたは雨着も持ってらっしゃらないじゃありませんか。ほんのちょっと待ってくださるといいんですがなあ。実はぼく軽車《ドロシキイ》に乗って来たので、馬はそこの裏庭に立ってるんですよ。今すぐここへ廻して、あなたをお乗せしましょう、お宅までお送りしましょう。そうしたら、だれも見る人はありゃしません」
「あなた本当にご親切ねえ……」とリーザはやさしくいった。
「とんでもない、こういう場合には、だれだって、少し人情のある者は、ぼくみたいな立場におかれたら……」
 リーザはじっと彼の顔を見て、思わずびっくりした。
「あらまあ、わたしやっぱりあのお爺さんだと思ってたわ」
「ねえ、ぼくはあなたがそういう態度でこの事件に接してくださるのが実に嬉しい。なぜって、こんなことはみな実際ばかげ切った偏見ですからね。まあ、こういうことになってしまった以上、すぐあのお爺さんにいいつけて、馬車の用意をさしたほうがよかないでしょうか。ほんの十分ばかりです。その間ちょっと引っ返して、玄関の軒下で待ってようじゃありませんか、え?」
「あたしはまず何よりも……あの死骸が見たいんですの、どこにあるんでしょう?」
「おやおや、まあ、なんて馬鹿げた考えでしょう! それをぼくは心配していたんだ……いけません、あんなやくざなものはうっちゃっときましょうよ。それに、何もあなたなぞ見るがものはありませんやね」
「あたし、どこにあるか知ってます、あの家も知ってます」
「知ってらっしゃればどうしたのです! 冗談じゃない、この雨に霧じゃありませんか(ちぇっ、なんて神聖な義務を背負い込んだもんだ!………)。まあ、お聞きなさい、リザヴェータさん、二つに一つですよ。もしぼくといっしょに軽車《ドロシキイ》に乗ってらっしゃるなら、しばらくここで待っててください。ひと足も前へ出ちゃいけませんよ。いま二十歩も前へ出ると、どうしたってマヴリーキイ氏に見つかるんですから」
「マヴリーキイさん! どこに? どこに?」
「ふん。もしあの人といっしょに行きたいんでしたら、もう少しあなたをお送りして、あの人のいるところを教えてあげましょう。ぼくはもう従順なしもべですからね。ただぼくは今あの人の傍へは寄りたくないんです」
「あの人はあたしを待ってるんだ、ああ、どうしよう!」とつぜん彼女は足をとめた。くれないがさっとその顔にみなぎった。
「しかし、まあ、考えてもごらんなさい、あれがくだらない偏見のない人ならとにかく……ねえ、リザヴェータさん、こんなことはまるで、ぼくの知ったことじゃないですからね。ぼくはぜんぜん路傍の人です。それはあなた自身でもよくご承知のはずでしょう。が、それでもやはり、ぼくはあなたのためによかれと祈っています……よしわれわれの『小舟』が失敗に終わったとしても、よしそれがぶっ毀すより仕方のない、古い、腐った団平船にすぎなかったとしても……」
「まあ、痛快だこと!」リーザは叫んだ。
「痛快だなんていいながら、ご自分は涙を流してらっしゃるじゃありませんか。気をしっかり持たなきゃ駄目ですよ。どんなことでも、男に負けんようにしなきゃいけません、現代の世界では婦人といえども……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい(ピョートルは本当に唾を吐きかけかねない様子だった)。第一、くやしがることは少しもありませんよ。かえってああなったのが、もっけの幸いだったかもしれないのです。マヴリーキイ氏はああいう……つまり、その、感情的な人ですからね。もっとも、口数は少ないが……しかし、あの人にくだらない偏見がなかったら、という条件つきで、それもかえっていいことではありますがね……」
「痛快だこと、痛快だこと!」と、リーザはヒステリックに高笑いした。
「ああ、どうもしようがないなあ……リザヴェータさん」ふいにピョートルは改まってこういい出した。「ぼくは今あなたのために……いや、何もぼくの知ったことじゃない……ぼくは、昨日あなたがご自分で望まれた時、あなたのためにつくしましたが、今日は……ほら、ここからマヴリーキイ氏が見えますよ。ね、あすこに坐ってるでしょう。ぼくらに気がつかないで。ときに、リザヴェータさん、あなた、『ポーリンカ・サックス』を読みましたか?』
「なんですって?」
「『ポーリンカ・サックス』という小説があるんですよ。ぼくはまだ学生時分に読みましたがね、サックスという財産家の官吏が、不義をした細君を別荘で捕まえたんです……ちぇっ、馬鹿馬鹿しい、こんなことなんかしようがあるもんか! まあ、見てらっしゃい、マヴリーキイ氏はまだ家まで行きつかないうちに、あなたに結婚を申し込みますよ。あの人はまだぼくらに気がつかないんだ」
「ああ、気がつかないほうがいいんですよ!」ふいにリーザが、まるで気ちがいのようにこう叫んだ。「行きましょう、行きましょう! 森の中へ、野原のほうへ!」
 こういい捨てて、彼女はもと来たほうへ駆け出した。
「リザヴェータさん、それはあまり気が狭すぎますよ!」ピョートルはその後を追って行った。「どうしてあなたは、あの人に見られるのがいやなんです? それどころか、大威張りでまともに見ておやんなさい……もしあなたが何かその……処女の純……なんてことを気にしていらっしゃるのなら……それはまったく古くさい偏見ですよ……いったいどこへ行くんです、どこへ? どうも、あの走りようはどうだ! ねえ、いっそスタヴローギンのとこへ引っ返そうじゃありませんか、ぼくの軽車《ドロシキイ》に乗りましょうよ……いったいどこへ行くんです? そっちは野っ原ですよ、あっ、転んじまった!……」
 彼は立ちどまった。リーザは自分で自分の行く手も知らず、鳥のように飛んで行くので、ピョートルはもう五十歩ばかり遅れてしまった。と、彼女は苔の生えた短い切り株につまずいて、ばたりと倒れた。その瞬間、うしろのほうから恐ろしい叫び声が聞こえた。それは、彼女の走ってゆく姿と、続いて地びた[#「地びた」はママ]に倒れた様子を見て、野原を横切って駆け寄るマヴリーキイの叫び声だった。ピョートルはたちまち踵《きびす》を転じて、スタヴローギン家の門内へ引っ返し、大急ぎで自分の軽車《ドロシキイ》に乗ってしまった。
 マヴリーキイは恐ろしい驚愕におそわれながら、リーザの傍に立った。こちらは、す早く身を起こしていた。彼は上からかがみ込むようにして、女の手を両の掌に包むのであった。この邂逅の奇怪きわまる情景は、彼の頭脳を震盪させてしまった。涙は彼の顔を伝って流れた。今まで自分の崇拝していた女がこんな時刻に、こんな天気に、外套もなく、昨日の華やかな衣裳を着けたまま(それも今は揉みくたになって、しかも倒れたために泥まみれだった)、原中を狂ったように走っている姿を、目の前に見せられたのである……彼はひと言も口をきけないで、無言のまま自分の外套を脱ぎ、震える手で女の肩に着せ始めた。ふいに彼は、思わずあっと叫んだ。彼女の唇が自分の手にさわったのに気がついたのである。
「リーザ」と彼は叫んだ。「ぼくはなに一つ能のない男ですが、どうかあなたの傍を追っぱらわないでください!」
「ええ、ええ。さあ、早くここを出てしまいましょう。どうか、あたしをうっちゃらないでね!」彼女は自分のほうから男の手を取って、さきに立ってぐんぐんしょ引く[#「しょ引く」はママ]のであった。
「マヴリーキイさん」彼女はふいに声をひそめた。「あたし、あすこでは、始終、から元気を出してたけれど、ここへ来たら、死ぬのが怖くなった。あたし死ぬの、もうすぐ死んじまうの、だけど恐ろしい、死ぬのが恐ろしい……」固く男の手を握りしめながら、彼女はこうつぶやいた。
「ああ、だれでもいいから来てくれるといいのになあ!」彼は絶望したように、あたりを見廻した。「せめてだれか通り合わせの人でもあればなあ! あなた、足を濡らしてしまいますよ、あなたは……気がちがってしまいますよ!」
「大丈夫、大丈夫よ」と彼女は相手をはげました。「これでいいの。あなたが傍についててくださると、あたしそれほど怖くはないわ。じっと手を握って、あたしを連れてってくださいな……そして、今あたしたちはどこへ行くんでしょう、家へ? いいえ、あたし殺された人たちをさきに見たいの。あの人の奥さんが殺されたんですとさ。そして、あの人のいうには、あの人が自分で殺したんですって。そんなことは嘘だ。嘘だわねえ? あたし殺された人たちを自分で見たいの……あたしのためなんですもの……あの人はね、あの人たちが殺されたために、一晩であたしが嫌いになったんですって……あたし自分で見にいって、何もかも見抜いてしまうわ。さ、早く、早く、あたしあの家を知ってるんだから……あの火事のあった所よ……マヴリーキイさん、ねえ、あたしをゆるしちゃいけませんよ、あたしは穢れた女なんですから! ええ、あたしみたいなものがゆるされるはずはないわ! なんだって、お泣きになるんですの? さあ、あたしの頬っぺたを打ってください、この原中で、野良犬みたいに殺してちょうだい!」
「今、あなたを裁くものは、だれもありません」マヴリーキイはきっぱりといい切った。「神様はゆるしてくださるでしょう。ぼくなぞは、だれよりも一番、あなたを裁く資格のない者です!」
 しかし、二人の会話を書きつづけたら、ずいぶん奇妙なものができたろう。その間に二人は手に手をとって、まるで気ちがいのようにせき込みながら、足早に歩いた。彼らは真っ直ぐに火事場をさして進んだ。マヴリーキイは、なにか百姓馬車にでも出会いそうなものだと、しじゅう一縷の希望をいだきつづけたが、だれひとり出会う人もなかった。小粒な細かい雨足はあたりを一面に包んで、あらゆる光と陰を呑みつくし、何もかも、ただ一色の煙のような、鉛色のいっさい無差別なマッスに化してしまっていた。もうだいぶ前から昼の時刻になっているのに、まだ夜が明けないように思われた。突然この煙のような冷たい靄の中から奇妙な間のぬけた人影が浮かび出て、こちらへ進んで来る。今その当時を想像してみると、もしわたしがリザヴェータの位置に立ったら、とても自分の目を信じられなかったろう。やがて彼女は歓喜の声を上げた。すぐに近づいて来る人がだれかわかったのである。それはスチェパン氏であった。どんなにして彼が家を去ったのか? どんなふうにして家出という気ちがいじみた机上の空想が実現されたのか?――それは後で話すことにしよう。ここでは、ただこれだけいっておこう。この朝、彼はすでに熱病にかかっていたが、病いも彼を引き止めることはできなかった。彼はしっかりした足どりで、濡れた土の上を歩いた。察するところ、彼はこの計画を、無経験な書斎生活の許す限り、相談相手もなしにただ一人、できるだけ一生懸命に考え抜いたらしい。
 彼は『旅装』を調えていた。旅装といっても袖つきマントに、金具のついた漆塗りの幅の広いバンドを締め、それに新しい長靴をはいて、ズボンをその中へたくし込んでいた。おそらく彼はずっと前から、旅行者というのはこんなものと想像していたのだろう。歩きにくいてらてら光る軽騎兵式の深い長靴や、バンドは、四、五日前から用意していたに相違ない。鍔の広い帽子と、しっかり頸筋を包んだ毛糸の襟巻と、右手に持ったステッキと、左手に提げた思い切り小さな、そのくせ思い切りぎっしり詰まったカバンとが、彼の旅装の点睛となっていた。そのうえ、同じく右の手には傘を広げてさしていたが、この三つの物、――傘とステッキとカバンとは、初めの一露里は持ちにくくて窮屈だったし、二露里めからは重くなって来た。
「まあ、本当にあなたなんでしょうか?」と彼女は相手を見廻しながら叫んだ。初めの無意識なよろこびの突発は、すぐさま愁わしげな驚きに変わった。
「リーズ!」これもほとんど夢中で飛びかかりながら、スチェパン氏は叫んだ。「|あなた《シエール》、|あなた《シエール》、あなたもやはり……こんな霧の中を? まあ、ごらんなさい、あの空あかりを! 〔Vous e^tes malheureuse, n'est-ce pas?〕(あなたは不仕合わせなんでしょう、そうでしょう?)いや、わかります、わかります、お話には及びませんが、わたしのことも聞かずにおいてください。Nous sommes tous malheureux, mais il faut les pardonner tous. Pardonnons, Lise.(わたしたちはみんな不仕合わせだ、けれど、あの連中をみんなゆるしてやらなきゃなりません。ゆるしてやりましょうね、リーズ)そして、永久に自由になりましょうよ。この世間の煩いを振り棄てて、完全に自由の身となるためには、il faut pardonner, pardonner et pardonner!(ゆるさなければなりません、ゆるすことです、ゆるすことです!)」
「まあ、あなたはなぜ膝なんかお突きになるんですの?」
「それはこの世間と別れるに当たって、あなたの中にこめられたわたしの過去ぜんたいに別れを告げるためなんです!」彼は急に泣き出しながら、リーザの両手をとって自分の泣き腫らした目に押し当てた。「わたしは、自分の生涯中で美しかったすべてのものの前にひざまずくのです、接吻するのです。感謝するのです! いまわたしは自分を二つに裂いてしまいました。あちらのほうには二十二年間、空へ飛びあがることばかり空想しつづけた一個の狂人が残っているし、ここには打ちのめされて寒さに凍えはてた商人《あきうど》の家の老いぼれた家庭教師がさまよっています。s'll existe pourtant ce marchand(もしどこかにそんな商人があるとすれば……)、しかし、あなたはなんという濡れ方でしょう、リーズ!」自分の膝も湿った土でぐしょぐしょになったのに気がついて、急に身を起こしながら彼は叫んだ。「まあ、どうしたというんです、そんな着物をきて……しかも、歩いて、こんな原中を……あなた泣いてるんですか? 〔Vous e^tes malheureuse?〕(あなたは不仕合わせなんですね?)ああ、わたしもちょっと聞いたことがある……しかし、いったいあなたは今、どこからいらしったんです?」深い疑惑の念にマヴリーキイを見つめながら、臆病げな様子で、彼はたたみかけてこうたずねた。「mais savez-vous l'heure qu'il est?(が、いま何時でしょう、ごぞんじですか?)」
「スチェパンさま、あなたはあの人殺しのことを、何かお聞きになって?……あれはいったい本当なんでしょうか? 本当なんでしょうか?」
「あの連中! わたしはあの連中の仕業が空に映るのを、一晩じゅう眺めていました。あの連中は、ああでもするよりほかに仕方がなかったのです! (彼の目はふたたび輝き出した)。わたしは熱病やみの悪夢からのがれ出るのです、ロシヤをさがしに行くのです、existe-t-elle la Russie?(ああ、はたしてロシヤは存在しているのだろうか?)Bah, c'est vous, cher capitaine!(おや、大尉、あなたですか!)わたしはいつも固く信じていましたよ、どこかで立派な善行をなさるところへ、いつかは必ず行き会うに相違ないと思っていましたよ……だが、わたしの傘を持っていらっしゃい、それに、――ぜひとも歩かなきゃならないわけはないのです。ねえ、後生だから、この傘を持ってらっしゃい。わたしはどうせどこかで馬車を雇いますよ。実は、わたしが歩いて出たのはね、もし Stasie《スタシイ》([#割り注]つまりナスターシヤ[#割り注終わり])が、わたしの出て行くことを知ったら、往来一杯にわめき散らすに相違ない、とこう思ったからです。それで、わたしはできるだけ内証に、こっそり家をぬけ出したんですよ。この頃どこへ行っても、強盗が横行してるとかって、『声《ゴーロス》』などで書き立ててるのは承知してますが、しかし、わたしの考えでは、街道へ出るとさっそく強盗が現われるなんてことは、まさかありゃしないでしょうよ? 〔Che`re Lise,〕 今あなたは、だれかが殺されたとかいったようですね? O, mon Dieu(おやおや)、あなた、顔色が悪いですね!」
「行きましょう、行きましょう!」またもやさきに立って、マヴリーキイを引っ立てながら、リーザはヒステリイのように叫んだ。「待ってちょうだい、スチェパンさま」出しぬけに彼女は後へ引っ返した。「待ってちょうだい、あなたは本当にお気の毒な人ね、さあ、あたしが十字を切ってあげましょう。本当はあなたをお留めしたほうがいいのかもしれませんけど、まあ、やはり十字を切ってあげますわ。だから、あなたも『不仕合わせな』リーザのために、お祈りをしてちょうだいな、――だけど、ほんのちょっとでいいんですの。あまり一生懸命にならなくってよござんすわ。マヴリーキイさん、この赤ちゃんに傘を返しておあげなさい、ぜひ返してあげなくちゃいけないわ。ええ、そうよ――さあ、行きましょう! さあ、行きましょうってば!」
 彼らがかの運命的な家へたどり着いた時には、その前へ群がった黒山のような群衆が、スタヴローギンのことや、彼にとって妻を殺すのがいかに有利であったかなどということを、もうさんざん聞かされた後だった。しかし、くり返していうが、大多数の人間は依然として無言のまま、なんの動揺も示さずに聞いていた。前後を忘れて騒いでいるのは、ただ口やかましい酔っぱらい連中と、例の手を振り廻している職人に類した、「すぐに激しやすい」手合いぐらいなものだった。この職人は不断おとなしい男で知られていたが、もし何かに刺激を受けると、まるで綱でも切れたように、盲滅法飛んで行くたちであった。わたしはリーザとマヴリーキイがやって来たのに気がつかなかった。初めて、あまり遠からぬ群衆の中にリーザの姿を見つけた時、わたしは驚きのあまり棒立ちになってしまった。マヴリーキイには、はじめは気がつかなかった。たぶん雑沓がひどいので、どうかした拍子に一、二歩おくれたのか、それとも群衆に隔てられるかしたのだろう。リーザは自分のまわりへは目もふれず、またなに一つ気もつかないで、群集を押し分け押し分け進んだ。さながら病院から抜け出した熱病やみのようなその姿は、もちろんすぐに人々の注意をひいた。とつぜん人々は声高に話したりわめいたりし始めた。と、だれやらが大きな声で、
「あれがスタヴローギンの情婦《いろ》だ!」と叫んだ。
 するとまた一方から、
「殺したばかりじゃ足りないで、のこのこ見物に来やがった!」
 と、見ると、――うしろからだれかの手が、リーザの頭上《ずじょう》に振り上げられたと思うと、さっと打ち下ろされた。リーザは倒れた。その瞬間、マヴリーキイの恐ろしい叫び声が聞こえた。彼は助けに行こうと身をもがきながら、リーザと自分を隔てる一人の男を力まかせに撲りつけた。しかし、その瞬間、例の職人が両手でうしろから彼を抱きしめた。しばらくの間はあたり一面がやがやと入り乱れて、何が何やら見分けがつかなかった、リーザはそれから、いま一ど起きあがったようにおぼえている。けれど、すぐにまた新しい打撃にばたりと倒れた。とつぜん群衆はさっと分かれて、倒れたリーザのまわりにささやかな空地ができた。狂気のようになった血みどろのマヴリーキイは、泣いたり、わめいたり、われとわが手を捻じたりしながら、彼女の上に立ちはだかっていた。それからさきどうなったか、精確なことはわたしもおぼえていない。ただ、突然、人々がリーザをどんどん担ぎ出したことだけは記憶している。わたしもその後から駆け出した。彼女はまだ生きていた。もしかしたら、まだ意識があったかもしれない。
 後で、この群集の中から例の職人と、別に三人のものが検挙された。この三人は今日《こんにち》まで、自分らはあの兇行になんの関係もない、自分らが捕まったのは誤解にすぎない、といい張っている。或いは彼らのいうとおりかもしれない。職人などは、明らかな証跡を握られているにもかかわらず、元来わけのわからない男のことだから、いまだに秩序だって事件の説明ができないでいる。わたしも少々離れてはいたが、目撃者の一人として、予審で申立てをしなければならなかった。わたしの申立てはこうだった、――この事件はきわめて偶発的のものだし、それに関係者はみんな酔っぱらって、事件の糸筋などはまるで見失ってしまった連中だから、或いは前から狂暴な気分になっていたかもしれないが、ほとんど自分の行為を意識していなかったに相違ない。今でもわたしはこういう意見を持している。

[#3字下げ]第4章 最後の決議[#「第4章 最後の決議」は中見出し]


[#6字下げ]1[#「1」は小見出し

 この朝いろんな人がピョートルの姿を見た。そういう人はみんな同じように、彼がやたらに興奮していたことを後で思い出した。午後の二時頃に、彼はガガーノフのところへ寄った。彼はついその前日、田舎から出て来たばかりで、その家は訪問客で一ぱいになっていた。彼らは今度あらたに出来《しゅったい》した椿事を、一生懸命に熱くなって論じ合っていた。ピョートルはだれよりも一番にしゃべって、他人に自分の説を傾聴さした。彼はいつもこの町で『頭に穴の明いたおしゃべりの書生さん』ということになっていたが、いま彼はユリヤ夫人のことをいい出したので、町じゅう大騒ぎをしている場合だから、この話題はたちまち一座の注意を集めた。彼はつい近頃まで、夫人にとってごく親しい隔てのない相談相手であった立場から、いろいろと珍しい意想外な報道をもたらした。その中に彼は何げなく(もちろん不注意に)、町でも名を知られた多くの人に関するユリヤ夫人の意見も少々もらして聞かせたが、むろんそれはすぐに一座の人の自尊心を傷つけた。彼の話は全体に曖昧で、ちぐはぐだった。それは悪気のない正直な人間が、一度に山のような誤解を解かねばならぬ苦しい羽目になって、単純な駆け引きのない性分のために、何かいい出してどう締め括りをつけたものか、自分でもわからないでいるように見受けられた。
 彼はかなり不注意に、ユリヤ夫人はスタヴローギンの秘密をすっかり承知していて、あの陰謀を操ったのは、つまり、あのひとなのだ、――という意味のことをうっかり口からすべらした。つまり、夫人が、彼ピョートルに、あんなことをさせるように仕向けたのだ。なぜなら、彼自身あの『薄命なリーザ』に恋していたから、彼はほとんど[#「ほとんど」に傍点]自分でリーザを馬車に乗せて、スタヴローギンの家へ連れて行くように、うまく『持ちかけられ』てしまった、とこういうのである。
「ええ、ええ、あなた方はいくらでも笑ってください。ああ、ぼくも前からわかってたらなあ! これがどういう結果になるかってことが、ちゃんと前からわかってたらなあ!」と彼は語を結んだ。
 スタヴローギンに関するさまざまな不安げな問いに対して、彼はきっぱりと答えた。レビャードキンの横死は彼の考えによると、本当に純然たる偶然の出来事で、金を見せびらかした当のレビャードキンが徹頭徹尾わるいのだ、――こういうふうのことを、彼は格別あざやかに説明した。聴き手の一人が何げなく、きみは「そんなえらそうなことをいったって」駄目だ、きみはユリヤ夫人の家で飲み食いして、ほとんど寝泊りしないばかりの関係だったくせに、今となって自分から音頭を取って、夫人の顔に泥を塗っている、そんなやり方はけっしてきみの考えてるほど見っともいいものではない、と注意した。しかし、ピョートルはすぐに抗弁した。
「ぼくがあすこで飲み食いしたのは、何も金がなかったからじゃありません。あすこの人がぼくを招待したからって、それはぼくの知ったことじゃないでしょう。あれだけのことに対して、どのくらい感謝したらいいか、それはぼく自身の判断にまかせていただきたいもんですね」
 結局、全体として一座の受けた印象は、彼にとって有利なものであった。『まあ、あの男が無邪気な、間が抜けた、そして、もちろんからっぽな人間だとしても、ユリヤ夫人の愚かな真似に対しては、あの男に責任のありようがないじゃないか? それどころか、かえってあの男が夫人を引き止めるようにしていたんだもの……』
 その日の二時ごろ、とつぜん新しい報知が伝わった。ほかでもない。あれほど喧しい噂のあったスタヴローギンが、ふいに正午の汽車でペテルブルグへ立ってしまった、というのである。この報知は多大の興味を惹き起こした。多くの人は眉をひそめた。ピョートルは極度の驚きに顔色まで変えて、『だれがあの男を逃がしてしまったんだ?』と奇妙な叫びを発したとのことである。彼はすぐさまガガーノフの家を駆け出した。とはいえ、彼はそれから二、三軒の家で姿を見せた。
 日暮れごろ、彼は非常な困難を排して、ユリヤ夫人の家へも首尾よく入り込んだ。夫人は断じて彼に会わないといっていたのだ。このことは、三週間後、夫人がペテルブルグへ出発する前に、当の夫人の口から初めて聞いたのである。夫人は詳しいことはいわなかったが、『あの時はもう、お話にならないほど脅しつけられましたの』と彼女は胸を慄わせながら語った、察するところ彼は、もし夫人が何か『口をすべらそう』などという気を起こしたら、夫人をも連類者にしてしまうぞ、と脅しつけたものらしい。夫人威嚇の必要は、もちろん当の夫人などにはうかがい知れぬ、当時の彼の陰謀と密接な関係を持っていたが、どういうわけで彼が夫人の沈黙いかんをああ気づかったか、またどうして夫人の新しい憤激の爆発をああ恐れたか? それを夫人自身が知ったのは、それから五日ばかり経った後のことである。
 もうすっかり暗くなったその晩の七時すぎに、町はずれのフォマア横町の歪みかかった小家、――少尉補エルケリの住まいに、五人組の『仲間』がぜんぶ顔を揃えて集まった。この総会は、当のピョートルが決めたのだが、彼は不都合千万にもすっかり遅刻してしまった。会員の連中は、もう一時間から待ち呆けを食わされた。この少尉補エルケリは、ヴィルギンスキイの命名日に、鉛筆を手にし手帳を前に控えて、しじゅう無言のまま坐り込んでいた、例のよそ者の若い将校だった。彼はつい近頃この町へやって来て、町人うまれの老姉妹の住んでいるさびしい横町の家に間借りしていたが、もう近いうちに転任しなければならなかった。こういうわけで、彼の家は仲間の集まりに一ばん目立たない安全な場所であった。この奇妙な少年は、並みはずれて無口な性質で知られていた。どんなに一座が騒ぎたっていようと、どんなに異常な事柄が話題に上っていようと、自分からはひと言も口をきかないで、一生懸命に注意を緊張させ、子供らしい目つきで話し手を注視して耳を傾けながら、十晩でもぶっつづけに坐りとおすことができる。彼はきわめて愛くるしい、ほとんど利口そうに見えるくらいな顔だちをしていた。彼は五人組に入っていなかったが、ほかの連中はたぶんなにか実行的の方面で特別な任務を帯びているのだろうと想像していた。しかし、今では特別任務を帯びているどころか、自分の位置さえろくろくわきまえていなかったことが明瞭になった。ただ彼は、ついさき頃はじめて会ったピョートルに深く心酔していたにすぎないのである。もし彼が、時を過って堕落した社会主義かぶれの怪物《モンスタア》に出会って、何か社会的かつロマンチックな口実のもとに強盗の寄り合いのような徒党を作り、まず試験のために、だれでも出会い次第の百姓を殺して有り金を強奪しろと焚きつけられたら、彼は必ずのこのこ出かけて行って、いわれたとおりをするに相違ない。彼はどこかに病身な母親を持っていて、月々貧しい俸給の半ばを割いて送っていた、――ああ、彼女はこの亜麻色をしたかわいい頭に、どんなに熱い接吻をしたことだろう、どんなにわが子の上を思って慄えたことだろう、どんなにわが子の上を神に祈ったことだろう! わたしがこの男のことをこんなに長々と書いたのは、この少年がかわいそうでたまらないからである。
『仲間』は興奮していた。昨夜の出来事は彼らを顛倒さした。一同はどうやらおじけづいているらしかった。彼らが今まで熱心に加担していた単純な、とはいえ一定の系統のある醜悪事件は、ついに彼らにとって意想外な結果を来たしたのである。夜の火事、レビャードキン兄妹の惨殺、リーザに対する群衆の暴行、――こういうことはすべて彼らがプログラムの中で、夢にも予想しなかった意外事であった。彼らは専制と専横をもって自分たちを操る人間を、熱くなって非難した。手短かにいうと、彼らはピョートルを待っている間に、互いに調子を合わせて、もう一ど彼にはっきりした説明を求めよう、もし彼がもう一度この前のように、曖昧なことをいってごまかそうとするなら、もはやだんぜん五人組をぶち毀してしまって、その代わり『理想宣伝』の新しい秘密結社を創立しよう。が、それはもう自分たちの発意に係るもので、同等の権利に立つ民主的なものでなくてはならない、ということに決心したのである。
 リプーチンとシガリョフと民情通とは、ことにこの説を主張した。リャームシンは同意らしい顔つきをしながら、沈黙を守っていた。ヴィルギンスキイはなんとも決しかねて、まずピョートルの言い分を聞こうとした。で、一応ピョートルの説明を聴くことに決まった。しかし、彼はいつまで経ってもやって来なかった。こうした、人を眼中におかぬやり方は、いっそう彼らの心に毒をそそいだのである。エルケリはぜんぜん沈黙を守って、ただ茶を出すほうばかり一生懸命に斡旋していた。彼は湯沸《サモワール》も持ち込まなければ、女中も入れないで、コップに注いだのを盆にのせて、主婦のところから自分で運んで来るのであった。
 ピョートルはやっと八時半に顔を出した。彼は、一同の座をかまえている長いすの前の円テーブルへ、ずかずかと早足で近寄った。手には帽子を持ったままで、茶も辞退して飲まなかった。彼は毒々しい、いかつい、高慢げな顔をしていた。きっと人々の顔つきで、皆が『謀反』を起こしているな、と悟ったに相違ない。
「ぼくが口を開く前に、一つきみたちの思っていることをぶちまけてくれたまえ。きみたちはなんだか妙に取りすましているじゃないか」一同の顔をじろりと見廻しながら、意地悪げな冷笑を浮かべて、彼はこう切り出した。
 リプーチンは『一同を代表して』口を切った。憤慨のあまり声を慄わせながら、「こんな調子で続けていったら、かえって自分の脳天をぶち割るようなことになるかもしれない」といい放った。むろん、自分たちは脳天をぶち割ろうとどうしようと、少しも恐ろしいとは思っていない、いな、むしろそれを覚悟しているくらいだが、しかし、それはただただ共同の事業のためのみである(一座に動揺と賛成の気配が感じられた)。だから、どうか自分たちに対して、赤裸々にやってもらいたい、いつでも前もって知らせてもらいたい、そうしなかったら、どんなことになるかわかったものじゃない(またもや一座が動揺して、幾たりかの喉を鳴らす声が聞こえた)、あんなふうに仕事をするのは、自分たちにとって屈辱でもあれば、危険でもある……こんなことをいうのは、けっしておじけがついたためではない、ただ一人の人間が自分だけの一了簡で働いて、ほかの者が将棋の歩の役廻りをしていたのでは、その一人がやり損ったら、ほかの者までみんな引っかからなきゃならない(しかり、しかりという叫び、一座の声援)。
「ちょっ、馬鹿馬鹿しい、いったいどうしろというんだろう?」
「いったいあのスタヴローギン氏のくだらない陰謀が」リプーチンはかっとなった。「共同の事業にどういう関係を持ってるんです? あの人が中央本部と何か秘密の関係を結んでいるのは勝手です。ただしそのお伽噺めいた中央本部なるものが、実際に存在しているとすればだが、そんなことは別に知りたくもありませんよ。ところで、今度あの殺人が遂行されて、警察が騒ぎ出した。糸を手繰って行けば、しまいにゃ糸巻まで探り当てる道理ですからね」
「あなたがスタヴローギンといっしょに捕まえられたら、われわれも同様にやられることになるんですよ」と民情通がいい添えた。
「そして、共同の事業のためには、ぜんぜん無益なことですからね」とヴィルギンスキイが大儀そうに語を結んだ。
「なんてくだらないことを! あの人殺しはまったくの偶発事件だよ。フェージカが強盗の目的でやったことじゃないか」
「ふん! しかし、妙な暗合ですね」とリプーチンは体をもじもじさせた。
「お望みとあればいってしまおう、あれはみんなきみの手を通して行なわれたことなんだよ」
「どうしてぼくの手を通して?」
「第一にね、リプーチン君、きみ自身この陰謀に加担してたじゃないか。また第二には、レビャードキンを送り出すように命令を受けて、金を渡されたのはきみじゃないか。ところが、きみはなんということを仕出かしたのだ? もしきみがあの男を出発させたら、何も起こらないですんだんだよ」
「しかし、あの男を演壇に出して、詩を読ませたら面白かろう、という暗示を与えたのは、あれはあなたじゃありませんか?」
「暗示は命令じゃありません。命令は出発させろということでした」
「命令? ずいぶん奇妙な言葉ですねえ……それどころか、あなたは出発を中止するように命令したのです」
「きみは思い違いをしたのです。そして自己の愚劣と僭越を暴露したのです。ところで、あの殺人事件はフェージカの仕業で、下手人はあの男一人、つまり強盗の目的でやったことだ。きみは世間の噂を聞き込んで、それを信じてしまったんだ。きみはおじけがついたんだ。スタヴローギンはそんな馬鹿じゃない。その証拠には、あの人はきょう昼の十二時に、副知事と会見した後で、ペテルブルグへ立ってしまった。もし何かきみのいうようなことがあったとすれば、昼の日中、あの人をペテルブルグへ立たすはずがないじゃないか」
「そりゃぼくだって、スタヴローギン氏がみずから手を下したと、断言しやしませんよ」毒を含んだ無遠慮な調子で、リプーチンはこう引き取った。「スタヴローギン氏はぼくと同様に、なんにも知らなかったかもわかりませんさ。ねえ、ぼくは羊肉が鍋へぶち込まれるように、この事件に引き込まれたかもしれないが、わけは少しも知らなかった。それはあなたにも、わかり過ぎるほどわかっているはずです」
「じゃ、きみはだれが悪いというんです?」ピョートルは沈んだ目つきで相手を見つめた。
「つまり、町を焼く必要を感じた連中ですよ」
「しかし、きみがたがごまかそうとするのが、何より最も悪いんだよ。だが、一つこれを読んでみて、ほかの人にも見せたらどうです。ただ参考までにね」
 彼はレムブケーに宛てたレビャードキンの無名の手紙を、ポケットから取り出して、リプーチンに渡した。こちらはそれを読んで見て、だいぶびっくりしたらしく、何やら考え込みながら、隣りへ廻した。手紙は迅速に一座を一廻りした。
「これは本当にレビャードキンの手ですか?」とシガリョフがたずねた。
「あの男の手です」リプーチンとトルカチェンコ(例の民情通)が断言した。
「ぼくはきみがたがレビャードキンのことで、だいぶ後生気を起こしたのを承知してるから、それでちょっとご参考までに」手紙を受け取りながら、ピョートルはいった。「そういうわけでね、諸君、フェージカなんてどこの馬の骨とも知れぬやつが、まったく偶然にわれわれから、危険な人物を除いてくれたわけなんです。偶然てやつはこういう仕事をするからねえ! まったくいい教訓じゃないか!」
 会員連はちらりと顔を見合わせた。
「ところで、諸君、今度はぼくのほうから、きみがたにおたずねする番が廻って来ましたよ」とピョートルは開き直った。「ほかじゃないが、どういうわけで諸君は許可も受けずに、町を焼くようなことをあえてしたのです?」
「そりゃまたなんのことです! ぼくらが、ぼくらが町を焼いたって? そりゃ自分の罪を人に塗りつけるというもんだ!」と人々の叫び声が起こった。
「なに、ぼくにはよくわかってる、きみがたはあまり図に乗りすぎたんだ」とピョートルは頑強に語を次いだ。「しかし、これはユリヤ夫人相手の悪戯とは、ことが違いますからね。ぼくがここへ諸君のお集まりを願ったのは、つまり、諸君が愚かしくも自分からつつき出した危険の程度を、説明するためなんです。実際、それはきみがたばかりでなく、いろんなことに対して、重大な脅威となるんですからね」
「とんでもない、それどころか、たったいまわれわれのほうから、会員に一言の相談もなく、あれほど重大な、同時に奇怪な手段を採られたその専横と不公平の程度を、きみに指示しようと思ってたんですよ」
 今まで沈黙を守っていたヴィルギンスキイが、憤然としてこう切り出した。
「じゃ、諸君は否定するんですね? ところが、ぼくはこう断言する、町を焼いたのは諸君です、諸君ばかりです、ほかにだれもありゃしない。諸君、嘘をついちゃいけない。ぼくには正確な報知が手に入ってるんだから。ああいう専横な行為によって、諸君は共同の事業さえ危殆に陥れたのです。諸君は無限な結社の網の、わずか一つの結び目にすぎない。そして、中央本部に絶対盲従の義務を有してるんです。ところが、諸君のうち三人まで、なんの通牒も受けないで、シュピグーリンの職工に放火を煽動した。こうして火事が起こったのです」
「三人とはだれです? ぼくらのうち三人とはだれのことです?」
「おとといの夜三時すぎに、きみは、――トルカチェンコ君は『忘れな草』で、フォームカ・ザヴィヤーロフを焚きつけたじゃないか」
「冗談じゃない」とこちらは躍りあがった。「ぼくはほんのひと言をいったかいわないかだし、おまけに、それもなんの気なしだったのです。ただあの朝、やつがぶん撲られたからですよ。ところが、やつがあんまり酔っぱらってるのに気がついたので、そのままうっちゃってしまったんです。今あなたがそういわれなかったら、ぼくはまるで忘れてしまったくらいでさあね。たったひと言のために、町が焼けるなんてことがあるもんですか」
「きみは一つぶの火の粉のために、大きな火薬庫がすっかり爆破してしまったのを、びっくりする人間によく似ているよ」
「ぼくは隅のほうで、小さな声であいつに耳打ちしたのに、どうしてそれがあなたに知れたんです?」トルカチェンコはふいに気がついて、こうたずねた。
「ぼくはあすこのテーブルの下に隠れてたのさ。ご心配にゃ及びませんよ、諸君、ぼくは諸君の一挙一動ことごとく承知していますからね。リプーチン君、きみは毒々しそうな笑い方をしてるね。ところが、ぼくはね、さきおとといの夜中、きみが寝室でふせりながら、細君を抓ったことまで知ってるからね」
 リプーチンはぽかんと口を開けたまま、真っ青になった。
(このリプーチンの手柄話は、彼の使っているアガーフィヤという女中がしゃべったことが、後になってやっと判明した。ピョートルはそもそもの初めから、この女に金を握らして間諜の役を命じていたのである)
「ぼくは事実を証明していいですか?」とつぜんシガリョフが席を立った。
「証明したまえ」
 シガリョフは腰を下ろして、身づくろいした。
「ぼくの了解したところによると(それに了解しないわけにゆかない)、あなたは最初に一度と、それから後にもう一度、きわめて雄弁に、――もっとも、あまり理論的ではありましたが、――いかに無限の結社の網でロシヤがおおいつくされているかを、われわれに説明してくだすった。ところで、一方からいうと、現に活動しつつあるこれらの結社は、おのおの絶えず新しい党員をつくって、さまざまな支社によって、無限に広がっていきながら、絶え間なく地方官憲の権威を失墜さして、住民の間に懐疑の念を呼び起こし、シニズムと醜行と、いっさいのものに対する絶対の不信と、よりよき状態に対する渇望をかもし出し、ついには火事という国民的性質を帯びた方法をもって、もし必要と認められたら、予定されたある瞬間に、一国を挙げて絶望の淵に沈めてしまうという、系統的な破邪の宣伝を目的とすべきである、とこういうふうなお話でした。ぼくはあなた自身の言葉を、一語一語違わないように努めながらくり返したのですが、どうです、違っていますかしらん? これは確かあなたが、中央本部から送られた代表者として、ぼくらに報告された予定の行動なのです、そうじゃありませんか? もっとも、その中央本部とやらも、今日までまるでえたいの知れない、われわれにとってほとんど夢みたいな存在物なんですがね」
「そのとおりです。もっとも、きみの言い方は少し冗漫だがね」
「人はだれでも自由な発言権を持っています。ところで、あなたの言葉から推測するところ、ロシヤ全国を網目のごとくおおっている結社の数は、いますでに百という数に上っているそうです。そうして、あなたの仮定を敷衍すると、もし各人が自分の仕事を完全にやり遂げたら、ロシヤ全国は与えられたる時期までには、一発の信号を合図に……」
「ええっ、面倒くさい、そうでなくってさえ仕事はたくさんあるんだ!」ピョートルは肘掛けいすに坐ったまま、くるりと向きを変えた。
「よろしい、じゃぼくは簡略して、単なる質問をもって結びましょう。われわれはすでにさまざまな醜行を見ました、住民の不満を見ました、この地の行政官の没落を目前に見たばかりか、みずからそれに手を下しました。そして、最後に、この目で火事さえ見たのです。そのうえ、あなたは何が不満なのでしょう? これはあなたの予期したプログラムじゃありませんか? いかなる点において、われわれを譴責しようとするんですか?」
「きみらの専横を責めるんだ!」ピョートルは猛然として叫んだ。「ぼくがここにいる間は、ぼくの許可なしに行動はできないはずだ。もうたくさん。もう密告の用意はできてるんだから、明日といわず今夜にも、きみらはみんなふん捕まってしまうんだ。これがきみらの受ける報いだ。これは確かな情報なんだよ」
 これにはもうみんな、開いた口がふさがらなかった。
「しかも、単に放火使嗾の件ばかりでなく、五人組として捕まるんだ。密告者には結社の秘密な連絡がよくわかってるんだからね。さあ、きみたちの悪戯がこういうことになったんだよ!」
「きっと、スタヴローギンだ!」とリプーチンが叫んだ。
「なんだって……なぜスタヴローギンだ?」ふいにピョートルはへどもどしたようなふうだった。
「ちょっ馬鹿馬鹿しい」彼はすぐわれに返った。「それはシャートフだよ! おそらく諸君も今はご承知だろうけれど、シャートフは一時われわれの仕事に加わってたことがあるんです。ぼくは何もかもうち明けなきゃならない。ぼくは、あの男の信用し切っている二、三の人を通じ、絶えずあの男を監視しているうちに、驚いたことには、あの男が、各結社連絡の秘密もその組織も……つまり、何もかも知り抜いているということを発見したのです。以前、自分が加担していた罪を免れるために、あの男はわれわれ一同を密告しようと決心した。が、今まで躊躇していたので、ぼくもあの男を大目に見ていた。ところが、こんどきみがたはあの火事でもって、やつの心の綱を切って放したのだ。彼はあのために極度の震撼を受けて、もう躊躇の念を棄ててしまった。だから、明日にもわれわれは放火犯および国事犯として、捕縛されなきゃならないのだ」
「本当だろうか? どうしてシャートフが知ってるんだ?」
 一座の動揺は名状すべからざるものがあった。
「いまいったことはすっかり本当です。ぼくは自分の足跡を諸君に啓示して、発見の道筋を説明する権利を持たないけれど、さし当たりこれだけのことは、諸君のためにすることができるのです。ほかじゃない、ぼくはある人間を通して、シャートフに影響を及ぼす。すると、あの男は自身そんなことを夢にも悟らないで、密告を延ばすことになる。しかし、それもわずか一昼夜きりで、一昼夜以上の猶予はもうぼくの力に及ばない。そういうわけで、きみがたも、明後日の朝までは、自分の安全を保障されたものと思ってさしつかえないのだ」
 一同は押し黙っていた。
「もういよいよあいつをやっつけなきゃいかんぞ!」最初にトルカチェンコがどなった。
「とっくにやってしまわなきゃならなかったんだ!」リャームシンが拳固でテーブルをとんと叩きながら、毒々しい声でこういった。
「しかし、どういうふうにやるんだ?」とリプーチンがつぶやいた。
 ピョートルはすぐこの問いの尻を押えて、自分の計画を述べた。それはこうである。シャートフの保管している秘密の印刷機械を引き渡すという口実の下に、明日の晩、日が暮れてから間もなく、機械の埋めてある寂しい場所へおびき出し、『そこで片づけてしまおう』というのである。彼はいろいろ必要なデテールに立ち入って説明し(それはいま略しておこう)、シャートフの中央部に対する曖昧な態度を詳しく話した。が、これもやはり読者にはもうわかっていることだ。
「それはまったくそうに違いないけれど」リプーチンが思い切りの悪い調子でいい出した。「しかし、また……同じような性質の異変が重なるわけだから……あまり人心を脅かし過ぎやしないかしらん」
「むろん」とピョートルは相槌を打った。「しかし、それもちゃんと見抜いてあるんだ。完全に嫌疑を避ける方法が講じてあるんだよ」
 彼は依然として正確な語調で、キリーロフのことを話して聞かせた。彼が自殺を決心したこと、合図を待つと約したこと、死ぬ前に書置きを遺して、口授されることを全部わが身に引き受けるといったこと、――つまり、読者のすでに知悉していることばかりである。
「自殺しようという彼の決心、――哲学的な、というより(ぼくの見るところでは)むしろ気ちがいめいた決心が、――あちら[#「あちら」に傍点]の本部の知るところとなったのです」とピョートルは説明を続けた。「なにしろ、あちら[#「あちら」に傍点]では髪の毛一筋も、塵っぱ一本も見失わないで、それをみんな共同の事業のために利用するんだからね。本部ではこの決心のもたらす利益を見抜き、かつ彼の覚悟の徹頭徹尾まじめなことを確かめたので、ロシヤまで帰る旅費をあの男に送って(あの男はなぜかぜひともロシヤで死にたいというのだ)、ある一つの任務を託したところ、彼はその遂行を誓った(そして、実際、遂行したのだ)。その上に、本部から命令のあるまでは、けっして自殺を決行しないという、すでに諸君もご承知の誓いを、あの男に立てさしたのだ。すると、彼はすべてを約束した。ここでちょっとご注意を願いたいのは、彼がある特別な事情で結社に入っていて、事業のためになることをしたいと、望んでいることです。しかし、これ以上、うち明けるわけにいかない。そこで明日シャートフの後で[#「シャートフの後で」に傍点]、ぼくはあの男に口授して、シャートフの死因は自分にあるという手紙を書かせるつもりだ。これは非常にもっともらしく思われるんだ。なぜって、あの二人は初めごく仲がよくって、いっしょにアメリカへも行ったんだが、後に喧嘩をおっ始めたんだからね。こういうことはすっかり遺書の中に書き込むつもりだ……それに……それに場合によっては、まだほかにも何か、キリーロフに背負わしてやってもいい。たとえば檄文のことだとか、放火の責任の一部分だとか……もっとも、このことはぼくももっとよく考えてみるがね。ご心配にゃ及びませんよ。あの男はくだらない偏見を持っていないから、なんでも承知してくれますよ」
 一座に疑惑の声が起こった。話があまりとっぴで、小説じみているように思われたのである。もっとも、キリーロフのことはみんな多少とも耳にしていた。ことにリプーチンなぞは、一ばん深く知っていたのである。
「もしあの男がとつぜん考えを変えて、いやだといい出したらどうです」とシガリョフがいった。「その話が本当としたところで、あの男はやはりまったく気ちがいなんだから、その希望は不確かなものといわなきゃなりませんよ」
「ご心配はいりませんよ、諸君、あの男はいやだなんて言やしない」とピョートルは断ち切るようにいった。「契約によると、ぼくは前日、つまり今日ですな、あの男に予告しなきゃならないのです。そこで、ぼくはリプーチン君を誘って、今すぐいっしょにあの男のところへ出かけよう。そうするとリプーチン君は、ぼくのいったことが嘘か本当か確かめた上で、必要とあれば、今夜すぐにでもとってかえして諸君に報告するでしょう。もっとも」こんな人間どもを相手にして、こうまで一生懸命に説いて聞かせるのは、光栄すぎて罰が当たるとでも感じたらしく、急に凄まじい憤懣の色を浮かべて、ぷつりと言葉を切った。「もっとも、諸君のご随意に行動したまえ。もし諸君が決心しなかったら、この結社はこなごなに粉砕されてしまうのだ。それもただ諸君の反抗と、裏切りが原因なのですぞ。そうすれば、われわれはこの瞬間から、めいめい自由行動を取ることになる。しかし、前もって承知してもらいたいことがあります。もしそういうふうになれば、シャートフの密告と、それに関連する不快事のほかに、もう一つちょっとした不快事を背負わなくちゃなりませんよ。それは結社組織の際に固く宣言したことだからね。ところで、ぼく自身にいたっては、ぼくはね、諸君、あまり諸君を恐れちゃいませんよ……どうかぼくが諸君にしっかり結びつけられてる、などと思わないでくれたまえ……もっとも、そんなことはどうでもいいや」
「いや、ぼくらは決心します」とリャームシンは言明した。
「ほかに仕方がないからね」とトルカチェンコがつぶやいた。「もしリプーチンがキリーロフの件の事実を確かめたら……」
「ぼくは反対です。ぼくはそんな残忍な決議には極力反対します!」突然ヴィルギンスキイが席を立った。
「しかし?」とピョートルはきき返した。
「しかし[#「しかし」に傍点]とはなんです?」
「きみがしかしといったので、ぼくはその次を待ってるのさ」
「ぼくはしかし[#「しかし」に傍点]などといわなかったはずです……ただぼくがいいたかったのは、もし皆がそんな決議をすれば……」
「その時は?」
 ヴィルギンスキイは口をつぐんだ。
「ぼくの考えでは、自己の生命の安全を等閑に付するのはかまわないが」出しぬけにエルケリが口を開いた。「もし、共同の事業を傷つけるような場合には、自己の生命の安全を等閑にすることはできないと思います……」
 彼はまごついて顔をあかくした。一同は自分の想念に没頭していたが、それでも、みんなびっくりしたように彼を見つめた。この男が同じように口を開こうなどとは、まるで思いがけなかったのである。
「ぼくも共同の事業に与《くみ》するものです」ふいにヴィルギンスキイがこういった。
 一同は席を立った。明日はもう一ところに集まらないで、昼までにいま一ど一同の情報を総合した上、いよいよ最後の打ち合わせをしようと決定した。そして、印刷機械の埋めてある場所が指示せられ、めいめいの役割が決められた。リプーチンとピョートルとは相ともなって、さっそくキリーロフのもとへおもむいた。

[#6字下げ]2[#「2」は小見出し

 シャートフが密告するということは、『仲間』のもの一同かたく信じ切っていた。しかし、ピョートルが自分らを、まるで将棋の歩《ふ》のように翻弄しているということも、やはり信じ切っていた。それから、明日はなんといっても、一同が揃って指定の場所へ集まり、シャートフの運命を決してしまうのだということも、また覚悟していた。とにかく、彼らはまるで蠅のように、大きな蜘蛛の巣にかかったのを感じて口惜しがったけれど、それでも恐怖に震えあがっていた。
 ピョートルは疑いもなく、彼らに対して拙いことをしたに相違ない。彼がほんの心もち現実に色どりをほどこしたら、万事はもっと穏かに、もっとやさしく[#「やさしく」に傍点]運んだはずなのである。ところが、彼は事実を穏かな光に包んで、古代ローマの市民らしい行為とかなんとか、そんなふうに説明しようとしないで、単に粗野な恐怖と、自己の生命に関する威嚇のみに力点を置いた。これなぞは、すでにぜんぜん礼儀を蹂躪した仕方である。もちろん万事が生存競争の世の中で、ほかになんの自然律もないのはわかりきっているが、しかしなんといっても……
 けれど、ピョートルは彼らの『ローマ市民』らしい心に触れる暇がなかったのだ。彼自身からして、常軌を逸したような心持ちになっていた。ほかでもない、スタヴローギンの逃亡は彼を仰天させ、圧倒してしまったのである。スタヴローギンが副知事に面会したというのは、彼のでたらめである。それどころか、彼はだれ一人、母親にさえ会わないで出発したのだ。実際、だれも彼を止めるもののなかったのが、不思議なくらいである(その後、地方長官はこの点について、特別な弁明書を徴された)。ピョートルはいちんち探り廻ったけれど、さし当たりこれという手蔓もなかった。彼がこんなに心配したのは、これまでにないことである。実際そう急に綺麗さっぱりと、スタヴローギンを諦めるわけにいかないではないか! それがために彼は仲間に対しても、あまり優しくできなかったのである。それに、彼はいま自由な体ではなかった、――猶予なくスタヴローギンの後を追おうと、決心したのである。ところが、シャートフの一件が彼の足を止めた。万一の場合のため、五人組をしっかり固めておかなければならない。『あれだって、ただうっちゃってしまうわけはない。或いはまた何かの役に立つかもしれないからなあ』こういうふうに考えたものとわたしは想像する。
 シャートフのほうはどうかというと、ピョートルは彼の密告を固く信じて疑わなかった。もっとも、『仲間』に話した密告書などということは、みんなでたらめなのである。彼はそんな密告書などかつて見たことも聞いたこともなかったが、それがこしらえてあることは、二二が四というほど確かなものと信じていた。シャートフはどんなことがあっても、今度の事件、――リーザの死、マリヤの惨殺を、我慢することはできない、今この瞬間にこそ、密告の計画を断行するに相違ない、と信じ切っていたのである。ことによったら、案外かれはこの想像に確かな根拠を持っていたかもしれない。また彼が個人的にシャートフを憎んでいたのも、やはりわれわれの間に知れわたった事実である。かつて彼ら二人の間にはいさかいがあったが、彼はけっして侮辱を忘れるような男ではない。これこそおもな理由ではないか、とさえわたしは信じているのである。
 町の歩道は煉瓦畳の狭くるしいもので、通りによると板張りの所さえあった。ピョートルはその歩道を一ぱいに占領しながら、真ん中を無遠慮に歩いて行った。そして、リプーチンが並んで歩く場所がなくて、時には一歩うしろからついて来たり、時には並んで話しながら歩くために、往来のぬかるみへ駆け下りたりしているのに、彼は一顧の注意さえ払おうとしなかった。ピョートルはふと思い出した、――ついこのあいだ彼自身も、スタヴローギンの後からついて行くために、これと同様にぬかるみの中をちょこちょこ駆け出したものだ。すると、スタヴローギンはちょうどいまの自分のように、歩道いっぱいに幅をしながら真ん中を歩いて行ったのだ。あの時の光景をまざまざと思い浮かべると、彼は狂暴な憤怒に息がつまるような気がした。
 けれど、リプーチンも憤懣に息をつまらせていた。たとえピョートルが『仲間』のものを、思う存分に扱うとしても、自分に対しては……なぜといって、自分は仲間の中のだれよりも一番よく事情を知って[#「知って」に傍点]いて、この事件についても一ばん密接な関係をもっており、だれよりも一ばん深く立ち入っている。そして、今まで間接とはいいながら、絶え間なくこの事件に力を添えていたのだ。ああ、彼は立派にわかっている、――ピョートルは今でさえ絶体絶命の場合[#「さえ絶体絶命の場合」に傍点]には、彼リプーチンを亡きものにするに相違ないのだ。しかし、彼はもうとうから、ピョートルを憎んでいた。それは何も、いっしょに仕事をするのが危険だからではなく、その傲慢な態度のためだった。今度こういう残虐を決行せねばならぬ羽目になったので、彼は仲間をみんないっしょにしたより以上に業を煮やしたのである。けれど、悲しいことには、明日の晩かれは間違いなく『奴隷のように』、第一番に約束の場所へ出かけて行くばかりか、ほかの者さえ引き立てて連れて来るに相違ない。それは彼自身にもわかっていた。が、もし明日までにどうかして、わが身を滅ばさずにピョートルを殺すことができたら、彼は必ず殺してしまうに違いないのだ。
 こうした想念に没頭してしまって、彼は無言のまま暴君のうしろから、ちょこちょこと小刻みに歩いて行った。こちらは彼のことなど忘れ果てた様子で、ときどき不注意に、肘で彼を突っつくばかりだった。突然ピョートルは、町でも一ばん賑かな通りに立ちどまって、ある料理屋へ入って行った。
「いったいどこへ行くんです?」リプーチンはかっとなった。「ここは料理屋じゃありませんか」
「ぼくはビフテキが食いたいのさ」
「冗談じゃない、ここはいつも人で一ぱいですよ」
「いいじゃないか」
「しかし……遅れるじゃありませんか。もう十時ですからね」
「あすこへ行くのに、遅れる遅れないのってわけはないさ」
「しかし、ぼくは遅くなっちゃ困りますよ! 仲間がぼくの帰りを待ってるじゃありませんか」
「かまうもんかね。きみ、あんな連中のところへ行くのは、馬鹿馬鹿しいじゃないか。今日はきみたちが騒ぐもんだから、ぼくまだ食事をしてないんだよ。キリーロフのところなら、遅ければ遅いだけ確かなんだから」
 ピョートルは別室に陣取った。リプーチンは腹立たしげな、侮辱されたような顔つきで、わきのほうの肘掛けいすに腰を下ろしながら、相手の食事をじっと見つめていた。こうして三十分以上も経った。ピョートルは泰然と落ちつき払って、さもうまそうに舌を鳴らしながら食べ始めた。そして二度も芥子を取り寄せたり、その後でビールを注文したりして、そのあいだひと言も口をきかなかった。彼は深いもの思いに沈んでいた。彼は一どきに二つの仕事をすることができた、――つまり、物を味わいながら食べると同時に、深いも