京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

「松本サリン事件 新実智光被告の供述調書の要旨」(『オウム法廷』11巻)

【松本サリン事件 新実智光被告の供述調書の要旨】
 ●乙E2号証
 土谷正実サリンの製造に成功し、いくつかの事件を起こした。池田事件(池田大作創価学会名誉会長暗殺未遂事件)、松本事件、地下鉄事件である。池田事件は(九三年)十一月か十二月、二回とも失敗した。特に二回目に私は死にかけた。噴霧は試行錯誤を繰り返し、成功したのは松本が最初だった。
 松本サリン事件の目的は二つある。一つは裁判の妨害だった。一九九四年七月、(教団松本支部用地の)売り主との民事訴訟の判決(で教団側に不利な結論)が出るということはないが、(住民側の反教団の動きは)教団への犯罪と考えて殺害を考えた。
 もう一つは、実験の意味合いだった。首都壊滅の意向があり、とりあえず松本でやってみようということで、第六サティアン一階の尊師の部屋で話し合った。その際、具体的計画を立てたのは村井(秀夫元幹部)と私だった。
 実際に行ったのは七人。村井が総括指揮。運転が端本(悟)。中川と遠藤は防除マスク。私は警備の指示役。
 目標を裁判官官舎に変えたが、十分間噴霧し、七人が死亡し、裁判が延期となり、前の二つ(二回にわたる池田事件を指す)と比べて成功した。
 ●乙E4号証
 池田をねらったのは、フリーメーソンの手先であり、いずれ戦わなければいけない相手だからだ。
 私自身も、以前に創価学会の酔っぱらいに攻撃されたことがあるし、(教団を批判する報道をした)『サンデー毎日』の背後にある池田の抹殺を考えた。
 最初はラジコンヘリを考えた。一〇トンぐらいを(東京の)山手線内に撒くことを考えていて、その一環として、ラジコンヘリを考えた。
 その後、噴霧装置(霧どんどん)で実際に噴霧した。最初は(東京・八王子市の創価学会の)牧口記念会館にサリンを撒いたが、どの新聞にも記事が載らなかったので効果がなかったことがわかり、十二月に新たな第二次計画を試みた。
 犯行準備は松本とほぼ同じで、防毒マスクを準備した。強力なファンで放出することにした。
 村井と私が噴霧車に乗り、見張りと逃走のため遠藤と中川らがファミリーレストランで待機した。
 村井がサリンを注入して、牧口記念会館に向かったが、突然、噴霧車から火が出た。ガードマンが気づいて、ワゴン車で跡をつけてきた。Uターンしてなんとかまいたが、(私は)体がしびれてきて動けなくなってきた。周囲は心臓が止まっている、と騒いでいたが、私自身はすごい快感で、本当にいい気持ちだった。サリンは効果がある。熱するためにはバッテリーにした方がいいと思った。
(松本サリン謀議の)当日は、尊師の周りに四人が集まった。「松本の裁判所にサリンを撒いて、効くかどうかやってみろ。裁判所が開いているときにやったらどうだ」と尊師が言い、村井に聞くと「前のはやめた、バッテリーにしたから大丈夫」と言った。しかし私は、昼間で、警察や通行人に見つかったらどうすることも出来ないのではないかと考えた。村井は「サリンは見えないから絶対大丈夫だ」と言ったが本当かな、と思った。
 端本にはサリン噴霧車の運転の指示があった。私は二トンのアルミ車を用意してくれないか、と言われた。噴霧実験と裁判の妨害の二つの要素のうち、七対三か八対二で前者の方が強いと理解した。首都を壊滅させる考えだったのが強い、と思う。そう思ったのは(それまでに出版された教団の)出版関係のものからだ。
(九四年)六月二十五日ごろ、端本と一緒に下見に行った。中村(昇)に車を貸してほしいと連絡し、セブンイレブンで中村と合流して車を借り、一般国道で松本に向かった。サリンを撒くので、駐車位置を調べるためと目的を説明した。詳しい地図がなかったので、松本支部長に住宅地図を用意してもらった。五時ごろ着いて端本がたばことライターを買い、風向きを調べた。
 ●乙E4号証
 決行日が決まったのは六月二十六日だった。村井が明日の午前中に噴霧車が出来あがるので、昼頃集まってくれ、裁判所に撒くことになった、と言った。その前に省庁制の発足式が決まったように記憶していて、すぐに出てこい、と言われた。決意表明の後、その前後ごろに村井から出発の用意を、と聞いた。
 富田(隆)らに用事がある、と待機するように言い、第六サテイアン二階の部屋に呼んで、明日サリンを撒く。マンジュシュリー正悟師(村井元幹部)らの作った車を置いてある。警察の妨害があったら、三人で排除してほしい、と各人の役割を言うと、「何をしてもいいのですか」と言うので、「殺してもいい」という意味のことを言うと、富田が、「何か(武器になるものを)探し、五、六人は大丈夫ですよ」と威勢のいいことを言った。
 翌日出発後、一般国道から向かったが、六時か七時になり、暗くなっていた。村井と相談しようと思い、二人だけで話し合い、どうしようと言うと、村井は「今、考えている」と言った。「地図を見るとわかる」と私か言い、村井も「これにしよう」と言って官舎に決まった。
 予防薬をもらって飲み、再び車に乗って目標を変えたことを伝えた。
 中川、遠藤は簡易マスクを作り、私と中村は(噴霧車とワゴン車に)偽造ナンバーをつけた。
 村井は十分くらい下見に行ってきて、「いい場所があった。十分ぐらい噴霧する」と言い、(現場近くで待機していた)アップルランドの駐車場を出発した。
 私たちの車はサリン車から離れて駐車した。村井が噴霧した様子は白い煙で見えなかった。(ワゴン車内では)富田が酸素が来ないと言って騒いでいた。帰り、その富田がワゴン車を門柱にぶつけた。上九に着いて、サリン車を洗浄したが、上九へ戻る途中、尊師から携帯に電話があり、暗号で答えた。
 ワゴン車の傷はどこかで同じ場所に傷をつけて隠せ、と言われた。
 被害者、遺族の悲しみ、苦しみは、理解出来るが、この時点で、何も言うことはない。
 なお、最初に休憩したのは諏訪市内で、松本市内の駐車場の石柱にぶつけてしまった。「なんでシーハ(富田被告)に運転させたんだ」と尊師が言うのに対して、遠藤が「ミラレパ (新実被告)です」と言うので、それはないと思ったが私は何も言わなかった。