京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

井上嘉浩・東京地裁判決(要旨・2000年6月6日・井上弘通裁判長)(その2)

 七 さらに、弁護人は、被告人が自分の行為を真摯に反省悔悟し、心から被害者に詫びる気持ちを持っていると主張する。
 1 まず、弁護人は、被告人が松本の教えの誤りに気付き、精神的、肉体的苦痛を自力で乗り越えてオウム真理教から脱会し、他の信者にも松本を否定するよう呼びかける行動にでたことを指摘する。
 被告人が逮捕当初は事実について黙秘するなどし、その後は自らの行為については認めながらも松本の関与については進んで明らかにしようとしなかった時期を経て、捜査担当者が承知していなかった松本の言動まで述べるようになった経緯は被告人の供述の経過に照らして明らかであり、その過程において、被告人が九五年十二月に教団から脱会したことも、証拠上認められる。確かに、弁護人指摘のとおり、本件各犯行に関与した共犯者の中で、今なお教団の反社会性に目を背け、松本に対する帰依を捨てきれないでいる者も窺えるのであって、それに比べれば、被告人の反省の情をその限りで認めることは出来よう。また、被告人が松本の教えを否定するに至る過程にあって、松本によるマインド・コントロール的な影響から抜け出るため、個人的に非常な精神的苦痛を伴った経緯も窺えないではない。しかし、前不のとおり、もともと松本の説く教義なるものは、およそ荒唐無稽で到底人類の救済などといい得るようなたぐいのものではなく、しかも被告人は本件各犯行当時は修行としてのワークという名目でもっぱら違法な活動に従事していたのであるから、それにもかかわらず松本に対する帰依を維持していたのは、主として被告人の責めに帰すべきところというほかない。逮捕後脱会する過程で、相応の困難があったからといって、それを被告人のために特段酌むべき事情とみることは相当でない。
 ただ、被告人が、自己の行為の責任を自覚するとともに、松本の教義の極めて独善的な欺瞞性、自己中心的な反社会性に思いを致して、単に脱会するにとどまらず、積極的に松本を否定するメッセージを送り、平田悟のように現にこれに影響された者もいることは、本件各犯行が狂信的な犯罪集団と化していたといってよい教団による組織ぐるみの一連の犯罪であることからすると、相応の評価をしてもよい事柄である。
 また、このような過程を経て、被告人が、事実を正直に話さなければならないと考えるようになり、自ら捜査官を呼んでそれまで捜査機関に発覚していなかったリムジン車中での会話に関する重要事項を明らかにするなどし、これまで、松本を始めとする他の教団関係者の法廷を含む様々な場面で、自らの刑事責任に直結する事柄についても証言を拒絶することなく、事実を繰り返し述べてきたことは、被告人の反省の現れとみることが出来る。
 すなわち、被告人は、自己に不利益な点を含め、出来るだけ正確かつ詳細に思い出そうと努めて、正直に供述しようとする姿勢を示し、それに従って供述していることは、公判廷を通じて十分に理解出来るところ、被告人がすすんで供述した内容が、教団の実態や違法行為の解明に貢献するものであることは、いまだに被告人以外に松本とのかかわりを明確に述べる者がない右リムジン内の会話に関する点を始めとするその供述内容自体および被告人が主として検察官証人として、九六年五月から九九年十一月までの間でも約九十回出廷して証言していることからも十分窺える。被告人が多くの他の法廷に出廷しているのは、自ら関与した犯罪事実が多数あるからであり、また、オウム真理教関係者の中で、事実について供述する者も多く、被告人のみが供述して事案の真相を明らかにしようとしているわけでもない。しかし、松本を始めとして、地下鉄サリン事件などに関与したり、松本の側近にいた者らの中には、いまだ証言を拒絶する者も複数いて、犯行の重要部分が明らかにならない点が存在しており、松本とのかかわりや松本の指示について供述出来る立場にあり、かつ、事実を完全に否定している松本の面前での証言のように、被告人にとっては困難な客観的状況下でも、それらをつぶさに供述する態度を貫いてきた被告人の行動が、事案の解明に重要であることは否定出来ない。そうすると、右のような点を全く考慮しないというのは相当とは思われない。
 2 また、弁護人は、被告人が被告人なりに、精いっぱい反省を深めようとしているとする。
 被告人は、第一回公判から「すべての事件に関与したことは間違いない。結果の重大さ、罪の重さを改めて自覚し、被害者、御遺族、いまだに後遺症に苦しむ方々などには本当に申し訳なく、どのような言葉でお詫びすればよいのか、その言葉すら見いだすことが出来ない」旨延べ、弁護人が期待可能性がないなどとして無罪を主張した後も、「自分の無罪を考えていない」と明言して事件に対する反省の態度を示しており、当初から、被告人なりに心から反省し、謝罪する気持ちを表現しようとしていたものとは窺える。しかし、同時に、「本当の修行者としてすべての事実を明らかにすることが今の自分に出来る唯一の償いである」と述べるなど、なお宗教や修行に強くこだわる姿勢を見せていたのであって、その反省や謝罪のあり方ははなはだ不十分なものであった。その後も、被告人は、拘置所内で被害者のために瞑想修行をしていると述べるなど、およそ自己の行為に対する通常の反省の示し方とは異なる態度を続けてきた。
 公判廷を傍聴した被害者やその遺族にとって、このような姿勢で公判に臨む被告人の在り方やその供述態度からして、如何に被告人が様々なオウム真理教による犯行に関する供述を重ねていっても、なお反省、悔悟や謝罪の気持ちが十分でないと映ったのは当然のことであった。当裁判所は、本件各犯行の被害者、その遺族、関係者等十五名を超える証人を取り調べたが、被告人の面前で証言した被害者の遺族の多くが、「裁判の結果に従いますって、それが反省していることになるのか。誰だって死にたくない。亡くなった人も皆そうだよ」「自分のためにしか言っておらず、真摯に反省しているとは思えない。人の生命を奪ったのだからそれを償うのなら、死ぬことしかないのに、そういう気持ちで裁判に向かっているとは感じられない。謝罪の気持ちも伝わらないし、現実を直視していない」などと被告人を痛烈に非難し、一様に被告人に対して極刑を求めた心情は、まことによく理解出来るところである。
 しかしながら、被告人は、間近に被害者やその遺族の述べるところを聞いて衝撃を受け、自分の思い上がりと自己保身のための偽善を述べてきたことにようやく気付くようになるとともに、自らの心理状態や宗教とのかかわり方の問題点について西田鑑定を受け、浅見証言を聞き、その中で「人格としての膨らみが高校生程度にとどまっている。現実感がなく、修行にこだわっている」との指摘を受けるなどし、とりわけ証拠調べの終盤において、集中的に取り調べた多くの被害者やその遺族らが、前示のように、異口同音に被告人らの犯した行為によって生じた被害の悲惨さ、甚大さや被告人に対する厳しい処罰意見を繰り返すのを目の当たりにして、次第に独りよがりな態度を改めて宗教的なものに逃げ込むことなく、人間として自己の責任に正面から向き合うように努め、改めて自分が極めて傲慢で、他人の生命や感情を全くないがしろにして教団外の個々人の生活や思いを顧みようともしていなかったことに思い至って、自らの犯した罪の大きさに打ちひしがれ、その行為がもたらした取り返しのつかない惨状に対する畏れを実感して困惑、苦悩し、被害関係者に対する素直な謝罪の念を示しながらも、一方ではなお自らの生へ執着して迷うなど、人間としての率直な気持ちを素直に示すようになってきた。すなわち、被害者らの本当の悲惨な現実を全く感じておらず、それまでの反省、悔悟なるものが、まことに浅薄で、宗教という名の下に逃げ込もうとする、方向性を誤った極めて不十分なものであったことを痛切に感じたとして、「審理当初は反省が出来ていなかったし、自分に都合の良いことを振り切る姿勢に欠けて、考えてはいけないと思いながらもやはり自分の刑について考えており、事実を供述することが有利に働くという汚れた意識が自分の中にあったことに気付いた」などと率直に認め、さらに最後の被告人質問では、「被害者や遺族の証言を聞いていてものすごく怖かったし、何てことをしたんだろうと、自分自身が生きていることが申し訳なく、自分は何も出来ないことを感じて、本当に怖くてどうしていいかわからない。これだけの罪を犯した者として、人としてどうあるべきかを自覚すべきなのに、それを見失っていた。自分には償いなど何も出来なかったことを痛感している。犯した罪が怖くて宗教的に考えていて、林郁夫と異なり、人としてどうあるべきかを考え、自分の生命を投げ出すだけの勇気がなかった。宗教から離れて、これだけの罪を犯した人間としての在り方を真剣に考えるべきことを、最後になってようやく自覚し、自分が出来ることは厳しい法の裁きを受けることだと思い至った」旨心境を延べ、検察官の死刑求刑を受けての最終陳述に際しても、自分の反省が甘かったとして、最後に「何の落ち度もないのに亡くなった人のことを考えると、もう何も言えません」と述べるに至っているのである。 このような、本件審理における被告人の供述の経緯や状況およびその態度等に照らすと、被告人が述べる反省と謝罪の言葉には、その内面の変化が十分に見て取れ、現段階においては、被告人の本件各犯行に対する反省、悔悟が真摯かつ顕著なものであると認めることが出来る。
 もとより、事実について明らかにしようと努め、反省の情を示していることなどの被告人の主観的事情は、とりわけ被害者やその遺族の立場を考えれば、被告人のために酌むべき事情として過度に重視することは適当ではない。しかし、以上のような事情および被告人の反省、悔悟および謝罪の気持ちが真摯なものであることは、量刑上も一定の限度では有利に考慮出来る事柄であるし、とりわけ、被告人の犯罪性向の程度が前示のようなものにとどまることとも併せ鑑みると、被告人に対する死刑選択の検討に際して、斟酌しうるに足る要素というべきである。

 八 以上検討してきたとおりであり、被告人は、オウム真理教関係者による一連の犯行の捜査、起訴の段階において、諜報省長官として教団の非合法活動の実行部隊の中心と喧伝されたのであるが、まさにそれに相応するかのように、殺人の被害者だけでも実に十四名に及ぶ本件各犯行を犯し、その実行行為者あるいは犯行の主導者などとして重要な役割を果たしているのであって、各犯行の罪質、動機、態様、結果の悪質、重大性、遺族の被害感情およびこれらが我が国に及ぼした甚大な社会的影響等を全体としてみるとき、被告人の刑事責任は極めて重大というべきであり、死刑を選択することは当然に許されるべきで、むしろ、それを選択すべきであるものとすらいえる。しかしながら、これを被告人の各犯行に対する関与状況について個別的にみるときは、前示のとおりであり、量刑上最も重要であるべき地下鉄サリン事件においては、自ら実行行為を行っておらず、首謀者でも現場監督指揮者でもなく、犯行に関与した共犯者の中で主導的役割を果たしたとはいえないのである。共同正犯あるいは共謀共同正犯が、犯行全体に対して責任を負うことは当然であるとしても、直接実行行為を行った者や当該犯行の首謀者等の地位にある者と実行行為を分担していなかった者との間には、その責任の程度において差異があることもまた明らかである。共犯者の中で、主導的立場の者か、それ以外かによっても、同様に責任の程度には差異が生ずる。本件において、被告人の行った行為は、実行者と同視することが出来る程度の行為とまではいえない。また、被告人は、ラルブル爆発事件を除くその他の事件においても、実行行為あるいは結果発生に直結するような実行行為を行っていない。すなわち、○○事件では直接的な殺害行為以外の面で実行行為の一部に関与したに過ぎず、VX○○事件では犯行を指揮する立場にあったとはいえ、新実の補佐役にとどまっており、共犯者中で最も主導的な役割を果たしたとはいえず、そのほか被告人が自ら実行したり、実行者を指揮、主導した犯行においては、被害者が死亡するに至っているものはないのである。 そして、被告人の本件各犯行当時の心理的状況、現在までの反省、謝罪の態度、自己および他の公判廷での供述態度およびその内容、それらから窺われる被告人の犯罪性、反社会性の状況、程度、前科前歴がないこと、両親が三百万円をサリン事件等共助基金に寄付していること、被告人も自らの証人日当について約五十万円全額を寄付していることなどの諸事情を俳せ考えると、被告人に、地下鉄サリン事件の首謀者や実行行為者と同視しうるような責任までを負わせることは出来ず、死刑が究極の峻厳な刑であり、その適用に当たっては、慎重かつ綿密に犯行の罪質、態様、結果等を諸般の情状を検討し、真にやむを得ない場合に限って選択することが求められることからすると、被告人に対して、死刑という極刑を選択することには、なお幾分かの躊躇を感じざるを得ない。
 よって、被告人を無期懲役に処するのが相当と判断した。
 なお、以上のような量刑事情に鑑み、未決勾留日数は算入しない。
【主文】
 被告人を無期懲役に処する。

【井上嘉浩被告に対する判決言い渡し後の裁判長の説諭の要旨】
 裁判所がこの判決にあたって一番心にとめたのは、被告人らの残虐非道な犯行によって命を奪われた多くの方々、被害者とその家族の方々のことです。この法廷で多数の被害者、遺族が述べた憤り、悲しみ、苦痛、涙、それに何と言っても被告人に対する厳しい言葉、激しい怒りが、裁判所を強く打ちました。審理を通じて判決に至るまで、そのことが裁判所の心から離れたことはありませんでした。
 ただ、裁判所としては、被告人が何よりそれらを自分のこととして痛切に感じ、苦悩し、深く心に刻み込んだものと認め、各犯行の中にあって、わずかであれ、うかがうことが出来た被告人の人間性をみて、無期という「生」を与える選択をしました。
 無期ですが、被告人に与えたのは、決して自由な日々でも、修行の日々や瞑想を送る日々でもありません。これからは、自分たちが犯した凶悪な犯行の被害者のことを、一日、一時、一秒たりとも忘れることなく、特に宗教などに逃げ込むことなく、修行者ではなく、一人の人間として、いいですか、一人の人間としてですよ、自らの犯した大罪を真剣に恐れ、苦しみ、悩み、反省し、謝罪し、慰謝するように努めなければなりません。そのためには、プライドとか自尊心とか傲慢さとか思い上がりとか、被告人が本件にかかわるようになったすべてを捨て去って、一人の素直な人間として、謝罪の日々を送らなければなりません。当裁判所が被告人に与えようというのは、そのような一時一時です。片時たりとも、贖罪の気持ちを心から消し去ることのないよう求めます。わかりましたか。

底本:『オウム法廷9』(2002年、降幡賢一朝日新聞社