京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P161-165   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

第十一篇 兄イヴァン

   第一 グルーシェンカの家で

 アリョーシャは中央広場のほうへ赴いた。彼は、商人の妻モローソヴァの家に住んでいるグルーシェンカのもとへと志したのである。彼女は朝早く、彼のところヘフェーニャをよこして、ぜひ来てもらいたいとくれぐれも頼んだのである。アリョーシャはフェーニャの口から、彼女が昨日から何だかひどくそわそわしていることを知った。ミーチャが捕縛されて以来、二カ月間というもの、アリョーシャは自分で気が向いたり、ミーチャから頼まれたりして、たびたびモローソヴァの家へ行ったのである。ミーチャの捕縛後三日目に、グルーシェンカは激しい病気にかかって、ほとんど五週間ちかくも寝ついていた。そのうち一週間くらいは、昏睡状態におちいっていたほどである。彼女はひどく面がわりがした。外出できるようになってから、もうほとんど二週間になるが、彼女の顔はまだやつれて黄いろかった。けれど、アリョーシャの目には、そのほうがむしろ魅力があるように思われた。で、彼はグルーシェンカの部屋へ入って行く時に、彼女の与える最初の一瞥を好んだ。彼女の目つきには何かしっかりした、意味ありげなあるものが明瞭に現われていた。そこには何やら精神的変化が認められ、つつましやかではあるが、しかし堅固不抜な、頑固に思われるほどの決心の色が浮んでいた。眉と眉の間にはあまり大きくない竪皺が現われて、美しい容貌に深く思いつめたような色を添えているので、ちょっと見ると、きついようにさえ感じられた。以前の軽はずみな調子など跡かたもなかった。それからもう一つ、アリョーシャにとって不思議なのは、この哀れな女が、あれほど不幸な目にあったにもかかわらず、つまり、婚約したほとんどその瞬間に、相手の男が恐ろしい犯罪の疑いで逮捕されたり、病気にかかったり、十中八九避けることのできない裁判の判決に将来を脅やかされたりしているにもかかわらず、やはり以前のうきうきした若々しさを失わないことであった。彼女の以前の傲慢な目つきの中に、今では一種の静謐が輝いていた。もっとも……もっともこの目はやはり時おり、一種の不吉な火に燃え立つことがあった。それは依然として変らぬ一つの不安が彼女を襲って、一向に衰えようとしないばかりか、ますます彼女の心中に拡がってゆくような時であった。この不安の原因は、例のカチェリーナであった。グルーシェンカは病気の間にも、カチェリーナのことを譫言に言ったほどである。
 彼女がカチェリーナのためにミーチャを、囚人のミーチャを嫉妬していることは、アリョーシャもちゃんと知っていた。もっとも、カチェリーナは、自由に獄中のミーチャを訪ねることができたにもかかわらず、一度も面会に行ったことがないのであった。これらのことはアリョーシャにとって、かなり面倒な問題になっていた。というのは、グルーシェンカはただアリョーシャ一人にだけ自分の心を打ち明けて、絶えずいろいろな相談を持ちかけたが、時によるとアリョーシャは、彼女に何と言ったらいいか、まるでわからなくなるからであった。
 彼は心配らしい顔つきをして彼女の部屋へはいった。彼女はもう家へ帰っていた。もう三十分も前にミーチャのところから帰って来たのである。彼女がテーブルの前の安楽椅子から飛び立って、彼を迎えた時の敏速な挙動から考えて、アリョーシャは彼女がひどく待ちわびていたことを知った。テーブルの上にはカルタがおいてあって、『馬鹿』をしていた跡がある。テーブルの一方におかれた革張りの長椅子には、蒲団が伸べられて、その上にはマクシーモフが部屋着をまとい、木綿の帽子を被ったまま、横になっていた。彼は甘ったるい笑みを浮べていたが、いかにも病人らしく、弱りこんだような様子をしていた。この住むに家なき老人は、二カ月前、グルーシェンカと一緒にモークロエから帰って来て以来、ここにとまり込んで、そのまま彼女のそばを離れないのである。彼はそのとき彼女と一緒に、霙の中をぐしょ濡れになって帰って来ると、長椅子の上へ坐り込んでしまって、おずおずと哀願するような微笑を浮べながら、彼女をうちまもっていた。グルーシェンカは烈しい悲しみに打たれてもいたし、そろそろ発熱を感じてもいたし、その上さまざまな心配ごともあったので、帰ってからほとんど三十分以上、マクシーモフのことを忘れていたのであるが、ふと気がついたようにじっと彼を見つめた。マクシーモフはみじめな表情で、彼女の目を見ながら、ひひひと笑った。彼女はフェーニャを呼んで、何か食べさしてやるように言いつけた。彼はこの日一んち、ほとんど身動き一つせずに坐り込んでいた。暗くなって、鎧戸を閉めてしまうと、フェーニャは女あるじに訊ねた。
「ねえ、奥さま、あの方は泊って行くのでございますか?」
「そうだよ、長椅子の上に床を伸べておあげ」とグルーシェンカは答えた。
 グルーシェンカは根掘り葉掘り訊ねたすえ、今ではもうまったくどこへも行き場のない彼であることを知った。『わたくしの恩人のカルガーノフさんも、もうお前をおいてやらないと、きっぱりわたくしに言い渡して、お金を五ルーブリくださいました』と彼は言った。『じゃ、仕方がない。わたしのとこにいたらいいわ。』グルーシェンカは憫れむように微笑しながら、悩ましげにそう言った。老人はこの微笑を見て、思わずぎっくりし、感謝の情に唇をふるわした。こうして、その時からこの放浪者は、彼女のもとに食客として残ったのである。彼女の病中にも彼はその家を出なかった。フェーニャと、料理番をしているその祖母も、やはり彼を追っ払わないで、食べさせてやったり、長椅子の上に寝床を伸べてやったりした。グルーシェンカも、しまいには彼に慣れて、ミーチャのところへ行って来た時など(彼女はまだすっかり回復しきらないうちから、もう、ミーチャのところへ行きはじめた)、悲しみをまぎらすために、『マクシームシュカ』を相手に、いろいろ無駄話をするようになった。老人も案外なにかと面白いことを話してくれるので、今では彼女にとって、なくてかなわぬ人となった。ときどきほんのちょっと顔を覗けるアリョーシャのほか、グルーシェンカはほとんど誰もに[#「もに」はママ]会わなかった。彼女の老商人は、この頃ひどく病気が重って[#「重って」はママ]寝ついていた。町で噂していたとおり、もう『死にかかっていた』のである。事実、彼はミーチャの公判後、一週間たって死んだ。死ぬ三週間前、彼は死期の近づいたのを感じて、息子や嫁や子供たちを呼びよせ、もはや一刻もそばを離れぬようにと頼んだ。しかし、グルーシェンカは決して来させぬように、もし来たら、『どうか末長く楽しく暮して、わしのことはすっかり忘れてくれ』と伝言するように、厳しく下男たちへ言いつけた。が、グルーシェンカはほとんど毎日のように、その容態を問い合せに使いをよこした。
「とうとう来たわね!」彼女はカルタを抛り出して、アリョーシャと握手しながら、嬉しそうにこう叫んだ。「マクシームシュカったら、あんたがもう来ないなんて嚇かすのよ。ああ、本当にあんたに来てもらわないと、困ることがあるの。テーブルのそばへおかけなさいよ。ねえ、コーヒー飲みたくなくって?」
「ええ、もらってもいいです」とアリョーシャは、テーブルのそばへ腰をおろしながら言った。「すっかり腹がへっちゃった。」
「そら、ごらんなさい。フェーニャ、フェーニャ、コーヒーを!」とグルーシェンカは叫んだ。「うちじゃもうさっきから、コーヒーがぐつぐつ煮立って、あんたを待っているのよ。肉入りパイを持って来てちょうだい、熱いのをね! そうそう、ちょっとアリョーシャ、今日わたしのほうじゃね、この肉入りパイで騒動が起ったのよ。わたしね、このパイをあの人のところへ、監獄へ持って行ったの。ところが、ひどいじゃありませんか。あの人はそれをわたしに抛り返して、食べようとしないの。一つのパイなど、床へ投げつけて、踏みにじるんだもの。だから、わたし、『これを番人のところへ預けとくから、もし晩までに食べなかったら、あんたはつまり意地のわるい憎しみを食べて生きてるんだわ!』と言って、それなりさっさと帰って来たのよ。また喧嘩しちゃった。まあ、どうでしょう、いつ行っても、きっと喧嘩しちまうんですの。」グルーシェンカは興奮しながら、立てつづけにまくしたてた。マクシーモフは途端におじ気づいて、目を伏せながらにやにやしていた。
「今度はどういうわけで喧嘩をしたんです?」とアリョーシャは訊いた。
「もうそれこそ、本当にだしぬけなのよ! まあ、どうでしょう、『もとの恋人』のことをやいてね、『なぜお前はあいつを囲っておくんだ。お前はあいつを囲ってるんだろう?』なんて言うのよ。始終やいてるのよ、始終わたしをやいてるのよ! 寝ても覚めてもやいてるの。先週なんか、クジマーのことさえやいたわ。」
「だって、兄さんは『もとの人』のことを知ってるじゃありませんか!」
「そりゃ知ってますともさ。そもそもの初めから、今日のことまで知り抜いてるのよ。ところが、今日だしぬけに呶鳴りつけるじゃありませんか。あの人の言ったことったら、ほんとに気恥しくって、口に出せやしないわ。馬鹿だわね! わたしが出て来る時、すれ違いにラキートカが訪ねて行ったけれど、ことによったら、あの男が焚きつけてるのかもしれないわねえ? あんたどう思って?」と彼女はぼんやりした様子でつけ加えた。
「兄さんはあなたを愛しています。本当に、ひどく愛してるんですよ。ところが、今日はちょうど運わるくいらいらしてたんです。」
「そりゃいらいらするのもあたりまえだわ、あす公判なんですもの。わたしが行ったのも、明日のことで言いたいことがあったからよ。ほんとにねえ、アリョーシャ、明日はどうなるでしょう、わたし考えてみるのさえ怖いわ! あんたはあの人がいらいらしてるっておっしゃるけど、わたしこそどれほどいらいらしてるかしれないわ。それだのに、あの人はポーランド人のことなんか言いだしてさ! 本当に馬鹿だわね! よくこのマクシームシュカをやかないことだわ。」
「わたくしの家内もやはりずいぶんやきましたよ」とマクシーモフも言葉を挾んだ。
「へえ、お前さんを。」グルーシニンカは気のなさそうな様子で笑った。「一たい誰のことをやいたのさ?」
「女中たちのことで。」
「ええ、おだまり、マクシームシュカ、冗談どころのさわぎじゃないわ。お前さん、そんなに肉入りパイを睨んだって駄目よ、あげやしないから。お前さんには毒だものね。油酒《バルサム》もあげないよ、この人もこれでずいぶん世話がやけるのよ。まるで養老院だわ、本当に。」彼女は笑った。
「わたくしは、あなたさまのお世話を受ける値うちなどはございません。わたくしはごくつまらない人間なんで」とマクシーモフは涙声で言った。「どうか、わたくしよりかもっと役にたつ人に、お情けをかけてやって下さいまし。」
「あら、マクシームシュカ、誰だってみんな役にたつものばかりだわ、誰が誰より役にたつか、そんなことがどうして見分けられるの? せめてあのポーランド人でもいなかったらいいのに。今日はあの男までが、病気でも始めそうなふうなんだもの。わたし行ってみたのよ。だから、ミーチャへ面当てに、わざとあの人に肉入りパイをあげるつもりだわ、わたしそんな覚えもないのに、ミーチャったら、わたしがあの人にパイを持たせてやった。と言っちゃ責めるんだもの。だから、今度こそわざと持たせてやるわ。面当てにね! あら、フェーニャが手紙を持って来た、案の定またあのポーランド人からだ。またお金の無心よ!」
 実際、パン・ムッシャローヴィッチが例によって、言葉のあやをつくした恐ろしく長い手紙をよこしたのである。それには三ルーブリ貸してもらいたいというので、向う三カ月間に払うという借用証を添えてパン・ヴルブレーフスキイまで連署していた。グルーシェンカは、こういう手紙やこういう証書を『もとの人』から今までにたくさん受け取っていた。こんなことが始まったのは、全快するおよそ二週間まえあたりであった。もっとも病中にも、二人の紳士が見舞いに来てくれたことを、彼女は知っていた。彼女が受け取った最初の手紙は、大判の書翰箋に長々としたためて、大きな判まで捺してあったが、非常に曖昧なことを、くだくだしく書きたてたものであった。グルーシェンカは半分ほど読んだが、何が何だかわからなくなって、そのまま抛り出してしまった。それに、彼女はその時分、手紙どころではなかった。引きつづいてその翌日、二度目の手紙が来た。それはパン・ムッシャローヴィッチが、ほんのちょっとのあいだ二千ルーブリ用立ててほしいというのであった。グルーシェンカはこれにも返事を出さなかった。つづいてあとからあとから、日に一通ずつ来る手紙は、みんな同じようにものものしい廻りくどいものであったが、借りたいという金額は百ルーブリ、二十五ルーブリ、十ルーブリとだんだん少くなり、最後の手紙にはたった一ルーブリ借りたいといって、二人で連署した借用証を添えて来た。グルーシェンカは急に可哀そうになって、夕方自分で紳士《パン》のところへ駈けだした。そして、二人のポーランド人が恐ろしく貧乏して、ほとんど乞食同様になっているのを見いだした。食べ物もなければ薪もなく、巻煙草もなくなって、宿の内儀に無心した借金で首が廻らなくなっていた。モークロエでミーチャから捲き上げた二百ルーブリは、たちまちどこかへ消えてしまった。しかし、グルーシェンカが驚いたことには、二人のポーランド人は傲慢尊大な態度で彼女を迎え、最上級の形容詞を使って、大きなほら[#「ほら」に傍点]を吹きたてた。彼女はからからと笑っただけで、『もとの人』に十ルーブリやった。その時すぐ彼女は、このことをミーチャに話したが、ミーチャはちっとも嫉妬などしなかった。けれど、その時から、二人のポーランド人はグルーシェンカに嚙りついて、毎日無心の手紙で彼女を砲撃するようになり、彼女はそのつど少しずつ送ってやった。ところが、今日になって、だしぬけにミーチャがめちゃくちゃに嫉妬を始めたのである。
「馬鹿だわね、わたしミーチャのところへ行きしなに、紳士《パン》のところへもほんのちょっと寄ってみたのよ。だって、紳士《パン》もやはり病気になったんですもの。」グルーシェンカはせかせかと、忙しそうにまた言いだした。「わたし、このことを笑いながらミーチャに話したの。そして、あのポーランド人が以前わたしに歌って聞かせた歌をギターで弾いて聞かせたが、きっとそうしたら、わたしが情にほだされて、なびきでもするかと思ったんでしょう、ってこう言ったの。ところが、ミーチャはいきなり飛びあがって、さんざん悪口をつくじゃないの……だからね、わたしかまやしない、紳士《パン》たちに肉入りパイを持たせてやるんだ! フェーニャ、どうだえ[#「どうだえ」はママ]、あの娘っ子をよこしたか