京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P280-291   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

の席から叫んだ。
 何といってもこの小さな逸話は、傍聴人にある快い印象を与えた。しかし、ミーチャにとって最も有別な効果を生み出したのは、カチェリーナである。が、このことはあとで述べよう。それに、全体としてa` de'charge(被告に有利な)証人、すなわち弁護士の申請した証人が、取り調べられるようになってから、運命は急に冗談でなくミーチャに微笑を見せた。それはまったく、弁護士にとってすら思いもうけぬことであった。けれど、カチェリーナの前に、まだアリョーシャの訊問が行われた。しかも、アリョーシャは突然ある一つの事実を思い起して、ミーチャの有罪を認めしむる重大な一要点に、きわめて有力な反証をあげたのである。

   第四 幸運の微笑

 それはアリョーシャ自身にとってさえ、まったく思いもうけぬことであった。彼は宣誓なしに呼び出された。筆者《わたし》の記憶しているかぎりでは、検事側も弁護士側も、最初から優しい同情をもって彼に対した。前から彼の評判がよかったことはすぐ想像された。彼は謙遜に控え目に申し立てたが、その申し立ての中には、不幸な兄に対する熱い同情が波打っていた。彼はある質問に答えながら、兄の性格を述べ、ミーチャは乱暴で、情熱に駆られやすい人間かもしれないが、しかし同時に高潔で、自尊心が強く、寛大で、人から求められれば、自己を犠牲にすることさえ辞せないていの人であると言った。もっとも、兄が近来グルーシェンカに対する情熱と、父親との鞘当てのために、言語道断の状態におちいっていたことは、彼もこれを認めた。兄が金を奪う目的で父親を殺したという仮定は、憤然として否定したが、しかし、この三千ルーブリがミーチャの心の中で、ほとんど一種のmaniaになっていたことや、兄がこの金を父親に詐取された遺産の一部と思っていたことや、淡泊な兄でさえ、この三千ルーブリのことを口にするたびに、憤激と狂憤を禁じ得なかったことなどは、アリョーシャも認めないわけにゆかなかった。検事のいわゆる二人の『婦人』、すなわちグルーシェンカとカーチャの競争については、なるべく答えを避けるようにした。そして、一二の訊問に対しては、全然こたえることを欲しなかった。
「少くともあなたの兄さんは、お父さんを殺そうと思っていると、あなたに言ったことがありますか?」と、検事は訊いた。「もし答える必要がないとお思いになったら、答えなくってもいいのです」と彼はつけ加えた。
「あからさまに言ったことはありません」とアリョーシャは答えた。
「じゃ、どういうふうにですか? 間接にですか?」
「兄は一度、私に向って、自分は親父に個人的な憎しみをいだいている、と言ったことがあります。兄は悪くすると……嫌悪の念が極度に達した場合……父を殺さないものでもないと言って、自分でもそれを恐れていました。」
「あなたそれを聞いて信じましたか?」
「信じたとは申しかねます。けれど、私はいつもそういう危険に瀕した時、ある高遠な感情が兄を救うだろうと信じていました。また実際そのとおりだったのです。なぜって、私の父を殺したのは兄じゃない[#「兄じゃない」に傍点]のですから。」アリョーシャは法廷ぜんたいに響き渡るような声でこう断言した。
 検事はラッパの音を聞きつけた軍馬のように、ぶるぶると身ぶるいをした。
「私はあなたの信念が、まったくあなたの衷心から出たものであることを信じます。私はあなたの信念に条件をつけることもしないし、またそれを不幸な兄弟に対する愛と混同することもしません。それはあなたもぜひ認めておいていただきたいのです。あなたの家庭に勃発した悲劇に対するあなた独得の見解は、すでに予審の時から承知しております。露骨に言いますと、あなたの見解は非常に特殊なもので、検事局の集めた他の一切の陳述とぜんぜん矛盾しています。で、くどいようですが、いかなる根拠によって、そういう考え方をされるようになったのみか、進んで下手人は別な人間、つまり、あなたが法廷で公然と指定された人であって、あなたの兄さんは無罪であるいう[#「無罪であるいう」はママ]、断乎たる信念に到達されたのか、それをお訊ねする必要があるのです。」
「予審ではただ訊問にお答えしただけで」とアリョーシャは落ちついた小さな声で言った。「自分からスメルジャコフを告訴したわけじゃありません。」
「が、それにしても彼を犯人として指名されたでしょう?」
「私は兄ドミートリイの言葉として彼を挙げたのです。私は訊問を受ける前に、兄の捕縛された時の様子や、そのとき兄自身がスメルジャコフを名ざしたことなど聞いていたものですから。私は兄に罪がないことをまったく信じます。したがって、もし下手人が兄でないとすれば……」
「その時はスメルジャコフですか?……なぜほかの人でなくて、スメルジャコフなんです! それに、なぜあなたはどこまでも兄さんの無罪を信じるのですか?」
「私は兄を信じないわけにゆきまぜん。兄が私に嘘など言わないことを、私はようく知っています。私は兄の顔つきで、兄の言うことが嘘でないと知ったのです。」
「ただ顔つきだけで? それがあなたの証拠の全部なんですか?」
「それよりほかに証拠をもちません。」
「では、スメルジャコフが犯人だということについても、兄さんの言葉と顔つき以外に少しも証拠はないのですか?」
「そうです、ほかに証拠はありません。」
 これで検事は訊問を中止した。アリョーシャの答えは、傍聴者の心にきわめて幻滅的な印象を与えた。すでに裁判が始まる前から、スメルジャコフについては町でさまざまな風評があった。誰それが何を聞いたとか、誰それがしかじかの証拠を挙げたとか、そういうような取り沙汰が行われていたのである。アリョーシャに関しても、彼が兄のために有利となり、下男の罪を明らかにする有力な証拠を集めたという噂があった。ところが、意外にも、被告の実弟として当然な精神的信念のほか、何一つ証拠をもっていないとは。
 しかし、やがてフェチュコーヴィッチも訊問を始めた。いつ被告がアリョーシャに向って父に憎悪を感じるとか、親父を殺すかもしれないなどと言ったか? また彼がそれを聞いたのは、椿事勃発まえの最後の面会の時であったか? こういう弁護士の問いに対して、アリョーシャはとつぜん何か思い出して考えついたように、ぶるぶるっと身ぶるいした。
「私は今一つあることを思い出しました。自分でもすっかり忘れていましたが、あの時はっきりわからなかったものですから。ところが、今……」
 こう言って、アリョーシャはいま突然ある観念に打たれたらしく、一夜、修道院へ帰る途中、路端の樹のそばで、ミーチャに出くわしたときのことを熱心に物語った。その時ミーチャは自分の胸を、『胸の上のほう』を叩きながら、おれには自分の名誉を回復する方法がある、その方法はここに、この自分の胸にあると、繰り返し繰し返しアリョーシャに言った……『そのとき私は、兄が自分の胸を打ったのは、自分の心臓のことを言ってるのだと思いました』とアリョーシャはつづけた。『兄の目前に迫っている、私にさえ言うことのできない、ある恐ろしい悪名からのがれる力を、自分の心の中に見いだし得る、――こういうのだろうと私は思いました。私は正直なところ、そのとき兄が言っているのは、父のことだと思ったのです。父に暴行を加えようとする念が起るのを、恐るべき恥辱として戦慄しているのだと思いました。ところが、兄はその時、自分の胸にある何ものかを指そうとするようなふうつきをしました。で、今になって思い出しますが、私はその時、心臓はそんなところにありゃしない、もっと下だという考えが、ちらりと心にひらめきました。けれど、兄はもっと上のここいら辺を、頸のすぐ下を叩いて、しきりにそこのところをさして見せました。私はそのとき馬鹿なことを考えこしたが、ことによったら、兄はその時、例の千五百ルーブリを縫い込んだ、あの守り袋をさしていたのかもしれません!」
「そうだ!」突然ミーチャは自席から叫んだ。「まったくそうだよ、アリョーシャ、そうだよ、あのとき僕は拳でその守り袋をたたいたんだ。」
 フェチュコーヴィッチは慌てて彼のそばへ駈け寄って、静かにするように頼むと同時に、貪るような調子でアリョーシャに根掘り葉掘りした。アリョーシャは一生懸命に当時のことを思い浮べつつ、熱心に自分の想像するところを述べた。兄がそのとき悪名と考えたのは、きっとカチェリーナに対する負債の半額千五百ルーブリを、彼女に返さないで、ほかのこと、つまりグルーシェンカが承知したら、彼女を連れ出す費用にあてようと決心した、そのことをさしたものに違いない。
「そうです、きっとそうに違いありません。」アリョーシャは興奮して、だしぬけにこう叫んだ。「兄はそのとき私に向って、恥辱の半分を、半分を(兄は幾度も、『半分!』と言いました)、今すぐにでも取り除けることができるんだが、意志の弱い悲しさにそれができない……自分にはできない、それを実行する力のないことが、前もってわかっているんだ、とこう叫びました!」
「では、あなたは兄さんが自分の胸のここんところを打ったことを、しかと憶えていらっしゃるのですか?」とフェチュコーヴィッチは貪るように訊いた。
「しかと憶えております。なぜって、そのとき私は、心臓はもっと下にあるのに、なぜ兄はあんな上を打つのだろうと、不思議に思ったからです。そして、その時、自分で自分の考えの馬鹿げていることを感じたからです……私は自分の考えが馬鹿げていると感じたのを、今に記憶しております……そうです、そういう考えがちらりと頭にひらめきました。だからこそ、私はいま思い出したのです。どうして今までそれを忘れていたのでしょう! 実際、兄があの守り袋をたたいたのは、ちゃんと恥辱をそそぐ方法があるのに、しかもこの千五百ルーブリを返さない、というつもりだったのです! それに、兄はモークロエで捕まった時、――私は知っています、人から聞いたんです、――負債の半分を(そうです、半分です!)カチェリーナさんに返して、あのひとに対して泥棒にならないですむ方法をもっていながら、やはりそれを返そうともせず、金を手ばなすくらいなら、いっそあのひとから泥棒あつかいされたほうがましだと思ったのは、自分の生涯で最も恥ずべきことだったと叫んだそうです。ですが、兄はどんなに苦しんだでしょう! この負債のためにどんなに苦しんだことでしょう!」こう叫んで、アリョーシャは言葉を結んだ。
 けれど、むろん、検事が口を挾んだ。彼はアリョーシャに向って、その時のことをもう一ど言ってくれと頼んだ。そして、彼告が本当に何か指すような工合に自分の胸を打ったのか、あるいは単に拳で自分の胸を打ったまでのことではなかったか、と、繰り返し繰り返しうるさく訊いた。
「いいえ、拳ではありません!」とアリョーシャは叫んだ。「指でさしたのです。恐ろしく高いところ、ここんところをさしたのです……まあ、どうして私は今までこれを忘れていたのでしょう!」
 裁判長はミーチャに向って、今の申し立てについて、何か言うことはないかと訊ねた。彼はそれに対して、まったくそのとおりであった、自分は頸のすぐ下の胸に隠しておいた千五百ルーブリの金を指さしたのだ、むろんこれは恥辱であったと言った。『その恥辱は否定しません、あれは私の生涯の中で、最も恥ずべき行為でした!』とミーチャは叫んだ。『返すことができたのに返さなかったのです。泥棒になってもいい、金を返すまいと、その時わたしは思ったのですが、何よりも最も恥ずべきことは、おそらく返さないだろうと、自分で前もって知っていたことです! 実際、アリョーシャの言ったとおりです! アリョーシャ、有難う!』
 これでアリョーシャの訊問は終った。が、たった一つでもこうした事実が発見されたのは、重大な特筆すべきことであった。とにかく、小さいながらも一つの証拠が発見されたわけである。それはただ証拠の暗示にすぎないが、それでもやはり実際あの守り袋があって、その中に千五ルーブリ入っていたということも、被告が予審の際モークロエで、その千五百ルーブリは『私のものです』と言い張ったのも、嘘ではなかったという証拠として、ほんのいくらかでも役に立った。アリョーシャは喜んだ、彼は顔を真っ赤にして、指定された席へ退いた。彼は長いこと口の中で、『どうして忘れていたんだろう! どうしてあれを忘れていたんだろう! どうしてやっと今はじめて思い出したんだろう!』と繰り返していた。
 カチェリーナの訊問が始まった。彼女が姿を現わすと同時に、法廷の中には、異様などよめきが起った。婦人たちは柄つき眼鏡や双眼鏡を取り出した。男たちももぞもぞ身動きしはじめた。中にはよく見ようとして立ちあがるものもあった。人々はあとになって、彼女が現われるやいなや、突然ミーチャが『ハンカチ』のように真っ蒼になった、と言い合った。彼女はすっかり黒衣に身を包んで、つつましやかに、ほとんどおずおずと、指定の席へ近づいた。彼女が興奮していることは、その顔色でこそ察しられなかったが、決心の色は黒みがかった目の中にひらめいていた。ここに特記すべきことは、この瞬間、彼女が非常に美しく見えたことである。これはあとで人々が異口同音に断言したところである。彼女は小声ではあるが、しかし法廷ぜんたいへ聞えるように、はっきりと陳述を始めた。彼女は落ちついて口をきいた。少くとも、落ちつこうと努めていた。裁判長は慎重な態度をもって、『ある種の琴線に』触れるのを恐れでもするように、そして、この大不幸に十分の敬意を払いつつ、鄭重に訊問を始めた。けれど、カチェリーナは提出された質問の一つに対して、多言を待つまでもなく、自分は被告と婚約の間柄であった、と答えた。『あの人が自分からわたしを見棄てるまで』と彼女は小声に言い添えた。彼女が親戚のものに郵送してくれと、ミーチャに託した三千ルーブリのことについては、『わたしぜひとも必ず郵送してもらおうと思って、あの人にお金を渡したのではございません。わたしはその時……その瞬間に……あの人が大へんお金に困っているということを感じておりましたので、もしなんなら、一カ月間くらい融通してあげてもいいと考えて、あの三千ルーブリを渡したのですから、あとであの借金のために、あんなに心配なさる必要はなかったのでございます。」ときっぱり言い切った。
 筆者《わたし》はすべての問題を一々詳しく物語るまい。ただ、彼女の申し立ての根本の意味だけを述べるにとどめよう。
「わたしは、あの人がお父さんからお金を受け取りさえすれば、すぐにお送り下さることと固く信じておりました」と彼女はつづけた。「わたしはどんな場合にも、あの人の無欲と潔白とを信じておりました……金銭上のことでは、まったくこの上ない潔白な方でございますから。あの人はお父さんから三千ルーブリ受け取ることができると固く信じて、たびたびわたしにもその話をしました。あの人がお父さんと不和だということも、わたしはよく知っておりました。そして、あの人がお父さんにだまされているのだといつもそう信じていました。あの人がお父さんを嚇すようなことを言ったかどうか、少しも憶えていません。少くとも、わたしの前では、嚇しめいたことを一度もおっしゃいませんでした。もしあの時わたしのところへいらっしゃれば、三千ルーブリのための苦労なんか、安心させてあげるのでしたが、あの人はその後、わたしのところへいらっしゃらなかったのでございます……ところが、わたしは……わたしは自分のほうから呼ぶことができないような立場におかれたものですから……それに、わたしはあの人から返金を要求する権利を、少しも持っていなかったのでございます。」彼女は突然こうつけ加えた。その声には決然たる響きがこもっていた。「わたしはある時あの人から、三千ルーブリ以上のお金を借りたことがございます。それも、返すことができそうな目あてもないのに、貸していただいたのでございます……」
 彼女の音調には、一種挑戦的な響きが感ぜられた。この時フェチュコーヴィッチが、代って訊ねる番になった。
「それは近頃のことではなくって、あなた方が知合いになられた最初の頃でしょう?」フェチュコーヴィッチはたちまち、何かある吉左右[#「吉左右」はママ]を予感して、用心ぶかく、そろそろと探り寄るように、こう口を挟んだ。(括弧をして言っておくが、彼はほとんどカチェリーナの手でペテルブルグから招聘されたのだが、ミーチャがかつて向うの町で、彼女に五千ルーブリ与えたことや、あの『額を地につけての会釈』などは、少しも知らなかったのである。彼女はこの話を彼に隠していた。これは驚くべきことである。彼女は最後の瞬間まで、法廷でこの話をしたものかどうかと決しかねて、何かある霊感を待っていたのだ、とこう想像するのが確かである。)
「そうです、わたしは一生、あの瞬間を忘れることができません!」と彼女は語り始めた、彼女は何もかも[#「何もかも」に傍点]物語った。かつてミーチャがアリョーシャに話した例の挿話も、『額を地につけての会釈』も、その原因も、自分の父親のことも、自分がミーチャのもとへ行ったことも、残らず語ってしまった。しかし、ミーチャがカチェリーナの姉を通して、『カチェリーナ自身で金を取りに来るように』と申し込んだことは、一ことも言わなかった。彼女は寛大にも、このことを隠したのである。
 そのとき彼女は自分のほうから発作的に、何ごとか予期しながら……金を借りるために若い将校のところへ駈けつけた、とこういうふうに、いささかも恥じる色なく語った。これは実に、魂を震撼するような出来事であった。筆者《わたし》にひやひやして、身ぶるいしながら聞いていた。人々は一言も聞きもらすまいと鳴りをしずめ、法廷は水を打ったように静まり返った。一たいこれは例のないことであった。彼女のような我意の強い、軽蔑にちかいほど傲慢な女が、こういう正直な告白をしたり、こんな犠牲を払ったりしようとは、ほとんど思いもよらなかったのである。しかも、これは何のためであろう? 誰のためであろう? それは、自分に心変りした侮辱者を救うためであった。たとえ僅かでも、彼のためになるようないい感銘を人々に与えて、彼を救おうとするためであった。実際、なけなしの五千ルーブリ、――自分のために残った金を全部、惜しげもなく与えて、無垢な処女の前にうやうやしく跪拝した将校の姿は、確かに同情すべきものであり、魅力に富んでいたが……筆者の心臓は痛いほど縮みあがった! 筆者はあとで蔭口が始まりそうな気がしたのである!(あとで始まった、まさに始まった!)その後、町じゅうの人々は、毒々しい笑いをもらしながら、将校が『うやうやしく平身低頭しただけで』娘を帰したというところは、どうも当てにならぬようだ、と言い合った。人々はそこに『何かが省略されている』ことを仄めかした。『たとえ省略されていないにしても、よしんばあのとおりであったにせよ』と、当地で最も尊敬されている貴婦人たちは、こう言った。『よしんば父親を救うためにしたところで、処女としてそんな真似をするのは、あまり立派なこととも言えませんねえ。』あんなに聡明で、病的なくらい敏感なカチェリーナが、こんな噂をされることに、前もって気がつかなかったのだろうか? きっと気がついていたに相違ない。が、それにもかかわらず、すっかり[#「すっかり」に傍点]言ってしまう決心をしたのである! むろん、カチェリーナの物語の真相に関する、こうした穢らわしい疑念はあとで起ったことで、初めて聞いた時には、みなただ異常な震撼を与えられたのである。裁判官側のほうについて言うと、彼らは敬虔の色を浮べ、彼女のために羞恥さえ感じながら、黙って聞いていた。検事はこの問題について、一言もあえて訊こうとしなかった。フェチュコーヴィッチはうやうやしく彼女に一礼した。ああ、もう彼はほとんど勝ち誇ったようであった。彼は多くのものを獲得した。高潔な発作に駆られて、なけなしの五千ルーブリを与えた人が、あとで三千ルーブリを奪う目的で父親を殺したとは、どうしてもそこに辻褄の合わない点があった。フェチュコーヴィッチは、少くともこの場合、金を奪ったという事実を否定することができた。『事件』は急にある新しい光に照らされた。ミーチャに対する一種の同情ともいうべきものが閃めいた。彼は……彼はカチェリーナの申し立ての間に、二三ど席をたったが、またベンチに腰をおろして、両手で顔を蔽うた、と人々は後に物語った。しかし、彼女が申し立てを終った時、彼は突然そのほうへ両手をさし伸べながら、歔欷に充ちた声で叫んだ。
「カーチャ、なぜ僕を破滅さすんだ!」
 彼はこう言って、法廷ぜんたいに聞えるほど声高に慟哭したが、たちまち自己を制して叫んだ。
「もう僕は宣言された!」
 彼は歯を食いしばり、両手を胸に組み合せ、化石したように腰かけていた。カチェリーナはなお法廷に居残って、指定の椅子に腰をおろした。彼女は真っ蒼な顔をして、さしうつむいていた。そばにいたものの語るところによると、彼女は熱病にでもかかったように、長い間ぶるぶる慄えていたそうである。次にグルーシェンカが呼び出された。
 筆者《わたし》の物語は、次第にかの大椿事に近づいて来た。それはとつぜん破裂して、実際ミーチャを破滅さしたかのように思われた。なぜと言うに、筆者の信ずるところでは、いや、法律家もみんなあとでそう言っていたが、もしあの挿話さえなかったら、被告は少くとも、いくぶんか寛大な処置を受けたかもしれないからであるが、このことは後まわしにして、まずグルーシェンカのことを一口いおう。
 彼女もやはり黒い服を着け、例の見事な黒いショールを肩にかけて、法廷へ現われた。彼女は、よく肥った女がするように、軽く体を左右へ揺りながら[#「揺りながら」はママ]、右も左も一切向かないで、じっと裁判長を見つめながら、ふらふら宙に浮んででもいるように、足音も立てず、手摺りのほうへ近づいた。筆者の目には、その瞬間、彼女が非常に美しく見えた。あとで婦人たちが言ったように、決して蒼い顔などしていなかった。婦人たちは、彼女が思いつめたような、毒々しい顔つきをしていたと言うが、筆者に言わせれば、彼女はただ醜い騒ぎに餓えた傍聴者の、ものずきな軽蔑したような視線を、重苦しく体に感じて、そのためにいらいらしていたのだと思う。彼女は傲慢な軽蔑にたえきれない性質であった。誰かに軽蔑されていないかと疑うだけで、もうかっとして反抗心に燃え立つ、そういうたちの女であった。けれど、同時に、むろん臆病でもあり、そして内々この臆病を恥じる心持もあった。それゆえ、彼女の申し立てにむらがあるのは当然だった。ある時は怒気をおびていたり、ある時は軽蔑したような調子で、度はずれに粗暴になるかと思うと、急に心の底から自分の罪を責めなじるような響きが聞えたりするのであった。時によると、『どうなったってかまやしない、言うだけのことを言ってしまう』といったような棄て鉢の口のきき方をすることもあった。フョードルと知合いになったことについては、『そりゃくだらないこってすわ、あの人のほうからつきまとったんですもの、わたしの知ったことじゃありません』ときっぱり言うかと思えば、すぐそのあとから、『みんなわたしが悪いのです。わたしは両方とも、――お爺さんもこの人も、――からかって馬鹿にしていたんです、そして、二人をこんな目にあわせたんですの。何もかもわたしから起ったことですわ』とつけ加えるのであった。何かの拍子で、問題がサムソノフにふれたとき、『そんなことが何になります』と彼女はすぐにずうずうしい、挑戦的な口調で歯を剥いた。『あの人はわたしの恩人ですよ。あの人は、わたしが両親に家から追い出された時、跣のままでわたしを引き取ってくれたんですよ。』けれども、裁判長は非常に慇懃な言葉で、余事に走らず直接問いに答えるようにと彼女をさとした。グルーシェンカは顔を赤くして、目を輝かした。
 金の入った封筒は彼女も見なかった。ただ、フョードルが三千ルーブリを入れた何かの封筒を持っている、ということを、あの『悪党』から聞いただけである。『だけど、そんなことはみんなばかばかしい話ですわ。わたしはただ笑ってやりました。あんなところへどんなことがあったって行くものですか。」
「今あなたが『悪党』と言ったのは誰のことです?」と検事は訊いた。
「下男のことです。自分の主人を殺しておいて、きのう首を縊ったスメルジャコフのことです。」
 むろん、すぐにそれに対して、何を根拠にそうきっぱり断定するか、と訊かれたが、やはりべつに何の根拠もなかった。
「ドミートリイさんがそう言ったんです。あなた方もあの人の言うことを本当になさいまし。あの邪魔女があの人を破滅させたんですわ。何もかも、あの女がもとなんです、あの女が。」憎悪のあまり身ぶるいでもするように、グルーシェンカはこうつけ加えた。彼女の声には毒々しい響きが聞えた。
 彼女はまたしても、それは誰のことかと訊かれた。
「あのお嬢さんです、そのカチェリーナさんです。あのひとはあの時、わたしを呼びよせて、チョコレートをご馳走して、そそのかそうとしたんです。あのひとは本当の恥ってものを知らないんですわ。まったく……」
 こんどは裁判長も厳めしく彼女を制して、言葉を慎しむようにと言ったけれど、彼女の心はもう嫉妬に燃え立っていた。彼女はほとんど棄て鉢になっていた……
「モークロエ村で被告が捕縛された時に」と検事は思い出しながら訊いた。「あなたが別室から駈け出して来て、『みんなわたしが悪いのです、一緒に懲役へ行きましょう!』と叫んだのを、みんな見もし聞きもしましたが、してみると、あなたはそのとき被告を親殺しだと信じていたんですな?」
「わたしはあの時の心持をよく憶えていません」とグルーシェンカは答えた。「あの時みんながかりで、あの人がお父さんを殺したって騒ぐもんですから、わたしは、これというのも、みんな自分が悪いのだ、自分のためにあの人がお父さんを殺したのだ、という気がしましたの。けれど、あの人から、自分に罪はないと聞いて、すぐそれを信じてしまいました。今でも信じています、いつまでも信じます。あの人は嘘を言うような人じゃありません。」
 フェチュコーヴィッチが訊問する番になった。筆者《わたし》は彼がラキーチンのことや、二十五ルーブリのことなど訊いたのを記憶している。「あなたは、アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフを連れて来たお礼として、ラキーチンに二十五ルーブリおやりになったそうですね?」と彼は訊いた。
「あの人がお金を取ったからって、何にも不思議はありゃしません」とグルーシェンカは軽蔑するように、毒々しくにたりと笑った。「あの人はしょっちゅうわたしのとこへ、お金をせびりに来てましたわ。一カ月に三十ルーブリくらいずつ持って行くんですもの。それも大ていおごりのためですの。わたしがお金をやらなかったら、どうしてあの人が食ったり飲んだりできるものですか。」
「どういうわけで、あなたはラキーチン君にそう寛大だったのです?」裁判長が激しく身動きするのにもかまわず、フェチュコーヴィッチはこう追及した。
「だって、あの人はわたしの従弟なんですもの。わたしのおっ母さんとあの人のおっ母さんとは、親身の姉妹なんですの。でも、あの人はいつもそれを誰にも言わないようにしてくれって、始終わたしに頼んでいました。わたしを従姉にもっているのを、ひどく恥に思っていましたからねえ。」
 これはまったく予想外の新事実であった。町ではむろんのこと修道院でも、誰ひとりそれを知っているものはなかった。ミーチャさえ知らなかった。話によると、ラキーチンは自分の席に腰かけたまま、恥しさに顔を紫いろにしたそうである。グルーシェンカはどういうわけか、法廷へはいる前に、ラキーチンがミーチャに不利な申し立てをしたと知って、腹を立てたのである。ラキーチン君の先刻の演説も、その高邁な趣旨も、農奴制度やロシヤにおける民権の不備に対する攻撃も、――このとき聴衆の心の中でことごとく抹殺され、破棄されてしまった。フェチュコーヴィッチは大満足であった。神はふたたび彼に恵んだのである。全体として、グルーシェンカはあまり多く訊問されなかった。それに、彼女はむろんとくに新しい事実を述べることができなかった。彼女は傍聴者にきわめて不快な印象を与えた。彼女が申し立てを終って、カチェリーナからかなり離れて腰かけた時、無数の軽蔑するような目が彼女にそそがれた。彼女が訊問されている間じゅう、ミーチャは化石したように目を床へ落したまま、じっと黙っていた。
 次にイヴァン・フョードロヴィッチが証人として現われた。

   第五 不意の椿事

 ここで断わっておくが、イヴァンはアリョーシャよりさきに呼び出されたのである。けれど、廷丁はそのとき裁判長に向って、証人がとつぜん病気、というより、むしろ一種の発作を起したため、すぐには出頭ができかねるけれど、なおり次第出廷して、陳述すると申し出た。しかし、その時は誰も気がつかないで、あとになってそれを知ったのである。彼の出廷は初めの間、ほとんど誰の注意をも惹かなかった。もはやおもな証人、ことに二人の競争者が訊問されたあとなので、傍聴者の好奇心はすでに満足されて、いくらか疲労さえ感じていたくらいである。まだ幾人かの証人の訊問が残っていたが、彼らもべつに取り立てて、新しい陳述をしそうにも見えなかった。それに、時は遠慮なく過ぎて行った。イヴァンは何だか不思議なほどのろのろと歩いて出た。そして、誰も見ないで頭を下げている様子が、何やらふさぎ込んで黙想しているように見えた。彼は非の打ちどころのない身なりをしていたが、その顔つきは、少くとも筆者《わたし》には病的な印象を与えた。何か死にかかった人のように土け色をおび、目はどんよりしていた。彼はその目を上げて、静かに法廷を見まわした。アリョーシャはだしぬけに自分の席から立ちあがって、『ああ』と唸った。筆者はそれを記憶している。しかし、これに気づいたものはきわめて少かった。
 裁判長はまず彼に向って、宣誓しなくってもいいこと、陳述してもしなくても、それは彼の随意であること、しかし陳述は良心にやましからぬようにしなければならぬこと、――などを説いて聞かせた。イヴァンはぼんやりと裁判長を眺めながら聞いていたが、やがてその顔は微笑に変ってきた。そして、びっくりしたように自分を見つめている裁判長の言葉が終るやいなや、彼はだしぬけに笑いだした。
「で、それから?」と彼は大きな声で訊いた。
 法廷の中はしんとした。みんな何やら感じたもののようであった。裁判長は心配しだした。
「あなたは……まだすっかり健康がすぐれないのかもしれませんね?」彼は廷丁のほうへ目をそそぎながらこう言った。
「閣下、ご心配にはおよびません。私はかなり達者なんですから、何やかや興味のあることを申し上げることができます」とイヴァンは急に落ちにきはらって[#「落ちにきはらって」はママ]うやうやしく答えた。
「では、何か、特別の陳述をしようとおっしゃるのですか?」と裁判長は依然、疑わしげに言葉をつづけた。
 イヴァンはうつむいてしばらく躊躇していたが、やがてまた頭を持ちあげて、吃るような口調で答えた。
「いいえ……そうじゃありません。私は何も特別に陳述することはありません。」
 訊問が始まった。彼はいやいやらしく簡単に答えた。ある内心の嫌悪がますます募ってくるのを感じるらしかったが、それでも答弁は要領を得ていた。大ていの質問は知らないといって逃げた。父とドミートリイの金銭上の問題は、ちっとも知らない、『そんなことを気にしてはいなかったです』と言った。親父を殺すと恐喝したのは、被告の口から聞いていた、封筒に入れた金のことは、スメルジャコフから聞き知っていた……
「いくら訊かれても同じことです。」彼は疲れたような様子をして、突然こう遮った。「私は公判のために、何もかくべつ陳述することはありません。」
「お見受けするところ、どうもあなたは健康でないようです。それに、あなたの感情もよくわかっています……」と裁判長は言いかけた。
 彼は両側にいる検事と弁護士に向って、もし必要があったら訊問してもらいたいと言った。と、突然イヴァンは弱々しい調子で嘆願した。
「閣下、どうか退廷させて下さい。私は非常に体の工合が悪いような気がします。」
 彼はこう言うと同時に、許可も待たずに、いきなりくるりと向きをかえて、法廷から出て行こうとした。が、四歩ばかり歩くと、とつぜん何やら考えたように立ちどまり、静かににたりと笑って、また以前の場所へ返った。
「閣下、私はちょうどあの百姓娘のようなんです……ええと、そうそう、『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ。』すると、みんな上衣と袴をもって、その女のあとをつけ廻している。つまり、女を立たせるためなんです。女を縛って、結婚に連れて行くためなんです。ところが、女は『立ちたくなったら、立ってやるだ。立ちたくなかったら、立たねえだ』と言ってる……これは一種のわが国民性ですよ……」
「それは一たい何のことです?」と裁判長は厳かに訊いた。
「なに、ほかでもありません」とイヴァンは、いきなり紙幣束を取り出した。「さあ、ここに金があります……これはあの(彼は証拠物件ののっているテーブルを顎でしゃくった)封筒の中にはいっていた金です。このために親父は殺されたのです。どこへおきましょう? 廷丁さん。これを渡して下さい。」
 廷丁は紙幣束を残らず受け取って、裁判長に渡した。
「これがあの金だとすると……どうしてあなたの手に入ったのです?」と裁判長はびっくりして訊いた。
「昨日スメルジャコフから、あの人殺しから受け取ったのです……私はあいつが首を縊る前に、あいつの家へ行ったのです。親父を殺したのはあいつです、兄貴じゃありません。あいつが殺したんです。そして、私があいつを教唆したのです……誰だって、親父の死を望まないやつはありませんからね!………」
「一たいあなたは正気ですか?」と裁判長は思わず口走った。
「むろん正気ですとも……あなた方みんなのように、ここにいるすべての……化け者どものように、卑劣な正気を備えています!」彼はにわかに聴衆のほうへ振り向いた。「あいつらは親父を殺したくせに、びっくりしたようなふりをしているんです」と彼は激しい侮蔑を現わしながら、歯ぎしりした。「あいつらはお互いに芝居をしてるんです。嘘つきめ! みんな親父が死ぬのを望んでるんだ。毒虫が毒虫を食おうとしてるんだ……もし親父殺しがなかったら……やつらはみなぷりぷりしながら、家へ帰って行くだろう……なにしろ、見世物を見たがってるんだからな! 『パンと見世物!』というじゃありませんか。だが、私もあまり立派なもんじゃない! ときに、水がないでしょうか、飲ませて下さい、後生です!」彼はにわかに自分の頭を摑んだ。
 廷丁はすぐ彼に近づいた。アリョーシャは突然たちあがって、『兄さんは病気なのです。兄さんの言うことを信じないで下さい。兄さんは譫妄狂にかかっているんです』と叫んだ。カチェリーナは、つと衝動的に席から立ちあがって、恐怖のあまり身動きもせず、じっとイヴァンを見つめていた。ミーチャも立ちあがった。彼は妙にひん曲ったような、けうとい笑みを浮べて、貪るようにイヴァンを見つめながら、その言うことを聞いていた。
「ご心配にはおよびません。私は気ちがいじゃありません。私はただ人殺しです!」とまたイヴァンは言いはじめた。「人殺しから雄弁を求めるのは無理な話です……」彼はなぜか突然こうつけたして、ひん曲ったような笑い方をした。
 検事はいかにも面くらったらしく、裁判長のほうへ身をかがめた。裁判官たちはそわそわして、互いに何やら囁きあった。フェチュコーヴィッチはいよいよ耳をそばだてて聞いていた。法廷ぜんたいは何か予期するようにしんとした。裁判長は急にわれに返ったらしく、口をきった。
「証人、あなたの言うことはわけがわからない、また法廷においてあるまじき言葉です。気を落ちつけて話して下さい……もし本当に何か言うことがあったら。あなたは何をもってそういう自白の裏書にしようとおっしゃるんです……もし、あなたの言葉が譫言でないとすれば……」
「それ、そこなんです、まるで証人がないのです。スメルジャコフの犬め、あの世からあなた方に申し立てを送りはしませんからね……封筒に入れてね……あなた方は何でもかでも封筒がほしいんでしょうが、封筒は一つでたくさんです。私には証人がありません……あいつ一人のほかには」と彼は意味ありげに、にたりとした。
「あなたの証人というのは誰です?」
「閣下、その証人は尻尾をもってるんですが、それじゃ規則に反しますかね! Le diable n'existe point!(悪魔は存在しないか!)べつに気にもとめないで下さい。やくざなちっぽけな悪魔なんですよ。」彼は何か内証話でもするように、急に笑いやめて、つけたした。「やつはきっと、どこかここいらへんにいますよ。この証拠物件ののっているテーブルの下にでもね。でなくって、どこにいるもんですか? ねえ、こうなんですよ。私はやつに言ってやったんです。黙っておれないものですからね。ところが、やつは地質学上の大変動のことを言いだすんです、ばかばかしい!さあ[#「しい!さあ」はママ]、あの悪魔を宥してやって下さい……あれは頌歌《ヒムン》を歌いだしましたよ。つまり、気持が楽だからなんです! 酔っ払ったごろつきが、『ヴァンカはピーテルさして旅に出た』とわめくのと同じようなものですよ。だが、私は歓喜の二秒間のためには、千兆キロメートルの千兆倍も投げ出すつもりです。あなた方は私をご存じないのです! ああ、あなた方の仕事は実に馬鹿げてる! さあ、私をあれの代りに縛って下さい! 私だって何かしに来たんですからね……どうして、どうして何もかもこんなに馬鹿げてるんだろう?………」
 彼はこう言うと、またもの思わしげな顔つきをして、おもむろに法廷の中を見まわしはじめた。しかし、法廷ぜんたいはすでにどよめき渡っていた。アリョーシャは席を立って、兄のそばへ駈け寄った。が、廷丁はもうイヴァンの手を摑んでいた。
「何をするんだ?」イヴァンは、廷丁の顔をじっと見つめながら、こう叫んだと思うと、とつぜん廷丁の両肩に手をかけて、激しく床の上へ投げつけた。
 けれど、すぐ警護隊が駈けつけて彼を摑んだ。そのとき彼は恐ろしい声で喚きだした。法廷から連れ出される間も、喚きたてたり、何かとりとめのないことを口走ったりしていた。
 大混乱が始まった。一切の出来事を順序だって記憶していない。筆者《わたし》自身も興奮していたため、よく観察することができなかったのである。ただ筆者が知っているのは、あとでもうすっかり鎮まって、一同が事の真相を悟った時に、廷丁がうんと目玉を頂戴したことだけである。もっとも、廷丁は、証人が一時間まえに少し気分を悪くして、医者の診察を受けたが、しかしその時は、健康体でもあったし、法廷へ出る時までずっと、辻褄の合ったことを言ったので、こんな事態が起ろうなどとは、まったく予期せられなかったし、それに証人自身が、ぜひ申し立てをしたいと言い張ったのだと、十分根拠のある説明をした。しかし、一同がまだすっかり落ちついてわれに返らないうちに、すぐこの事件に引きつづいて、また別な事件が突発した。ほかでもない、カチェリーナがヒステリイを起したのである。彼女は大声に悲鳴を上げながら、慟哭しはじめた。が、一向に法廷を出ようとはせず、身をもがいて、外へ出さないようにと哀願し、いきなり裁判長に向って叫んだ。
「わたしはすぐ、今すぐもう一つ申し立てなければならないこ