『カラマーゾフの兄弟』P358-369   (『ドストエーフスキイ全集』第12巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦22日目]

ごとくこの理想一つを目ざして突進しないわけにゆかなかった。それゆえ、ときどきその他の一切を忘れてしまうことさえあった(後に自分で気がついたことであるが、彼は前日あれほどまで心配した兄ドミートリイのことを、この苦しい一日の間すっかり忘れていた。それから、もう一つ、昨日あれほど熱心に意気込んでいた、イリューシャの父に二百ルーブリ届けるという計画も、同様に少しも思い出さなかった)。しかし、彼に必要なのは、繰り返して言うが、奇蹟ではなく『最高の正義』であった。ところが、この正義は無慚にも破られた、と彼は思いこんだ。これがために、彼の心はふいにむごたらしく傷つけられたのである。この『正義』が、アリョーシャの期待のうちで、事件の進展とともに奇蹟の形をとり、それが敬愛する指導者の死とともに、猶予なく出現するものと翹望していたのも、決して無理はないのである。現に僧院中でも、アリョーシャが知恵の高い人としていた僧侶たち、たとえばパイーシイ主教のごとき人ですら、同じように考察し、同じように期待していた。で、アリョーシャはぜんぜん疑惑をもって自分を苦しめるようなことなしに、すべての人と同じような形式を自分の空想に被せていた。それに、もうずっと以前から、まる一年の僧院生活の間じゅう、この空想は彼の心中にちゃんと組み立てられてしまって、こういうふうに期待するのが習慣のようになっていた。しかし、彼が渇望していたのは正義であって、単なる奇蹟ではない! しかるに、世界じゅうの誰よりも、一ばん高い位置に昇さるべきものと思っていた人が、当然受けねばならぬ光栄を与えられないで、かえって思いがけなく、地べたへ引き摺りおろされ、顔へ泥を塗られたではないか! 何のためであろう? 誰の裁きであろう? 誰があのような裁きをすることができたのか? これが彼の世馴れぬ、処女のような心を悩ました疑問なのである。彼が心から憤懣と侮辱を感ぜずにいられなかったのは、あの正しきが中にもとりわけ正しい長老が、自分よりずっと低いところに立っている軽薄な群衆の毒々しい嘲笑にゆだねられたことである。よしや奇蹟なぞ全然なくてもかまわない、奇蹟的なものが少しも現われないで、即刻期待が満足せられなくてもかまわない、――けれど、あの悪名は何のために被せられたのだ、あの汚辱は何のために与えられたのだ? 意地わるい僧たちのいわゆる『自然を超越した』急な腐敗は何のためだ? そして、今あの連中が、フェラポントと一緒になって、ぎょうさんらしく担ぎ出した、あの『啓示』とやらは何のためだ、一たい彼らはどういうわけで、われこそかく言う権利を得たり、と信じているのだろう? ああ、神はどこにある、神のみ手はどこにある、何のために神は『最も必要な瞬間に』(とアリョーシヤは考えた)、そのみ手を隠してしまって、盲目で唖のような、無慈悲な自然律に屈従する気になられたのであろ こういうわけで、アリョーシャの心は血潮に湧き立ったのである。そうして、もちろん、前にも言ったとおり、彼の目前には世界じゅうで誰より最も愛している人の顔、しかも『汚辱を受け悪名を被せられた』人の顔が浮んでいるのであった。もしわが主人公のこうした訴えが、軽薄で無分別だと言うなら、それでもよい。しかし、筆者は三たび繰り返して言うが(これもやはり軽薄だという非難に対しては、はじめから同意を表しておく)、わが青年がこういう時にあまり分別くさくないのを、筆者はかえって悦んでいる。なぜなら、分別は馬鹿な人間でないかぎり、いつでも浮んでくるものだが、しかし愛にいたっては、こういう大事な時に青年の心に湧かなかったら、決して湧き出す時がないからである。けれど、筆者はこの際、ある一つの事実を黙過したくない。それはアリョーシャにとって運命的な、しかも混沌たるこの瞬間にあたって、ほんのつかの間ではあるが、彼の心に浮んできたある奇怪な現象である。彼の心にあらたにちらと浮んだある現象というのは、ほかでもない。きのう兄イヴァンの言ったことが、今しきりにアリョーシャの記憶に甦って、妙に悩ましい印象を与えるのであった。それがちょうど、今という時なのである。とはいえ、根本的な、先天的な信仰が、心の底で動揺しはじめたわけではむろんない。彼は自分の神を愛している。今とつぜん不平を訴えはしたものの、確固たる信仰を有している。が、それでも、昨日の兄の話を思い出すにつけて、何だか妙に漠然としてはいるけれど、しかし悩ましく毒々しい感触が、今また急に彼の胸にうごめきだして、次第に強く外へ頭を持ちあげようとする。
 ようやく黄昏の色が濃くなり始めたころ、庵室から松林を抜けて僧院のほうへ進んでいたラキーチンが、とつぜん木の陰にアリョーシャの姿を見つけた。彼は顔を地べたに押しつけて、眠ってでもいるように、じっと倒れていた。こちらはそばへ寄って声をかけた。
「君ここにいたのか、アレクセイ? 一たい君は……」と彼はびっくりしたように言ったが、そのまま句を切って、口をつぐんだ。『一たい君はそれほどまでになってしまったのかね[#「それほどまでになってしまったのかね」に傍点]?』彼はこう言おうと思ったのである。アリョーシャは、そのほうを振り向こうともしなかった。しかし、ラキーチンはその身振りによって、彼が自分の言葉を聞きつけ、かつ了解しているということを、すぐに見抜いてしまった。
「一たい君はどうしたんだね?」彼は依然たる驚きの調子でこう訊いた。
 しかし、その顔面に現われた驚きはもう微笑に変って行き、微笑はだんだん嘲りの表情になっていった。
「ねえ、君、僕はもう二時間以上も君を搜してるんだぜ。だって、急にあそこからどろんをきめこんでしまったじゃないか。一たい君はここで何をしてるんだね? 何だってそんな馬鹿な真似をしてるんだね? まあ、ちょっと僕のほうを見たっていいじゃないか……」
 アリョーシャは頭を上げて起きなおり、木立に体を寄せかけた。彼は泣いてこそいなかったが、その顔は苦痛の表情を示し、そのまなざしにはいらだたしげな色が浮んでいた。もっとも、彼はラキーチンを見ないで、どこかわきのほうを眺めていた。
「君にはわかるまいが、顔つきがまるきり違ってしまったぜ。以前あれほど喧しかった謙抑は、これっからさきもありゃしない。君だれかに腹でも立てたのかね? 誰か失敬なことでも言っだのかね?」
「あっちい行ってくれ!」ふいに、アリョーシャがこう言った、依然として相手のほうを見ないで、大儀そうに片手を振りながら。「ほう、これはまたどうしたことだ! まるで世間なみの罪深い人間と同じように、大きな声をして呶鳴りだしたね。しかも、それが天使の仲間なんだからなあ! アリョーシカ、君は本当に人をびっくりさせるぜ。いや、まったく、僕は真面目に言ってるんだ。僕はここへ来てから、もうずいぶん長くものに驚いたことがないんだがね。何てっても、僕は君を教養ある紳士として遇してたんだぜ……」
 アリョーシャはとうとう彼のほうを向いた。しかし、やはり妙にぼんやりした様子で、相手の言うことがよくわからないふうであった。
「一たい君はあのお爺さんが臭い匂いを立てだしたので、そんなに……しかし、まさか君はあのお爺さんが、本当に奇蹟の一幕を演じるだろうと、真面目に信じてやしなかったろう?」ふたたびこの上ない真摯な驚きに移りながら、ラキーチンはこう叫んだ。
「信じてたよ、そして今でも信じてる、むしろ信じたいのだ。これからさきも信じるよ。さあ、それから何か訊きたいの?」とアリョーシャはいらだたしげに叫んだ。
「いや、もう決して何も。しかし、ちぇっ、ばかばかしい、今じゃ十くらいの小学生だって、そんなこと本当にしやしないよ。が、まあ、どうだっていいや……じゃ、何だね、いま君は自分の神様に向って腹を立てたんだね、謀叛を起したんだね。つまり、位も上げてくれなかった、祭日に勲章を授けてもくれなかったってね! ええ、君はまあなんて男だ!」
 アリョーシャは目を細めるような工合にしながら、長い間じっとラキーチンを見つめていた。その目の中には突然なにやらひらめい尨……が、ラキーチンに対する憤懣の情ではない。
「僕は神に対して謀叛を起したのじゃない、ただ『神の世界を認めない』のだ」と急にアリョーシャは歪んだような微笑をもらした。
「神の世界を認めないとは、どういうことだね?」ちょっと相手の答えに首をひねったのち、ラキーチンはこう訊いた。「何のご託宣だい?」
 アリョーシャは答えなかった。
「そんなくだらないことはもうたくさんだ、これから実際問題に移ろう。君、きょう食事をしたかい?」
「覚えてない……食べたろう、たぶん。」
「君はどうも顔色で判ずるところ、少し元気をつけなくちゃならないようだぜ。実際、君の顏を見てると、気の毒になってくるよ。だって、昨夜も寝なかったんだろう。僕聞いたよ、庵室で集りがあったってじゃないか。それから、例のすったもんだの騒ぎさ。だから、きっとお供えのパンを一きれ食べたくらいのもんだろう。僕は今このかくしの中に腸詰を持ってるんだ。さっき町からここへ来る途中、万一の場合をおもんぱかって買っておいたのさ。しかし、君はとても腸詰なんか……」
「腸詰結構。」
「へえ! それじゃ君は何かね! してみると、もう純然たる謀叛だね、戦闘準備だね! いや、実際、君、こういうことは何もそう卑しむにはあたらないよ。僕んとこへ行こうじゃないか……僕自身も、今ウォートカの一杯もひっかけたいんだよ、おっそろしく疲れちゃった。まさか君もウォートカは思いきってやれまい……それとも、やっつけるかね?」
「ウォートカも結構。」
「へえ、おいでなすったね! 素敵だぜ、君!」とラキーチンはけうとい目つきをした。「まあ、どっちにしたって、ウォートカにしろ、腸詰にしろ、それはなかなか威勢のいい結構なことだ。もうどうしても逃すわけにゆかん。さあ、出かけよう!」
 アリョーシャは無言のまま大地から身を起し、ラキーチンの後につづいた。
「もしこれを兄貴のヴァンカが見たら、さぞかしびっくりするだろうなあ! ああ、思い出した、君の兄さんのイヴァン君は、けさモスクワへ向けて発つたってね、君知ってるかい?」
「知ってる」とアリョーシャは気のない調子で答えた。
 と、ふいに、兄ドミートリイの姿が彼の頭をかすめたが、それは本当にただかすめたというだけである。もっとも、そのとき何かあることを、――一刻も猶予のできない急用といおうか、一種の恐ろしい義務といおうか、とにかく、そういうふうなものを思い出したが、その追憶も、彼の心まで達することなしに、何の印象をも残さずその瞬間に記憶から飛び去って、それきり忘れられてしまった。しかし、アリョーシャは長い間これを覚えていた。
「君の兄貴のヴァンカが、一ど僕のことを『ぼんくらな自由主義の袋』だと批評したし、また君もたった一度だが、つい我慢できないで、僕が『破廉恥』だってことを匂わせたね……まあ、そうしとくさ!」『僕はこれから君だもの非凡ぶりと廉潔ぶりを拝見するさ』(と、これはもう口の中で小声に言い終った)、「畜生、ときに、君!」と彼はまた大きな声で言いだした。「僧院のそばを通り抜けて、小径づたいに、まっすぐに町へ出ようじゃないか……ああ、そうが! 僕はちょっとホフラコーヴァ夫人のとこへ寄りたいんだがなあ。ところで、どうだい、僕きょうの出来事をすっかり夫人に手紙で知らせてやったらね、夫人はさっそく鉛筆の走り書きで、短い手紙をよこしたのさ(あの夫人は恐ろしく手紙を書くことが好きだね)。『わたくしはゾシマ大主教のような立派な長老から、ああした行為[#「ああした行為」はママ]を予想することができませんでした!』いや、本当に『行為』と書いてあったんだよ! 夫人もやはり憤慨したんだね。君がたはみんなそうなんだ! いや、待てよ!」彼はまた突然こう叫んで立ちどまり、アリョーシャの肩を押えて引きとめた。
「おい、アリョーシカ」とつぜん心を照らした思いがけない新しい想念に全身を支配されながら、ラキーチンは試すようにじっと相手の目を見つめた。彼はうわべで笑って見せていたが、察するところ、この思いがけない新しい想念を口に出すのを恐れているらしかった。それほどまでに今のアリョーシャの気分は、彼の目から見て不思議千万な、思いももうけぬ現象なので、彼はいまだに、信ずることができなかったのである。「ねえ、アリョーシカ、今どこへ行ったが一番いいと思う?」やっと彼は、機嫌をとるような、臆病らしい調子で言いだした。
「どこだっていいさ……君の好きなところへ。」
「グルーシェンカのとこへ行かないかね、え? 行く?」臆病な期待に全身を顫わせながら、とうとうラキーチンはこう言った。
「グルーシェンカのとこへ行こう。」落ちついた調子で、さっそくアリョーシャは答えた。
 ここにいたって、あまりの意外さに、ラキーチンはほとんどうしろへ飛びすさらないばかりであった。つまり、この落ちつきぱらったさこでくな承諾に驚いたのである。
「え、え!………じゃあ!」彼は驚きのあまり叫ぼうとしたが、急にアリョーシャの手を固く握って、径づたいにぐんぐんしょ引いて行った。こうした決心がこのまま立ち消えになりはせぬかと、やはりまだ恐ろしく気をもみながら。二人は無言で歩いた。ラキーチンは口をきくのさえ恐れていた。
「あの女がどんなに悦ぶだろう、どんなに……」と彼は言いかけたが、また口をつぐんでしまった。
 しかし、彼がアリョーシャをしょ引いて行くのは、決してグルーシェンカを悦ばすためではなかった。彼は地みちな男であったから、自分にとって有利な目的がなければ、何事もしでかすはずがなかった。いま彼は、二重の目的をいだいていた。第一の目的は復讐的なものであった。すなわち、『正しき者の汚辱』を見るためである。実際、もうずっと前から望んでいたように、アリョーシャが『聖者の列から罪人の仲間へ堕ちる』のを、見ることができるかもしれないのだ。第二には、非常に有利な物質的な目的がある、しかしこのことは後や話そう。
『つまり、こうした瞬間が授かったのだ』と彼は腹の中で愉快げに、かつ憎々しげに考えた。『だから、こっちはそいつの、その瞬間の襟髪を引っ掴んでやらなくちゃならない。実際、ごくお誂え向きの時なんだからな。』

   第三 一本の葱

 グルーシェンカは中央教会のある広場に近い、町でも一ばん賑やかな場所に住んでいた。彼女はモローゾヴァという商人の後家さんの邸うちにある、あまり大きからね木造の離れを借りでいるのであった。モローソヴァの家は大きな石造の二階建てで、見かけはあまり立派でなかった。その内には、もう年とった女主人自身が、これもだいぶの年になる老嬢の姪を二人つれて、淋しく暮している。彼女はべつに離れを貸家に出す必要を感じなかったが、グルーシェンカを借家人として自分の家へ入れたのは(それはもう四年前のことである)、グルーシェンカの公然の保護者であり、自分の親類にあたる商人サムソノフのご機嫌をとるためであった。これは誰でも知っていた。人の噂によると、嫉妬深いサムソノフは初め自分の『思いもの』をモローソヴァの家へおく時、この老婆の鋭い目を当てにして、新しい借家人の品行を監視してもらおうと思ったとのことである。しかし、間もなくこの鋭い目も不必要であることがわかってきた。そして、結局、モローソヴァはグルーシェンカとろくろく顔も合さなくなり、もう決して監視めいた振舞いをして、うるさがられることもなかった。
 当時、臆病で遠慮ぶかい、いつも沈んでもの思わしげな十九歳の痩せた娘を、老人が懸庁所在の町からこの家へ連れて来たのは、実際もう四五年前のことである。それから多くの水が流れ去った。この娘の生い立ちに関する町の人の知識はごく僅かなもので、それさえあやふやしていた。このころ、多くのものが、この『素敵な美人』に(アグラフェーナ・アレクサンドロヴナは、四年間にこういう変化を遂げたのである)興味を持つようになっても、やはりあまり立ち入ったことを知るものはなかった。ただ彼女がまだ十八の小娘の時、ある将校に誘惑せられ、その後まもなく棄てられた。将校は土地を去って、どこかで結婚し、グルーシェンカは汚辱と貧苦の申にとり残された、というような噂があったくらいのものである。もっとも、グルーシェンカは事実、貧苦の中から老人に救い出されたには相違ないけれど、何かある僧侶の、潔白な家庭に生れたという話もある。つまり、無所属の助祭か、何かそんなふうな人の娘だというのである。
 ところが、四年の間に、この感傷的な辱しめられたる哀れな孤児が、血色のいい肥りじしのロシヤ式美人となった。大胆なはきはきした気性で、傲慢不遜で、金のことに抜け目のない、儲け上手な、吝嗇《しわ》い、用心ぶかい女で、人の噂によると、手段の是非はわからないが、もう相当の財産を造り上げているとのことであった。ただ一つ、グルーシェンカに近づくのは、非常にむずかしい、この四五年間に彼女の寵愛を誇りうる男は、老人をほかにして一人もない、ということだけは誰でも固く信じていた。これは確かな事実である。まったく、彼女の寵愛をうるために、もの好きな連中がたくさんとび出したが(最近二年ばかりことにそれが多かった)、しかし、すべての試みもことごとく水泡に帰して、中にはこの勝気な若い婦人の断乎たる冷笑的な拒絶にあって、喜劇のような見苦しい大団円とともに、すごすご引きさがるべく余儀なくされた向きもだいぶあったのである。
 また、こんなことも、よく人に知られていた。ほかではない、この若い婦人が近頃、ことに最近一年ばかりの間に、世間で「|取引き《ゲシェフト》」と言われているものに手を出しはじめた。しかも、この方面において非常な才能を示したので、しまいには多くのものが、一口に猶太女《ジドーフカ》とこなしてしまうくらいになった。しかし、べつに高利を貸すの何のというわけではないが、世間で知られているところによると、本当に彼女はしばらく、フョードル・カラマーゾフと組んで、一ルーブリにつき十コペイカなどという捨て値で手形を買い占めていた。そうして、この手形の中には、十コペイカにつき一ルーブリくらいの儲けになるのもあった。
 サムソノフはこの一年ばかり両足が腫れたため、歩くことができないで、病床に横たわっていた。何十万という大金持であったが、非常にけちな一国者の男やもめで、もう一人前になった息子たちに対して、暴君のように振舞っていた。けれど、自分の被保護人《プロテジェ》にはかなり自由にされていた。もっとも、はじめこの女をうんと厳しく扱って、『精進バタ』で養うつもりでいたのだと、当時口の悪い連中が、かげ口をきいていたが、しかしグルーシェンカは自分の貞操に対して、底の知れない信頼の念を老人の胸に植えつけておいて、巧みに自分の『解放』を成就したのである。この一大手腕家たる老人も(今はもうとっくに亡き人であるが)、やはり非常に人並みはずれた性質で、まず何よりも恐ろしくけちで、石のように頑固な男であった。それゆえ、グルーシェンカにすっかり打ち込んでしまって、この女でなければ、夜も日も明けなかっだけれど(最近二年間はまったくそうであった)、それでもまとまった大きな金はわけてやらなかった。たとえ彼女に棄ててしまうと嚇かされても、やはり折れて出なかったに相違ない。で、老人はほんの僅かな金をわけてやったばかりであるが、それでもこのことが世間へ知れ渡ったとき、みんな目を丸くして驚いたのである。
『お前も馬鹿な女でないから、』八千ルーブリばかり分けてやるとき、彼はグルーシェンカにそう言った、『お前自身でやりくりするがいい。しかしな、今までどおりの年々の手当でよりほかには、死ぬまでわしから、一文も取れないものと思ってくれ。それから、遺言の時だって、何一つお前に分けてやりゃしないから。』そして、本当にこの宣言を実行した。死ぬる時に自分の全財産を、生涯そばにおいて召使なみにこき使っていた息子たちや、その妻子たちにすっかり譲ってしまって、グルーシェンカのことは一言も遺言状に書いておかなかった。そういうことが、あとですっかりわかったのである。しかし『自分の財産』のやりくりに関する忠言では、グルーシェンカも彼に少からぬ助力を受け、『仕事』の筋道を教えてもらった。
 フョードル・カラマーゾフは、初めちょっとした取引きの関係で、グルーシェンカとかかり合いになったが、とうとう自分でも思いがけなく前後を忘れて、ほとんど気がちがいそうなほどこの女に惚れ込んでしまった。この時すでに虫の息になっていたサムソノフは、これを聞いて恐ろしく笑い興じた。ここに注意すべきことがある。グルーシェンカはこの老人に、いささかもかくし立てなく、誠意をもって仕えているようにすら見えた。こんなにしてもらえるのは世界じゅうで、おそらくこの老人ひとりであろう。最近にいたって、突然ドミートリイが現われて、自分の恋を告白したとき、老人はもう笑うのをやめてしまった。そして、あるとき真面目ないかつい調子で、グルーシェンカに忠告をした。『もし親子のうち、どっちかを決めるとしたら、爺さんのほうにするがいいぜ。しかし、爺さんが間違いなくお前と結婚して、前もっていくらかの財産をお前の名義にしておく、という条件つきでなくちゃならん。あの大尉さんとねんごろにするのはよしな、一生うかぶ瀬はありゃしないから。』これが当時、すでに死期の近いことを自覚していた老好色漢が、グルーシェンカに与えた忠告そのままの言葉である。そして、本当に彼はこの忠告をした後、五カ月たって死んでしまった。
 ちょっとついでに言っておくが、当時、町うちでも多くの人は、グルーシェンカを対象としたカラマーゾフ親子の愚かな見苦しい競争を知っていたが、親子のものに対する彼女の態度の本当の意味は、当時ほとんど知るものがなかった。彼女の使っている二人の女中さえ、大事件の爆発した後(このことは後で述べる)法廷へ召喚されたとき、グルーシェンカはドミートリイに殺すと言って嚇されたため、ただ恐ろしさのあまり彼を迎えていたのだ、と申し立てたくらいである。彼女の使っている女中は二人きりであった。一人は彼女の生家からついて来た、もうずいぶん年のよった台所女で、病身な上にほとんど耳が聞えない。いま一人はその孫にあたり、グルーシェンカの小間使を勤めている、二十歳《はたち》ばかりの若い元気のいい娘であった。グルーシェンカは恐ろしくけちくさい暮しをして、部屋の飾りつけなども見すぼらしかった。彼女の借りている離れは三間になっていたが、それには家つきの古めかしい、二十年代に流行した型のマホガニーで作った椅子、テーブルが飾ってあった。
 ラキーチンとアリョーシャが入った時は、もう真っ暗であったが、室内にはまだあかりがついていなかった。当のグルーシェンカは客間の大きな長椅子の上に臥ていた。それはマホガニーまがいの台に、もうずいぶんすれて穴だらけな皮を張った、バックつきのごつごつした不恰好なものであった。彼女の頭の下には、寝床から持ってきた羽入りの自い枕が二つ置かれてある。彼女は両手を頭にかって、身動きもせず仰向けに長くなっていた。まるで誰か待ってでもいるように、黒い絹の着物を着て、頭に軽いレースの布をつけていたが、それが大へん彼女に似合うのであった。肩には同じくレースで作った三角形の襟当てが、大きな黄金《きん》のブローチで留められてあった。事実、彼女はある人を待っていたので、待ち遠いような悩ましいような心持で、いくぶん蒼ざめた顔をして、目と唇に燃えるような熱を見せ、じれったそうに右足の爪先で、長椅子の腕木をことこと鳴らしながら横になっていた。
 ラキーチンとアリョーシャが現われた時、ちょっと騒ぎがもちあがった。グルーシェンカがとっかわに長椅子から飛びあがって、いきなり慴えたような声で、『だあれ?』と叫ぶのが、控え室のほうまで聞えた。しかし、出迎えに出た小間使はすぐ女主人に向って、
「いいえ、あの人じゃございません、別な方です、何でもない方です」と叫んだ。
「一たいどうしたんだろう?」アリョーシャの手を取って客間へ導き入れながら、ラキーチンはこう呟いた。
 グルーシェンカはいまだに驚きが静まらない様子で、長椅子のそばへつつ立っていた。ふさふさとした暗色の髪が急にレースの帽子をこぼれて、ぱらりと右肩に落ちかかったが、客の顔をしげしげと見入って、やっと見分けがつくまでは、少しも気のつかないふうで、直そうともしなかった。「ああ、あんたなの、ラキートカなの? まあ、びっくりさせたじゃないの。おつれは誰? 一緒にいる人はどなた? おや、まあ、誰かと思ったら!」やっとアリョーシャの顔を見分けて、彼女はこう叫んだ。
「まあ、蝋燭でも持ってくるように言ったらどう?」おれは家の中の指図までする権利を持っているほど昵懇な間柄なんだよ、とでもいうような、うちくつろいだ調子で、ラキーチンは口をきった。
「蝋燭……なるほど、蝋燭をね……フェーニャ、この人に蝋燭を持って来てお上げ……だけど、よくもこんな時をよって連れて来たもんだわ!」彼女はアリョーシャのほうを顎でしゃくって、またこう叫んだ。それから鏡に向って、手早く髪の毛を帽子の中へ両手で押し込み始めた。
 彼女は何だか不満げな様子であった。
「それとも、お気に召さなかったのですかね?」とラキーチンはさっそく向っ腹を立てながら訊いた。
「だって、ラキートカ、あんたわたしをびっくりさせるんだもの」とグルーシェンカは微笑を浮べながら、アリョーシャのほうへ振り向いて、「アリョーシャ、いい子だからわたしを怖がらないでちょうだい。わたしあんたが来てくれたので、とても嬉しいのよ、まったく思いがけないお客さんだものねえ。ところで、ラキートカ、あんたはわたしをびっくりさせたわ。だって、わたしミーチャが暴れ込んだかと思ったんだもの。実はねえ、わたしさっきあの人に嘘をついたのよ。あの人にはわたしの言うことを信じたって誓いを立てさせながら、自分では嘘をついたの。わたしは今夜クジマー・クジミッチ、――わたしの商人《あきんど》のとこへ行って、一晩じゅうあの人と一緒にお金の勘定をするって言ったの。まったくね、わたし毎週あの人んとこへ行って、一晩じゅうお金の勘定をするのよ。戸に鍵をかけちゃって、あの人が算盤をぱちぱちやると、わたしは坐って、――帳簿へ記入するの。わたし一人だけしか信用してないんだからね。ミーチャは、わたしがあちらへ行ってると思い込んでるでしょう。ところが、わたしはここに閉じ籠って、いい知らせを待ってるのよ。だけど、どうしてフェーニャがあんたたちを通したのかしら! フェーニャ! フェーニャ! 門のとこへ走って行ってね、戸を開けて、大尉さんがいるかいないか、あたりの様子を見てごらん。もしかしたら、隠れて様子を窺ってるかもしれないからね、わたし本当に怖くてたまらない!」
「誰もいませんよ、アグラフェーナさま、たったいま覗いてみました。それにわたし、しょっちゅう隙間から覗いておりますの、自分でも怖くてびくびくしているのですから。」
「鎧戸は閉ってるかねえ、フェーニャ、そして、窓掛けもおろしたほうがいいわ、――こういうふうにね!」と、彼女は自分で重い窓掛けをおろした。『でないと、あかりを見て飛んで来る』からねえ。アリョーシャ、今日はね、わたしミーチャが、あんたの兄さんが恐ろしいの。」
 グルーシェンカは大きな声でものを言った。彼女は心配そうではあったが、同時にほとんど歓喜といっていいくらいな心の状態になっていた。
「なぜ今日にかぎって、そんなにミーチェンカが怖いの?」とラキーチンが訊ねた。「いつもあの男にそうびくびくしてはいなかったじゃないの。それどころか、かえってあの男のほうが君の言いなり次第になっていたくらいだぜ。」
「そう言ったじゃなくって、知らせを待ってるって、――ある嬉しい知らせを待ってるのよ。だから、ミーチェンカなんかてんでいらないくらいだわ。だけどあの人は、わたしがサムソノフのとこへ行ったってことを、本当にしなかったらしいわ、どうもそんな気がする。きっと今ごろ自分の家の、親父さんの家の裏庭に坐って、わたしを見張ってるに相違ない。もしそうだとすれば、ここへやって来ないから、結句そのほうがいいわ!だけど、わたし本当にサムソノフのとこへ走って行ったのよ。ミーチャが送ってくれたから、わたしそう言っといたわ、――十二時頃まであそこにいるから、十二時になったらぜひやって来て、わたしを家へ送り返してちょうだいってね。すると、あの人は帰って行ったの。わたし十分間ばかりお爺さんのとこにいて、それからまたここへ帰ったけど、その恐ろしかったこと、――あの人に出会ったら大変だと思って、駆け出したわ。」
「ところで、そのおめかしはどこへ行くため? まあ、なんて面白い帽子を被ってるんだろう?」
「あんたこそなんて面白い人なんだろう、ラキートカ! いい知らせを待ってるんだって、言ってるじゃないの。知らせが来次第に、起きあかって、飛んで行くわ。宵にちらりと見たばかり、すぐいなくなってしまうのよ。つまり、いつでも間に合うようにおめかしをしたのよ。」
「一たいどこへ飛んで行くの?」
「あんまりいろんなことを知ると早く年をとってよ。」
「こいつあ驚いた。あの嬉しそうなふうはどうだ……僕は今まで一度も君のそうした様子を見たことがないよ。まるで舞踏会へでも行くように、めかしこんだものさ」とラキーチンは彼女を見廻した。
「あんたは舞踏会のことをよくご存じだからね。」
「じゃ、君は?」
「わたしは舞踏会を見たことがあってよ。おととしサムソノフが息子さんにお嫁をとった時、わたしコーラスのところから見ていたわ。だけど、ラキートカ、ここにこういう立派な貴公子がいらっしゃるのに、あんたなぞ相手にしていることはないようだわね。これこそ本当のお客さまだわ! アリョーシャ、わたしこうしてあんたを見ていても、何だか本当にならないのよ。ああ、どうしてあんた、わたしのところへ来てくれたの! 実のところ、わたし思いもかけなかったわ。以前だってあんたが来ようなんて、これんばかりも当てにしたことはないのよ。今はまったくおりが悪いけど、わたし本当に嬉しくてたまらないわ! 長椅子の上に坐ってちょうだい、ほら、ここんとこへ、ええ、そうよ、ああ、本当にあんたはわたしの三日月さまだわ。わたし何だかまだよく合点がいかないようだ……ねえ、ラキートカ、もしあんたがこの人を昨日か一昨日つれて来たらねえ! まあ、とにかく、わたし嬉しいわ。もしかしたら、一昨日でなくて、今こういう時につれて来てくれたのが、かえってよかったかもしれないわ……」
 彼女は蓮葉に長椅子へ腰をおろし、アリョーシャと並んで座を占めた。そして、まったく嬉しさに夢中になった様子で、彼の顔を見つめた。実際、彼女は嬉しいので、そう言ったのも嘘ではなかった。その目は輝き、唇は笑っていた。しかし、それは人のいい楽しげな笑い方である。アリョーシャはこういう善良な表情を、彼女の顔に発見しようとは思いがけなかった。彼は今日が日まで、あまりグルーシェンカと会ったことがないので、何だか薄気味の悪いような概念を拵え上げていた。ところ
が、昨日カチェリーナに対する彼女の毒々しい狡猾な仕打ちを見べ恐ろしい震撼を受け、非常な驚愕を感したので、いま突然グルーシェンカの中に、まるで別な思いがけない人を見つけたような思いがした。いま彼はすっかり自分の悲しみのために押しひしがれてはいたけれども、目はひとりでに注意ぶかく彼女をうち守るのであった。彼女の身のこなしもやはり、昨日から見るとまるっきり変って、しかも非常によくなっていた。昨日の甘ったるいような口のきき方も、しゃならしゃならした様子ぶった身振りも、ほとんど跡形なく消えてしまって、……すべてが簡単でさらりとしていた。動作も活溌で、直線的で、人を信頼するような趣きがあった。がしかし、彼女はひどく興奮していた。
「ああ、今日は何だってこういろんなことが重なり合うんでしょうね、本当に」と彼女はまた言いだした。「そしてね、アリョーシャ、どうしてあんたの来たのがこれほど嬉しいか、わたし自分ながらわけがわからないのよ。まあ、訊いてごらんなさい、わたしゃ知りゃしないから。」
「へえ、何が嬉しいか、自分でわからないんだって?」とラキーチンはにやりと笑った。「以前は、なぜだか知らないが、自分からうるさく僕につきまとって、つれて来てくれ、早くあの人をつれて来てくれって、何か当てがあるようなふうだったじゃないの?」
「もとは別な当てがあったけれど、今はもうそんなことすんじゃったの。それどころじゃないのよ。わたしこれからあんたたちにご馳走するわ、よくって? わたし今はちっとばかりいい人間になったんだからね、ラキートカ。まあ、お坐んなさいよラキートカ、何だってそんなとこに突っ立つてるの? みら、もう坐ったの? まったく、ラキートカが自分のことを忘れるはずなんかないわね。ほら、ごらんなさい、アリョーシャ、あの人はわたしたちの前に坐って、ぷんとしてるでしょう。それはね、わたしがあんたよりさきに、お坐んなさいって言わなかったからよ。やれやれ、うちのラキートカの怒りっぽいこと!」とグルーシェンカは笑いだした。「まあ、怒らないでちょうだい。今日わたしはいい人間になったんだから、一たいあんたはどうしてそんなにふさぎこんでるの、アリョーシャ、わたしがおっかないの?」愉快げな嘲笑を浮べつつ、彼女は相手の顔を見つめた。
「この人には悲しいわけがあるのさ、位を授けてもらえなかったのでね。」
「位ってなあに?」
「この人の長老が匂いだしたのさ。」
「匂いだしたとは? またこの人は何かくだらないことを言ってるのよ、何かいやらしいことを言おうと思ってるのよ。お黙りよ、馬鹿。ねえ、アリョーシャ、あんたわたしを膝の上に坐らしてくれて、こういうふうに?」ふいに彼女はひらりと身を跳らして、まるで甘ったれ小猫のように、きゃっきゃっ笑いながら、アリョーシャの膝の上へ飛びあがった。そして、しなやかに右腕を廻して、彼の頸を抱きしめるのであった。「うちの信心ぶかいお坊っちゃん、わたし一つあんたを浮き立たせて上げるわ! だけど、冗談はぬきにして、あんた本当にわたしを膝の上に坐らしてくれて? 怒らない? あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ。」
 アリョーシャは黙っていた。彼は身じろぎするのも恐ろしいように、じっと坐っていた。『あんたの言いつけ次第で、わたしすぐ飛びおりるわ』という言葉も聞き分けたけれど、まるで痺れたようになって、返事もしなかった。いま彼の心に生じたことは、自分の席から貪るように見まもっているラキーチンなどの期待し得ることとは、まるで別なものであった。偉大な霊魂の悲しみは、いま彼の心中に生じ得べき一切の感触を呑みつくしだので、もし彼が自分で自分の心を十分に闡明する余裕があったら、自分は今あらゆる誘惑に対して堅固無比な鎧を着ているようなものだ、ということを悟ったにちがいない。しかし、漠然として不明瞭な心の状態と、食い入るような悲しみにもかかわらず、彼は新しく自分の心中に生じたある一つの奇妙な感触に、驚きを感じないわけにはゆかなかった。ほかでもない、この女は――この『恐ろしい』女は、以前女というものに関する想念が胸にひらめくたびに、必ずきまって経験した恐怖の情を、いま彼の心に呼び起さなかったばかりか、かえって今まで何よりも恐れていたこの女が、――いま自分の膝の上に坐って自分を抱きしめているこの女が、まるで趣きの違った、思いがけない、特殊な感情を呼びさましたのである。それはこの女に対する異常に強烈な、しかも純潔な好奇の感情であった。そうして、これには何らの危惧もなく、毫末の恐怖も交っていなかった、――これがいま彼を驚かしたおもな理由なのである。
「そんなくだらないお喋りはたくさんだ」とラキーチンは叫んだ。「それよりかシャンパンをお出しよ、君の義務じゃないの、自分でも承知してるくせに!」
「まったく義務だわね。実はね、アリョーシャ、この人があんたをれて来たら、いろんなもののほかに、シャンパンも出すって約束したのよ。シャンパンを抜きましょう。わたしも飲むわ! フェーニャ、フェーニャ、シャンパンを持って来ておくれ。ほら、ミーチャがおいてった壜さ。早く駆け出しておいで。わたしはけちんぼだけど、一本おごってよ。しかし、あんたのためじゃないの、ラキートカ。あんたは蕈《きのこ》だけど、この人は貴公子だものね! もっとも、今わたしの胸は別なことで一ぱいになってるけれどかまやしない。わたしはあんたたちと一緒に飲むわ、一騒ぎしたくなったの!」
「一たい君は今どうしたっていうの? 一たいどんな知らせが来るの? 一つ伺いたいものだが、それとも秘密かしらん?」ラキーチンは、たえまなく自分のほうへ飛んで来る皮肉な言葉を一生懸命気にとめないようなふりをしながら、ふたたび好奇に充ちた調子で口を入れた。
「なんの、秘密どころじゃないわ、あんた自分で知ってるじゃないの。」急に、グルーシェンカはアリョーシャからちょっと体を離して、ラキーチンのほうへ首を向けながら、そわそわした調子でこう言った。が、それでもやはりアリョーシャの膝の上に坐って、片手をその頸に巻いたままであった。「将校が来るのよ、ラキーチン、わたしの将校が来るのよ!」
「来るって話は僕も聞いたが、もうそんな近いところにいるの?」
「今モークロエ村にいるわ。そこからこちらへ使いをよこすって、自分でちゃんとそう書いてるの。わたしさっき手紙を受け取ったので、こうして使いを待ってるのよ。」
「へえ! なぜまたモークロエ村に?」
「それは長い話なの、それにあんたもうたくさんだわ。」
「じゃ、ミーチャは今、――やれやれ! 一たいあの男は知ってるの、知らないの?」
「何を知るもんですか! まるで知りゃしないわ! もし知ったら、殺すにきまってるじゃないの。だけど、今わたしはそんなことちっとも怖くない、あの人の刃物なんか怖くないのよ。お黙り、ラキートカ。あの人のことなんか思い出させないでちょうだい。あの人はわたしの心をめちゃめちゃにしてしまったんだもの。ええ、わたしは今という時に、そんなこと一さい考えたくないの。ところが、アリョーシャのことなら考えられるわ。わたしアリョーシャの顔がじっと見ていたいの……わたしの顔を見て笑ってちょうだい、ね、いい子だから、浮かれてちょうだい、わたしのばかばかしい悦びようを笑ってちょうだい……あら、笑ったのね、笑ったのね! まあ、なんて優しい目つきでしょう。あのね、アリョーシャ、わたしはあんたが、一昨日のことで、あのお嬢さまの味方になって、わたしに腹を立ててるんじゃないかと、そればっかり考えていたのよ。わたし犬だったわ、本当に。だけど、やっぱりああなったほうがいいんだわ、悪いことだうたけれど、ああなったほうがいいんだわ。」グルーシェンカはもの思わしげに薄笑いを浮べたが、その中には何かしら残忍らしい影がふいにちらりとひらめいた。「ミーチャの話だと、あのひとは『鞭でひっぱたいてやらなくちゃならない!』つて喚いたそうね、わたしあの時、本当にひどい恥をかかせたわねえ。だって、あのひとはチョコレートを餌にして、わたしを負かしてやろうという目算で、わざわざ呼び出しをかけたんだもの……いいえ、ああなったほうがよかったの