京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『カラマーゾフの兄弟』P100-111   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))

ったまま、沈みがちに黙って聞いていた。『ちぇっ、勝手な申し立てをするがいい。もうこうなりゃ、どうだって同じことだ!』とでもいったような、わびしげな疲れた様子をしていた。
「あいつらにやっただけでも、千ルーブリどころじゃありませんよ、ドミートリイ・フョードルイチ」とトリーフォンは断乎としてしりぞけた。「あなたが見さかいなくやたらにお投げになると、あいつらはわれがちに拾ったじゃありませんか。なにしろ、あいつらは泥棒で詐欺師で、馬盗人だもんだから、今でこそ追っ払われてここにいませんが、もしあいつらがいたら、いくらあなたからせしめたか、ちゃんと申し立てるところなんですよ。わっしもあの時あなたの手に、お金がたくさんあるのを見ましたよ、――もっとも、勘定はしませんでした。勘定なんかさせて下さいませんでしたからね、それはまったくでございますよ、――しかし、ちょっと見ただけでも、千五百ルーブリよりずっと多かったのを憶えてますよ……どうして、千五百ルーブリどころですかい! わっしだって、幾度も大金を見たことがありますから、それしきの見分けはつきますよ……」
 昨日の金額についてもトリーフォンは、ドミートリイが馬車からおりるやいなや、また三千ルーブリをもって来たと触れ出した事実を、きっぱり言いきった。
「いい加減にしないか、トリーフォン、そんなことがあったのかい」とミーチャは抗弁した。「確かに三千ルーブリもって来たと触れ出したかね?」
「言いましたとも、ドミートリイ・フョードルイチ。アンドレイのいるところで言いましたよ。そうだ、あそこにアンドレイがおりますよ。まだ帰っていないから、あれを呼んでごらんなさいまし。だが、あなたはあそこの大広間で、コーラスにご馳走をした時も、ここに六千ルーブリおいて行くのだと、おおっぴらに呶鳴ったじゃありませんか、――六千ルーブリというのは、前の金を合わしたものと、こうとらなけりゃなりませんや。ステパンも、セミョーンも聞きました。それにカルガーノフさんも、その時、あなたと並んで立っていらっしゃいましたから、たぶんあの方も、憶えておいででございましょう……」
 六千ルーブリという申し立ては、審問者たちになみなみならぬ注意をもって受け入れられた。新奇な表現が気に入ったのである。三千ルーブリと三千ルーブリとで六千ルーブリになる。うち三千ルーブリはあの時の分で、三千ルーブリは今度の分、両方あわせて六千ルーブリ、実にこの上もなく明瞭である。
 トリーフォンが名ざした百姓たち、すなわちステパンとセミョーンと馭者のアンドレイ、それにカルガーノフを加えて、みんな残らず審問された。百姓たちも馭者もためらう色なく、トリーフォンの陳述を裏書きした。そればかりか、アンドレイの言葉の中でも、彼がミーチャと途中で交わした会話は、とくに注意して書きとめられた。それは例の、『一たいおれは、ドミートリイ・カラマーゾフはどこへやられるだろう、天国だろうか地獄だろうか? あの世へ行ったら、赦してもらえるだろうか、どうだろう?』という言葉であった。『心理学者』のイッポリートは、微妙な笑みを浮べながら、始終の様子を聞いていたが、最後にこのドミートリイの行方に関する申し立てをも、『一件書類に加える』ようにすすめた。
 カルガーノフは自分が審問される番になると、いやいやらしく顔をしかめながら、駄々っ子のような顔つきをして入って来た。彼は検事やニコライなどと旧い知合いで、毎日のように顔を合せているくせに、まるで生れて初めて会ったような口のきき方をした。彼はまずのっけから、『僕はこの事件について何にも知りません、また知りたくもないのです』と言った。が、六千ルーブリという言葉は、彼も耳にしたとのことであった。そのとき彼はミーチャのそばに立っていたことも承認した。彼もミーチャの手に金があるのを見たが、『いくらあったか知りませんよ』と言いきった。ポーランド人たちがカルタで抜き札をしたことは、彼もきっぱり断言した。また幾度となく繰り返される人々の問いに対して、実際ポーランド人たちが追われて後、ミーチャと、アグラフェーナ・アレクサンドロヴナとの関係が円滑になったこと、彼女もミーチャを愛していると、自分の口から言ったことなどを陳述した。彼はアグラフェーナ・アレクサンドロヴナのことを口にする時、うやうやしい控え目な言葉を使って、まるで上流社会の貴婦人の話でもするようなあんばいであった。そして、一度も『グルーシェンカ』などと呼び捨てにしなかった。若いカルガーノフが申し立てをいやがっているのは、明らかにわかっていたにもかかわらず、イッポリートは長いあいだ彼を審問した。その夜ミーチャの身の上に生じた、いわゆる『ローマンス』の内容がどんなものかということも、彼の口から初めてこまかに知ったのである。ミーチャは一度もカルガーノフの言葉を遮らなかった。青年はやっと退出を許された。彼は蔽いられない憤懣を示しながら立ち去った。
 ポーランド人たちも審問された。彼らは自分の部屋で床についていたが、夜っぴて眠らなかった。そのうちに官憲が来たので、自分らもきっと呼び出されるに相違ないと思い、急いで着替えをし身支度をととのえていた。彼らは幾分おじけづきながら、しかも堂々と現われた。おも立ったほう、つまり小柄な紳士《パン》は、休職の十二等官で、シベリヤで獣医を奉職していたことがわかった。姓はムッシャローヴィッチであった。ヴルブレーフスキイは自由開業のダンチスト、ロシヤ語で言えば歯医者であった。二人とも部屋へ入ると早々、ニコライが審問しているのにおかまいなく、脇のほうに立っているミハイル・マカーロヴィッチに向いて、答弁を始めた。様子を知らないために、彼をここで一番えらい長官と思い込んだからである。彼らは一口ごとに、彼を『pan pulkovnik(大佐の訛り)』と呼んだ。が、当のミハイル・マカーロヴィッチが幾度か注意をしたので、ようやくニコライよりほかの人に答えてはならないのだと悟った。彼らはただときどき間違った発音をするだけで、ごくごく正確なロシヤ語を使えることがわかった。グルーシェンカに対する以前と今の関係について、ムッシャローヴィッチはむやみに熱心な、しかも傲慢な調子で話しはじめた。すると、ミーチャはたちまち前後を忘れて、貴様のような『悪党』に、おれのいるところでそんなことを言わしておくわけにゆかない、と呶鳴りつけた。ムッシャローヴィッチはすぐ『悪党』という言葉に注意を向けて、調書に記入してもらいたいと言った。ミーチャは憤怒のあまりかっとして言った。
「悪党だとも、悪党だとも! このことを書き込んで下さい。それから、調書に書かれようとどうしようと、私はどこまでも悪党と呶鳴りますからね、このこともやはり書き込んで下さい!」と彼は叫んだ。
 ニコライはこれを調書に記入したが、しかしこの不快な場面においても、なお十分賞讃すべき敏腕と、事務的才能を発揮した。彼は厳然としてミーチャをさとしたうえ、すぐ事件の小説的方面に関する審問を一さい中止し、さっそく根本の問題へ転じた。根本問題の中でも紳士《パン》たちのある申し立てが、審問者一同の異常な好奇心を呼びさました。それは、ミーチャが例の小部屋でムッシャローヴィッチを買収して、三千ルーブリの手切れ金を渡すように約束したことである。彼はその時、七百ルーブリは今すぐ手わたしするが、あとの二千三百ルーブリは『あすの朝』町で渡そう、このモークロエではそんな大金の持ち合せがないけれど、町には金があるのだ、と立派に誓言した。ミーチャは思わずかっとして、あす確かに町で渡そうなどと言った憶えはないと弁明したが、ヴルブレーフスキイが友の陳述を裏書きしたので、ミーチャもちょっと考え直し、どうも紳士《パン》たちの言うとおりであったらしい、あの時はひどく興奮していたから、事実そんなことを言ったかもしれない、と顔をしかめながら承認した。検事は貪るようにこの申し立てを聞き取った。で、ミーチャが手に入れた三千ルーブリの半分もしくは一部分は、実際、町のどこかに、いや、ことによったら、このモークロエのどこかに隠してあるかもしれない、ということが裁判官にとって明瞭になってきた(後に実際そうと決めてしまった)。こういうわけで、ミーチャがたった八百ルーブリしか持っていなかったという、審理上なんとなく尻くすぐったい事実も、これで説明がついたわけである。これは今までのところ、たった一つしかない、しかもつまらない証拠ではあるけれど、何といっても、ミーチャにとって有利な事実だったのである。これで、彼の利益になる唯一の証拠も破却された。自分では千五百ルーブリしかないと言っておきながら、紳士《パン》に向っては明日かならず残金の二千三百ルーブリを渡すと誓ったとしたら、その二千三百ルーブリの金をどこから持って来るつもりだったのだ、この検事から訊かれた時、ミーチャはきっぱりと、あす『ポーランド人の畜生』に渡そうと思ったのは金ではなく、チェルマーシニャの土地所有権に対する正式の証書なのだ、と答えた、それは、サムソノフとホフラコーヴァ夫人に提供したのと同じ権利であった。検事は『無邪気な言いぬけ』を聞いて、せせら笑いさえもらした。
「あなたは相手が現金二千三百ルーブリの代りに、この『権利』の受領を承諾すると思いましたか?」
「きっと承諾するに相違ありませんよ」とミーチャは熱して遮った。「そうじゃありませんか、あの権利から取れる金は、僅か二千ルーブリやそこいらじゃなくて、四千ルーブリにも六千ルーブリにもなるんですからね! あいつはすぐにお仲間のポーランド人や、ユダヤ人や、弁護士などを狩り集めて、三千ルーブリはおろかチェルマーシニャ全部を、爺さんの手からもぎとってしまうに相違ありませんよ。」
 もちろんムッシャローヴィッチの陳述は、きわめて詳細に調書へ記入された。これで紳士《パン》たちは退出を許された。カルタの抜き札をしたことは、ほとんど一ことも訊かれなかった。それでなくとも、ニコライは彼らに感謝しきっていたので、些細なことで煩わすのは望ましくなかったのである。ことにそれは、酔っ払ってカルタをもてあそんでいる間に起った、つまらない喧嘩にすぎない。そのうえ、あの夜は全体として放埒な醜行も決して少くなかった……こういうわけで、二百ルーブリの金はそのまま紳士《パン》たちのかくしに入ったのである。
 次にマクシーモフ老人が呼び出された。彼はおどおどと小刻みな足どりで近づいた。取り乱したなりをして、ひどく沈んだ顔つきであった。彼はそれまで下でグルーシェンカのそばに、黙って腰かけていたのである。『もう今にもグルーシェンカによりかかって、しくしく泣きだしそうな様子で、青い格子縞のハンカチで目を拭いていたよ』とあとでミハイル・マカーロヴィッチは物語った。こういうわけで、今はかえってグルーシェンカのほうが彼を宥めたり、すかしたりするようなありさまであった。老人はさっそく涙ながらに、『身貧なために十ルーブリというお金を』ドミートリイから借りたのは、重々わたくしが悪うございました、けれどいつでも返すつもりでおります、と言った……ドミートリイから金を借りる時に、あの男の持っている金を誰よりも一番近くで見たはずだが、どれくらいの金が手の中にあったか、気がつかなかったか? というニコライの突っ込んだ質問に対して、マクシーモフはいともきっぱりした調子で、『二万ルーブリ』あったと答えた。
「あなたは以前どこかで二万ルーブリの金を見たことがありますか?」とニコライはにこっとして訊いた。
「はいはい、見ましたとも。けれど二万ルーブリでなくって七千ルーブリでございます。それは、家内がわたくしの村を抵当に入れた時のことでございます。わたくしには、遠くから見せながら自慢しておりましたが、なかなか大きな紙幣束で、みんな虹色をしておりましたよ、ドミートリイさんのもやはり、みんな虹色でございました……」
 ほどなく彼は退出を許された。とうとうグルーシェンカの番となった。審問者たちは、彼女の出現がドミートリイに異常な影響を与えはしないかと、危ぶんでいるらしかった。ニコライなどはドミートリイに向って、二こと三こと訓戒めいたことを言ったほどである。が、ミーチャはそれに対する答えとして、無言のまま頭を下げた。これは『騒動を起しません』という心持を知らせたのである。グルーシェンカを連れて来たのは、署長のミハイルであった。彼女はいかつい、気むずかしそうな顔つきをして入って来たが、見たところは、いかにも落ちついているようであった。彼女は指された椅子の上に、ニコライと相対して静かに腰をおろした。彼女は恐ろしく蒼い顔をしていた。寒けでもするとみえて、美しい黒のショールをふかぶかと頸に巻いていた。実際、彼女はそのとき軽い悪寒を感じたのである。それは、この夜以来ながいこと彼女を苦しめた大病の最初の徴候であった。彼女のきりっとした様子や、悪びれたところのない真面目な目つきや、落ちつきのあるものごしなどは、非常に気持のいい印象を一同に与えた。ニコライなどはたちまちいくらか『心を動かされた』ようであった。その後あちこちで当時の話が出ると、この女を心底から『実に美しいなあ』と感じたのは、そのときが初めてだと白状した。それまでにも、たびたび彼女を見たことはあるけれど、いつも『田舎のヘテラ』(古代ギリシャの浮かれ女)のたぐいだと思っていた。
『ところが、あの女のものごしといったら、まるで上流の貴婦人のようですよ。』あるとき彼は婦人たちの集った席で感激の色をうかべながら、思わずこう口をすべらしたほどである。けれど、婦人たちは大いに不満そうな様子でその言葉を聞いていたが、すぐさまその罰として、彼に『悪戯者』という綽名をつけた。が、彼は結局、それに満足していた。部屋へ入りしなに、グルーシェンカは盗むようにちらりとミーチャを見やった。すると、ミーチャも不安げに彼女を見返した。しかし、彼女の様子はすぐさま彼を安心さした。まず最初必要な質問や訓戒がすると、ニコライはいくらか吃りながらも、なおきわめて慇懃な態度を保って『退職中尉ドミートリイ・フョードロヴィッチ・カラマーゾフとは、どういう関係だったのですか?』と訊いた。この問いに対して、グルーシェンカは静かな、しかもしっかりした語調でこう答えた。
「わたしの知合いだったのでございます。知合いとして先月じゅうおつき合いをいたしましたので。」
 それからつづいて、半分もの好きに発しられた質問に対して、あの人は『時おり』気にいったこともあるけれど、決して愛してはいなかった。当時あの人を引き寄せていたのは、ただ『意地わるい面あて』のためにすぎなかった。つまり、あの爺さんに対する態度と変りはなかったと答えた。ミーチャが自分のことで、フョードルを初め、その他ありとあらゆる人に嫉妬するのも知っていたが、かえってそれを慰みにしていた、とこう彼女は率直に、ありのままを打ち明けた。フョードルのところへ嫁《い》こうなどとは夢にも思わず、ただ彼を玩具にしたばかりであった。『先月じゅうはあの人たち二人のことなぞ、考えている暇がありませんでした。実は、わたしに対してすまないことをしている、まるで別な人を待っていたんですの……けれど、あなた方もこんなことをお訊きになっても、仕方がありますまいし、わたしもあなた方にお答えする必要はないと思います。なぜって、これはわたし一人きりのことなんですから』と言って、彼女は言葉を結んだ。
 で、ニコライもさっそくその言葉にしたがった。彼はまた『小説的な』点について、しつこく訊ねるのをやめて、直接まじめな問題、つまり三千ルーブリに関する主要問題に移った。グルーシェンカは、ミーチャが一カ月まえモークロエで、まったく三千ルーブリ消費した、もっとも、自分で金をかぞえてみたわけではないが、ミーチャの口から三千ルーブリと聞いたのだ、と証言した。
「あなた一人にそう言ったのですか、それともほかに誰かいる時だったのですか? あるいはまたあなたの前で、ほかの人にそう言ってるのをお聞きになったのですか?」検事は例の調子で訊ねた。
 この問いに対してグルーシェンカは、人前でも聞いたし、ほかの人に話しているのも聞いたし、また二人きりの時にも聞いたと断言した。
「二人きりの時に聞いたのは一度ですか、それともたびたびですか?」と検事はまた訊ね、そしてグルーシェンカからたびたび聞いたという答えを得た。
 イッポリートはこの申し立てにひどく満足した。それから、審問が進むにしたがって、グルーシェンカがこの金の出所、つまり、ミーチャが、カチェリーナの金を着服した事実を承知していた、ということも判明した。
「だが、一カ月前にドミートリイ・フョードロヴィッチが使ったのは、三千ルーブリよりずっと少かったということや、ちょうどその半額を用心のために、隠しておいたということを、せめて一度でも聞いたことはありませんか?」
「いいえ、そんなことは一度を聞きません」とグルーシェンカは答えた。それどころか、ミーチャはかえってこの一月のあいだ、自分には金が一コペイカもないと、しじゅう言い通していたことさえ判明した。「いつもお父さんからもらえるのを待っていました」とグルーシェンカは結んだ。
「では、いつかあなたの前で……何かの拍子にちょっと口をすべらすか、それとも腹立ちまぎれに」とニコライは、突然さえぎった。「自分の父親の命を取るつもりだ、などと言ったことはありませんか?」
「ええ、ありました!」グルーシェンカはほっとため息をついた。
「一度ですか、たびたびですか?」
「幾度も言いました、いつも腹を立てていたときでございます。」
「で、あなたはあの人がそれを実行すると信じていましたか?」
「いいえ、一度も信じたことはありません!」と彼女はきっぱり答えた。「わたしはあの人の高潔な心を信じていましたから。」
「みなさん、どうか」と突然ミーチャは叫んだ。「どうかあなた方のまえで、アグラフェーナにたった一こと言わせて下さい。」
「お言いなさい」とニコライは許した。
「アグラフェーナ。」ミーチャは椅子から立ちあがった。「神様とおれを信じてくれ! ゆうべ殺された親父の血に対して、おれには何の罪もないのだ。」
 ミーチャは、こう言ってしまうと、また椅子に腰をおろした。グルーシェンカは立ちあがって、うやうやしく聖像に向って十字を切った。
「神よ、なんじに光栄あらせたまえ!」と彼女は熱烈な、人の心にしみ込むような声で言うと、まだもとの席へ腰をかけないうちに、ニコライのほうへ向って、「あの人がいま言ったことを信じて下さいまし! わたしはあの人を知っています。あの人はくだらないことを言うには言いますが、それはただ冗談半分でなければ、依怙地のためでございます。けれど、良心にそむくような嘘は決して言いません。本当のことをありのままに言うのですから、それを信じてあげて下さいまし!」
「有難う、グルーシェンカ、おかげでおれも力がついてきた!」とミーチャは顫え声で答えた。
 昨日の金に関する質問に対して、彼女はちょうどいくらあったか知らないが、昨日ほかの人に三千ルーブリもって来たと言ったのは、たびたび耳に挾んだと答えた。また金の出所については、次のように説明した。ミーチャはカチェリーナのところから盗んで来たのだと、自分ひとりにだけ、打ち明けたが、自分はそれに対して、いや決して盗んだのではない、あす金を返しさえすればよいと答えた。カチェリーナのところから盗んで来たというのはどの金をさすのか、昨日の金か、それとも一カ月まえにここで使った金か? という検事の執拗な問いに対して、一カ月まえに使った金のことを言ったのだ、少くとも自分はそうとった、と断言しだ。
 やっとグルーシェンカも退出を許された。その時ニコライは熱心な調子で彼女に向って、もうすぐ町へ帰ってもよろしい、もし自分が何かのお役に立てば、――例えば、馬車の便宜を取り計らうとか、あるいはまた付添い人がほしいとかいう場合には、自分が……自分のほうから……
「有難うございます」とグルーシェンカは会釈をした。「わたしは、あの地主のお爺さんと一緒にまいります。あのお爺さんを連れて帰ってやります。けれど、もしなんなら、ドミートリイさんの判決がきまるまで、下で待たせていただきとうございます。」
 彼女は出て行った。ミーチャは落ちついていたばかりでなく、すっかり元気づいたような顔つきをしていた。が、それはほんのしばらくであった。時が進むにしたがって、一種奇妙な生理的衰弱が彼の全身を領しはじめた。目は疲労のために閉されがちになってきた。とうとう証人の審問は終った。人々は、調書の最後の整理にとりかかった。ミーチャは立ちあがって、自分の椅子のところから片隅にあるカーテンの陰へ行き、毛氈をかけたこの家の火箱の上へ横になると、そのまま眠りに落ちてしまった。彼はある不思議な夢を見た。それは少しも場所と時に似合わしくない夢であった。彼は今どこか荒涼たる曠野を旅行しているらしい。そこはずっと前に勤務したことのある土地だった。一人の百姓が、彼を二頭立の馬車に乗せて、霙の中を曳いて行く。十一月の初旬で、ミーチャは妙に寒いような感じがした。綿をちぎったような大きな雪が、ぽたぽたと降っていたが、落ちるとすぐ地べたに消えてしまうのであった。百姓は巧者に鞭を振りながら、元気よく馬を駆った。恐ろしく長い亜麻色の顎鬚を生やした男で、年の頃は五十ばかり、さして老人というほどでもない。鼠色の百姓らしい袖なし外套を着ていた。すぐ近くに小さな村があって、何軒かの真っ黒な百姓家が見えていた。しかし、百姓家の大半は焼き払われて、ただ焼け残った柱だけが突っ立っていた。村へ入ろうとすると、道の両側に、女どもがぞろっと並んでいた。大勢な人数でほとんど隊をなしていたが、揃いも揃って痩せさらばえ、妙に赤っ茶けた顔をしていた。ことに一番はじにいるのは、背の高い骨張った女で、年頃は四十くらいらしかったが、また二十くらいとも思われた。やつれた細長い顔をして、手には泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていた。乳房はもう乾あかって、一滴の乳も出ないらしかった。赤ん坊は、寒さのためにまるで紫色になった、小さなむき出しの拳をさし伸べながら、声をかぎりに泣いていた。
「どうしてあんなに泣いているんだ? どうしてあんなに泣いているんだ?」彼らのそばを飛ぶように通り抜けながら、ミーチャはこう訊いた。
「餓鬼でがんす」と馭者は答えた。「餓鬼が泣いてるでがんす。」
 馭者が子供と言わずに、百姓流に『餓鬼』と言ったのが、ミーチャの心を打った。そして、百姓が餓鬼と言ったために、一しお哀れを増すように思われて、すっかり気に入ったのである。
「だが、どうして餓鬼は泣いてるんだ?」とミーチャは馬鹿のように、どこまでも追窮した。「なぜ手をむき出しにしてるんだ、なぜ着物に包んでやらないのだ?」
「餓鬼は凍えたでがんす。着物が凍ったでがんす。だから、ぬくめてやれねえでがんす。」
「でも、なぜそんなことがあるんだね? なぜだね?」と愚かなミーチャはどこまでも問いをやめない。
「貧乏人の焼け出されでがんす。パンがねえでがんす、家さ建ててえで、お助けを願うてるでがんす。」
「いいや、いいや、」ミーチャはやはり合点がゆかないふうで、「聞かせてくれ、なぜその焼け出された母親たちが、ああして立ってるんだ、なぜ人間は貧乏なんだ、なぜ餓鬼は不仕合せなんだ、なぜ真裸な野っ原があるんだ、なぜあの女たちは抱き合わないんだ、なぜ接吻しないんだ、なぜ喜びの歌をうたわないんだ、なぜ黒い不幸のためにこんなに黒くなったんだ、なぜ餓鬼に乳を飲ませないんだ?」
 彼は心の中でこういうことを感じた。自分は愚かな気ちがいじみた問い方をしている、しかし、どうしてもこういう問い方がしたいのだ、どうしてもこう訊かなければならないのだ。彼はまた、今まで一度も経験したことのない感激が心に湧き起るのを覚えて、泣きだしたいような気持さえする。もうこれからは決して餓鬼が泣かないように、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かないようにしてやりたい。そして、今この瞬間から、もう誰の目にも涙のなくなるようにしてやりたい、どんな障害があろうとも、一分の猶予もなく、カラマーゾフ式の無鉄砲な勢いをもって、今すぐにもどうかしてやりたい。
「わたしがあなたのそばについててよ。もう決してあんたを棄てやしない、一生涯あんたについて行くわ。」情のこもったグルーシェンカの優しい言葉が、彼の耳もとでこう響いた。
 すると彼の心臓は燃え立って、何かしらある光明を目ざして進みはじめた。生きたい、どこまでも生きたい、ある路を目ざして進みたい、何かしら招くような新しい光明のほうへ進みたい、早く、早く、今すぐ!
「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」とつぜん目を見開いて、箱の上に坐りながら、彼はこう叫んだ。それはちょうど気絶でもした後に、息を吹き返したような気持であったが、しかしその顔には輝かしい微笑がうかんでいた。
 彼のそばにはニコライが立っていた。調書を聞き取った上で、署名をしてくれと言うのであった。ミーチャは一時間、もしくはそれ以上寝たのだと悟った。が、ニコライの言葉はもう聞いていなかった。さきほど疲れきって、箱の上へ身を横たえた時には、そこにはなかったはずの枕が、いま思いもかけず自分の頭の下へおかれているのに気づいて、彼ははっと思った。
「誰が私にこの枕をさしてくれたんです? 誰でしょう、その親切な人は!」まるで大変な慈善でも施されたかのように、一種の歓喜と感謝の念に満たされながら、彼は泣くような声でこう叫んだ。
 親切な人は、後になってもとうとうわからなかった。いずれ証人の中の誰かが、さもなくばニコライの書記かが、同情のあまり枕をさせてやったものであろうが、彼の心は涙のために顫えるようであった。彼はテーブルに近づいて、何でもお望みしだい署名すると言った。
「みなさん、私はいい夢を見ましたよ。」彼は何か悦びにでも照らされたような、さながら別人のような顔をしながら、奇妙な調子でこう言った。

   第九 ミーチャの護送

 予審調書が署名されると、ニコライは巌かに被告のほうを向いて、次の意味の『判決文』を読んで聞かせた。何年何月何日某地方裁判所判事は某を(すなわちミーチャを)しかじかの事件に関する被告として(罪状は残らず詳細に書き上げてあった)審問したところ、被告はおのれに擬せられた犯罪を承認しないにもかかわらず、自己弁護のために何らの証跡をも提示しない。しかるに、すべての証人(某々)もすべての事情(しかじか)も、完全に彼の犯罪を指摘するということを考慮においたうえ、『刑法』第何条何条に照らして次のごとき決定をした。すなわち、被告が審理と裁判を回避するおそれのないように、彼を某監獄に拘禁して、この旨を当人に告示し、かつこの判決文の写しを副検事に通達する云々、というような意味であった。手短かに言えば、ミーチャは自分がこの時から囚われ人として、これからすぐに町へ護送され、きわめて不快なある場所で監禁されることになる旨を、申し渡されたのである。ミーチャは注意してこの判決文を聞き終ると、ひょいと両肩をすくめた。
「仕方がありません、みなさん、私はあなた方を責めやしません。私はもう覚悟をしています……あなた方としてほかに方法がなかったということは、私にもよくわかっています。」
 ニコライはミーチャに向って、ちょうどここへ来合せた警部マヴリーキイが、今すぐ彼を護送して行く旨を宣告した。
「ちょっとお待ち下さい!」とミーチャはふいに遮った。そして、抑えがたい感情に駆られながら、室内にいるすべての人に向って言いだした。「みなさん、私たちはみんな残酷です、私たちはみんな悪党です、私たちはみんなの者を、母親や乳呑み児を泣かせています。けれど、その中でも、――今はもうそう決められたってかまいません、――その中でも私が一番けがらわしい虫けらです! それだってかまいません! 私はこれまで毎日、自分の胸を打ちながら改悛を誓いましたが、やはり毎日、おなじ陋劣な所業を繰り返していたのです。が、今となって悟りました。自分のようなこういう人間には鞭が、運命の鞭が必要なのです、私のようなものには繩をかけて、外部の力で縛っておかなけりゃなりません。自分一人の力では、いつまでたっても起きあがれなかったでしょう! しかし、とうとう鉄槌は打ちおろされました。私はあなた方の譴責を、世間一般の侮蔑の苦痛を引き受けます。私は苦しみたいのです、苦しんで自分を浄めたいのです! ねえ、みなさん、本当に浄められるかもしれないでしょう、ね? しかし、最後にもう一ど言っておきますが、私は親父の血に対して罪はないです! 私が刑罰を受けるのは、親父を殺したためではなく、殺そうと思ったためなんです。実際、危く殺くかねなかったんですからね……しかし、私はやはり、あなた方と争うつもりです、これはあらかじめあなた方に宣言しておきます。私は最後まであなた方と争って、その上はどうなろうと神様の思し召し次第です! みなさん、赦して下さい、私が訊問の時にあなた方に食ってかかったことを、立腹なすっちゃいけませんよ。そうです、私はあの時まだ馬鹿だったのです……一分間後には私は囚人《めしゅうど》ですから、いま最後にドミートリイ・カラマーゾフはなお自由な人間として、あなた方のほうに手をさし伸べます。あなた方と別れるのは、つまり人間と別れることなんです!………」
 彼の声は慄えだした。彼は本当に手をさし伸べたが、一番ちかくにいたニコライは、突然どうしたのか、妙な痙攣するような身振りでその手をうしろへ隠してしまった。ミーチャは目ざとくこれを見つけて、ぶるっと身慄いした。彼はさし出した手をすぐおろした。
「審理はまだ終っていないのですから」とニコライはいくらかどきまぎしながら呟いた。「まだ町でつづけなくちゃなりません。私はむろんあなたの成功を……あなたが無罪の宣告をお受けになることを……望んでいます……ところで、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、私はいつもあなたを罪人というより、むしろ……何と言いますか、不幸な人と考えていたのです……私たち一同は――あえて一同に代って言いますが、私たち一同はあなたを、根本において高潔な青年と認めることに躊躇しません。しかし、残念なるかな、あなたはいささか過度にある種の情欲に溺れたのです……」
 言葉が終りに近づくにつれて、ニコライの小さな姿はなみなみならぬ威厳を現わした。ミーチャの頭にはふとこんな考えが浮んだ。この『小僧っ子め』今にもおれと腕を組んで、部屋の片隅へ連れて行きながら、そこでまたつい近ごろ二人で話し合ったと同じような『娘連』の噂でも始めるのではなかろうか、と彼は思った。事実、刑場へ曳いて行かれる罪人の頭にさえ、どうかすると、まるで事件に無関係な、その場の状況にふさわしからぬ考えがひらめくことも、少くないのである。
「みなさん、あなた方は善良な人です、あなた方は人情を心得ていらっしゃる、――どうでしょう、もう一度、あれに会って、最後の別れをさして下さいませんか?」とミーチャは訊いた。
「むろんよろしいのですが、ただみんなのいるところで……つまり今は、もう誰もおらぬところでは……」
「じゃ、ご列席ください!」
 グルーシェンカは連れられて来たが、あまり言葉もない短い別れであった。ニコライは不満であった。グルーシェンカはミーチャに向って丁寧に頭を下げた。
「わたしは一たんあなたのものだと言った以上、どこまでもあなたのものよ。あなたがどこへやられることにきまっても、死ぬまであなたと一緒に行きますわ。では、さようなら、本当にあなたは無実の罪に身を滅ぼしたんだわねえ!」
 彼女の唇は顫え、その目からは涙がはふり落ちた。
「グルーシェンカ、おれの愛を赦してくれ。おれが自分の愛のために、お前まで破滅さしたのを赦してくれ。」
 ミーチャはもっと何か言いたそうにしていたが、自分から急に言葉を切って出て行った。しじゅう目を放さないでいた人たちが、すぐ彼のまわりに集った。昨日アンドレイのトロイカで、あんなに勢いよく乗りつけた階下の玄関わきには、もう支度のできた二台の馬車が立っていた。顔のぶくぶくした、ずんぐり肉づきのいいマヴリーキイは、何か突然はじまった不始末に業を煮やして、ぷりぷりしながら呶鳴っていた。そして、何だか恐ろしく厳めしい調子で、ミーチャに馬車へ乗れと言った。
『あいつ、以前おれが料理屋で酒を飲ませた時分とは、まるで顔つきが違ってやがる』とミーチャは馬車に乗りながら考えた。トリーフォンも玄関からおりて来た。門のそばには人が大勢、――百姓や女房や馭者どもがむらがって、みんなミーチャを見つめていた。
「みんな赦しておくれ!」突然ミーチャは馬車の上から、彼らに向ってこう叫んだ。「わしたちも赦しておくんなさい」と、二三人の声が聞えた。
「トリーフォン、お前も赦してくれろよ!」
 しかし、トリーフォンは振り向こうともしなかった。非常に忙しかったのかもしれない。やはり何やら呶鳴りながら、あたふたしていた。マヴリーキイに随行する組頭が、二人乗り込むはずになっていた二番目の馬車が、まだごたごたしていることがわかった。二番目の馬車に乗せることになっていた百姓は、外套を引っ張りながら、町へ行くのはおれじゃなくてアキームだと言って、頑固に争っていた。けれど、アキームはいなかった。人々は彼を呼びに走って行った。百姓はいつまでも強情をはって、も少し待ってくれと願った。
「マヴリーキイさま、この手合いときたら、本当に恥しらずでございますよ!」とトリーフォンは叫んだ。「てめえは一昨日、アキームから二十五コペイカもらったやつを、すっかり飲んじまやあがったくせに、今となってぶうぶう言ってやがるんだ。ただね、マヴリーキイさま。ろくでもない手合いに対しても、あなたが優しくしておやんなさるには、まったく感心のほかございません。ただこれだけ申し上げておきますよ!」
「一たい馬車を二台もどうするんだね?」とミーチャは口を入れた。「マヴリーキイ・マヴリーキエヴィッチ、一台でたくさんだよ。決してお前たちに手向いしたり、逃げ出したりしやしないから、護送なんかいりゃしないよ。」
「ねえ、あなた、まだ習っていらっしゃらんのなら、われわれに対する話の仕方を稽古して下さい。私はあなたから『お前』呼ばわりされる覚えはありませんからね。そして、そんなに突っつかないで下さい。それに忠告なぞは、この次までとっといたらいいでしょう……」胸のもやもやを吐き出すおりがきたのをひどく悦ぶように、突然マヴリーキイはあらあらしくミーチャの言葉を遮った。
 ミーチャは口をつぐんだ。彼は真っ赤になった。と、一瞬の後、急に激しい寒さを感じた。雨はやんでいたが、どんよりとした空にはやはり一面に雲がひろがって、身を切るような風がまともに顔へ吹きつけた。『一たいおれは風でも引いたのかしらん』とミーチャは肩をすくめながら考えた。やっとマヴリーキイも馬車へ乗った。そして、気のつかないような顔をして、ミーチャをぐいと押しつめながら、ひろびろと場所を取って、どさりと腰をおろした。実のところ、彼はこの任務が厭でたまらなかったので、すっかり機嫌を悪くしていたのである。
「さようなら、トリーフォン!」とミーチャはふたたび叫んだが、今のは善良な心持からではなく、憎悪のあまり思わず知らず呼んだのだ、ということを自分でも感じた。
 けれど、トリーフォンは両手をうしろで組み合わせて、まともにミーチャを見つめながら、傲然として突っ立っていた。彼はきっとした腹立たしげな顔つきで、ミーチャには何とも返事をしなかった。
「さようなら、ドミートリイ・フョードロヴィッチ、さようなら!」突然どこから飛び出して来たのか、カルガーノフの声が響きわたった。
 彼は馬車のそばへ駈け寄って、ミーチャに手をさし伸べた。彼は帽子なしであった。ミーチャはすばやく彼の手を取って、握りしめた。
「さようなら、カルガーノフ君、君の寛大な心は決して忘れやしないよ!」彼は熱してこう叫んだ。
 けれども、馬車はごとりと動きだして、二人の手は引き離された。鈴が鳴り出だした、――ついにミーチャは護送されて行った。
 カルガーノフは玄関へ駈け込んで、片隅に腰をおろすと、頭を垂れ、両手で顔を蔽いながら、声を立てて泣きだした。彼は長い間こうして腰かけたまま泣いていた、――それはもう二十歳からになる青年の泣き方でなく、まるで小さな子供のような泣き方であった。彼はミーチャの犯罪をほとんど信じきっていたのである。『ああ、何という人たちだろう。あの人たちがああいうことをするとしたら、一たい誰が本当の人間なんだろう!』彼は苦しい憂愁というよりも、むしろ絶望の情をいだきながら、何の連絡もなくこう叫んだ。このとき彼は、もうこの世に生きているのがいとわしかった。『生きてる値うちがあるんだろうか! そんな値うちがあるんだろうか!』と青年は悲しげに叫んだ。



第十篇 少年の群

   第一 コーリャ・クラソートキン

 十一月の初旬であった。この町を零下十一度の寒さがおそって、それと同時に薄氷が張り初めた。夜になると、凍てついた地面に、ばさばさした雪が少しばかり降った。すると『身を切るようなから風』がその雪を巻き上げ、町の淋しい通りを吹きまくった。市《いち》の広場はことに烈しかった。朝になっても、まだどんより曇ってはいるが、しかし雪は降りやんだ。プロートニコフ商店の近くで、広場よりほど遠からぬところに、内も外もごくさっぱりとした、一軒の小さい家があった。それは官吏クラソートキンの未亡人の住まいである。県庁づき秘書官クラソートキンはもうよほどまえ、ほとんど十四年も以前に亡くなったが、未亡人は今年三十になったばかり、まだなかなか色っぽい元気な婦人で、小ざっぱりとした持ち家に住まいながら、『自分の財産』で暮しをたてている。優しいながらもかなり快活な気だての夫人は、小心翼々と正直に暮していた。夫とつれ添っていたのは僅か一年ばかりで、十八の年に一人の息子を生むと、すぐ夫と死に別れたのである。それ以来、つまり夫が死んでからというもの、彼女はわが子コーリャの養育に、一身をゆだねていた。彼女はこの十四年間、目に入っても痛くないほど可愛かっていたが、それでも、もしや病気にかかりはしまいか、