京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP014~P025

たいして感じるものであった。「それでは、学生さんですね、大学生あがり!」と官吏は叫んだ。「わたしもそう思いましたよ! 年の功、長い間の年の功ですて!」と彼は得意そうに額へ指を一本あてた。「あなたは大学生だったのか、でなけりゃ、ひと通り学問をしてきたかたですな! どれ、ひとつごめんをこうむって……」
 彼は立ちあがって、よろよろっとしながら、自分のびんとコップを引っつかみ、青年のそばへやって来て、ややはすかいに座をしめた。彼は酔っていたが、雄弁に元気よくしゃべった。ただときどき、いくらかまごついて、言葉を伸ばしたくらいなものである。彼はなんだか、むさぼるようにラスコーリニコフにからんできた。やはりまるひと月も、人と話をしなかったようなあんばいだった。
「なあ、学生さん」と彼はほとんど勝ち誇ったような調子ではじめた。「貧は悪徳ならずというのは、真理ですなあ。わたしも酔っぱらうのが徳行でないのは、百も承知しとります。いや、そのほうがいっそう真理なくらいです。ところで、洗うがごとき赤貧となるとね、学生さん、洗うがごとき赤貧となると――これは不徳ですな。貧乏のうちは、持って生まれた感情の高潔さというものを保っておられるが、素寒貧《すかんぴん》となると、だれだってそうはいきませんて。素寒貧となると、もう人間社会から棒でたたき出されるだんでなく[#「だんでなく」はママ]、ほうきで掃き出されてしまいますよ。つまり、ひとしお骨身にしみるようにね。しかし、それが当然な話で、素寒貧となると、だいいち自分のほうで自分を侮辱する気になりますからな。そこでつまり酒ということになるんですて! なあ、あんた、ひと月ばかり前、てまえの家内をレベジャートニコフ氏が打ちましたよ! ところが、家内はてまえのような人間じゃないんです! おわかりですかな? そこでもう一つ、いわばもの好き半分におたずねさしていただきますが――あんたはネヴァの乾草舟《ほしくさぶね》にお泊まんなすったことがありますかな?」
「いや、ありませんよ」とラスコーリニコフは答えた。「そりゃどういうことです?」
「じつは……わたしはそこからやって来たんで、もう五晩めですよ……」
 彼はコップに一杯ついで、それを飲み干すと、考えこんでしまった。じっさい、彼の服ばかりか髪にさえも、そこここにこびりついている乾草の葉が見分けられた。彼が五日のあいだ着がえもせず、顔も洗わないでいたことは明白すぎるくらい、ことにつめの黒くなった、あぶらじみてどす赤い手は、ひどくきたならしかった。
 彼の物語は一同の注意をひいたらしい。もっとも、ものぐさそうな注意ではあった。小僧たちは帳場の向こうでひひひと笑いだした。亭主はわざわざ上の部屋から、『愛嬌者《あいきょうもの》』の話を聞きにおりて来たらしく、けだるそうではあるが、もったいぶったあくびをしながら、少し離れて腰をおろした。察するところ、マルメラードフはここの古なじみらしかった。それに、彼の話がくだくだしくなったのも、おそらくいろいろの見も知らぬ人たちと、のべつくだを巻く習慣からきたものらしい。この習慣はある種の酒飲みにとっては、欠くべからざる要求になっている。とりわけ、家でもきびしくあつかわれたり虐待されたりしている連中は、なおさらそうなのである。つまりそのために、彼らは常に飲み仲間から慰藉《いしゃ》を求めよう、できることなら尊敬さえもかちえようと、一生けんめいになるのである。
「愛嬌者!」と大きな声で亭主はいった。「だが、お前もお役人なら、なんだって働かねえんだい、なんだって勤めに出ねえんだい?」
「なぜ勤めに出ないって? ねえ、学生さん」とマルメラードフは、おもにラスコーリニコフのほうへ向きながら答えた――あたかも彼がこの質問を出したかのように。「なぜ勤めに出ないって? いったいわしがなんの働きもなく、のらくらしていながら、いっこうけろりとしておるとでもおっしゃるんですかい? ひと月前に、レベジャートニコフ氏が家内を打ったときにも、わしは酔っぱらって寝ておったが、そのわしが平気でいたと思いますかね? 失礼ながら、学生さん、あんたにこんなことはなかったかね……その……まあ早い話が、あてのない借金をしようとなさったことが?」
「ありましたよ……でもつまり、どうあてがないのです?」
「つまり、てんであてがないので。前からどうにもならないのを承知でやるんですな。たとえばだれそれは――その、志操堅固な公民で国家有用の材といわれるだれそれは、こんりんざい金なんか貸さんということが、前もってよくわかっている。だって、あんた、なんのために貸すわけがありますね、ひとつうかがいたいもんで? 先方じゃわしが返さんことを承知しとるんですからなあ。惻隠《そくいん》の情からでも貸すだろうとおっしゃるんですかい? なあに新思想を追っているベジャートニコフ氏などは、こんにち同情などというものは学問上ですら禁じられておって、経済学の発達しておる英国ではもうそのとおり実行しておるって、このあいだも説明してくれましたよ。そこでうかがいますが、そうとしたら、どうしてその先生が貸してくれます? ところがです、前から貸さんことがわかっておりながら、やはりのこのこ出かけて行く……」
「なんのために出かけるんです?」とラスコーリニコフは言葉をはさんだ。
「だって、だれのとこへも行くあてがないとしたら、どこへもほかに行く先がないとしたら! どんな人間にしろ、せめてどこかしら行くところがなくちゃ、やりきれませんからな。まったく、ぜひともどこかへ行かにゃならんというような、そうした場合があるもんでがすよ! わしのひとり娘がはじめて黄いろい鑑札(淫売婦の鑑札)をもって出かけて行ったとき、その時わしもやっぱり出かけましたよ……(というのは、娘は黄いろい鑑札で食ってるんで!)」と彼は一種不安らしい目つきで青年を見ながら、但し書きといったふうにつけくわえた。「かまいません。あんた、かまいませんよ!」帳場の向こうでふたりの小僧がぷっと吹き出し、亭主までがにやりとしたときに、彼はせきこみながら、しかし見かけはいかにも落ちつきすまして、こういいきった。「なに、かまうこはありませんよ! あんな目ひきそでひきくらいに[#「目ひきそでひきくらいに」はママ]、驚きゃしませんやな! もう何もかも知られてるんだから、秘中の秘まで知れわたってるんだから。だから、わしは軽蔑どころか、へりくだった心もちでそれを受けておるんですよ。かまいません! かまいません! 『これも人なり』ですて! ときに、あなた、どうです――あなたはおできになりますかな……いや、もっと強く、もっと適切にいえばですな……おできになります[#「おできになります」に傍点]かじゃない、その勇気がおありになります[#「その勇気がおありになります」に傍点]かな――今このわしを見ながら、わしが豚でないと断言するだけの勇気が!」
 青年はひと言も答えなかった。
「さて」と部屋の中にふたたびおこったいひひ笑いの終わるのを待って、弁者はさらに一倍の尊厳さえ帯びた調子で、どっしりと言葉をつづけた。「さて、わしは豚でかまわないが、あれは貴婦人ですよ! わしは獣の相を帯びておるが、家内のカチェリーナ・イヴァーノヴナは――佐官の娘に生まれた、教育のある婦人なのです。わしはやくざものでもかまわん、それでもかまわないが、あれはりっぱな魂を持っておって、教育で高められた感情にあふれておる。とはいうものの……ああ、あれが、もう少しわしをかわいそうに思ってくれたらなあ! なあ、学生さん、どんな人間にだって、よしんばただのひとところだけでも、他人《ひと》からいたわってもらえるところがなくちゃなりませんからな! それだのにカチェリーナは、あれほど心のひろい女でありながら、へんくつなところがあります……しかし、わしはちゃんとわかっとる……あいつがわしの髪をとって、引きずりまわすのは、要するに燐憫《れんびん》の心から出ることにほかならん、それは自分でも承知しております。まったくのところ、わしはあえて平然とくりかえすが、あいつはわしの髪をとって引きずりまわすので」あたりのいひひ笑いを聞きつけて、さらにもったいらしい表情を加えながら彼は念を押した。「しかし、それにしても、ああ、もしあれがたとい一度でも……いや! いや! それはみんなむだだ、今さら言ったってはじまらない! 言ったってはじまらないことだて……わしの思いどおりになったことも一度や二度じゃない。人からふびんがってもらったことも一度や二度じゃない。しかし、それにしても……いや、これがわしの持って生まれた性根《しょうね》なんだ。わしは生まれながらの畜生なんだ!」
「あたりまえだ!」とあくびまじりに亭主が口をはさんだ。
 マルメラードフは決然たる態度で、どんと一つげんこでテーブルをたたいた。
「これがわしの性根なんだ。どうです、あなた、びっくりしちゃいけませんよ、わしは家内のくつ下まで飲んでしまったんですぜ! くつなんかは、まだいくらか定式《じょうしき》どおりという気がしますが、くつ下まで、女房のくつ下まで飲んじまったんですからなあ! それから、山羊《やぎ》の毛皮のえり巻も飲んじまいましたよ。以前人からもらったものだから、まったくあいつのもので、わしのものじゃないんで。ところで、わしたち一家は、寒い部屋《へや》に間借りしてるので、女房はこの冬かぜをひきましてな、せきがひどく、はては喀血《かっけつ》するまでになった。子供は小さいのが三人おるので、カチェリーナは朝から晩まで働きづめです。小さい時分から身ぎれいに育てられたので、こそこそ掃除をしたり、雑巾《ぞうきん》がけをしたり、子供に湯を使わせたりしておりますが、胸が弱いほうでしてな、結核になりやすいたちなんで。わしもこれが気になるんですよ! これを気にせんでおられましょうかい? 飲めば飲むほどますます気になる。わしが酒を飲むのは、つまり酔いの中に憐憫と感傷を求めるためなんで……深く苦しみたいために飲むのですよ!」こういいながら、彼は絶望したようにテーブルの上へ頭を伏せた。
「学生さん」彼はまた頭を上げ言葉をつづけた。「わしはあんたの顔に、何やら悲しそうな色が読めるんですがね。はいってこられたとたんにそれが読めたから、でまあ、さっそく話しかけたようなわけです。なんせ、あなたに自分の身の上話をしたのも、今さらいわずとも知り抜いているそこらのやじ馬どもに、おのれの恥をさらしたいためじゃない。ものに感じる心を持った教育のある人をさがしているからなんで。じつは、家内は由緒《ゆいしょ》ある県立の貴族女学校で教育を受けましてな、卒業の時には、知事さんやその他の人たちの前でショールの踊りをしたというので、金のメダルと賞状をもらったくらいです。メダルのほうは……さよう、メダルのほうは売ってしまいました……もうとうの昔にな……ふん!………が、賞状のほうはいまだにあれのトランクの中にしまってありましてな、ついこの間も主婦《かみ》さんに見せておりましたっけ。主婦さんとはのべつ幕なしにけんかばかりしてるんだが、それでも、あいつはだれか他人の前でひとじまんして、昔の仕合せな時代を吹聴《ふいちょう》したかったのでしょうよ。わしもそれをとがめ立てなどしません。けっしてとがめ立てやしません。何にしろ、これがたった一つ思い出の中に残っておるだけで、ほかのものは何もかもけしとんでしまったんですからなあ! いや、まったく、あれは癇性《かんしょう》で、気位が高くて、負けずぎらいな女ですよ。自分で床板は洗っても、黒パンはかじっても、他人の無礼な仕うちはさし置くことじゃありません。ですから、レベジャートニコフ氏にだって、無作法を許しておかなかったわけです。レベジャートニコフ氏があれをなぐったとき、家内はなぐられたためというより、くやしさが胸にしみてどっと床についたので。もともと幼い子供を三人かかえて後家《ごけ》でいたのを、わしが引き取ってやったのです。先の亭主の歩兵将校とは好きでいっしょになった仲なので、あれは男と手を取り合って親の家をかけおちまでしたんです。あれは心《しん》から底から亭主を好いておりましたが、男は賭博《とばく》カルタをはじめて裁判にまでひっかかり、そんな有様で死んじまったとか。晩年には男もあれを打ち打擲《ちょうちゃく》したそうだが、あれのほうもなかなかあまい顔ばかりしていなかったらしい。そのことは、わしもしっかりした証拠を握って確かに知っておりますがな、しかしあれは今でも思い出すと涙ぐんで、その男とひき比べてわしを責めたりします。だが、わしはむしろ喜んでおりますよ、喜んで。というのは、あれがせめて空想の中だけでも、自分は昔仕合わせだったと考えるのがうれしいのでね……そういうわけで、男の死後あれは三人の幼いものを抱えて、ある遠い辺鄙《へんぴ》な田舎《いなか》に取り残された。わしは当時おなじ土地に住んでおりましたが、そのみじめな有様といったら、わしもずいぶんいろんなことを見てきたものの、とても言葉につくせないくらいでしたよ。親戚《しんせき》にもみんな見はなされてしまったのでね。ところが、あれは気位が高かった。人なみはずれて高かった……つまりその時、あんた、その時わしも、先の家内にできた十四の娘を抱えたやもめでしたが、あれの苦しんでおるのを見るに見かねて、こちらから結婚を申し込んだ。ところがですな、その育ちのよい教育のある家柄の女が、わしといっしょになるのを承知したところから見ても、あれの難渋《なんじゅう》がどのくらいであったか、ご判断がつきましょう! それで、とうとういっしょになりましたよ! 涙を流してしゃくり上げて、手をもみしだきながら、いっしょになりました! もうどこへも行く先がなかったんですからな。え、学生さん、おわかりになりますかな? このもうどこへも行く先がないという意味が、おわかりになりますかな? いや! これはまだあなたにゃわかりますまい……それからまる一年、わしも後生大事とばかりりっぱに自分の義務をつくして、これには(と彼はびんをさした)手も触れませんでしたよ。つまり、感じというものを持っておりますからな。ところが、それでもごきげんを取り結ぶことができないうえに、かてて加えて失職ということになった。それも自分のしくじりではなく、定員改正のためです。そのときとうとうこいつに手を出してしまった!………もうかれこれ一年半も前のことにもなりましょうかな、わたしどもは方々ながれ歩いて、さまざまな苦労をかさねたあげく、とうとうこのたくさんな記念物で飾られたはなやかな首都へ流れ込みました。ここでわたしは職にありついたが……ありついたかと思うと、また失いましたよ。お察しもつきましょうが、こんどは自分のしくじりなんです。つまり、わしの本性が現われてきたからなんで……そこで今は、アマリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の住まいで、穴のようなところに暮らしておりますが、なんで暮らしを立てておるか、なんで払いをしておるのか、わしはいっこうに知りませんよ。そこにはわたしどものほか、まだ大ぜい巣をくっておりますが……まるで見るにたえぬソドム(みだらな町であったため天火に焼かれた)ですな……ふん……さよう……そうこうするうちに、先の家内にできた娘も年ごろになってきました。その年ごろになるまでの間に、娘がまた母にいじめられ通したことは、今さらくだくだしく申しますまい。それというのも、カチェリーナ・イヴァーノヴナは腹の中はまことにきれいなものだが、ただ癇《かん》が強くって、かっとなりやすい女でしてな、じき破裂してしまうんですよ……さよう! しかし、そのことは何も今さら思い出すまでもありませんて! ソーニャは教育らしい教育なんか、お察しでもありましょうが、受けるわけにゃいきませんでしたよ。四年ばかり前、わしが娘に地理と世界史を教えにはかかったものの、わし自身がかなり怪しいところへもってきて、人なみの参考書もなかったもんですからな。手もとにあった本といえばひどいものばかりだったが……ふむ! それさえ今はありゃしない。で、勉強もそれでおじゃんになってしまいました。ペルシャ王キュロスでさようならになったわけで。その後、もう年ごろになってから、娘は小説風の書物を少しばかり読みましてな。それからまたつい近ごろ、レベジャートニコフ氏からルイスの『生理学』――ごぞんじですかな?――あれを貸してもらって、たいへんよろこんで読んでおりましたよ。ところどころ声を上げてわしどもにまで読んで聞かせてくれました――まあ、これが娘にありたけの学問ですな。ところで学生さん、こんどはわたしのほうから、ついでに質問を提出することにしますが――どうですあなたのご意見は? 貧乏な、けれど純潔|無垢《むく》な娘がですな、純潔無垢な働きで、どれだけのかせぎができますか?……正直一方ではありながら、かくべつ腕に覚えもない小娘|風情《ふぜい》では、手も休めずに働いたところで、日に十五コペイカはむずかしいですからなあ! 五等官のクロプシュトック、イヴァン・イヴァーノヴィチ[#「五等官のクロプシュトック、イヴァン・イヴァーノヴィチ」はママ]――お聞きですかな?――この人なんかワイシャツ半ダースの仕立代をいまだによこさんばかりか、やれえりの寸法が違うの、やれ形がゆがんでるのと難くせつけ、地だんだ踏みながらあくたいまでついて、あれを無法に追いかえしてしまいました。ところが子供たちはひもじがっているし……カチェリーナは手も折れよとばかりもみながら部屋じゅう歩きまわっておりましてな、しかもほっぺたには赤いしみができておるにの病気にはえて[#「えて」に傍点]ありがちなやつで。カチェリーナは娘をつかまえて、『このごくつぶし、お前はただで食って飲んで、ぬくぬくとすましているね』とやるんです。ところが、小さいやつらまで三日くらい、パンの皮一つ見ずにおるのに、飲むも食うもあったもんじゃない! その時わしは寝ておりましたよ……いや、おていさいをいったってしようがない! 酔っぱらって寝ておったんで――そして、ソーニャのいうことを聞いておると(それは口数の少ない娘でしてな、声もまことにおとなしやかな小さな声です……白っぽい毛をして、顔はいつも青白くやせておる)、それがこういうのです。『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、わたしどうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの?』というのは、ダーリヤ・フランツォヴナといって、たびたび警察のごやっかいになった性《しょう》わる女が、主婦《かみ》さんをつうじて、もう三度ばかりも口をかけてきたことがあるので。『それがどうしたのさ』とカチェリーナは鼻の先でせせら笑って、『何をたいせつがることがあるものかね? 大した宝ものじゃあるまいし!』という返事です。だが、あれを責めないでくださいよ。責めないでね、あなた責めないで! これは落ちついた頭でいったんじゃない。感情がたかぶって、おまけに病気で、飢《かつ》えた子供らの泣き立てる中でいったことで、ほんとうの言葉の意味よりか、まあ、あてつけにいったことなんですからな……なにせ、カチェリーナはそうしたたちなんで、子供たちが泣きだせば、よしんばひもじくて泣くのでも、すぐひっぱたくというふうでしてな。ところで、五時過ぎになると、ソーネチカは立ちあがりましてな、ショールをかぶって、マントをひっかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻って来ました。はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルへならべました。しかも、何ひとつ口をきかないどころか、見やりもしないで、ただ大きな緑色のドラデダームのショールを取ったと思うと(うちには皆で共同《もやい》に使うショールがあったのです、ドラデダームのがね)、それで頭と顔をすっぽり包みましてな、壁のほうを向いてベッドへ倒れてしまいました。ただ肩とからだがのべつふるえているばかり……ところでわしは、やはり前とおなじていたらくで寝ておりましたが……そのときわしは見ましたよ、なあ、学生さん――やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャのベッドのそばへ寄りましてな、一晩じゅうその足もとにひざをついて、足に接吻《せっぷん》しながら、いっかな立とうとしない――それをわしは見たんです。やがてふたりはそのままいっしょに寝てしまいました、じっと抱き合ったままでな……ふたりとも……ふたりとも……ところがわしは……酔っぱらったままごろごろしておったので」
 マルメラードフはまるで声を断ち切られでもしたように、急に口をつぐんだ。それからふいに、急いで一杯ついで飲み干すと、一つせきばらいをした。
「その時からというもの」と彼はしばらく無言の後、ことばをつづけた。「その時からね。あんた、ちょっとしたばつの悪いことがあったのと、不心得な連中の密告のために――とりわけダーリヤ・フランツォヴナが張本人だったのです。つまり、あの女に相当の敬意を示さなかったというわけでな――その時から娘のソフィヤ・セミョーノヴナは、黄いろい鑑札を受けにゃならんことになって、それ以来もうわしどもといっしょにおれなくなりました。というのは、主婦《かみ》さんのアマリヤ・フョードロヴナが、どうしても承知せんのです(そのくせ、前には自分からダーリヤ・フランツォヴナにさしがねまでしたので)。それに、もう一つレベジャートニコフ氏……そう……あの男とカチェリーナとのいきさつも、つまりはソーニャのことがもとなんですよ。最初は自分がソーネチカをねらっておったくせに、こうなると急にもったいぶって、『おれのような文明開化の人間が、かりにもそんな女と一つ屋根の下で暮らせるものか?』などといいだした。ところが、カチェリーナが承知しないで、先生に食ってかかった……そうして、おっぱじまったことなんです……』のごろはソーネチカも、たいてい日暮れがたにやって来るようになりました。カチェリーナの手助けをしたり、できるだけの仕送りをしたりしましてな……ところで、あの子は仕立屋のカペルナウモフの家に同居しておるのです、そこの部屋を借りましてな。カペルナウモフというのはびっこで、どもりで、そのうえ大ぜいの家族がまたどもり、女房もやはりどもりなのです……それが一間でごっちゃに暮らしておると、ソーニャは仕切りで別室を作っておるので、ふん、さよう……貧乏で、しかもどもりの一家です……さよう……ところが、その朝わしは目がさめると、例のぼろをひっかけましてな、両手をさし上げて天に祈ったあとで、イヴァン・アファナーシッチ閣下のところへ出かけましたよ……イヴァン・アファナーシッチ閣下、ごぞんじかな?………ごぞんじない? へえ、あの善人をごぞんじないとは! あの方はまるで蠟《ろう》のような方です――主《しゅ》のお顔の前の蠟です、まるで蠟のように溶けてしまいなさるので!……閣下はいちぶしじゅうを聞きとりなさると、思わず涙ぐまれましてな、『ふうん! マルメラードフ、きみはこれまでに一度わしの期待を裏切った人間じゃが……しかし、もう一度わしの独断で、めんどうを見てあげよう。これを肝《きも》に銘じ帰って行きなさい!』とこうおっしゃった。わしは閣下のおみ足のちりをなめましたよ。心の中で。というのは、なにぶん高位高官の人ではあり、新しい国家的文化思想を持ったお方だから、ほんとうにそんなことをするのは、許してくださらんにきまっとりますからな。それから家へ帰って、おれはまた勤めについた、給料がとれるようになったと報告すると、ああ、その時はまあどんなでしたか!………」
 マルメラードフはまたはげしい興奮のていで口をつぐんだ。そのとき通りから、もういいかげん酔っぱらった酔漢の一隊がはいって来た。入口では、どこからか引っぱられて来た流しの手まわしオルガンの響きと、『一軒家』を歌う七つばかりの子供の、ひびのはいったような甲《かん》高い声が聞こえた。あたりが騒然としてきた。亭主とボーイたちは新来の連中に気を取られてしまった。マルメラードフは、はいって来た連中には目もくれず、物語のつづきにかかった。もうだいぶまいっているらしかったが、酔いがまわればまわるほど、ますます口まめになってきた。最近の出来事である就職成功の思い出が、いちだんと彼を活気づけたらしく、それが一種のかがやきとなって顔に映るくらいだった。ラスコーリニコフは注意ぶかく耳を傾けた。
「それは、あなた、五週間まえのことでしたよ。さよう……あれたちふたりが――カチェリーナとソーネチカが、それと知るが早いか、わしは一足《いっそく》とびに天国へ行ったようなあんばいでしたよ。それまでは、牛か馬のようにごろごろしておって、あくたいを聞かされるばかりだったのが、こんどは――みんなつま立ちで歩きながら、子供たちまでたしなめるじゃありませんか。『セミョーン・ザハールイチ(マルメラードフの名と父称)が、お勤めで疲れて、休んでらっしゃるんだよ。しっ!』といったような調子でな。出勤前にはコーヒーを入れる、クリームを沸かす! しかも、本物のクリームを取りだしたのですよ。それから、どこから手に入れたものやらわしにゃわからんが、十一ルーブリ五十コペイカもするりっぱな身なりを整えてきましたよ。くつ、キャラコのワイシャツ――しかもすてきに上等なやつで――それから制服、これを全部十一ルーブリ五十コペイカでりっぱに工面してくれたんです。初日の朝わしが勤めから帰って来ると、カチェリーナが食事を二品も用意しておる。スープと、わさびをかけた塩肉、それまでは夢にも見たことのないようなものです。着物なんか、カチェリーナはただの一枚も持っておらん……それこそまるっきりはだかなのだが、それだのに見ると、まるでお客にでも行くように、ちゃんとした服装《なり》をしておる。もっとも、べつにこれというものがあるわけじゃない、ただちょっとしたものだけれど、ないところから作り出せるのが女の腕なんで。髪もときつければ、何やら小ぎれいなえりを掛け、そで口もちゃんとつけると、すっかり別人みたいに若返って、女ぶりさえあがったようでしたよ。ソーネチカは殊勝《しゅしょう》にも、ただ金をみついでくれるだけで、自分じゃ当座しばらくの間、あまりたびたび来るのは世間体もあるから、だれにも見られないように、まあ暗くなってからでもまいります、なんていうので。え、まあ、どうです? そこで、昼過ぎにわしがひと寝入りに帰って来ると、まあ、なんと、カチェリーナがとうとうがまんしきれなくなったんですな――主婦《かみ》さんのアマリヤ・フョードロヴナとはつい一週間ばかり前に、もう二度と顔を合わせないような大げんかをしたくせに、コーヒーを飲みに来いと呼んだじゃありませんか。ふたりは二時間もぶっ通しにすわりこんで、絶え間なしにぼそぼそ話したもんです――『こんどね、うちの人が勤めに出て、俸給《ぼうきゅう》をいただくようになりましたの。じつはこちらから閣下のところへうかがったところ、閣下がご自身でお出ましになりましてね、ほかのものはだれもかれも待たせておいて、みんなを横目に見ながら、うちの人の手を取って、書斎へお通しになりましたの』え、どうです、どうです?『[#「』え、どうです、どうです?『」はママ]わしはもちろん、セミョーン・ザハールイチ、きみの功労は忘れはせん、と閣下がおっしゃるんでございますのよ。――きみには酒という弱点はあるけれど、しかしもう今後を約束したことだし、それにまた、じつはわれわれのほうでも、きみがいなくなって困っていたので、(どうです、え、どうです!)こんどはきみの堅い誓いを信頼するよ、って、こうおっしゃいましてね』お断わりしておきますが、これは何から何まであれがいいかげんに考えだしたことなんですよ。しかしこれは女の軽はずみとか、からじまんのためじゃありません! いや、どうして、あれ自身がそう信じておるんで、つまり、自分の空想で自分を慰めておるわけなんで、まったく! だからわしもかれこれ申しませんよ。どうして、そんなことをかれこれいやしませんとも!………それから、六日前にわしが初の俸給を――二十三ルーブリ四十コペイカを、そっくり持って帰りますとな、あれはわしのことを『かわいい人』というじゃありませんか。『なんてまあかわいい人でしょう!』ときた。しかも、ふたりきりのときですからね、驚くじゃありませんか? いったいわしのどこにかわいいところがあります? わしが世間なみの夫といわれますかい? それを、あいつはほっぺたをつねったりして、『なんてまあかわいい人でしょう!』だなんて」
 マルメラードフは言葉をやすめて、にやりと笑おうとしたが、とつぜんそのあごががくがくとふるえはじめた。でも、彼はじっと押しこらえた。この酒場、退廃しきった様子、乾草舟の五晩、ウォートカのびん――しかもそれと同時に、妻と家族にたいするこの病的な愛情は、青年をとまどいさせてしまった。ラスコーリニコフは緊張した、とはいえ病的な感じをいだきながら聞いていた。彼はここへ寄ったのをいまいましく思った。
「学生さん、なあ、学生さん!」とマルメラードフは気をとり直して叫んだ。「ああ、あんたにしても、ほかの連中同様に、こんな話はただの笑い種にすぎんでしょう。こんな家庭生活のみじめなうちあけ話やぐち話は、あんたにゃさぞ迷惑なばかりだったでしょうが、わしにとってはなかなか笑いごとどころじゃない!わしにはそれが一つ一つ胸にこたえるのですからな……ところが、そのわしの生涯《しょうがい》を通じて天国みたいな一日と、それからその晩ひと晩じゅう、こういうわしもうきうきした空想に時を過ごしましたよ――つまり、何もかもうまく片をつけて、子供たちにも着物をきせてやり、あれにも楽をさせてやろう、そして一粒種の娘も、どろ水|稼業《かぎょう》から家庭のふところへ引き戻してやろうなどと……まあ、いろいろさまざまなことを空想しましたよ……むりもありませんよ、なあ、あんた」とマルメラードフは、とつぜんぶるっと身ぶるいでもするような様子をして頭を上げ、じっと穴のあくほど聞き手を見つめた。「ところがその翌日、そんなふうの空想をしたすぐあとで(つまり、それは五日前のことでした)夕暮ちかく、わしは夜《よる》家に忍びこむ盗人《ぬすっと》よろしく、カチェリーナのトランクの鍵《かぎ》をまんまと盗み出し、持って帰った俸給の残りを引っぱり出してしまった。全部でいくらあったか覚えてもおりません。さあ、みんな、わしの顔を見ておくんなさい! 家を出てから五日目だ、家じゃさぞわしをさがしておることだろう。役所のほうはおさらば、制服はエジプト橋のたもとの居酒屋にころがっておる。その代りにもらって来たのが、このしろ物なんで!………もう何もかもおしまいだ!」
 マルメラードフは、拳固《げんこ》で一つ自分の額をこつんとたたき、歯をくいしばり、目を閉じて、しっかとテーブルにひじをついた。が、一分もたつと、彼の顔は急に変わり、妙に取ってつけたようなずるい表情と、わざとらしい態度をこしらえながら、ラスコーリニコフを見やった。そして、笑いだしながらいった。
「今日はソーニャのところへ行って、迎え酒の代をねだって来ましたよ! へへへ!」
「で、くれたかい?」とわきのほうから、いま来た連中のひとりがわめいた。わめいて、のどいっぱいに笑いだした。
「ほら、この小びんが娘の金で買ったやつですよ」とマルメラードフはとくにラスコーリニコフのほうを向いていった。「三十コペイカ出してくれました。自分の手で、なけなしの金をありったけはたいてね……わしがこの目で見たんですよ……娘はなんにもいわずにな、ただ黙ってわしの顔を見ましたっけ……こうなると、もうこの世のものじゃない、あの世のものだ……人のことをくよくよして、泣いてばかりいて、それでとがめ立てをせん。ちっともとがめ立てをせんのです! だが、かえってこのほうがわしにゃつらい、とがめられんとかえってつらい!………三十コペイカ、そうです。ところがあれだっていま金は要《い》ろうじゃありませんか、え? あんたどうお考えですな、学生さん? 今あれは、さっぱりした身なりということに気をつけにゃならん。そのさっぱりしたというのも特別なやつで、金がかかるんですよ。な、おわかりかな? おわかりかな? まあ早い話が、口紅も買わにゃならん。だって、口紅なしじゃすまされんからね。そのほか、のりのついたスカートだの、なるべくかっこうのいいくつだの……ほら、ぬかるみを飛び越すときに、ちょいと足を出した形のいき[#「いき」に傍点]に見えるようなやつをな。え、あんた、おわかりかな? そのさっぱりしたということの意味がおわかりになりますかな! ところでわしが、現在の生みの父親が、その三十コペイカをふんだくって、自分の迎え酒の代にしてしまった。いまこうして飲んでおるこれなんで! いや、もう飲んでしまったのだ!………さあ、わしのようなこんな人間を、だれか気の毒に思ってくれる人がありますかね? ええ? 学生さん、あんた今このわしが気の毒ですかい、どうですな? さあ、いってごらん、気の毒か、気の毒でないか? へへへへ!」
 彼はまたつごうとしたが、酒はもうなかった。びんはからだった。
「なんだってお前なんかを気の毒がることがあるんでえ?」また彼らのそばへやって来た亭主が、大きな声でこう言った。
 笑い声がどっとおこった。口ぎたなくののしる声さえ聞こえた。話を聞いていたものも、聞いていなかったものも、ただ退職官吏のていたらくを見たばかりで、笑いながらあくたいをつくのであった。
「気の毒がる! なんのためにわしを気の毒がるんだ!」とマルメラードフは、まるでこの言葉を待ちかまえていたように、極度に興奮した様子で、片手を前へ突き出して立ちあがりながら、ふいにわめき立てた。「なんのために気の毒がることがあるんだ? そうとも! わしを気の毒がるわけなんかもうとうないとも! わしなんか磔《はりつけ》にせにゃならん人間だ。十字架で磔にするのがほんとうで、気の毒がるどころのものじゃないとも! しかしな、判事、磔にするのはいいが、磔にしてからわしをあわれんでくれ! そうすれば、わしのほうから進んで罰を受けに行くわ、わしは快楽《けらく》に渇しておるのじゃなくって、悲しみと涙を求めておるのだからな!……やい、亭主、きさまはこの小びんがわしの楽しみになったと思うかい? わしはこの底に悲しみを求めたのだ、悲しみと涙を求めたのだ。そして、それを見いだしたのだ、味わったのだ。ただ万人をあわれみ、万人万物を解する神さまばかりが、われわれをあわれんでくださる。神は唯一人《ゆいいつにん》で、そしてさばきにあたる人だ。最後の日にやって来て、こうたずねてくださるだろう。『いじのわるい肺病やみの、まま母のために、他人の小さい子供らのために、われとわが身を売った娘はどこじゃ? 地上に住んでおったとき、酔っぱらいでやくざものの父親をも、その乱行をもおそれずに、気の毒がった娘はどこじゃ?』それから、こうもおっしゃるだろう。『さあおいで! わしはもう前に一度お前をゆるした……もう一度お前をゆるしてやったが………こんどはお前の犯した多くの罪もゆるされるぞ、お前が多く愛したそのために……』こうして、娘のソーニャはゆるされるのだ……ゆるされるとも、わしはもうわかっとる、きっとゆるされるに相違ない。わしは先ほどあの娘《こ》のところへ行ったとき、この胸ではっきりとそれを感じたのだ!………神さまは万人をさばいて、万人をゆるされる、善人も悪人も、知恵ある者もへりくだれる者もな、そしてみんなを一順すまされると、こんどはわれわれをも召し出されて、『そちたちも出てこい!』と仰せられる。『酒のみも出てこい、いくじなしも出てこい、恥知らずも出てこい!』そこで、われわれが臆面《おくめん》もなく出て行っておん前に立つと、神さまは仰せられる。『なんじ豚ども! そちたちは獣《けもの》の相《そう》をその面に印《いん》しておるが、しかしそちたちも来るがよい!』すると知者や賢者がいうことに、『神さま、何ゆえ彼らをお迎えになりまする?』するとこういう仰せじゃ。『知恵ある者よ。わしは彼らを迎えるぞ。賢なる者よ、わしは彼らを迎えるぞ。それは彼らの中のひとりとして、みずからそれに価すると思うものがないからじゃ……』こういって、われわれにみ手を伸ばされる。そこで、われわれはそのみ手に口づけして……泣きだす……そして、何もかも合点《がてん》がゆくのだ………そのときこそ何もかも合点がゆく!………だれもかれも合点がゆく……カチェリーナも……あれも同様合点がゆくのだ……主よ、なんじの王国《みくに》の来らんことを!」
 こう言い終わると、彼はぐったりと力つきて、まるで周囲のことを忘れはてたように、だれの顔も見ず深くもの思いに沈みながら、ベンチの上へぐたぐたとくずおれた。彼の言葉は一種の感銘を与えた。ややしばらく沈黙があたりを領した、やがてまもなく先ほどと同じ笑いと罵詈《ばり》の声がおこった。
「へん、ひと理くつこねやがったな!」
「どうも吹いたもんだ!」
「ようお役人!」
 等、等。
「学生さん、行こう」とふいにマルメラードフは顔を上げて、ラスコーリニコフに言葉をかけた。「わしを送ってくださらんか……コーセルの家、裏庭のほうでさ。もう潮どきだ……カチェリーナのとこへ帰る……」
 ラスコーリニコフはすでにとうからここを出て行きたかったのだ。それに、この男を送ってやることは自分でも前から考えていた。マルメラードフは、口より足のほうがはるかに弱っていたので、しっかりと青年にもたれかかった。道のりは二、三百歩くらいあった。当惑と恐怖は、わが家へ近づくにしたがって、しだいに激しく酔漢を領していった。
「今わしが恐れとるのは、カチェリーナじゃない」と彼はわくわくした様子でつぶやいた。「あいつがわしの髪の毛をむしるだろうということでもない。髪がなんだ!………髪なんかなんでもありゃせん! まったくです! もし引きむしりにかかってくれれば、そのほうがまだしもなくらいだ。わしが恐れるのはそれじゃない……わしは……あれの目を恐れるのだ……さよう……目をな……それからほっぺたの赤いしみもやっぱり恐ろしい……それからまだ――あれの息が恐ろしい……あの病気にかかったものの息づかいをきみは見たことがあるかい……ことに癇《かん》が立っておる時の息づかいを? 子供の泣き声もやはり恐ろしい……だって、もしソーニャが養ってくれなかったら、それから……今ごろはどうなっとるか見当もつかんのだからな! まったく見当がつかんのだ! だから、ぶたれることなんか恐れはせんよ……ね、きみ、わし