京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP457-P480

か突拍子もない方法で事件をかたづけようという気が、あなたの頭に浮かぶようなことがあったら――つまり自分で自分に手をかけるようなことがあったら(これはばかばかしい想像ですが、まあ一つ許してください)、その時は――短くてもいいから、要領をえた書きものを残して行ってください。ほんの一、二行、ただの一、二行でよろしい。石のことを書いてください――そのほうが堂々としていますからね。では、また……いいご思案と立派なご行為を祈ります!」。
 ポルフィーリイは妙に身をかがめて、なんとなくラスコーリニコフの視線を避けるようにしながら、出て行った。ラスコーリニコフは窓ぎわにより、いらいらしたもどかしい気持ちで、客が往来へ出て少し離れる時間を、胸の中ではかりながら待っていた。それからやがて自分もせかせかと部屋を出て行った。

       3

 彼はスヴィドリガイロフのもとへ急いだのである。この男から何を期待することができたか――それは彼自身も知らなかった。けれどこの男には、彼を支配する一種の権力がひそんでいた。一度このことを意識すると、彼はもう落ちついていられなかった。それに、今はもうその時機がきたのである。
 みちみち、一つの疑問がとくに彼を悩ました――いったい、スヴィドリガイロフはポルフィーリイのところへ行ったのだろうか?
 彼が判断しえたかぎりで、何を賭《か》けて誓ってもいいと思ったのは――いや、行ってはいない! という答えであった。彼はまたくりかえしくりかえし考えて、ポルフィーリイの訪問の一部始終を思いおこしたうえ、いや、行ってはいない、もちろん行ってはいない! と推定した。
 が、もしまだ行かなかったとすれば、今後ポルフィーリイをたずねるだろうか、たずねないだろうか?
 が、今のところ、たずねないだろうという気がした。それはなぜか? 彼はそれも説明がつかなかった。けれど、よし説明がついたとしても、今の彼はとくにそれで頭を悩まそうとはしなかったに相違ない。これらはすべて気にかかることばかりだったが、同時に彼はそれどころでないような気がした。じつに奇怪な話で、だれもそんなことを信じないかもしれないが、彼は現在目前に迫った自分の運命について、ほんのぼんやりとかすかな注意しかはらっていなかった。何かそれ以外にずっと重大な、なみなみならぬものが、彼を悩ましていたのである。――それは彼自身にかんしたことで、ほかのだれのことでもないけれど、何か別のことで、何か重大なことである。それに、彼は限りなく精神的疲労を感じていた。もっとも、この朝はこの二、三日にくらべて、彼の理性はずっと確かにはたらいていたけれど……
 それに、ああいうことのあった今となって、こんなくだらない新しい困難を征服するために、努力をはらう価値がはたしてあるだろうか? たとえば、スヴィドリガイロフがポルフィーリイをたずねないように、つとめて策略をめぐらす価値がどこにある? スヴィドリガイロフ風情《ふぜい》のために、研究したり、調べたり、ひまをつぶしたりする価値があるものか!
 ああ、こんなことはすべて、たまらなくあきあきしてしまった!
 が、それにもかかわらず、彼はやはりスヴィドリガイロフのもとへ急いだ。はたして彼はこの男から何か新しい暗示なり、逃げ道なりを期待しているのか? じっさい人は、わらしべにでもつかまろうとするものである! 彼らふたりをいっしょにしようとするのは、宿命というのだろうか、それとも何かの本能か? ことによったら、これはただ疲労の結果かもしれない、絶望のためかもしれない。また、もしかしたら、必要なのはスヴィドリガイロフではなく、だれかほかの人かもしれない。スヴィドリガイロフはただ偶然そこに介在《かいざい》しただけかもしれぬ。ではソーニャだろうか? しかし、今なんのためにソーニャのところへ行くのだ? またしても彼女の涙をねだるためか? それに、彼はソーニャが恐ろしかった。ソーニャは彼にとって、がんとして動かぬ宣告であり、変わることのない決定であった。問題は――彼女の道を選ぶか、彼自身の道を進むかである。とくにいま彼はソーニャに会うことはできなかった。いや、それよりスヴィドリガイロフを試みたほうがよくはなかろうか。そもそも彼は何者だろう? 彼はずっと以前から、なんとなくこの男が、何かのために必要なのをひそかに自認しないわけにはいかなかった。
 が、それにしても、彼らの間にいったい、いかなる共通点がありうるだろう? 彼らの間では悪事すらも一様ではありえなかった。この男はそのうえ、あまりにも不愉快で、この上ない淫乱ものらしく、きっと狡猾《こうかつ》なうそつきに相違ない。あるいは、恐ろしく悪意の強い人間かもしれない。彼についてはたいへんなうわさが行なわれている。もっとも、彼はカチェリーナの子供のめんどうを見たが、しかし、それはなんのためやら、どんな意味を蔵しているのやら、しれたものではない。この男は永久に何かの野心や、たくらみを持っているのだ。
 この二、三日というもの、ラスコーリニコフの頭には、たえずある一つの想念がひらめいて、恐ろしく彼を不安にしていた。もっとも、彼はしきりにそれを追いのけようとつとめていたが、それほどこの想念は彼にとって苦しかったのである! 彼はときどきこんなことを考えた――スヴィドリガイロフはたえず彼の身辺をうろうろしていた、今でもうろうろしている、スヴィドリガイロフは彼の秘密をかぎつけた、スヴィドリガイロフはドゥーニャに野心をいだいていた。で、もし今もやはりいだいているとすれば? この問いにたいしてはほとんど確実に、しかり[#「しかり」に傍点]と答えることができる。もし、いま彼がラスコーリニコフの秘密を知り、それによって彼にたいする支配権をえた以上、それをドゥーニャにたいする武器に使用する気になれば……
 この考えはときどき夢にさえ彼を苦しめたが、意識的にはっきりと現われたのは、今スヴィドリガイロフのところへ足を向けた、この時が初めてだった。彼はこう考えただけでも、暗うつな憤怒に引きこまれた。だいいちそうなれば、もう何もかも一変してしまう。彼自身の状態にすら変化が生ずる。つまり、今すぐドゥーニャに秘密をうち明けねばならぬ。もしかすると、ドゥーネチカに何か不用意な行為をさせないために、自分自身を法の手にわたさねばならぬかもしれない。手紙といったな? 今朝ドゥーニャは何かの手紙を受け取った! ペテルブルグに来て、彼女がだれから手紙を受けるはずがあろう? (まあ、ルージンくらいなものか?)もっとも、そんなときにはラズーミヒンが守っていてくれるけれど、ラズーミヒンはなんにも知らない。ことによったら、ラズーミヒンにも、うち明けねばならぬかもしれない! ラスコーリニコフは嫌悪《けんお》の情を覚えながら、このことを考えた。
 何はともあれ、一刻も早くスヴィドリガイロフに会わねばならぬ――と彼は腹の中できっぱり決心した。ありがたいことに、ここで必要なのは、くわしい、こまごましたことというよりも、むしろ事件の本質である。しかし、もし彼がそういうことをしかねない男だったら――もしスヴィドリガイロフがドゥーニャにたいして、何かたくらんでいるとしたら――その時は……
 ラスコーリニコフは最近、ことにこの一《ひと》月じゅう、ずっとへとへとに疲れきっていたので、もはやこうした問題になると、『その時はあいつを殺してやる』という唯一の決心よりほか、どうにも解決ができなかった――彼は冷ややかな絶望を覚えながらまたそれを考えた。重苦しい感じが心臓をおしつけた。彼は往来のまん中に立ちどまり、どの道を通って、どこへ迷い込んだかと、あたりを見まわし始めた。そこは、いま通り抜けたセンナヤ広場から三、四十歩へだてた××通りだった。左手のとある家の二階は、そっくり一軒の料理店で占領されていた。窓という窓はいっぱいにあけ放されている。窓に動いている人影から見ると、店は客でいっぱいらしかった。広間には歌声があふれ、クラリネットやバイオリンがひびき、トルコ太鼓がとどろいていた。女の黄いろい叫び声も聞こえた。彼はなんのために××通りへ曲がって来たのかとあやしみながら、引っ返そうとする拍子にふと見ると、片端のあけ放された窓の一つに、茶のテーブルに向かってパイプをくわえているスヴィドリガイロフの姿が目にはいった。これはなんともいえないほど、ぞっとするほど彼の胸を打った。スヴィドリガイロフは黙って彼をじろじろ観察していた。そして、同じくラスコーリニコフを驚かしたことだが、彼はどうやら自分に気づかれないうちに、こっそり逃げようと腰をもちあげかけたらしい。ラスコーリニコフはすぐさま自分でも、彼に気づかず考えこみながら、わきを見ているようなふりをして、ひきつづき目のすみで彼を観察していた。心臓はさわがしく鼓動した。はたしてそのとおりである。スヴィドリガイロフは、明らかに人に見られるのをいやがっているらしかった。彼はくちびるからパイプをはなして、あわや今にも姿を隠そうとした。が、身を起こしていすをのける拍子に、ふとラスコーリニコフが彼を見つけて観察しているのに気がついたらしい。ふたりの間には、彼が半醒半睡《はんせいはんすい》のラスコーリニコフをその部屋に訪れた、最初の会見の一場に似たものが生じた。ずるそうな微笑がスヴィドリガイロフの顔に現われ、それがだんだんひろがっていった。そしてふたりともお互い同士を見て、観察しているのをさとった。とうとうスヴィドリガイロフは、からからと大きく笑った。
「さあ、さあ! よろしかったら、どうぞおはいりください。わたしはここにいますから!」と彼は窓から叫んだ。
 ラスコーリニコフは料理店へあがって行った。
 彼は大広間に隣りあった、窓一つしかない、いたって小さな奥の部屋にスヴィドリガイロフを見いだした。広間では二十分ばかりの小テーブルに向かって、歌うたいたちの合唱を聞きながら、商人や、官吏や、その他のあらゆる種類の人が茶を飲んでいた。どこからか、玉を突く音がひびいてきた。スヴィドリガイロフの前の小テーブルには、口をあけたシャンパンのびんと、半分ばかり酒をついだコップがおいてあった。そのほか部屋の中には、小形な楽器を持った手まわしオルガンひきの子供と、しまのスカートのすそをからげ、リボンつきのチロル帽をかぶった、ほおの赤い健康そうな下男ばかりの歌うたいの女がいた。娘は隣室の合唱にもめげず、手まわしオルガンの伴奏に合わせて、だいぶしゃがれたコントラルトで、何やら下男くさい歌をうたっていた……
「いや、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフのはいって来るのを見て、彼女の歌をさえぎった。
 娘はさっそく歌をぷつりと切って、うやうやしげな期待のかっこうで控えていた。彼女はその韻《いん》をふんだ下男情調まで、やはりまじめなうやうやしい表情で歌っていたので。
「おい、フィリップ。コップだ」とスヴィドリガイロフは叫んだ。
「ぼくは酒は飲みません」とラスコーリニコフはいった。
「どうぞご勝手に、これは、あなたのためじゃないんで。さあ、飲め、カーチャ! 今日はもうこれでいいよ、お帰り!」
 彼は娘に酒を一杯ついでやり、黄いろい一ルーブリ紙幣《さつ》を一枚出した。カーチャは、女がだれでもするようにひと息に、つまりくちびるをはなさず二十口ばかりに酒を飲みほすと、紙幣を取って、スヴィドリガイロフの手に接吻《せっぷん》した。こちらは大まじめでその接吻を許した。娘は部屋を出て行った。手まわしオルガンを持った男の子もあとにつづいた。ふたりは往来から呼び込まれたのである。スヴィドリガイロフがペテルブルグへ来てまだ一週間にもならないのに、彼の周囲のものは何もかも古い族長的な感じになりきっていた。ここの給仕のフィリップもちゃんと『お馴染《なじみ》』になり、彼の前でぺこぺこしているし、広間へ通ずるドアは締めきることになっていた。スヴィドリガイロフはこの部屋をわが家《や》のようにして、幾日も幾日もここで居つづけするらしかった。この料理店はやくざで、きたならしく、二流とまでもいかないくらいだった。
「ぼくはあなたのとこへ行こうと思って、さがしていたとこなんですが」とラスコーリニコフは口をきった。「ところが、今どうしてぼくは急にセンナヤからこの通りへ出たんだろう! ぼくは今まで一度もこっちへ曲がったこともなければ、ここへ寄ったこともなかったのに。ぼくいつもセンナヤから右へ曲がるんです。だいいち、あなたのとこへ行く道はこっちじゃない。ところが、ふっと曲がると、このとおり、あなたに出くわした! どうも不思議だ!」
「なぜあなたは率直におっしゃらないんです――これは奇跡だって?」
「なぜって、これはただ偶然にすぎないかもしれないじゃありませんか」
「いや、どうもこの人たちは、なんという考えかたをするんだろう!」とスヴィドリガイロフはからからと笑いだした。「腹の中じゃ奇跡を信じていたって、けっして白状しないんですからね! あなたもげんに、偶然にすぎない『かもしれぬ』と、おっしゃるじゃありませんか。自分自身の意見というものについて、ここの人たちがみんなどれくらいおくびょう者か、あなたにはとうてい想像もつきますまい、ロジオン・ロマーヌイチ! わたしはあなたのことをいってるんじゃありませんよ。あなたは自分自身の意見を持っていらっしゃる、そしてそれを持つことをびくびくなさらなかった。でつまり、あなたはわたしの好奇心をおひきになったわけです」
「そのほかにはなんにもありませんか?」
「だって、それだけでもたくさんじゃありませんか」
 スヴィドリガイロフは、明らかに興奮しているらしかった。が、それはほんのちょっとだった。酒はやっとコップに半分しか飲んでいなかったのである。
「だってあなたはぼくのことを、あなたのいわゆる自分自身の意見を持ちうる人間だとご承知になるまえに、ぼくのところへ見えたように覚えていますが」とラスコーリニコフは注意した。
「いや、あの時は話が別でしたよ。だれにだってそれぞれ目的がありますからね。奇跡という点で、わたしはあなたに申しあげますが、どうやら、あなたはこの二、三日、眠り通されたらしいですね。わたしは自分であなたに、この料理屋をお教えしといたんですから、あなたがまっすぐにここへいらっしたからって、べつに奇跡なんかありゃしません。わたしは自分で道筋をくわしく説明して、この店のある場所と、ここでわたしに会える時間まで、お教えしといたんです。覚えていますか?」
「忘れました」とラスコーリニコフは驚いて答えた。
「ほんとうでしょう。わたしはあなたに二度もいったんですよ。だから、ここのところが機械的にあなたの記憶にきざみこまれたのです。それで、あなたも自分じゃわからないなりに、ちゃんとその指定どおり、しかも機械的にこっちへ曲がって来たんです。わたしはあの時そういいながらも、あなたがわかってくださろうとは期待していなかった。どうもあなたはあまり自分の本性を暴露《ばくろ》しすぎるようですな、ロジオン・ロマーヌイチ。ああ、それからついでに――わたしはこういうことを確かめました。ペテルブルグでは、歩きながらひとり言をいう人がたくさんあります。こりゃ半気ちがいの町ですよ。もしわが国にほんとうの科学があったら、医者も、法律家も、哲学者も、それぞれ自分の専門に従って、ペテルブルグを対象にきわめて貴重な研究をすることができたでしょうよ。ペテルブルグほど人間の心を陰うつでどぎつい、奇怪な影響をあたえるところは、まずあまりありますまい。気候の影響だけでも大したものです! ところが、これは全ロシヤの政治的中心なので、その特性が万事に反映せざるをえません。しかし、今の問題はこんなことじゃありません。問題はわたしがもう幾度となく、あなたをわきから観察していたということです。あなたは家を出るときには、まだ頭をまっすぐにして歩いていらっしゃる。ところが、二十歩あたりから、もうぐったりたれてしまって、両手をうしろに組む。そして目はあけていらっしゃるが、たしかに前もわきのほうも、いっさい見てはいらっしゃらない。そしてしまいには、くちびるをもぐもぐ動かして、ひとり言をお始めになる。そのうえ、ときには片手を振りまわして、朗誦のようなことを始め、あげくのはてには、ながあく往来のまん中に立ちどまっておしまいになる、これは、はなはだよくないですなあ。ことによると、わたしのほかにまだたしか、あなたに目をつけてる人がないともかぎらない。これなどは、はなはだ不利ですからな。わたしにしてみりゃ、じつのところ、どうでもいいことです。わたしにあなたの治療ができるわけでもありませんし。ですが、あなたは、もちろん、わたしのいうことがおわかりでしょうね」
「じゃ、ぼくが尾行されてるのをごぞんじなんですか?」さぐるような目つきで彼に見入りながら、ラスコーリニコフはたずねた。
「いや、なんにも知りませんよ」さも驚いたような顔をして、スヴィドリガイロフは答えた。
「ふん、では、ぼくのことはかまわんでもらいましょうか」とラスコーリニコフは眉《まゆ》をしかめ、つぶやくようにいった。
「よろしい、あなたのことはかまわんとしましょう」
「それよりも、あなたがここへよく飲みに来られ、しかもぼくに来いといって、自分で二度まで指定してくだすったのなら、なぜ今ぼくが通りから窓を見た時に、隠れるように行ってしまおうとなすったんです? それを聞かせてください。ぼくは、ちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「へ、ヘ! では、いつぞやわたしがあなたの部屋のしきいの上に立った時、なぜあなたは目をつぶって長いすの上に横になったまま、自分じゃまるで眠ってもいないのに、眠ったようなふりをなすったんです? わたしは、ちゃあんとそれに気がつきましたよ」
「ぼくには……それだけの理由が……あったかもしれませんよ……それはご自分でおわかりのはずです」
「わたしだって、それだけの理由が、あったかもしれませんよ。もっとも、あなたはそれをごぞんじないけれど」
 ラスコーリニコフは右のひじをテーブルにつき、その指であごをささえながら、じっとスヴィドリガイロフに視線をそそいだ。彼はちょっと一分ばかりの間、これまでもたびたび、ショックを感じた相手の顔を、しげしげと見つめた。それはなんとなく仮面を思わせる奇怪な顔たった、くちびるはあざやかな紅色をして、あごひげは明るい亜麻《あま》色をおび、同じく亜麻色の髪はまだかなり濃く、ばら色のほおをした色白な顔である。目はなんだか少し青すぎて、その視線はなにかあまり重苦しく、じっと動かなさすぎた。年にしてはずぬけて若々しく見える美しい顔には、なんだか恐ろしく不愉快なところがあった。スヴィドリガイロフの身なりは軽快なしゃれた夏着で、とくにシャツに贅《ぜい》を見せていた。指には宝石入りの大きな指輪をはめている。
「いったいぼくはまだあなたまで相手に、やっさもっさしなくちゃならないんですか」とラスコーリニコフは痙攣《けいれん》的にじりじりしながら、いきなりぶっつけにきりだした。「たとえあなたが、害を加える気になったら、非常に危険な人物であるにしても、ぼくはもうこのうえ苦労なんかしたくない。ぼくは今すぐあなたに証明して見せますが、ぼくはあなたが思っているほど、自分というものを大事にしちゃいないんですからね。ちゃんとおことわりしておきますが、ぼくがあなたをたずねて来たのは、ほかじゃありません。もしあなたがぼくの妹にたいして。あの以前の野心を捨てず、そのために最近知られた事実を何かに利用しようと考えているのだったら、あなたがぼくを監獄へぶち込むよりも前に、ぼくはあなたを殺してしまうから、そのことをじきじきにいいに来たのです。ぼくのいうことは正確ですよ。ぼくが自分の言葉を守りうる人間だってことは、あなたもごぞんじのはずです。第二に、もし何かぼくに言明したいことがあるなら――だって、どうもこの間じゅうから、あなたは何やらぼくに言明したがっておられるようだから――もしそうだったら早くいってください。一刻の時も大事ですからね。ことによったら、もうまもなく手遅れになるかもしれないんですから」
「あなた、いったいどこへそうお急ぎなんです?」好奇の目で彼をじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは問いかけた。
「だれにだってそれぞれ目的がありますからね」と陰うつな調子でラスコーリニコフは気みじかに答えた。
「あなたはいま、自分からざっくばらんな話を申し込みながら、もう第一の質問にたいして返答を拒絶していらっしゃるじゃありませんか」とスヴィドリガイロフは笑顔で注意した。「あなたはいつも、わたしが何か目算を持っているように思われるので、それでわたしを疑いの目で見ておられるのです。なに、それはあなたの立場としてむりもない話です。わたしはずいぶんあなたと意気相投合したいとは思っておりますが、しかし、わざわざ骨折ってあなたの疑いを解こうとも思いませんな。なあに、それほど大した問題じゃありません。それに、何もそう特別なことであなたと話し合うつもりもなかったんですからね」
「じゃ、なぜあの時ぼくがあんなに必要だったんです? あなたは、しきりにぼくのしりを追いまわしていたじゃありませんか?」
「それはただ興味ある観察の対象としてですよ。あなたの状態の奇抜な点が、わたしの興味をひいた――つまりそのためなんですよ! そのうえあなたは、非常にわたしの興味をひいた婦人の兄さんで、しかも以前わたしはその当の婦人から、あなたのことをしょっちゅういろいろと聞いていたので、あなたがその婦人に大きな勢力を持っておられるとこう推定したわけです。これでもまだ十分でありませんかね。へ、へ、ヘ! もっとも、じつをいえば、あなたの質問はわたしにとってかなり複雑なんですよ。だから、それにお答えするのは骨なんです。だって早い話が、今あなたがわたしのとこへ見えたのも、ただ用件ばかりじゃなくて、何か新しいことを探りにいらっしたんでしょう? え、そうでしょう?そうでしょう?」ずるそうな微笑を浮かべながら、スヴィドリガイロフはいいはった。「さて、そこで考えてみてください、わたし自身こっちへ来る汽車の中で、あなたという人をあてにして、あなたもやはり何か新しいことを聞かしてくださるだろう、あなたから何か借り出すことができるだろう、と思ったわけなんですよ! われわれはお互いにこういった物持ちなんで!」
「そりゃいったい何を借り出そうというんです?」
「さあ、なんといったらいいかなあ? いったいわたしがそれを知ってると思いますか? ごらんのとおり、わたしはしじゅう、こういう安料理屋に入りびたっておりますが、わたしにゃこれがいい気持ちなんで。いや、いい気持ちっていうのじゃないが、なんということなしにですな。わたしだってどこかにすわらなきゃなりませんからね。まあ、あのかわいそうなカーチャにしたって――ごらんになったでしょう?……ねえ、たとえば、かりにわたしが食いしんぼうだとか、クラブ通いの食道楽だとか、そんなものでもあればまだらくなんですが、わたしときたら、ごらんのとおり、こんなものでも平気で食べられるんですからね! (彼は片すみを指でさして見せた。そこには小さいテーブルがあって、じゃがいもつきの、ひどいビフテキの残りが、ブリキ皿の上にのっかっていた)ときに、あなた食事はすみましたか? わたしはちょっとひと口やったから、もうほしくないんです。また酒だってまるで飲みません。シャンパンのほかはいっさいなんにも。ところがそのシャンパンも、ひと晩じゅうかかってたった一杯、しかもそれで頭痛がするんですからね。今これをいいつけたのは、ちょっと景気づけのためなんですよ。というのは、ちょっとあるところへ行こうと思ってるもんですから。だからごらんのとおり、わたしは特別のごきげんでいるわけなんです。わたしがさっき小学生みたいに隠れたのは、あなたにじゃまされるかと思ったからなんで。しかし、たぶん(彼は時計を引き出した)、まだ一時間くらい、ごいっしょにいられるでしょう。いま四時半ですからね。いや、まったくのところ、せめてなんでもいいから、何かであるといいんですがね、たとえば地主だとか、一家の父だとか、槍騎兵《そうきへい》だとか、写真師だとか、雑誌記者だとかね……それが、なあんにもないんですよ、何ひとつこれという専門が! ときには、たいくつなことさえありますよ。じっさい、わたしは、何か珍しいことを聞かしてくださることと思っていましたが」
「いったいあなたは何者で、なんのためにこっちへ出て来たんです?」
「わたしが何者かって? あなたは、ごぞんじじゃありませんか――貴族で、二年ばかり騎兵隊に勤めて、その後、このペテルブルグでごろついていて、それから、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎に暮らした。これがわたしの伝記でさあ!」
「あなたはカルタ師だったようですね?」
「いや、なんのわたしがカルタ師なものですか。いかさま師でさあね――カルタ師じゃありませんよ」
「あなたはいかさまカルタ師だったんですか」
「さよう、いかさまカルタ師でもあったので」
「どうです、なぐられたこともあるでしょう!」
「そんなこともありましたよ。それがどうしたんです?」
「じゃ決闘を申し込むこともできたわけでしょう……まあ、とにかく目ざましの種にはなりますね」
「お説に反対はしますまい。それに、わたしは哲学めいたことは不得手《ふえて》ですからな。じつのところ、わたしが急いでここへやって来たのは、どちらかといえばおもに女のためなんですよ」
「マルファ・ペトローヴナの葬式を、すませたばかりなのに?」
「まあ、そうですな」とスヴィドリガイロフは押しの強い、露骨《ろこつ》な表情でほほえんだ。「で、それがどうだ、というんです? あなたはなんですな、わたしが女のことをこんなふうにいうのを、どうやら悪く思っておられるようですな?」
「というと、つまりぼくが淫蕩《ほうとう》を悪と見るかどうか、という意味ですね?」
「淫蕩を? へえ、そんなふうに話をもってこられるんですか! もっとも順序として、まず女にかんする問題にお答えしましょう。じつはね、わたしは今おしゃべりしたい気分になってるんですよ。ねえ、いったいなんのためにわたしは自己を抑制しなくちゃならないんでしょう? もしわたしがかりに女好きだとすれば、なぜ女色を捨てなければならないんでしょう? 少なくとも、一つの仕事ですからね」
「じゃ、あなたはここでただ淫蕩だけに、望みをつないでるんですか?」
「ふん、それがどうなんです! まあ淫蕩にもつないでおりますよ! だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わたしは少なくとも正直な質問が好きなんで、この淫蕩ってやつの中にゃなんといっても、自然に根底を持った、空想に堕《だ》さない、一種|恒久的《こうきゅうてき》なものがありますよ。たえずおこっている炭火みたいなものが血の中にあって、こいつがしじゅう焼きつくようなはたらきをする。そして、年をとっても容易に消すことができないんですな。ねえ、そうじゃありませんか、これでも一種の仕事でないでしょうか?」
「そんなことをしてみたって、なにもうれしがるほどのこともないじゃありませんか? それは病気ですよ、しかも危険なやつだ」
「ああ、あなたはそんなほうへ話を持って行く! そりゃわたしだって、これが一定の尺度を越えたすべてのものと同様に、一つの病気だってことには同意です――しかも、この場合では、かならずや尺度を越えざるをえないんですからな――がそうはいうものの、こいつは人によって、いろいろまちまちでしょう。これが第一だし、第二には、何事もむろん程度は守るべきで、たとえ卑屈でもなにかと胸算用もしなけりゃならんでしょう。けれど、いったいそれでどうなるんです? けっきょく、こいつがなかったら、ピストル自殺でもするよりか、しかたがないじゃありませんか。そりゃわたしだって、相当な人間はたいくつする義務がある、ということには賛成ですが、しかしそれでも……」
「あなたはピストル自殺ができますか?」
「ああ、また!」とスヴィドリガイロフは嫌悪《けんお》の表情で、はね返すようにいった。「後生ですから、そんな話をしないでください」と彼はせきこんでいいたしたが、それまでずっと彼の言葉に現われていたから[#「から」に傍点]いばりの調子がなくなり、顔つきまでが一変したようであった。「白状しますが、わたしはこの弱点を持っているんですよ。われながらかんにんできないんだけれど、どうもいたしかたありません。わたしは死というやつが恐ろしいんで、人がそんな話をしてもいやなんです。じつはね、わたしは多少神秘論者なんですよ」
「ああ、マルファ・ペトローヴナの幽霊ですか! どうです、ひきつづき出て来ますか?」
「いや、そいつはいいださないでください――ペテルブルグではまだ出ないんです。それに、そんなこと、くそ食らえだ!」と彼はなんとなくいらいらした様子で叫んだ。「いや。いっそその話を……だが……しかし、ふん! ちぇっ、もう時間があまりない。もうあなたとゆっくりお話していられません。残念ですな! お話することはあるんですが」
「なんです、女でも待ってるんですか?」
「さよう、女が。なに、ちょっとした偶然のことでね……しかし、わたしがいうのは、そんなことじゃないんです」
「ふん、しかし、こうした周囲のけがらわしさも、あなたはもう感じなくなってしまったんですか? あなたはもう踏みとどまる力を失ったんですか?」
「あなたは力がご注文なんですか? へ、へ、へ! あなたにゃびっくりさせられますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もっとも、そうだろうとは前から知っていましたがね。あなたは淫蕩《いんとう》だの美学だのっておっしゃる! してみると、あなたシルレルなんですね、理想家なんですね! もちろん、すべてそうあるべきが当然で、もしそうでなかったら、それこそふしぎなくらいだが、しかし、実際となると、やっぱり妙ですな……ああ、残念なことに時間がない。けれど、あなたはじつに興味のある人物ですな。ときについでですが、あなたシルレルがお好きですか? わたしは恐ろしく好きなんで!」
「だが、あなたはじつに大したほら吹きだ!」といくらか嫌悪《けんお》の語調でラスコーリニコフはいった。
「いいや、けっして、けっして!」スヴィドリガイロフはからからと笑いながら答えた。「しかし、あえて議論しません、ほら吹きなら、ほら吹きでもけっこう。しかし、かくべつ害にならなけりゃ、少しはほらを吹いたって、かまわんじゃありませんか。わたしは七年間、マルファ・ペトローヴナと田舎で暮らしたものだから、今あなたのような聡明《そうめい》な――聡明で、おまけにこのうえなく興味ある人に出会うと、いきなり飛びかかっておしゃべりがしたいんですな。それに、ちょくちょく半杯ずつ飲んだ酒が、ほんのいささか頭へまわったとこなんだ。しかも何よりも、だいいち、大いにわたしを得意にならせた事情が一つあるんだが、そのことは、……まあいいますまい。え、あなたはいったいどこへ?」急にスヴィドリガイロフは驚いたようにこう尋ねた。
 ラスコーリニコフは立ちあがろうとした。彼は重苦しい、息づまるような気がして、ここへ来たのが妙にきまりわるくなったのである。スヴィドリガイロフなる人物については、もう世界じゅうでもっとも空虚なくだらない悪党だと確信してしまった。
「いいじゃありませんか! もうしばらく、もう少し話していらっしゃい」とスヴィドリガイロフはしきりに勧めた。「せめてお茶でもたのんだらどうです。さあ、もすこしすわってください。いや、もうばかなおしゃべりはしません。つまり手前みそのおしゃべりはね。何かあなたに話してお聞かせしましょう。なんでしたら、ある女がわたしを――あなたの言葉をかりていえば――『救ってくれた』顚末《てんまつ》をお話しましょう。これはしぜんと、あなたの第一の問いにたいする答えにもなるんですから、なぜって、その婦人というのは――あなたの妹さんだからです。話してもいいでしょうか? それに、時間つぶしにもなりますしね」
「お話しなさい。しかし、改めておことわりするまでもなく、あなたは……」
「おお、ご心配にはおよびません! おまけにアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、わたしごときくだらない空虚《くうきょ》な人間にさえも、深い尊敬の念しかおこさせないようなかたですからな」

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「ごぞんじかもしれませんが(いや、わたしが自分でお話しましたっけ)」とスヴィドリガイロフはいいだした。「わたしはこの土地で大きなカルタの借金に責められて、てんから払うあてもなく、とうとう監獄《かんごく》へくらいこんだことがある。その時マルファが救い出してくれた顚末《てんまつ》は、くだくだしくお話する必要もありません。ねえ、女ってものはどうかすると、すっかりうつつを抜かして男にうちこめるものですからなあ! あいつは正直で、なかなか利口《りこう》な女でした(もっとも、教育はまるでありませんでしたがね)。ところで、どうでしょう、その嫉妬《しっと》ぶかい律気《りちぎ》な女が、いろいろ恐ろしい、らんちき騒ぎをやったあげく、身を屈《くっ》して、わたしとある契約を結んだのみか、ふたりの結婚生活中ずっとそれを実行したんですよ。じつはあれはわたしよりだいぶ年上だったし、おまけに、年じゅう口からいやなにおいをさせていたので。わたしはたぶんのずうずうしさと、一種の正直さを持った男だもんですから、あれにたいして完全に貞操を守りえないということを、率直《そっちょく》に当人にいってのけたものです。この告白はあれを夢中になるほど怒らせましたが、しかし、わたしのずうずうしい率直さが、ある意味においてあれの気に入ったようでもありました。『つまり、まえもってこういってしまうところをみると、自分でもわたしをだますのがいやなんだろう』ってなわけですな――嫉妬ぶかい女には、これが一ばんたいせつなことなんで。かなり長く愁嘆場《しゅうたんば》を演じた結果、わたしたちの間にはこんな口約束ができました。第一に、わたしはけっしてマルファを見捨てないで、永久にあれの夫でいること。第二に、あれの許可なしにはどこへも旅行などしないこと。第三に、けっしてきまった情婦を持たないこと。第四、そのかわりマルファはときどきわたしが小間使に手を出すことを許すが、しかし、これもあれの内諾《ないだく》によらなければならぬこと。第五、われわれと同じ階級出の女はくれぐれも愛してはならぬこと。第六、こんなことがあってはたいへんだが、万一激しい真剣な情欲がわたしを襲うようなことがあったら、わたしはマルファにそれをうち明けねばならぬこと――こういうのです。しかし、最後の点にかんしては、マルファはいつもかなり安心しておりました。あれは利口な女でしたから、したがってわたしのことを、真剣な恋などできない道楽者の女好きとよりほかには、見ることができなかったんです。しかし、利口な女と嫉妬ぶかい女というのは、おのおの異なったべつべつなもので、こいつが困るんですよ。しかし、ある種の人間を公平に批判するには、あらかじめ二、三の先入観念と、普通われわれをとりまいている人や事物にたいする日常の習慣を、捨ててかからなくちゃなりません。あなたの批判なら、わたしはだれの批判にもまして、希望をかける権利を持っています。あなたはもうマルファのことで、ずいぶんおかしなことや、ばかばかしいことを聞いていらっしゃるかもしれない。じっさい、あれには何やかや非常におかしい癖がありました。けれど、あえて端的《たんてき》にいいますが、わたしはあれの、数しれぬ悲嘆のもとを作ったことを、心底からくやんでおります。しかし、やさしい夫がやさしい妻にささげるために、きわめて当をえた oraison funebre(弔辞)としても、まあ、この程度でたくさんでしょう。けんかでもしたときには、わたしはおおむね口をつぐんで、かんしゃくをおこしたりなどしませんでした。この紳士ぶりがたいてい、いつも目的を達したものです。これが、あれにあるはたらきをして、御意《ぎょい》にさえめしたくらいです。どうかするとあれは、わたしをじまんにすることさえありましたよ。しかし、それでもあなたの妹さんだけは、がまんしきれなかったんです。いったい、どうしてあれが、ああいう絶世の美人を家庭教師などに入れたのか! それは、つまり、マルファが情熱的な感受性の強い女なので、自分から妹さんにいきなりほれこんじまった――字義どおりに、ほれこんでしまったからだ、とわたしは解釈しております。いや、なにしろ妹さんはねえ! わたしはひと目見るなり、こいつはいかんということが、わかりすぎるほどわかったのです――あなたどうしたとお思いです?――わたしはあの女《ひと》に目も向けない決心をしたんです。ところが、アヴドーチヤ・ロマーノヴナが、自分のほうからまず進んで来られたんですよ――ほんとになさるかどうか知りませんがね。それはマルファ・ペトローヴナの熱もだんだんこうじてきて、妹さんのうわさをしてもわたしが黙っているといって、腹をたてるくらいでした。あれがのべつ幕なしに妹さんをほめたてるのに、こっちが平気な顔をしているのが気にいらないんですな。じっさい、あれがいったい何を望んでいたのか、わたし自身も未だにわからないくらいなんで! まあ、そんなわけだから、もちろんマルファは、アヴドーチヤ・ロマーノヴナに、わたしの秘密を洗いざらい話したに相違ありません。あれは一つ情けない癖があって、まるでもう相手かまわず家庭内の秘密をぶちまけ、やたらにわたしのことを壁訴訟《かべそしょう》するんです。だから、この新しくできた美しい友だちを、どうしてただおけるものですか? 察するところ、ふたりの間には、わたしのことよりほか話はなかったにちがいありません。で、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにも、人がわたしに塗りつけたがっている無気味な、神秘めかしい話が、すっかり知れてしまったのは、疑いもないことです……わたしは賭《かけ》をしてもいいが、あなたもこういった種類の話を、もう何か聞きこんでおられるでしょう?」
「聞きましたよ。ルージンなども、あなたがある子供の死因にさえなっているって、あなたを責めていましたよ。いったいそれはほんとうですか?」
「後生ですから、そんなけがらわしい話はやめてください」とスヴィドリガイロフは嫌悪《けんお》の表情で、気むずかしそうにいった。「もしあなたがどうしても、そのばかばかしい話の顚末《てんまつ》を知りたいとおっしゃるなら、またいつか別にお話しましょう。が、今は……」
「それから、村であなたが下男をどうとかしたってことも聞きました。それもやっぱりあなたが何か原因になっているとかで」
「後生です、もうたくさん!」とスヴィドリガイロフは、目に見えてがまんのしきれない様子で、ふたたびさえぎった。
「それは、例の、死んでからもあなたのパイプをつめに来たという、あれと同じ下男じゃないんですか……いつか自分でぼくにお話しなすった?」ラスコーリニコフは、だんだんいらだたしそうな様子になった。
 スヴィドリガイロフはじっと注意ぶかく、ラスコーリニコフを見つめた。ラスコーリニコフは、このまなざしの中に毒毒しいうす笑いが電光のように、ちらとひらめいたかに思われた。とはいえ、スヴィドリガイロフはそれをおさえつけて、ごくいんぎんな調子で答えた。
「そう、同じ男です。お見うけしたところ、あなたもこういうことにたいへん興味をお持ちのようですな。まあ、せいぜい機会のありしだい、あらゆる点であなたの好奇心を満足させることを、自分の義務と心得ております。いやはや! どうも見たところ、わたしはじっさい、だれかの目にロマンチックな人物と見えるらしい。こうなってみると、マルファがわたしのことでお妹さんに、秘密めいた興味をそそるような話をうんとしてくれたことにたいして、どれだけ故人に感謝しなければならぬかわからないほどです。そうじゃありませんか。自分が人にあたえる印象を判断することはできませんが、いずれにしても、それはわたしにとって有利でしたよ。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはわたしにたいしてきわめて自然な嫌悪を感じていられたにもかかわらず――またわたしがいつも陰うつな、虫の好かぬ顔つきをしていたにもかかわらず、お妹さんはとうとうわたしがかわいそうになってきたのです。一個の滅びたる人間として憐れみの情をもよおしてこられたのです。ところが、娘さんの心の中にかわいそう[#「かわいそう」に傍点]という気がおこると、もちろん当人にとって何より危険なことなんです。そうすれば、きっとかならず『救って』やりたい、反省させたい、復活させたい、より高潔な目的に向かわせたい、新しい生活と活動に向かって更生させたい――とまあ、こんなふうのことで、空想しうるかぎりのことを考えだすのです。わたしはさっそく、小鳥は自分から網の中へ飛び込んで来るな、とさとったので、こっちでもその心がまえをした。おや、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたは顔をしかめられたようですね? なに、だいじょうぶ、事件はご承知のとおり、くだらなくすんでしまったのですから。(ちぇっ、わたしの酒を飲むことはどうだ!)じつはね、わたしはいつも――そもそもの初めから、こう思っておりましたよ。あなたの妹さんを二世紀か三世紀ごろに、どこかのちょっとした王公なり、代官なり、小アジヤの総督なりの姫君に生まれさせなかった運命のいたずらを、残念に思っているしだいですよ。妹さんは疑いもなく、殉教《じゅんきょう》の苦患《くげん》をたええた女性のひとりです。真赤に焼けた火ばしで胸を焼かれたときでも、もちろん微笑をふくんでおられたにちがいない。あの女《ひと》はわざわざ進んでそのほうへ向かう人です。ところで四世紀か五世紀ごろだったら、エジプトの砂漠《さばく》へ隠遁《いんとん》して、そこで三十年くらい、草の根と歓喜と幻で生きてゆかれたことでしょう。あの女《ひと》はただもうだれかのために一刻も早く、何か苦痛を受けたいと、そればかり渇望《かつぼう》し、要求していらっしゃるんですからな。もしその苦痛をあたえられなかったら、自分で窓から飛びおりかねないほどですよ。わたしはラズーミヒンという人のことを、ちょっと聞きました。うわさによると、なかなか分別のある人だということですね(それは姓の示すとおり(ラームズは英知の意)ですよ、きっと神学生なんでしょう)。まあ、その人にお妹さんを保護さしておけばいいでしょう。要するに、わたしはどうやらお妹さんを了解《りょうけん》したらしいので、それを自分の名誉としているしだいです。けれどあの時、つまり初めてお知り合いになったころは、ご承知のとおり、いつでも妙に軽はずみな、ばかげた了簡になりやすいもんだから、誤った観察をしたり、ありもしないものを見たりするものです。ええっ、畜生、なんだってあの女《ひと》はあんな美人なんでしょう? だから、なにもわたしが悪いのじゃありませんよ!ひと[#「んよ!ひと」はママ]口にいえば、もうどうにもおさえようのない情欲の発作から事が始まったんです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナはとほうもない、聞いたことも見たこともないほど純潔な人です。いいですか、これはお妹さんにかんする一つの事実として、あなたにお知らせするんですよ(あの女《ひと》はあんなに聡明なかたなのに、おそらく病的といってもいいほど純潔です。そして、これがあの人のために、よくないのですよ)。ちょうどそこへ、パラーシャという目の黒い娘が小間使の中におったのです。わたしは前に一度もその娘を見たことがなかった。そのころほかの村から連れて来たばかりなんでね――すてきに美しい娘でした。が、お話にならないくらいの低能だもんだから、わたしがなにすると、たちまち泣きだして、邸じゅうに聞こえるような大声を立てた。それでみっともない騒ぎになってしまったんですよ。ところが、あるとき食事のあとでアヴドーチヤ・ロマーノヴナは、わたしが庭の並木道にひとりでいるところを、わざわざさがし出して、目に涙を光らしながら、かわいそうなパラーシャをいじめないでくれと要求[#「要求」に傍点]されたんです。これがわたしたちがふたりでかわしたほとんど最初の会話だった。わたしはもちろん、あの女の希望をみたすのを名誉と心得て、心から打たれたような、まのわるそうなふりをしようと努めましたよ。まあ、ひと口にいえば、うまく役をしこなしたわけなんです。それから交渉が始まって、秘密の会話、教訓、訓戒、懇願《こんがん》、哀願、そして涙まで流されたのです――どうです、ほんとに、涙まで流されたんですよ! まったく若い娘さんによっては、伝道にたいする情熱がこのような程度にまでなることがあるんですからな! わたしはもちろん、すべてを運命のせいにして、光明にあこがれ渇望《かつぼう》するようなふりをしていたが、やがて最後に女の心を征服するもっとも偉大な、一ばんまちがいのない奥の手を出しました。それはけっしてだれにもはずれのない方法で、いっさいの除外例なく、断然すべての婦人にききめのあるものなんです。それはだれでも知っている方法で――おせじというやつですな。世の中に、生《き》一本ほどむずかしいものもなければ、またおせじほどらくなものもありませんよ。もし生一本な言行の中に、ほんの百分の一でも、うそらしい調子が交ったら、たちまち不調和をきたして、その次には醜態《しゅうたい》が演じられるのです。それがおせじとなると、初めからしまいまでうそっぱちであっても、多少の満足を感じながら気持ちよく聞いていられます。よし下品な満足でもあれ、とにかく満足を感じる。おせじというやつは、どんなにとってつけたようなやつでも、かならず少なくとも半分はほんとうに思われます。これは社会のあらゆる階級、あらゆる発達程度にも、まちがいなく適用できるのです。おせじでいけば、神に仕える聖女でも誘惑することができますよ。だから、普通の人間なんか申すまでもありません。今でも、思い出すたびに笑わずにいられないのは、夫と、子供と、自分自身の善行に身をささげつくしているひとりの夫人を誘惑したときの顚末《てんまつ》です。いやはやその愉快なこと、そして仕事のらくなことといったらなかったですよ! その夫人は、じっさい徳行家だったんですよ、少なくとも、自己一流にね。わたしの用いた戦術はごく簡単なもので、ただしょっちゅうその夫人の貞操に圧倒されて、その前にひれ伏していただけなんです。わたしはずうずうしいおせじをならべて、ときたま握手なり一瞥《いちべつ》なりをかちとると、すぐさま自分を責めるんです。『これはわたしがむりにもぎとったので、あなたは抵抗したのだ。もしわたしがこんな悪徳漢でなかったら、けっして何も受けることができそうもないくらい、一生けんめい抵抗なすったのです。あなたは自分が無垢《むく》なものだから、人のずるさを見やぶることができないで、つい心にもなく、われしらずそれに引き込まれたのです』しかじかうんぬんというわけです。てっとり早くいえば、わたしは最後の目的を達してしまった。ところが、わが夫人は、まだ自分が潔白で、貞淑で、すべての義務と責任をはたしている、ただふとしたことで、われともなく貞操をけがしてしまっただけだと、固く信じて疑わない。ですから、とどのつまり、わたしがざっくばらんに、自分の深い確信によれば、彼女もわたし同様に快楽を求めていたのだといってやったとき、夫人はわたしにどれだけ腹をたてたことでしょう。かわいそうにマルファ・ペトローヴナも、やっぱり恐ろしくおせじに乗りやすい性質《たち》だったのです。だから、わたしがその気にさえなれば、もちろんあれの財産はまだ存命中に、残らずあたしの名義に書き換えさせることもできたんです(だが、わたしはどうもやたらに飲んで、おしゃべりしておりますな)。さあ、そこでいまわたしが、それと同じ効果が、アヴドーチヤ・ロマーノヴナにも見えてきたといっても、おそらくご立腹にはならんでしょうな。ところが、わたしがばかで、せっかちだったものだから、すっかりぶちこわしてしまったのです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナは、前からときどき(一度なんか、とくにひどかったようですが)、わたしの目の表情がおそろしく気にいらなかったんですよ。あなたこれがほんとうにできますか?ひと[#「すか?ひと」はママ]口にいえば、そのうちには一種の情火がだんだん強く、だんだん不用意に燃えてきたのです。それがあの女《ひと》を脅《おびや》かして、ついには憎らしいほどになったんですよ。なにもくわしくお話することもありません。わたしたちは袂《たもと》をわかってしまったのです。そこへもってきて、わたしはまたばかなことをしたんですな。つまり思いきって無遠慮に、あの女《ひと》の伝道だの教訓だのをひやかしたわけなのです。パラーシャがまた舞台へ現われた、それもひとりきりじゃないんです――てっとり早くいえば、すっかり乱脈が始まったんですよ。ああ、ロジオン・ロマーヌイチ、もしあなたが一生に一度でも、お妹さんの目がときおりどんなに美しく光るか、それをごらんになったらなあ! 今わたしが酔ってたって、もうこのとおり一杯の酒を飲みほしたって、そんなことはなんでもありません。わたしはほんとうのことをいってるんですよ。まったくのところ、わたしはその目を夢に見たくらいです。しまいにはあの女《ひと》の衣《きぬ》ずれの音を聞いても、たまらなくなってきました。じっさい、わたしはてんかん[#「てんかん」に傍点]にでもなるんじゃないかと思いましたよ。こうまで夢中になれようとは、われながら思いもよらぬほどでしたよ。ひと口にいえば、けっきょく、あきらめなくちゃならなかったのですが、それはもうできない相談でした。そこで、わたしがそのとき何をしたか、まあ想像してみてください。人は夢中になると、どんなにまで頭がにぶくなるものか、はかりしれませんなあ! ロジオン・ロマーヌイチ、人は夢中になったら、もうけっして何ひとつ、ろくなことはできっこありませんよ。で、わたしはアヴドーチヤ・ロマーノヴナが、正直なところ貧乏な(あっ、ごめんください、こういうつもりじゃなかった……いや、しかし、同じ観念を現わすことなら、どちらでも変わりないじゃありませんか)、つまり自分の手で働いて生きておられるのにつけこんで――母親とあなたを養っていかなきゃならん(あっ、くそ、またあなたのことがちょっと頭に浮かんだものだから……)、つまり、そこをつけめにして、わたしはあの女《ひと》に自分の全財産を提供しようと決心したのです(三万ぐらいまではその時でもまとめることができたので)。それは、わたしといっしょにこの土地へ、ペテルブルグへなりと逃げ出してもらうのが条件なのです。もちろん、わたしはすぐその場で、永久の愛とか、無上の幸福とか、その他あらゆることを誓ったわけです。あなたはほんとになさるまいが、じっさい、わたしはその時すっかりまいってしまって、もしあの女《ひと》がわたしに向かって、マルファを切り殺すか毒殺するかして、わたしと結婚してくれ、とでもいおうものなら、即座にやってのけかねないほどでしたよ! けれど何もかも、先刻ご承知のとおりの騒動で終わったのです。その時マルファが、あの卑劣きわまる三百代言のルージンを手に入れて、結婚をまとめないばかりにこぎつけたことを知ったとき、わたしがどんなに気ちがいじみた怒りかたをしたか、そのへんはご推察くださることと思います――だって、これは本質的に見ると、わたしの申し出と同じことなんですからね。そうでしょう? そうでしょう? ねえ、そうじゃありませんか?見た[#「んか?見た」はママ]ところ、あなたはどうやら、たいへん身を入れて聞いてくださるようになりましたね……じつにおもしろいおかただ……」
 スヴィドリガイロフはたまりかねたように、拳固《げんこ》でとんとテーブルをたたいた。彼はすっかり真赤になった。ラスコーリニコフは、相手がちびりちびりとひと口ずつなめているうちに、いつのまにか飲みほしてしまった一杯か一杯半のシャンパンが、病的にきいてきたのをはっきりと感じた――で、彼はこの機会を利用しようと決心した。スヴィドリガイロフは彼の目に、きわめてうさんくさく思われたのである。
「いや、それでぼくもすっかり確信しました――あなたがここへ来たのは、妹のことを頭においてなんでしょう」彼はいっそう相手をじりじりさせるために、真正面からむきつけにいった。
「ええっ、もうたくさんですよ」急に気がついたように、スヴィドリガイロフはいった。「もうちゃんとお話したじゃありませんか……それにお妹さんのほうじゃ、わたしがいやでたまらないんですからね」
「さよう、あれがいやでたまらないのはぼくも確信しています。しかし、今はそれが問題じゃありません」
「あなたは確信していらっしゃる、いやでたまらないって?(スヴィドリガイロフは目を細めて、にやりとあざけるように笑った)おっしゃるとおりです、あの女《ひと》はわたしを好いてはおられません、けれど、夫婦間や情人同士の間にあったことは、けっして他人に保証できるものじゃありませんよ。そこにはどんな場合でも、断じて世界じゅうのだれにも知れない、ただ彼らふたりにのみわかっている、小さな片すみがあるものです。アヴドーチヤ・ロマーノヴナの場合にしても、嫌悪の目でわたしを見ていたなんて、あなた保証ができますか?」
「今までのあなたのお話に出て来たちょいちょいした言葉の端で、あなたが今でもドゥーニャにたいして何か特別なおもわくと、のっぴきならぬ計画を持っておられるものと認めます。もちろん卑劣きわまる計画をね」
「なんですって! わたしがそんな言葉を口からすべらせましたかね?」ふいにスヴィドリガイロフは、自分の計画に冠せられた形容詞には、まるで注意をはらおうともせず、きわめて正直な驚きの色を見せた。
「なに、それは今でも口からすべらせておられますよ。ねえ、たとえば、あなたは何をそう恐れてるんです? いったいどうして今そう急にびくっとしたんです?」
「わたしが恐れてるんですって? びくびくしてるんですって? あなたを恐れてるんですって? むしろあなたのほうがわたしを恐れるべきですがね、cher ami(親愛なる友よ)だが、なんてばかばかしい話だ……どうもわたしは酔った、自分でもわかりますよ。またうっかり口をすべらすところだった。もう酒なんかやめだ! おおい、水をくれ!」
 彼はびんを引っつかんで、無遠慮に窓の外へほうり出した。フィリップが水を持って来た。
「こんなことはみんなくだらない話です」スヴィドリガイロフはタオルを湿して、それを頭へあてながらいった。「わたしはひと言であなたをへこまして、あなたの嫌疑《けんぎ》をすっかり吹っ飛ばすことができますよ。たとえば、わたしが結婚しようとしていることを、あなたはごぞんじですかね」
「それはもう前にも話しておられましたよ」
「お話した? 忘れていましたよ。しかし、あの時はまだ確かなお話はできなかったのです。なにしろまだ相手の娘も見ていなかったんで、ただその意向を持っていただけなんですからね。ところが、今じゃもう相手が決まって、話がすっかりまとまってしまったんです。もしのっぴきならん用事さえなかったら、わたしはもちろんあなたをお連れして、さっそくそのほうへご案内するはずなんですが――なぜって、あなたのご意見が伺いたいんですからね。ええ、畜生! もうあとたった十分しかない。ね、時計を見てごらんなさい。だが、やはりあなたにお話しましょう。じっさいこの話は、わたしの結婚は、ちょっとおもしろいんですから、もちろん、いっぷうかわったおもしろさですがね――あなたはどこへ?また帰ろうというんですか?」
「いや、もう今となったら、ぼくはけっして帰りません」
「けっしてお帰りにならない? まあ、見てみましょう! わたしはあなたをそこへご案内しますよ、ほんとうに。そして花嫁をお目にかけましょう。しかし今じゃありませんよ。今はもうあなたもお出かけになる時刻でしょうからな。あなたは右とね、わたしは左、ときに、レスリッヒ夫人をごぞんじですか? ほら、あのレスリッヒ、今わたしが下宿している――え? おわかりですか? ね、あなたはどうお考えです、ほら、女の子が冬水ん中で、なんとかしたってうわさのある――ね、わかりましたか? わかりました? で、こんどの話は、あの女がいっさいきり盛ってくれたんですよ――『それじゃあなたはたいくつでたまらない、少し気晴らしをなさるがいい』ってね。じっさいわたしは陰気な、うっとうしい人間なんですよ。あなたは快活な人間だと思いますか?どう[#「すか?どう」はママ]して、陰気な人間ですよ。べつに悪いことはしないが、いつもすみっこにくすぶって、どうかすると三日も口をきかないくらいです。ところが、あのレスリッヒ、なかなかのしたたかものでね、こんな計画を胸に持っておるんですよ。つまり、わたしが飽きてきて、女房を捨ててどこかへ行ってしまう、すると女房はあの女の子にはいるから、それをまた別口へまわす――やはりわれわれぐらいの階級だが、も少し上のところへね。あの女のいうことには、父親はある退職官吏だが、からだがすっかり弱りきって、もう足かけ三年、安楽いすに腰かけたきり、自分の足では動いたことがない、母親もあるが、これは分別のしっかりした女だ。息子はどこかの県で勤めているけれど、家計を助けようとしない、娘は嫁入りしてしまって、見舞いにも来ない。しかも、自分の子供だけでたりないで、小さい甥《おい》をふたりも引き取っている。で一ばん末の娘をまだ卒業もしないうちに、女学校からさげてしった[#「さげてしった」はママ]。これがもうひと月すれば満十六になる。つまりひと月たてば嫁にやれるってわけで、その子をわたしに世話しようというんですよ。そこでわたしたちは出かけました。向こうの家じゃじつに滑稽《こっけい》でしたよ。わたしは自分のことをこう触れだしましたよ――地主で、男やもめで、由緒《ゆいしょ》のある家柄で、これこれの親戚知己があって、財産も持っている――さあこうなると、わたしが五十でその娘がまだ十六にもならないって、それがなんでしょう? だれがそんなことを気にしますか? ね、大いに食指がうごくじゃありませんか、え?食指[#「、え?食指」はママ]がうごくでしょう、は、は、は! わたしがその父さん母さんと話しこんだところをお目にかけたかった! いやその時のわたしときたら、見料を出してもひと目みる価値がありますよ。娘が出て来て、ちょいと小腰をかがめて会釈《えしゃく》するんだが、まあどうでしょう、まだすその短い服を着て、ほころび初《そ》めしつぼみの花といった風情《ふぜい》でね、赤くなって、朝焼けのようにぱっと燃えたつんですよ(もちろん、もうちゃんと、いいきかせてあるんで)。あなたは女の顔のことをどうお考えか知りませんが、わたしにいわせると、この十六歳という年ごろ、このまだ子供っぽい目、このおずおずした様子と羞恥《しゅうち》の涙――わたしにいわせると、これはまさに美以上ですな。しかもおまけにその娘は、まるで絵に描いたようなんですからね。細かくちぢれていくつも小さい輪を作っている薄色の髪、ふっくらした真赤なくちびる、小さな足――すてきですなあ……まあ、こうして、わたしは知り合いになると、家事の都合でいそぐからといったものだから、さっそくその翌日、つまりおととい、われわれふたりはもう祝福してもらったんですよ。それからというもの、わたしは行くとすぐひざの上へ娘をのせて、そのままおろそうとしない……すると、娘は朝焼けのように燃えあがる、わたしはひっきりなしに接吻《せっぷん》してやる。もちろんおっかさんが、これはお前の夫で、こうしなければならないのだよと、いいきかせてやるんですよ。まあひと口にいえば、極楽ですな! で今のこういう許婚《いいなづけ》という状態は、じっさい夫の状態よりいいのかもしれませんて。これがいわゆる la nature et la verite!(自然と真実!)ですな! は、は、は! わたしは娘と、二度ばかり話をしましたが――いや、どうしてなかなか利口《りこう》な子ですよ。どうかすると、こっそりわたしを見るんですが、まるで焼きつくさんばかりの目をしていながら、その顔はラファエルのマドンナみたいなんですよ、だってシスチナのマドンナの顔は幻想的で、悲しめる狂信者の顔なんですものな。あなたそれが目につきませんでしたか? まあ、こんなふうの顔なんですよ。両親の祝福を受けるとすぐ、その翌日、わたしは千五百ルーブリの贈り物を持って行きましたよ。ダイヤモンドの装飾品を一つに、真珠を一つに、銀の婦人用|化粧箱《けしょうばこ》、これっぱかりの大きさで、いろいろさまざまのものがはいってるんです。これには娘も――マドンナも、顔をぽっとあかくしたほどですよ。きのうもわたしはその子をひざの上にのせましたが、きっとあまり無遠慮すぎたのでしょう――すっかり真赤になって、涙がぽろぽろとあふれた。けれど、それをけどられまいと思って、からだじゅう火のようにほてらしてるんです。そのうちに、ちょっとの間みんなが出て行って、わたしたちはふたりきりになると、急にわたしの首っ玉にかじりついて(自分でこんなことをしたのは初めてなんで)、両手でわたしを抱きしめて接吻しながら、わたしはあなたのために従順で、貞淑《ていしゅく》で、善良な妻になって、あなたを幸福にする。そして自分の一生を、自分の生活の一分一秒まであなたにささげて、どんなことでも犠牲《ぎせい》にする、そのかわりに、ただあなたから尊敬《そんけい》だけしてもらいたい、そのうえはもう『なんにも、なんにもいりません、贈り物なんか少しもいりません』とこう誓うんです。ねえ、こんな髪を輪のようにちぢらせた、十六やそこいらの天使みたいな娘から、顔を処女らしく羞恥のくれないに染め、目に感激の涙をためながら、こんなふうの告白を聞かされると、どんな気持ちがするか、およそ察しがつきましょう、――まったく魅惑的《みわくてき》なものですよ! たしかに、魅惑的でしょう? どれだけかの値うちはあるでしょう? え、ねえ? 値うちがあるでしょう?ねえ[#「ょう?ねえ」はママ]……ねえ、どうです……ひとつ、わたしの許婚のところへ行ってみませんか……ただし、今すぐじゃありません!」
「てっとり早くいえば、その年齢と精神的発達の恐ろしい相違が、あなたの情欲を挑発したんですよ! いったいあなたはほんとに、そんな結婚をするつもりなんですか?」
「なぜ? そりゃ是が非でも。人間て自分のことをめいめい好きなようにするもので、だれよりも一ばんうまく自分をあざむきおおせたものが一ばん愉快に暮らしていくわけです。は、は! いったいあなたはなんだって、徳行の一本やりで突っかかっていらっしゃるんです? お手やわらかに願いますよ、あなた、わたしは罪業《ざいごう》の深い人間ですからね。へ、へ、へ!」
「もっとも、あなたはカチェリーナ・イヴァーノヴナの子供たちの世話を引き受けなすった。しかし……しかし、それにはまたそれだけの理由があったんだ……ぼくはいま何もかも合点《がてん》がいった」
「わたしはぜんたいに子供がすきなんです、非常に好きなんですよ」とスヴィドリガイロフはからからと笑いだした。
「これについては、きわめて興味ある一つのエピソードをお話しすることができます。それは現在まだつづいてる話なんですよ。こちらへ着くとその日さっそく、わたしはほうぼうの魔窟《まくつ》を歩きまわってみました。なにしろ七年ぶりなので、いきなり飛びかかったわけで。あなたもおそらくお気づきでしょうが、わたしは自分の仲間や昔の友だちに会うのをべつに急がないでいるんです。まあ、できるかぎりいつまでもそうしていたいと思っていますよ。じつはね、田舎でマルファのそばにいた時分、こうした秘密な場所にかんする思い出が、死にそうなほどわたしを苦しめたものですからね。もっともこうした場所に入りこむと、少しでもそのほうの知識を持った人なら、ずいぶんいろんなことが発見できますよ。大したもんでさあ! だれもかれも酔っぱらっている、教養ある青年は無為《むい》のために、実現できそうもない夢や妄想《もうそう》の中に命を燃やして、さまざまな理論に精神的不具者になっていく。またどこからかジュー(ユダヤ人)どもが押しかけて来て、金を取りこんで隠してしまう。それ以外のものは、ことごとく淫蕩三昧《いんとうざんまい》でさあ。こんなぐあいで、このペテルブルグという町は、はいって来た瞬間からわたしの顔に、なじみの深いにおいをむっと吹きつけた。わたしはある舞踏夜会と称するものにぶっつかったのです――恐ろしい下水溜《げすいだめ》です(ところが、わたしはこういう魔窟でも、ちょっとうすぎたない感じのするところが好きなんで)。むろんカンカン踊りです。それも、ほかにはとうていないような、またわたしの時代にもなかったようなやつです。さよう、これにも進歩が見えますよ。ふと見ると、かわいらしく着飾った十三くらいの女の子が、斯道《しどう》の名手といっしょに踊っている。別にふたりの一組が、娘の前で踊っている。そして壁ぎわのいすには、娘の母親がかけているんです。ところで、それがどんなカンカンだか、とても想像がつくもんじゃありませんよ! 娘はきまりわるがって、顔をあかくしていましたが、しまいにはくやしがって、泣きだしたのです。名手は娘をかかえて、きりきりっとまわすと、娘の前でいろんな芸をして見せるんです。すると、まわりではどっと笑いくずれる――わたしはこういうとき、ペテルブルグのやじ馬連が好きですよ、カンカン的な連中ではありますがね。じっと笑ってわめき立てるところがいい。『うまい、そうしなくちゃいけない! 子供なんかつれて来るのがまちがってるんだ!』などといっている。ところが、わたしはくそ食らえだ。みんながそんな慰みをやってるのが、論理的だろうと非論理的だろうと、わたしの知ったことじゃない! やがて、わたしはすぐ自分の割り込むべき場所にねらいをつけて、母親のそばへ腰をおろしました。そして、自分もやっぱり旅の者だということから、ここにいるのがだれもかれもお話にならん無教育なやつらばかりで、真に価値あるものを認めて、相当の敬意をはらうことすら知らないのだ、ということにおよび、自分には金がうんとあることをにおわせて、わたしの馬車で送ろうと申し出たのです。こうして宿まで送りとどけて、改めて知り合いになりました(親子はどこかの借家人から、小さい部屋を又借りしているんですよ。田舎から出て来たばかりなんで)、そこで母がいうには、わたしと知り合いになったことは、母親にとっても娘にとっても、名誉とよりほか申しようがない、とこうなんです。ふたりはまる裸の無一物で、どこかの官庁で何かの嘆願運動をしに出て来たとのことなので、わたしは骨も折ろうし金も貸そうと申し出たわけです。聞いてみると、ふたりはほんとにそこで舞踊を教えるんだと思って、うっかりあの夜会へ行ったんだそうです。で、わたしは自分のほうから、若い娘のフランス語と舞踏の教育を引き受けよう、とこう申し出たところ、それこそもう大喜びで、光栄のいたりだといって受納した。それ以来知り合いのあいだがらなんで……なんなら行きましょう。ただし今すぐじゃない」
「よしてください、そんなげすな、きたならしい話はよしてください。なんて堕落《だらく》した野卑な好色漢だろう!」
「シルレルよ、シルレルよ! わがシルレルよ! Ou va-t-elle la vertu se nicher?(徳はいずくに巣くうぞ?) じつはね、わたしはあなたの叫び声を聞きたさに、わざとこんな話をもちだすんですよ。じつに愉快だ!」
「もちろんですよ、この瞬間、ぼく自身が滑稽《こっけい》でないと思いますか?」とラスコーリニコフは憎々しげにつぶやいた。
 スヴィドリガイロフはのどをいっぱいひろげてからからと笑った。やがて彼はフィリップを呼んで、勘定をすますと、腰をもちあげにかかった。
「ああ、だが、わたしもすっかり酔っぱらっちゃった、assez cause!(もうたくさんだ!)」と彼はいった。「ああ、じつに愉決だ!」
「もちろん、あなたが愉快を感じないはずがないさ!」ラスコーリニコフも同じく立ちあがりながら、こう叫んだ。「すっかり手ずれのした淫蕩漢《いんとうかん》にとって、――しかも、その淫蕩漢がなにかしら奇怪な野心を持っている場合――そういう野心を話すのが愉快でないはずがない。おまけにこうした状況で、ぼくのような男を相手にするんだから……好奇心が燃えたつわけですよ」
「へえ、もしそうなら」やや驚きの色さえ浮かべて、ラスコーリニコフをじろじろ見ながら、スヴィドリガイロフは答えた。「もしそうなら、あなた自身もかなりシニック(無恥漢)ですな。少なくとも、大した素質を内部にかくしておいでですよ。あなたは多くのものを認識することがおできになる、多くのものを……いや、それに、多くのものを実行することもおできになりますよ。しかしまあ、たくさんだ。十分お話ができなかったのは非常に残念ですが、なに、わたしはけっしてあなたをのがしっこないから……まあ、ちょっと待ってください……」
 スヴィドリガイロフは安料理屋から外へ出た。ラスコーリニコフもそのあとにつづいた。もっとも、スヴィドリガイロフはさほどひどく酔っているわけでもなかった。頭へ酔いがあがったのは、ほんのつかのまで、やがてじりじりさめていった。彼は何か、非常に大きな屈託《くったく》があるらしく、しきりに眉をしかめていた。何かにたいする期待が彼を興奮させ、不安にしているのが、まざまざと見えていた。ラスコーリニコフにたいする態度は、最後の四、五分で急にがらりと変わって、一刻一刻と無作法に皮肉になっていった。ラスコーリニコフはそれに気づき、同じく不安らしい様子であった。スヴィドリガイロフなる人物がますますうさんくさく思われてきた。彼はそのあとからついて行こうと決心した。
「さあ、あなたは右へ、わたしは左へ。でなければ、その反対かな。とにかく、adieu, mon plaisir.(さらば、わが喜びよ)またお目にかかりましょう!」
 こういって、彼は右手のセンナヤのほうへ歩きだした。

      5

 ラスコーリニコフは彼のあとからついて行った。
「これは何事です!」うしろをふり向きながら、スヴィドリガイロフは叫んだ。「わたしはそういったはずじゃありませんか……」
「なんでもありません、ぼくはもうあなたのそばを離れないということです」
「なあんですと?」
 彼らはふたりながら立ちどまった。ちょっと一分ばかり、ふたりは互いにさぐりあうように、じっとにらみあっていた。
「あなたが今ならべたてたなま酔《よ》いの話で、ぼくは断然[#「断然」に傍点]見きわめました」とラスコーリニコフは断ち切るように鋭くいった。「あなたはぼくの妹にたいして、例の醜悪きわまる野心を捨てないのみならず、かえって前よりずっと一生けんめいに、それに没頭《ぼっとう》しておられるんです。けさ妹が何やら手紙を受け取ったということも、ぼくはちゃんと知っています。それに、あなたはしじゅう、じっと落ちついていられない様子だった……よしかりにあなたがほうぼうふらついてる途中で、花嫁を掘り出したというのがほんとうだとしても、それはなんの意味もないことです。ぼくはそれを自分の目で突き止めたいんです……」
 そういうラスコーリニコフ自身も、自分がいま何を欲し、何を親しく突き止めたいのか、はっきり決めることはほとんどできない有様であった。
「これはこれは! なんならすぐ巡査を呼びますぜ?」
「呼ぶがいい!」
 ふたりはまた顔と顔を突き合わせながら、一分ばかり突っ立っていた。やがてスヴィドリガイロフの顔ががらりと変わった。ラスコーリニコフが、いっこうおどかしに乗らないのを確かめると、彼は急に思いきり愉快らしく親しげな顔つきになった。
「どうも大したもんだ! わたしはね、好奇心が燃えたっているんだけれど、わざとあなたの事件をいいださなかったんですよ。幻想的な事件ですからなあ。わたしは次のときまで預けておこうと思ったんだが、どうもあなたは死人でも怒らせる腕を持っていらっしゃる……じゃ、行きましょう。だが、まえもってことわっておきますが、わたしはいま金をとりに、ちょっと家へ寄って行くだけで、それから、部屋にかぎをかけて、つじ馬車をやとって、ずっと夜おそくまで、島のほうへ行こうと思ってるんです。だからあなた、とてもわたしについてまわれっこありませんよ!」
「ぼくもさしむき家へ行きましょう、ただしあなたの住まいじゃありませんよ。ソフィヤ・セミョーノヴナの家へ、葬式に行かなかった詫びに」
「それはどうでもご勝手ですが、しかし、ソフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あの女《ひと》は子供たちをみんな引き連れて、わたしのずっと古くからの知り合いで、ある孤児院の監督をしている、年とった貴婦人のところへ行ったんです。わたしはね、カチェリーナ・イヴァーノヴナの子供三人の養育料として金を届けたり、孤児院のほうへも寄付したりして、おばあさんをすっかりまるめこんでしまったのです。それから、ソフィヤ・セミョーノヴナの身の上も、いっさい隠しだてしないで、何から何まで話して聞かせたところ、まんまとすばらしい効果を奏したわけなんです。そういうわけで、今日さっそく、ソフィヤ・セミョーノヴナは、おばあさんが別荘から出てきて臨時に泊まっているNホテルへ、出向くことになったんで」
「どうだってかまいません、とにかく、ぼくは寄ります」
「どうぞご随意に。だが、わたしはあなたの仲間じゃありませんからね。わたしはどうだって平気でさあ。さあ、もう家へ帰りましたよ。ときにどうでしょう、あなたがわたしをうさんくさい目で見ておられるのは、つまりわたしのほうがあまり遠慮しすぎて、今までいろんな質問でごめいわくをかけなかったからだと、こうわたしは確信しているんですよ……え、わかるでしょう? あなたはこいつ、ただごとでないぞ、という気がしたのでしょう。賭《かけ》をしてもいい、そうにちがいないから! ねえ、だから、これからはあなたも気をおきかせになるといい」
「そして、戸口で立ち聞きをしなさいか!」
「ああ、あなたはそのことをいってるんですか?」とスヴィドリガイロフは笑いだした。「いや、わたしにしたって、ああいういろんなことがあったあとで、もしあなたがこれをいわずにすまされたら、かえってびっくりしたでしょうよ。は、は! そりゃわたしもね、あなたがあの時……あそこで気ちがいじみたまねをして、ソフィヤ・セミョーノヴナに自分でぺらぺら話しておられたことは、多少合点のいった筋もありましたが、それにしても、あれはいったい、なんでしょう、ことによったら、わたしはまるで時代おくれの人間なために、何もわからないのかもしれませんが、お願いですから、ひとつ説明してくださいませんか! もっとも新しい思想で啓発していただきたいもので」
「あなたに聞こえるはずがない、あなたはでたらめばかりいってるんだ!」
「いや、わたしがいってるのは、それじゃありませんよ、そ