京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP433-P456

ができた。なにしろ資産を持っている孤児は、まる裸の孤児よりずっとしまつがいいので、自分の提供した金がいろいろ役に立った――などと報告した。彼はソーニャのことも何やらいって、二、三日のうちに、自分でラスコーリニコフをたずねようと約束した。そして『よくお話したうえ、相談したいと思っております。重大な用件がありますのでな』といった。この会話は、階段に近い入口の廊下で交わされたのである。スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフの目をじっと見つめていたが、しばらく無言の後、ふいに声を落として問いかけた。
「いったい、あなたはどうなすったんです、ロジオン・ロマーヌイチ、まるで、生きたそらもないみたいじゃありませんか? まったく、聞きもし見もしていらっしゃるけれど、なんにもおわかりにならない様子だ。もっと元気を出しなさいよ。まあ、ひとつよくお話しましょう。ただ残念なことには、用事が多くてね、人のことだの自分のことだの……ああ、ロジオン・ロマーヌイチ」と彼は急にいいたした。「人間はだれしも空気が必要ですよ、空気がね……それが一ばんですよ!」
 おりからそこへ、階段を上って来た司祭と補祭を通すために、彼はいきなりわきへ身をひいた。彼らは読経に来たのである。スヴィドリガイロフの指図によって、読経は日に二度ずつ、きちょうめんに行なわれた。スヴィドリガイロフは自分の用で行ってしまった。ラスコーリニコフはしばらくそこに立って考えていたが、やがて司祭のあとについて、ソーニャの住まいへはいって行った。
 彼は戸口に立ちどまった。勤行《ごんぎょう》は静粛に秩序整然と、もの悲しげに始められた。彼はずっと子供の時分から、死を意識し死者の存在を感じるたびに、なんとなく重苦しい神秘的な恐ろしいものが、そこに伴うのであった。それに、彼はもう久しい以前から、こうした法要の席につらなったことがなかった。おまけに、そこにはまだ何かほかの、あまりにも恐ろしい不安なものがあったのである。彼は子供たちを見やった。彼らはみな、棺のそばにひざをついていた。ポーレチカは泣いている。そのうしろには、ソーニャがおじけたように、声を忍んで泣きながら祈っている。『そうだ、彼女《あれ》はこの二、三日、おれを一度も見もしなければ、ひと言も口をきかなかったっけ』とラスコーリニコフはふとそんなことを考えた。太陽は明るく室内を照らしてい、香の煙はうず巻きながら立ちのぼっている。司祭は『主よ、やすらぎを与えたまえ』を読み上げた。ラスコーリニコフは勤行の間ずっと立ちつくした。祝福していとまを告げながら、司祭はなんとなく妙な目つきであたりを見まわした。勤行が終わってから、ラスコーリニコフは、ソーニャのそばへ寄った。彼女はふいに彼の両手を取り、その肩へ頭をのせた。このちょっとした親しみの動作はラスコーリニコフにぎょっとするほどふしぎな感じを与えた。彼は合点がいかないくらいだった。どうしたことだろう? 自分に対していささかの反発も、いささかの嫌悪《けんお》も見られないし、彼女の手にいささかのおののきも感じられない! これは何か一種無限の自己卑下に相違ない。少なくとも、彼はこう解釈した。ソーニャは何もいわなかった。ラスコーリニコフは彼女の手を握りしめ、そのまま外へ出た。
 彼はたまらなく苦しくなった。もしこの瞬間、どこかへ行ってしまって、完全にひとりきりになれたら、よしやそれが一生つづこうとも、彼は自分を幸福と思ったに相違ない。けれど困ったことには、このごろ彼はほとんどいつもひとりでいるくせに、どうしても自分がひとりだと感じられないのであった。彼はしょっちゅう郊外へ去ったり、街道へ出たり、一度などは、どこかの森の中までさまよい入ったこともあるが、寂しい場所へ行けば行くほど、何ものかの、間近な不安にみちた存在が、いよいよ強く意識された。それは恐ろしいというのではないにせよ、何かしら非常にいまいましい気持ちを呼び起こすので、彼はいつもあわてて町のほうへ引っ返し、群衆の中に交ったり、安料理屋や酒場へ行ったり、トルクーチイ(古物市)やセンナヤ広場へ足を向けたりするのであった。こういう場所にいると、それこそなんだか気が楽で、かえって孤独を感じさえするのであった。日暮れまぎわに、ある居酒屋で歌をうたっていた。彼はそれを聞きながら、まる一時間も腰をすえていたが、それが非常に愉快にさえ思われたのを、後々まで覚えていた。しかし、終わりごろになると、彼はまたもや急に不安になった。それは良心の呵責《かしゃく》が、にわかに彼を悩まし始めたようなふうであった。『おれは今こうして腰かけて歌を聞いているが、おれがしなくちゃならないのは、いったいこんなことなんだろうか!』このように彼は考えたものらしい。もっとも、すぐその瞬間、自分の心を騒がせるのは、あながちこれだけでないのに気がついた。そこには、何か猶予なく解決を要求しているものがあったけれど、それは考えに表わすことも、言葉に伝えることもできないものだった。すべてが一つの糸玉にくるくる巻き込まれてしまうのであった。『いや、もうなんでもいいから、たたかったほうがましだ! いっそまたポルフィーリイとやり合うか……それともスヴィドリガイロフとでも……だれでもいいから、一刻も早く挑戦《ちょうせん》してくればいい、攻撃してくればいい。……そうだ! そうだ!』と彼は考えた。彼は居酒屋を出るとほとんどかけ出さないばかりに歩いた。ドゥーニャと母親を思う心が、なぜか矢もたてもたまらない恐怖を呼びさました。つまり、この夜の明けがたに、彼は全身を熱にふるわせながら、クレストーフスキイ島の藪《やぶ》の中で目をさましたのである。彼は家路をさして歩きだし、まだごく早朝に帰り着いた。幾時間か眠った後、熱はようやくさがったけれど、もうすっかり遅くなってから、彼は目をさました。それは午後の二時だった。
 彼はカチェリーナの葬式が今日だったことを思い出して、それに参列しなかったのを喜んだ。ナスターシヤが食事を運んで来た。彼は飢えに近いほどの異常な食欲をもって、食いかつ飲んだ。彼の頭はいつもよりすっきりして、彼自身もこの三、四日に比べると、だいぶ落ちついていた。そして、さきほどの、矢もたてもたまらぬほどの恐怖に、われながらふしぎな感じがした(もっとも、それはほんの頭の一角をかすめただけであるが)。そのときドアが開いて、ラズーミヒンがはいって来た。
「ああ! 食ってるな、してみると、病気じゃないんだね!」とラズーミヒンはいいながら、いすを取り、ラスコーリニコフに向き合ってテーブルについた。
 彼は興奮している様子で、それを隠そうともしなかった。彼は明らかに、いまいましそうな調子で話したが、しかし、急ぎもしなければ、かくべつ声を高めるでもなかった。彼の心中には何か特殊な、容易ならぬ意向が蔵されているようにも考えられた。
「おい、聞けよ」彼は断固《だんこ》たる調子で切り出した。「ぼくはもうきみらのことは、どうなったって、いっさい知らん。ぼくには何もわかりっこないということを、今こそ明瞭《めいりょう》にさとったからだ。しかし、どうかぼくがきみを尋問に来たなどと思わないでくれ。くそ食らえだ! こっちがごめんだよ! よしきみがいま、自分で秘密を全部うち明けたって、ぼくは聞こうともしないで、つばを吐きかけて出てしまうかもしれないよ。ぼくはただ第一に、きみが気ちがいだっていうのは事実かどうか、それを親しく根本的に確かめようと思って来たんだ。きみのことについてはね、もしかすると気ちがいか、さもなければ、非常にその傾向を持った男だという確信が存在している(まあ、どこかそこらあたりに、そういう確信があるんだ)。じつをいえば、ぼく自身もこの意見を支持するほうへ、かなり傾いているのだ。それは第一に、きみの愚劣な、しかもいささかいまわしい(なんとも説明のしようもない)行為によって、また第二には、お母さんと妹さんにたいするきみのこの間の態度によって判断したわけなんだ。きみがあの人たちにとったような態度は、もし、気ちがいでなければ、悪党か卑劣漢以外には、とてもできないことだからね。してみれば、きみは気ちがいだ……」
「きみはよほど前にふたりに会ったのかね?」
「たった今だ。ところがきみは、あの時以来、会わないんだな? いったいどこをほっつき歩いてたんだ、お願いだから聞かせてくれ、ぼくはもう三度もきみんとこへ寄ったんだぜ。お母さんがきのうから病気で重態なんだ。きみのとこへ来る来るといってね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナがいくら止めても、まるで聞こうとしないんだ。『もしあの子が病気だったら、もしあの子が気でもふれてるのなら、母親でなくてだれがあの子の看護をします?』と、こういうのさ。で、あの人をひとりうっちゃっとくわけにもいかないから、われわれはみんなでここへやって来た。この戸口へ来るまで、ふたりでお母さんをなだめなだめしたんだ。ところが、はいってみると、きみがいない。お母さんはここんとこに腰かけておられたんだ。十分ばかりじっとすわっておられた。ぼくらは黙ってそのそばに立っていたよ。すると、お母さんは立ちあがって、『もしあの子が外へ出られるとすれば、病気ではないわけだ。そして、母親のことも忘れてしまったのだろう。そうだとすれば、わが子のしきいぎわに立って、施し物でももらうように、優しくしてくれとねだるのは、母親として不見識な恥ずかしい話だ』とおっしゃってね、家へ帰って、どっと床につかれたのだが、いま熱が出てるんだよ。そして『わかった、あの子は自分の女[#「自分の女」に傍点]のためになら暇があるんだろう』なんて、いわれるのさ。自分の女[#「自分の女」に傍点]というのは、お母さんの腹では、ソフィヤ・セミョーノヴナのことなのさ。きみの許婚だか、恋人だが知らないがね。そこで、ぼくはすぐソフィヤ・セミョーノヴナのところへ行ったんだよ。だって、いっさいをはっきり知りたいと思ったもんだからね――行ってみると――棺が置いてあって、子供たちは泣いているし、ソフィヤ・セミョーノヴナは、子供たちに、喪服の寸法を取ってやるって騒ぎじゃないか。しかもきみはいない。ぼくはそれをざっと見てから、失礼を詫《わ》びて帰って来た。そしてアヴドーチヤ・ロマーノヴナにありのまま報告した。してみると、みんなくだらないうわさ話で、自分の女[#「自分の女」に傍点]なんてものはてんでいやしない。そんなら、一ばん確かなのは、やっぱり発狂ということになる。ところが、きみはこのとおりすわりこんで、まるで三日もものを食わなかったみたいに、ボイルド・ビーフを、むしゃむしゃ食《く》っている。そりゃまあ、気ちがいだって食うことは食うだろうさ。だが、きみはぼくにひと言も口をきかないけれど、しかし、きみは……気ちがいじゃない! これはぼくが誓ってもいい。何はさておいても、けっして気ちがいじゃない。こうなると、きみたちなんか、もうどうとも勝手にしやがれだ。だって、これには何か秘密がある。秘密があるに相違ない。しかし、ぼくはきみの秘密に頭を悩まそうとは思わないよ。ただきみを罵倒《ばとう》して、気分をすっとさせるために寄っただけなんだ」と彼は立ちあがりながら言葉を結んだ。「ぼくはいま何をしたらいいか、ちゃんと心得ているからね!」
「いったい、きみはいま何をしようと思ってるんだい?」
「ぼくがいま何をしようと思ってたって、きみの知ったことじゃないよ!」
「気をつけろよ、きみはむちゃ飲みを始めるんだろう!」
「どうして……どうしてきみ、それがわかった?」
「わからなくってさ」
 ラズーミヒンはちょっと口をつぐんだ。
「きみはいつも非常に思慮の深い男だった。けっして、けっして気なんか狂いやしなかったんだ」と彼はふいに熱した調子で叫んだ。「まさにきみのいうとおり、ぼくはむちゃ飲みをやるんだ……失敬!」
 こういって、彼は出て行きそうにした。
「おとといだったと思う、ぼくは妹ときみの話をしたんだよ、ラズーミヒン」
「ぼくの話? だって……おととい、どこできみはあの女《おんな》に会えたんだい?」ラズーミヒンは急に立ち止まって、いくらか顔の色さえ青くした。彼の心臓がその胸の中で徐々に緊張して、鼓動を始めたのが察しられた。
「あれがここへ来たのさ、ひとりで。ここに腰をかけて、ぼくと話したんだ」
「あの女《おんな》が!」
「そうだ、あれが!」
「で、きみは、何をいったんだね……つまりその、ぼくのことで?」
「ぼくはあれにきみのことを、非常にいい、正直な、よく働く男だといった。きみがあれにほれてることは、べつにいわなかった。だって、そんなことはあれが自分で知ってるからね」
「自分で知ってるって?」
「そうさ! あたりまえだ! たとえ、ぼくがどこへ行こうと、ぼくの身に何が起ころうと――きみはいつまでもふたりの保護者でいてくれるだろうね。ぼくは、いわばきみにふたりを手渡しするんだよ、ラズーミヒン。ぼくがこんなことをいうのは、きみがどんなにあれを愛しているか十分に知り抜いているうえ、きみの心の純潔を信じているからなんだよ。そのほかに、あれもきみを愛するようになるかもしれない、いや、もしかすると、もう愛してるかもしれないのを、ちゃんと承知しているからさ。さあ、これできみ、自分の好きなように決めるがいい――むちゃ飲みをやってもいいかどうか」
「ロージカ……じつはね……つまり……ええい、くそっ! だが、きみはいったい、どこへ行くつもりなんだい? まあ、それが秘密だというなら、それはそうでかまわないさ!しか[#「いさ!しか」はママ]しぼくは……ぼくはいまにその秘密を探り出すよ……そして、きっとくだらない、ばかばかしいことにちがいないと信じてるよ。きみはしじゅうひとりで何かたくらんでるんだよ。が、とにかく、きみはじつにすばらしい男だ! じつにすばらしい男だ!………」
「ぼくさっき、いい添えようと思ったのに、きみがじゃまをしたのでいいそびれたが、きみはさっき神秘だの秘密だの、そんなもの知る必要がないといったが、あれはすこぶるいい考えだよ。時のくるまではうっちゃっといてくれ、心配しないでくれ。何もかもそのうちにわかる、つまり必要な時がくればだ。きのうある男がぼくに向かって、人間には空気が必要だ、空気が、空気がといったが、ぼくはこれからすぐその男のところへ行って、どういう意味か聞いて来ようと思うんだ」
 ラズーミヒンは、もの思わしげに、興奮した様子で立ったまま、何やら思い合わせていた。
『これは政治上の秘密結社に関係してるんだ! てっきりそうだ! そして何か思いきったことを断行しようと考えているのだ――もうそれにちがいない! ほかにはまったく解釈のしかたがないじゃないか。それに――それにドゥーニャもこれを知ってるんだ……』と彼は急に心の中で考えた。
「じゃ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナがきみのとこへ来るんだね」一語一語に気をつけながら、彼はいった。「ところで、きみ自身は、もっと空気がいる、空気がといった男に、会いに行こうてんだね。で……で、で、みると、あの手紙も……あれもやはり同じところから出たものだろうね」と彼はひとり言のように言葉を結んだ。
「手紙って?」
「妹さんがある手紙を受け取ったんだ、今日。で、あの女《ひと》はたいへん心配そうな様子だったよ。たいへん。あまりたいへんすぎるくらいだったよ。ぼくがきみのことをいいだすと――あの女《ひと》は、黙っててくれといったっけ。それから……それから、ことによると、われわれは遠からず別れるようになるかもしれないといわれた。それからまた、何かしら熱心にぼくに礼をいったあとで、自分の部屋へはいって、かぎをかけてしまわれたんだ」
「あれが手紙を受け取った?」考え深そうな調子で、ラスコーリニコフは問い返した。
「そう、手紙だ。じゃきみ知らなかったのかい? ふん」
 ふたりともしばらく黙っていた。
「じゃ失敬するよ、ロジオン。ぼくはね、きみ……一時ちょっと……いや、しかし、さよならだ。じつはね、一時ちょっと、しかし、さよなら! ぼくもやはり行かなきゃならない ところがあるんだ。飲みゃしないよ。今はもうやめた……なんのくそっ!」
 彼は急いだ。けれども、もう外へ出て、いったんほとんどドアをしめてから、ふいにまたあけて、どこかそっぽを見ながらいいだした。
「ついでにちょっと! 例の人殺しを覚えてるだろう? ほら、あのポルフィーリイさ、ばあさんさ? いいかい、あの犯人がわかったんだよ。つまり自白してね、証拠をすっかり提供したのさ。それが例のペンキ屋のひとりなのさ。ほら、ぼくがあのとき弁護してやった。覚えてるだろう? どうだい、きみはほんとにできないだろうが、庭番とふたりの証人が上って来た時に、階段で仲間を相手にけんかしたり笑ったりしたのは、ごまかしにわざとやったんだとさ。あんな若造にしちや、なんて狡猾《こうかつ》なやりかただろう、なんというくそ度胸だろう! とても信じられないくらいだ。ところが、自分ですっかり白状して、何もかも説明したんだから、しかたがない! じつにぼくもまんまと一杯くったもんだよ! もっとも、ぼくにいわせると、これはただ仮面《めん》かぶりと頓知《とんち》の天才、法律的ごまかしの天才なんだからね――してみれば、何もとくに驚くにゃあたらない! いったいこんなのがありえないことかい? だが、やつがもちきれなくなって、白状したという点にいたっては、ぼくはそのほうをよけい信用するよ。そのほうがずっとほんとうらしいものね!………が、あの時はぼくもじつに、ぼくもまんまと一杯くったもんだよ!やつらのために一生けんめいで大騒ぎしたんだからなあ!」
「どうか聞かしてくれないか、いったい、きみはそんなことをどこから知ったんだい? そして、なぜ、きみはこんなことにそう興味を持つんだい?」明らかに興奮のさまでラスコーリニコフは尋ねた。
「あれ、あんなことをきいてるよ! なぜぼくが興味を持つかって? きいたもんだね!………ほかの人からも知ったが、ポルフィーリイの口からも知ったんだよ。もっとも、おもにポルフィーリイから一部始終を知ったんだ」
ポルフィーリイから?」
ポルフィーリイからよ」
「いったい何を……何をいったいあの男は?」とラスコーリニコフはおびえたように問い返した。
「あの男はじつにうまく説明してくれたよ。先生一流の心理的解明なんだ」
「あの男が説明したのかい? 自分できみに説明したのかい?」
「自分でだよ、自分でだよ。失敬! あとでまた何やかや話すとして、今は少し用があるから。いずれ……ぼくもじつは一時そう思ったことがあるんだよ……が、まあ、そんなことはいいや。あとにしよう!………ぼくももう飲む必要なんかない。きみは酒なしでぼくを酔わしてくれた。ぼくは酔ってるんだぜ、ロージカ? 今は酒なしで酔ってるんだよ。じゃ、失敬。また来るよ、じきに」
 彼は出て行った。
『あいつは、あいつは政治上の秘密結社に関係してるんだ、確かにそうだ、それにちがいない!』とラズーミヒンはゆっくり階段をおりながら、すっかり心の中で決めてしまった。『そして、妹まで引っぱり込みやがった。それはアヴドーチヤ・ロマーノヴナの性質として、大きに、大きにありそうなことだ。ふたりはしょっちゅう会ってるんだ……そういえば、あの女《ひと》もおれににおわせたことがある。あの女《ひと》のいろんな言葉……ちょっとした言葉の端々や……におわすような話っぷりから見ても、つまり、そういうことになる! だってそれ以外に、このごちゃごちゃを説明しようがないじゃないか? ふん! おれもちょっと一時あんなことを考えかけたが……ちぇっ、いまいましい、おれはいったい何を考え出したんだろう。そうだ、あれは一時の心の迷いだった。おれはあの男にたいしてすまんことをした! それはあの男があのとき廊下で、ランプのそばで、おれにそういう迷いを起こさせたのだ。ちぇっ! あれはおれとしてじつにけがらわしい、無作法な、卑劣な考えだった! ミコールカのやつ、自白してくれてえらいぞ……これで以前のこともすっかり説明がつく! あの時のあの病気も、ああした奇怪なふるまいも……それから、以前まだ大学にいた時分だって、いつもああいう陰うつな気むずかしい男だったんだからな……が、さてあの手紙は、いったいどういう意味なんだろう? これにも確か何かあるにちがいない。いったいだれから来た手紙なのだろう? どうも怪しい……ふん。いや、おれが何もかも洗いあげてやる』
 彼は、ドゥーニャのことを思い浮かべて、いろいろ心に照らし合わせていた。と、急に心臓がしびれるような気がしてきた。彼は、いきなりおどりあがって、そのままいちもくさんにかけ出した。
 ラスコーリニコフは、ラズーミヒンが出て行くが早いか、立ちあがって、くるりと窓のほうへ向き、まるで自分の部屋の狭いのを忘れたように、すみからすみへと一、二度歩きだしたが……ふたたび長いすへ腰をおろした。彼は、たんだか身も心も新しくなったような気がした。また、たたかうんだ――それはつまり、出口が見つかったことになる。
『そうだ、つまり出口が見つかったわけだ! これまではあまりしじゅう、ぴったり締め切って、固くせんをしてしまっていたものだから、苦しくて圧迫にたえなかったのだ。まったく頭が妙にぼうっとしてしまったのだ。ポルフィーリイのとこで、ミコールカの一件を見て以来、おれは出口もない狭くるしい中で、息がつまりそうだった。ミコールカ事件のあとで、同じ日にソーニャのところでも一幕あった。おれはその一幕を、予期したのとはぜんぜん違った結末にしてしまった……つまり瞬間的に、急激に心が弱ったのだ! 一どきに! そして、あの時おれはソーニャに同意したじゃないか。自分で同意したのだ。心底《しんそこ》から同意したのだ。こんな事実を胸にいだいては、とてもひとりで生きていけるものではない、ってことに同意したのだ! ところで、スヴィドリガイロフは? スヴィドリガイロフはなぞだ……スヴィドリガイロフのことは気になる。それは事実だが、なんだか方面が違うような気がする。スヴィドリガイロフとも、やはりたたかわなければならんかもしれない。ことによると、スヴィドリガイロフはりっぱな出口になるかもしれない。しかし、ポルフィーリイは別問題だ』
『そこで、ポルフィーリイは直接ラズーミヒンに説明したんだな、心理[#「心理」に傍点]的に説明したんだな! またしても、あのいまいましい一流の心理的方法を持ち出したのだ! あのポルフィーリイが? あのポルフィーリイが、ふたりの間にああいうことのあったあとで、ミコールカの現われる前にふたりが沢と面とつき合わせて、ああいう一場を演じたあとで、よしただの一分でも、ミコールカを犯人だと思いこむなんて、そんなことがあってたまるものか! あの時の出来事にたいしては、正しい解釈を見いだすことはできない。ただ一つの[#「一つの」に傍点]解釈を別として(ラスコーリニコフはここ四、五日いくたびも、ポルフィーリイとのこの一幕を、きれぎれに思い出した。ひとまとまりにしては、どうしても記憶を引き出すことができなかった)。あの時ふたりの間には、もうこうなった以上ミコールカなどの力では、ポルフィーリイの確信の根底を動揺さすべくもないような言葉が発せられ、そうした挙動やしぐさが演ぜられ、そうした視線が交換され、そうした声である種のことが語られ、どんづまりの境目まで押して行ったのだ(ポルフィーリイはミコールカの腹の中など、最初の一言一動で、そらんずるように見抜いてしまったのさ)』
『だが、いったい、なんてことだろう! ラズーミヒンまでが嫌疑《けんぎ》をかける気になったとは! してみると、あの廊下の、ランプのそばの一場は、あの時ただではすまなかったのだ。そこで、あの男はポルフィーリイのとこへかけつけたわけだ……しかし、ポルフィーリイはどういうわけで、あの男をだましにかかったのか? ラズーミヒンの目を、ミコールカのほうへそらせたのは、どういう目的なんだろう? いや、確かにやつは何か考え出したにちがいない、これにはきっと計画がある、だがどんな計画か? もっとも、あの朝からずいぶん時日がたっている――あまり、あまりたちすぎてるくらいだ。それだのに、ポルフィーリイのことはうわさも影もない。ともかく、これはむろんいいことじゃない……』ラスコーリニコフは帽子を取って、考えに沈みながら、部屋を出て行った。この間じゅうから、彼が自分で少なくも健全な意識を持っていると感じたのは、今日が初めてだった。
『まず、スヴィドリガイロフの片をつけなくちゃ』と彼は考えた。『どうでもこうでも、一刻も早く。あの男もきっとおれがこっちから行くのを、待っているにちがいない』と、ふいにこの瞬間、彼の疲れた心の底から、なんともいえない憎悪の念がこみあげてきて、スヴィドリガイロフかポルフィーリイか、ふたりのうちどちらでも、殺してしまいかねないような気がした。少なくも、もし今でなければ、いつかあとで、やっつけることができるように感じた。『まあ、見てみよう、見てみよう』と彼は心にくりかえした。
 しかし、彼が入口の廊下へ出るドアをあけた拍子に、思いがけなく、当のポルフィーリイにぱったり出会った。相手は彼の部屋へはいって来るところであった。ラスコーリニコフはちょっと一瞬間、棒立ちになってしまったが、それはほんの瞬間のことだった。ふしぎにも、彼はさしてポルフィーリイに驚きもしなかったし、ほとんどおびえもしなかった。彼はただびくっとしただけで、たちまちとっさの間に心構えをした。
『ことによると、これで大団円《だいだんえん》かもしれない! だが、なんだって猫《ねこ》みたいに、こっそりやって来やがったんだろう?おれはちっとも気がつかなかった! まさか立ち聞きしていたのでもあるまい?』
「こんな来客は思いがけなかったでしょう、ロジオン・ロマーヌイチ」とポルフィーリイは笑いながら叫んだ。「もうだいぶ前から一度お寄りしようと思ってたもんですから、ふとそばを通りかかって、五分ぐらいおじゃまをしたってよかろうじゃないか、とこう考えましてな。どこかへお出かけのところですね? じゃ、お暇をとらせません。ただたばこを一本すうだけ、もしお許しくだされば」
「さあ、おかけなさい。ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、どうぞ」もし自分で自分を見ることができたら、まったく、われながらあきれたろうと思われるほど満足らしい、親しげな様子をして、ラスコーリニコフは客に席をすすめた。
 それはびんの一ばん底に残った滓《おり》までかきさらうような努力だった! 人はよくこんなふうに、強盗に直面した死のごとき恐怖の半時間を持ちこたえるものである。そして、いよいよのどへ刃を擬《ぎ》せられた場合には、かえって恐怖も通り越してしまうことがある。彼はまともにポルフィーリイの前に腰をかけ、またたき一つしないで彼を見つめていた。ポルフィーリイは目を細めて、たばこをふかし始めた。『さあ、いってみろ、いってみろ』まるでこういう言葉が、ラスコーリニコフの心臓から飛び出そうとでもするようであった。『さあなぜ、なぜいわないんだ?』

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「いや、じっさいこのたばこというやつは!」一本のみ終わって息をつきながら、やっとポルフィーリイは口をきった。「毒ですよ、まったく毒ですよ。ところが、どうしてもやめることができないんですからな! せきが出る、のどがむずむずする、喘息《ぜんそく》は起こる。わたしはおくびょうなほうでしてね、この間もBのところへ診てもらいに行ったんですがね、患者をひとりひとりminimum(最小限)三十分ずつも診《み》るんですよ。わたしを診ると、笑いだしたくらいでしたよ。こつこつたたいたり、聴診器《ちょうしんき》を当てたりしたが――あなたには、まあ、たばこがよくないですな、肺が拡大してるから、とこういうんです。といって、これがどうしてやめられましょう? 何を代りにしろというんでしょう? 酒を飲まないもんですから、これにはまったく困ってしまうんですよ。へ、へ、へ、飲めないのが不幸なんですからなあ! 何事もすべて相対的なものですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、何事もすべて相対的なものですよ」
『いったい何をいってやがるんだ、またいつかのお役所式の紋切り型を始めやがるのかな!』とラスコーリニコフは嫌悪《けんお》を感じながら考えた。この前の会見の光景が細大もらさず、たちまち彼の記憶によみがえった。そしてあの時の感情が、波のように心臓へ打ち寄せた。
「わたしはおとといの夕方にも、一度お寄りしたんですよ。あなたはごぞんじありませんか」部屋の中をじろじろ見ながら、ポルフィーリイは言葉をつづけた。「部屋の中へ、この部屋の中へはいったんですよ。やはり今日のように、そばを通りかかったもんだから――ひとつ訪問してみようかなと思いましてな。はいって来ると、ドアがあけっ放しになっている。で、様子を見てしばらく待っていましたが、女中にもいわないで、そのまま出てしまったのです。かぎはおかけにならんのですか?」
 ラスコーリニコフの顔はいよいよ憂うつになっていった。ポルフィーリイは彼の意中を見抜いたように、
「じつは、釈明にあがったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ、釈明にね! わたしはあなたにたいして、話をつけなけりゃならぬ義務があるのです、責任があるのです」と彼は微笑をふくみながら言葉をついで、てのひらで軽くラスコーリニコフのひざまでたたいた。
 しかし、それとほとんど同じ瞬間に、彼の顔はまじめな、気がかりらしい表情になったばかりでなく、ラスコーリニコフの驚いたことには、なんとなく一|抹《まつ》の憂愁のかげすら帯びたかに見えた。彼はこれまでかつて、彼のこういう顔つきを見たこともなければ、そんな表情ができようなどと想像したことさえなかった。
「ロジオン・ロマーヌイチ、この前はわれわれふたりの間に、じつに妙なことが起こったものですなあ。もっとも、初めてお会いした時も、われわれの間には、奇妙なことが起こったともいえます。しかしあの時は……いや、今になってみれば、どっちもどっちですがね! そこで、わたしはあなたにたいして、大いに申し訳がないのかもしれません。わたしはそれを感じております。じっさい、あの時のわたしたちの別れかたはどうでした、覚えていらっしゃいますか? あなたも神経がおどって、ひざがしらががくがくふるえていたし、わたしも神経がおどって、ひざがしらががくがくしていましたからね。それにあの時は、ふたりの間がどうもめちゃめちゃで、非紳士的でしたね。しかし、わたしたちはなんといってもやはり紳士ですよ、つまりいかなる場合にも、何よりもまず紳士ですからね。これは心得ておく必要があります。ねえ、あの時どんなところまでいったか、ご記憶でしょう……まったく無作法といってもいいくらいでしたよ」
『こいついったい何をいってるんだ、おれをなんだと思ってやがるんだ?』とラスコーリニコフは頭を上げ、目をいっぱいに見ひらいて、ポルフィーリイを見つめながら、あきれてこう自問した。
「で、わたしはこう考えたんですよ――お互いにざっくばらんにやったほうがよかろうって」ポルフィーリイは以前のいけにえ[#「いけにえ」に傍点]を自分の視線でこのうえ当惑させたくもなし、また以前のやり口や小細工を用いたくもないというように、少し顔をそむけて目を伏せながら、言葉をつづけた。「そうです、あんな嫌疑《けんお》やあんな場面は、長くつづけていられるものじゃありません。あの時はミコールカが引っ込みをつけてくれたからいいようなものの、さもなければ、われわれの間はどこまで進んだか、見当もつかないほどです。あの時わたしのところでは、あのいまいましい町人のやつが、仕切り壁の向こうにずっと待っていたのです――あなた想像がおつきになりますかね? もっとも、あなたはもちろん、このことをごぞんじだ。あの時、やつがあとからあなたのところへお寄りしたことは、わたしにもちゃんと知れてるんですから、しかし、あの時あなたが想像しておられるようなこと、そんなことはなかったんですよ。わたしもあの時は、まだだれを呼びにやりもしなければ、なんの処置も取りはしなかったのですからな。なぜ処置を取らなかったか、とおききになるでしょうが、さあ、なんといったらいいか、あの時はわたし自身も、ああいういろんなことにぶっつかって、いわば、まごつきぎみだったんですな。庭番を召喚するように手配をするのも、やっとだったくらいですから(たぶん、あなたも通りすがりに、庭番に気がおつきになったでしょうな?)あの時、わたしの頭にある考えがいなずまのように、ぱっとひらめいたんです。なにしろあの時は、その、てっきりそれにちがいない、と信じきっていたんですからな、ロジオン・ロマーヌイチ。そこで、わたしはこう考えたんです――なに、一時ひとつのほうを逃がしても、その代りほかのほうのしっぽを押えてやる。自分のほうは、少なくとも自分のほうだけは逃がしっこないとね。ところで、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたは生まれつきどうもあまり癇癖《かんぺき》が強くていらっしゃる。あなたの性格と感情のさまざまな根本的特質から考えると(わたしもその一部は了解したつもりで、ひそかに自負していますがね)、どうもあんまりだと思われるくらいですよ。いや、なに、もちろん、わたしはあの時だって、人がちょっと立ちあがったかと思うと、いきなり大事の秘密をぶっつけにしゃべるなんてことが、そうざらにあるものでないくらいの判断はできなかったんですよ。なるほど、そんなこともあるにはあります。とくに、人がいよいよ堪忍《かんにん》ぶくろの緒《お》を切った場合なんかはね。けれど、いずれにしてもまれですな。それはわたしにも判断がついた。そこで、わたしは考えました――いや、ほんのちょっとした、目に入らぬようなものでもいい! よしどんな小さい針で突いたようなものでもいい、単なる心理だけでなく、こう手でつかめるもの、形のあるものでさえあればいい、と思ったわけなんです。というのは、もしある人に罪があるなら、いずれにしても、かならず何か具体的なものが現われねばならぬ、とこう考えられるからです。まったくきわめて意想外な結果さえ期待することができるくらいですよ。あの時わたしは、あなたの性格をあてにしていたんです、ロジオン・ロマーヌイチ、何よりも一ばん性格をあてにしていたんです! あの時はそれこそ、あなたの人となりに望みをおいてたんですよ」
「ですが、それにしても、あなたはなんだってそんなことをおっしゃるんです?」自分の質問の意味をよく考えもしないで、とうとうラスコーリニコフはこうつぶやいた。
『やつはいったい、なんのことをいってるんだろう?』と彼は内心ひそかに、とほうにくれていた。『ほんとうにおれを無罪だと思ってるんだろうか?』
「なんだってこんなことをいうのかですって? 釈明に来たんですよ。つまり、これを神聖な義務と心得ましてね。わたしは何もかも洗いざらい、あの時のいわば心の迷いを一部始終、ありのままお話してしまいたいのです。わたしはあなたにずいぶん苦しい目をさせましたね、ロジオン・ロマーヌイチ。しかし、わたしだって悪人じゃありませんからね。わたしだってわかっていますよ。いろいろの事情にしいたげられながら、しかも気位の高い、誇りの強い、気みじかな――とくにこの気みじかな人にとって、こういう苦しみを背負って行くのがどんなかというくらいは、十分承知しておりますとも。わたしはいずれにしても、あなたをこの上もない高潔なかたとして、いや、それどころか、寛大というものの胚子《はいし》を持つたかたとして、尊敬しておるのです。もっとも、あなたの信念に一から十まで、同意するわけじゃありません。これは義務として率直に、十分な誠意をもって、あらかじめ申しあげておきます。わたしは何よりも、人をだますのがきらいなのですからね。あなたの人となりを認識して、わたしは心ひかれる思いがしたんですよ。あなたはわたしのこういう言葉を聞いて、あるいはお笑いになるかもしれませんね? いや、その権利がおありですとも。あなたがわたしをひと目見たときからきらっていらっしゃるのは、わたしは知っております。また事実、好きになるわけがありませんからね。けれど、あなたはなんとお思いなさろうとご勝手ですが、わたしはいま自分としては、あらゆる方法をつくしてこれまでの印象を消したうえ、自分が誠意もあれば良心もある人間だということを、証明したいと思うのです。これはまじめにいってるんですよ」
 ポルフィーリイは品位を見せて言葉を休めた。ラスコーリニコフは一種新しい驚愕《きょうがく》の襲来を感じた。ポルフィーリイが、彼を無罪のように見なしているという想念が、とつじょ彼を驚かしたのである。
「そこで、あのとき急に起こった顚末《てんまつ》をいちいち順序立ててお話する必要は、まあまあ、ありますまい」とポルフィーリイは言葉をつづけた。「わたしはむしろ、よけいなことだと思います。それに、わたしにはとてもできそうもありません。だって、これがどう得心《とくしん》のいくように説明できましょう? まず最初は風評が立った。それがどんな風評で、いつだれから出たか……そして、いかなる動機で、あなたの身にまで及んだかということも、やはりわたしはくだらない話だと思います。わたし一個についていうと、これは偶然の結果として、起こったことなんです。まったく最高の意味における偶然で、起こることもありうれば、起こらないこともありえたのです――では、いったいどんな偶然かというと、ふん、これもやはり改めていうまでもないと思います。つまりいっさいのことが、風評と偶然が、その時わたしの頭の中で符合《ふごう》して、ある考えになったんですな。どうせもう白状するくらいなら、何もかもきれいに白状してしまいますが、――あの時あなたに嫌疑《けんぎ》をかけたのは、わたしが第一だったんですよ。なに、たとえば、あの質物にばあさんの覚え書きがあったとか、なんとかいう――あんなのは皆くだらないことです、あんなことは百でも、二百でも数えあげられますよ。それからまた、あの時たまたま、わたしは例の警察署の一件をくわしく聞いたんです。しかも、通りすがりにちょっと聞いたなどというのじゃなくって、ある特別なすばらしい話し手から聞いたんですからね。その男は自分ではそれと気がつかないで、この一幕を驚くほどのみこんだのですな。こういうことがみんな、あとからあとから、あとからあとからと重なっていったんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! ねえ、それで、どうしてあの方向へ考えが傾かないでいられますか?百の[#「すか?百の」はママ]うさぎが集まったって一匹の馬をつくることができんわけで、百の嫌疑も、けっきょく一つの証拠にはなりません。それはもうあのイギリスのことわざがいってるとおりです!しか[#「です!しか」はママ]し、それは落ちついたときの分別で、かっとなったときに、そういうことがいっておられますか。なにぶん、判事だって人間ですからね。そこへもってきて、わたしはあなたの論文を思い出したんです。ほら、初めてあなたがおたずねくだすった時、くわしくお話した雑誌の論文ですよ。わたしはあの時、あなたをからかいました。しかし、あれはもっと先のほうへ、あなたをつり出すためだったんです。くりかえして申しますが、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはあまりにこらえ性《しょう》がなくて、あまりに病的ですよ。あなたが大胆で、誇りが強く、まじめで、そして……すでに感じとっていらっしゃる、あまり感じすぎるくらい感じていらっしゃる。そういうことは、わたしもずっと前から、よく知っておりました。こうしたいろいろな感じは、わたしにはなじみの深いもので、あなたの論文にしても、わたしはなんだか覚えがあるような気持ちで読みました。それは眠れない晩、気ちがいみたいに興奮した気分で着想されるのです。胸がおどり高鳴って、圧迫された興奮のうちに書かれたのです。この圧迫された誇りにみちた興奮というやつは、若い人にとって危険なものです! わたしはあのとき愚弄《ぐろう》しましたが、今はあえていいます。わたしはだいたい、いや文学の愛好者として、あの若々しい熱烈な最初の試作を非常に愛しているのです。あれは煙です、霧です。霧の中に絃が響いているのです。あなたの論文はばかばかしい空想的なものです。しかし、そこにはなんともいえない真摯《しんし》な気持ちがひらめいています。若々しい不屈の誇りがあります。自暴自棄《じぼうじき》の勇気があります。あれは陰うつな論文ですが、それもけっこう、わたしはあなたの論文を読むと、別にしまっておきました……その時わきへしまっておいて考えたのです。『この男はこのままじゃすむまい』ってね。さあ、どうです、こういうわけですから、こういう前置きがあったあとで、どうしてその次に起こった出来事に夢中にならずにおられましょう、考えてもごらんなさい! ああ、とんでもない! わたしは何もいってるんじゃありませんよ! わたしはいま何も断定してるんじゃありませんよ! あの時わたしはただちょっと気がついたのです。いったいこれはなんだろう、とわたしは考えました。なんにもありゃしない、まったくなんにもない、それこそほんとになんにもありゃしない。それに、そんなことで夢中になるのは、わたしとして、予審判事として、まったく不都合なくらいです。わたしの手にミコールカというものがあって、しかも、事実までそろってるんですからね――いやそりゃなんとおっしゃっても、事実に相違ありません! 彼もまた自分相応の心理的方法をやっておるのです。この男も調べなきゃならん。なにしろ生死にかかわる問題ですからね。ところで、今なんのためにこんなことをいろいろ説明すると思います?ほか[#「ます?ほか」はママ]でもありません、あなたにその知と情によって事態をよく了解していただき、あの時のわたしの毒々しいやり口にたいして、わたしをお責めにならんようにというそのためです。もっとも、けっして毒々しいことなんかありませんがね、まったくのところ、へ、へ! あなたはなんですか、わたしがあの時あなたの住まいへ捜索に来なかったとお思いですか? 来ましたよ、来ましたとも、へ、へ! あなたがここで病床についておられた時に、やって来たんですよ。正式にでもなければ、またわたしという人間としてでもありませんが、とにかく来たんですよ。そして、あなたの住まいにあるものは、まだ証拠の消えないうちにと、髪の毛ひと筋のこさないように、いちいち調べあげたんですよ。しかし――umsonst(徒労)でした! わたしはこう思ったのです――いまにこの男はやって来る、自分のほうからやって来る、しかも遠からずやって来る。もし罪があるなら、それこそもうかならずやって来るにちがいない。ほかのものは来なくても、この男はやって来る、とこう考えたのです。それから、覚えていますか、ラズーミヒン君がいろんなことをしゃべりだしたのを? あれはあなたを興奮させるために、われわれの仕組んだことで、あの男があなたにしゃべるように、わざと風説をはなったんですよ。なにしろラズーミヒン君はああいうふうな、公憤をおさえきれない男ですからな。ザミョートフ君は何より一ばんに、あなたの憤りとあけっぱなしの大胆不敵さに、目をつけたんですよ。ねえ、だって料理店なんかで、出しぬけに、『おれは人を殺した!』などとすっぱりいってのけるなんて、あまりに大胆ですよ、あまりに不敵ですよ。そこでわたしは、もし彼が有罪であるとすれば、じつに恐るべき闘士だと思った! じっさい、その時そう思ったんですよ。それから待ちました! あなたの来るのを一生けんめいに待ちました! ザミョートフはあの時あなたに圧倒されてしまったのです……つまり、そこが例のどっちにでもとれる心理というやつでしてな! そうして、わたしはあなたを待っておると、どうでしょう神の恵みか、あなたが見えたじゃありませんか! わたしは、まったく胸がどきんとしましたよ。ねえ! なぜあなたはあの時いらっしゃる必要があったんでしょう? それからあの笑い、覚えておいででしょう? あの時はいって来ながら立てられた笑い声、わたしはまるでガラスごしに見るように、すっかり見ぬいてしまった。もしああいう特殊な事情のもとにあなたを待っておるのでなかったら、それこそ何ひとつ気がつかなかったでしょうが、その気持ちでいるということは恐ろしいもんですな。それからあの時はラズーミヒン君が――あっ! そうだ、石、石、覚えておいでですか、盗品《とうひん》をかくしてある石? ね、わたしはその石がどこかの菜園にあるのが、まざまざと見えるような気がします。あなたはザミョートフに菜園とおっしゃったでしょう、それからわたしのところでもまた二度めにね。ところで、あのとき例のあなたの論文を解剖《かいぼう》しかけたとき、あなたが説明を始められたとき――それこそあなたの一語一語が、まるでそのかげに別な言葉を隠してでもいるように、二重になってひびいたものです! いやね、ロジオン・ロマーヌイチ、そうしたわけで、わたしは最後の柱まで来て、そこで額をぶっつけると、やっとわれに返ったんですよ。いや、おれとしたことが、これは何をしているのだ! もしその気にさえなれば、こんなことはみな最後の一点一画にいたるまで、反対の方面へでも説明ができるじゃないか。それどころか、そのほうがかえって自然に見えるくらいだと、自認せざるをえないのでした。わたしも苦しみましたね! 『いや、せめて何かほんの毛筋ほどでも証拠が握れたら!………』と思っているやさきへ、例のベルの一件を聞きこんだ! わたしは思わずぞくぞくっとして、身ぶるいしたくらいでしたよ。さあ、これこそ毛筋ほどの証拠だ! まさにそうだ! もうその時わたしはとやかく判断などしなかった、ただもうそんなことをしたくなかったのです。じっさいその時は、あなたを自分の目[#「自分の目」に傍点]で見るためなら、千ルーブリくらい自腹を切って投げ出したろうと思われるほどでしたよ。ほら、あの町人があなたに面と向かって『人殺し』といったあとで、あなたはその男と百歩もならんで歩きながら、まる百歩の間、ひと言もその男をなじることができなかった、その時のあなたの顔が見たかった!………ねえ、その背筋を走る寒けはどうです?病中[#「です?病中」はママ]なかば熱に浮かされながら引いたベルはどうです? こういうわけですから、ロジオン・ロマーヌイチ、あの時わたしがあなたにあんな悪ふざけをしたのも、あながち驚くにはあたらないでしょう? それにあなたはなぜ、ちょうどあの時、わたしのとこへみえたのです? あなたもやはり、何者かに背中をつかれたようなぐあいだったのでしょう、まったく、もしあの時ミコールカがわたしたちを引き分けてくれなかったら、それこそ……あの時のミコールカを、あなた覚えておいででしょうな! よく覚えておいでですか? じっさい、あれは青天の霹靂《へきれき》でしたよ! あれは雷が黒雲の間からとどろいて、いなずまの矢がさっと一|閃《せん》ひらめいたのです!さあ[#「です!さあ」はママ]、そこでわたしがあれをどう迎えたでしょう? わたしはあんないなずまの矢なんか、これっからさきも信じなかった。それはあなたも自分でごらんになったとおりです! どうしてどうして! あのあと、あなたがお帰りになってから、何かの点にたいして、なかなかどうもつじつまの合った答弁を始めたので、さすがのわたしも驚いたくらいですが、しかし、これっぱかしもほんとうにはしませんでした! ねえ、わたしも金剛石《こんごうせき》のように、うんとがっちりがんばり通したわけなんですよ。で、わたしは思いましたよ――みんなでたらめだ! ミコールカなんかにそんなことができてたまるもんか!」
「ラズーミヒンが今さき、ぼくにそういいましたよ――あなたは今でもニコライを有罪と認めて、それを自分でラズーミヒンに力説なすったって……」
 彼は息がつまり、しまいまでいうことができなかった。彼は相手の腹の底の底まで見やぶりながら、自分で自分の観察を否定するかのように、名状しがたい興奮のていで、耳をすましていた。彼は信ずるのを恐れた、そして信じなかった。まだ二|様《よう》にとれる言葉の中をむさぼるようにかきまわして、何かもっと正確な、もっとはっきりしたものをつかもうとあせった。
「ラズーミヒン君ですか!」今までずっと黙りつづけていたラスコーリニコフのこの質問が、さもうれしくてたまらないように、ポルフィーリイは叫んだ。「へ、へ、へ! いや、ラズーミヒン君なんかはあんなふうに、わきのほうへどけとかなくちゃいけなかったんですよ。二人《さし》のほうが好ましい、他人は出しゃばらないでくれ、というやつですな。ラズーミヒン君のは見当ちがいだし、それに門外漢《もんがいかん》ですよ。わたしのとこへ、それはそれは真青《まっさお》な顔をしてかけ込みましてね……が、まあ、あの男なんかうっちゃっとけばいい、ここへいっしょにすることはありません! ところで、ミコールカのことですがね、あれがどんなおもしろい創作の題材だか、ごぞんじないでしょう。つまり、わたしの解釈しているような意味ですよ。まず第一に、あれは未成年の小僧っ子です。そしておくびょう者というのでもないが、まあ、一種の芸術家みたいなものですな。いや、まったく。わたしが彼をこんなふうに説明したからって、お笑いになっちゃいけません、無邪気で、何事にたいしても感受性を持っていて、真情があります、つまり夢想家なんですな。あの男は歌もうたえば、踊りもやるし、話をさせれば、よそからわざわざ聞きに来るほどじょうずだそうです。学校へも通ってるし、指を見せるだけで、ぶっ倒れるほど笑いころげるが、また正体なしに酔いつぶれもする。しかしそれも道楽で飲むのじゃなく、ときどき飲まされるとやるんで、まだ子供っぽいんですよ。あのとき彼は盗みをはたらいたが、自分じゃそれを知らないんですな。『床の上に落ちたのを拾ったのが、なんで盗みだ?』というわけでね。ときに、あなたはあの男がラスコーリニック(分離派教徒)なのをごぞんじですか? いや分離派教徒というでもないが、何か別派の教徒なんですよ。あの男の一族には、ベグーン派(分離派教徒のなかでもっとも原始的な一別派)の者がいたんですからね。彼自身もつい最近までまる二年間も、村のある長老の下で聴法者《ちょうほうしゃ》生活をしておった。こういう話はすべてミコールカ自身と、同郷のザライスクの人間から聞いたんですよ。それどころか! いきなり荒野へ苦行に出かけようとしたこともあるんですからな! なかなか熱心でね、毎晩神さまにお祈りもすれば、古い『ほんとうの』書物を読んで、読みふけったものなんですよ。ところで、ペテルブルグ――ことに女と酒が、彼に強烈な作用を及ぼしたんです。もともと感受性の強い男だもんだから、すぐ長老のことも、何もかも忘れてしまったのです。こういう話も聞いて知っとります。ここのある画家があの男をかわいがって、ちょいちょいたずねて行くようになった。そこへ、こんどの騒ぎがやってきたんですな! すると、すっかりおじけがついてしまって、首をくくろうとする、ね! 逃げようとする、ね! いや、わが法律にたいする民衆の観念ときたら、どうもしまつにおえない。中にはただ『裁判される』という言葉を恐れるのがいるんですからな。これはだれの罪でしょう! 新制度による裁判は、いまに何か答えをあたえるでしょう。どうかそうありたいものですて! さて! そこで、監獄へはいってみると、またありがたい長老さまのことが思い出されたとみえるんです。で、また聖書が出てきたわけです。ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、彼らのある者にとって、『苦患《くげん》を受ける』ということが何を意味するか、おわかりですか! それはもう、だれのためというではなく、『ただ、苦しまねばならぬ、苦患を受けねばならぬ』というのです。ましてお上《かみ》から受ける苦患なら、なおさらだったわけですよ。わたしの知ってる中にも、こういう例がありました。あるきわめて恭順《きょうじゅん》な囚人が、まる一年ばかり入獄している間、毎晩毎晩、暖炉の上で聖書ばかり読んでおりました。一生けんめいに耽読《たんどく》して、それに凝《こ》り固まってしまいましてな、べつにどうというわけもないのに、煉瓦《れんが》を拾って来て、何ひとつひどい扱いもしない典獄《てんごく》にほうりつけたものです。ところで、そのほうりつけかたがふるってる、つまりけがのないように、わざわざ一アルシンもわきへよけて投げたんですよ! が、典獄にものを投げつけた囚人がどんなことになるか、わかりきった話です。そうしてつまり『苦しみを受けた』というわけですよ。そこでわたしも今、ミコールカが『苦しみを受けようとしている』か、あるいは、それに似かよったことをしたがっていると、こう疑うのです。いや、もう事実上、明確にわかってるくらいです。ただわたしが知っているってことを、当人が知らないだけなんですよ。どうです、あんな民衆の中から、空想家が出てくるということを、あなたは否定なさいますか!いや[#「すか!いや」はママ]、もうざらですよ。そこでまた長老が心にはたらきかけてきた。ことに首をくくろうとしたあとでは、いっそうしみじみと思い出されたのです。もっとも、いまに自分からやって来て、何もかもわたしにうち明けますよ。あなたはあれにもちきれるとお考えですか? まあ待ってごらんなさい。いまにかぶとを脱ぐにきまってるから! わたしはもう今か今かと、あの男が供述を否定にやって来るのを、待っているんですよ。わたしはあのミコールカが好きになったので、根本的に研究するつもりです。ねえ、あなたはどうだとお考えになりました! へ、へ、へ! あの男はある点にたいしては、じつによくつじつまの合った答弁をしましたよ。必要な材料を供給してもらったとみえて、うまく準備していましたよ。ところが、その他の点になると、もうまるで水たまりへでも落ちたように、てんで何ひとつ知りゃしない、いもの煮えたもごぞんじない。しかも自分が何も知らないことを、ご当人いっこうごぞんじないんですからな! いや、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ! これは幻想的な事件です、陰うつな事件です、人心が混濁《こんだく》し、血で『一掃する』という文句がいたるところに引用され、全生活が安逸をむねとする現代の出来事です。そこには机上の空想と、理論的にいらいらさせられる心があるのです。そこには第一歩にたいする決断が見られます。しかし、これは特殊な性質の決断です――まるで山からころげ落ちるような、あるいは鐘楼《しょうろう》から飛びおりるような気持ちで決心したので、犯罪に向かって行くのにも、まるで足が地についていない。自分のはいったあとのドアを閉めることも忘れながら、とにかく殺した、ふたりまで殺した、理論によってね、殺したには殺したが、金をとることはしえないで、どうやらこうやら持ち出したものは、石の下へ隠してしまった。しかも、凶行の現場でドアのかげに隠れていたとき、外からドアがたたかれたり押されたりして、ベルががらがら鳴ったりした――そのときの苦痛だけではたりないで、その後またなかば熱に浮かされながら、そのベルを思い出すために、もうあき家になっているその住まいへ出かけて行った。背筋を走った悪寒を、いま一度経験したいという要求がおこったんですな……しかし、まあそれは病気のせいとするにしても、まだこういうことがある。人を殺しておきながら、自分を潔白な人間だと思って、他人を軽蔑し、青ざめた天使のような顔をして歩きまわっている――なんの、これがどうしてミコールカなもんですか、ロジオン・ロマーヌイチ、これはミコールカじゃありませんよ!」
 この最後の言葉は、その前に語られた否定めいた言葉のつづきとしては、あまりに思いがけないものだった。ラスコーリニコフはまるで突き刺されたように、全身わなわなとふるえだした。
「では……だれが……殺したんです?………」彼はがまんしきれなくなり、あえぐような声で尋ねた。
 ポルフィーリイは、まるで思いもよらぬ質問にあきれはてたように、いすの背へさっと身をそらした。
「え、だれが殺したかですって?………」自分の耳が信じられないように、彼はこう問いかえした。「そりゃあなた[#「あなた」に傍点]が殺したんですよ、ロジオン・ロマーヌイチ! あなたがつまり殺したんです」彼はほとんどささやくような、とはいえ、十分確信のこもった声で、こういいたした。
 ラスコーリニコフはいすからおどりあがって、幾秒間か突っ立つたままでいたが、やがてひと言もいわずに、また腰をおろした。小きざみな痙攣《けいれん》がふいに彼の顔面を走った。
「くちびるがまたあの時のようにふるえていますよ」とポルフィーリイは同情さえ帯びたような調子でつぶやいた。「ねえ、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしの言葉を見当ちがいに解釈なすったようですな」しばらく無言の後、彼はまたいいたした。「だから、そんなにびっくりなすったんです。わたしがこんにち伺ったのは、つまり何もかもすっかりいってしまって、事柄をあからさまに運ぼうと思ったからです」
「あれはぼくが殺したのじゃありません」何か悪いことをしている現場をおさえられて、びっくりした小さい子供のような調子で、ラスコーリニコフはささやいた。
「いいや、あれはあなたです、ロジオン・ロマーヌイチ、あなたです、ほかにだれもありません」いかつい確信にみちた声で、ポルフィーリイはこうささやいた。
 彼らはふたりとも口をつぐんだ。沈黙は奇妙なほど長く、ものの十分ばかりもつづいた。ラスコーリニコフはテーブルにひじづきして、無言のまま、指で髪をかきまわしていた。ポルフィーリイはおとなしく腰をかけたまま、じっと待っていた。ふいにラスコーリニコフは、さげすむようにポルフィーリイを見あげた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、またあなたは古い手を出しましたね! あいもかわらず、例のあなたの手口だ! よくそれで飽きないもんですねえ、じっさい?」
「ええ、もうたくさんですよ、今のわたしに手口も何もあるもんですか! もしここに証人でもあれば別の話ですが、われわれは、ふたりきりさし向かいで、内証話《ないしょばなし》をしてるんじゃありませんか。ごらんのとおり、わたしはあなたをうさぎ[#「うさぎ」に傍点]のように追いかけて、つかまえに来たのじゃありません。自白なさろうとなさるまいと――今この場合おなじことです。あなたがなんにもおっしゃらなくても、わたしは腹の中でちゃんと確信してるんですから」
「それなら、なぜおいでになったんです?」とラスコーリニコフはいらだたしげに尋ねた。「ぼくはまた以前の質問を発しますが、もしぼくを有罪と認めておられるなら、どうして収監しないんです?」
「はあ、その質問ですか! よろしい、個条をおってお答えしましょう。第一、あなたをそういきなり逮捕《たいほ》するのは、わたしにとって不利だからです」
「なぜ不利なんです! もし、あなたが確信しておられるなら、そうしなくちゃならないはず……」
「ええっ、わたしの確信がなんです? こんなことはすべて今のところ、わたしの空想にすぎないんですからね。それに、あなたを監獄へ入れて、落ちつかせる[#「落ちつかせる」に傍点]必要が、どこにあるんです? あなたは自分から要求していらっしゃるくらいだから、自分でもおわかりになるでしょう。たとえばあなたをあの町人につき合わせたって、あなたはただこういわれるだけです。『きさまは酔っぱらってるのかどうだ? おれがきさまといっしょにいたところをだれが見た? おれはただ、きさまを酔っぱらいと思ったんだ。それにじっさい、きさまは酔っぱらっていたじゃないか』――さあ、その場合わたしはこれにたいして、なんといえばいいんです。まして、やつのいうことより、あなたの申し立てのほうがほんとうらしいんですからな。だって、やつの供述はただ心理だけですが――そんなことは、ああいうつらをしてちゃ、だいいち、がら[#「がら」に傍点]に合いませんよ――ところが、あなたのほうは急所を突いてるわけですからね。なにぶんあの野郎、大酒飲みで通っておるんですよ。それに、わたし自身がもう幾度となく、この心理主義が両方にしっぽを持っていることを、ちゃんと白状しましたからね。それどころか、うしろのしっぽのほうが大きくて、ずっとほんとうらしいほどですが、今のところわたしはそれ以外、あなたに対抗すべく何ひとつ持っていないことまで白状しました。それに、けっきょくは、あなたを収監することになるでしょうし、だいいち、こうして何もかもあらかじめあなたに声明するために、自分からわざわざやって来たのですが(世間なみのやりかたじゃありませんやね)、それでもけっきょく、あなたに向かって(これも世間なみじゃありませんが)、こんなことをするのはわたしにとって不利だと、まっすぐにいってるんですからね。さて第二に、わたしがやって来たわけは……」
「さあ、それで第二の理由は?」(ラスコーリニコフはやはりまだ息を切らしていた。)
「そのわけはもうさっきいったとおり、わたしはあなたと話し合いをつけるのが自分の義務だと考えるからです。わたしはあなたに悪人と思われたくない、まして、ほんとうになさろうとなさるまいとご勝手ですが。わたしは心からあなたに好意を持っているんですから、なおのことです。したがって第三に、わたしはいさぎよく自首なさいと、真正面から歯に衣《きぬ》きせずお勧めしようと思って、ここまでやって来たのです。これはあなたにとって、どれだけ有利かしれないし、またわたしにとってもやはり有利なんです――肩の荷がおりますからね。さあ、どうです、わたしとしては、ざっくばらんな態度じゃありませんかね?」
 ラスコーリニコフはちょっと考えていた。
「ねえ、ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、あなたは自分で心理だけだといいながら、やっぱり数学に入りこんでおしまいになりましたね。それで、もしあなたの考えちがいだったらどうします?」
「いや、ロジオン・ロマーヌイチ、考えちがいじゃありません。例のほんの毛筋ほどの証拠を握ってるんですからね。その毛筋ほどのやつを、わたしはあのとき見つけたのです。神さまが授けてくだすったんです!」
「毛筋ほどのやつって?」
「それはいいますまい、ロジオン・ロマーヌイチ。それにどっちみち、わたしもいまは、もうこのうえ猶予する権利がないから、いよいよ収監します。だから、あなたもよく分別なさい――今となったら[#「今となったら」に傍点]、わたしにとってはどちらでも同じことです。したがって、ただあなたのために、いってるだけなんです。まったくそのほうがいいですよ、ロジオン・ロマーヌイチ!」
 ラスコーリニコフは毒々しいうす笑いをもらした。
「こうなると、もうおかしいのを通り越しますよ。それは無恥というものです。まあ、かりにぼくが有罪だとしても(そんなことは、ぼくはけっして言いはしませんが)、あなた自身がもうぼくを収監して、落ちつかせてやる[#「落ちつかせてやる」に傍点]といっておられるのに、ぼくのほうから、わざわざ自首して出るわけがないじゃありませんか?」
「ええっ、ロジオン・ロマーヌイチ、その言葉どおりにおとりになっちゃいけませんよ。ことによったら、そう落ちつく[#「落ちつく」に傍点]わけにいかないかもしれませんからね! だって、これはただの理論で、しかもわたしの理論なんですよ。え、わたしなんかがあなたにたいして、なんの権威になれます? もしかすると、わたしは今でもあなたに、何かかくしているかもしれませんぞ。わたしにしたって、いっさいあなたにぶちまけてしまうわけにいきませんからね、へ、へ! そこで第二段として、あなたにとってどんな利益があるか、という問題です。ねえ、そうすればどんな減刑を受けることになるか、それはおわかりでしょうな! だってこの自首がどういう時、どういう瞬間にあたるのか、よく考えてごらんなさい! もうほかの男が自分に罪を引き受けて、事件をすっかりこんぐらかしてしまったときじゃありませんか? わたしは神の前に誓って申しますが、あなたの自首はぜんぜん突発的に起こったことのように、『あすこで』(法廷の意)うまくとりつくろって、こさえてあげますよ。あんな心理はまるでないものにします、あなたにたいする嫌疑は、みんなやみからやみに葬ってしまいます。そうとすればあなたの犯罪も、一種の頭脳の昏迷《こんめい》というふうになります。もっとも、正直なところ、昏迷にちがいありませんからね。わたしは潔白な人間です、ロジオン・ロマーヌイチ、自分の言葉は守ります」
 ラスコーリニコフはもの悲しげに沈黙して、頭《こうべ》をたれてしまった。彼は長いこと考えていたが、ついにまたにやりと笑った。けれど、それはもうつつましい沈んだ笑いであった。「ええっ、いりません!」まるでポルフィーリイに隠そうともしないような調子で彼はいった。「そんなことをする価値はない! ぼくはなにも、あなたがたに減刑してもらう必要はないんだ!」
「さあ、それをわたしは恐れていたのですよ!」ポルフィーリイは熱した調子で、ほとんどわれ知らずといったように叫んだ。「つまり、それをわたしは恐れていたのですよ――減刑なんかしてほしくない、というやつをね」
 ラスコーリニコフはもの悲しげな、しみ入るような目で彼を見ていた。
「いや、命をそまつにしちゃいけませんよ!」とポルフィーリイは言葉をつづけた。「あなたはこの先まだまだありますよ。どうして減刑が不必要なんです、どうして不必要なんです! あなたはじつにこらえ性《しょう》のない人ですなあ」
「何がそんなにあるんです?」
「生活がですよ! いったいあなたは予言者ででもあるんですか、いったいどれだけのことをごぞんじなんです? 求めよさらば与えられんですよ。おそらく、神もあなたにそれを期待しておられるのかもしれませんからね。それに、あれだって永久なものじゃありませんしね、鎖だって……」
減刑がある、ですかね……」とラスコーリニコフは笑いだした。
「なんです、あなたはブルジョア的な恥辱でも気にしていらっしゃるんですか? どうやらそいつをびくびくして、しかも自分で気がおつきにならんらしい――だからお若いというんです! が、それにしても、あなたが恐れたり、自首を恥ずかしがったりすることは、べつになさそうなもんですがね」
「ええっ、ばかばかしい!」ラスコーリニコフは口をきくのもいやだというふうに、嫌悪《けんお》の表情でさげすむようにいった。
 彼はどこかへ出て行こうとでもするように、またちょっと腰を上げたが、ありありと絶望の色を面《おもて》に現わして、すぐまた腰をおろしてしまった。
「それだ、それだ、それがばかばかしいなんて! あなたは信頼の念というものをなくしてしまったものだから、わたしがあなたに、見えすいたおせじでもいってるようにお考えになる。いったい、あなたはこれまでに、十分生活をしましたか? 十分物事がおわかりですか? 理論を考え出したところが、まんまとしくじって、どうもあまり平凡な結果になってしまったので、恥ずかしくなったんです! 結果は俗だった、それは事実です。しかし、あなたは、望みのない卑劣漢《ひれつかん》じゃありません。けっして、そんな卑劣漢じゃない! 少なくとも、あなたはあまり長く自己|欺瞞《ぎまん》をやらないで、一度に最後の柱へぶつかったのです。いったい、わたしはあなたをなんと見ていると思います? わたしはあなたをこう見ています。あなたはただ信仰とか神とかを見つけさえすれば、よし腸《はらわた》を引き出されようと、じっと立ったまま笑みをふくんで、自分を苦しめる連中をながめている、そういう人間のひとりだと思っています。だから、早くそれをお見つけなさい、そうすれば生きていかれますよ。あなたは、第一、もうとっくに空気を一変する必要があったんです。なに、苦痛もいいものですよ、お苦しみなさい。ことによると、苦しみたいというミコールカの考えかたが、あるいはほんとうなのかもしれません。そりゃわたしだって、容易に信じられないってことはよく承知しています――がまあ、あまり理くつっぽくせんさくしないで、何も考えずいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません――ちゃんと岸へ打ち上げて、しっかり立たせてくれますよ。では、どんな岸かといえば、それはわたしにゃわかりっこありませんよ。ただあなたはまだまだ生活すべきだと、こう信じておるだけです。あなたが今のわたしの言葉を、紋切り型のお説法のように取っておられるのは、わたしも承知しております。しかし、またあとで思い出されたら、役にたつことがあるかもしれません。それだからこそいうのです。あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見ぐるしいことをしでかしたかもしれませんよ! まだしも神に感謝しなきゃならんかもしれません。なんのために神があなたを守ってくださるのか、そりゃ、あなただってわかりっこありません。あなたは大きな心になって、もう少し恐れないようにおなんなさい。目前に控えている偉大な実践《じっせん》を、あなたはびくびくしてるんですか? いや、この場に及んでびくびくするのは、それこそ恥辱です。いったん、ああいう一歩を踏み出した以上、歯を食いしばって、がまんしなくちゃいけません。それはもう正義です。だから、正義の要求するところを実行なさい。あなたに信仰がないのは、わたしも承知しているが、しかし。だいじょうぶ、生活が導いてくれます。そのうち自分から好きになりますよ。あなたは今は少し空気がたりない、空気が、空気がね!」
 ラスコーリニコフはぴくりとなった。
「あなたはいったい何者です!」と彼は叫んだ。「いったいあなたは予言者なんですか? どんな権利があって、そうえらそうに落ちつきはらって、さも高みから見おろすように、利口《りこう》ぶった予言をするんです?」
「わたしが何者かって? わたしはもうおしまいになった人間です。そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかし、もうおしまいになった人間です。ところが、あなたは別ものです。神はあなたに生命を準備してくださった(もっともあなたの場合だって、煙のように消えてしまって、何も残らないかもしれない、そりゃだれにもわかりませんがね)。あなたが別な人間の部類へ移ったからって、それがなんです? まさか、あなたのような心をもっている人が、安逸なんか惜しむのじゃないでしょう? またあまりにも長い間、人があなたを見ないことになるかもしれないが、いったい、それくらいのことがなんです? 問題は時間にあるのじゃなくて、あなた自身の中にあるのです。太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません。あなたはまた、なにをにやにやなさるんです? わたしがこんなシルレルめいたことをいうからですか? わたしは賭《か》けてもいいが、あなたはきっとわたしのことを、今おべっかで取り入ろうとしていると考えておいでなんでしょう! いや、じっさい、おべっかをいってるのかもしれませんよ、へ、へ、ヘ! ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしの言葉なんか、まあ信じないがいいですよ。けっしてこれっから先も信じないがいいかもしれない――これはわたしの性癖なんだから。それに異存はありません。ただひと言つけ加えておきますが、わたしが、どれほどいやしい人間で、どれほど潔白な人間か、それはあなた自身に判断がつきそうなものですね!」
「あなたはいつぼくを逮捕するつもりです?」
「さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩をさせてあげましょう。ねえ、よく考えて神に祈っておおきなさい。それに、そのほうがとくですよ、まったくとくですよ」
「が、もしぼくが逃亡したら?」なんとなく妙ににやにやしながら、ラスコーリニコフは尋ねた。
「いや、あなたは逃げやしませんよ。百姓なら逃げるでしょう、近ごろはやりの分離派教徒なら逃げるでしょう――他人の思想の奴隷《どれい》なら――なぜって、そんな連中は、海軍少尉補のドゥイルカみたいに、ただ指のさきをちょっと見せさえすれば、なんでも好きなものを、一生涯信じさせることができるんですからな。ところが、あなたはもう自分の理論も、信じちゃいらっしゃらないんだから――何も持って逃げるものがないじゃありませんか! それに、逃亡生活に何があります? 逃亡生活はいやな苦しいものですよ。ところが、あなたにはまず第一に生活が必要です。確固たる状態が必要です。適当な空気が必要です。逃亡生活にあなたの空気があると思いますか? いったん逃げても、また自分で帰って来ますよ、あなたはわれわれを離れちゃ、やっていけないんです[#「あなたはわれわれを離れちゃ、やっていけないんです」に傍点]。もしわたしがあなたを牢に入れれば――一《ひと》月なり二《ふた》月なり、三《み》月なり暮らすうちに、あなたはふいにわたしの言葉を思い出して、自分から自白にやって来ます。しかも、自分でも思いがけないくらいにね。まさか自白に行こうなんて、つい一時間前までは、自分でもわからないくらいでしょうよ。わたしは確信しておりますよ――あなたは『苦患《くげん》を受けようと考えつかれる』に相違ありません。今はわたしのいうことをお信じにならないが、しぜんそこへくるに決まってますよ。なぜって、ロジオン・ロマーヌイチ、苦痛というやつは偉大なものですからな。どうかわたしがぶくぶく太っているからって、そんなことを気になさっちゃいけませんよ。おっしゃるまでもなく、自分でよく知ってるんですから、そんなことを笑っちゃいけません。苦痛の中には理念があります。ミコールカの考えるとおりです。いや、あなたは逃亡なんかしやしませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ」
 ラスコーリニコフは席を立って、帽子をつかんだ。ポルフィーリイも同じく立ちあがった。
「散歩にでもお出かけですかな? 今晩はいい天気でしょうな。ただ夕立がなけりゃいいが。もっとも、そのほうがいいかもしれません。空気を清めてくれますからね……」
 彼も同じく帽子に手をかけた。
ポルフィーリイ・ペトローヴィチ、どうかそんなことを考えないでください」ときびしい執拗《しつよう》な調子で、ラスコーリニコフはいった。「ぼくはいま、白状したわけじゃありませんからね。あなたがあまり不思議な人だもんだから、ぼくはただ好奇心であなたの言葉を聞いていただけです。ぼくはけっして何ひとつあなたに白状はしなかった……これを覚えていてください」
「いや、そりゃもう心得ております。覚えときましょう――まあ、どうだ、このふるえていることは。いやご心配には及びませんよ、あなたのお心しだいですよ。少し散歩していらっしゃい。ただあまり長い散歩はいけませんよ。それから万一のために、ちょいとしたお願いがあるんですが」と彼は声を落としていいたした。「それは少々いいにくいことですが、かんじんなことなんで。もし万が一(そんなことは、しかし、わたしも信じやしません、あなたがそんなことのできる人とは思っていませんからね)、もし万一――つまりその万万――の場合――この四、五十時間のあいだに別な方法で、何