京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP505-P528

るように、ときどきしくしく泣いていた。娘の顔は青白く、やせこけて、寒さめのためにこちこちしていた。だが、『どうしてこんなところへ来たんだろう? きっとここへ隠れこんで、ひと晩じゅう寝なかったにちがいない』彼はいろいろ娘に問いかけた。娘は急に元気づいて、子供らしいまわらぬ舌で、なにやら早口に片言《かたこと》をいいだした。その中には『母ちゃん』とか『母ちゃんがぶちゅんだもの』とか、茶わんを『こわちた』などというのが聞きわけられた。娘はひっきりなしにしゃべった。そうした話の全体から、やっとどうにかこうにか、次のことが察せられた。この娘は親にきらわれている子供らしかった。おそらくこの宿屋の台所で働いて、年じゅう酔っぱらっている母親に、ぶたれたりおどかされたりしているに相違ない。きょう娘は母親の茶わんをこわしたので、すっかりおびえあがってしまい、もう夕方から逃げ出したものらしい。おそらく長いあいだ、雨の降る中を、裏庭のどこかに隠れていたあげく、やっとここまではいりこんで、戸だなのかげに身をひそめ、湿気とやみと、それからこんなことをしたために今にもぶたれるだろうという恐怖の念にふるえながら、泣き泣きこの片すみに夜っぴてすわり通していたのだろう。彼は娘を抱きあげて、自分の部屋へ連れて帰り、ベッドの上へすわらして、着物を脱がせにかかった。素足にはいた穴だらけのくつは、まるでひと晩じゅう水たまりにつかっていたように、ぐしょぐしょになっていた。着物を脱がせてから、彼は娘をベッドに寝かせ、頭からすっぽり毛布に包んでやった。娘はすぐ寝入ってしまった。これだけのことをしおわると、彼はまた、むずかしい顔をして考えこんだ。『まだこんなことにかかわりあう気になってる!』と彼はとつぜん重苦しく、毒々しい気持ちでそう考えた。『なんてばかばかしいことだ!』彼はいまいましそうに、ろうそくを取りあげて、是《ぜ》が非でもぼろ服を見つけ、すこしも早くここを出ようと考えた。『ええ、あんな娘なんか!』もうドアをあけながら、彼はのろわしげに考えたが、もう一度娘を見にひっかえした。寝ているだろうか、どんな寝ぶりだろうか? こう思って、彼はそっと毛布を持ちあげた。娘はさも気持ちよさそうにぐっすり眠っていた。毛布の中で暖まったので、もう青白いほおに、くれないがみなぎっていた。ところが、ふしぎなことには、そのくれないが普通の子供の赤みから見ると、なんだかどぎつく濃いように思われた。『これは熱の赤みだ』とスヴィドリガイロフは考えた。『これはまるで酒を飲んだ赤さだ、まるでコップに一杯も飲ませたようだ。赤いくちびるはかっかと燃えて、火を吹いてるようだ、いったいどうしたというのだろう!』ふと彼は、娘の長い黒いまつげが、ふるえながらまばたきして、なんだか心もち、もちあがるような気がした。そしてその下からずるそうな、鋭い、どこか子供らしくない、合図でもするような目がのぞいた。娘は寝ているのでなく、寝たふりをしているらしく思われた。と、はたしてそうだった。娘のくちびるは微笑にひろがっていったが、まだがまんしようとでもするように、くちびるの端がかすかにふるえている。けれど、やがて彼女はもうがまんするのをやめてしまった。それはもう笑いである。まごうことなき笑いである。なにかしら、ずうずうしい挑発《ちょうはつ》的なものが、まるで子供らしくないその顔に光っている。それは淫蕩《いんとう》である。それは娼婦の顔である。フランスの娼婦の無恥な顔である。おお、もうてんで隠そうともせず、両の目を開いている。その目は火のような無恥な視線で彼を見まわし、彼を呼び、彼に笑いかけている……この笑い、この目、子供の顔に浮かんだ、こうしたすべてのけがらわしい表情の中には、なにかしら、無限に醜悪な、良心を侮辱《ぶじょく》するようなものがあった。『これはどうだ! 五つばかりの子供のくせに!』とスヴィドリガイロフは心からぞっとしてつぶやいた。『これは……これは、いったいどうしたことだ?』けれど、彼女は燃えるような顔をもうすっかり彼のほうへ向け、両手をさし伸べている……ええ、このけがらわしい女め!』娘に手を振りあげながら、スヴィドリガイロフはぞっとしてこう叫んだ。……けれど、その瞬間に目がさめた。
 彼は同じべッドの上に、同じように毛布にくるまっている。ろうそくはついていなかったが、窓にはもう明けはなれた朝の光が白んでいた。
『夜通し悪夢を見つづけだ!』全身たたきのめされたように感じながら、彼は毒々しい表情で身を起こした。からだの節節が痛んだ。外は一面に深い霧で、何ひとつ見わけることができなかった。もう五時ちかい刻限である。寝過ごした! 彼は起きあがって、まだ湿っぽいジャケツと外套《がいとう》を身につけた。ポケットの中で手が拳銃《けんじゅう》にさわると、それを引き出して雷管を直した。それから、腰をおろして、ポケットから手帳を取り出し、最初の一ばん目につきやすいページへ、大きく二、三行書きつけた。それを読み直してから、彼はテーブルにひじつきしながら考えこんだ。拳銃と手帳はすぐそばに、ひじのところにほうり出されていた。目をさましたはえ[#「はえ」に傍点]は、同じテーブルの上に置きっぱなしになっている、手もつけてない小牛の肉にたかっていた。彼は長いことそれを見つめていたが、やがて、あいている右手で、はえを一ぴきつかまえにかかった。彼は長い間へとへとになるほど骨を折ったが、どうしてもつかまえられなかった。やがてふと、このおもしろい仕事に夢中になっている自分に気がつくと、ぶるっと身ぶるいして立ちあがり、思いきって部屋を出て行った。一分ののちには彼はもう往来に立っていた。
 乳のような濃い霧が、町の上一面にたちこめていた。スヴィドリガイロフはすべっこい、どろだらけの板敷き歩道を、小ネヴァ河のほうへ向けて歩きだした。彼の頭の中には、一夜のうちに水かさの増した小ネヴァの流れや、ペトローフスキイ島や、湿った公園の小道や、濡れた草や、濡れた木立や、灌木《かんぼく》の茂みや、はてはあの例の茂みまで、幻のように浮かぶのであった……彼はいまいましそうな顔をして、何かほかのことを考えようと、家々を見まわしはじめた。通りにはひとりの通行人も、一台のつじ馬車も見えなかった。けばけばしい黄色に塗った木造の家々は、窓のよろい戸をしめたまま、ものうげに、きたならしいかっこうをしていた。寒さと湿気がからだの中までしみ通って、彼は悪寒《おかん》を感じ始めた。ときどき、小店や八百屋《やおや》の看板《かんばん》にぶっつかると、彼はいちいちていねいにそれを読んだ。もう板敷きの歩道はつきて、彼はとある大きな石造の家の前へ来ていた。きたならしい小犬がぶるぶるふるえながら、しっぽをまいて彼の行くてを横ぎった。だれやら死んだように酔っぱらった外套の男が、うつ向きに倒れて、歩道いっぱいに幅をとっている。彼はそれを一瞥《いちべつ》して先へ進んだ。高い火の見やぐらが左手にちらと目にうつった。
『あっ!』と彼は考えた。『これはいい場所だ。ペトローフスキイなんか行くことはありゃしない? すくなくとも、官憲の証人がいるわけだからな……』
 彼はこの新しい思いつきに、ちょっとにやりと笑って、××通りのほうへ曲がった。そこには火の見やぐらのある大きな家があった。しまった大きな門のそばに、灰色の兵隊外套を着てアキレスめいた真鍮《しんちゅう》のかぶとをかぶった小がらな男が、一方の肩で門にもたれながら立っていた。彼はとろんとした目で、近づいて来るスヴィドリガイロフに冷ややかな流し目をあたえた。その顔の上には、あらゆるユダヤ族の顔にひとりの例外もなく不景気に刻みつけられている、気むずかしげな永遠の悲しみが見えていた。スヴィドリガイロフとアキレスのふたりは、しばらく無言のまま互いに相手を見まわしていた。とうとうアキレスは、べつに酔ってもいない男が人の鼻っ先につっ立ったまま、ものもいわずにじっとにらみつけているのが、尋常でないように思われてきた。
「いったいあんた、ここ、なんの用ある?」彼は依然として身動きもしなければ、姿勢を変えようともしないでこう口をきった。
「いや、なんでもないよ、きみ、こんにちは!」とスヴィドリガイロフは答えた。
「ここ場所ない」
「ぼくはね、きみ、これからよその国へ行こうとしてるんだよ」
「よその国へ?」
アメリカへ」
アメリカへ?」
 スヴィドリガイロフは拳銃を取り出して、引き金をあげた。アキレスは眉《まゆ》をつりあげた。
「いったいなにする、ここそんなじょうだん、場所ない!」
「どうして場所でないんだろう?」
「どうしても、場所ない」
「なあに、きみ、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい」
 彼は拳銃を右のこめかみへ押しあてた。
「ああ、ここいけない、ここ場所ない!」アキレスはますます大きくひとみを開きながら、ぴくりとふるえあがった。
 スヴィドリガイロフは引き金をひいた……

     7

 それと同じ日ではあるが、もう晩の六時すぎに、ラスコーリニコフは母と妹の住まいへ近づいていた。それはラズーミヒンが世話をした、例のバカレーエフの持ち家の中の貸し間である。階段の上り口は往来に向いていた。ラスコーリニコフは、はいろうかはいるまいかと思いまどうさまで、いつまでも歩みを控えめにしながら近づいて行った。しかし、彼はどんなことがあっても、けっしてひっかえしはしなかった。決心は固くついていたのである。
『それに、どっちだって同じことだ、ふたりはまだなんにも知らないのだから』と彼は考えた。『そしておれのことは前から変わりもの扱いにしなれてるんだし……』
 彼の身なりは恐ろしいものだった。ひと晩じゅう雨に打たれたために、何もかもよごれて、ほうぼう裂け傷だらけのぼろぼろである。彼の顔は疲労と、悪天候と、肉体の困憊《こんぱい》と、ほとんど一昼夜もつづいた自分自身との闘争のために、ほとんど醜いくらいになっていった。彼は夜っぴて、どことも知らずさまよいつづけたが、少なくも決心だけはついていた。
 彼がノックすると、母親がドアをあけた・ドゥーネチカは家にいなかった。女中までがちょうどこのときるすだった。プリヘーリヤは初めうれしさのあまり、興奮して口もきけなかった。やがて、わが子の手をとって部屋の中へ引っぱって行った。
「ああ、やっと来ておくれだったねえ!」と彼女はうれしさに、どもりどもりいいだした。「ねえ、ロージャ、こんな涙なんかこぼしたり、ばかばかしいまねをするのを怒らないでおくれね。これはわたし泣いてるんじゃなくて笑ってるんだから。お前はわたしが泣いてるとお思いかえ? いいえ、わたしは喜んでいるんだよ。わたしにはどうも、こういうばかげた癖があってね、すぐ涙が出るんだよ。これはね、お前のお父さんがなくなった時からで、なにかというとすぐ泣けるんだよ。まあ、おかけ、お前さぞお疲れだろうね。ちゃんとわかるよ。あらまあ、なんてよごれかただろう」
「ぼくゆうべ、雨の中を歩きまわったからですよ、お母さん……」とラスコーリニコフはいいかけた。
「なに、いいんだよ、いいんだよ!」とプリヘーリヤはわが子をさえぎりながら叫んだ。「お前はわたしが昔からの年よりの癖で、いろんなことを、うるさく尋ねだすかとお思いだろうが、心配しないでおくれ。わたしはわかったんだから。すっかりわかったんだから。わたしはもうこのごろ、こっちのふうをのみこんでしまったよ。それになるほど、ここの人のほうが利口《りこう》だよ。わたしははっきり、がてんがいった――どうしてわたしなんかに、お前の考えることがわかったり、お前にわけを尋ねたりする力があるものかね。お前には、なんだか知らないけれど、いろんな仕事や計画があるだろうし、思想とやらも頭に浮かぶんだろうからね。だもの、何を考えてるかなんて、お前の手を取って小突きまわしたり、そんなことがどうしてできるものかね。わたしはそれでね……ああ、まあ、なんてことだろう! どうしてわたしはこう気ちがいみたいに、あれこれといろんなことをいいだすんだろう……わたしはね、ロージャ、あの雑誌にのったお前の論文はもう三度も読みかえしてるんだよ。ドミートリイ・プロコーフィチが持って来てくだすったのでね。わたしはそれを見ると、ああなるほどと思ったよ。ほんとにわたしはばかだったと、心の中で考えたのさ。あの子はこういうことをしているのだ。これでなぞはとけた! 学者というものは、だれでもこうなのだ。あの子の頭にはいま何か新しい想が浮かんで、あの子はそれを考えているのかもしれない。それだのにわたしは、あの子を苦しめたり、うるさがらせたりしている、とこんなに思ったんだよ。読むには読んでも、そりゃもうわからないことがたくさんある。もっとも、それはあたりまえのことで、わたしなんかにわかってたまるものじゃないよ」
「ちょっと見せてくれませんか、お母さん」
 ラスコーリニコフは新聞を取りあげて、自分の文章にちらと目を走らせた。彼の状態にも境遇にも矛盾《むじゅん》したことながら、自分の書いたものを印刷で初めて見た著者の経験する、あのふしぎな、刺すように甘い気持ちを、彼も同様に感じたのである。それに、二十三という年齢のせいもあった。しかし、それはほんの一瞬間で、二、三行読むと、彼は顔をしかめた。恐ろしい憂愁が心臓をしめつけたのである。この二、三か月間の内部の闘争が、一時にことごとく思いおこされた。嫌悪の念をいだきながら、彼はいまいましそうに論文をテーブルの上へほうり出した。
「でもねえ、ロージャ、わたしがどんなにばかでも、それでもお前が近いうちに、今の学者仲間で、よしんば一ばんえらい人でなくても、えらい人のひとりになれるってことは、ちゃんと見わけがつくよ。それだのにあの人たちは、お前の気が狂ったなんて、よくも考えられたものだね。ほ、ほ、ほ!お前[#「、ほ!お前」はママ]は知らないだろうけれど……でも、あの人たちはそんなことを考えたんだよ! なんの、あんないやしい虫けらみたいな連中に、えらい人の頭がどうしてわかるもんかね! でもドゥーネチカがね、ドゥーネチカまでが、すんでのことでそれをほんとうにするところだったのさ――ほんとになんということだろう! お前のなくなったお父さまもね、二度ばかり雑誌へ原稿をお送りになったことがあるんだよ――初めは詩で(わたしはちゃんと原稿をしまってるから、いつかお前にも見せてあげようね)、二度めのはもうまとまった小説だった(わたしはむりにお父さまにお願いして、それを清書させてもらったんだよ)。それからわたしたちはふたりで、どうかのりますようにと祈ったんだけれど――のらなかったっけ! わたしはね、ロージャ、六日ばかり前までは、お前の身なりや、お前の住まいや、食べているものや、はいて歩くものなどを見て、どんなにつらかったかしれないんだよ。でも、今になってみると、これもやはりわたしがばかだったと、わかったよ。だってお前はその気にさえなれば、今だってなんでも、頭と腕で手に入れることができるんだものね。つまり、お前は今のところ、そんなものがほしくないので、ずっとずっと大きな仕事をしているわけだわね……」
「ドゥーニャは家にいないんですか、お母さん?」
「いないんだよ、ロージャ、このごろあの子はしょっちゅう家をあけて、わたしをひとりぼっちにするんだよ。でも、ありがたいことに、ドミートリイ・プロコーフィチがちょいちょい来てくださってね、わたしの相手をしてくださるんだよ、いつもお前の話が出るが、あの人はお前を好いて、そして尊敬していらっしゃるね、ロージャ。妹のほうは、大してわたしをそまつにするなんて、そういうわけじゃないんだよ。わたしはべつに不足なんかありません。あの子の気性はああだし、わたしの性分はまた別なんだからね。あれには何やら秘密ができたらしいが、わたしはお前たちに隠すことは一つもありません。もっとも、わたしはドゥーニャが十分かしこい人間だってことも知っているし、おまけにわたしやお前を愛していることもよくわかってはいるがね……でも、けっきょく、これがどうなることだか、まるで見当がつかないんだよ。今もね、ロージャ、お前はこうして出かけて来て、わたしを喜ばせておくれだけれど、あの子はこのとおりふらふら出てしまった。帰って来たらわたしそういってやるよ――お前のるすに兄さんが見えたが、いったいお前はどこで暇をつぶしてきたのだい? ってね。でも、ロージャ、あまりわたしをあまやかさないでおくれ。お前の都合がよかったら――寄っておくれ。悪かったら――どうもしかたがない。わたしは待っているよ。だって、なんといっても、お前がわたしを愛してくれるのは、わたしも知っているから、わたしはそれでたくさんだもの。こんなふうにお前の文章を読んだり、みんなからお前のうわさを聞いたりしていると、そのうち、ひょっこり自分でたずねて来てくれる。ね、それよりけっこうなことはないじゃないか! げんに今だってこのとおり、お母さんを慰めに来てくれたんだものね。わたしは自分でもわかるよ……」
 ここまでいうと、プリヘーリヤはふいに泣きだした。
「またわたしったら! どうかわたしを、こんなばかを気にかけないでおくれ! ああ、どうしよう、なんだってわたしは、ぼんやりすわりこんでるんだろう」いきなり席からとびあがりながら、彼女は叫んだ。「ちゃんとコーヒーがあるのに、わたし、お前にごちそうしようともしないでさ! ほんに年よりの身勝手って、方図《ほうず》のないものだね。すぐあげるよ、すぐ!」
「お母さん、うっちゃっといてください、ぼくはすぐ帰りますから。ぼくそんなことで来たんじゃありません。どうかぼくのいうことを聞いてください」
 プリヘーリヤはおずおずとわが子のそばへ寄った。
「お母さん、たとえどんなことが起ころうとも、またぼくのことでどんな話をお聞きになろうとも、またぼくのことで人があなたに何をいっても、お母さんは今と同じようにぼくを愛してくださいますか?」彼は自分の言葉を考えもしなければ、細心に大事をとろうともせず、胸からあふれ出るまま、いきなりこうたずねた。
「ロージャ、ロージャ、お前どうしたの? それに、よくもお前はそんなことがきけるもんだね? だれがお前のことをわたしにかれこれいうものかね? わたしはだれのいうことだって信用しやしないよ。だれがやって来たって、わたしはいきなり追い返してしまうから」
「ぼくはね、お母さん、ぼくがいつもお母さんを愛していたことを、はっきり知っていただくためにやって来たのです。だから、いまぼくたちふたりきりなのがうれしいんです。ドゥーネチカのいないのさえ、かえってうれしいくらいなんです」と彼は前と同じ興奮した調子で、言葉をつづけた。「ぼくはお母さんにざっくばらんにいいに来たんです――たとえ、あなたが不幸におなりになっても、やっぱりあなたのむすこは、自分自身よりもあなたを愛しているということを、承知してください。ぼくが冷酷な人間で、あなたを愛していないなどとお思いになるとしても、それはみんなまちがいです。ぼくがあなたを愛さなくなるようなことは、けっして、けっしてありません……さあ、もうたくさんです。ぼくはこういうふうにして、これから始めなけりゃならないって、そういう気がしたんです……」
 プリヘーリヤは、無言のまま、わが子を胸に抱きしめながら、忍びねに泣いた。
「いったいお前どうしたの、ロージャ、わたしにはわからないんだよ」とうとう彼女計こういった。「わたしはこの間じゅうから、ただお前がわたしたちをうるさがっているのだとばかり思っていたけれど、今こそいろいろのことでわかりました――お前には大きな悲しみがあって、そのためにお前は悩んでいるのです。こんなことをいいだして悪かったね、かんにんしておくれ。わたし、こんなことばかり考えてるものだから、夜もおちおち眠れないんだよ。昨夜はドゥーニャも、ひと晩じゅううなされていた様子で、しじゅうお前のことをいっていたっけ。わたしも何やかや聞きわけはしたものの、いっこう、なんにもわからなかった。今日も朝のうちずっと、死刑でも受けに行く前のようにそわそわして、なにかしら待つような気持ちになっていたんだよ。虫が知らせるようなふうでね。ところが案のじょう、このとおり徴かあった! ロージャ、ロージャ、お前どこへ行くの? どこか旅にでも行くの?」
「旅に行くんですよ」
「わたしもそうだろうと思っていた! わたしだってね、もしそうしたほうがよければ、お前といっしょに行ってもいいんだよ。ドゥーニャだってそうです。あの子はお前を愛していますよ。それはそれは愛していますよ。それからソフィヤ・セミョーノヴナも、なんならいっしょに連れて行っていいよ。わたしは喜んであの人を娘のかわりにしますよ。ドミートリイ・プロコーフィチがいっしょに出立の手つだいをしてくださるから……だが……いったいお前……どこへ行くの?」
「では、さようなら、お母さん」
「え! 今日すぐなの!」と永久にわが子を失おうとでもしているように、彼女は思わず叫んだ。「ぼく、ゆっくりしていられないんです、ぼくは行かなくちゃならない。たいへんな用があるんですから……」
「わたしがいっしょに行ってはいけないの?」
「いや、それよりお母さん、ひざをついてぼくのために祈ってください。あなたのお祈りはきっと届くでしょうから」
「じゃ、お前に十字を切らしておくれ、お前を祝福してあげるから! これでいい、これでいい。ああ、まあ、いったいわたしたちは何をしているのだろう!」
 そうだ、彼はうれしかった、だれも居合わさないで、母とふたりきりでいられたのが、心からうれしかった。この恐ろしい一週間ばかりを通じて、彼の心は初めて一度にやわらげられたような気がした。彼は母の前に身を投げて、その足に接吻《せっぷん》した。ふたりは抱き合って泣いた。彼女もこんどは驚きもしなければ、くどくどと尋ねもしなかった。彼女はもう前から、わが子の身に何か恐ろしいことがもちあがっていて、いまこそ彼にとって恐るべき瞬間が到来したのだ、ということをさとっていた。
「ロージャ、かわいい、かわいいロージャ」と彼女はしゃくりあげながらいった。「今お前がそうしていると、お前の小さい時分そっくりだよ。お前はいつもこんなふうにわたしのそばへ来て、わたしを抱いて接吻しておくれだった。まだお父さまも生きていらして、貧乏で困っていた時分、ただお前だけが、お前がいっしょにいてくれるということだけが、わたしたちを慰めてくれたものです。それから、お父さまを見送ってからというものは――何度いまのように抱き合って、お墓のそばで泣いたか知れやしない。わたしが前からこんなに泣いてばかりいるのは、親心で災難のくるのがわかったからだよ。わたしはあの晩、覚えておいでだろう、わたしたちがこっちへ着くとすぐ、初めてお前を見た時に、お前の目つき一つで何もかも察したんだよ。あの時わたしの心臓は思わずどきっとしたものだ。ところが、今日もお前にドアをあけてあげて、ちょっとひと目見るが早いか、いよいよ悲しい時がきたらしい、とそう思ったんだよ。ロージャ、ロージャ、でもお前は今すぐ行くんじゃないだろうね?」
「いいえ」
「お前また来ておくれだろうね!」
「ええ……来ます」
「ロージャ、腹をたてないでおくれ、わたしはべつに、くどくどきこうとしやしないから。そんなことができないのは、よく承知しているんだから。でも、ちょっと、たったひと言でいいからいっておくれ。お前は、どこか遠いところへ行くの?」
「非常に遠くです」
「すると、そこに勤め口とか、出世の道とか、何かそんなふうのものでもあるの?」
「何事も神さまのおぼしめししだいです……ただ、ぼくのために祈ってください……」
 ラスコーリニコフは戸口へ向かって歩きだした。けれど、母は彼にしがみついて、絶望のまなざしで彼の目を見つめた。彼女の顔は恐怖にゆがんでいた。「もうたくさんですよ、お母さん」ここへ来る気になったのを深く心に悔みながら、ラスコーリニコフはいった。
「一生の別れじゃないだろうね? まさか一生の別れじゃないだろうね? ね、お前来ておくれだろうね、明日にも来ておくれだろうね?」
「来ますよ、来ますよ、さようなら」
 彼はとうとう振りきって出て行った。
 それはさわやかな、はればれした。暖かい夕暮れだった。天気はもう朝からもちなおしていた。ラスコーリニコフは自分の住まいをさして歩きだした。彼は急いだ。いっさいを日没までにかたづけてしまいたかったのである。で、それまではだれにも会いたくなかった。自分の部屋へあがって行く途中、ナスターシヤがサモワールのそばを離れて、じっと目をすえながら、一生けんめいに自分を見送っているのに、ふと気がついた。『こりゃだれか、おれのところへ来ているのじゃないかな?』と彼は考えた。嫌悪《けんお》の念とともに、ポルフィーリイの顔がちらと頭にうつった。が、自分の部屋へのぼりついて、ドアをあけると、ドゥーネチカの姿が目にはいった。彼女はたったひとりぼっちで、深いもの思いに沈みながら腰かけていた。もう前から待っていたらしい。彼はしきいの上に立ちどまった。彼女はぎくっとして、長いすから腰をもちあげ、彼の前に棒立ちになった。じっと兄の顔にそそがれた彼女の視線は恐怖の情と、かぎりない悲しみを現わしていた。このまなざしだけで、彼はたちまち妹が何もかも知っているのをさとった。
「どうだろう、お前のところへ、はいって行ってもいいかい、それとも出て行こうか?」と彼は疑りぶかい調子でたずねた。
「わたしね、きょう一日ソフィヤ・セミョーノヴナのところにいましたの。わたしたちはふたりで、兄さんを待ってたんですのよ。兄さんがきっとあすこへいらっしゃると思ったもんですから」
 ラスコーリニコフは部屋へはいって、ぐったりいすに腰をおろした。
「ぼくはなんだか精《せい》がないんだよ、ドゥーニャ。もうすっかりへとへとになったんだ。じつはちょっと今だけでも十分冷静に、落ちついていたいと思うんだけれど」
 彼は疑わしげな視線をちらと妹に投げた。
「いったい兄さんはひと晩じゅうどこにいらしたの?」
「よく覚えていない。ねえ、ドゥーニャ、ぼくはいよいよ決心しようと思って、幾度も幾度もネヴァ河の付近を歩きまわったんだ。それだけは覚えている。ぼくはそれで、いっさいの片をつけようと思ったんだが……しかし、思いきれなかった……」またもや疑わしげにドゥーニャを見ながら、彼はささやくようにいった。
「まあ、よかった! わたしたちもつまり、それを心配したのよ、わたしもソフィヤ・セミョーノヴナも! してみると兄さんはまだ生を信じてらっしゃるのね。まあ、よかった、ほんとによかった!」
 ラスコーリニコフは苦い笑いをもらした。
「ぼくは信じはしなかった。だが、今お母さんと抱き合って、いっしょに泣いたよ。ぼくは信じてはいないが、お母さんにぼくのことを祈ってくださいと頼んできた。これはいったい、どうなっているのか、わけがわからないよ、ドゥーネチカ。ぼくもそのことになると、まるで見当がたたない」
「お母さんのところへいらしたの? そして、お母さんにお話しなすったの?」ドゥーニャはぎょっとして叫んだ。「ほんとに兄さんは思いきってお話しになったの?」
「いや、話しはしなかった……言葉では。けれど、お母さんはだいぶもう察しがついたよ、お母さんはね、夜中にお前のいったうわ言を聞いたんだよ、お母さんはもう半分くらいわかっていると思うね。ぼくが行ったのは、よくなかったかもしれない。なんのために行ったんだか、それさえわからないほどだ。ぼくは下劣《げれつ》な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間ですって、でも、苦しみを受けに行く覚悟がついてらっしゃるんでしょう! 兄さんはいらっしゃるんでしょう?」
「行くよ。今すぐ。ぼくはこの恥辱《ちじょく》をのがれるために、身を投げようと思ったんだよ、ドゥーニャ。しかし、もう水の上にかがみながら立ってから、こう思ったんだ。もしおれが今まで自分を強者と思っていたんなら、今だってこんな恥辱を恐れるものかってね」と彼は先まわりしながらいった。「しかし、これは傲慢《ごうまん》というものだろうか、ドゥーニャ?」
「傲慢だわ、ロージャ」
 彼の銷沈《しょうちん》した目の中に、火花がひらめいたように感じられた。自分がまだ傲慢《ごうまん》なのが、愉快だとでもいうようなぐあいだった。
「だが、ドゥーニャ、お前は、ぼくが単にこれだけを恐れたのだ、などとは思いはしないかい?」と醜い微笑を浮かべて、妹の顔をのぞきこみながら彼はたずねた。
「ああ、ロージャ、そんなことよして!」とドゥーニャは叫んだ。
 二分ばかり沈黙がつづいた。彼はうなだれて腰かけたまま、じっと床を見つめていた。ドゥーネチカはテーブルの反対側に立って、悩ましげに兄を見つめていた。ふいに彼は立ちあがった。
「もう遅い、そろそろ時刻だ。ぼくはこれから自首しに行く。だが、いったい、なんのために自首しに行くのか、自分でもわからない」
 大粒な涙がはらはらと、彼女のほおをつたって流れた。
「ドゥーニャ、お前は泣いてるね。では、お前、ぼくに手が伸ばせるね!」
「兄さんはそんなことまでお疑いになったの?」
 彼女はしっかり兄を抱いた。
「兄さんはこれから、苦しみを受けにいらっしゃるんですもの、もう半分くらい、罪を洗い落としていらっしゃるんじゃなくって?」兄を抱きしめて接吻《せっぷん》しながら、彼女はこう叫んだ。
「罪? いったいどんな罪だい?」急に何やら思いがけない興奮のさまで、彼は叫んだ。「それは、ぼくがあのけがらわしい有害なしらみ[#「しらみ」に傍点]を――だれの役にもたたない金貸しばばあを殺したことなのかい。あんな貧乏人の汁を吸っていたばばあを殺すのは、かえって四十の罪が許されるくらいだ、それだのにこれが罪なのかい? ぼくは罪なんてことは考えない。だから、それを洗い落とそうとも思わないよ。それをなんだって四方八方から『罪だ、罪だ!』とつっつくんだろう。今になって、こんな役にもたたぬ恥辱《ちじょく》を受けに行こうと決心した今になって、ぼくはやっと初めて自分の小胆《しょうたん》さと、愚かさかげんがはっきりわかったよ! ぼくはただ卑屈《ひくつ》で無能なために決心したのだ。それからことによったら、あの……ポルフィーリイがすすめたように、自首の有利ということのためかもしれない……」
「兄さん、兄さん、あなた何をおっしゃるの! だって、兄さんは血を流したんじゃありませんか!」とドゥーニャは絶望したように叫んだ。
「すべての人が流している血かい!」彼はほとんど前後を忘れたような調子で言葉じりを取った。「世間で滝のように流されている血かい、今まで絶えまなく流れていた血かい? みんながシャンパンみたいに流している血かい? おお、よく流したといって、下手人《げしゅにん》にジュピターの神殿で月桂冠《げっけいかん》を授け、後には人類の恩人よばわりするその血かい? お前ももう少し目をすえて、しっかり見わけるがいい! ぼくは人類のために善を望んだのだ。またじっさい、幾百幾干の善を行なったかもしれないのだ。ところが結果は、こんな愚劣なこと――いや、愚劣ではない、ただ単に拙劣なこと一つに終わってしまった。だって、この思想は全体的にみて、今この失敗が明瞭《めいりょう》になってから考えられるように、けっしてそれほど愚劣なものじゃないからね……(どんなことでも、失敗すると愚劣にみえるものだよ!)この愚劣な行為で、ぼくは自分を独立|不羈《ふき》な立場において、生活の第一歩を踏み出し、資金をえようと思ったのだ。そうすれば、それから先は何もかも、比較上はかるべからざる利益によって埋め合わせがつくと考えたのだ……ところが、ぼくは、ぼくは第一歩さえ持ちこたえることができなかった。それはつまり、ぼくが卑劣漢《ひれつかん》だからだ! 問題はすべてこの点にあるんだ! が、とにかく、ぼくはお前たちの見かたは取りゃしないよ。もしあれが成功してたら、ぼくは名誉の冠を受けていたに相違ないんだが、今はもうわな[#「わな」に傍点]にかかってしまった!」
「だって、それは見当ちがいよ、まるっきり見当ちがいよ!兄さ[#「いよ!兄さ」はママ]ん、それはいったい、なにをおっしゃるの!」
「ははあ! それじゃ形式が違うというんだね、審美的に気持ちのいい形式じゃないというんだね! だが、ぼくはまるっきり、がてんがいかないよ――大ぜいの人間を爆弾や、正規の包囲攻撃でやっつけるのがより多く尊敬すべき形式なんだろうか? 審美的な恐怖は、無力を示す第一の徴候《ちょうこう》だよ!……ぼくは一度も、まったくただの一度も、今ほどこれをはっきり意識したことはない。そして、今までにもまして、いっそう自分の犯罪理由を解しないよ! ぼくは一度も、まったくただの一度も、今ほど強くなったことはない、今ほど確信を持ったことはない!………」
 彼の青ざめた、やつれはてた顔には、さっとくれないの色さえさしてきた。しかし、この最後の叫びを発しながらも、彼はふとドゥーニャの視線にぶっつかった。そして、このまなざしの中に、兄を思う深い深い苦悩を認め、思わずはっとわれに返った。彼はなんといっても、このふたりの哀れな女たちを不幸なものにしたのだと感じた。なんといっても、やはり自分が原因なのだ……
「ドゥーニャ、かわいいドゥーニャ! もし、ぼくに罪があったら、どうか許しておくれ(もっとも、もし罪があるとしたら、許すことなんかできないけれど)。じゃ、さようなら!もう[#「なら!もう」はママ]議論はよそう! 出かける時だ、もう過ぎてるくらいだ。ぼくのあとからついて来ないでおくれ、後生だから。ぼくはまだ寄るところがあるんだから……お前はこれからすぐ帰って、お母さんのそばについてておくれ。これはお前に、おりいってたのむ! これはぼくがお前にたのむ一ばん最後の、一ばん大きなお願いだ。お母さんのそばを一刻も離れないようにしておくれ。ぼくはお母さんを不安の中に取り残して来たんだ。それはお母さんに、とてもたえきれそうもないほどの不安なのだ。お母さんは死んでしまわなければ、気が狂うにきまってる。そばについてあげておくれ、ラズーミヒンが力になってくれるから。あの男にはぼくから話しておいた……ぼくのために泣くのはよしておくれ。ぼくはたとえ人殺しでも、生涯《しょうがい》男らしい潔白な人間でいるように努力するから。ことによったら、いつかぼくの名を聞くことがあるかもしれないが、ぼくはお前のつらよごしになるようなことはしない、まあ、見ていてくれ、いまにそれを証明してみせるから……が、今はとうぶん、さよならだ」兄のいった最後の数語と約束を聞いたとき、またもやドゥーニャの目に現われた一種異様な表情を見てとって、彼はいそいでこう言葉を結んだ。「なんだってお前はそんなに泣くの? 泣かないでおくれ、泣かないで。まだこれきり別れてしまうわけでもないんだから!………ああ、そうだ、ちょっと待っておくれ、ぼくは忘れていた!………」
 彼はテーブルに近より、ほこりまみれになった一冊の厚い書物を取りあげて、ぱたりと開くと、象牙《ぞうげ》に水彩で描いた小さな肖像をページの間から抜き出した。それは、例の熱病で死んだ下宿のお主婦《かみ》の娘で、もと彼の許嫁《いいなずけ》だった女――あの修道院へ行きたがっていた風変わりな娘の肖像だった。彼はちょっとの間、その表情にとんだ病的な顔を見つめていたが、やがて、それに接吻《せっぷん》して、ドゥーネチカにわたした。
「じつはね、ぼくはこの女を相手に、たびたびあのこと[#「あのこと」に傍点]を話しあったんだよ。ただこの女ひとりだけと」と彼は考えぶかそうにいった。「ぼくはこの女の胸へ、後になって、ああも醜い実現を見たことを、いろいろとつたえたものだ。だが、心配しなくってもいいよ」と彼はドゥーニャのほうへふり向いた。「この女もお前と同じように同意はしなかったよ。だからぼくも、あの女が今いないのを喜んでいる。たいせつなことは、たいせつなことは、すべてがこれから新しく始まって、まず二つに屈折《くっせつ》するということだ」急にまたしても自分の憂悶《ゆうもん》のほうへ帰って行きながら、彼はこう叫んだ。「何もかも、何もかもみんな。だが、ぼくはこんなことにたいして、用意ができてるだろうか! 自分でこんなことを望んでいるだろうか? 人は、これがぼくの試練に必要だという! しかし、なんのために、なんのために、この無意味な試練が必要なんだ? そんなものがいったい、なんになるんだ? ぼくが二十年の流刑を勤めあげて、老いぼれのよぼよぼになってから、苦痛にしいたげられて腑《ふ》ぬけのようになってから、やっとそれを自覚したほうが、いま意識しているよりもいいのだろうか? もしそうだったら、ぼくはなんのために生きていくんだ? どうしていまさら、そんな生きかたに同意できよう? ああ、ぼくは今日の夜明けに、ネヴァの河ぶちに立っていたとき、おれは卑劣漢だなとさとったよ!」
 ふたりはとうとう外へ出た。ドゥーニャは苦しかったが、でも彼女は、兄を愛していたのである! 彼女は歩きだした。が、五十歩ばかり離れてから、もう一度彼を見ようと思ってふりかえった。彼の姿はまだ見えた。けれど曲がり角まで行ったとき、彼のほうでもふりかえった。ふたりは最後の目を見かわした。しかし、妹が自分を見ているのに気がつくと、彼はじれったそうに、というより、むしろいまいましげに、行けというように片手を振って見せた。そして、自分はいきなり角を曲がってしまった。
『おれはいじわるだ、それは自分でもわかる』すぐ一分もたったとき、ドゥーニャにいまいましそうな身ぶりなど見せたのを恥じながら、彼は心に思った。『だが、どうしてあれたちはおれをこんなに愛してくれるのだろう、おれにそれだけの価値もないのに! ああ、もしおれがひとりぼっちで、だれひとり愛してくれるものもなく、また自身もけっして人を愛さないとしたら、その時はこんなこと[#「こんなこと」に傍点]などいっさい起こらなかったろう! だが、はたして今後十五年か二十年の間、おれの心がすっかり折れてしまって、ふた言めには自分を強盗よばわりしながら、みんなの前でうやうやしく頭をさげたり、めそめそ泣いたりするようになるだろうか? こりゃおもしろい問題だぞ。いや、きっとそうなる、そうなるにちがいない! つまりそれが目的で、やつらは今おれを流刑にしようとしてるんだ、それがやつらに必要なんだ…………げんにやつらはみな町を行ったり来たりしているが、やつらはひとりひとり例外なしに、生まれながらの卑劣漢かどろぼうだ。いや、それよりもっと悪い――白痴《はくち》だ! ところが、もしおれが流刑をゆるされたら、やつらはみんな公憤をおこして、気ちがいのように騒ぐだろう! ああ、おれはやつらがどれもこれも憎くて憎くてたまらない!』
 彼は深く考えこんだ。『いったいどういう径路《けいろ》をとって、おれがいよいよやつらすべての前に、理くつも何もなく屈従してしまうなんて、そんなことが起こりうるのだろう! 確信をもって屈従するなんてことが! だがしかし、どうして絶対にないといえるか? もちろん、そうなるに決まっている。なにしろ二十年間の絶えまない圧迫が、徹底的におれをうちのめしてしまわないはずがない? 雨だれだって石に穴をあけるじゃないか。それならなぜ、いったいなぜ、そんなにしてまで生きていかなくちゃならんのだろう? それがすっかり本にでも書かれているように、かならずちゃんとそうなって、それ以外になりようがないと承知しながら、なぜ今そのほうへ進んでいるのだろう!』
 彼は昨日の晩から、おそらくもう百ぺんくらいも、この問いをみずから発していたのだが、それでもやはりまだ足を止めなかった。

      8

 彼がソーニャの部屋へはいった時は、もうたそがれになりかかっていた。ソーニャは一日じゅう恐ろしい興奮の中に彼を待ち通したのである。彼女はドゥーニャといっしょに待っていた。ドゥーニャは、『ソーニャがこのことを知っている』というスヴィドリガイロフの昨日の言葉を思い出して、もう朝から彼女をたずねて行ったのである。ふたりの女のこまごました会話や、涙。それから、ふたりがどれだけへだてのない仲になったか? というようなことは、いまさらここに述べたてまい。ドゥーニャはこの会見によって、少なくとも兄はひとりではない、という一つの慰めをえた。兄は彼女ソーニャのところへ、まず第一ばんに懺悔《ざんげ》に来た。してみると、兄は人間が必要になったとき、彼女の中に人間を求めたのである。彼女は運命のみちびくところへ、どこまでも兄にしたがって行くだろう。彼女は何もきかなかったけれど、これがそうなるにちがいないのを知りぬいていた。彼女はソーニャにたいして、一種|敬虔《けいけん》ともいうべき態度を見せたので、はじめはその敬虔の情で相手を当惑させたくらいである。ソーニャは危うく泣きださないばかりだった。彼女はそれどころか、自分という人間が、ドゥーニャを見あげるだけの値うちもないように考えていたのである。ラスコーリニコフの部屋で初めて会ったとき、ドゥーニャが非常な注意ぶかい尊敬にみちた態度で会釈《えしゃく》をしたその瞬間から、彼女の美しいおもかげは、ソーニャの生涯を通じてもっとも美しい、およびがたい幻影の一つとして、永久に彼女の心に残ったのである。
 そのうちドゥーネチカは、とうとうしんぼうしきれず、兄の住まいで彼を待つために、ソーニャを残して立ち去った。兄が先にそちらへ行くような気がして、しようがなかったのである。ひとりになったとき、ソーニャは急に彼がほんとうに自殺したのではないかと、心配でたまらなくなってきた。そのことはドゥーニャも同様に恐れていた。けれど、ふたりは一日じゅう、ありったけの理由を数えあげて、そんなことはあるはずがないと、お互いに一生けんめいうち消しあっていた。で、ふたりいっしょにいる間は、いくらか気が落ちついていた。けれど、今こうして別れてみると、ふたりともただこのことばかり考え始めた。ソーニャは昨日スヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフには二つしかとるべき道がない――ウラジーミル街道か、さもなくば、といった言葉を思い出した。そのうえソーニャは彼の虚栄心が強く、傲慢《ごうまん》で、自尊心がさかんで、無信者なのをよく知っていた。
『いったいただ小胆で、死ぬのが恐ろしいというだけのことが、あの人を無理に生きさせる力を持っているだろうか!』彼女はついに絶望の気持ちでこう考えた。
 そのうち、太陽はいつしか西に沈み始めた。彼女はうれわしげに窓の前にたたずんで、じっと窓外を見つめた――けれどこの窓からは、ただ隣家の大きな荒壁が見えるばかりだった。いよいよ彼女が、不幸な男の死を完全に信じこんだとき――当人が部屋へはいって来たのである。
 よろこびの叫びが思わず彼女の胸からもれた。しかし、じっと彼の顔を見やったとき、彼女はたちまちさっと青くなった。
「ああ、そうなんだ!」とラスコーリニコフは苦笑しながらいった。「ぼくは、お前の十字架をもらいに来たんだよ。ソーニャ、お前は自分でぼくに、四つ汢へ行けといったじゃないか。それだのに今、いよいよ実行というだんになると、急におじけがついたのかい?」
 ソーニャは愕然《がくぜん》として彼を見やった。彼女の耳にはその調子が変に聞こえたのである。冷たい戦慄《せんりつ》が彼女の背筋を流れた。しかし、すぐ次の瞬間には、この調子もこの言葉もみな付焼刃《つけやきば》なのだと察した。彼は彼女と話すのにも、なんだかすみのほうばかり見ていて、彼女の顔をまともにながめるのを、避けるようにしていた。
「ぼくはね、ソーニャ、どうもそうしたほうが得《とく》らしいと考えたんだよ。それには、一つの事情があって……いや、話せば長いことだし、また話したってしようがない。ただね、何がぼくのかんにさわるかといえば、ほかでもない! あの愚劣な畜生づらをした連中が、たちまちぼくをとり巻いて、目を皿《さら》のようにして、まともに人の顔をじろじろ見ながら、愚劣な質問をもちかけて、それに答弁をしいたり――うしろ指さしたりするかと思うと……それがいまいましいんだ。ちぇっ! ぼくはね、ポルフィーリイのところへは行かないよ。あいつにはもうあきあきしちゃった。ぼくはいっそ仲よしの火薬中尉のところへ行く。さぞびっくりすることだろうな。それこそまた一種の効果があろうというものだ。だが、もっと冷静でなくちゃならない。近ごろぼくはあまりにかん[#「かん」に傍点]が強くなりすぎたよ。お前はほんとにしないだろうが、今もぼくは危うく拳固《げんこ》を振りあげて、妹を脅かしそうにしたんだよ。それも、ただちょっと妹がおなごりに、ぼくを見ようとしてふりかえったからにすぎないのさ。じつに下劣きわまる――なんという見さげはてた気持ちだ! ああ、ぼくもこんなにまでなってしまったか! さあ、こんなことをいったってしようがない、十字架はどこにある?」
 彼はまるで心もそらの様子であった。一つところに一分と立っていることもできなければ、一つのものに注意を集中することもできなかった。彼の想念は互いに追っかけあったり、飛び越しあったりしていた。彼は夢中にしゃべり始めた。その手はかすかにふるえていた。
 ソーニャは無言のまま、箱の中から糸杉のと真鍮《しんちゅう》のと、二つの十字架を取り出した。そして自分も十字を切り、彼にも十字を切ってやった後、その胸へ糸杉のほうをかけてやった。
「これはつまり、ぼくが十字架の苦しみを背負うというシンボルだね、へ、ヘ! まるでぼくが今までに、苦しみかたがたりなかった、とでもいうようだね! 糸杉のは、つまり民間に行なわれるものなんだね。そして真鍮のほうはリザヴェータので、それを自分で取るんだね――どれ見せてくれ! なるほど、これがあの女の胸にあったんだな……あの時? ぼくはこれと同じような十字架を二つ知ってる、銀のと肌守りの聖像と。ぼくはそれをあの時、ばばあの胸に投げつけて来た。いっそぼくは今あれでもかけるとよかったんだがなあ、まったく、あれをかけるとよかったんだ……だが、ぼくはでたらめばかりいって、これじゃかんじんの用を忘れてしまう。ぼくはなんだかぼんやりしている!………じつはねえ、ソーニャ、ぼくはただ、お前に予告しようと思って、お前に知っててもらおうと思って、つまりそのために来たんだよ……まあ、それっきりだ……ただそれだけのために来たのさ(ふん、だが、もう少し話すことがあるような気がしてたんだがなあ)。だって、お前は自分でもぼくに行かせたかったんじゃないか。だからさ、ぼくはこれから監獄《かんごく》ずまいをするんだ。これでお前の望みも実現されるわけだよ。それだのに、いったいお前はなにを泣くんだい? お前までも? よしてくれ、たくさんだ。ああ、そういうことが、ぼくにとってどんなにつらいと思う?」
 とはいえ、ある感情が彼の心中に生まれ出た。彼女を見ていると、彼の心臓はしめつけられるようであった。『この女は、この女はいったい、なんだろう?』と彼は心の中で考えた。『この女にとって、おれは何者なんだ? なんだってこの女は泣いているのだ。なんのためにこの女は、母やドゥーニャと同じようにおれをかばおうとするのだ? おれのためにはいい乳母《うば》になるだろうよ!』
「せめてたった一度でも十字を切って、お祈りをしてくださいまし」おどおどしたふるえ声でソーニャは願うようにいった。
「ああ、いいとも、そんなことならいくらでも、お前の好きなだけやるよ! それもほんとに心からだよ、ソーニャ、心からだよ……」
 とはいえ、彼は何かほかのことが話したかったのである。
 彼は幾度か十字を切った。ソーニャはショールを取って、それを頭にかぶった。それは緑色のドラデダームのショールだった、おそらくいつぞやマルメラードフが話した、例の『家族用』のものらしい。ラスコーリニコフの頭には、ふとこうした想念がちらとひらめいたが、べつに尋ねもしなかった。じっさい、彼はもう自分でも、自分が恐ろしくぼんやりして、なんだか見ぐるしいほどそわそわしているのに、気がつきかかっていたのである。彼はそれにぎょっとした。と同時に、ソーニャがいっしょに出かけようとしていることも、思いがけなく彼の心を打った。
「お前どうするんだ! どこへ行くの? よしてくれ、よしてくれ! ぼくはひとりで行く」と彼は狭量《きょうりょう》ないまいましさを覚え、ほとんど腹だたしげにこう叫ぶと、戸口のほうへ足を向けた。「それに、なんだって、そんなおともがいるんだ!」と彼は出て行きながらつぶやいた。
 ソーニャは部屋のまん中に取り残された。彼は別れを告げようとさえしなかった。もう彼女のことさえ忘れていた。ただ毒々しい反抗的な疑惑が、心の中に煮えくりかえっていたのである。
『いったい、これでいいのだろうか、何もかもこれでいいのだろうか?』彼は階段をおりながら、またしてもそう考えた。『じっさいもう一度立ちどまって、万事をやり直すわけにいかないのだろうか……そして、自訴しないですますわけにいかないだろうか?』
 しかし、それでも彼は歩いて行った。と、ふいに彼ははっきりと、何も自分に問いを発する必要はないと感じた。通りへ出たとき、彼はソーニャに別れを告げなかったのを思い出した。彼女は彼の一喝《いっかつ》に身動きもなしえず、例の緑色のショールをかぶったまま、部屋のまん中に取り残された。こう思うと、彼は一瞬間、そこに立ちどまった。すると同時に、ふとある想念がまざまざと彼の心を照らした――それはちょうど、彼を底の底まで驚かそうと待ちかまえてでもいたようなふうであった。
『いったい、おれは今なんのために、なんの用であの女のとこへ行ったのだろう? おれはあれに、用があって来たといった、いったいどんな用なんだ? なんの用もありゃしなかったんだ! これから行くとことわるためか? いったいそれがなんだろう! そんな必要がどこにあるのだ! それとも、おれはあの女を愛してでもいるのだろうか? だって、そんなことはないじゃないか? そんなことはないはずだ!げんに今もあの女を、犬のように追っぱらったじゃないか。では、ほんとうにあの女から十字架を、もらわねばならぬ必要があったのだろうか? ああ、どこまでおれは堕落《だらく》したものだろう! いや、おれはあの女の涙がほしかったのだ!おれ[#「のだ!おれ」はママ]はあの女のびっくりする様子が見たかったのだ! あの女の心が痛み苦しむところが見たかったのだ! なんでもいい、すがりついて、時間が延ばしたかったのだ、人が見たかったのだ! ああ、おれはよくも自分に望みをかけようとしたものだ! よくも、あんなうぬぼれが持てたものだ! おれは乞食《こじき》だ、おれはやくざな卑劣漢《ひれつかん》だ、卑劣漢だ!』
 彼は掘り割の河岸通りを歩いていた。もう歩くところはいくらも残っていなかった。けれど、橋まで行き着くと、彼はしばらく立ちどまった。と、ふいにわきへそれて橋を渡り、センナヤ広場のほうへ歩いて行った。
 彼はむさぼるように左右を見まわして、一つ一つのものに緊張した視線を向けたが、何ものにも注意を集中することができなかった。何もかもすべり抜けるのであった。『いまに一週開かひと月たったら、おれはあの囚人《しゅうじん》馬車に乗せられて、この橋を渡り、どこかへ連れられて行くのだろう。その時おれはどんなふうにこの掘割りをながめるだろう――これを覚えておきたいものだ!』こういう考えが彼の頭にひらめいた。『ほら、あの看板《かんばん》にしても、その時おれはあの字をどんな気持ちで読むだろう? ああ、あすこに「会社」と書いてある。ところで、あのAを、Aという宇を覚えておいて、一か月後にあのAの字を見たら、その時おれはどんな気持ちで見るだろう? その時おれはいったい、なんと感じるだろう。何を考えるだろう?………だが、こんなことはみな、じつに下劣なものに相違ない――今のおれのこうした心配は! もちろん、これはみんな興味のあることに相違ない……一風変わったものとして……(は、は、は! いったいおれは何を考えているのだろう!)おれは子供になってしまった。おれは自分で自分にからいばりして見せているのだ。ふん、なんのために、おれは自分で自分を恥じてるんだろう? ちぇっ、やたらにみんなぶっつかりやがる! ほら、いま突きあたったあの太っちょは、きっとドイツ人にちがいない、いったいだれに突きあたったのか知ってるだろうか? それから、子供を連れた女房が物ごいをしてるが、あの女、おれを自分より幸福だと思ってるからおもしろいて! どうだろう、ひとつおもしろ半分に施しをしてみたら。や、ポケットにまだ五コペイカ残っているぞ、どこから出て来たのだろう? さあ、さあ……お取り、おっかさん!』
「神さまのご守護がありますように!」こういう女|乞食《こじき》の泣くような声が聞こえた。
 センナヤヘはいった。彼は、人ごみにまじるのが不愉快だった。たまらなく不愉快だったけれど、彼はわざと人のたくさん見えるほうへ進んで行った。彼はたったひとりでいるためには、この世のあらゆるものを投げ出したいくらいだったが、しかし、もう一分間もひとりでいられないのを、彼は自分でも感じていた。人ごみの中で、ひとりの酔漢《よいどれ》が醜態を演じていた。なんだかしきりに踊りたがっていたが、のべつ横のほうへ倒れかかってばかりいるのだ。群衆が男をとり巻いた。ラスコーリニコフは人々を押し分けて、しばらく酔漢をながめていたが、ふいに短い、ひっちぎったような笑い声を立てた。しかし一分もたつと、彼はもうそんなことなど忘れてしまい、げんにその男を見ていながら、目にはいらないほどであった。とうとう彼は自分が今どこにいるかさえ覚えないで、そこを離れた。が、広場のまん中まで行ったとき、とつぜん彼の内部にある衝動《しょうどう》がおこった。ある感じが一時に彼を領して、身心の全幅《ぜんぷく》をとらえつくした。
 彼は急にソーニャの言葉を思い出したのである「四つ辻へ行って、みんなにおじぎをして地面へ接吻《せっぷん》なさい。だって、あなたは大地にたいしても罪を犯しなすったんですもの。そして、大きな声で世間の人みんなに、『わたしは人殺しです!』とおっしゃい」この言葉を思い出すと、彼は全身をわなわなとふるわせ始めた。この日ごろ、ことにこの四、五時間の、出口もないような悩ましさと不安は、すっかり彼を圧倒しつくしたので、彼はこの新しい、充実した渾然《こんぜん》たる感情の可能性へ飛び込んで行った。それは一種の発作のように、とつじょとして彼を襲い、彼の心の中で一つの火花をなして燃えあがり、たちまち火災のように、彼の全幅をつかんだのである。そのせつな、彼の内部にあるいっさいが解きほぐれて、涙がはらはらとほとばしり出た。彼は立っていたままその場も動かず、地面へどうとうち倒れた……
 彼は広場のまん中にひざをついて、土の面《おもて》に頭をかがめ、歓喜と幸福を感じながら、そのきたない土に接吻した。彼は立ちあがって、もう一度身をかがめた。
「どうだ、酔いくらいやがって!」と彼のそばにいるひとりの若者がいった。
 どっと笑い声がおこった。
「こりゃエルサレムへ行くんだよ、皆の衆。子供たちや、生まれ故郷に別れを告げて、世間の人たちにあいさつしてるんだよ。サンクト・ペテルブルグの都と、その地面に接吻しているんだ」と町人の中でだれか一杯きげんらしいのが、こういいたした。
「まだなま若い男だぜ!」と、もうひとりが口をはさんだ。
「ただの平民じゃないよ!」と、だれかがもったいぶった声でいった。
「いまどき、だれが平民でだれが士族か、そんな見わけがつくもんか」
 すべてこうした叫びや話し声が、ラスコーリニコフの気持ちをおさえつけた。もう舌の先まで出かかっていた『わたしは人を殺しました』という言葉も、そのまま消えてしまった。とはいえ、彼は落ちつきはらって、こうした叫び声を聞き流しながら、あたりを見むきもせずに横町を通りぬけ、まっすぐに警察をさして歩きだした。途中、ある一つの幻がちらと目にうつったが、彼はべつに驚きもしなかった。それはもうそうなければならぬと、予感していたのである。彼がセンナヤで二度目に地面へ身をかがめた時、ふと左のほうをふりむいた拍子に、五十歩ばかりへだてたところに、ソーニャの姿を認めたのである。彼女は広場にある木造バラックの陰に、彼の目にかからぬよう身をひそめていた。してみると、彼女はずっとしじゅう、彼の悲しい歩みにしたがっていたのである! ラスコーリニコフはこの瞬間、今こそソーニャが永久に自分を離れることなく、運命がどこへ彼をみちびいて行こうと、世界のはてまでも、ついて来るにちがいないと、はっきり直感し、了解したのである。彼の心は煮えかえるようであった……けれど、もうのっぴきならぬ場所にたどり着いていた……
 彼はかなり元気よく構内へはいって行った。三階までのぼらなければならなかった。『まだのぼって行くまがちょっとあるな』と彼は考えた。概して、運命的な瞬間はまだ遠くかなたにあって、だいぶ時間が残っている、まだいろいろなことを考えなおすことができる、というような気がしていた。
 またしても螺旋形《らせんけい》の階段は、依然としてほこりだらけで、依然として何かのから[#「から」に傍点]がごろごろしていた。またしても各アパートのドアがあけ放しになってい、またしてもほうぼうの台所からは、依然たる炭気と臭気がもれてくる。ラスコーリニコフはあのとき以来、ここへ来るのは初めてだった。彼の足は麻痺《まひ》して、がくがくとひざがしらが曲がったけれど、それでも歩きつづけた。彼は身なりを正して、人間らしく[#「人間らしく」に傍点]はいって行くために、ひと息入れようと、わずかのあいだ立ちどまった。『だがいったい、なんのためだ? どういうつもりだ?』自分の動作の意味を考えてみて、とつぜん彼は考えた。『もうどうせこの杯を飲みほさなくちゃならんとすれば、要するに同じことじゃないか? 見ぐるしければ見ぐるしいほど、けっきょく、かえっていいのだ』この瞬間、彼の想像のうちに、火薬中尉イリヤー・ペトローヴィチの姿がちらとうつった。『いったい、ほんとうにあの男のところへ行ったものだろうか? ほかの人じゃいけないのか? ニコジーム・フォミッチ(署長)じゃいけないだろうか? すぐにひっ返して。まっすぐ署長の家へ行こう? すくなくとも、家庭的にことがすむわけだ……いや、いや! 火薬中尉のところがいい、火薬中尉のところが! どうせ飲むなら、何もかも一度に飲みほしてしまえ……」
 総身《そうみ》にさっと寒けを感じながら、ほとんどおのれを意識しないほどの気持ちで、彼は警察の事務室のドアをあけた。こんどは署内にも人はいたって少なく、ただ庭番がひとりと、ほかに平民らしいのがひとりいるきりだった。小使も、自分の居場所になっている仕切りのかげから、顔を出そうともしない。ラスコーリニコフは次の間《ま》へ通った。『ことによると、まだいわなくてもいいかもしれんな』という想念が彼の頭にひらめいた。そこにはひとり平服を着た書記らしい男が、事務テーブルに向かって、何やら書く身がまえをしていたし、すみのほうには、もうひとりの書記がしりの落ちつきを直していた。ザミョートフはいなかった。ニコジーム・フオミッチも、むろん、やはり来ていない。
「どなたもおられないんですか?」と、ラスコーリニコフは事務机の男に問いかけた。
「だれにご用なんです?」
「や、や、や! 声も聞かず、顔も見ないが、ロシヤ人のにおいがする! という文句が、何かの昔ばなしにありますな……忘れてしまったが、やあ、いらっしゃい!」とつぜん、聞き覚えのある声がこうどなった。
 ラスコーリニコフのからだは、ぶるぶるふるえだした。彼の前に火薬中尉が立っていた。彼はだしぬけに三つめの部屋から出て来たのである。『これはまったく運命のしわざだ』とラスコーリニコフは考えた。『なぜこの男がここにいるんだ?』
「われわれをたずねてみえたんですか? なんのご用で?」とイリヤー・ペトローヴィチは叫んだ(彼は見たところ、ごくごくの上きげんで、ほんの心もち興奮しているらしかった)。「もし用でみえたのなら、まだ早すぎましたよ。こういうわたしも、偶然来合わしたようなわけでね……しかし、できることならなんでも。わたしは正直なところあなたに……ええと、ええと? 失礼ですが……」
ラスコーリニコフです」
「ああ、そう、ラスコーリニコフ! あなたはまさか、わたしが忘れたのだなんて、お考えになりゃしないでしょうな!どう[#「うな!どう」はママ]かお願いですから、わたしをそんな人間とお思いなさらんように……ロジオン・ロ……ロ……ロジオーヌイチ、たしかそうでしたな?」
「ロジオン・ロマーヌイチです」
「そう、そう、そう! ロジオン・ロマーヌイチ! ロジオン・ロマーヌイチ、それをわたしも、いろいろ苦心して、何度も調べたくらいですよ。わたしは白状しますが、あのとき以来、心から遺憾《いかん》に思っていたのです。あの時われわれがあなたにたいして、その……わたしはあとで説明を聞きましたが、あなたは青年文学者というより、学者といってもいいくらいで……いわば……その第一の試みだということで……まったく、そうですとも! ねえ、いったい文学者や学者で、手はじめに奇想天外的な第一歩を踏み出さない人が、およそだれかあるでしょうか! わたしも家内も――ふたりとも文学を尊重しているほうでしてな、ことに家内などは夢中なくらいですよ! 文学と芸術にね! 人間ただ高潔でさえあれば、ほかのものはすべてなんでも、才能と、知識と、理性と、天才で獲得《かくとく》できますからね! 帽子――たとえば、帽子なんか、いったいなんです? 帽子はプリン(薄焼きのパンケーキ)も同じことで、そんなものはチムメルマンの店で買えます。けれど、帽子の下に守られるもの、帽子でおおわれるものになると、もう買うわけにいきませんて!………じつをいうと、わがはいはあなたのお宅へ釈明にあがろうとさえ思ったのです。けれどまた、ことによったら、あなたも、なんだろう……と思いましてな。いや、それはそうと、お尋ねもしないでおりましたが、あなたはほんとに何かご用ですか? 聞けば、あなたのところへ身内のかたが見えたそうですね?」
「え、母と妹が」
「いや、お妹さんにはもう拝顔の光栄と幸福をえましたよ――教養のある美しいかなですな。じつをいうと、わたしはあの時あなたを相手に、ああまで興奮しあったのを、遺憾千万《いかんせんばん》に思いましたよ。変なことでしたな! あの時わたしは、あなたの卒倒を一種特別な目で見ましたが――それもあとで、きわめて明瞭《めいりょう》な解釈がえられましたよ! 狂信です、ファナチズムです! あなたが憤慨されたのも、ごもっともですよ。で、ご冢族がみえたのを機会に、住まいでもお変わりになるのですかな?」
「い、いや、ぼくはただその……ぼくはちょっとおたずねしようと思って寄ったんです……ザミョートフ君が来ておられるかと思って」
「ああ、そうですか! あなたがたは仲よしになられたんでしたっけね。聞きましたよ。ところが、ザミョートフはここにおりません――お気のどくさま、さよう、われわれはアレクサンドル・グリゴーリッチを失いましたよ! 昨日から現存しないわけです。転任したんで……しかも、転任して行きがけに、みんなとけんかまでしたんですからね……もう無作法といっていいくらいですて……軽率な小僧っ子、それっきりですよ。将来のぞみを嘱《しょく》するにたりそうでしたがね。しかしまあ、あの連中と――このごろのはなばなしい青年諸君と、ちょっとしばらくいっしょにやってごらんなさい! あの男は何か試験を受けるとかいってるんだけれど、このごろのはちょっと何かしゃべって、すこしばかり、からいばりして見せると、それで試験はおしまいなんですからな。そりゃまったく、たとえばあなたとか、あなたの親友のラズーミヒン氏なんかとは、まるで違いますよ! あなたの専門は学問のほうだから、けっして失敗なんかにめげるようなことはありゃしません! あなたにとっては人生のあらゆる美も、いわば――Nihilest(空の空)で、あなたはつまり禁欲主義者であり、修道士であり、隠者であるわけでしょう!………あなたにとっては、本とか、耳にはさんだペンとか、学術的研究とかがたいせつなので、こういうものの間に精神が高翔《こうしょう》しているんです! わたしも多少はその……ときに、あなたはリヴィングストンの手記はお読みになりましたか?」
「いや」
「ところが、わたしは読みましたよ。もっとも、このごろ、やたらにニヒリストがはびこってきましたな。しかし、それも当然な話で、時代がこういう時代ですからな。え、そうじゃありませんか? もっとも、わたしはあなたと……ねえ、あなたはもうむろん、ニヒリストじゃありますまいね? どうか腹蔵《ふくぞう》なく答えてください、腹蔵なく!」
「い、いいや……」
「いや、どうぞ、わたしには腹蔵なくやってください、どうぞ、自分ひとりきりのつもりで遠慮なく話してください! ただしスルージバ(職務)は別問題ですがな、こりゃ別問題です……あなたはわたしがドルージバ(友情)をいいそこなったとお思いですか。いや、そりゃご想像ちがい! ドルージバじゃありません、市民として、人間としての感情です。人道的感情、全能なる神にたいする愛の感情です。わたしも職務にあたっては、一個の公人にもなりえますが、しかし、わたしは常におのれを市民であり、人間であると感じ、その責任を完了しなけりゃならんのです……今あなたはザミョートフのことをいわれましたが、ザミョートフなんか、あの男はけしからぬ場所へ出入りして、シャンパンや、ドンぶどう酒などを飲みながら、フランスふうの醜態を演じようというやつです――あなたのザミョートフはこんな男ですよ! ところが、わたしは忠誠と高潔な感情に燃えておりましてな、そのうえ身分もあり、官等もあり、ちゃんとした地位も占めております! それに家内もあって、子供も持っている。市民として、人間としての義務をも履行《りこう》しております。ところでお尋ねしますが、あのザミョートフはそもそも何者です? わたしはあなたを教養のある、品性の高い人としてお話してるんですよ。ときに、あの産婆ってやつがやたらにふえていきますなあ」
 ラスコーリニコフは、いぶかしげに眉《まゆ》をあげた。見うけたところ、つい今しがた食卓を離れたばかりらしいイリヤー・ペトローヴィチの言葉は、大部分、空《くう》な騒々しいひびきとなって、彼の前にまき散らされるのであった。しかし、一部はそれでもどうにかこうにか頭へはいった。彼はいぶかしげに相手をながめながら、この結末がいったいどうつくのか見当がたたなかった。
「わたしがいうのは、例の髪を短く切った娘たちのことなんで」と話ずきなイリヤー・ペトローヴィチは言葉をつづけた。「わたしは、やつらに産婆とあだ名をつけてやったんですよ、そして、このあだ名がじつによくはまってると思うんで、へ、へ! あの連中はずうずうしく大学へはいって、解剖学《かいぼうがく》なんか習ってる。しかしねえ、どうでしょう、もしわたしが病気にかかるとしたら、あんな娘っ子を、自分の治療に呼べるものですかね、へ、へ!」
 イリヤー・ペトローヴィチは、自分のしゃれにすっかり満足して、からからと高笑いした。
「そりゃまあ、文明開化にたいするかぎりない渇望《かいぼう》のためかもしれませんさ。しかし、開化したんだから、それでたくさんじゃありませんか。なにも濫用《らんよう》することはないはずだ。あのやくざ者のザミョートフみたいに、なにも高潔なる人格をはずかしめる必要はないはずだ。なんのために、あの男はわたしを侮辱《ぶじょく》したのでしょう? ひとつ伺いたいもんで。ああ、それからまた、あの自殺のふえたことはどうです――とても、あなたがたの想像もおよばんくらいですよ。それがみんな、一コペイカもなくなるまでつかってしまって、自分で自分を処決するんです。ちっぽけな娘っ子も、小僧っ子も、老人も……げんについ今朝も、最近上京したある紳士のことで報告がありましたっけ。ニール・パーヴルイチ、おい、ニール・パーヴルイチ、さっき報告の来た紳士は、なんといったっけね? ほら、ペテルブルグ区で拳銃自殺をした」
「スヴィドリガイロフです」と、だれやら隣の部屋から、しゃがれ声で、にべもなく答えた。
 ラスコーリニコフは思わずぴくりとした。
「スヴィドリガイロフ! スヴィドリガイロフが自殺した!」と彼は叫んだ。
「え! あなたはスヴィドリガイロフをごぞんじなんですか?」
「ええ……知ってます……ついこのあいだ来たばかりです……」
「そう、このごろ上京したばかりです。細君をなくしたんだが、身もちのよくない男でしてね。それが急に拳銃自殺をやったんです。しかも、お話にならないような醜態《しゅうちあ》でしてな……手帳の中には、自分は正気で死ぬのだから、自分の死因で人を疑ってくれるなということが、ふた言み言、書き残してありました。この男は金を持っておったそうですがね。どうしてあなたはごぞんじなんです?」
「ぼくは……知り合いなんです……妹がその男のところへ家庭教師で住み込んでいたので……」
「おや、おや、おや……してみると、あなたはあの男のことで、何かお話しくださることがおできですね。あなたはそんなふうの疑いをいだかれたことはありませんか?」
「ぼくは昨日あの男に会いました……酒を飲んでいましたが……ぼくなんにも知りません」
 ラスコーリニコフは何やら上から落ちてきて、自分をおしつけたような気がした。
「あなたはまた顔色が悪くなられたようだ。ここはどうも空気の流通が悪いから……」
「ええ、ぼくもうおいとましなくちゃ」とラスコーリニコフはつぶやいた。「では、ごめんください、おじゃましました……」
「どういたしまして、どうぞいくらでも! おかげで愉快でした。わたし、よろこんでそう言明しますよ……」
 イリヤー・ペトローヴィチは、手までさし伸ばした。
「ぼくはただ……ぼくはザミョートフ君のところへ……」
「わかってます、わかってます。おかげで愉快でした」
「ぼくも……非常にうれしいです……さようなら……」ラスコーリニコフはにっこりと笑った。
 外へ出た。彼はよろよろしていた。頭がぐるぐるまわるようだった。自分が立っているのかどうか、それさえ感じなかった。右手を壁に突っぱりながら、彼は階段をおり始めた。帳簿を手に持ったどこかの庭番が、下から警察をさしてあがって来ながら、どんと突きあたったような気がした。犬がどこか下の階段でけたたましくほえたてていると、ひとりの女がそれに麺棒《めんぼう》を投げつけて、わめいていたような気もした。彼は下までおりきって構内へ出た。と、そこには出口のそば近く、死人のように真青な顔をしたソーニャが立っていて、なんともいえない恐ろしい目つきで彼を見つめていた。彼はその前に立ちどまった。なにかしら、いたましい、悩みぬいたような表情が、彼女の顔に浮かんでいた。それは一種絶望的な表情である。彼女ははたと両手をうち合わせた。見ぐるしい、とほうにくれたような微笑が、彼のくちびるに押し出された。彼はしばらく立っていて、やがてにたりと笑うと、また階上の警察へひっ返した。
 イリヤー・ペトローヴィチは、どっしりすわりこんで、何かの書類をかきまわしていた。その前には、今しがた階段をあがりながら、ラスコーリニコフに突きあたった、例の百姓男が立っていた。
「あーあーあ! あなたはまた! 何か忘れものでもなすった?……だが、いったいあなたはどうなすったんです?」
 ラスコーリニコフは血の気のうせたくちびるをして、目をじっとすえたまま、静かに彼のほうへ近づいた。テーブルのすぐそばまで行くと、それに片手を突っぱって、何かいおうとしたが、いえなかった。ただ何か、とりとめのないひびきが聞こえるばかりだった。
「あなたは気分が悪いんでしょう、おい、いすだ! さあ、このいすへおかけなさい! おい、水!」
 ラスコーリニコフは、いすの上へぐたりと腰をおろしたが、きわめて不愉快な驚きにうたれている火薬中尉の顔から、少しも目をはなさなかった。ふたりは一分間ほど互いに顔を見合わせながら、待っていた。水が来た。
「あれはぼくが……」とラスコーリニコフはいいかけた。
「水をお飲みなさい」
 ラスコーリニコフは片手で水を押しのけ、低い声で一語一語|間《ま》をおきながらも、はっきりといいきった。
「[#傍点]あれは、ぼくがあのとき、官吏の後家のばあさんと、妹のリザヴェータをおので殺して、金や品物を強奪したのです[#傍点終わり]」
 イリヤー・ペトローヴィチは、あっとばかり口をあけた。四方から人々がはせ集まった。
 ラスコリーニコフは自分の供述をくりかえした……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………