京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『ドストエーフスキイ全集6 罪と罰』(1969年、米川正夫による翻訳、筑摩書房)のP481-P504

れじゃありません(もっとも、わたしも多少は聞きましたがね)。わたしがいってるのは、あなたがしきりに嘆息していらっしゃることですよ! あなたの内部では。たえずシルレルがもだえている。だからこんどは、ドアの外で立ち聞きするな、なんてことになるんですよ。もしそうなら、出るところへ出て、これこれこうこうで、こんなことをやらかしました、理論の上《うえ》でちょっとしたまちがいができましたと、お公の前で白状したらいいじゃありませんか。ところが、戸口で立ち聞きしてはならないが、自分のお道楽には、ばあさんどもを手あたりしだいなもので殺してもいい、なんていう確信がおありでしたら、少しも早くどこかアメリカあたりへ逃げてお行きなさい! 逃げるんですよ、え、きみ! たぶんまだまにあいますよ。わたしはまじめにいってるんですぜ。お金がないとでもいうんですか? 旅費はわたしがあげますよ」
「ぼくそんなことなど少しも考えていやしません」と、嫌悪《けんお》の色を浮かべて、ラスコーリニコフはさえぎった。
「わかりました(もっとも、あまりむりをなさらんがいいですよ。もしなんなら、口数をおききにならなくてもいい)。わたしは現在あなたを悩ましている問題がわかりますよ。道徳的問題でしょう? 公民として、人間としての問題でしょう? なに、そんなものは、つばでもひっかけておやんなさい。そんなものが、今のあなたになんになるんです? へ、ヘ! つまりなんといっても、あなたはやはり市民であり人間であるからですか? それなら、なにも出しゃばることはなかったんですよ。頼まれもしないことに手を出さなけりゃよかったんですよ。まあ、ピストル自殺ですな。どうです、それもおいやですかね?」
「あなたはぼくを追っぱらいたいばかりに、わざとぼくをからかってるようですね……」
「どうもあなたは変人だな。それに、もう来てしまいましたよ。どうぞ階段をお上がりください。ごらんなさい、あれがソフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入口です。ほらね、だれもいないでしょう! あなたはほんとになさらないんですか? じゃカペルナウモフにでもきいてごらんなさい。あの女《ひと》は、あすこの家へいつもかぎを預けるんだから。ああ、ちょうどあれがマダム・ド・カペルナウモフです。え? なんですって? (あの女は少しつんぼなんでね)出て行ったんですって? どこへ? さあ、今こそお聞きになったでしょう? あの人はるすなんですよ。そして、ことによったら、夜遅くまで帰らないかもしれませんぜ。じゃ、こんどはわたしの部屋へ行きましょう。だって、わたしのところへも寄るとおっしゃったじゃありませんか? さあ、これがわたしの部屋です。マダム・レスリッヒとは家にいません。あの女は年じゅういそがしそうにしていましてね。しかし、いい人ですよ、じっさい……あなたにもう少し分別があったら、あなたの役にたったかもしれないんだがなあ。さあ、そこでごらんください。わたしは事務机から、五分利つき債券を一枚出しますよ(こいつがまだこんなにあるんですよ)。ところで、この一枚をきょう両替屋で現なまにするんです。さあ、ごらんになりましたか? だが、もうこのうえ時間をつぶしてる暇がない。事務机にかぎをかけて、部屋にかぎをかけてと、われわれはもう一度階段へ出たわけです。ところで、なんなら、つじ馬車をやといましょうよ。わたしは島へ行くんですよ。少しばかりお乗りになってはいかがですな? そこで、わたしはこの馬車をやとって、エラーギン島へ行きますが。え、なんですって? おいやですか? とうとう意地がはりきれなかったんですね? 少しばかり乗りましょう、なんでもありませんよ。どうやら雨がやってきそうだが、なに、かまいませんよ、ほろをおろしますからな……」
 スヴィドリガイロフは、もうほろ馬車の中にすわっていた。ラスコーリニコフは、少なくともこの瞬間、自分の疑いがまちがっていたと考えざるをえなかった。彼はひと言も答えないで、くるりと踵《きびす》をかえすと、もと来たセンナヤ広場のほうへ向けて歩きだした。もし彼がこのとき途中で、ほんの一度でもふりかえって見たら、スヴィドリガイロフが百歩も行かぬうち馬車屋に勘定を払って、歩道の上へおりたのを見ることができたはずである。が、彼はもう何を見ることもできず、町角をまがってしまった。深い深い嫌悪《けんお》の情が彼をぐんぐんスヴィドリガイロフから離れさせたのである。『ああ、どうしておれはあの野卑な悪党から、あの淫蕩な道楽者の卑劣漢から、たとえ一瞬間にもせよ、何かを期待することができたのだろう!』と彼は思わず叫んだ。じっさいラスコーリニコフはあまり性急に、あまり軽率に判断をくだしたのである。スヴィドリガイロフをとりかこんでいるぜんたいの状況には、神秘とまではいかなくても、少なくとも一種風変わりな感じをあたえるような、何ものかがあったのである。しかし、こうしたいろんなことの中でも、妹にかんするかぎりでは、ラスコーリニコフはやはりなんといっても、スヴィドリガイロフが彼女をうっちゃってはおくまいど、かたく信じきっていた。しかし、こういうことをくりかえし巻きかえし考えるのは、もうあまりにも苦しくたえがたくなってきた!
 いつもの癖で、彼はひとりになると、ものの二十歩も歩くうちに、深いもの思いに落ちてしまった。橋の上へあがると、彼は欄干《らんかん》のそばに立ちどまり、水をながめ始めた。その間にアヴドーチヤ・ロマーノヴナが彼のうしろへ来て立っていた。
 彼は、橋のたもとで妹と出会いながら、ろくすっぽ顔も見ないで、そのまま通り過ぎてしまったのである。ドゥーネチカはこれまで一度もこんなふうにして、往来を歩いている兄を見たことがないので、ぎょっとするほど驚いた。彼女は足をとめたが、声をかけたものかどうかと思い迷っていた。とふいに彼女は、センナヤのほうから急ぎ足に近づいて来るスヴィドリガイロフの姿を認めた。
 けれど、スヴィドリガイロフはそっと気をくばりながら、近よって来る様子だった。彼は橋へはあがらずに、ラスコーリニコフに見つからぬように一生けんめいに苦心しながら、やや離れた歩道の上に立ちどまった。しかし、ドゥーニャにはもうずっと前から気がついていたので、手で彼女に合図を始めた。彼女はその合図によって、彼が兄には声をかけないで、自分のほう来へてくれと頼んでいるように思われた。
 ドゥーニャはそのとおりにした。彼女はそっと兄のうしろをまわって、スヴィドリガイロフに近づいた。
「さあ、早く行きましょう」と、スヴィドリガイロフは彼女にささやいた。「わたしはね、ロジオン・ロマーヌイチにこの会見を知られたくないんです。まえもっておことわりしておきますが、わたしたちはついそこの料理店で、いっしょにいたんですよ。兄さんが自分でわたしをさがしだされたので、わたしはやっとのことで、今まいて来たところなんでしてね。兄さんはどうしたわけか、わたしがあなたにさしあげた手紙のことをごぞんじで、なにやら変に疑っておられるんです。もちろん、あなたがうち明けなさったのじゃないでしょう。でも、あなたでないとすると、いったいだれでしょう?」
「さあ、わたしたちはもう角をまがりましたから」とドゥーニャはさえぎった。「もう兄に見られはしません。わたしちゃんと申しあげておきますが、もうこれから先へはごいっしょにまいりません。ここですっかりおっしゃってくださいまし、そんなことは往来でもいえることですもの」
「第一に、この話はどうしても往来じゃできませんし、第二に、あなたはソフィヤ・セミョーノヴナの話もお聞きになる必要があります。また第三には、二、三の書類もお目にかけようと思いますし……それに、なんです、もしあなたがわたしのところへ来るのをいやだとおっしゃれば、わたしもいっさい説明をおことわりして、すぐこのまま失礼することにいたします。そのさいお願いしておきますが、あなたにとってたいせつなお兄さんのごくごく重大な秘密が、完全にわたしの掌中《しょうちゅう》にあるということを、お忘れなさらないように」
 ドゥーニャは決しかねてたたずみながら、剌すような目でスヴィドリガイロフを見つめていた。
「あなたは何を恐れていらっしゃるんです!」とこちらは落ちつきはらって注意した。「都会は田舎とちがいますよ。それに田舎でも、わたしがあなたにしむけたより、かえってあなたのほうが、よけいわたしをひどいめにあわせたのですからね。ところでこの場合……」
「ソフィヤ・セミョーノヴナは、承知してらっしゃるんですか?」
「いや、あの女《ひと》にはなんにも話してありません。それに、いま家にいるかどうか、それさえ不確かなくらいですからね。しかし、たぶんいるんでしょう。あの女《ひと》も今日は自分の身うちを葬《とむらった》ったばかりだから、人を訪問に歩きまわるような日じゃありませんからね。わたしは時期がくるまで、このことをだれにも話したくないので、あなたにお知らせしたのさえ、いささか後悔してるくらいなんですよ。このさいほんのわずかな不注意でも、密告と同じになるんですからね。わたしはすぐそこにいるんです、ほらあの家に。さあもうそばまで来ました。ほら、あれがこの家の庭番です。庭番はよくわたしを知っておりますよ。ほらおじぎをしているでしょう。あの男はわたしが婦人同伴で歩いているのを見たわけだから、もうむろんあなたの顔も見おぼえたでしょう、もしあなたがひどくわたしを恐れて、疑っていらっしゃるとすれば、これはあなたにとって、有利なわけですよ。いや、どうかこんなにずけずけいうのをお許しください。わたしは借家人から部屋を又借りしているんですよ。ソフィヤ・セミョーノヴナは、わたしと壁一重の隣合わせで、やはり借家人から又借りなんです。この階はすっかり間借り人でいっぱいなんでしてね。あなた何をそう子供みたいにこわがることがあります? それとも、わたしがそんなに恐ろしい人間なんでしょうか?」
 スヴィドリガイロフの顔は、しいて卑下《ひげ》するような微笑にゆがんだ。しかしそのじつ、彼はいま笑うどころのさたではなかったのである。心臓はずきんずきんとうって、呼吸がのどにつまりそうなのであった。彼はしだいにつのっていく興奮をかくすために、わざと大きな声で話した。けれどドゥーニャは、この異常な興奮に気づくひまがなかった。『まるで子供のようにわたしを恐れている、わたしはそれほど恐ろしい人間に思われるか』という相手の言葉が、もうすっかり彼女をいらいらさせたのである。
「わたしはあなたが……破廉恥《はれんち》な人だってことは知っていますけれど……少しも恐れてなんかいませんわ。どうぞ先へいらしてください」彼女は見たところ落ちつきはらった様子でそういったが、その顔はひどく青ざめていた。
 スヴィドリガイロフは、ソーニャの部屋の前に立ち止まった。
「ちょっと伺いますが、お宅でしょうか。るすだ。さあ困った! しかしあの女《ひと》はすぐ帰って来るでしょう。わかっていますよ。あの女《ひと》が出たとしたら、それはみなし子たちのことで、ある婦人を訪問したにちがいないから。あの子たちは母親をなくしたんでね。わたしもちょっと手を出して、世話をしてやったんですよ。もしソフィヤ・セミョーノヴナが十分たっても帰らなかったら、ご都合で今日にもすぐお宅のほうへさし向けますよ。さあ、これがわたしの住まいです。部屋が二つあります。ドアの向こうが、貸し主のレスリッヒ夫人の部屋になってるのです。さあ、こんどはこちらを見てください。わたしの重大な証拠物件をお目にかけますから。このドアが、わたしの寝室から、がらあきになっている二つの貸し部屋へ通ずるようになってる。この部屋がそうです……これを少し念入りにごらんになる必要がありますよ……」
 スヴィドリガイロフはかなり広い部屋を二間《ふたま》、家具つきで借りていた。ドゥーネチカはうさんくさそうにあたりを見まわしたが、部屋の飾りつけにも、配置にも、かくべつ変わったものは目にはいらなかった。もっとも、スヴィドリガイロフの部屋が、ほとんど人の住んでいない二つの貸し間に両方からはさまれているのに、ちょっと気がついたにはついた。彼の部屋へはいるには、直接廊下からでなく、ほとんどがらあきになっている主婦の部屋を二つ通らねばならなかった。スヴィドリガイロフは寝室から、かぎのかかっているドアをあけて、これもがらあきの貸し間をドゥーネチカに見せた。ドゥーネチカは、なんのためにこんなものを見ろというのか合点がいかず、しきいの上に立ちどまろうとした。けれど、スヴィドリガイロフはいそいで説明を始めた。
「さあこちらを、この二つ目の大きな部屋をごらんください。そして、このドアに注意していただきます。これにはかぎがかかっているんです。それからドアのそばにいすがあるでしょう、二つの部屋を通じてたった一脚きりです。これは、聞くのに便利なように、わたしが自分の部屋からもって来たのです。それから、あのドアのすぐ向こう側に、ソフィヤ・セミョーノヴナのテーブルがあるんです。あの女《ひと》はそこに腰をかけて、ロジオン・ロマーヌイチと話をしていたわけたので。わたしはこのいすにかけながら、ふた晩つづけて、しかも二度とも二時間くらい、ここで立ち聞きしたんですよ――だから、もちろん、わたしも何か少しは知ることができるだろうじゃありませんか。あなたどうお考えですね?」
「あなたは立ち聞きなすったんですって?」
「さよう、立ち聞きしました。さあ、そろそろわたしの部屋へ行きましょう。ここは腰をかけるところもありませんから」
 彼はアヴドーチヤをみちびき、客間にあててあるとっつきの部屋へひっ返し、彼女をいすにかけさせた。そして、自身はテーブルの反対の端に、少なくとも彼女から一サージェン(約二メートル)ばかりへだてて一座を占めたが、どうやらその目の中には、いつかドゥーネチカを脅かした例の炎が、もうきらりと光ったらしい。彼女はぴくっと身ぶるいして、もう一度うさんくさそうにあたりを見まわした。このしぐさは無意識なのであった。彼女は疑いの色を顔に出したくないらしかった。けれど、スヴィドリガイロフの住まいの世にも寂しい様子は、ついに彼女をぎょっとさせた。彼女はせめて主婦でも家にいるかと、尋ねてみたいと思ったが、けっきょく尋ねはしなかった……つまりプライドのためである、そのうえ、自分自身にたいする不安とは比較にならぬほど大きな苦痛が、もう一つ彼女の心の中にあった。彼女はたえがたい苦痛を忍んでいたのである。
「これがあなたの手紙でございます」彼女はテーブルの上に置いて、こうきりだした。「あなたの書いていらっしゃるようなことが、いったい、あっていいものでしょうか? あなたは兄が犯したという、犯罪のことをほのめかしていらっしゃいます。明瞭《めいりょう》すぎるくらい明瞭にほのめかしていらっしゃるのですから、今となってはごまかしも許されないくらいです。もっとも、おことわりしておきますが、わたしはあなたに伺うまえに、このばかばかしい作り話を聞いていましたけれど、そんなこと、これっから先もほんとうにしませんでした。それはけがらわしい滑稽《こっけい》な嫌疑《けんぎ》です。わたしはそのいきさつも、またどうして、何が原因で、そんなうわさが出てきたかってことも、ちゃんとぞんじています。あなたに何も証拠があろうはずはございません。あなたは証明してみせると約束なすったんですから、さあいってください! けれど、まえもっておことわりしておきますが、わたしはあなたを信じはしませんよ! 信じませんとも!」
 ドゥーネチカはこれだけのことを、せきこんで早口にいいきった。一瞬間、彼女の顔にはくれないがさっと散った。
「もしお信じにならないのなら、どうしてひとりでわたしのところへ来るなんて、そんな冒険がおできになるものですか? いったい、なんのためにいらしったんです? ただ好奇心のためですか?」
「わたしを苦しめないで、いってください、いってください!」
「あなたがしっかりしたお嬢さんなのは、申すまでもないことです。わたしはまったくのところ、あなたがきっとラズーミヒン氏にたのんで、ここへついて来ておもらいになることと思っていましたよ。ところが、あの人はあなたといっしょにもいなかったし、あなたのまわりにも見えなかった。わたしはよく見たんですからね。これはまったく大胆ですよ。これでみると、あなたはつまりロジオン・ロマーヌイチをいたわりたかったんですね。もっとも、あなたの持っていらっしゃるものは、すべて神々《こうごう》しい……ところで、あなたの兄さんにかんしては、このうえ何を話すことがありましょう? あなたはいまご自分で、あの人をごらんになったじゃありませんか。まあ、どんなかっこうでした?」
「あなたはまさか、それだけのことを根拠にしてらっしゃるんじゃありますまいね?」
「いや、そんなことじゃありません。あの人自身の言葉が根拠ですよ。げんにここへ、ソフィヤ・セミョーノヴナのところへ、あの人はふた晩つづけてやって来たんですよ。ふたりがどこに腰かけていたか、それはさっきお目にかけたとおりです。そこで兄さんはあの女《ひと》に一部始終を告白したんですよ。兄さんは人殺しです。自分で質を置きに行っていた、ある官吏の後家さんで、質屋をしているばあさんを殺したのです。それから、ばあさんの殺されたところへ偶然はいって来た、妹のリザヴェータという古着商売の女もやはり殺してしまったのです。ふたりとも、持って行ったおのでやっつけたんです。つまり、もの取りのために殺したんで、それを実行したんですよ、金とそれから何やかや品物を取ったんです……これを兄さんはそっくりくわしく、ソフィヤ・セミョーノヴナに話したんです。で、秘密を知ってるのはあの女《ひと》ひとりきりですが、しかしあの女《ひと》は口でも行ないでも、殺人に関係はありません。それどころか、今のあなたと同じように、ぞっとするほど驚いたくらいです。しかし、ご安心なさい、あの女《ひと》はけっして兄さんを売るようなことはしませんから」
「そんなことがあるはずはない!」ドゥーネチカは死人のような土色に変わったくちびるでつぶやいた。彼女は、はあはあ息をきらしていた。「そんなことがあるはずはございません。まるでなんにも、これっぱかりの理由もありません、少しも原因がありません……それはうそです、うそです!」
「兄さんは強盗をなさった。これがいっさいの原因です。兄さんは金と品物を取ったんですよ。もっとも自分で白状なさったところによると、金も品物も手をつけないで、どこかの石の下へ持って行ったとかで、今でもそこにあるそうですがね。しかし、これはただ手をつける勇気がなかったからです」
「だって兄がものを盗んだり、強奪《ごうだつ》したりするなんて、そんなことがあっていいものですか? 兄はそんなことなんか、考えてみることもできる人じゃありません」とドゥーニャは叫んで、いすからおどりあがった。「だって、あなたも兄をごぞんじじゃありませんか。お会いになったでしょう? いったい兄にどろぼうができるとお思いになって?」
 彼女はまるでスヴィドリガイロフに、嘆願でもしているような風情《ふぜい》だった。自分の恐怖などことごとく忘れつくしていた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、こういうことには、幾千、幾百万という組合わせや分類があるものですよ。どろぼうはものを盗むが、そのかわり内心ひそかに、自分は卑劣漢《ひれつかん》だと承知しています。ところでわたしは、郵便物を略奪したある高潔な人間のことを聞きましたよ。いや、まったくその男はほんとにりっぱなことをしたと、思っていたのかもしれませんて! もちろん、わたしにしても、これがもしわきから聞いた話なら、あなた同様、けっしてほんとにはしなかったでしょう。しかし、現在自分の耳を信じないわけにいかなかったのです。兄さんはソフィヤ・セミョーノヴナに、ありたけの原因を説明なすったけれど、あの女《ひと》は初め、自分の耳さえ信じませんでしたよ。しかし、とうとう目を信じました。自分自身の目を信用したのです、なにしろ兄さんが自分であの女《ひと》に話したんですからね」
「いったいどんな……理由なんですの?」
「話せば長いことですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。そこには、さあ、なんといったらいいか、一種の理論があるんですよ。つまり、こういうわけなんです。たとえば、おもな目的さえよければ、一つぐらいの悪業は許さるべきだという、あれと同じ理くつなんですね。一つの悪業と百の善行!その[#「善行!その」はママ]うえに、もちろん、はかり知れないほど自尊心の強い才能のある青年にとって、たとえば、三千ルーブリかそこいらの金がありさえすれば、生活の行程も将来もすっかり別なものになってしまうはずだのに、その三千ルーブリがないと意識したら、屈辱《くつじょく》を感ぜざるを得ないですからな。そこへもってきて、飢えと、狭くるしい部屋と、ぼろぼろの服と、自分の社会的地位のみじめさにたいする明瞭《めいりょう》な自覚と、それと同時に妹や母の境遇を思う心、こういうものから起こる焦燥を勘定に入れてごらんなさい。しかし、何よりも一ばんの原因は虚栄心です、自負心と虚栄心です。もっとも、こりゃあるいはいい傾向のものかもしれませんがね……わたしはなにも兄さんを責めてるんじゃありませんよ。どうかそんなことを思わないでください。それにわたしの知ったことじゃないんですからね。そこにはもう一つ独得の理論があったんです――ひと通りまとまった理論ですがね――それによると、いいですか、人間は単なる材料と特殊な人間に分類されるんです。そのうち後者は、生存の高い地位のおかげで掟《おきて》の制裁を受けないのみか、かえってその他の人間――つまり材料、ちりあくたにたいして、掟を作ってやるというわけです。なに、ひと通りものになった理論ですよ。Une theorie commeune autre.(その他の理論と同じような理論です)それに兄さんは、ナポレオンにすっかりまいったんですね。というより、多くの天才が個々の悪にとらわれないで、ためらうことなく踏み越して行った、ということにひきつけられたんですね。兄さんはどうやら、自分も天才だと考えたらしい――つまり、しばらくの間そう確信しておられたんですよ。兄さんはひどく苦しまれた、そしてげんに今も苦しんでいらっしゃる。というのは、理論を考え出すことはできたが、ちゅうちょなく踏み越えて行くことができない、したがって、自分は天才ではない、とそう考えたからです。もうこれなどは自尊心の強い青年にとって、それこそ屈辱《くつじょく》ですからね。ことに現代ではとくべつ……」
「でも、良心の呵責《かしゃく》ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思ってらっしゃるんですね? まあ、いったい兄がそんな人間でしょうか?」
「ああ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、現代は何もかもが混濁してしまってるんですよ。もっとも、今までだって、とくにきちんとしていたことはありませんがね。がんらいロシヤ人てやつはね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、ちょうどその国土と同じように広漠《こうばく》とした人間で、幻想的なだらしのないことにひきつけられる傾向を、やたらに持っているんです。しかし、特殊な天才もなくて、ただ広漠としてるんじゃ困りものですからね。あなたも覚えていらっしゃるでしょう、毎晩いつも夕食のあとで、あなたとふたり、庭のテラスに腰かけて、よくこれと同じようなテーマで、これと同じようなことを、盛んに話したものじゃありませんか。おまけに、あなたはその広漠性で、わたしを攻撃なすったものですが、ねえ、もしかすると、兄さんがここで横になって、自分の理論を考えていたのとちょうど同じ時刻に、わたしたちもそれをしゃべっていたのかもしれませんよ。われわれ教養あるものには、とくに神聖な伝統というものがないんですからね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。ただ、だれかがどうやらこうやら、本をたよりに組み立てるか……それとも、年代記から何か引っぱり出してくるのがせきの山です。しかし、そんなのはどっちかといえば学者だから、たいていはまあ、一種のやぼな、まぬけです。したがって、社交界の人にはぶしつけなくらいですよ。概してわたしの考えは、あなたもご承知ですが、わたしは決して人を責《せ》めない人間です。わたし自身が高等遊民で、またそれを固守してるんですからね。しかし、このことは、わたしたちもう一再《いっさい》ならずお話しましたっけ。それどころか、わたしの議論があなたの興味をひいたことすらあったくらいです……あなた、たいへん顔色が悪いじゃありませんか、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ!」
「わたしもその理論は知っています。いっさいを許されている人間を論じた兄の文章を、わたし雑誌で読みました……ラズーミヒンが持ってきてくだすったので……」
「ラズーミヒン氏が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌にのった? そんな論文があるんですか? わたしは知らなかった。それはきっとおもしろいにちがいない! ですが、あなたはどこへいらっしゃるんです、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ?」
「わたしはソフィヤ・セミョーノヴナに会いたいんですの」と、ドゥーネチカは弱々しい声でいった。「あの女《ひと》のところへは、どう行ったらいいんでしょう? もう帰ってらっしゃるかもしれませんわ。わたしはぜひ今すぐあの女《ひと》に会いたいんですの。あの女の口から……」
 アヴドーチヤ・ロマーノヴナはしまいまでいうことができなかった。息が文字どおりに切れたのである。
「ソフィア・セミョーノヴナは、夜までは帰りますまいよ。わたしはそう思いますね。あの女《ひと》はずっと早く帰らなけりゃならんはずですが、もしそうでないとすると、うんと遅くなるでしょうよ……」
「ああ、それじゃお前はうそをついたんだね! 今こそわかった……お前はうそをついたんだ……お前はうそばかりついてたんだ! わたしはお前なんか信用しやしない! 信じない! 信じない!」とドゥーネチカはすっかり夢中になって、もの狂わしげに叫んだ。
 彼女はほとんど失神したように、スヴィドリガイロフが急いであてがったいすの上へ倒れた。
「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、どうなすったんです、しっかりなさい! さあ、水です。ひと口お飲みなさい……」
 彼は、ドゥーネチカに水を吹きかけた。彼女はぶるっと身ぶるいして、われに返った。
「ひどくきいたもんだな!」とスヴィドリガイロフは眉を寄せながらひとりごちた。「アヴドーチヤ・ロマーノヴナ、気をお落ちつけなさい! 兄さんには友だちがあるんですからね。わたしたちは兄さんを救います、助け出します、なんなら、わたしが兄さんを連れて外国へ逃げましょうか? わたしは金を持っています。三日のうちに切符を手に入れます。たとえ兄さんは人殺しをしたって、そのうちにいいことをうんとしたら、何もかも帳消しができますからね。気を落ちつけてください。それどころか、えらい人になるかもしれませんよ。ええ、どうなすったんです? 気分はいかがです?」
「悪党! まだ人をなぶってる。わたしを出してください……」
「あなたどこへ行くんです? どこへ?」
「兄のとこへ。兄はどこにいます? あなた、ごぞんじでしょう? どうしてこのドアにかぎがかかってるんです? わたしたちはこの戸口からはいって来たのに、それがいまはかぎがかかってる。いつのまに、あなたはかぎをかけたんです?」
「わたしたちがここで話しあったことを、家じゅうの部屋へつつぬけに聞かれちゃ困りますからね。わたしはけっしてなぶってなんかいません。ただわたしはあんな調子で話してるのに、あきあきしたのです。ねえ、あなたはそんなふうにして、どこへいらっしゃるんです? それとも、兄さんを売《わた》したいんですか? あなたは兄さんを気ちがいにしてしまって、あの人が自分で自分を売《わた》すようにしたいんですか? 兄さんはもう目をつけられて、手がまわってるんですからね。それを承知してください。そんなことをしたら、兄さんを売《わた》すばかりですよ。まあ、お待ちなさい。わたしはいま兄さんと会って話をしましたが、まだ救済の余地があります。まあ、待ってください、まあ、おかけなさい。いっしょによく考えようじゃありませんか。わたしがあなたをお呼びしたのは、あなたとふたりきりでこのことを相談して、よく思案をするためなんですよ。まあ、おかけなさいったら!」
「どうして兄を救うことがおできになるんです? ほんとに兄を救うことができるんですの?」
 ドゥーニャは腰をおろした。スヴィドリガイロフはそのそばにすわった。
「それはみな、あなたのお心ひとつですよ。あなたの心、あなたの心ひとつです」彼は目をぎらぎら輝かしながら興奮のあまりほかの言葉が口に出ないで、どもりどもり、ささやくようにいった。
 ドゥーニャはぎょっとして、思わず身を引いた。彼も同じように全身をおののかせていた。
「あなたが……わずかあなたのひと言で、兄さんは救われるんです! わたしは……わたしは兄さんを救います。わたしには金と友人があります。わたしはすぐ兄さんをたたせてあげます。自分で旅券を取ってあげます、旅券を二枚。一枚は兄さんので、もう一枚はわたしのです。わたしには友人があります。みんないい連中です、……どうです? わたしはそのうえあなたの旅券も取ってあげますよ……あなたのお母さんのも……あなたにはラズーミヒンなんかいりゃしません。わたしだってあなたを愛していますよ……かぎりなく愛しています。どうかあなたの着物の端に接吻《せっぷん》させてください、接吻させて! 接吻させて! わたしはその衣《きぬ》ずれの音を聞いてもたまりません。どうかそれをしろといってください、わたしはちゃんとします。わたしは不可能を可能にしてみせます。あなたの信じていらっしゃることは、わたしもきっと信じましょう。わたしはなんでも、なんでもします! そんなふうにわたしを見ないでください、見ないでください! あなたは、わたしをなぶり殺しにしてらっしゃるのをごぞんじですか……」
 彼はうわ言でもいってるようなふうになってきた。まるで、いきなり頭をがんと打たれたように急に様子がへんになった。ドゥーニャはおどりあがって、戸口のほうへ駈けよった。
「あけてください! あけてください!」彼女は両手でドアをゆすぶり、だれにともなく助けをもとめながら、ドア越しにこう叫んだ。「あけてくださいったら! いったいだれもいないんですか?」
 スヴィドリガイロフは立ちあがって、われに返った。毒々しいあざけるような微笑が、まだふるえやまぬ彼のくちびるの上へ、そろそろと押し出された。
「あっちにゃ、だれもいやしませんよ」と彼は低い声で間《ま》をおきながらいった。「主婦《かみ》さんはるすだから、そんな大きな声をしたってむだですよ。ただつまらなく自分で自分を興奮させるばかりですよ」
「かぎはどこ? すぐにドアをあけて、今すぐ。なんて卑怯《ひきょう》な男だろう!」
「かぎはなくしてしまいました。どうしても見つかりません」
「ああ! それじゃ人を手ごめにしようというんだね!」こう叫んだドゥーニャは、死人のように真青になって片すみへ飛びのくと、いきなり手もとにあった小テーブルを楯《たて》にとった。
 彼女はもう叫び声こそたてなかったが、くい入るように、ひたと迫害者を見つめながら、その一挙一動を鋭く見まもっていた。スヴィドリガイロフもその場を動かずに、彼女と向き合ったまま、部屋の反対側につっ立っていた。彼は、自分を統御するだけの余裕があった、少なくとも、表面だけはそう見えた。が、顔は依然として青ざめていた。あざけるような微笑は彼の顔を去らなかった。
「あなたはいま『手ごめ』とおっしゃいましたね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ。もし暴力だとすると、わたしの処置が当をえているのに、なるほどとお思いになりましょう。ソフィヤ・セミョーノヴナはるすだし、カペルナウモフの住まいまではずっと遠くて、締めきった部屋が間に五つもあります。それから最後に、わたしはあなたより少なくも二倍は力が強いです。そのうえ、わたしにはなにも恐れることなんかありません。なぜって、あなたはあとで訴えるってことができませんからね。なにぶん、あなたもまさか兄さんを売《わた》す気にはならないでしょう? それに、だれもあなたを信じる人はありませんよ。そうじゃありませんか、若い娘さんがひとりで独身《ひとり》者のところへ、出かけるわけがありませんからね。だから、もし兄さんを犠牲《ぎせい》になすったところで、けっきょく、なにも証拠だてることはできませんよ。手ごめってことは、非常に証明しにくいものですからね、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ」
「悪党!」とドゥーニャは憤りのささやきをもらした。
「なんとでもおっしゃい。しかし、おことわりしておきますが、わたしはただ仮定の形でいっただけですよ。わたし自身の確信からいえば、たしかにあなたのおっしゃるとおりです。暴力は卑劣な行為です。ただわたしが申しあげたのは、もしあなたが……たとえもしあなたが、わたしの申し出にしたがって、進んで兄さんを救おうという気におなりになったとしても、あなたの良心には、なにもやましいところはないという、ただそれだけのことなんです。あなたは単に状況(もしそういわなくちゃすまないのなら、暴力といってもよろしい)に屈服《くっぷく》なすったというだけの話じゃありませんか。こういうことを考えてごらんなさい――兄さんとお母さんの運命は、あなたの掌中《しょうちゅう》に握られてるんですよ。しかも、わたしはあなたの奴隷《どれい》になります……一生涯……わたしはここにこうして待っています……」
 スヴィドリガイロフは、ドゥーニャから八歩ばかりへだてた長いすに腰をおろした。彼の決心を動かすことができないのは、彼女にとって疑う余地もなかった。それに、彼女は、彼のひととなりを知っていた……
 ふいに彼女はポケットから拳銃《けんじゅう》を取り出して、引き金をあげ、拳銃を持った手をテーブルの上にのせた。スヴィドリガイロフは席からおどりあがった。
「ははあ! そういうことですか!」と彼は驚きながらも、
毒々しい微笑を浮かべて、こう叫んだ。「いや、それでは事件の進行が一変してしまいますな! あなたはわたしの仕事を、たいへんらくにしてくださるわけですよ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ! それに、その拳銃をどうして手にお入れになりましたね? こりゃラズーミヒン氏の斡旋《あっせん》ですかね? おや、それはわたしの拳銃だ! 古いなじみの拳銃だ! あの時わたしはそれをどんなにさがしたかしれない!………わたしが田舎でご教授の光栄を有した射撃のけいこも、やっぱりむだにはなりませんでしたな」
「お前の拳銃じゃない、お前の殺したマルファ・ペトローヴナのじゃないか、悪党! あの女《ひと》の家の中には、お前のものなんか一つだってありゃしなかった。わたしは、お前がどんなことをするか知れない人間だと思ったから、これを取っておいたんです。ひと足でも踏み出してみるがいい、わたし誓ってお前を殺すから!」
ドゥーニャは半狂乱であった。彼女は拳銃をあげて身がまえた。
「じゃ、兄さんはどうします? ちょっともの好きにお尋ねしますが」やはり同じところに立ったまま、スヴィドリガイロフは尋ねた。
「したけりゃ、告訴するがいい! ひと足だってそこを動いたら! 撃ってしまうから! お前は奥さんを毒殺したじゃないか、わたしはちゃんと知ってる、お前こそ人殺しだ……」
「じゃ、あなたはわたしがマルファを毒殺したと、はっきり確信していらっしゃるんですね!」
「お前だとも! お前が自分で、わたしににおわしたじゃないか。お前はわたしに毒のことを話した……お前が毒を買いに町まで行って来たのを、……わたしはちゃんと知っている……お前は前から用意していたのだ……それはもうお前にちがいない……悪党!」
「もし、かりにそれが事実だとしても、それもお前のためなんだ……やはりお前がもとなんだ」
「うそをつけ! わたしはお前を憎んでいた、いつも、いつも……」
「ええっ、アヴドーチヤ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱で夢中になって、つい妙なそぞろ心になったのを、お忘れになったとみえますね……わたしはあなたの目つきでわかりましたよ。覚えてらっしゃるでしょう? あの晩、月が照らして、おまけにうぐいすまで鳴いていましたっけ……」
「うそをつけ!(ドゥーニャの目の中には、もの狂おしい憤怒がひらめいた)そんなことはないだろう、うそつき!」
「うそだって? いや、まあ、うそかもしれない。わたしはうそをいいましたよ。女にこんなことをいうものじゃないんだ(と彼はうす笑いをもらした)。おれもお前がぶっ放すのは知ってるよ、まるでかわいい野獣だ。さあ、撃《う》て!」
 ドゥーニャは拳銃《けんじゅう》をあげた。そして、死人のように真青な顔をして、血の気《け》を失った下くちびるをわなわなとふるわせ、炎と燃える大きな黒い目で相手を見つめながら、彼のほうからちょっとでも動き出すのを、心を決して待っていた。彼はまだかつて一度も、これほど美しい彼女を見たことがなかった。彼女が拳銃をさしあげた瞬間に、その目の中からひらめき流れた炎は、彼を焼いたような気がした。彼の心臓は、痛いほどしめつけられた。彼は一歩ふみ出した。と、発射の音がひびきわたった。弾丸《だんがん》は彼の髪をかすめて、うしろの壁へあたった。彼は立ちどまって、低く笑った。
「はちが刺した! いきなり頭をねらってやがる……なんだこれは? 血だ!」
 彼は細くたらたらと右のこめかみに流れる血をふくために、ハンカチを取り出した。どうやら弾丸は、ちょっと上皮をかすめたばかりらしい。ドゥーニャは拳銃をおろして、恐怖というよりも、なにかしら奇妙な疑惑の表情で、スヴィドリガイロフを見つめていた。彼女は自分でも何をしたのやら、またそれがどうなっているのやら、いっこうわからない様子だった。
「いや、うち損じならしかたがない! もう一度おやんなさい、待ってますよ」とスヴィドリガイロフは低い声でいった。まだうす笑いは依然として浮かべていたが、どことなく陰うつな調子だった。「そんなことをしてると、引き金をおあげになる前に、あなたをつかまえてしまうことができますぜ!」
 ドゥーネチカはぴくりと身ぶるいして、すばやく引き金をあげ、ふたたび拳銃をさしあげた。
「もう帰してください!」と彼女は絶望の調子でいった。
「わたし、誓ってまた撃ちますよ……わたし……殺しますよ!……」
「いや、やむをえません……三歩の距離じゃ殺せないわけがない。が、もし殺せなかったら……そのときは……」
 彼の目はぎらぎらと輝いた。彼はさらに二歩すすんだ。
 ドゥーネチカは引き金をおろした。ただかちりといっただけである!
「装塡《そうてん》が不備だったんだな。なに、かまいません! まだ雷管があるでしょう。お直しなさい、待っていますから」
 彼は二歩離れたところに立って待っていた。そして、情熱に燃える重苦しげな目つきで、野性的な決意を面《おもて》に浮かべながら、彼女を見つめていた。ドゥーニャはさとった――彼は自分を手ばなすくらいなら、むしろ死を選ぶに相違ない。『だから……、もうどうあっても、こんどこそ二歩の距離で殺してしまわねばならぬ……』
 とつぜん、彼女は拳銃をがらりと投げ捨てた。
「捨てたな!」とスヴィドリガイロフはびっくりしたようにいって、深い息を吐いた。
 何かあるものが、一度に彼の心から離れてしまったようなぐあいだった。それは死の恐怖の重荷ばかりではなかったかもしれない。それにこの瞬間、彼はほとんどそんなものを感じてはいなかった。それはおそらく彼自身も完全に定義できない、もっと痛ましい陰惨な、別な感情からの解放であった。
 彼はドゥーニャのそばへ寄り、片手を静かに彼女の腰にまわした。彼女はあらがおうとはしなかったが、全身を木の葉のようにおののかせながら、祈るような目で彼を見た。彼は何かいおうとしたが、ただそのくちびるがゆがんだばかりで、ひと言も発することができなかった。
「帰して!」ドゥーニャは祈るようにいった。
 スヴィドリガイロフは、ぴくっと身ぶるいした。この敬語を抜いた言葉づかいには、どこやら前とは違ったひびきがあった。
「じゃ、愛はないの?」と彼は小声に尋ねた。
 ドゥーニャは否定するようにかぶりを振った。
「そして……愛することもできない?……どうしても?」と彼は絶望したようにささやいた。
「どうしても!」とドゥーニャもささやいた。
 スヴィドリガイロフの心の中では恐ろしい暗闘の一瞬間が過ぎた。名状しがたいまなざしで、彼は女を見つめていた。とつぜん、彼は手をひいてくるりと背を向けると、すばやく窓のほうへ離れて、その前につっ立った。
 また一瞬間が過ぎた。
「さあ、かぎです! (彼はそれを外套の左のポケットから取り出して、ドゥーニャのほうは見もせず、ふり向きもしないで、うしろのテーブルの上へのせた)おとんなさい。そして早く出て行ってください……」
 彼は執拗《しゅうね》く窓の外を見ていた。
 ドゥーニャはかぎを取ろうと、テーブルに近づいた。
「早くして! 早くして!」いつまでも身動きもしなければ、ふり向こうともせず、スヴィドリガイロフはくりかえした。
 けれど、この『早くして』の中には、明らかに何か恐ろしい調子がひびいていた。
 ドゥーニャはそれをさとった。彼女はかぎをつかむと、戸口へ駆けよって、手早く錠をあけると、やにわに部屋から飛び出した。そして一分後には、気ちがいのように前後を忘れて、掘割り通りへ走り出て、××橋のほうをさして駆けだした。
 スヴィドリガイロフはまだ三分ばかり窓のそばに立っていた。やがて、のろのろとうしろをふり向いて、あたりを見まわし、静かにてのひらで額をなでた。奇怪な微笑が、彼の顔をゆがませた。みじめな、もの悲しい、弱々しげな微笑、絶望の微笑。もうかわきかけていた血がてのひらをよごした。彼は毒々しい目つきでその血を見つめていたが、やがてタオルを湿してこめかみをきれいにふいた。ドゥーニャにほうり出されてドアのそばへけし飛んだ拳銃が、ふと彼の目にはいった。彼はそれを拾いあげて、あらためて見た。それは旧式な懐中持ちで、小形な三連発の回転拳銃だった。中にはまだ弾丸が二つと雷管が一つ残っていた。いま一度うてるわけだ。彼はしばらく考えて、拳銃をポケットヘ押しこむと、帽子を取って出て行った。

      6

 その晩、彼は十時ごろまで、つぎからつぎへといろんな料理屋や、あいまい宿を歩きまわった。どこかでカーチャもさがしあてた。彼女はまたある『悪性者《あくしょう》の女たらし』が、
『カーチャに接吻しはじめた』
 という、こんどは違った下男趣味の歌をうたった。
 スヴィドリガイロフは、カーチャにも、手まわしオルガンひきにも、給仕にも、どこかの書記ふたりにも、酒を飲ませた。ふたりの書記と関係をつけたのは、ほかでもない、彼らがふたりとも曲がり鼻をしていたからである。ひとりの鼻は右へ、ひとりの鼻は左へ曲がっていた。これがスヴィドリガイロフの目をひいたのである。ふたりはとうとう、彼をある遊園地へ引っぱって行った。そこでは、彼はみんなに入場料を払ってやった。この遊園地には、ひょろひょろした三年もののもみ[#「もみ」に傍点]の木が一本と、貧弱な植込みが三ところにあっちそのほか、実質は要するに酒場にすぎない『停車場』が設けてあった。しかし、お茶くらいは注文することができたし、そのうえに、いくつかの緑色に塗った小テーブルと、いすが置いてあった。ひどい歌うたいの合唱団と、赤鼻の道化者《どうけもの》じみた、しかし、なぜかばかに浮き立たない、酔っぱらったミュンヘン生まれのドイツ人が、せいぜい見物のごきげんを取り結んでいた。ふたりの書記は、どこかの書記連とけんかをして、あやうくつかみ合いが始まりそうになった。そこでスヴィドリガイロフは仲裁役に選ばれた。彼は十五分ばかりも調停してみたが、みんながあまりわめきたてるので、何が何やらまるでわからなかった。一ばん真相に近そうなのは、彼らのひとりが何か盗んで、しかもすぐその場で、ちょうどそこに来合わせたあるユダヤ人に、うまく売りつけた。ところが売っておきながら、仲間に山分けというだんになって、ねこばば[#「ねこばば」に傍点]しようとした、ということらしかった。けっきょく、その盗んで売った品というのが、『停車場』のスプーンだと知れた。『停車場』のほうでそれと気づいたのである。事はいよいよめんどうになってきた。スヴィドリガイロフはスプーンの代を払って立ちあがると、遊園地から外へ出た。かれこれ十時ころだった。彼自身はそのあいだ一滴も酒を飲まなかった。ただ『停車場』で茶を命じただけで、それもどちらかといえば、体裁《ていさい》のためであった。むしむしする、うっとうしい晩だった。十時ちかくなると、四方からものすごい黒雲が押し寄せ、雷が轟然《ごうぜん》と鳴り始め、雨が滝のように降ってきた。水は一滴ずつ落ちるのではなく、つながった流れになって大地をむちうった。いなずまは絶えまなくひらめいて、ぱっと明渇くなるたびに、五つまで数を読むことができた。彼は骨の髄《ずい》までずぶ濡れになって家へ帰ると、部屋のドアにかぎをかけ、事務机のふたをあけて、ありたけの金を取り出した。それから二、三の書類をひき裂きもした。やがて、金をポケットヘ押しこんで、服を着かえようとしかけたが、窓の外を見て、雷鳴と雨の音に耳をすますと、あきらめたように片手を掫って、帽子を手に取り、ドアにかぎもかけずに部屋を出た。まっすぐにソーニャの部屋へ行ってみると、彼女は家にいた。
 彼女はひとりきりではなかった。カペルナウモフの小さい子供が四人、そのまわりをとり巻いていた。ソーニャに茶を飲ませてもらっていたのである。彼女は無言のまま、うやうやしくスヴィドリガイロフを迎えたが、びしょ濡れになった彼の服をびっくりしたように見まわした。が、ひと言も口をきかなかった。ところで子供たちは、筆紙につくしがたい恐怖のていで、そうそうに逃げて行ってしまった。
 スヴィドリガイロフはテーブルの前に腰をおろし、ソーニャにもそばへかけてくれと頼んだ。彼女はおずおずと聞く身がまえをした。
「わたしはね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ことによると、アメリカへ行ってしまうかもしれないんです」とスヴィドリガイロフはいった。「で、あなたとお目にかかるのも、たぶんこれが最後でしょうから、何かの始末をつけておきたいと思って伺ったわけです。さて、あなたは今日あの奥さんに会いましたか? わたしはあの女《ひと》があなたに何をいったか、ちゃんと承知しておりますから、改めて聞かせていただかなくてもいいです(ソーニャはもじもじして、顔をあからめた)。ああいう人たちには決まった流儀《りゅうぎ》がありますからね。ところで、あなたの妹さんや弟さんのほうは、もうほんとに身のふりかたがついたわけです。それからあの人たちに決めてあげた金は、ひとりひとりべつべつに受け取りを取って、確かなしかるべきところへ預けておきましたから。もっとも、この証書はあなた預かっておいてください、なに、ただ万一の場合のためですよ。さあ、おわたししますよ! さあ、もうこれでこっちはすんだと。それから、ここに五分利つきの債券が三枚あります。全部で三千ルーブリです。これはあなたご自分で、ご自分のものとして取っといてください。これはわたしたちふたりの間だけのことにして、たとえどんなことをお聞きになっても、だれにも知られないように願います。この金はあなたのお役にたちますよ。だって、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今までのような生活をするのは――けがらわしいことですからね、それに、もうこの先そんな必要もないんですから」
「わたし、あなたにはいろいろご恩になりました、子供たちも、なくなった母も」ソーニャはせきこみながらいった。「それだのに、今まではろくろくお礼も申しあげないでいましたけれど、それは……どうぞあしからず……」
「ええっ、もうたくさんですよ、たくさんですよ」
「で、このお金は、アルカージイ・イヴァーヌイチ、まことにありがとうございますけど、わたし、今のところさしむき入用《いりよう》ございませんの。わたしひとり、ひとりだけの糊口《くちすぎ》はいつでもできますから。どうか恩知らずなどとお思いくださいませんように。あなたはそれほどお情けぶかいかたでしたら、どうぞこのお金は……」
「あなたのものです、あなたのものです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、どうかもう、とかくの押し問答はぬきにしてください。それにわたしは暇もないんですから。あなたには入用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチの行く道は二つしかありません――額へ弾丸《たま》を撃ちこむか、それともウラジーミル街道行き(シベリヤ送りのこと)です(ソーニャは、びっくりしたような目つきで相手を見て、わなわなとふるえだした)。ご心配にはおよびません。わたしはあの人自身の口から、何もかも知ったんですが、しかし、わたしはそんなおしゃべりじゃありませんからね。だれにもいやしません。あなたがいつかあの人に、自首しろとお勧《すす》めなすったのはいいことでした。そのほうがあの人のためにずっと有利ですよ。ところで、ウラジーミル街道行きの宣告がおりて、あの人がそちらに行ったら、あなたもあとを追っていらっしゃるでしょう? ね、そうでしょう? そうでしょう? ねえ、もしそうとすれば。つまりさっそく金がいるわけじゃありませんか。あの人のためにいるんですよ、わかりましたか? あなたにさしあげるのは、あの人にあげるのも同じことなんです。それに、あなたはほら、アマリヤ・イヴァーノヴナに、借金を払う約束をなすったじゃありませんか。わたしは聞いていましたよ。いったいなんだってあなたはいつも無考えに、そんな約束や義務をお引き受けになるんです? だって、カチェリーナ・イヴァーノヴナこそ、あのドイツ女に借金しておられたけれど、それはあなたの借金じゃないじゃありませんか。だから、あなたはあのドイツ女なんかには、つばでもひっかけてやればよかったんです。そんなふうで世渡りはできやしませんよ。さてそこで、もしいつか、だれかがあなたに――まあ、明日なり明後日なり、わたしのことでなければ、わたしに関係したことを尋ねたとしても(あなたは必ずきかれるでしょうよ)、わたしが今ここへお寄りしたことはいわないように、そして金も見せないようにしてください。またわたしがあなたにさしあげたということを、けっしてだれにもいっちゃいけませんよ。では、もうおいとまします(彼はいすから立ちあがった)。ロジオン・ロマーヌイチによろしく。それからついでですが、金は入用のときまで、ラズーミヒン氏のところへでも預けておおきなさい。ラズーミヒン氏をごぞんじでしょう? いや、むろんごぞんじのはずです。なに、なかなかいい男ですよ。あの人のところへ明日にでも、つまり……時が来たら、持っていらっしゃい。それまでは、なるべくしっかり隠しておおきになるといい」
 ソーニャも同様にいすからおどりあがり、おびえたように彼を見つめていた。彼女はしきりに何かいいたい、何か尋ねたいような気がしたけれど、初め一、二分はその勇気もなかったし、それにどう口をきっていいかもわからなかった。
「どうしてあなたは……どうしてあなたは、今こんな雨の中を出ていらっしゃいますの?」
「なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を恐れていてどうしますか、へ、へ! さようなら、かわいいソフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてらっしゃい、いつまでも生きてらっしゃい。あなたは他人のためになる人ですからね。ついでに……どうかラズーミヒン氏に、わたしからよろしくとお伝えください。どうかこのとおりに伝えてくださいませんか――アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフがよろしくって。ぜひともね」
 彼はソーニャを驚愕《きょうがく》と、畏怖《いふ》と、何かぼんやりとした重苦しい疑惑《ぎわく》の中に取り残して、そのまま出て行った。
 後になってわかったことだが、彼はこの夜の十一時過ぎに、いま一つきわめてとっぴな思いがけない訪問をした。雨はまだやんでいなかった。彼は全身ずぶ濡れになって、十一時二十分というのに、ヴァシーリエフスキイ島のマールイ通り三丁目にある許嫁《いいなずけ》が両親の手ぜまな住まいへはいって行った。彼はやたらに表をたたいて、むりに戸をあけさせたので、初めは少なからず恐慌《きょうこう》を起こしかけたが、スヴィドリガイロフは自分でその気になると、きわめて魅力に富んだものごしをとれる人だったので、たぶんどこかでふんだんに酒をあおって、前後不覚に酔っぱらったのだろうという、許嫁《いいなずけ》の両親のそそっかしい推量も(もっとも、なかなかうがった推測であったが)、たちまち、しぜんと解消してしまった。気だての優しい分別のある母親は、衰弱した父親を車のついたひじかけいすにのせて、スヴィドリガイロフのところへ押して来た。そしていつものでん[#「でん」に傍点]で、なにかと遠まわしな質問を始めた(この婦人は、けっしてまともな質問をしたことがなく、いつも初めは、微笑ともみ手というようなものから始めて、やがて何かぜひ確かに知らねばならぬことがあると――たとえば、アルカージイ・イヴァーヌイチのほうでは婚礼をいつにしたらご都合がいいか、というようなことをきこうと思うと、まずパリやそこの宮中生活について、好奇心のあふれそうな、ほとんど貪婪《どんらん》といいたいくらいな質問を皮切りに、それからだんだんと順序を追って、ヴァシーリエフスキイ島三丁目まで持ってくるのであった)。もちろん、ほかの場合なら、それもこれも多大の尊敬を相手に感じさせるのであったが、このときのアルカージイ・イヴァーヌイチは、どうしたのか、かくべつせっかちになっていて、一刻も早く許嫁を見たいと、命令するような調子でいいだした。そのくせ、彼は一ばんはじめから、もう娘は寝床にはいったと、ことわられていたのである。もちろん、許嫁は出て来た。アルカージイ・イヴァーヌイチは、いきなり彼女に向かって、じつはあるきわめて重大な用件のために、一時ペテルブルグを離れなければならないから、いろんな紙幣を取り交ぜて一万五千ルーブリを彼女に持参した。つまらないものだが、かねて結婚前に贈呈しようと思っていたのだから、贈り物として受けてもらいたいといった。この贈り物と、火急な出発と、夜遅く雨の中をどうしても持って来なければならなかった事情と、これらの間の論理関係は、もちろん、この説明では出て来ようがなかった。けれど、話はいたってすらすらと進んだ。こういう場合、なくてはならぬ『おお』とか『ああ』とかいう叫びや、さまざまな質問や驚きさえ、なんだか急にふしぎなほどおとなしく控えめになった。そのかわり燃ゆるがごとき熱烈な感謝が表示され、それがこのうえもなく分別のある母親の涙で裏書きされた。アルカージイ・イヴァーヌイチは立ちあがって、からからと笑い、許嫁に接吻して、そのほおをかるくたたき、じき帰って来るからとくりかえしたが、娘の目の中に子供らしい好奇心と、同時になにかしら恐ろしくまじめな、言葉に出さぬ疑惑の色を認めると、ちょっと考えて、もう一度彼女に接吻《せっぷん》した。そして、せっかくの贈り物がたちまちのうちに、世界じゅうの母親の中でも一ばん分別のある母親に、かぎをかけてしまわれてしまうだろうと思うと、すぐ心底からいまいましくなってきた。彼は一同をなみなみならぬ興奮の中に取り残して、ぷいと出て行った。けれど気だての優しい母親はなかばささやくような早口で、すぐに二、三の重大な疑惑を解決した。ほかでもない、アルカージイ・イヴァーヌイチはえらい人で、いろいろ事業にも関係し、親戚知己も多い金持だから――頭の中で何を考えているかわかるものじゃない。思いたつとどこかへ出かけるし、思いたつと金もくれる。だから、なにも驚くことはない。もちろん、全身ずぶ濡れなのは奇妙だけど、たとえば、イギリス人などはあれよりもっととっぴなことをやる。それに、ああした身分のある人はだれでも、みんな世間で何をいおうと平気なもので、遠慮気がねなどしないものである。ことによったらあの人は、だれもこわくないということを見せるために、わざわざあんなかっこうをして歩いているのかもしれない。が、何よりもかんじんなのは、これをひと言も他人にもらさないことだ。なぜといって、これからどんなことが起こるか知れないからである。金は一刻も早く錠をかけて蔵《しま》わなければならぬ。それにつけても、一ばん都合がよかったのは、女中のフェドーシヤがずっと台所にいてくれたことだ。とにかく、かんじんなのは、けっして、けっして、けっして、なんによらず、あの海千山千のレスリッヒに何ひとつ知らせてはならない一等々であった。彼らは夜中の二時ごろまですわりこんだまま、ひそひそと話しあっていた。もっとも、許嫁《いいなずけ》の娘はずっと早く床にはいったが、あっけにとられたような、少しもの寂しいような様子をしていた。
 そのあいだにスヴィドリガイロフは、ちょうど真夜中にペテルブルグ区をさして、××橋を渡っていた。雨はあがったが、風がごうごう鳴っていた。彼はぶるぶるふるえだした。そして、ちょっとのま、ある特殊な好奇心と、疑惑の色さえ浮かべながら、小ネヴァ河の黒い水をながめた。けれどまもなく、水の上に立っているのがやけに寒く思われてきた。彼は踵《きびす》を転じて××通りのほうへ足を向けた。彼は暗い板敷きの歩道で何べんとなくつまずきながら、はてしのない××通りをもうだいぶ長く、ほとんど三十分も歩いて行った。そして好奇の表情で通りの右側に何かを捜しつづけていた。彼は近ごろ通りすがりに、どこかこのあたりで、もう通りのはずれに近いところに、木造ながら広そうな宿屋を見つけたことがある。その名は彼の覚えているかぎりでは、何かアドリアノープルといったふうのものだった。彼の見当はまちがっていなかった。件《くだん》の宿屋はこんな場末では、暗やみの中でさえ見つけずにはいられないほど、きわだった目じるしになっていた。それは長い木造の黒ずんだ建物で、もう時刻も遅いのに、中ではまだ灯《あかり》がついており、なんとなく賑かそうなけはいが感じられた。彼ははいって行って、廊下で出会ったぼろ服の男に部屋をたずねた。ぼろ服はスヴィドリガイロフに一瞥《いちべつ》を投げると、ぶるっとむしゃぶるいをし、どこか廊下のはずれで、すみっこの階段下にあたる陰気な狭い部屋へ、すぐに客を案内した。そのほかにはもう部屋がなかった。全部ふさがっているのであった。ぼろ服は問いかけるようにスヴィドリガイロフを見た。
「茶はあるかい?」とスヴィドリガイロフはたずねた。
「そりゃできます」
「それから何がある?」
「子牛の肉と、ウォートカと、ザクースカ(前菜)で」
「子牛と茶を持って来てくれ」
「そのほかにゃ何もご注文はございませんか?」とぼろ服はけげんそうな顔をしてたずねた。
「何もない、何もない!」
 ぼろ服はすっかりあてがはずれて出て行った。
『こりゃきっといい場所に相違ない』とスヴィドリガイロフは考えた。『どうしておれはこれを知らなかったんだろう。どうやら、おれもどこかカフェー・シャンタンの帰りで、しかも何か途中でひと騒動やったという様子をしているらしい。だがそれにしても、いったいここはどんなやつが泊まって行くのだろう、ちょっと興味があるな』
 彼はろうそくをつけて、しさいに部屋を見まわした。それはほとんどスヴィドリガイロフの背丈《せたけ》にもたりない、窓の一つしかない、小さな檻《おり》のような部屋だった。おそろしくきたならしいベッドと、そまつなペンキ塗りのテーブルと、いす一脚がほとんど部屋じゅうを占領していた。壁は板でも打ちつけたような外観を呈していた。壁紙は色(黄色)こそどうにかまだ察せられるが、模様にいたってはまるっきり見分けがつかないほどほこりにて、裂け傷だらけで見るかげもなくなっていた。壁と天井《てんじょう》の一部は、よく屋根部屋に見かけられるように、ななめに断ち切られていたが、ここではこの傾斜の上が、階段になっているのだった。スヴィドリガイロフはろうそくを置いて、ベッドの上に腰をおろし、じっと考えこんだ。けれど、どうかすると、叫び声といってもいいくらい高くなる、きたいな、絶えまのない隣室のひそひそ話が、とうとう彼の注意をひいた。このひそひそ話は、彼がはいって来た時から、やみまなくつづいていたのである。彼は聞き耳を立てた。だれかもうひとりの相手をののしったり、ほとんど涙を流さんばかりに責めたりしているのだ。しかも、聞こえるのはただその声ばかりだった。スヴィドリガイロフは立ちあがって、手でろうそくのかげをした。と、すぐ壁に、ちらとすきまが光った。彼はそのそばへ寄って、すき見を始めた。彼自身のよりいくらか大きい部屋の中には、ふたりの客がいた。おそろしくもしゃもしゃとうず巻いた頭に、真赤に燃えるような顔をした中のひとりは、上着なしで、弁士のような姿勢をとりながら、からだの平均をたもつために、両足をひろげてつっ立ったまま、片手で胸をたたきながら、相手の男を責めていた。彼がまる裸の乞食《こじき》で、なんの官等も持っていないのを、自分がどろ沼の中から引きあげてやったのだから、いつでも好きなときに追い出せるのだが、それもこれも天帝のみがみそなわすだけだ――というようなことだった。責められているほうはいすに腰かけて、くしゃみが出たくてたまらないのに、どうしてもうまく出ないような顔をしていた。彼はときどき羊《ひつじ》のような、どんよりした目で弁士を見やったが、今なんの話をしているのやら、かいもくわからないらしい様子が見えすいていた。それに、ほとんど何ひとつ耳にはいらないらしかった。テーブルの上にはろうそくが危うく燃え残って、おおかたからになったウォートカのびんや、さかずきや、パンや、コップや、きゅうり[#「きゅうり」に傍点]や、もうとっくに飲みほされた茶器などがのっていた。この光景を注意ぶかく見てとると、スヴィドリガイロフは気のない様子ですきまから離れ、ふたたび長いすに腰をおろした。
 茶と子牛の肉をもって引っ返したぼろ服は、いま一度『まだ何かご注文はありませんか?』と問いかけずにいられなかったが、またもや『ない』という返事を聞くと、もうすっかり引っ込んでしまった。スヴィドリガイロフは暖まるために、急いで茶にとびかかった。そして、コップー杯飲みほしてしまったが、食欲がまるでないので、料理のほうはひときれも口に入れなかった。どうやら熱が出て来たらしい。彼は外套《がいとう》とジャケツを脱ぎ、毛布にくるまって、ベッドヘ横になった。彼はいまいましい気がした。『なんといっても、今だけは健康でいたかったのに』と彼は考えて苦笑した。部屋の中は息ぐるしかった。ろうそくはうす暗く燃え、外では風が吹き荒れ、どこかすみのほうでは、はつか鼠《ねずみ》ががりがりいわせていた。それに部屋じゅう鼠と、革《かわ》らしいもののにおいがしていた。彼は横になったまま、まるで熱にでも浮かされているような思いであった。想念はあとからあとへと入れ変わった。彼はなんでもいいから、想像のすがりつくところがほしくてたまらないらしかった。『この窓の下は、きっと庭になっているにちがいない』と彼は考えた。『木のざわざわいう音がしている。おれは夜あらしの吹くまっ暗な中で、木の騒ぐ音を聞くのは大きらいだ。じつにいやな感じだ!』ふと彼はいましがたペトローフスキイ公園のそばを通りながら、いやあな気持ちでそのことを考えたのを思いおこした。すると、それに関連して、××橋のことや、小ネヴァ河のことを思い出した。と、彼はまたなんとなく、さっき水の上に立っていたときと同様、身うちが寒くなってきたような気がした。『おれは生まれてこのかた水がきらいだった、絵で見てもいやだ』と彼はふたたび考えたが、ふとまたもや、ある奇妙な想念に苦笑した。『もう今となっては、こんな美学や快感なんか、どうだっていいはずなのに、この場におよんで、よけい選り好みが強くなってくる。まるで……こういったような場合に、かならずいい場所を選ぶ野獣みたいなものだ。まったくおれはさっきあの時、ペトローフスキイ公園へ曲がってしまうべきだったのだ! ふだん暗くて寒そうに思えたんだろうよ、へへ! それどころか、ほとんど気持ちのいい感じまでほしくなったのだからな……それはそうと、なぜおれはろうそくを消さないんだろう?』(彼はふっと吹き消した)『隣でも寝たらしいな』とさっきのすきまにあかりが見えないので、彼はこう考えた。『さあ、マルファ・ペトローヴナ、今こそご光来にもってこいの時だよ。暗くはあり、場所も似つかねしいし、場合も奇抜なんだからな。今こんな時にやって来ないなんて……』
 彼はふいにどうしたわけか、さきほどドゥーネチカにたいする計画を実行する一時間まえに、ラスコーリニコフをつかまえて、妹をラズーミヒンの保護に託すがよいとすすめた、あのことが思い出された。『じっさいおれはあの時、何よりも自分で自分の傷を突っつくために、あんなことをいったのかもしれないぞ。ラスコーリニコフの察したとおりにな! だがそれにしても、あのラスコーリニコフはずぶといやつだ! ずいぶん大きな荷を背負って行ったものだ。あのくだらない考えが頭から飛び出したら、やがてそのうちに大した悪党になれるかもしれない。が、今はあまり[#「あまり」に傍点]生きたがりすぎる。この点にかけたら、ああした手合いは卑劣漢《ひれつかん》ぞろいだ。が、まあ、あんなやつのことはどうだっていいや。勝手にしやがれ、おれの知ったことじゃない』
 彼は相変わらず眠れなかった。しだいしだいに、さきほどのドゥーニャの姿が目の前に立ち現われ始めた。と、ふいに戦慄《せんりつ》が彼のからだを流れ走った。『いや、こんなことはもううっちゃってしまわなけりゃいかん』と彼はわれに返って考えた。『何かほかのことを考えなけりゃならん。どうもふしぎでもあれば、こっけいでもあるが、おれはこれまでだれにたいしても、大きな憎しみを感じたことがなかったのみか、かくべつ復讐したいと考えたことさえない。これは悪い徴候《ちょうこう》だ、悪い徴候だ、悪い徴候だ! 議論するのも好きでなく、熱くなるということがなかった。これもやはり悪い徴候だ!とこ[#「候だ!とこ」はママ]ろで、さっきおれはあの女に、どれだけのことを約束したろう――ちぇっ、ばかな! まったくあの女がなんとかして、おれをきたえ直してくれたらよかったんだがなあ……』彼はまた黙りこんで、歯を食いしばった。またもやドゥーネチカの幻が彼の目のまえに立ち現われた。彼女が初めに一つ火ぶたを切ってから、ひどくおびえて拳銃《けんじゅう》をさげ、死人のように青くなって彼を凝視《ぎょうし》していた、あの時と寸分たがわぬすがただった。彼はあのとき、二回でも彼女を抱くひまがあったが、もし、彼が自分でも注意してやらなかったら、彼女は防禦《ぼうぎょ》の手をあげさえしなかったろう。その瞬間に、彼女がかわいそうでたまらなくなり、胸をしめつけられるような気がしたことを、彼は思い出した……『ええ! くそっ! またこんな考えが、こんなのはみんな、うっちゃってしまわなくちゃだめだ、うっちゃってしまわなくちゃ!………』
 彼はもう昏睡《こんすい》状態に落ちかけた。熱病的な戦慄《せんりつ》はだんだんおさまっていった。と、ふいに何かしら毛布の下で、手や足をかけまわるものがあった。彼はびくっとした。『ええっ畜生、こりゃ鼠《ねずみ》らしいぞ!』と、彼は考えた。『そうだ、おれは子牛の肉をテーブルの上にうっちゃっといたっけ……』けれど、せっかくくるまった毛布をはねて起きあがり、寒いめをする気になれなかった。けれど、急にまた何かが足の上で、気持ちわるくごそりとした。彼は毛布をはねのけて、ろうそくをともした。熱病的な悪寒にふるえながら、寝床をしらべに身をかがめた――何もいない。彼は毛布をふるった。とふいに、敷布の上へ、はつか鼠が一ぴき飛び出した。彼は飛びかかってつかまえようとした。が、鼠はベッドからかけおりないで、ちょろちょろ四方八方ヘジグザグを描きながら、彼の指の間をすべり抜けたり、手をつたわって走ったりして、急にまくらの下へちょろりともぐり込んだ。彼はまくらをほうり投げた。と、そのせつな、何やら彼のふところへとび込んで、からだじゅうをちょろちょろし、あっと思うまに、もうシャツの下から背中へまわった。彼は神経的に身ぶるいして、目をさました。部屋の中はまっ暗で、彼はさっきのとおり、毛布にくるまったまま、ベッドの上で横になっていた。窓の下には風がほえている。『なんていやなこった!』と、彼はいまいましくこう考えた。
 彼は起きあがって、窓に背を向けながら、べッドの端に腰をかけた。『もういっそ寝ないほうがいい』と彼は腹を決めた。しかし窓からは、寒さと湿気がつたわってきた。彼はその場を立たないで、毛布を引きよせてくるまった。ろうそくはつけなかった。彼は何事も考えなかったし、また考えようともしなかった。しかし、妄想はつぎからつぎとおこって、初めもなければ終わりもなく、連絡もない思想の断片が、ちらちらとひらめきすぎた。たんだかしだいしだいに、なかば仮睡《かすい》の状態に落ちて行くようだった。寒さか、やみか、湿気か、または窓の下でほえながら木々をゆすっている風か、とまれ彼の心の中に一種の執拗《しつよう》な幻想的な傾向と、願望をよびおこすものがあった。けれど、やがてしきりに花が目のまえに現われ始め、やがて花咲きみちた美しい景色が、心に描き出された。明るくて暖かい、ほとんど暑いくらいな祭りの日で、三位一体の日である。家のぐるりの花だんに植えてある香りの高い花に包まれた、贅《ぜい》をつくしたりっぱなイギリスふうの木造コッテージ。つた[#「つた」はママ]がからみついて、ばらの花だんをめぐらした玄関。ぜいたくなじゅうたんを敷きつめて、シナ焼の花びんにさした珍奇な花で飾られた、明るくすがすがしい階段。ことに、窓の上におかれた水のはいった鉢の中で、あざやかな緑色をしたみずみずしく長い茎の先に頭をかしげている、香りの高い白すいせんの花束が、彼の目をひいた。そばを離れたくないくらいである。しかし、彼は階段をあがって、天井の高い大きな広間へはいって行った。すると、そこにもまた至るところに――窓ぎわにも、テラスへ向けてあけ放された戸口にも、そのテラスの上にも――花があった。床《ゆか》には刈りたてのかぐわしい草がまかれて、あけ放した窓からはかろやかな、すがすがしい微風が部屋を訪れ、窓の下では小鳥がさえずっていた。ところが、広間のまん中には白いしゅすのクロースでおおわれたテーブルの上に柩《ひつぎ》がのっていた。その柩は白いグロドナプル(絹織物)で包まれ、白いぶあつな飾りひだが一面に縫いつけてあった。長い花ふさが四方からそれをかこんでいる。棺の中には、白いレースの服を着た娘が全身花に包まれて、さながら大理石でほったかと疑われる手を胸の上にしっかり組み合わせていた。けれど、そのばらばらに解いた明るいブロンドの髪は、しとどに濡れて、ばらの花の冠がその頭をとりまいていた。もう固くなったきびしい横顔は、同じく大理石で刻まれたようであった。けれど、その青ざめたくちびるに浮かんでいる微笑は、なんとなく子供らしくない無限の悲哀と、偉大な哀訴の表情をたたえている。スヴィドリガイロフはこの娘を知っていた。この柩のそばには聖像もなければ、ろうそくの灯《ともし》もなく、祈祷《きとう》の声も聞こえない。この娘は身投げをした自殺者であった。彼女はまだやっと十四でありながら、その心はすでに破れていた。この心はたえがたい凌辱を受けたために、われとわが身をほろぼしたのである。その若々しい子供らしい意識を脅かし、慄然《りつぜん》と恐れおののかしめた凌辱は、天使のように清らかな彼女の魂を羞恥《しゅうち》の念にひたして、風吹きすさぶ湿っぽい雪どけの夜に、やみと寒さの中で、だれの耳にもはいらない絶望の叫びをひと声ふりしぼって、ようしゃない悪魔の嘲笑《ちょうしょう》とともに身をほろぼしたのである。
 スヴィドリガイロフは目をさまして、ベッドから立ちあがると、窓のそばへ歩み寄った。彼は手さぐりで掛け金を見つけ窓をあけた。風はすさまじい勢いで狭い部屋へ流れ込み、まるで凍った霜のようなものを、彼の顔とシャツ一枚の胸へ吹きつけた。はたして窓の下には庭のようなものがあった。しかもやはり遊園地ふうのものらしかった。たぶん昼間は、ここで歌うたいが歌をうたったり、テーブルの上へは茶が運ばれたりしたのだろう。けれど、今は立木やくさむらから、しぶきが窓へ飛んで来るばかりで、穴倉のようにまっ暗である。何かしら、ところどころに暗いしみ[#「しみ」に傍点]が見わけられて、何かそこにあるなと想像されるくらいなものであった。スヴィドリガイロフはかがみこんで、両ひじを窓じきりつについまま、もう五分ばかり目を放さずに、このもやの中を見つめていた。と、やみと夜をつんざいて、大砲の音がひびきわたった。つづいて、また一つ。『ああ。号砲《ごうほう》だ! 水が出たんだな』と彼は考えた。『夜明けがたには、低いところは往来へ水がのって、地下室や穴倉は水びたしになるだろう。穴倉の鼠《ねずみ》どもがぶくぶく浮き出すんだ。人間は雨と風の中を、ののしりさわぎながらずぶ濡れになって、めいめい自分のがらくたを二階へ引っぱりあげるのだ……それにしても、もう何時かな?』彼がこう考えたとたんに、どこか近くで柱時計が一生けんめいに急ぐようにかちかちいいながら、三時を打った。『ははあ、もう一時間たつと明るくなるんだ! 何を待つことがいるもんか? これからすぐ出かけて、いきなりペトローフスキイ公園へ行こう。そこで、どこか雨にびっしょり濡れた大きな茂みをさがそう。ちょっと肩がさわると、幾百万とも知れぬしずくを頭の上へ降らせるようなやつをな……』彼は窓をはなれて、ろうそくをつけ、チョッキや外套《がいとう》をまとって、帽子をかぶり、ろうそくを持って廊下へ出た。どこかそこいらの小部屋で、がらくた道具や、ろうそくの燃えさしの間で寝ているぼろ服を見つけ、勘定をすまして、外へ出ようと思ったのである。こばんいい折りだ、これよりいい折りってあるもんじゃない!』
 彼はしばらく細長い廊下を端から端まで、何度も歩きまわったが、だれひとり見つからなかったので、すんでのことに大きな声で呼ぼうとした。と、そのとき暗い片すみの古ぼけた戸だなとドアの間に、何か生きものらしい妙なものが目にはいった。ろうそくを持ったまま身をかがめて見ると、それはひとりの子供だった。五つそこそこくらいの女の子が、雑巾《ぞうきん》みたいなびしょ濡れのぼろ着物を着て、ふるえながら泣いているのだ。スヴィドリガイロフを恐れる様子もなく、大きな黒い目に、にぶい驚きを浮かべて、彼を見つめていた。そして、長いあいだ泣いて、やっと泣きやんだ子供が、もうすっかり気がまぎれていながら、何かの拍子でまたすすりあげ