京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

『サリヴァンの精神科セミナー』(2006年、R・G・クヴァーニス+G・H・パーロフ編、中井久夫訳、みすず書房)の書評(大塚紳一郎氏による)

CiNii 論文 -  書評 R・G・クヴァーニス、G・H・パーロフ編『サリヴァンの精神科セミナー』 A Harry Stack Sullivan Case Seminar: Treatment of a Young Male Schizophrenic (中井久夫訳・みすず書房、二〇〇六年五月)

 

 本書はかのハリー・スタック・サリヴァンを招いて開催されたケース・セミナーの記録である。開催されたのは一九四六年の年末から一九四七年にかけてであり、したがってここに登場するサリヴァンはすでにその最晩年を迎えている。
 症例の患者/クライエント(以下、「患者」で統一する)は若い男性であり、研修医であるクヴァーニス(本書の編者でもあるが後に学界の重鎮となったらしい)の実際の治療と並行してセミナーが開催されている。クヴァーニスが治療についてまず報告し、サリヴァンを中心に参加者たちがコメントを寄せるというスタイルで、その様がほぼ逐語的に記録されている。患者は自分は駄目な奴だと頑なに思い込んでおり、それゆえに対人的に引き龍りがちな人である。とくに自身の性的能力について恐ろしく悲観的で、それが自分が駄目な証拠である、などと言っているので、精神分析についての偏った知識による悪影響を被っていたひとなのかもしれない。患者自身は統合失調症であると主張してはいるか、結局診断名が確定されることのないまま、治療もセミナーも継続していく。より重視されるのは、診断名の確定ではなく、患者の生活史や自己評価の低さの起源といったものである。診断が話題になることはあるが、それは何か患者を苦しめているのかを同定する作業の一部としてであり、それ以上ではない。これは本書/本セミナーの、そしてサリヴァンの治療論そのものの大きな特徴であろう。
 本書には訳者である中井による丁寧な「解説と訳書あとがき」が付されており、本書の成立背景や当時の状況などについてはそちらに詳しい。そこで、本稿では全部で五回あるセミナーの第一回に限って、サリヴァンのコメントをいくつか引用し、それらを評者の臨床的関心とつきあわせながら述べていくことにしたい。
〇患者はどういう人かな? (What is he like?)(一七頁)
 第一回目のセミナーで、発表者/治療者であるクヴァーニスは入院後から二ケ月ほどの治療で得られた患者の生活史・現症歴について、いちおうは時系列に添った形でそれまでに知りえたことを参加者に伝える。両親の職業・学業成績・海軍での経験・女性関係・治療歴、などなど。その後、治療場面でのできごとがいくつか報告されたところで、発表がひと段落したのか、あるいはそれを途中で遮ったのかは分からないが、ここではじめてサリヴァンが口を開く。「患者はどういう人かな?」。
 評者は思わず発表者の立場に身を重ねてしまった。それまで自分が述べてきたことこそがまさに「患者がどんな人なのか」、ではなかったのか。よほど動揺したのであろう、発表者は患者の外見、つまり身長や髪型、ハンサムなルックス(!)について述べている(英会話表現に詳しい知人に確認したところ、もし外見を尋ねるのであればWhat does he look like?などと言ったのではないか、とのことだった)。これを受けてサリヴァンは言う、「私がおよそ人間について知りたいことがほぼ全部漏れているぞ」。
 この辛辣なコメントはもちろん外見について述べたことだけではなく、それまでの発表全体に対するものではある。ただ、患者の「臨床像」を語る際に、外見よりも優先されるべき情報があるということは明らかであろう。サリヴァンがより重視している他の多くのポイントがそれぞれ何であるのかは是非とも直接本書にあたっていただきたいが、野暮を承知で一点だけ指摘しておきたい。サリヴァンが真っ先に検討を始めたのは、異性に関心が向くようになる前の発達段階において「同性の一人と親密な関係を樹立できたか」(一八頁)、という点である。

〇憶測だけなら知らないと言え。思弁ならいくらでもできる。君は知らないんだ。(二二頁)

〇患者との有益な接触を発展させる際に、〔患者の置かれていた状況はこうじゃないかなあという〕感じをあらかじめ漠然とでももっておくと、患者に、治療者は本当に気持ちを汲んでくれている、重要な意味のあることを探し求めている、患者の気持ちを理解しているという感じを与える。(三三頁)
 前者は患者の体験について、治療者が憶測するだけでは不十分であり、徹底してデータ/事実を確認することが欠かせない、との意である。これに対して後者では治療関係の形成において、治療者が患者の体験について勘を働かせながら、あるいは憶測をしながら聞くことの重要性が説かれている。
 一見するとこの二つのコメントは矛盾しているように感じられるかもしれない。しかし、実のところ両者の相補的関係こそがどうやら重要である。

 

 

 

 

2019年11月26日:「同姓」→「同性」、ただし大塚氏の元記事と同じ。クヴァーニス氏の底本では「同性」。