京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

1995年3月19日の大阪支部への強制捜査に関する証言(その1)

きわめて重要な事実であるはずの、1995年3月19日の大阪支部への強制捜査に関する分析は、ほとんどなされていない。
まず、資料をすべて集める。公開されていない裁判資料が多いので、不十分であることを確認したうえで、公開されている資料のなかから集める。3月19日の証言と関係ないものもあるが、ねんのために引用する。


『オウム法廷』(降幡賢一

第1巻上
「大阪支部」で検索するが、結果はなし。



第1巻下

 カ 九五年六月十一日の大阪支部における説法における松本の妻松本知子の説法「私たちにとって尊師は師匠でありグルであります。逮捕されたといってもこれも修行の一つであり、尊師は必ず出てきます」

第2巻上
「大阪支部」で検索するが、VX事件(H氏)のもののみ



第2巻下
豊田亨証言

 村井がサリン散布の方法を説明した。ビニール袋に入っているので、鋭利な傘の先端で突いて漏出させる、という話だった。袋は二重になっているので、実行直前に外側の袋を取り去れ、という指示だった。
 袋は十一袋あるという話だった。ビニール袋はほかに水が入った練習用があるので、各自練習するように、と言われた。このとき村井が言ったのは、一つは前日だったか前々日だったかに大阪支部強制捜査が入ったが、これは宗教弾圧である、ということだった。村井がそう思うのなら、そうなのだ、と思った。
 袋に指紋を残さぬよう手袋をして作業せよ、という指示もあった。
 サリンは二重になったビニール袋で部屋の隅の段ボール箱に入っていた。透明な袋に黄色い液体が入っていた。
 十一袋だから二袋ずつ担当することになるが、林泰男が三袋、その他は二袋となった。村井がだれか一人三袋になる、だれがやるかという言葉をかけた。結果的に林泰男が志願する形になってしまった。だれも自分からより多くの袋を取ろうということは出来なかった。だれも言い出さないのを見かねて、林泰男が引き受けた形になった、と理解している」
 ――救済だと信じていたとすれば、多ければ多いほどいいということにはならないのか。
林泰男の心境をどう解釈するかは人によって違います」
 ――新聞紙で包む話は出たか。
「ビニールのままでは目立つということだと思うが、その話は村井からだと記憶している。
(略)

(昼食休憩後)
 ――サリンの用意はだれがすると認識していたか。
「村井さんが用意すると」
 ――東京まで村井が持ってくるということか。
「どういう話かよく覚えていない。(結局サリンは)第七サティアンヘ取りに行った。村井さんから電話があったと思う。下見から帰った後で、電話には林泰男さんが出た。やりとりの言葉は覚えていないが、言い争っている感じだった。(林泰男の説明では)村井さんが来い、と言うので、行くしかない、ということだった。林泰男さん、林郁夫さん、広瀬さん、豊田さん、私で、車を使って向かった。林泰男さん、林郁夫さん、私が同じ車で運転は杉本さん、もう一台は豊田さん、広瀬さんで、運転手は外崎さんだった。ただ、第七へ行くとは分かっていなかったし、上九へ行くとも意識しなかった。着いて第七サティアンと分かった。
 第七サティアンで建物に入ったのは、林泰男さん、広瀬さん、豊田さん、林郁夫さん。運転手はどこにいたかは分からない。入ったのは一階の通路のようなところだった。村井さんがいて、大阪支部強制捜査が入ったと言っていた。第一声だったかどうか分からないが、その話だった。強制捜査の意味はよく分からないが、……えーと、入った人たちは機動隊みたいだった。いよいよ戦争だと言っていた。
サリンを撒くことについては)ビニール袋に水が入っているので、練習をするように言われた。傘で突き剌す練習だった。袋が二重になっていた。新聞でくるんでやれ、ということだった。部屋に水入りのビニール袋があった。数は分からない。傘は部屋にもともとあったかどうか分からないが、用意されていた。傘は数本あった。黒か白のビニール傘だった。新聞紙は練習するときにあった。傘の先が竹やり状に加工されていた。
 サリンの袋は、一人二袋という話だった。二重の袋の外袋をはずすように言われた。それから指紋をつけないように、と。全部で十個あると認識していた」
 ――村井の指示はそれだけか。
「覚えていない」
 ――傘の先を水で洗えという指示はなかったか。
(略)

第3巻

 九五年になってから、林被告は再び信徒拉致計画に駆り出される。一つは一月の阪神・淡路大震災後に、四国の高齢の女性信徒を拉致すること、もう一つは反教団活動をしている、と教団が判断した元大阪支部長の拉致計画だった。林被告はそのいずれをも、いろいろな理屈をつけて断ってしまい、「踏み絵」は踏まなくて済んだが、そのとき林被告が負わされることになっていた役割は、以前に一度動員された拉致計画とは決定的に違っていた。「結局主導的な役割でした。前は後からその計画を知らされる形だったが、今度は明らかに、計画から何から私が入ってやる立場だった」

 ――九五年一月に入ってから、あなた自身に変化があったか。
「ワークや修行、教義のことに、不満や不平や疑問が出てきた。やりたくないというか、やるべきじゃないんじゃないかという意識の仕方で、麻原に対する疑問ではないが、自分がやっていることについてそう思った。

第4巻

 中川証人 よかったと思う。別の法廷では井上君に入信させてもらったと言っていますが、これは訂正したい。入信直後に井上君と話したことがあった。同じ大阪支部にいて、井上君はすぐに出家しましたが、入信した最初の時期に知り合った一人です。
 弁護人 気軽に話せた。
 中川証人 ステージの違いはあり、年齢的には私が六、七歳上だが、ちょこちょこと話はしていた。ムチャクチャ仲がいいというわけではないが……。

 弁護人 (井上被告の証言と)全然違うね。その間、教団に対する強制捜査があるのではないか、という話を聞いたことは。
 中川証人 私は当時修行に入っておりまして、外的な情報はほとんど入ってこなかったし、昼間もほとんど外出していない。新聞はときどき見ていたが、強制捜査が入ってきそう、という情報は当時は聞いていない。
 弁護人 そういう噂は。
 中川証人 大阪支部に強制が入りましたよね、十九日九時か十時ころ。あれで私もああくるんだな、と実感しました。それまでは部屋の片付けをしていた。片付けというのは当時第六サティアンの建築確認の検査がまだ終わっていなかったのに、人が生活していたので、人が住んでいた形跡を消せ、ということでずっと部屋の中を片付けていた。強制捜査がくると実感が湧いたのは十九日の夜で、急いであわてて片付けた。
 弁護人 二十二日から強制捜査が始まったが、後からでもいいですが、二十二日から始まるというのを知っていたんだよ、というような話は聞いたことはないですか。
 中川証人 それはちょっと……。聞いた記憶はありません。そういう話があったのかもしれませんが、私にははっきりとしないところもあるので。
 弁護人 違う表現でもいいので、強制捜査についてはどのような話が出ていたんですか。
 中川証人 私が聞いたのは、一つは自衛隊習志野の空挺第一師団が完全武装で上九周辺に落下傘で急降下してくる、という話で、それは三月の二十日過ぎに『ヴァジラヤーナサッチャ』という教団の出版物を読んで知りまして、そういうことだったんだ、と思いました。私はそれはちょっとおおげさだったんで、教団の出版物だしウソじゃないか、とも思ったんで、井上君に本当なのかと聞くと、井上君は本当なんだと言った。
 弁護人 それはウソだとは思わなかったか。
 中川証人 その場には高橋克也君や林泰男さんもいたので聞いていると思う。高橋君や林さんはもっと事情を知っているみたいだった。

(麻原つまり松本の証言)

(昼食休憩)
 それでは、アット ファースト アイ ウォント トゥー スピーク イングリッシュ ザ イレブン ケーシーズ オアー オケージョン<とまた英語説明。最初、冨田俊男さん事件と言ってから途中で浜口忠仁さんVX殺人事件を話していることに自分で気づいて訂正する。ただし、松本被告は浜口さんを「長浜」さんと間違って話している。その途中から>日本語で話します。長浜さん事件についてお話をします。長浜さん事件は○○君(教団法皇官房次官の一人の実名を言うが起訴されていないので、匿名にする=筆者注)が私のところに、冨田君(ここでも言い間違いをしている=筆者注)が大阪支部で教団分裂を行っているという報告をしてきました。従って、その専門家である井上嘉浩君に調査命令をしたというのが実態です。報告を受けたのは、もうすでに長浜さんが死んでからでした。一般的に考えていただいたら分かる通り、調査、命令をし、これは実際調査したという報告が検察庁やそれから警視庁に上がっていますから、私の主張は完全に通ったわけです。従って、その報告があるということはだれ一人知っていません。報告なしに殺害に至ることは上下関係が成立している教団においてはありえないわけです。従って、この長浜事件については有罪ではなく、無罪になったわけです。(略)

第5巻

遠藤誠一証言

「私はもともと宗教に興味はなかった。京大大学院でエイズとか血液の研究をしていたが、病気は治せても、それは現象だけで、心の本質を変えるようなこととは違うな、と新技術の限界を痛烈に感じていた。そのころ教祖である麻原さんの本を見た。そこに大阪支部開設のチラシが入っていて、それをきっかけに通った。最初に行ったとき、大内利裕、早苗兄妹が切り盛りしていた。入信して、井上さん(嘉浩被告)、早川さん(紀代秀被告)とそのころ知り合った」
「そのころ、たまにセミナーが開かれていて、そこで教祖に会った。大阪支部で説法のとき見かけて話をするようになった。付き人は石井久子さんで、影のようにぴったり寄り添っている、付き人か秘書のような存在と思った」

早川紀代秀証言

マイトレーヤ弥勒菩薩。ただし、後にも弁護人の質問で出てくるが早川被告はマイトレーヤ如来、という言い方をしている=筆者注)、世界救済の前のその通りの人と、そういう方であると考えていた。仏陀とは目覚めた人という意味だが、麻原被告はただの仏陀ではない。仏陀の中でも地球規模の救済をする魂、マイトレーヤ、神以上の存在だ、と信じていた。それについては、いろんな方が言っておられるだろうが、周りにいた(大阪支部長だった)大内さん(利裕被告)もそう思っていたし、作業していた人はみんなそう信じていた」

第6巻
石井久子証言

 ――(八七年初めに開設した)大阪支部以外の支部は。
「名古屋、福岡、札幌、そのあとできたのがいくつかあったかもしれない」

第7巻
「大阪支部」で検索するが、結果はなし。



第8巻
大内利裕証言に関連する記述

 八七年初め、被告は教団の初の支部である大阪支部の初代支部長になった。そのころについて、教団元幹部の井上嘉浩被告が別の法廷で語ったことがある。

早川紀代秀証言

 教団がまだ「オウム神仙の会」と名乗っていた一九八六年に入会し、大阪支部で当時高校生だった井上被告と一緒に行動した早川被告には、今も井上被告との間に通じ合うものがあるとの思いがあるのだろう。逮捕後初めて、この日法廷で出会った井上被告とときに笑顔をかわしながら証言する早川被告は、いつにも増して冗舌だった。

 井上被告の公判で証言したのは、それから一カ月後だった。このとき早川被告は自分の「宗教的確信」は大阪支部長の大内利裕被告と出会ったことがきっかけだった、と次のように述べている。

早川紀代秀被告の井上嘉浩被告公判での証言から抜粋】(1998年11月12日)
 ●弁護側主尋問
「大阪支部は私が入会した年(八六年四月)の翌年八七年二月か三月に出来た。井上君と会ったのはそのときか、それ以前大阪での集中セミナーがあったときかもしれない。私はそのとき三十六歳から三十八歳くらいで、被告人は高校生だと思う。支部で熱心な信徒として会った。最初の印象は明るく、素直で、純真な感じだった。どちらかというと軽い少年、という感じを受けた」

 ――観念崩しはこのころからあったか。
「言われ出したのは大阪支部の時代からで、よく大内さんから言われた。後にこれが発展して、マハームドラーにかけられた、と言われるようになった」

(略)例えば大阪支部のころ、グルドリシッディが予言通りに、急激に起きた。カエル跳びのような現象が起きることを言うが、これには私自身がびっくりし、言われる通りにクンダリニーが覚醒しているんだな、と思った」
 ――それで全面的に信じた、と。


第9巻
井上嘉浩証言とそれに関する証言、または記述

 母親はそう固執していなかったが、父親は息子には「大学ぐらいは卒業させたい」という思いが強かったらしい。三年生のとき、妻と一緒に教団大阪支部を訪ねた父親は、「教祖」松本智津夫麻原彰晃)被告に直談判して大学受験を納得させる。

「しかし、主人には大学に行かせたい、という気持ちがありました。高校三年生の夏休みに麻原氏が大阪に来られるので行ってみたいなと思い、夫を連れて(教団の大阪支部へ)行きました。そこで、父親が言ったことにびっくりしました。教団では、大内利裕さん(被告)が出迎えに出てドアを開け、麻原氏の横に石井久子さん(元被告)がいました。夫が『嘉浩に出家を勧めるようなことは言わないでください』と言うと、麻原氏は、『それはお父さんのエゴでしょう、親の言いなりにしようとするのか』と言いましたので、大喧嘩になりました。(略)

「嘉浩がテレビに出たことがあります。NHKの現代の若者の宗教への思いを特集する番組(「神秘にひかれる若者たち」)で、嘉浩が取り上げられました。大阪支部の信徒が出ましたが、嘉浩は食卓を囲みながら、四、五人の仲間とニコニコしていました。自己の苦しみを自己の喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする、と説明し、和気藹々とした雰囲気で、いい宗教だな、と思っていました」

「嘉浩は一年生の一学期で大学をやめました。九月にはオウムで本格的な出家修行者になり、十一月十日ごろ、嘉浩から手紙が来ました。『血へどを吐こうが、死のうが、修行に専念する』とあり、それから十日ほどたって、大阪支部の方から、クンダリニーの成就者になり、アーナンダという名をいただいた、と連絡がありました。たいそううれしかったです。アーナンダは釈迦の十大弟子の一人、大きな名前をもらったと喜んでいました」

 以後、被告は、ダライ・ラマと一緒の「教祖」の写真を見せられて、ますます「麻原は本物」と思い、教団幹部の石井久子元被告が「成就した」と認定されたのを見ては、「ついていけば自分も解脱出来る」と確信を深める。そして、通っていた教団大阪支部支部長、大内利裕被告らから影響を受け、「教祖」は裏表のない「慈悲深い人」と考えてますます教団にのめり込んでいった。そして被告は、修行中に起きた体が跳ね飛ぶ現象、ダルドリシッディを自分の霊的進化のあかしと誇りに思い、高校の卒業アルバムにわざわざ、「アイ キャン フライ」と書いている。

第10巻
「大阪支部」で検索するが、結果はなし。



第11巻

(1)教団においては若年で社会経験に乏しい出家信者が多い中にあって、被告人は、松本から入信前の社会人としての活動を高く評価され、入信直後から大阪支部における在家信者のリーダー格に指名されただけでなく、幹部出家信者の会合への出席も許され、出家後も、八八年十二月、クンダリニーヨーガを成就したとして、松本から「大師」の地位を与えられるとともに、「ティローパ」のホーリーネームを授けられ、総務部長として教団の支部開設等の責任者として教団を代表する活動をしていたほか、九〇年二月の衆議院議員総選挙に向け、八九年十月ころから組織されていた選挙運動の裏の部隊の責任者としても活発に活動しており、松本の側近中の側近であった。

 被告人は、出家後、教団大阪支部の副支部長として信者の勧誘を行った後、入信前の専門を生かして教団富士山総本部道場等の建設の責任者に就任し、その後、教団総務部長として全国における教団支部の開設や宗教法人化の業務を担当するのと合わせて、CBIの責任者として教団施設等の建設を担当し、日本国内における教団の勢力拡張に目覚ましい働きをした。


土谷正実被告 弁護側冒頭陳述の要旨】

 4 被告人は、遠藤からサリン合成の目的を聞かされなかったものの、当日にはオウム真理教大阪支部に対して強制捜査が行われており、上九一色の教団施設への強制捜査が今日にでも行われる緊迫した状況にあったので、強制捜査が行われればクシティガルバ棟等の実験施設は使用することが出来なくなるため、ジフロではなくサリンで保管する目的で急いで合成するのかと考えたものの、他人に対して使用するなどということは考えたこともなかった。

 1 被告人は、九五年三月十九日にオウム真理教大阪支部強制捜査が入ったことから、上九一色の教団施設にも強制捜査が入ると考えて、これに備えるためにサリンの合成実験等のために収集した論文等を焼却するとともに、クシティガルバ棟で行った各種化学実験のデータを確保しなければならないと思った。
 2 被告人は、翌二十日未明、各種実験のデータを入力した光磁気デスク(MO)を持ち出してこれを隠すために、第二厚生省のメンバーであった細川高伸に対して、これからクシティガルバ棟を離れるので一緒に行って欲しい旨を話し、そのための車の手配と運転を依頼した。
 3 被告人は、MO約二十枚やマジックマッシュルームなどと現金約三十万円を所持して、細川の運転する教団の車で奈良(真弓)と共に静岡県富士市所在のジャパンレンタカー富士営業所に行き、細川は同所でレンタカーを借りた。
 被告人は、細川の運転するレンタカーで国道一号線を西に向かって進んで静岡県浜松市方面に行き、一方、奈良は細川の運転してきた教団の車を運転して上九一色の教団施設に戻った。
 4 被告人は、浜松市内の遠州灘海浜公園に行ってレンタカーを停めて車内で仮眠していたところ、車の側を散歩していた人の「大変なことになりましたね」「クーデター云々」の会話を聞いて、あわててレンタカーのラジオを聞いたところ都内の地下鉄の駅で多数の負傷者が発生した事実を知っだが、特別の思いを抱かなかった。
 5 被告人らは、その後東海道線浜松駅付近に行った際に、電機店の店頭のテレビでしばらく事件の報道を見たが、被告人は遠藤らが合成したサリンとの関連についても全く頭に浮かばなかった。
 被告人は、上九一色村の教団施設に電話したところ、中川から戻ってこないように言われたので、磐田市や細川の実家のある岐阜県瑞浪市を経て(その後静岡県内、愛知県内などをレンタカーで転々とした。

中川智正被告 弁護側冒頭陳述(地下鉄サリン事件と仮谷事件)から抜粋】

 4 サリンの袋詰めの際に大阪支部強制捜査が入ったことがCMI棟にも伝わってきた。被告人は教団への強制捜査がすぐにでも入ってきておかしくないと思い始めていた。
 サリンの袋詰めが終わった後、遠藤は製造したサリンをどこかへ持って行った。