京都アニメーション放火殺人事件(京都市伏見区放火殺人事件、2019年07月18日)の資料収集の会

(元・オウム真理教事件・資料収集および独立検証の会、できるかぎり同時進行)

1995年3月19日の大阪支部への強制捜査に関する証言(その2)

第12巻

遠藤誠一

 その後、別の神秘体験もしてさらに興味を持った被告人は、オウム神仙の会の大阪支部を訪ね、八七年三月、同会に入会した。このころの神仙の会は、被告人にとっては、宗教団体という印象はなかった。

 その後、中川の指示に従い物質収支表に沿って薬品の混合を開始し、土谷が生成開始の滴下を始めた。途中、反応が進まないということで中川と土谷の指示で反応温度を上げた。被告人は、途中から田下聖児に実験の補助を依頼した。
 このころ、教団大阪支部強制捜査が入った旨の連絡があり、被告人らもこのことを知った。
 土谷から、サンプリングの結果サリンが出来ていることおよび不純物の分離には時間がかかることを聞かされたが、これに対し麻原は、その状態でいいと答えた。被告人は麻原のこの回答に「上九にも強制捜査が入るかもしれないのでこれで実験はやめるように」という指示だと受け取った。

中川智正

「龍宮の宴」の直後、被告人は再度大阪へ出向く用事があったため、教団の大阪支部道場へ立ち寄った。被告人はその日、早川紀代秀と会い、短時間話したが、入信はしなかった。

 被告人は、八八年二月半ばに、教団大阪支部に相談した。平田信が電話に出て被告人に入信を勧めた。被告人は入信する意思をほぼ固めて大阪支部へ再度行った。大阪支部では新実智光平田信、井上嘉浩らが被告人に応対した。被告人は入信の手続きをした。

遠藤誠一

 製造したサリンが散布されると思っていなかった、と主張する根拠として遠藤被告があげたのは、事件前日の九五年三月十九日夜、作業中に教団大阪支部に警察の強制捜査があったことだった。故村井秀夫元教団幹部の指示で、出来上がったサリンを中川被告と一緒にビニール袋に詰める作業をしたとき、「作業は強制捜査で見つけられないようにどこかに移動するためだ、と思った」と被告は説明する。

新実智光

 被告人は、出家後、「ワーク」と称して同会が出版する書籍の営業活動に従事し、八七年七月、同会がオウム真理教に名称変更した後も同様のワークを続け、同年十二月三日、クンダリニー・ヨーガを成就したとして「大師」のステージを与えられるとともに、松本からチベット密教カギュ派の聖者の名前にちなんで「ミラレパ」のホーリーネーム(宗教名)を授けられた。その後、被告人は、松本の秘書室長として、主に同人のスケジュール管理や身辺警護などを担当するかたわら、福岡支部長、大阪支部長、東京本部長などの要職を歴任し信者の勧誘を行い、教団の勢力拡張に目覚ましい働きをした。


第13巻

(3)村井の指示の下で、遠藤は土谷や中川と相談してサリン生成の作業を行った。遠藤は、サリン生成作業をしている際に、教団大阪支部強制捜査が入ったことを知り、完成を急いだのであった。その結果、三月十九日午後十時頃には、サリンらしきものが一応生成された。

中川智正被告 被告人質問から抜粋】(2002年11月15日 第104回公判)

 ――中川さんはどう認識していたか。
「遠藤さんがどこかへ行ってしまい、ひょっとして報告にでも行っているのかな、と思いました。(その後で教団大阪支部への)強制捜査の話を聞いて、どうなるのかな、と思っていると、足音をどんどん踏みならして帰ってきて、袋詰めするぞ、と言われた。それが私の認識です」
 ――強制捜査が入ったと聞いて、どう思ったか。
「そのときは横にサリンが五リットルある。非常に不安になった。やめて逃げ出したくなった」

土谷正実

「次回、尊師の法廷で証言することになっているが、九五年三月十九日、私はCMI棟に五回呼び出され、その四回目のとき、まだ日が上がっていたが、その四回目が終わってクシティガルバ棟に戻ってしばらくして、○○さん(元被告。九五年十一月十六日、薬事法=麻酔薬密造=で懲役一年六月、執行猶予三年の判決を受けて確定=筆者注)から大阪支部強制捜査が入ったと知らされた。そのときは夜だが、その報告を受けて初めて遠藤さんは次のように考えたのかな、と考えた。それは上申書に書いたことだが、強制捜査が入れば、実験が不可能になる。よって、中間生成物のジフロではなく、サリンで保管する考えで、遠藤さんは行っていたのかなと考えた。(以下略)」
 ――遠藤の合成に被告人は関与したと述べたが、被告人は具体的にどのように関与したと認識しているか。
「遠藤さんに試薬を準備しろと言われて準備した点が一点。ただし、私か準備した試薬とCMI棟で見た試薬は違う。私の試薬では検出されるはずの物質がナイロンポリエチレン袋(内の液体)から検出されていない点。だから、遠藤さんが何をしたかわからないと私は言っている。それと、メカニカルシールや金具を貸してくれと中川さんから言われて、菊地さん(直子容疑者=逃走中)に聞いてくれと言ったので、中川さんはメカニカルシールを使ったのかもしれない。この化学合成実験のため、器具をたくさん購入した。これが二点目。三点目は合成方法を書いたメモを遠藤さんに渡したが、後は原料の量(を書いたメモ)を、遠藤さんの指示だと言って来た中川さんに渡している。あとは、CMI棟に五回呼び出され、それぞれの場面に遠藤さんから指示を受け、中川さんとも話し合ったことがある。あと、四回目にCMI棟に行ったとき、遠藤さんから分析を依頼された。そのとき三つ口または四つロフラスコの中身が二層に分かれていて、上層、下層の液体の分析をし、両方の層からサリンを検出した旨、遠藤さんに電話で報告した。五回目の後、クシティガルバ棟から外出するとき、遠藤さんが一つ分析資料を持ってきたので分析した。サリンを検出したので、電話で報告した」

 事件前夜、サリンの合成作業中に教団大阪支部への強制捜査があったと知ったころ、完成したサリン溶液が二層に分かれていたことからこれを分溜するかどうかが問題になったときの対応について、第二百四十六回公判(一月三十一日)で次のように答えたのもその趣旨だった。土谷被告が丸一日くらいかけた方がいい、と言うと、遠藤被告が間髪を入れずに「今日中は無理か。もういい」と答えたことをあげ、土谷被告はこう述べたのだ。
「だから私は、もういい、と言われて、これから捨てるのかな、と思った。もう作業をやめるのかなと思った。実験そのものを。ドラフトの中の実験装置や、フラスコの中の液体がありましたよね。そこで終わりにするのか、と思った。分溜もしないし、その他の作業もしないと思った。ちょっとわからないんですよね。(上九一色村の教団施設にも)強制捜査が間近だというのに、どうしてこんなことをやるのか、と」
 それから「出張」と称して、早々に逃走した土谷被告は、逃走先の静岡県浜松市で事件を知ったとき、遠藤被告らが作ったサリンが使われたという認識はなかったし、その報道内容からむしろ事件はオウムではないと確信した、と第二百四十七回公判(二月十三日)で次のように「教祖」の弁護人に対して説明してみせた。