『カラマーゾフの兄弟』P154-161   (『ドストエーフスキイ全集』第13巻(1959年、米川正夫による翻訳、河出書房新社))[挑戦10日目]

たった一冊しかないことや、僕がそれよりほかこの種類のものを何にも読んでないことを知ったらどうだろう? コーリャはふとこう考えついて、思わずぞっとした。)
「どうしてどうして、そんなことはありません。私は笑ってやしません。君が嘘を言われるなんてまったく考えてもいません。それこそ本当に、そんなこと考えてやしませんよ。なぜって、悲しいことには、それがみんな本当のことなんですものね! ときに、君はプーシュキンを読みましたか、『オネーギン』を……いま君は、タチヤーナのことを言ったじゃありませんか?」
「いいえ、まだ読みませんが、読みたいとは思っています。カラマーゾフさん、ぼくは偏見を持っていませんから、両方の意見を聞きたいと思っているのです。なぜそんなことを訊くんですか?」
「なに、ただちょっと。」
「ねえ、カラマーゾフさん、あなたは僕をひどく軽蔑していらっしゃいますね?」とコーリャは投げつけるように言い、喧嘩腰といったような恰好で、アリョーシャの前にぐいと身を伸ばした。「どうかぴしぴしやって下さい、あてこすりでなしに。」
「あなたを軽蔑しているって?」アリョーシャはびっくりしてコーリャを見た。「そりゃどうしてです? 私はただ、あなたのようなまだ生活を知らない美しい天性が、そういうがさつな愚論のために片輪にされてるのが、淋しいんですよ。」
「僕の天性なんか心配しないで下さい」とコーリャは少々得意げな調子で遮った。「しかし、僕が疑りぶかい人間だってことは、そりゃまったくそのとおりです。ばかばかしく疑りぶかいんです。もう下司っぽいほど疑りぶかいんです。あなたは今お笑いになりましたが、僕はもう何だか……」
「ああ、私が笑ったのは、まるでほかのことですよ。私が笑ったのは、こういうわけなんです。以前ロシヤに住んでいたあるドイツ人が、現代ロシヤの青年学生について述べた意見を、私は近ごろ読んでみましたが、その中に『もしロシヤの学生にむかって、彼らが今日までぜんぜん何の観念も持っていなかった天体図を示したなら、彼らはすぐ翌日その天体図を訂正して返すであろう』とこう書いてありました。このドイツ人はロシヤの学生が何らの知識も持たないくせに、放縦な自信家だということを指摘したんです。」
「ええ、そうです、それはまったくそのとおりですよ!」コーリャは急にきゃっきゃっと笑いだした。「最上級に正確です、寸分相違なし! ドイツ人、えらい! けれど、やっこさん、いい方面を見落しやがった、あなたはどうお思いですか? 自信、――それはかまわないじゃありませんか。これはいわば若気のいたりで、もし直す必要があるとすれば、やがて自然に直りますよ。けれども、そのかわりドイツっぽのように、権威の前に盲従する妥協的精神と違って、ほとんど生来からの不羈の精神、思想と信念の大胆さがあります……だが、とにかくドイツ人はうまいことを言ったものですね! ドイツ人、えらい! が、それにしても、ドイツ人は締め殺してやらなけりゃなりません、彼らは科学にこそ長じていますが、それにしても締め殺さなけりゃなりません……」
「何のために締め殺すんです?」とアリョーシャは微笑した。
「ええ、僕はでたらめを言ったかもしれません。それは同意します。僕はどうかすると、途方もない赤ん坊になるんです。何か嬉しくなってくると、たまらなくなって、恐ろしいでたらめを言いかねないんです。だけど、僕らはここでくだらないことを喋っていますが、あの医者はあそこで何やら、長いことぐずついていますね。もっとも、『おっ母さん』だの、あの脚の立たないニーノチカだのを診察してるのかもしれません。ねえ、あのニーノチカは僕気に入りましたよ。僕が出て来る時に、『なぜあなた、もっと早くいらっしゃらなかったの?』って、だしぬけに小さい声で言うじゃありませんか。何ともいえない責めるような声でね! あのひとはとても気だての優しい、可哀そうな娘さんのように思われます。」
「そうです、そうです! 君もこれからここへ来ているうちに、あのひとがどんな娘さんかってことがわかりますよ。ああいうひとを知って、ああいうひとから多くの価値ある点を見いだすのは、あなたにとって非常に有益なことです」とアリョーシャは熱心に言った。「それが何よりも工合よく君を改造してくれるでしょう。」
「ええ、実に残念ですよ。どうしてもっと早く来なかったろうと思って、自分で自分を責めているんです」とコーリャは悲痛な調子で叫んだ。
「そうです、実に残念です。君があの哀れな子供に、どんな喜ばしい印象を与えたか、君自身ごらんになったでしょう。あの子は君を待ちこがれながら、どれくらい煩悶したかしれません。」
「それを言わないで下さい! あなたは僕をお苦しめになるんです。しかし、それも仕方がありません。僕が来なかったのは自愛心のためです、利己的自愛心と下劣な自尊心のためです。僕はたとえ一生涯くるしんでも、とうていこの自尊心からのがれることはできません。僕は今からちゃんとそれを見抜いています。カラマーゾフさん、僕はいろんな点から見てやくざ者ですよ!」
「いや、君の天性は曲げ傷つけられてこそいるが、美しい立派なものです。なぜ君があの病的に敏感な高潔な子供に対して、あれだけの感化を与えることができたか、私にはちゃんとわかっています!」とアリョーシャは熱心に答えた。
「あなたは僕にそう言って下さいますが」とコーリャは叫んだ。「僕はまあ、どうでしょう、僕はこう考えたんです、――現に今ここでも、あなたが僕を軽蔑していらっしゃるように考えていました! ああ、僕がどれくらいあなたのご意見を尊重してるか、それがあなたにわかったらなあ!」
「だが、君は本当にそれほど疑りぶかいんですか? そんな年ごろで! ねえ、どうでしょう、私はあそこの部屋で、君の話を聞きながらじっと君を見て、この人はきっと、むしょうに疑りぶかい人に違いない、とこう思いましたよ!」
「もうそう思ったんですか? それにしても、あなたの目はなんて目でしょう。ごらんなさい、ごらんなさい! 僕、賭けでもしますが、それは僕が鵞鳥の話をしていた時でしょう。僕もちょうどその時、あんまり自分をえらい者に見せかけようとあせるので、かえってすっかりあなたに軽蔑されてるような気がしました。そして、それがために急にあなたが憎くなって、くだらない話の連発をはじめたんです。それから(これはもう今ここでのことですが)、『もし神がないものなら、考え出す必要がある』と言った時にも、自分の教養をひけらかそうとあせったのだ、というような気がしました。ことにこの句はある本を読んで覚えたんですからね。けれど僕、誓って言いますが、あんなに急いで自分の教養をひけらかそうとしたのは、決して虚栄のためじゃないんです。何のためだか知りませんが、たぶん嬉しまぎれでしょう……もっとも、嬉しまぎれに有頂天になって、人の頸っ玉に嚙りつくような真似をするのは、深く恥ずべきことですけれど、確かに嬉しまぎれのようでした。それは僕わかっています。けれど今はそのかわり、あなたが僕を軽蔑していらっしゃらないってことを信じています。そんなことはみんな僕自分[#「僕自分」はママ]で考え出した妄想です。ああ、カラマーゾフさん、僕は実に不幸な人間ですね。僕はどうかすると、みんなが、世界じゅうのものが僕を笑ってるんじゃないかというような、とんでもないことを考えだすんです。僕はそういう時に、そういう時に、僕は一切の秩序をぶち壊してやりたくなるんです。」
「そして、周囲のものを苦しめるんでしょう」とアリョーシャは微笑した。
「そうです、周囲のものを苦しめるんです、ことにお母さんをね。カラマーゾフさん、僕はいまとても滑稽でしょう?」
「まあ、そんなことを考えないほうがいいですよ、そんなことは、ぜんぜん考えないがいいです![#「考えないがいいです!」はママ]」とアリョーシャは叫んだ。「滑稽が何です? 人間が滑稽なものになったり、あるいはそういうふうに見えたりすることは、いくらあるかしれません。今日ではみんな才能のあるひとたちが、滑稽なものになることをひどく恐れて、そのために不幸になってるんですよ。ただ私が驚くのは、君がそんなに早く、これを感じはじめたことです?[#「ことです?」はママ] もっとも、私はもうとっくから、ただ君ばかりでなく、多くの人にそれを認めていたのですがね。今日ではほとんど子供までが、これに苦しむようになっています。それはほとんど狂気の沙汰です。この自愛心の中に悪魔が乗り移って、時代ぜんたいを荒らし廻ってるんです、まったく悪魔ですよ。」じっと熱心に相手を見つめていたコーリャの予期に反して、アリョーシャは冷笑の影もうかべずに言いたした。「あなたもすべての人たちと同じです」とアリョーシャは語を結んだ。「つまり、大多数の人たちと同じですが、ただみんなのような人間になってはいけません、ほんとに。」
「みんながそうなのに?」
「そうです、たとえみんながそうであっても、君ひとりだけそんな人間にならなけりゃいいんです。それに、実際、君はみんなと同じような人じゃありません。現に君は今も、自分の悪い滑稽な点さえ認めることを、恥じなかったじゃありませんか。まったく、こんにち誰がそういうことを自覚してるでしょう? 誰もありゃしません。その上、自分を責めようという要求さえも起きないんです。どうかみんなのような人間にならないで下さい。たとえそういう人間でないものが、ただ君ひとりだけになっても、君はそういう人間にならないで下さい。」
「実に立派だ! 僕はあなたを見そこなわなかった。あなたは、人を慰める力を持っていらっしゃる。ああ、カラマーゾフさん、僕はどんなにあなたを慕っていたでしょう。どんなに以前から、あなたに会う機会を待っていたでしょう。じゃ、あなたもやはり、僕のことを考えていられたんですか? さっきそうおっしゃったでしょう、あなたも僕のことを考えてたって?」
「そうです、私は君のことを聞いて、やはり君のことを考えていました……もっとも、君はいくぶん、自愛心からそんなことを訊いたのでしょうが、そりゃ、なに、かまいませんよ。」
「ねえ、カラマーゾフさん、僕たちの告白はちょうど恋の打ち明けに似ていますね」とコーリャは妙に弱々しい羞恥をふくんだ声で言った。「それは滑稽じゃないでしょうか、滑稽じゃないでしょうか?」
「ちっとも滑稽じゃありませんよ。それに、よしんば滑稽でもかまやしませんよ。それはいいことですものね」とアリョーシャははればれしく微笑した。
「ですがねえ、カラマーゾフさん、あなたはいま僕と一緒にいるのを、恥しがってらっしゃるようですね……それはあなたの目つきでわかっています。そうでしょう?」コーリャは妙に狡猾な、しかし一種の幸福を感じたようなふうで、にたりと笑った。
「何が恥しいんです?」
「じゃ、なぜあなたは顔を赤くしたんです?」
「それは、君が赤くなるようにしむけたんです!」アリョーシャは笑いだした。実際、彼は顔じゅう真っ赤にしていた。「だが、そうですね、少しは恥しいようですね、なぜかわからないんですがね、なぜか知らないんですがね……」彼はほとんどどぎまぎしたようにこう呟いた。
「ああ、僕はどんなにかあなたを愛してるでしょう。どんなにこの瞬間あなたを尊重してるでしょう! それはつまり、あなたが僕と一緒にいるのを、恥しがっていらっしゃるためです。なぜって、あなたはちょうど僕と同じだからですよ!」コーリャはすっかり夢中になってこう叫んだ。彼の頬は燃え、目は輝いた。「ねえ、コーリャ、君は将来非常に不幸な人間になりますよ。」アリョーシャはなぜか突然こう言った。
「知っています、知っています。本当にあなたは何でも先のことがおわかりになりますね!」とコーリャはすぐ承認した。
「だが、ぜんたいとしては、やはり人生を祝福なさいよ。」
「そうですとも! 万歳! あなたは予言者です! ああ、カラマーゾフさん、僕らは大いに意気相投合しますね。ねえ、いま僕を一ばん感心させたのは、あなたが僕をまったく同等の扱いになさることです。だけど、僕らは同等じゃありません。そうです、同等じゃありません、あなたのほうがはるかに上です! けれども、僕らは一致しますよ。実はねえ、先月のことでした、『僕とカラマーゾフさんは、親友としてただちに永久に一致するか、あるいは最初から敵となって、墓に入るまで別れるかだ!』とこうひとりで言ったんですよ。」
「あなたがそう言った時には、むろんもう私を愛していたんです!」とアリョーシャは愉快そうに笑った。
「愛していました、非常に愛していました、愛すればこそ、あなたのことを、いろいろと空想していたのです! どうしてあなたは何でも前からわかるんでしょうね? ああ、医者が来ました。ああ、一たい何と言うんだろう。どうです、あの顔つきは!」

  第七 イリューシャ

 医師はまた毛皮の外套にくるまり、帽子をかぶって出て来た。彼は腹だたしそうな気むずかしい顔つきをしていた。それは何か汚いものに触れるのを恐れているようであった。彼はちらりと玄関のほうへ視線を投げ、その拍子にいかつい目つきで、アリョーシャとコーリャを見た。アリョーシャは戸口から馭者を手招きした。と、医師を乗せて来た馬車は、入口に寄せられた。二等大尉は医師のあとからまっしぐらに飛び出して来て、謝罪でもするようにその前に腰をかがめながら、最後の宣告を聞こうと、引き止めた。哀れな大尉の額は死人の顔そのままで、その目は慴えたようであった。
「先生さま、先生さま……一たいもう?」彼はこう言いさしたが、まだ言い終らぬうちに、絶望のていで両手を拍った。彼は医師がもう一こと何とか言ってくれたら、不幸な子供の容態が実際もち直すとでも思っているもののように、最後の哀願の色をうかべて、医師を見つめるのであった。
「どうも仕方がないね! 私は神様じゃないから。」医師は馴れきった、さとすような声で、無造作にこう答えた。
「ドクトル……先生さま……それはもうすぐでございましょうか……すぐで?」
「万一の覚悟……をしておいたが、いいでしょう。」医師は一こと一こと、力を入れながらこう言うと、視線をわきへそらし、馬車のほうをさして、閾を跨ごうと身構えした。
「先生さま、お願いでございます!」二等大尉はびっくりしたように、医師を引き止めた。「先生さま!………では、どうしても、もうどうしても、今ではどうしても助からないのでございましょうか?………」
「もう私ではどうにも……ならん!」と医師はじれったそうに言った。「だが、ふむ、」彼は急に立ちどまった。「でも、もしお前さんが今すぐ、一刻も猶予せずに(医師は『今すぐ、一刻も猶予せずに』という言葉を、いかついところを通り越して、ほとんど腹立たしいばかりに言ったので、二等大尉はびくりと身ぶるいしたほどであった)……患者を………シ―ラ―ク―サヘ……連れて……行けば……温―暖な気―候―のために、ことによったら……あるいは―……」
シラクサですって!」言葉の意味を解しかねるらしく、二等大尉はこう叫んだ。
シラクサというと、――それはシシリイにあるのです。」コーリャは説明のために、とつぜん大きな声で投げつけるように言った。
 医師は彼を見やった。
「シシリイヘ! 旦那さま、先生さま、」二等大尉は茫然としてしまった。「まあ、ごらんのとおりでございます!」彼は自分の家財道具を指さしながら、両手で円を描いた。「あのおっ母さんや、家族のものはどうなるのでございましょう?」
「い、いや、家族はシシリイヘ行くんじゃない、お前さんの家族はコーカサスへ行くんだ、春早々にね……娘さんはコーカサスへやって、細君は……あの人もレウマチをなおすために、やはりコーカサスで規定の湯治をすますと……それから、すぐパリヘ―出かけて、精―神―病科専門のレペル―レティエの治療院へはいるんだねえ。私がその人へ添書を書いてもいい、そうすれば……あるいは……」
「先生、先生! でもこのとおりじゃありませんか!」何も貼ってない玄関の丸太壁を、絶望的に指さしながら、二等大尉はまたとつぜん両手を振った。
「いや、それはもう私の知ったことじゃないんだ。」医師は薄笑いをもらした。「私はただ、最後の方法をどうかというお前さんの質問に対して、科学の示し得るところを言ったにすぎん。だから、それ以外のことは……残念ながら……」
「ご心配はいりません、お医者さん、僕の犬はあなたに嚙みつきゃしません。」
 医師が、閾の上に立っていたペレズヴォンにいくぶん不安げな目をそそいでいるのに気づいたので、コーリャは大声にこう遮った。
 コーリャの声には怒りの調子がこもっていた。彼は先生と言わずに、わざと『お医者さん』と言ったのである。それは、彼があとで白状したとおり、『侮辱のために言った』のである。
「な―ん―で―すって?」医者は驚いたようにコーリャの方へ目を据えて、ぐいと頭をしゃくった。「こ……この子は何ものだね?」医者は、アリョーシャに責任を求めようとでもするように、とうぜん彼のほうへふり向いた。
「この子はペレズヴォンの主人ですよ。お医者さん、僕の人物については心配ご無用ですよ。」コーリャはまたきっぱりこう言った。
「ズヴォン?」と医師は鸚鵡返しに言った。ペレズヴォンが何ものかわからなかったのである。
「やっこさん自分がどこにいるか知らないんだ。さようなら、お医者さん、またシラクサでお目にかかりましょう。」
「何ものです、こ……この子は? 何ものです、何ものです?」医師は、にわかにやっきとなってこう言った。
「先生、あれはここの学生です。やんちゃ者なんです。お気にとめないで下さい」とアリョーシャは眉をしかめながら、早口に言った。「コーリャ、もうおやめなさい!」と彼はクラソートキンに叫んだ。「先生、気におとめになっちゃいけませんよ」と今度はいくぶんいらいらしながら繰り返した。
「引っぱたいて……引っぱたいてやるぞっ……引っぱたいて!」なぜか度はずれにいきり立った医師は、どしんどしんと地団駄を踏んだ。
「だがね、お医者さん、僕のペレズヴォンは、ことによったら、本当に嚙みつくかもしれませんよ!」コーリャは真っ蒼になって目を光らせながら、声をふるわしてこう言った。「Iic[#「Iic」はママ], ペレズヴォン!」
「コーリャ、もう一度そんなことを言ったら、私は永久に君と絶交しますよ!」とアリョーシャは威をおびた調子で叫んだ。
「お医者さん、ニコライ・クラソートキンに命令することのできるものが、世界じゅうにたった一人あるんです、それはこの人なんです(と、コーリャはアリョーシャを指さした)。僕はこの人にしたがいます、さようなら!」
 彼はいきなりそこを離れると、戸をあけて、急ぎ足に部屋へ入った。ペレズヴォンも彼のあとから駈け出した。医師はアリョーシャをうちまもりながら、化石したように五秒間ばかり立ちすくんでいたが、やがて突然ぺっと唾をして、「一たい、一たい、一たい、一たいこれは何事だ!」と大声に繰り返しながら、急ぎ足に馬車のほうへ行った。二等大尉は医師を馬車へ乗せるために、急いで駈けだした。アリョーシャはコーリャにつづいて部屋へ入った。コーリャはもうイリューシャの寝床のそばに立っていた。イリューシャは彼の手を握って、お父さんを呼んだ。やがて二等大尉も帰って来た。
「お父さん、お父さん、ここへ来てちょうだい……僕たちはね……」とイリューシャは非常な興奮のていで呟いたが、あとをつづけることができないらしく、とつぜん瘦せた両手を前へさし伸べて、力のかぎり彼ら二人、コーリャと父親を一度に強く抱きしめ、彼らにぴったり身を寄せた。
 二等大尉はにわかにぶるぶると全身を慄わしながら、忍び音にすすり泣きをはじめた。コーリャの唇と顋が慄えだした。
「お父さん、お父さん! 僕お父さんが可哀そうでならないの!」とイリューシャは声高に、呻くように言った。
「イリューシャ……ね、これ……いま先生が言われたが……お前たっしゃになるよ……そして、私たちは仕合せになるよ……先生は……」と二等大尉が言いかけた。
「おお、お父さん! 僕こんどのお医者さんが何と言ったか知ってるの……僕見たんだもの!」と、イリューシャは叫んで、父の肩に顔を埋めつつ、二人をしっかりと抱きしめた。
「お父さん、泣かないでちょうだい……僕が死んだら、ほかのいい子をもらってちょうだい……あの人たちみんなの中から自分でいいのを選って、イリューシャという名をつけて、僕の代りに可愛がってちょうだい……」
「よせよ、お爺さん、なおるよ!」とクラソートキンは怒ったように叫んだ。
「でも、僕をね、お父さん、決して僕を忘れないでちょうだい」とイリューシャは言葉をつづけた。「僕のお墓に詣ってね……ああ、それからお父さん、いつも一緒に散歩してたあの大きな石のそばに葬ってちょうだい……そして、夕方になったら、クラソートキン君と一緒にお詣りに来てちょうだい……ペレズヴォンもね、僕待ってるから……お父さん、お父さん!」
 イリューシャの声はぷつりときれた。三人は抱き合ったまま黙ってしまった。ニーノチカは安楽椅子に腰かけたまま、忍び音に泣いていたが、『おっ母さん』もみんなが泣いているのを見ると、急にさめざめと涙を流しはじめた。
「イリューシャ、イリューシャ!」と彼女は叫んだ。
 クラソートキンは突然、イリューシャの手から身をもぎ放した。
「さようなら、お爺さん、ご飯時分だから、お母さんが僕を待ってるだろう」と彼は早口に言った。「お母さんに断わって来なくて、本当に残念だった! きっと心配するだろう……だが、ご飯をすましてからすぐ来るよ、一日じゅう来ているよ、一晩じゅう来てるよ、そしてうんと話すよ。うんと話すよ。ペレズヴォンも連れて来るよ、しかし、今は連れて帰ろう。だって、僕がいないと、こいつ吠えだして君の邪魔をするからさ。さようなら!」
 こう言って、彼は玄関へ走り出た。彼は泣きたくなかったが、玄関へ出ると、やはり泣いてしまった。こうしているところを、アリョーシャが見つけた。
「コーリャ、君はきっと約束どおり来てくれるでしょうね。でないと、イリューシャはひどく力を落しますよ」とアリョーシャは念を押した。
「きっと来ます! ああ、残念だ、どうしで[#「どうしで」はママ]僕はもっと前に来なかったんだろう。」
 コーリャは泣きながら、しかもその泣いていることを恥じようともせずに呟いた。
 ちょうどこの時、とつぜん部屋の中から、二等大尉が転げるように駈け出して、すぐにうしろの戸を閉めた。彼は気ちがいのような顔つきをして、唇を慄わせていた。そして、二人の若者の前に立って、ぐいと両手を上へあげた。
「どんないい子もほしくない! ほかの子なんか、ほしくない!」と彼は歯ぎしりしながら、気うとい声で囁いた。「もしわれなんじを忘れなば、エルサレム、われを罰せよ……」
 彼は涙にむせんだようなふうで、しまいまで言うことができなかった。ぐったりと木製のベンチの前に跪き、両の拳でわれとわが頭をしめつけて、たわいもなく泣きじゃくりをはじめた。が、自分の泣き声が部屋の中に聞えないようにと、懸命に声を抑えていた。コーリャは往来へ飛び出した。
「さようなら、カラマーゾフさん! あなたも来ますか?」彼は鋭い声で、腹立たしそうにアリョーシャに叫んだ。
「きっと晩に来ますよ。」
「あの人はエルサレムがどうとか言ったが……あれは一たい何でしょう?」
「あれは聖書の中にあるんです、『エルサレムよ、もしわれなんじを忘れなば』、つまり、私が自分の持っている一ばん尊いものを忘れたら、何かに見かえてしまったら、私を罰して下さい、というのです……」
「わかりました、たくさんです! じゃあ、あなたもおいでなさい! Ici, ペレズヴォン!」と彼はあらあらしい声で犬を呼び、大股にわが家をさして急いだ。